日記0101

2001年1月31日

究極的には0と1しか解さないコンピュータも65000とか40億とかを扱えるのだ。 0と1でしか物事を解さない人間はコンピュータにも劣る。 せめてもう1ビットふやして3まで扱えるように進化したらいい。

世界が妙にわずらわしい。自分がいること自体に違和感がある。 快楽を送りこんでこんな気分を消すにしても、 それだけの快楽は身近には転がっていない。

「同じ人間なのだからXX」
XXに入る言葉が見つからない。

なぜと問うことに答えがないことがなぜこれほど苦痛なのか。 もちろん答えはない。

誰かが落ちこむ。その落ちこんだ奴と話した奴がいらんことに気づいて落ちこ む。そいつを見て最初に落ちこんだ奴がさらに落ちこむ…、と落ちこみは 複数いるとどんどんエスカレートしていく。 さて、危険なのはWEB日記だ。落ちこんだ状態で書いたWEB日記を読んだ人が それを読んで落ちこんで日記を書き、さらに他の人が…。 しかも見る人間の数と文字だけであるという特性を考えればそのヤバさは 生身で伝わることの比ではない。

ヴェドゴニア終了。いい。かなりいい。不死者だせば こうなるよなあという話であったのは事実かもしれないが、 それはともかくとして演出がこころにくい。 ファントムよりはエロゲにしようという意図があるようで かえって興が削がれたのだが、まあどうでもいいことではある。 にしてもどのエンディングもなにかひっかかることがあるあたりがまたいい。 しかし、戦闘ジャマ。2、3回は目新しくてよかったのだが。 もっとも 戦闘のしくみを知らんで適当にやってたからおもろくなかったのかもしれない。 明日にでも感想を書こう。

アホから今日中に6分の1ページ描けといわれた。 なんでも楓イベントの準備会が発行する限定本に寄稿するそうだ。 原稿願いがサークルチケットと一緒に来て2/2必着というのだから まったくひどい話である。 「あなたの楓ちゃんをうんぬん」らしい。 たった6分の1ページで目立つにはどうすればいいか…。 何かネタは…。

ヴェドゴニアになっちまった。モーラのコスプレ楓。使いまわしてトップ絵に。 こんくらいならそんなに時間かからんのだなと思って調子にのっていたのだが、 そのおかげで中間報告と輪読会を完全に忘れていた。怒られまくり。 ところで感想文かきました。

19インチモニタでも20kgくらいのものらしい。この15インチは15kgくらいあるので 5kgしかかわらない。加えて値段もたかが35000円。トリニトロンとかそんなゴッツイ ものはいらないので、とにかく安くて軽くて頑丈ならいいのだ。 無理に平面にしたり、やけに細かくしたり、そんなことをしたやつは 高いしきっと壊れるのも早いのに違いない。偏見だろうが。

絵コーナーを削除。生まれ変わる日が来るはずだ。 ついでに拡充が中止された運動科学コーナーもこれまでの情報を食べ物に統合して削除。 ヨガコーナーとして生まれかわるはずなのだが…。 ともかくバナー変えよう。できるだけ早く。

2001年1月30日

ヴェドゴニア一回目。CGが58%な上に裏設定がまるでわからない状態なので、 おそらくまだまだ山ほどあるのだろう。これで終わったらすごくがっかりな ゲームになってしまう。

大ゼミは終わったが、次のゼミの論文をさっさと用意しておこう。 そういういらんものはさっさと片づけてしまうに限る。 ところで、今日はそこそこおもしろげな資料を作って、 さらにやけに楽しげに説明をしたのだが、みんなの反応がよくわからなかった。 助教授にはウケていたようだが、内容がどうというのではなく いつものアレな気がするので、むしろ逆効果かもしれない。 ところで、試しに今日のゼミ資料を 置いておく。関係ない分野の人にわかるようには書いていないし、 誤字脱字、間違いも多く、図もない代物だ。 まあ雰囲気だけ。こんなモンを本を読みながら6時間で書いたオレ はけっこうやるなと思ったりもするので、調子にのって置いてみただけである。 もしちゃんと読みたいという人がいればわかりやすく、例や図を足して 書き直すことにするが、どうだろう。

PCIスロットのふたのネジがバカになったせいで、せっかく手に入れた ビデオカードが差せない。バカネジ回しを買ってこよう。

人間社会は見れば見るほど熱力学法則に忠実だ。人類社会にはいくつかの種類 の温度があり、教育によってそれをいくらか上げることができる。

ソフトウェアデザインという雑誌を買ってきた。こういうオレにわからんこと が書いてある雑誌を毎回買って読んでればいろいろと詳しくもなるだろうとい う他力本願的な発想からである。実際これはいい。情報技術者試験を受けるの も、そういう試験を受けると思えば多少は真面目に勉強するし、 加えて試験範囲内なら興味があろうがなかろうが勉強するだろうという これまた他力本願的な発想からである。

