日記0102

2001年2月28日

人間性というものを形づくる要因として、脳の蓄積容量と演算速度に比して 入出力の性能が著しく劣っていることが挙げられると思う。 脳の蓄積容量が増したにも関わらず 伝え受けとるデバイスの能力が低いままだったことが、個性を強化し、言語を開発し、 人間社会の複雑さを形づくったのではないか。 海馬(人間の一時記憶メモリ。バッファ) のエラー率の高さと入力速度の低さには絶望的なものがある。 人類が進化する方向があるとすれば入出力であろう。 これ以上演算・蓄積能力だけが進化してもただ孤独さが増すばかりである。

「人間らしさ」というパラメータがあるとすると、 この値は同じ人間でも相当差がある気がする。 そして人間らしさが低い人間というのがありうるということは、 「人間らしさ」は「人間であること」と無関係だということだ。

反応

  なるほど。使い方次第ですな。それいいかも。 「軽々しく障害なんて使うんじゃねえよ」という人々を怖がって まともに考えるのを放棄していたのかもしれません。 話は変わりますが、 そういう人って出来がどうとか見る前にスイッチ入って攻撃してくるから そういうネタを使わない以外に身を守る手段がないんですよね。 特に差別スイッチは恐いです。 あと殺しスイッチとかありますね。 殺しスイッチのために評価がボロボロになってるのがKANONでしょう。 「なんだよ人が死ぬ話かよ、ああん?」っていう奴です。 かく言う私の場合80年代スイッチに敏感です。 スレイヤーズ・ロードス系ファンタジーやあの時代の臭いがするSF なんかはそれだけでダサく見えてしまいます。 あとは因果スイッチ。私は基本的にオールドタイプなので、 理路整然としたストーリーでないと評価が下がるタチです。 KANONの舞シナリオとか、わけわかんねえということで評価下がってます。 でも、因果スイッチの感度が最近落ちてきているため、 AIRもONEも大丈夫。しかしWEBで見ていると、因果スイッチに敏感な人は そうでない人よりもよほど多い気がします。そして、因果スイッチに敏感な人ほど 常識的で知的な人に見えるんですね。「要するに何よ」「つまり何よ」「結局は何よ」 という言い方は科学的ですから。

2001年2月27日

研究室でカニ食い大会があるというので土鍋とビタクラフトを持って家を出た。 だがその途中、鍋を入れていた紙袋の底が抜けて土鍋は落下し、粉々になった。 近くの民家の人にありがたくもビニール袋を頂いて破片を回収したが、 その間に何回か車が通り、まだ拾っていない破片を轢いて粉にしていった。 そのうえカニは今日(月曜)は都合で届かず、宴会は明日(火曜)になった。

でじこゲーさわりだけ観賞。ああ。

…彰人の能力は?見逃してたか?

キャラども

  急に今まで見てきたギャルゲキャラどもをふりかえってみたくなった。

  リーフキャラがいないぞおい(ホアルバは別枠)。まあいいか。 どうもシナリオやシーンが美しく強烈だったキャラであればあるほど オレの寵愛を早く失う傾向があるらしい。

2001年2月26日

Sense Off感想

ああ

  こんなの(141)を読んだ。全く正しい。社会的、そしてこの人的に。 しかし、困ってしまうのだ。 なぜなら、オレは障害者というものをロクに知らないので あまりそういうことが気にならなかったからだ。感動してしまったのは事実で、 いまさらそんなのはカスだと言われても困る。確かにみさき先輩などは 元気に廊下走りまわってるのはどうかと思わんでもないのだが、 ええ話なので良しという単純な一言で済ませてしまった。 勉強一緒にすんのは半ば不可能だろと思ったが、まあいいかと思ってしまった。 言うならばそういうリアルさには完全に目を向けず、 お話の美しさだけを見ていた。これをご都合主義に迎合していると言われれば まったくその通りだし、 モラルがないと言われればその通りだ。オレにはモラルがない。 それで?

  こんなのもある。 当事者(障害者)に近い側からの意見であり、パワーが大きい。 ONEのことだと特定はできないが、たぶんそうだろう。

  非難される側にとってもああいう意見は正しいので恐れ入るばかりである。 タブーというもの理解しないで物理的リアリティも無視して 障害者を使ってしまうことが社会的に歓迎されないのはとても理解できる。 例え作者に差別やら人間扱いしないような傾向がなかったにしてもだ。 増してあれはギャルゲーでエロゲーという構造的に女性差別から逃れられないような ジャンルなのだ。タチが悪いことは認めるしかない。

  しかし、やっぱりそれでもファンであることを非難される側と しては困るしかないわけで、 どうしようもない。 ミもフタもないああいう言い方はそこら中に満ちていて、 評論の類の半分はああだと言ってもいい。「オレはこう思う」ということが 広がって、そうじゃない奴はおかしいということにまでなる。 賢い人のだと社会的な後ろ盾も加わって説得力というかパワーが増す。 そして、オレもああいうのの一味なのだと思う。 非難される側の人間になってみて始めて、 そういうものの辛さがわかったかもしれない。

  ところで話は変わるが、オレは片耳が聞こえない。そのため、音の方向というものが わからない。また、聴力そのものも低く、話しかけられてもけっこう気付かない。 電話しながらメモとる時は右手で電話を持つとペンが使えないので 左手で受話機を右耳にあてつつ右手でペンを持つはめになったり、 並んでいる時は常に左側をキープしようとして ドラクエ4状態(馬車つきの時に180度ターンしてみよう)になったりもする。 真正面からでも口の動きを見ないと何をしゃべってるのかがかなりわからないので、 かなり読唇術っぽくなってしまった。 さて、こんな特徴をもったヒロインを書いたとしたらどうかと考えてみると、 シナリオのメインネタとして使えるような ご大層なものでもないし、かといって「味覚音痴」みたいな軽さもない。 そもそもエピソードが突飛で説得力がない。つまり、リアリティに欠け、 使えないのだ。

  障害者だろうがなんだろうがまんまリアルに書くというのは 多かれ少なかれそういう問題をはらむという気がする。 醜い面をちゃんと書くというのは結局のところ説得力を出すための テクニックであって、話のおもしろさや説得力を犠牲にしてまでリアルに しようとすることはそうなかろう。まんまやることがそのままリアリティ とおもしろさにつながる場合もあるだろうが、おそらくそれはレアなのではないか。 そもそも体験したことがない現実は虚構といっしょである。 障害者の生活であろうが冥界の魔王だろうが、体験したことがない点では同じだ。 作品に求められるのは現実をまんま見せることでなく、 現実に思えるものを見せることである。 そして、現実に思えるものを見せるやり方は人によって違うのだ。 ONEのみさき先輩シナリオに欠けたリアリティが、 そういう取捨選択の結果だという可能性は絶対に考えられないと言い切れるだろうか。 敢えて元気に廊下を走り回らせたとは考えられないだろうか。 それがギャルゲーのご都合主義の媚びだと断言できるだろうか。 まあ、されても文句は言えないか。あれだし。

今日のAir

  Air、3rd。痛かった。 勝手な観鈴、勝手な往人、勝手な晴子。 見ていると不安になる。痛い。見ていられない。 sense offと違って音楽や背景によるブーストが激しいので余計にだ。 理屈は気づかないことを気づかせるには有効だが、 気づいていることを思い知らせるには向かない。 今のこれは、 sense offの理屈によって気づかされたことが、 airの空気によって思い知らされたということだろう。相乗効果だ。 元々聖先生漫画を描くための再プレイだったが そのためには観鈴とお別れしなければならない。 今のオレにはその選択ができるほどのパワーはないし、 かといって観鈴シナリオをまんま見るのも耐えられそうにない。 聖先生に関して一応の確認はできたので、今はよしとする。

  前は家族云々で感動していたが、今度の感動(あるいは揺さぶり)は それ以前のレベルだ。前は対象の美しさに観客として感動していたが、 今度は明らかに自分を投影している。 もし今最後までやったとしても家族愛云々での感動はさほどにはなるまい。 まったく受けとる側の状態というもののクリティカルさが骨身にしみた。 結局受けとる情報が生じる感動や印象に与える作用はほとんど スイッチのようなものであって、そのスイッチによって感動や印象を 作り出す回路が形成されているか否か、そしてその回路がどのようなものなのか ということこそがクリティカルなのである。 優れた作品とは、多くの人に巨大な感動や印象を 呼びおこすスイッチをたくさんもったもののことなのだ。 Airにはいろんなスイッチが入っていて、 たとえば家族愛スイッチが一番わかりやすい。そういうことだ。 なるほど、こういうことならば眼鏡っ娘萌えとかいうのも 理解できる。 受けとる側に眼鏡っ娘をスイッチとする感動発生回路が そなわってしまっていれば眼鏡っ娘で感動することは可能なのである。 たぶん今のオレは勝手な奴を見ただけでスイッチが入る状態なのだろう。 つまり、勝手な奴萌えである。