なお、オレの他力本願は未来の自分に対しての話で、 一般的にこれは他力本願とは呼ばない。 しかし実際にその努力を強いられるのは今この瞬間の自分ではなく、 どうにも自分でやる気がしないのでそう表現しているのである。 そして時間が過ぎて実際に努力をする段になると、 今やっていることは過去の自分によって決められたことであって今の自 分が決めたわけではなく、結果自発的にやっている気がしない。 決める時には他人に押しつけるだけで自分ではそれを背負わず、 やる時には他人が決めたことに従って歯車のように動く。 過去現在未来の自分が同一だという感覚がなければそういうことになるのだ。 覚悟も努力もやる気もない。なるほど、そう考えればオレが これほどまでにふぬけである理由が説明できる。 決定と実行を自分で同時に引きうけることこそ、やる気であり、覚悟であり、 努力なのだろう。オレは決めることの恐怖を克服しているのではない。 ただ恐怖を見ていないだけなのだ。そんなことではスパルタ人にはなれない。

昨日だったのだよ、あいつの誕生日は。オレはダメ人間としてもダメだ。

ボスから早く進路決めろと言われた。 さしあたり京大内にイカした先生がいないか探してみる。 ターゲットは再生医科学研、理学部、医学部、薬学部だ。 そこになければもうどこでも一緒なので、東工大、東大あたりから順に 探していく。RNAとり次第それをとにかく優先する。

2001年1月29日

縁あってとらハ2OVA2個目を観賞。1よりは格段に出来がいいが、 やはり都築氏だ。それにしても、エロアニメに課せられた制限というのは エロゲの比ではないのだなとある種気の毒になった。

エースで始まった都築氏の新連載を読む。なるほど都築氏だ。 それ以上の感想をどうやって言おうか。

偽春菜の人は大変な目にあっているらしい。それを使ったこともないし 事の顛末も知らないが、それをめぐる議論を見ているといろいろと考えてしま う。

世界には道理がある。道理とは、言いかえれば責任と原因の境界線を 定めるルールのことだ。 たとえば、ある人Aがトイレにいった結果、別の人Bが入れずモラしてしまったと する。この時Aには原因があるが、責任はない。つまりBはAを責めることがで きない。これは、AにBを苦しめようという意図 がなかったからである。と、これは普通な感覚の道理であるが、 実は道理は一つではない。 たとえば、「トイレはできる限り早く出て人の便宜をはかるべきであるから、 BがモラしたのはAの早く出ようとする努力が足りなかったせいである」 とも言えるわけで、この場合Aには責任が生じる。つまりBはAを責めて良い。

もう一つ例を出してみよう。 あるプログラマがとてもみんなの役に立つプログラムを作った。 そして、みんなの役に立とうとしてタダでバラまいた。 しかし、その結果そのプログラムと同じような機能をもつプログラムを 売って生計を得ていた人は商売にならなくなってしまった。 さて、そのプログラマは悪か。言いかえればそのプログラマに責任はあるか。

この場合、1万人いれば9999人までは責任がないと言うであろう。 それは、そのプログラマが善意でバラまいた結果として 不利益をこうむってしまった「運の悪い」人が生じただけだからである。 人間社会において善意があることは責任を免れる最大の要素だ。 しかし、これとていくらでも言いようはある。 「自分の生きるのに必要でもない行いによって他人の生活を損うのは 悪であり、 例え善意であってもそのような不利益が生じることを想定すべきであった」。 かくして彼は公開を差しとめられることになる。しかし、 そうなるのは余程の圧力があった場合だけであって、まず彼が 責任を負うことはないだろう。それが「最も共感を得ている道理」だからである。

だが、これが善意でないとにわかに状況が変わってくる。 前の例で仮に作者が「オレは目立ちたくてバラまいた」 と言えばどうだろう。責任がないという人は減るはずだ。 まして「ツブしてやろうと思ってバラまいた」と言えばなおさらである。 だが、したことは同じだ。本心かどうかもわからないそんなセリフ一つに みなの心は左右される。道理とはその程度のものなのだ。

さて、ではオレがここであるゲームをボロクソにけなしたとしよう。 よくやるので例えでもなんでもないが、まあ例だとしてくれ。 さて、オレは悪か。

おわかりの通り、一意には決まらない。 オレの文体に悪意が感じられるか、批評の体裁をとっていたか、 作品がプロの作品か個人の作品かあるいは友達の作品か、 有料か無料か、オレがそれを買ったか否か、本名を出しているか、 作者が傷ついているか、作者がいい人か、作者は嫌われているか、 ファンはどれくらいいるか、 などなどなどなど数えればキリがないほどの 条件によって悪か善かは左右される。そして見る人によって その度合は違う。世界に絶対原理などなく、 例えオレが本当にひどい罵詈雑言を吐いたとしても 「これを書いた人は自分がそういうことを言う人間だと思われ、また 反撃にさらされることも覚悟しているのだから問題ない」と言えるし、 もちろん「ひどい奴だ。死ね」とも言える。だからこの世に正義などない。 悪すらもない。先のプログラマの例で言えば、 仮に彼のプログラムによって世界が滅んだとしても、 彼に責任があるかどうかは絶対的には決まらないのだ。

しかし、ただこれだけは言える。 この世界で生きるのに他人から嫌われず、そこそこ自分の我を出せてストレス がたまらないという「道理」、言うならば関数の極小値のようなものは その場その場で確かに存在しているのだ。 たとえば「善意の行動で損害が大したことがなければ責任はない」 のようなものはまさに誰の共感も得られるものであろう。 そしてその極小値にあたる「道理」を 敏感に感じとれる人を「常識人」と呼ぶ。 社会の大多数がそれに近い道理に従っているからこそ、 社会はツブれずに済んでいるのだ。 だが、他人に攻撃され、嫌われても言いたいことを言うという「道理」 はあって良い。あって良いと言うと語弊があるが、つまりは 「あることを止めることはできない」。 そしてまた同時にそうした道理が迫害されることもまた止めることはできない し、力学的に考えれば迫害されるのは当然である。 覚悟があるなしなど些細な問題であり、「覚悟があれば良い」 ということすら一つの「道理」だ。

絶対原理があるとすれば、せいぜい熱力学の法則だけではないだろうか。 エネルギーは低いほど安定で、エントロピーはただ増大する。 摩擦の多い生き方をする人はエネルギーが高いわけで、 いずれ回りにエネルギーをまき散らし、あるいは奪われ ついにはエネルギーを失って普通の人になる運命にある。 その一方で、個々人のエネルギーは等しくはならず、 常にエネルギーの低い人と高い人のゆらぎは生まれる。 程度の差こそあれどの社会でも出る杭は打たれ、 同時にエネルギーの高い人物はその重力によってまた エネルギーの高い人物を集める。 この社会におけるせめぎあいは人が原子でできている以上 避けられぬことなのであろう。

では、一体どうすればいいのか。従うべき道理はどこにあるのか。 それは自分で考えろ。

2001年1月28日

windows機で動画を再生してその出力をvnc経由で見ようと思ったが、 ビデオメモリに直接送っているか何かしているらしくvncでは見えない。 らぶちゃ箱も遅い。さすがにゲームやったりするのは無理なようだ。 やはり速いwindows機から遅いFreeBSD機をいじる方が理にかなっている。 mvp4の描画に頼らずに済むのもいい。ただ、うるさいwindows機を 起動しっぱなしにせねばならんのが辛いし、 加えて奴は落ちるので信用ならん。でも切り換えはイヤだなあ。 差し換えはもっとイヤなのだが。

まさしろマシンの更新につきあう。Athlon800MHz。 オレとしてはそんな熱を出すもの(45W以上)はいらんのだが、 それはやっぱり負け惜しみで、どんだけ速いんだろうと気になって仕方ない。

ハードディスクを手に入れるアテはできたが、話によるとw2kでは 動かんゲームが山とあるらしい。ONEすら動かんようなもの使い物になるか! というわけでwin98で我慢する。

まだ頭微妙に痛いんだが、なんだよこれ。寝るか。細胞たくさん死んだんだろうな、 と思いつつも、ポカンと殴っただけで数百個死ぬというデータはどういう実験で どういう論文が元なのかと疑問に思う。ひょっとしてただの伝説ってことはないのか。

スティーブン・プレスフィールド「炎の門」(ISBN4-16-721872-0)文春文庫。 万単位で襲い来るペルシャ軍に、300人のスパルタ人を含んだわずか4000ギリシャ兵が 死を決して闘いを挑んだというテルモピュライの戦いを描いた物語である。 スパルタ人300人は玉砕したが、後にギリシャ連合軍は鉄の団結をもってペルシャ 軍を散々に打ちまかし、二度とこの地への侵入を許すことはなかった。 歴史上類を見ないほど特殊な国家であったという スパルタへの憧れが存分に表現された傑作だ。 600ページにも及ぶ長編がいささかも飽きることなく 興奮と感動のうちに読み終えられるのはおどろくほかない。 ところで、世間で言われるスパルタ教育など、 ここに描かれたスパルタの教育には 到底及ばない代物だ。こんなに理想的なまでにかっこいいものが現実に存在したとは 思わないが、仮にここに書かれたことの半分でも真実だったとすれば あまりに恐しい。さあ、これを読んで男を知れ。粗野や蛮勇からは無縁な、 もはや雅と言っていいほどのこの男達を。