  最近ギャルゲーのオレに対する影響力の大きさは とてつもない。本などで仕入れた理屈はそれだけでは実感されておらず 身にしみてきにくいが、絵や音を伴ったキャラの形で突きつけられると その理屈が実感に変わりやすい。本来実感は実生活でこそ味わうべきものなのだが、 鈍感な人間は実生活の散慢なリアルさのためにかえってそれを 感じとれないらしいのである。映画でもアニメでもドラマでも良かったはずだが、 たまたま偶然ギャルゲーになってしまったのだ。

  それにしてもオレはキャラ萌えの男である。 しかしそれは、現実において人間が興味の対象だからこそ、 虚構においてもキャラが重要なのだということを意味する。 現実において人間が興味の対象でなければ、 虚構においてキャラはどうでも良いものになるだろう。 オレがキャラ萌えの男なのは、現実において人間とどうつきあうかが かなりデカい重みをもった事柄だからだ。そして厄介なことに、 これは現実の個々の人間への興味とは関係がない。 抽象化した「人間」と自分との関係だけが重みを持っている。 オレにとってはそのことこそが現実の虚構化だ。抽象化といってもいい。 虚構化させたのはオレ自身だが、 オレが意図的にそれを引き起こす回路を作ったわけではなかった。 だが、起こってしまった以上もはや意図したか否かなど問題ではなく、 これに関して理由を求めるのは意味がない。 つまり理不尽だということそのものが意味がない。 エヴァがそんな心理をもった連中にウケたのだとすれば 今のオレにもウケるだろう。前見た時にウケなかったのは自分の状態を 否定したい気持ちが強かったか、あるいは無自覚だったからということになる。

2001年2月25日

sense off、透子と成瀬。二人して問答無用という言葉がぴったり似合うシナリオだ。 そしてそんなに無茶なのに何か納得できてしまうのがまたすごい。 結局のところ、何か「ああ」と感じるところがちらほらあるせいだろう。

この作品はONEを意識しているのだろうか。しかし似ているとは思わない。 むしろ、似たようなネタをいくらか使っても こんなに違うものができるのかと思う。 しかしその一方で、底に漂う雰囲気はどことなく似ている。 今流行りのじつぞーん、って奴だろうか。

エンディング曲(歌のない方)よすぎ。ストレートな電子音が頭に響くし、 この和音の進行はオレを壊してしまう。折戸先生だよなこれ。

ここに置いてある「adieu〜さよならを教えて〜」というゲームの デモを見てみた。恐かった。どこまで狙ってるんだろうという気がする一方で、 けっこうマジじゃないかと思ったりもして、そのへんが恐い。

sense off踏破。すごかった。問答無用だ。普通問答無用ってのは いいことではないのだが、これは許す。むしろ良し。

情報通信

  世の中には「人類である限り共通である部分が多い」 と思っている人がいる。 「話せばわかる」を本当に信じている人と言ってよく、 「わかりあえる主義者」と呼ぼう。 一方、「人類は一体づつ異っており共通点などロクにない」 と思っている人もいるので、これを 「わかりあえない主義者」と呼ぼう。 もちろん完全にどちらかである人などいるはずもなく、 現実の人間はその間のどこかに位置している。

  情報通信は「送る情報を作ること」「送れる形にすること」「送ること」 「受けとって使える形に変換すること」「解釈すること」の5段階で行われる。 コンピュータを例に出せば、送るデータを用意して、圧縮してアナログにし、 電話回線にたたきこみ、受けとる側で受けとってデジタルに戻し、 その情報をどうにかする、みたいなことになる。 これは人間もいっしょで、ああこの気持ちを伝えたいと思い、 言葉にして、発声し、相手が聞いて自分の経験に照らし、 相手の気持ちを感じようとする、 ということになる。手順としては同じであり、 先の二つの立場の違いとは送信側と受信側が どの程度異なっていると思っているのかの違いだ。 つまり「わかりあえる主義者」というのはあまり違いはないと思っており、 「わかりあえない主義者」はかなり違っていると思っているのだ。 では彼等の考えの違いは何によるのか。

  まず感覚とか感性とか感じ方(以下「感性」で代表)というものを考える必要がある。 やかんに触ってやけどした人がやかんに触りたくなくなるように、 感性というのが経験によって形作られるものなのは明らかだ、 同じ言葉を聞いても感じ方が違うのは、まぎれもなくそれまでしてきた 経験が違うからである。そう考えると、 「わかりあえる主義者」は たまたま似たような経験を経た人と交わる機会が多かったか、 あまり特殊な経験なしで理解できるようなことばかり伝え合っていたか、 相手に伝わってないことに気付かないくらい鈍感だったかの どれかではないかという仮説が立つ。簡単な理屈、 たとえば三段論法みたいなのは 文明社会の人間であれば共通にする経験だけで理解可能なものだ (注)。 実際、心の交流を云々言わないなら社会で生きていくのには 理だけで事足りる。たいがいは頭を使うという手間をかけさえすれば 自分の持っている経験を元に理解できるのだ。 また、腹が減って云々とか注射は痛くて云々とかは生理学的なものだけに 良く伝わる。 がんばったのが報われてうれしいとか、愛する人が死んで悲しいとかいうのも 多少高度ながらもたいがいの人がする経験だけで理解可能だろう。 だからそういうネタの物語は多くの人が感動するのである。 一方逆の「わかりあえない主義」の人々は たまたま周りから見て特殊な経験を経て育ってしまって 共感がむつかしくなってしまったのか、 あまりに自分に特化した経験なくして理解できないことばかり 伝えようとして失敗したかのいずれかなのではないか。 たとえば何かの偶然でマイナーなジャンル(ギャルゲーとか)に 手を染めてしまった人や、頭が切れすぎた人などが こういうことになりやすいものと思われる。

  相手から受けとった情報(言葉とか)を元に相手の感じ方を理解するには 相手の経験というデータが必要だ。 だから伝える側は自分の経験も伝える必要がある。 しかしそんなものは伝えられない。 だから、正確に伝えたければ 同じ経験をもっている相手を選ぶなり、 相手によって伝えることを選ぶなりする必要がある。 この二つをバランス良く行うことこそ 人と良く関わっていくために必要なスキルなのだろう。 どうせわかりあえないんだとニヒルになっても辛いだけだし、 なんでもわかりあえると思いこんでもロクな目にあわないのだ。

  オレが思うに、理屈も実は感覚に属しているもので、腹減ったとかいうのと 根本的に違うものではない。理屈であれば原理的には誰でも理解できるはずだ と思う人が多いが(過去のオレなど)、間違いだ。 ガウス平面もフーリエ変換も理屈であるが、これだけ勉強する人間が多いにも かかわらずわからない人は存在している。それは人に尽す喜びがなかなか わからない人がいるのと同じことなのである。理屈を特別扱いするのは 西洋文明のワナなのだ。全人類が確実に共有できるのはせいぜい腹減ったとか 痛いとかそんなレベルまでであろう。

萌えとか感動とか

  萌え。感動。 こいつらはオレ内部では同じもんだ。 萌えは人物に関する感動のうちこれ系のもの、 ということにすぎない。 ギャルゲーとか萌えとかオタクとかそういう言葉のイメージ を前提として話をすると、どうしてもそういうのはカスということになる。 世間一般にそうなんだから仕方ない。そしてそういう視点で物を見れば 一見肯定しているようでも「カスだけどそれでいいじゃん」という 開き直りになってしまう。本当にいいと思っているわけではない。 一方感動という言葉は世間一般にはすごいものとされているので、 そういうイメージに従う人にとって感動と萌えは相容れないものということになる。 「ギャルゲーで感動」というのは矛盾であるため、 必然的にその感動は真の感動ではなく低次元の「萌え」 ということになってしまうのだ。

  萌えだろうが感動だろうが、「心に感じ入ること」であることに違いはない。 肉体と精神を分けるのは無意味であって、性欲だろうが食欲だろうが 感動は感動である。うまいもん食って感動と言うではないか。 そういうわけで、社会的な側面をとっぱらって頭の中だけに事を限定すれば、 そいつらの違いは名前の問題にすぎないのだ。 そもそも本人が感じ入ってしまったんだから、それに文句をつけても無駄なのである。 まさに「じつぞん」だ。 というわけで、「そんなもんは感動じゃなくて萌えだ」と言うのは無意味だし、 逆に「感動であって萌えじゃない」と言うのもまた無意味である。