タンパク質の立体構造予測 の研究について調べていたのだが、アルゴリズム(問題の解き方) の重要性が骨身にしみた。まともにやったら宇宙が終わるまでに 計算が終わらないようなことを、できれば数日、ひいては秒以内 にできるようにしようというのである。 もちろんまともにやらない以外にないのだが、はしょればはしょるだけ 精度が落ちていく。だから、実用に耐えるくらい精度が高いわりに 計算量が手に負えるようなやり方を必死こいて探しているのだ。 なにやらロマンではないか。

道場で散打講習会3rd。張先生は相変わらずゴツい。

ヴェドゴニア。まだちょっとだがかなりおもしろそうだ。 今日はゼミ準備でヤバいので延期。

2001年1月27日

道場。すごいものを食らった。殴っても殴ってもまるで効かない科学の限り を尽した顔面防具が紙も同然になるような打撃だ。 別に打撃そのものが強いわけではない。先生も相当手加減している。 しかし、それが防具がないも同然に通ってくるのだ。 しかしすごがってる場合ではない。 なぜなら、我々はすでに威力はどうあれ、ああいう質の打撃を 打てるはずだからである。それが打てないのは「ガードだ、通らねえ」 という思いが頭を支配してしまうからで、所詮は気持ちの問題だ。 しかし実際に効くのを食らったという経験はその気持ちの制御の 大きな助けになるだろう。

夜中2時。赤ん坊の夜泣きが聞こえる。だが、こんな学生下宿で一体どこから? 隣や向かいの建物から聞こえるのだろうが、なかなか元気のいいガキである。

うちの同人誌(2/11発行)に原稿を寄せてくださる人が、 実は漫研の友達の描く我々とはまるでジャンルの違う同人誌にも 描いているらしいことがわかった。 狭い同人界のこれまた狭いギャルゲー系同人のことだから 驚くほどのことではないのだろうが、やはり狭い。

ギャルゲー同人はサークル数が多い。多いという事実があるにもかかわらずの この関係の広がりようは見ていて不思議だ。しかし、多いといったところで 活発に動いているのは所詮数百のオーダーである。 友達の友達はまた友達という現象が数回起これば もうどこに行っても知り合いがみつかるという状態になるのは理屈では理解できよう。 もっとも、何か雲の上の存在に思えるような人達が 1ホップの距離(友達の友達の意)にゴロゴロしているというのは ある種の運にめぐまれたといわざるを得ない。

ところで、うちはサークルとしてはアホというインターフェイスのおかげで 知りあいが増えているのだが、オレはそのほとんどに会ったことがない。 寄せてもらった原稿を見せられても「こんなうまい人がマジか?!」と ビビりこそすれ最後に残る疑問は「なぜ?」なのである。 知りあいになる過程を見ていないだけに、何もかもが唐突だ。 もう京都は発祥の地でありこそすれ 中枢ではなくなってしまったわけで、やはり一度東京に行って どんなになってるのかをこの目で見てこねばなるまい。

モニタが見にくい。ボケボケだ。ビデオがショボイのもあるが、 これはモニタの限界だ。ついに960x720の解像度に耐えられなくなって、 800x600に落とすまでになってしまった。 これにも耐えられなくなったらもう終わりだ。

SiS900のLANカードを2枚買ってきて両方に差してみた。 FreeBSDが21143、windowsがRTL8139の状態から FreeBSDからwindowsが10%くらい増して5.5MB/sくらいになったが、 逆は600KBのまんま。しかし明らかにvncの描画は速い。 それが反映されていないということは何か別のところに問題があると見た。 考えられるのは、sambaのオーバーヘッドか、hdbench固有の問題かだろうが、 前者であるはずはない。 というわけでただデカいファイルを転送してnetstatの出力を比べてみた。 ただしこの場合はハードディスクの読みこみ、書きこみ速度が律速となる。 しかしいくらなんでも600KBよりは大きいから、600KBがウソであることくらいは 確認できるだろう。で実験結果だが、読み書きともにハードディスクの性能 である2.4MB/sほどが得られた。とすれば、hdbenchがバカなのである。 ただ、RTL8139に比べて明らかに速度は増しているので、 買った甲斐はあったというものだろう。 これで21143が2枚がお払い箱になってしまった。 RTL8139は研究室に返しておく。 にしてもSiSはいい。前まで一発ではネットワークが開通せず 何度か再起動をかけねばならなかったのだが、今回は一発で通った。 ひょっとしてこのメーカってけっこうまともなんじゃないだろうか。

漫画

  最近、絵がうまくなる気がまるでしない。 絵がかけないと、その制約のせいで漫画の上達も妨げられる。 ページ数かける速さがなければ話はちぢこまるし、 構図やポーズの制限のせいでどうしてもバリエーションがない単調な漫画になる。 仕上げ技術やペン入れ技術が低ければページが白くなり、 白いページが連発する漫画は 読んでいて退屈だし本としても印象が悪くなるのでやはりページ数を増やせない。 どんなポーズでも角度でも楽にそれっぽく(正しい必要はない) 描けるデッサン能力と、速くそこそこきれいなペン入れ、 それだけでいい。絵だけを描きたいわけではないという ことを強みにするためにも絵がうまくならねばならないのである。

  漫画は映画によく似ている。話を作り、演技をさせ、 撮影し、編集し、効果を入れる。話を作るのはなんでも同じ。 演技は頭の中で三次元動画をくり広げさせることに相当する。 撮影はどこにカメラを置いて どの距離で撮るかを決めることだ。 構図はカメラ位置(とレンズ種)で決まる。 編集は漫画ではコマ割りにあたるだろう。必要でない部分を削って、 必要なところを強調する一方で効果的に順序を入れかえたり、 描写の効果を高めるためにいろんなものを挿入してみたりする。 そして効果は。漫画なら擬音や 集中線、変な背景の類だ。漫画の場合はこの5つを考える 順序が入れかわったり同時進行したりもするし、 そんな手順を意識的に考えなくてもパっと漫画のコマとして浮かんでもいい。 しかしオレはセンスがないので、 意識的にそのへんを考えることにしている。

  だが、 カメラを引けばそれだけ多くのものが写るし、カメラを上下させれば角度が変わる。 オレにはそれをまともに描く能力がない。ないならやらないで 無理せず得意なものだけ描いた方が 画面はきれいになるのだが、考える時には自分の画力など 度外視しているので実際に絵を描く時になって 過去の自分を呪うハメになるのである。 そしてペン入れが終わるくらいには死ぬほどがっかりする。 描けもしない構図を描こうとしてショボい画面をつくるのも、 描けないからといってつまらない構図でがまんするのも、 同様にダメだ。オレは前者でやっているが、売り物にするなら後者の方がマシだろう。

2001年1月26日

2時ごろ帰ってきたらまさしろが原稿かいてた。 そして3時45分ごろ郵便局に出しにいった。おい。

29の大ゼミのネタ集めだが、分子進化で行くことにした。 分子進化学とは、DNAの配列やらを比べることでどのように進化 が起こったのかを解明する学問だ。 「人間とカビの差よりも酵母と大腸菌の差の方がずっと大きい」 などはそういう研究の成果だ。 しかしこの手の学問はたいがい計算機科学の産物で、 アルゴリズムの説明をしなければまるで意味がない。 うちの研究室の人間が果たして興味を持つかどうか。 で、論文を引いてもどうせアルゴリズムまみれで説明しても無駄なので、 そのへんの本プラスWEB資料だけで行くことにした。 暗黙の了解として大ゼミは「論文7から10報の内容をまとめて紹介する」 ということになっているそうだが、そんなことは知らん。 だいたい1時間で 論文10報もの内容をわかるように説明することなど できようはずがないのだ。

ネタ本を公費で買ってもらおうと思ったら、ボスが出張でいなかった。 許可の取りようがない。やむを得ず自腹。ここでケチればゼミでの発表が 不可能になってしまうので、オレの名誉のためにもやむを得ない。 買う予定だった5冊から安い3冊だけを選んだが、それでも7000円だ。

国家資格でも取ってみようかという気になった。初級シスアドとか、 基本情報技術者とかそんな資格だ。どちらも片手間でとれそうな 気がするし、勉強の過程で幅広くそこそこの知識がつくことが期待される。 なによりそういうのをもってたら何かネタになりそうだ。

2001年1月25日

1時30分。おわったー。むしろ、おわったことにしたー。 で、3時から実験。無事とれたら7時に奈良行き。 なんやねんこのスケジュール。

ちなみに、26日はゼミ用論文を一日でとらねばならないという地獄。 おそらく論文だけでは足りんので、何かそれっぽい本を一冊仕入れる必要があ る。

オレの芸風はギャルゲ同人向きではない。むしろパロディ同人向きでない。 さらに言えば同人向きですらない。実は漫画そのものに向いていないのだが、 それはいいとしよう。で、それだけにかなり浮いている。 下手だからというのもあるが、仮にうまくなっても浮くだろう。 だから何かと言われると困るが、つまりこういうことである。
「みんなしてこんなかわいい漫画描きやがって!! こんなの一生かかっても描けないよ。ひん!!」
頭の中がかわいくない奴に かわいい漫画などかけるはずがない。