  しかしもちろん、でじこの姿だけで心に感じ入ってしまったり、 眼鏡っ子というだけで心に感じ入ってしまったりするのは どうかとオレも思う。そんなわかりやすくていいのか、大丈夫か、と思う。 そんなこと公言してると一般人は引くぞと思う。 しかし、それは他人との関わりの話、つまり「社会的」な話であって、 本人の中だけに限ってみれば良いも悪いもない。 エロゲなどというハナっから社会から隠蔽されたものを語る時に 社会的視点を持ち出してもしゃーないと思ったりもするのだが、どうだろうか。 こんなこと書いても、 エロゲもどきで萌えている自分を弁護するために屁理屈をふるう あわれなわめきだと言われるのだろうけれども。

2001年2月24日

sense off、C子終了。部分部分だけ見ていると 微妙にどうでも良さをただよわせてはいるのだが、たまに 「マジですか、これ」という心意気が感じられるところがある。 つまり、変なのだ。変萌えのオレとしては それだけで他の要素などどうでもよくなってしまう。 さて、次は誰かな。

フリーのノベルゲ開発ツールというのはちゃんと存在しているようだ。 たまたま見つけた奴は 変数もたくさん使えるし(ただし名前はつけられない)、スプライトも使えるし、 ピクセルごとの透過度指定もできるしで 機能だけ見た感じでは十分実用になるように思える。 作者は銀色のプログラマらしい。 しかし、プログラムもロクにやったことがない身分で言うのもなんだが、 これいろいろ足りない。

アルファシステムといえば「俺の屍を超えていけ」とか 「ガンパレードマーチ」などを作った会社だが、 実はPCエンジンの「天外魔境II」を作ったメーカであったことがわかった。 「桝田」という名前に妙に覚えがあったので調べてみたら、 やっぱりそうだったのである。 アルファシステムのゲームを余計にやりたくなった。

2001年2月23日

アウトサイダー

  「アウトサイダー」(コリン=ウィルソン・集英社文庫)。 ここで言うアウトサイダーとは、要は頭の切れすぎるあまりはみだしてしまった人 のことである。ヘミングウェイ、ドストエフスキー、ニーチェその他もろもろの いわゆる文学者、哲学者、宗教者などの著作やその生涯が紹介され、 彼等がどのように「生きることの充足」を求めたかが語られている。 筆者の「アウトサイダー論」を軸とした鋭い洞察がスリリングだ。 ただ、訳の日本語がなにかおかしい上に 元々キャッチーな構成になっていないこともあってかなりしんどい本である。 読む人は相当根性を入れる必要があるだろう。 それにしても筆者は25歳でこれを書いたという話だが、一体どういう 育ち方をしたのか不思議でしかたない。 ここに紹介される本だけで軽く100やそこらはあり、 その100やそこらはそんじょそこらの100やそこらではなく 名だたる哲学書や文学書である。一体どういう人なのだろうか。

  ところで、この本に出てくるアウトサイダー達は一貫して 「世の中の奴等はみんなバカだ」という思いをもっている。 たいがいの人は無邪気に生きており 自分の立っている土台について疑うことを知らない、というのがその根拠だ。 そういうわけで、自分達はそういう連中よりも高い位置にいるとは思っているのだが、 だからといって自分たちが幸せだと思っているわけでもない。 むしろ不幸である。普通ならなんの疑問も持たずに信じられる価値を 信じられないために、心のよりどころがないのだ。 感覚的にわかる話だが、「カスばかりだ」と思うよりも 「あれもすごい、これもすごい」と無邪気に感動しまくってる方がずっと 幸せなわけで、玄人にクソゲー・クソアニメと呼ばれるものでも楽しく時間を消費 できるのはけっこう恵まれたことなのである。 彼等はそういうことも頭ではわかっているので さっさとアウトサイダーであることをやめて幸せになりたいとも思っているが、 一度捨てたものをまんま容認しなおすことは彼等の気質が許さないので 結局ストレスがたまって不幸になってしまうのだ。 それを通りぬけて「それでも敢えてがんばる」という姿勢を持てるように なった人間もいるが、そこに至るまでの苦悩を思えば普通よりも幸せとは 言いにくいだろう。

  結局、考えるのをやめる能力がないとまっとうな幸せは得られない気がする。 カーズ(ジョジョ第二部参照) もあのまんま考えるのをやめなかったらさぞしんどいことだろう。 アウトサイダーと言われるくらい頭の切れる人間にとって 世の中はカーズのいる宇宙空間と変わらないくらい空虚なのだろうが、 いらんことだけ考えるのをやめれば 幸せに生きられるのだからカーズよりはよほどマシではないか。 カーズと比べてどうなるものでもないんだが。

2001年2月22日

弟から届いた箱からDTTA-350430(ハードディスク)を取り出すと、 にわかに両手でそれをかかげて「チャラララ〜」と歌った。

「こころの痛みどう耐えるか」(小此木啓吾・NHKライブラリー)。精神科医である著者が 、心の痛みとどう向きあうかということについてこれまで見てきた患者のケースや映画 を題材にしてわかりやすく語った本。「どうすべきか」といった結論に目新しいことが あるわけではなく面白いかと言われれば微妙ではあるのだが、あくまで静かな文体と数 々の例によって作られた説得力がすばらしい。オレにとって痛い一方で、希望をも感じ させる本だった。

4.3GBは810MBとは桁が違う。すばらしく速い。Duronで600MHzもあったことを 思い出すことができた。で、sense offを味見してみたが、 数分やったところでは普通だ。今読んでる本を片づけたらまともにやることにしよう。

2001年2月21日

みやざき君のPCを組みたてるのをえんえん見ていた。それで一日 経つのだから、全くもって時間というのはわからないものである。 それにしても、「ちょびっツ」がヤングマガジン連載だったのを知ってかなり 驚いた。代紋タケとかに混ざってあんなものが載っているというのか。

ちょびっツを買ってきた。笑うな。

「日本語の作文技術」(本多勝一・朝日文庫)。 文章を書こうとする人には恐しく役に立つ本だと思う。 具体的な方法を示して誰でもわかりやすい文章を 書けるように指導する一方で、文章を書く上での精神のようなものをも伝えている。 そしてなにより著者がかっこいい。なるほどいい本である。

モニタケーブル断線がどんどんひどくなる。 ついに力をかけずには緑をつなげておくことができなくなったのだ。 結局ケーブルを無理に一回転ひねった状態でコネクタをつなぐという技 を開発して難を逃れたのだが、果たして何日保つのだろう。

2001年2月20日

うにの家でえんえんダラダラし他愛のない時間をすごした。 さて、今日の収穫は「ちょびっツ」(clamp)。clampってこんなに漫画描けたっけか と思うほどの出来だ。都合いい系はもうネタなので気にならない。 ネタバレはすまいが、あの衝撃の3コマ目はすごい。実際漫画としての読みやすさ、 テンポなどもかなりのもので、「進まないイラスト集漫画」という 以前のイメージが一瞬で消え去ってしまった。

ところでMIDIはどうしたものか。 考えれば考えるほどパクリを働いているオレが一方的に悪い。 どうせ見つからないだろうからいいやという感じなのも事実だが、 一方でえんえんうしろめたさを味わうくらいならとっとと消して一息つくか、 という程度にしか思っていないのもまた事実。

フレッツ開通。21日って書いてあるが、もうつながる。 でもなんか課金されそうなので今日はつながない。

2001年2月18日

日記を書かないと一日が短くなる。

「であろう」とか「と思う」とかを語尾につけるのが責任逃れのためであっては つまらない。あくまで筆者の感情を伝える手段であるべきだ。 逆に言えば感情を伝える手段としてなら使っていい。オレが許可する。 そういう意味では「と言われている」の類は 感情もクソもなく責任逃れくさすぎるので却下である。

プログラムの設計を考えていると、クラスのありがたみが骨身にしみる。 「この変数はこの関数からしかアクセスされたくない」という場合が おもいのほか多いからだ。そういうわけでクラスを知らんころに考えた設計は 今見るとかなりヤバい。オブジェクト指向万歳。

「獅子の門1・2」(夢枕獏・光文社文庫)。ああ、やっぱ獏だ。以上。 ちなみに板垣版餓狼伝の久我重明というのは この小説のキャラである。 加えてバキで加藤がドリアンの耳を落とすのに使った テグスにゴムをつけた道具もこの作品に出ている。

今日もフロ屋でそっち系の人を見かけた。 今日見た人の身体に彫られたそれはかなり見事で、 顔も迫力があったのでけっこうなレベルの人ではないかと思ったりする。 加えて今日は偶然隣に座られてしまい、なかなかのプレッシャーだった。 なお、オレがそういう人を見かける頻度はけっこう高い。 だいたいフロ屋に行けば3回に2回は見かける。このあたりには そういう人がけっこう住んでいるらしいので、別に不思議ではない。 世の中にはいろいろな世界があるのだということを感じられるひとときである。

著作権

  著作権というのは作品を作る人を増やすため、 あるいは減らないための法律だ。そのためには作品を作る人が お得であれば良く、この世界でお得と言えば金であり、つまりは 作品を作った人がそれでできるだけもうけられるようにと作られたものである。 自分が作ったものを他人がどうできるかは自分で決められる、というのが おおまかな内容であり、それにのっとって jasrac は耳コピMIDI、ひいては着メロ打ちこみ法をサイトに上げる場合にも 金を払えと主張している。

  ちなみに、WEBにjasrac管理の曲に関したデータを置く場合、 個人であれば 月1000円か年10000円(10曲までで)払わねばならないそうだ。 アクセス解析によってダウンロード数がわかるなら それ×5円50銭らしい。安い方をとれって奴だろう。 もちろん録音したものになると事がやっかいになるので注意。 加えて金を要求されるデータには歌詞なども含まれる。 著作権法で許された「引用」の形式をとればいいはずだが、 歌詞置くなんて全部引用だろう。しかしそれでも金をとられていることを考えれば 現実には引用でもダメだということになる。 徴収ガイドライン を読むとどこまで金をとれるかを追求する姿勢が見てとれておもしろい。

  ところで、実はうちも引っかかっている。wizやドラクエが根こそぎ 登録されているからだ。訴えられた時点で消して難を逃れられるなら 放置しておくが、もし過去にさかのぼって責任を追求され、 利用料のみならず多額の賠償金なんかを払わされ得るのなら 今すぐ消す。誰かそのへん詳しい人教えてください。

  ふと思ったが、着メロですら引っかかるのであれば キャラの外見特徴が引っかかって悪い道理もないわけで、 「マルチに見えるキャラを描いた絵をサイトに置くと年間10000円」 といったことだってあり得ないことではない。 音楽も「その曲に聞こえる物」が引っかかるわけで 多少のアレンジなど関係ないのであり、 それを絵に適用すれば絵柄などアレンジの範疇となる。 コナミなどは事実それでイチャモンをつけているらしい。 今のところそういう連中があまりいないのでコナミだけ変に見えるが、 理屈が特におかしいわけではないので所詮数の問題だ。 もしコナミがたくさんあればそれが普通になるのだろう。

  オレとしては、パクりや無断使用によって損害が生じる場合と、 別に損害は生じないがそれらを摘発することによって利益が生じる場合は できるだけ分けてほしいと思う。たとえば、オレはwizのMIDIを置いているが、 wizの曲はすでに金を儲けられる物ではなく、オレがmidiを置いたことによって いまさら損害は生じまい。 ただ、オレを摘発して金を払わせられれば利益が生じる。 つまりこれは後者だ。一方出たばかりのCDをまんまmp3にしてバラまくのは 買う可能性のある人を買わなくさせ得るので、かなり損害が生じる。 よって、前者である。もっともグレーゾーンはあるわけで、事はそう簡単ではない。 自分の作ったものをどうするかは作った人が決めることなので 「フリーにしろ」などとは言うのは筋違いだが、 ちょっとくらい大目に見てはくれないだろうか。

2001年2月16日

弟が函館ラサールに受かった。素直に喜んでいいのだろうか。 入学式についていってあいさつでもしてこれるといいのだが。

イベントドリブン。早い話なんか起こるまで待ってて、 起こったらどうにかすることらしい。 クラス。ある変数が特定の関数にしか使われないようにするためのしくみらしい。 なんにせよ、windowsプログラミングで むつかしいのはそんな概念よりも関数やらクラスやらの数だという気がする。 ともかくVisualC++をちゃんと買うところから始めるとしよう。

2001年2月15日

vncサバはかなり重いらしく、立ちあげたままとらハ3をやったら動きがガビガビ になった。vnc経由でやるのが重いのは通信速度の問題だけでなく、 サバが重いことも効いているのか。

表紙絵更新。

2001年2月14日

兄弟子のニャ氏がとらハ3にメロメロ。武術なだけに予想通りだ。

研究室を出たら、雪。なかなかの勢いだ。 おそらくこの冬最後だろう。

「アクティブ・イマジネーション-ユング派最強の技法の誕生と展開」 (老松克博・誠信書房)。明確な意識を保ったまま無意識の世界と直面する技法である アクティブイマジネーションについて書いた本だ。 オカルトっぽく言えば内なる電波を受信するための技術と言っても良い。 「キャラが勝手に動き出す」といった現象はこの技法に近いと言えるだろう。 一見支離滅裂に吹き出すイメージを解釈することによって 現実の自分、自我が持つ問題を見つけ、 自分を成長させるための技術でもある。ユングの著作を少々読んでみたくなった。

フレッツISDNを申しこむ。月4500円(NTT3600+sannet900)で つなぎ放題なら安いものだ。 多少遅くなるとも聞くが、別にかまわない。

2001年2月13日

帰ってきたら部屋がきれいになっていた。びっくりありがとう小人さん。

visualC++とそれ系の本を買ってきて、とりあえずウィンドウやらメニューやら 絵やら音を出してみよう。そういうことをするのに一番いいのは結局windowsらしい。

2001年2月7日

ゼミの準備。論文を読んでいたが、ヤバい。極めてヤバい。 また例によってバイオながらも情報処理系じみた 論文なので誰もロクに質問できないだろうというところが 救いか。 バスの中で字を読むのは即ゲロだし、 その前に論文を読む時間というかそんな気があるはずない。 勝負は今から出発までの8時間と電車の中、 そして13の7時から12時まででトドメを刺す。 こんなことが前もあったような気がするが、あの時と違って今回は小ゼミで 資料を作らんでもいいので楽だ。と思う。

バスが取れた。加えてムーンライトえちごの指定席券もとれた。 せっかく長岡などという放っておいたら一生行かないような土地に行くのだから、 多少金がかかってもそこで降りてみようと思う。 それにしても寝袋がいらなくなったのは助かった。荷物はできるだけ減らしたい。

某サイトのリンクのページを見て、バナーに圧倒される。 これぞ同人といった感じのきらびやかさだ。 というわけで、色塗り練習しよ。 しかし、絵のうまさ云々以前にオレは何かが違っている気がする。 まあ、とりあえずうまくなってから考えるか。 いつか自分で色つき表紙を描いてやる。
「いつかっていつのいつかよ」「いつかさ」

研究室にもいかずダラダラしている。論文も読む気にならず日記書きまくりだ。 4日分ということで。

あれは、いいモニタ

  ラブひなにマクベネタがあったのでついやってしまったが、 やはり寒いな。まあそれはいい。

  15インチってのはだいたいA4だ。 19インチってのはだいたいB4だ。 17インチがあれだけデカく見えるのだから、19インチはさぞやデカいのだろう。

  うちのモニタの性能は、ドットクロック80MHz (一秒間に80メガ個の点を描ける。実際にはその7割くらいなのだが)、 水平周波数65kHz(縦解像度の1割増し×リフレッシュレートが65000以内) 水平周波数が120Hz(リフレッシュレートは120Hz以内)だ。 どんなもんかと調べてみた飯山の安物19モニタMF901Uはどうかと言うと、 ドットクロック200MHz、水平周波数96kHz、垂直周波数160Hz。 ドットクロックが2.5倍ということは単純に2.5倍の点を描けるということで、 つまりは縦横の解像度はルート2.5倍にできる。広いんだろうなあ。

  さて、80メガ個の点を表示するためには、ビデオカード側も1秒に80メガ個の 点のデータをデジタル・アナログ変換して送らねばならない。 200メガ個なら200メガ個を変換せねばならないわけで、さすがにこうデカい数値に なってくるとビデオカードも問題だ。 うちのmvp4はどうなのか見てみた。その結果、65000色なら230メガ個 フルカラーだと115メガ個までだ。つまり、こいつでは仮に例の19インチモニタ を買ってもフルカラーではその性能を使いこなすことはできない。 それに一応115MHz出るとは言っているが、果たしてギリギリまで解像度を上げた 時にまともに使えるかは大いに疑問である。 なるほど、いいモニタにはいいビデオカードというのはこういうことだったのだ。

  ところで、このモニタがダメになっている原因に実は思いあたるフシがないでもない。 自分でXの解像度を好き勝手にいじれることに気づいて 以来かなりいろいろといじってきたのだが、 こいつの限界をはるかに超えたドットクロックで 常用していた時期があったのである。 windowsで用意されたモードの中に110MHz程度と思われるものがあって、 だったらいけるだろと上げてしまったのだ。 確か1120×780でかなりの時期常用していたはずだから、 おそらく100MHz前後と思う。 あれが悪かったのかもしれない。