ヨガ絵を置いてみた。人体デッサンの練習だ。

マウスのカーソルと実際に指している場所が違うというすごい症状が 発覚した。もうだめだmvp4。alladinVを探してくる。

安物として有名なCyrixIIIだが、 500MHzで11.2Wという異様な低消費電力を誇ることがわかった。 Duronの半分以下である。 700MHzでも15Wに満たず、おそらくはファンもいらない。 もうすぐ売られる予定の新型(C5B)はさらに下がるという。

ハードディスクが実家で余る予定。加えて某氏から余ったのを買いとる契約。 一個でいいんだが二個手に入る。まあジャマにはならないだろう。

2001年1月24日

「背景も、ちょっとだけなら、悪くない」

「自信を持って言おう。今回の漫画は同人始めてから今までで 一番時間をかけた」
ところでなぜ自信を持てるかというと、 時間をかけたことが事実で、 それがくつがえしようがないことだからである。 間違ってもその結果出来がいいと思うから自信があるという意味ではない。

さて、こういう物言いは言葉としては間違ってないしウソは言っていないが、 言葉を発するに至った目的というものがまるで見えなくなるのでとてもよくない。 言葉は意思によって発せられるものだというのが常識的な考え方なのだから、 相手がその意思を汲みとりにくいような言葉の使い方は 意思疎通の道具の使い方として間違いなのである。 つまり、この場合は「時間をかけた」イコール「今回は自信がある。おもしろい」 を意味しなくてはならない。何を言いたいのかわからん言動は誤解を招くだけで ダメだということだ。 さて、もちろんこんなようわからん文章を書いている理由も その意思による。果たしてオレはこの段落の文章で何を言いたいのか。 もうおわかりですね。原稿楽しくて調子にのってるんです。 言いたいことをごちゃごちゃ理屈でかざりたてて隠してしまうのは 照れ隠しの常套手段。

書き手は「読まれてわからん奴がいるのはオレの書き方が悪い」と思って書くべきだ。 読み手は「読んでわからんのはオレの頭が悪い」と思って読むべきだ。 実際には両方がいろんなバランスで悪いので かなり自分のせいでないことも多いのだが、 そう思うことで自分の能力を上げることができるのでお得である。 ただそれとは別に、実際にどれくらいのバランスでどっちに責任があるかは 頭のどこかでわかっていないといけない。 「オレのせいだ、オレが悪いんだ」といつも本気で思っていると そのうち頭が焼き切れてしまうからだ。「オレの書き方も悪いんだろうが、 おまえらもそれくらい読み取れよ」と思うのは精神衛生上必要なことだと思う。 でも、言うと嫌われるので、言っちゃダメ。

この日記は「こんなもんを書いてこいつは何が言いたいのか」 を考えて読むとたぶんオレのその時の気分というものがかなり はっきりとわかってしまう。 なんぼ抽象化して書いてあっても 具体的に誰かを思い浮かべて「コノヤロウ」と思いながら 書いているのはバレバレだ。 読んでくれる人がずいぶんといるのはそのへんのこともあるのか と思ったりもするのだが、それで危険な目にあうことも多いので 実はそんなにいいことでもない。
「これ読む分にはおもしれーけど、こんな痛い奴に実際に会うのはごめんだな」
と思われるのは、前半はうれしいが後半は淋しい。天秤にかけると後半の 淋しさの方が大きいので困る。人がこれをおもしろがっているらしいというのは 実感としてはわからんでも様々な状況が証明しているのでまあ受け入れるか という気分だが、それを受け入れること自体が調子にのっているようで どうも落ちつかない。 卑屈と傲慢の境目を探すのはなんとむつかしいことだろう。 オレは基本的に傲慢だから卑屈になりすぎるくらいで丁度いい気もするんだが。

事柄のウソはともかく、感情のウソをつけないのは欠点だろうか。 でも自分で気にいっている欠点はそうそう治らない。

「はみ出しても未来のオレが修正してくれることがわかったけん」
そうだよな、ノノムラ君。

20世紀に科学がブチ当たった最大の壁は、
「理解できることと使えることは同じではない」
という現実だ。これは二つのことを意味している。一つは 「ややこしくて制御できないものも、 実は少数の単純な法則に従っている」ということ。 もう一つは「法則がわかっても数が多すぎてまるで制御できん」ということ。 後者もって能力の限界を知り、前者をもって人間の知性への慰めとする。

2001年1月23日

横顔は似ない。それにしても重力によって髪型はどう変わるのか。 上向いてる楓ちゃん、あなたはどう描きますか。 私は結局髪の毛に重力に打ち勝つ強さを与えてしまいました。剛毛。