  ああ、どうしよう。結局このまま800x600で耐え続けねばならない気がするんだが。 800x600でも目が悪くなったような気がするほどボケているというのに。

あまっさえ

  快傑ズバットを見て以来使う頻度が爆発している「あまつさえ」。 なんとなく「さらに」くらいかと思っていた程度で意味を知らない可能性もあるので、 一応調べてみた。

あまっさえ(剰え)[副]そのうえに。それだけでなく、おまけに。 ▲「あまりさえ」の促音便。近年「あまつさえ」と促音でなく発音することもある。 (岩波国語辞典第三版より)

  よかった。別に間違ってなかったらしい。しかし「あまっさえ」なんて聞いたこと ないが。

劣等感

  絵がうまくなりたい。 せめて下手に見えない程度には。それが達成されるまでは 永遠にこの劣等感にさいなまれたままだ。 しかし、そう思うこと自体が間違いであることに薄々気がついてきた。

  オレはどんなにわずかであっても他人の足を引っぱっているという状態が とてつもなくイヤである。仮に他の分野でいかに貢献していたとしても、 どこかで足を引っぱっていれば全ての自信は灰と化してしまう。 それが傲慢の表れであるのは確かだし、そうやって過剰にビクビクしていることが 他人を傷つけかねないことも知ってはいるのだ。 裏を返せば人よりも上であるという安心感が欲しいだけとも言えるわけで、 到底美しい感情ではない。 無邪気にはしゃいでる方がはるかにマシだ。 だから、下手だろうがなんだろうが気にしないで、 かといって気にしないでいつつも 上達するようにがんばるのが一番良い。 恐怖を背景にがんばってレベルを上げてもそれは必然的に 他人を見下すことにつながるし、 上がれなければ永遠に劣等感にさいなまれることになる。 つまり心の安寧はありえない。 オレはがんばって絵をうまくしなければならないが、 それは足を引っぱるのがイヤだからという動機であってはならないのである。

  黒衣氏の文章は共感するところが多すぎてあまりに痛い。

mvp4死んでくれ

  dmesgしたら全行「silo overflow」で起動メッセージがさようならしていた。 Xを起動し直したらまたマウスがズレていた。助けてくれ。

  SiS630やら730には、SiS300というビデオチップと、SiS7018という音源と、 SiS900というLANが含まれている。うち、ビデオとLANはFreeBSDでも動くようだが、 音が鳴るのはlinuxだけのようだ。 そのうちmvp4を追放してSiS630にでもしようと思ったのだが、 ISAバスなんてたいがいないため 対応したPCIサウンドカードを探さねばならない。 しかしES137XとかSOLO1とかまだ売ってるんだろうか。

  ドライバ書くというのがどういうことかは知らないが、 すでにあるドライバのソースを見てカード固有の部分がなんなのかさえ わかればどうにかなりそうな気はする。 ドライバってのはその上の層からデータを受けとって機械に渡すところだろうから、 上の層までは実際の機械がなんであれ一緒なはずだ。 機械にアクセスするためのメモリ領域を割りあてるのは ドライバの仕事ではないだろうから、 誰かが割りあててくれた領域のどこかに何かをブチこめばいいことになる。 で、固有のものってのは要は、その範囲のどこに何をブチこむと チップがどういう反応をするのか という入力と出力の対応のことだろう。 それはメーカが教えてくれるはずのものだ。 素人考え爆発だが、理屈からすればそんなだろうと思う。

  それで、そういうのってどんな感じだろかと思って SiSのサイトを見てみたらビデオとLANのは資料があったが音はなかった。がっかり。 しかし、あんだけバグバグしたドライバがたくさんあることを考えると 実際に書くのはメチャクチャ大変なのだろうなとも思って、しりごみしてしまう。 しかし一方でドライバのソースなんてせいぜい30KBくらいのようだし アルゴリズムがわからんなんてこともなさそうな気もする。 加えて、最初はまともに鳴らんでも自分で改造すりゃ直せると 思うとかなりおもしろそうだ。音源買っといてそれ使いつつ ヒマ見てはいじってそのうち動いたらかなりいいんじゃないだろうか。 問題は資料くれんのかってことだ。

  かわりにSiS900の資料を持ってきた。これを見ながらSiS900のドライバソース 見てれば雰囲気くらいはわかるだろう。それで自分の考えが甘いかどうかがわかる。

2001年2月6日

近年まれに見るほど辛いアニメ上映会。無限のリヴァイアス4話までと、 デジ子のクリスマス云々。提供してくれたO氏以外の4人 (みやざき、うに、いっぺい、オレ)がもう精魂尽き果てるほどグロッキー というすさまじさだ。

リヴァイアス。わからん。何よりもとにかくさっぱりひたすらわからん。 SF設定描写(別名ハッタリ)が多すぎてうっとうしく、 話はモザイク化されたシーンのためにわからず、キャラの行動の動機はわからず、 世界設定もわからない。うまくできていれば情報の欠如は 先を見たくなる原動力になるのだが、これはまるでダメだ。 加えて何というか全般にセンスはダサい。設定もダサい。謎の入れ方もダサい。 キャラの性格付けもダサい。エピソードもダサい。 アイキャッチもダサい。不自然にかっこ良くしようとしたような音楽もダサい。 おそらく見どころは4話かかって作り上げた閉鎖空間の中での人物描写なのだろうが、 4話もかかっていいところがないのは犯罪であろう。 余計な平和シーンを描いてないでさっさと本題に行くべきだし、 加えて30分の中に数分は見せ場を作るべきである。 だんだん極限状態になって人が荒んでいく描写が秀逸だとは聞くが、 これまでのセンスや構成レベルのままであれば それとて大したことはないのではないだろうか。 少なくともイデオンのレベルには到底達しないだろう。 誰かにまとめて借りられれば見るし、その結果今の印象がひっくり返されないとも 限らないが、このダサいセンスが変わらない限りどう転んでもそれはない。

デジ子。何かが視界の果てで空回りしているのを冷えた目で眺めている気分。 3分アニメの構成を30分にわたってやってしまった物体であり、 緩急などまるでない。笑いを取るにも見慣れてしまったら通用しない タイプばかりで、次の瞬間の予想が容易につく。 まさに空回りである。

クソアニメは一人なら耐えられる。しかし数人では無理だ。 全員が一丸となって「クソアニメに耐える」という目的を持っていれば それは一種の祭と化すのでまだいいが、 耐えようという覚悟なしに始められたクソアニメ上映会ほど最悪なものはない。 O氏には悪いが、オレには無理だ。

ラブひな8、9、10。ああ、変わらねえ。幸せ分けてくれ。 なおオレ内部では素子としのぶがほぼ同率で一位。 素子は見てて退屈しない奴だし、しのぶは単純にかわいい。 それにしてもおまえらええやっちゃ。 なるも破壊力でそやつらには勝てぬまでもやはりいいやつ。 全般にオレはおっとり天然ボケ系にはあまり惹かれない。

ひょっとして最近とらハとかラブひなとかの幸せ系に拒否反応を 起こさなくなったのは、現実逃避の必要性がそれだけ切実になってきたということか。 オレは基本的にありとあらゆるものを自分の糧としようとする傾向があるが、 こいつらにはそんなものは求めていない。ダラダラと時間を過ごす ために観賞しているのだ。ラブひなはとらハに比べるとかなり落ちるが、 やはりこの善良さはたまらない。 異常なほど邪気がないところなど都築氏と赤松氏はオレ内部ではよく似ている。 知的要素(ネタがどうとか、設定がどうとか、ストーリー展開がどうとか) がショボイことまでそっくりである。

同人でもモノを描く奴は「作家」と呼ぶらしいが、 作家ってのはそれで生計を立てている プロのための呼称ではないのか。 友達をからかい半分に「〜〜先生!」 とか呼ぶのと同じ心理なのならオレも納得できるが、 どうもけっこうマジでそう呼んでいる気がする。 少くともオレが作家という呼称に釣り合う人間ではないのは確かだ。

久しぶりにバイオリンを弾いて自分のなまり具合にガッカリするも、 和音の調和や音質、曲の表情といったものに昔よりも敏感になっているのに 驚いた。指が動いたころはそんなことは考えもしなかったものだ。 例え簡単な曲しか弾けなくても美しく弾きたい。 でもそれはそれとしてチゴイナーワイゼンとバッハのシャコンヌは かっこ良く弾けるようになりたいものだ。

人をたやすく信用できるのは多人数が関わるものの責任者になったことがない からだ。安易な信用は必ず計画を失敗させる。 だからこそ、そういう経験を積んでなお人間を信用しようとする人物は 偉大なのである。根拠のない信用は期待と甘えの産物だ。

いっぺいをとらハ2でダメにした。むしろダメを引き出した。

それをそれとして楽しめるものと、ネタとしていろいろ いじくって遊べるものは違う。ONEとKANON。ファントム とヴェドゴニア。雫とToHeart。 どちらが上とは言わないが、ツッコミどころやアラが多いことによって 後者になってしまうことは多い。 やっている最中におもしろいのは前者で、 後者はやっている最中は微妙に辛かったりもするのだが、 やった後いじくって遊んでいるうちに増幅現象が起こり、 それが帳消しにされるのである。 パロ漫画を描かなかったらKANON(むしろ舞)を これほど気に入ることはなかっただろう。 どう考えてもあれは出来が悪いわけで、 パロをやらない人々のKANON評価が低くなりがちなのはそのへんではなかろうか。 いじくって遊んでいて楽しいというのが作品の持つおもしろさであるかは 異論があるところだが、まあそれもアリだろう。

新型CyrixIIIは消費電力5Wらしい。それでceleron並みの整数と celeronの半分の浮動小数があるなら大したもんじゃないだろうか。 熱暴走を心配する必要がまったくないのはえらい。

ktoreishi氏の掌の上でおどらされている気がするが。

マウズカーソルがズレた状態に慣れすぎて、研究室のPCでもズレた位置をクリック してしまう。しかも、唐突に直ったりしてどうしていいかわからない。

私信?

  おいでーと言えばマサルだが、呼ばれて飛び出ないのは男としてどうか。

  白馬→東京のルートは2つある。 一つは日本海に出てから南下するルートで、 もう一つは松本から中央本線を経由するルート。 一応19時に白馬を出て次の朝8時までに東京圏に着ける電車を調べてみた。

日本海ルート
中央本線ルート

  一番安いのは中央本線で鈍行。5300円。この時間ならイベントに間にあう。 加えてこちらのルートは多少のハプニングがあっても連絡がいいため それほどヒドイ目にはあわない。 日本海経由の場合鈍行ではたどりつけないためムーンライトか能登を 使わねばならないのだが、当然追加料金がある。しかし、できれば こちらで行きたい。なんといっても未知のルートはおもしろいからだ。

  帰りは12日夜の夜行バスとなり、学割で6500円。計12000かそこら。 これならなんとか…。明日切符を手配してくるが、なかったらダメだ。 帰りを電車にするととてつもない金がかかるのでその時はあきらめてほしい。 しかし、帰りのバスさえ確保できれば中央本線鈍行ルートで 行くつもりだ。

  なお、一緒に幹事をしているNさんに 帰りバス乗らないで東京行っちゃっていい?と聞いたら 「うらぎりものぉ〜」と言われて困った。 バスに乗って京都に帰る時間いなくなるだけなのだが、 そう言われるとけっこう気がとがめる。

2001年2月5日

16ドット×16ドットあれば顔に見える物が描ける。そして、 32×32あれば表情まで出る。今回のバナーでよくわかった。 ドット単位で調整をきちんとすればかなりいろいろできるだろう。 もし64×64で全身入れられたら金子一馬氏(メガテン画師)と同じ境地なので、 是非とも到達してみたいものだ。

2001年2月4日

吉田神社の節分祭。例年巨大なゴミの山を燃やす儀式があり人が 多く来るのだが、 今年は土曜だったためにいつもとは比較にならぬほどの人、人、人。

表紙絵更新。バナーは例によってその縮小版。 バナー狭いし身体はヤだなーしかし顔一個描いてもつまんねー、 あーいっぱい顔描きてー、とかいって描いてたら あんなになってしまいました。なんだかわかりません。 こんな奴等をレギュラーにした漫画描きてーとか思いながら描いてただけです。

エネルゲンバナー。いつまでもロゴプラグインで 作った字だけのを置いておくのはあんまりにあんまりだ。 さすがに固定URLバナーはサークルの顔だけに清水の領分だが、 別に置くならオレが描いても悪いとは言うまい。

オレは既存のキャラを描くのに元の絵をマネしようとせず、自分が持っている 顔パーツコレクションから比較的使えそうなのを選んで使っているだけだという ご指摘を受けた。まことに図星である。だが、中途半端にマネして無惨な絵に なったことが多々あるし、かといってマジで元の絵を研究する気にはどうもなれない。 それなら漫画での人格表現で勝負と行きたいところなのだが、 これがまたやっかいで、 オレ内部に入ったギャルゲーキャラはオレ時空にとりこまれて別人と 化してしまうのである。 それなら修正すべきなのだが、 原作に忠実にしてもいまひとつ気分がノらず、 キャラも勝手には動いてくれないのでつい変わってしまうのだ。 おそらく人それぞれの作風というもんがあって、 当然その作風に合ったキャラ表現がされるし、キャラそのものも作風に左右される。 オレの漫画の芸風には楓や初音がなじまないために、 超自然の摂理によってゆがめられてしまったのだろう。

以前パロディするなら人格くらいは原作に合わせろと誰かに 言ったことがあるが、 自分でやってないじゃんということに気づいてけっこうブルーである。 痕をダシにして自分がおもろいと思う漫画を描いているだけという現実だ。 どうも何か違う。原作を半ば無視してるようなもんで、 パロディ者としてアカンこと極まりない。やっぱ向いてないんだよ。 向いてなくてもやるんだが。

AIR漫画は美凪で行こうと思っていたのだが、動かない。 つまりどんな奴なのかいまひとつわからない。 しかし、もっかいやってそれでわかるかと言われるとそれも疑問で、 おそらく世間話をできる程度に彼女をオレ内部に構築させるほどの情報は 原作にはないのである。お米券等々の無理なところは 無視してやるしかないが、あんまり無視しても普通にかわいそうな女の子部分しか 残らなくなってしまう。シナリオが進むまでのボケと、シナリオが進んだ後の まともなのがどうにもかみあってくれないのだ。舞同様手が焼ける奴である。

ヴェドゴニアうんちく

  掲示板で勧められた「吸血鬼伝承」(平賀英一郎:中公新書1561)を読んだ。 そこにいくらかヴェドゴニアに出てくる言葉があるので挙げてみる。

ヴェドゴニア:vjedogonia
意味は「風を追う者」。 赤い羊膜をかぶって生まれた者のことを言い、睡眠中に精神が抜け出して 自分の土地の豊穰をめぐって他所者と戦う。死後吸血鬼になるとされる。 異常な出生をした者が異常な能力を持つとされるのはよくある話。
ヴァンピルディージ:vampirdzhiji
吸血鬼殺し。土曜日に生まれた者や吸血鬼の子など、吸血鬼を見つけ 捕まえることができるとされた者を呼ぶ。 ヴェドゴニア作中で「吸血殲鬼」に対するルビとして採用されていたような 気がするがどうだったか。
モーラ:mora
夢魔。男性形はmorous。 語源はインドで悪のことを差す「mara」にあると考えられる。 英語のnightmareも同じ語源を持つ語であろう。夜に現れて体液を吸う。 こんな名前をつけるあたりモーラの母親はかなり例の吸血鬼を恨んでいたのだろう。
ウピール:upir
生前害をなした者で墓より戻り、家畜を殺したり、人の血を吸ったり、 疫病、干魃等を引き起こす存在。vampirと並んで スラブ圏の吸血鬼伝承ではこの名が多く見られる。
ナハツェーラー:nachzehrer
死後墓の中で屍衣や自分の肉を食らい、それによって親類縁者に 呪いをもたらす者。別に出歩かない。
ギーラッハ:gierrach
渇望・執心する者。 墓の中で自分の屍衣までを食らい、外に出て血を吸ったり、人を殺したりする。
ダンピール:dhampir
吸血鬼の子。吸血鬼を見つけ、殺すことができる。 その業は代々受けつがれ、吸血鬼を殺すことで生計を立てるとも言われる。

  こんなところで、デスモドゥスとリァノーラの元ネタはこの本には見つからなかった。 てきとうにつけたのか、あるいは他に出典があるのかは知らないが、 調べようがないのでひとまず置こう。しかしこれだけ見つかるあたり、 この本がネタ本である可能性も高そうな気がする。 特にギーラッハが見つかったのは驚き。

  で、この本はなかなかおもしろかった。ドラキュラによって有名になる以前の 東欧土着の吸血鬼のみを扱っているのが目新しい。 そしてその底に深くよこたわるのはキリスト教である。 キリスト教以前に火葬を行っていた民族が、キリスト教によって土葬を 強制されたことのゆがみのようなものが感じられる。 司祭に墓を掘り起こして死体を焼く許可を求めた記録が かなりの数残っているという話には、何か反動のようなものを感じないだろうか。 また吸血鬼伝説は疫病との関連も深い。 土葬は火葬に比べれば衛生的ではなく、ペストの流行を助ける要素だったのも 事実だろう。なお、日本では火葬が多かったため動く死体よりは 霊魂の方がメジャーである。

2001年2月3日

研究室探しだが、おもしろい本を見つけて 探しても、本が5年も前のものだと所属が変わっていたりして まるで見つからないのだ。 infoseekに名前を放りこめば見つかるには見つかるが、 文献リストに出てくるだけなのが圧倒的に多い。 結局たまたま読んだ論文の著者とか、そんな偶然に頼るしかないのだろうか。