予定通り遅れている。12時半現在人物本体ペン入れ1ページ。 穴埋めとフリートークページイラストはともかくも完成。 下書きのコピーとともに完成原稿をこれから送る。 本体は2日以内に完成させて別に送る予定。 編集に必要なデータは全て今日送る第一便に含まれているため 本体も29までに着けばどうにかなる。だが、そんなに時間をかけていたら ゼミの準備も実験もできず滅びあるのみ。これだけハデな締切破りは オレも初めてだが、ごめんなさい。

クウガのあの文字のフォントないかのう。

ところで、どんなフォントでも血だれにしてしまうプログラムって 作れないもんだろうか。血だれシミュレートプログラム。

原稿送るのにダンボールが必要になったのだが、 切るのにちょうどいいものがないので包丁を使ってみた。 これがまたおもしろいように切れる。小さくなったらナイフとして使おう。

気がついたら4時。まさひろと二人で「しまった」。 これで間にあってた人まで間にあわなくなってしまった。 本当にごめんなさい。宅急便で出したが、たぶん明日には着かないでしょう。 で、自分のはまだ上がってないと。今必死こいてやってます。

今は寝とこうと思った時眠くなくて、さあやらねえとって時に眠くなるのは 神のいやがらせか。

実ゾーン

  あれだとアホみたいに単純化しすぎてやっかいごとを招く恐れがあるので、 もう少し正確に書いてみることにした。

  実存主義の「実存」というのは、要は「オレ」のことだ。 「オレ」は「オレ」として生まれ、他のなんでもない。 そして「オレ」は「オレ」の知覚を通して全てを見ているわけで、 「オレ」がいなければ世界はないも同じである。 その「オレ」、つまりは自我というものを実存と呼ぶ。 そこに見えるものが本当にあるとは限らないわけで、 確かなのは「見ていること」だけというわけだ。 「実」際に「存」在するのは「オレ」だけだということでもある。 こうなると他人と自分が同じ人間だという前提はいらない。 科学もいらない。全世界の全てのものは自分が自分で見せているもので、 その見ている自分だけが確かなのである。 で、こういう理屈がどういう動きをもたらすかというと、 普遍性というものを捨てて、 「オレにはこう見える、どうだ!!」というのをビシバシ主張することになる。 結果、他人にはたいがい理解不能な芸術が山と現れてくるわけだ。 実際には誰もわからないんでは困るのだが、 いい作品という奴はたいがいの人間にはわからなくても たまにすごく共感できる人間が現れるわけで、 結果そういう人間によって語りつがれることになる。 わけわからん抽象画とか、 わけわからんフランス映画とか、 そんなんである。「これは花だ」みたいな種類分けを排し、 理屈を排し、直観によって超自然を知覚しようとする試みで、 要は科学がいまひとつうまくいかなくなって生まれた 「ひょっとして人間ってダメなんじゃねえの?」 という雰囲気を克服しようとするものなのだ。 と思う。

2001年1月22日

0時40分、4ページ目下書きB終わり。Bからいきなりペン入れといくかこら。

2時00分。5ページ目下書きB終わり。うお、疲れた。が、あといちまいなりよ。

2時45分。下書きB全ページ終わり。やったー。頭いてー。ねみー。腹減ったー。 顔の筋肉いてー。ちなみに今回は総頭数72。今回も顔が多い。しかも小さい。 ペン入れも地獄。

オレは恥ずかしいことに描いている顔と同じ表情をしているらしい。 そのため、しばらく描いた後妙に顔の筋肉が疲れている。 人には見せられん。まあ人と描くときにはそんなことはないんだろうが。

ペン入れ行く前に寝るべきか。朝起きてから見てみたら 致命的なエラーが発見されるかもしれん。 しかし、朝起きて「つまらない」という最大のエラーが発見されたら 今まで日記に「うお、おもしれー」とか書いてたのが全部ダメージになるんだ な。はーずかしー。調子のるのって楽しいけど、後が大変なのよね。

5時18分。穴埋めが1枚必要だというので、描いた。 うお、自分で言うのもなんだがおもしれー。 あとフリートークとやらの イラストを描かねばならんのだが、イラストなんて苦手だ。何かネタで勝負せねば。 ネターネター。ネタアレルギー名雪。

間違えてc-revoのサイトを を見てしまったのだが、いきなり
「即売会には即売会のルールがあります」
よほど頭の悪い奴がたくさんいるのだろう。 しかしオレ自身はそういうクソオタクに 関わったこともないし、そういう奴にたかられるような身分にもどうせなれないので 別世界と言えば別世界である。かわいい絵を描かれる絵描きさんは そのへん大変なのだろうな。

4時間寝てゼミ地獄。よりによって集中セミナーという奴で、12時から7時くら いまでえんえんゼミである。聞くだけだからいいとは言え、聞くだけだからこ そ余計に退屈だ。みんなおもしろくしゃべろうという努力をしないので 寝るしかない。話を聞かない人がいるのは、8割くらいは話す方が悪い。