博士の出願はだいたい来年の1月だ。修論をもってって審査されるのだから 当然なのだが、ということは今仮にダリーとか言って就職活動をしなかったら 自動的にどこぞの博士を受けることになる。うちのまま進学する場合は 早めに言えと言われているので、ダリーと言って手を打たなかった場合は 当然のごとくこのまま進学はなくなってしまうわけだ。 で、はっきり言ってこのまま進学は絶対にない。となると、就職か、 別のところに進学かのどちらかだ。 就職は新しい世界に出ていけておもしろそうで、しかも金を稼げるという 利点がある一方で、就職活動が面倒で、加えてわざわざ修士まで行ったのが かなりムダになるという欠点がある。また、進学したらしたで今と似たような 生活をあと3年延長せねばならず、金は稼げないし飽きそうで恐い。 だが、博士号ってのはかなりおもしろげな称号だ。 その後何を仕事にするのであっても博士号をもっているということは なにかとネタになりそうである。

男ゲーで有名なニトロプラスの次回作は なんとハートフル近未来学園ADV。 自分達が何を期待されているかは重々承知していると 思うので、おそらく銃火器3DCGバリバリなのだと思う。思いたい。 どうも「近未来」のあたりにその臭いを感じるのだが、それは期待しすぎか。 なお、絵柄は完膚なきまでにギャルゲー絵になっており、 これに3DCGが混ざるのを想像するだけで楽しい。 しかし、ハートフルと銃火器はいかにして共存し得るのだろう。 まさかマジでハートフルということはないと思うのだが。

東工大にポイントの高い研究室を発見。論文を読んでみよう。 ただ、キャンパスが横浜の奥地らしい。もっとも東京のド真中では 家賃が高くて暮らせないだろうが。

思えば昔は東工大に行こうと思っていたのだった。電子にあこがれていたので、 ロボットなんとかに毎度出ていた東工大は妙に魅力的に見えたのである。 事実高校は東工大附属を受けて合格している。行かなかったが。 ちなみに東工大は生命理工学部なんてのを作るくらいバイオも 激しい大学なので、 バイオにしようと思ってからも東工大は候補のままだったのだが、 当時は家が千葉だったので東京だと通わねばならんかったのである。 通学2時間なんてあんまりにもごめんなので、やめた。 そういえば中学のころに一緒に東工大に行こうと誓い合った友達がいたのだが、 オレがそんなことをサッパリ忘れている一方で彼はマジで東工大に入ってしまった。 マジですまん。たまに思い出して自責の念にとらわれるくらいすまん。 そういえば東工大ってあの人がいるんじゃなかったか。

「炎多留」。持っておいたら人が集まった時に披露して 恐怖のどん底にたたきこむという使い道があっておもしろそうである。 だが、自分では見たくない。 いろんな感想文を読んだが、とてもじゃないが耐えられそうにないのだ。 ホモでもいわゆるやおいならまだいい。女の子が男同士の交尾を描いている場合には 少くとも醜くはないし、さほどの生々しさもない。河惣なんとかの ツーリングエクスプレスなどはかなりエゲツない部類だが、所詮は LALAに載る程度のものなのである。しかし、炎多留は男のためのホモゲーだという 話であり、それはあんまりだ。汗と筋肉。イヤダー。

ふと過去の日記を見直してみて、そのまま読み続けてしまって時間が経つということが ある。自分が変化しているのがこんなにわかりやすいとは思わなかった。 10年後とかどうなっとんじゃ。ところで、日記が2年半で1.7MBにもなっている。 10年続けたら7MBにもなるだろう。死ぬまでやったらかなりイヤなデータだな。 オレが死んだあとこれどうなるんだろうと考えるのは無意味だが感慨深い。 とりあえず早いうちに話題別整理とか、別コラム化を済ませないと どんどん作業がしんどくなる。Pごとに何かわかりやすい分類記号を 入れていくのが実用的だろう。後でそれを見て自動的にバラすこともできる。 書く時に別ファイルにするのは面倒なので、後から自動的に別ファイルにバラせる 細工をせねばならない。

分類。漫画・絵話、マジメ話、自分話、コンピュータ話、拳法話、音話、プログラム話 、その他。そんなもんか。

中国語か

  先週から道場で中国語を習っているのだが、音が多すぎて混乱してしまう。 一応併音というアルファベット表記があるにはあるが、 少なくともラテン語読みでは発音と一致しない。 qはchanceのchに近いし、xはドイツ語のschに近い。dはむしろtに近い。 さらにイントネーションが4種類あるが、 どうやっても3つしか聞き分けられない(上がる奴、下がる奴、まんまの奴。 上がる奴が二種類あるんだが違いがわからない)。 かなりやっかいな言語だ。 なお、オレの名前である「平山尚」は「ping shan shang」と表記するらしいが、 聞いた感じこのshはsに近く「シャ」とは別物のようだ。

  思えばローマ字は英語人に発音を伝えるのにはあまり役に立たない。 HIRAYAMAなどはせいぜい間の2つのaが聞こえなくなる程度でまだいいが、 INOUEなどはたいがい「イニュー」か「イノー」 と読まれることだろう。しかし、日本語のように母音が多い言語はまれなので、 まともに読んでもらうのはかなりあきらめた方がいい。 中国語も 同じだろうということが言える。英語人にとってのローマ字と同じくらい ムチャなのだと思えば併音のムチャさもまあ許せなくもない。 しかし、ローマ字はラテン語の発音形式ならそこそこ正しくなるので、 イタリア人とかにはそこそこ普通に読んでもらえる。 一方併音はどこの読み方をすればそこそこ正しくなるのだろうか。 謎だ。

  ところで、日本語は子音に母音がついてくる言語だが、実はしゃべっていると そうでもないことに気付く。 たとえば「岸田」の最初のKiのiはたいがい発音すまい。 案外「xida」とでも書いた方が読みやすいかもしれない。 考えてみるとkiの後にsやshが来るとiが抜けがちだ。 あと「つ」の母音も 「熱田神宮」や「松島」のように直後にt、s、sh、chが来るとかなり落ちる 「す」も「く」も「しゅ」も同じだ。 そういうわけで、そういうふうに読んでもらうなら「aztajingoo」とか、 「mazshima」と書いた方がいいことになる。おそらく面倒くさくて抜けてしまうのだ。

  さらに考えてみると、どうも日本語にU音はないという話になる。 Uというのはもっと口を突き出してすぼめるものだからである。 ドイツでも中国でも英語でもそうだ。日本語の「う」はかなりそれとは似ていない。 英語の発音記号で言う、eをさかさにした奴の方がよほど近い。 なんだかわからんあいまいな母音だが、日本語でうなる声を「う〜」 と記述することから考えれば確かにそんなもんである。 思い切り口をすぼめて「うー」と言ってもうなっているようには聞こえない。 おそらく口を突き出すのが面倒なのだろう。

  さらによく考えてみると、「あいうえお」全部がかなり違う。 英語でもなんでももっと口を使って明確に区別するものだ。 「a」はかなり口を開けるし、「i」はかなり横に開く。 他も同様だ。日本語はそれに比べると母音同士の距離がかなり近いのである。 おそらくこれは怠慢の結果だ。口をちゃんと開けるのが面倒だったために どんどん口を使わないでしゃべれるように進化してしまったのである。 加えて子音も弱い。口を使わずにしゃべれるようになった結果、 W音は「わ」以外失われてしまった。すごい怠慢言語である。 その結果、これだけ母音が多いにも関わらず疲れずに短くしゃべることが できるのだが、外国人にとっては聞きとりはしんどかろう。 英語人の日本語ははっきりしすぎていることが多いが、 あれは英語母音のまんましゃべっているからである。 あのしゃべり方では疲れるし時間もかかるのであって、 もっとダラダラーッとしゃべらないと 日本語では実用的な速度が確保できないのだ。

  そういえば この怠慢っぷりは母音二つをまんま発音することすらやめさせてしまった。 「英語」を「えいご」とは言うまい。 たいがい「えーご」である。発音時間をある単位で量子化し、 のばす音とかはねる音などというものを採用したためにできるようになった芸当だ。 日本語は言うならばクロック同期言語で、「立った」という場合の「っ」 は1クロック休みを意味するわけである。 どの音節も再生時間がいっしょというかなりレアな言語なのだ。 でその怠慢の結果、「えい」は「えー」と化し、 「いう」は「ゆー」と化し、「うえ」や「うお」はなくなったはずのW音となって 「うぇ」や「うぉ」に近くなる。 ちゃんと区別すれば「あい」から「おえ」まで20通りが全部違う母音だとも 言えよう。そういう意味で別に母音が少ないわけではなく、 母音の多い言語を勉強するのは大変だというのは言い訳にすぎない。 ちゃんとしゃべる難易度なら英語人が日本語をしゃべる場合とその逆は同じなのだ。 ただ、英語人が英語母音で日本語を話してもけっこう通じるが、 逆は通じないという差だけである。普段大した差もないダラダラした 母音5つを聞き分けている以上、 あれだけドハデな差を作っている言語の母音ならば多少数が多かったところで なにほどのこともなかろう。根性の問題である。

  というわけで、英語と中国語をそこそこしゃべれるようになろうと思う。 自分の言語の特徴がわかっていれば、それだけ相手の言語との違いを意識 することができるだろうなどと思いつついろいろ考えてみた。 とにかく言えるのは、たいがいの言語はこんなにダラダラしていないので、 疲れるくらい口をドハデに使うべきだということだろう。 あと英語系の場合は時間の量子化をやめることである。 中国語はどうやら同様に量子化されているっぽいので、まんまでいい。

  ふと思ったのだが、ひょっとして言語学っておもろい?

2001年2月2日

permedia2。netscapeを立ちあげた瞬間にいきなり画面が真赤に。 RGBのR以外の要素が消えてしまった。いわゆる 「世界の半分をおまえにやろう→はい」状態である。 オレの環境ではktermの字が緑なので、完全に真っ黒。やむを得ず Xを殺すとコンソールでは ちゃんと字が白かったので、ケーブルやら接触不良ではなく ドライバかカードの問題だ。 一体どういうバグなのだそれは。 なお、同じことをしても再発はしていない。

mvp4に戻す。フルカラーがダメなのはやっぱダメだ。マウスがズレるのも 毎回起こるわけではないし、そんなに使わんから耐えられないこともない。

「最近あいつやる気ねえよな」
自分がそれを削いだという可能性はないか。 そして自分にそれ以上のやる気があるという根拠はあるのか。 これらを考慮すると到底人を責めるなんてできなくなる。

落ちつくこととはションボリしっぱなしになることなのか? 違うはずなのだが、オレの場合は同じになっている。 ただ、普段ションボリしっぱなしなだけに、ちょっとしたことが妙にうれしい。 絵がうまく描けたとか、メシがうまく炊けたとか。

4/1に大阪で リーフ系イベント。その時期の予定は謎だ。

自転車の鍵が折れるというレアな体験をした。差して回そうとしたら途中でポキリと 折れてしまったのである。先半分は差さったままで抜くこともできない。 やむを得ず自転車屋まで運んで切断するはめになった。 疲れた。

WEBを使って研究室探しをしていたが、まるでわからない。 さしあたり京大の生命科学と東工大の生命なんとかの研究室のうち いくつか目星をつけたが、こんなのは星の数ほどもある研究室のほんの一部だ。 かくなる上はもう少し効率のいい当たり方をせねばなるまい。 まずはおもしろい本を書いている先生のところを当たってみることにしよう。 本がおもしろければ人もおもしろいはずである。

めぐるもんだ

  編集とか主催者とかをやってたころは、締切がさしせまった時に メンバーが多少でも原稿と関係ないことをしていると猛烈に不快になっていた。 誰かんちに遊びにいくとか、 映画を見に行くとか、ゲームやってるとか、アニメ見てるとか、 オリンピック見てるとか、極端な話授業に出ているだけで「こいつやる気あんのか」 という気になった。もちろん予定通り上がる人ならば許せるどころか さすがとも思うのだが、そういう人は実に少ないのであり、最悪の場合は そうやって時間を無駄にしておきつつも締切を破るのである。 増してその上原稿の完成度が低かったり落としたりした日には殺意すら覚えた。 オレのように自分ががんばっていると思っている奴にとって、 一緒にやっている奴に自分以上のやる気が感じられないのは 耐え難い苦痛になる。

  しかしながら、覚めてみれば自分が人にそれを要求できるほどがんばっていたか はかなり疑わしい。 自分でやってもおらず、できもしないことを他人に期待するのは 人としてかなり醜いことだろう。 それに人が多様であることを認めないのは狭量でかっこわるい。 そういうわけで、締切前日に映画を見てようがオリンピックを見てようが 人には人の事情があるのだから それによって直接に迷惑を受けた時以外に責める権利はないという 「大人の考え方」をした方が楽だということに気付いたのである。 面とむかって「ダラダラやりたいんだよ」と言われるに及んでは 社会のしくみを思い知らざるを得まい。

  まず自分をどうにかしよう。そのうちいいこともある。

2001年2月1日

自分の作ったものが良い物に見えて調子に乗っている時というのは楽しいものだが、 後にそれが大したものでないことに気づいた時の悲惨さといったらない。 まして人に「今回は良くできたよ」などと言って回った時にはなおさらだ。 それが恐いからオレは過剰に調子に乗れないのである。 調子にのって後でダメージを受けないためには、自分がどのレベルにあるのかを 注意深く感じとらねばならない。 そして、ここが肝心なのだが、調子に乗るのにも種類がある。 過去の自分よりも進歩したというささやかな認識と、 自分がその世界の中にあって堂々と物を出していいという大きな認識とでは 調子に乗るにしても程度が違うだろう。 自分一人で今回は良くできたと思っておくに留めるレベル、 大きな独り言(日記等)程度に留めるレベル、 友達に甘えの一環として漏らすに留めるレベル、 そしてある程度自信をもって宣伝するレベル。いろいろだ。 まるで調子にのらないのも、ささいなことで調子にのるのも 同様にダメであるということに気をつけねばならない。 調子に乗るにしてもそういう格をわきまえておけば 後に自分で恥ずかしくなることもないだろうし、 他人に「何言ってんだバカ」と思われることもないだろう。 と、このようなことを考えてみたが、普通の人はこれを 言葉によらず感蝕として持っているはずであり、 これみよがしに言わなくても慎み深くそれを実行できるものだ。 オレがこのように書いてしまうのは、オレ自身の戒めのためである。

誉められるとうれしいが、 相手が自分のどこがどのようなレベルであったから誉めたのかが 感じとれなくては誉められても実感もなければ意味もない。 誉められたからといって調子に乗って良いということにはならないのである。 逆もまた真で、けなされたからといってションボリせねばならない法はない。 ただし、誉められたのに喜ばないのでは相手に対して失礼であるし、 けなされたのに意に介さないのでは自分の成長は望めない。 行き過ぎた謙遜も、行き過ぎた傲慢も、人にとっては同じく不快であろう。 何事もバランスだ。

RNA回収失敗。RNaseというRNAを破壊する酵素が紛れこんでしまったらしく、 6本中2本のRNAが半分以上失われてしまったのである。 まあ今日とる予定だったのは予備にすぎないので、大人しく 研究室探しやら就職活動でもしながら横浜の結果を待とう。

図書館からはがき。「本返せ」。返したはずだがと思って行ってみると、 やはり返していた。えらそうにコンピュータ管理しているわりに ミスはけっこう起こるものらしい。

PCIスロットのネジを回すことに成功。 で、permedia2vのカードを差してみた結果、マウスカーソルがズレる怪現象は 収まったし、画面もいささかシャープに。 しかし、 16ビットカラーでは画面の色がメチャクチャになるし、 24ビットカラーではゴミまみれ。 8ビットカラーでもマウスカーソルが青くて不気味だ。 結局、フルカラーでマウスがズレるのに耐えるか、 256色しか出ないがマウスがズレない方を選ぶかで、究極の選択である。 どうしてこうもXというのはドライバの出来に差があるのだろう。 作った人は自分で使いたいから作ったのだと思うのだが、 果たしてこれで使えているのだろうか。 タダで作ってくれるのだから文句は言えないとは言え、辛い。 permedia2vなんてメジャーなチップだと思うのだが。

過去のコンプ日記によるとこのpermedia2カードは夏には使えない代物らしい。 熱暴走するのだ。一体いつまでこれで保たせられるだろう。

画面の場所によってボケ方が違うことがちゃんと確認された。 鬱という字を表示させて、そのウインドウを左右に動かすと、 中央付近では線と線がくっつくほどボケている。 これはもうダメだ。800x600まで落とせば中央でも鬱の全ての線を 確認できるが、960x720ではもはやボケた塊にすぎない。 つまり800x600より上では使えないということだ。 全体的にボケるならツマミでどうにかゴマかしも効くが、 こうなるとツマミでどうなるものでもない。 本気で買わねばならない状態になってきた。 ついでにこのマザーも。

韓国の人から通販の宣伝メール。別にそれはそれでいいのだが、一行目が
「こんにちは?」
疑問文にされても困る。 しかし、がんばって日本語を書いているあたりはとてもすごい。 そのサイト本体もかなり日本語をがんばっていた。 このサイトの英語版を作ることを想像すればいかにそれが大変なことかは 想像がつく。


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