案の定ダラダラしゃべる人が続出して、寝るモード。発表は何をしゃべるか、 どう話すかをちゃんと考えてからやりましょう。それと聞かれそうなことを ちゃんと調べておくのも必須。でないと何を聞かれても「調べてないんで」 の一言で終わってしまう。調べてなくても自分の見解くらい示せ。 とここに書いても仕方ないのだが、面と向かっても言えんしなあ。 いや、言うべきか。言おう。

しかし今日のゼミはヒストンというものについてちょっと詳しくなれたのが 収穫だった。ヒストンというのは、DNAをきれいに整理するタンパク質で、 細菌よりも高等な生物ならたいがいもっている。 DNAはたいがいメチャクチャに長いのでそのままでは とてもどこに何があるかわからない。 そこで、ヒストンがDNAをブロック分けし、 使う時には使いたいDNAの場所を受けもつ ヒストンが速やかに開いてそこを使えるようにするのである。 いうならばDNAがハードディスクで、それにヒストンがファイルシステムを 作る(フォーマットする)ようなものだ。 また、DNAはそのまま置いておくと場所を食うので、 ヒストンがコンパクトにたたんで場所をくわないようにする。 コンピュータでいうデータ圧縮のような働きもあるわけだ。 なかなかおもしろい。

生物はややこしいコンピュータであり、 論理回路や記憶素子といった概念はまんま通用する。 ただあんまり量が多くてややこしいのでそう見えないだけだ。 言うならばヘタクソなプログラマがよってたかってとんでもなく巨大なプログラム を書くのに似ている。 そして出来が悪いのはすぐ死ぬので、たまたま良く動くものだけが残るわけだ。 莫大な時間、莫大な数のそういうヘタクソプログラムが作られ続ければ そりゃあいくらヘタレでテキトウに作っていても出来のいいのが出てくるわけで、 生物が異常に巧妙に見えるのは設計の美しさでなくデタラメな数の暴力による ものなのだ。だからちょっと見ればパンダやコアラのように環境の変化にとんでもな く弱い生物もけっこうゴロゴロしている。

キリシタンはたいがい以下のような論法で生物が神によらず 作られたということを否定する。
「一文字づつ書いた紙切れをランダムに並べて文学ができることがないように、 こんな巧妙なものがそんなデタラメな自然によってできるはずがない。」
これは日常の実感から来るものでとてももっともらしいが、 残念ながら何億年という時間スケールは我々の日常的感覚で計れるものではない。 宝くじとてとてつもない低確率だが、当たる人は必ずいる。 それは、買う人がその確率のとてつもなさを補うくらい多いからである。 100万分の1の確率でも、100万回やればたいがい起こる。 それが1億でも1兆でも同じことだ。よって、 ランダムな物質の運動によって生物は生まれないと主張するには、 確率を実際に計算して膨大な時間と場所があってもなおまるで足りない ということを示す必要がある。しかし、分子の大きさ、分子の運動の早さ、 宇宙の星の数、そして莫大な時間などを考えればちょっとやそっとの 低確率では起こるのを止めることはできまい。

ただし、これは自然科学で物を考えた時の話で、 実はどうでもいいといえばどうでもいい。 なぜなら生物の起源が実際にどうであるかは我々の生活に なんの影響もないからである。 神が作ったかどうかよりも、神が作ったと思うかどうかの方がはるかに 人間にとっては大切だ。そもそも「どうであるか」を人間は見ることができない。 「どう見えるか」が全てである。 一生ウソに気付かずに幸せに暮した人を不幸と言えるかといえば否であるわけで、 そのウソのスケールが生命の起源や死後の世界であろうと事は変わらない。 せいぜい生物の起源ならばいくらか知的ゲームとして価値があるが、 死後の世界は知的ゲームの対象にならない、という違いくらいだ。 どうせ確認なんてできないのだから。

まさかオレの心を読めるのか?言ってほしい台詞をピンポイントに言われると かえってそういう不安を感じてしまう。

書いてるうちに伝言ゲームのように話題が変わっていくので、 「ここからここまではこれこれの話題」と分けて題名をふれないことが多い。 たいがいは書いた後に分けて題名をつけているのである。 下のもそうだ。

自分が自分で生理的に嫌悪している「エロゲー」をネタにして 何かをしているということがたまに思い出される。 周りに同志が多いので普段は忘れているが、 これはよく考えれば社会的に表に出ることを封じられた 文化なのである。KANONやらAirが別格であると主張することも 社会的には意味をもたないであろう。 しかし、さらによく考えてみれば、そうであったところで 別にかまわないという結論には達するのでさほどの問題はない。 ただ、仮に普通に家庭を持つことを考えると、 これらのゲームやらファンブックの類は地底深く封印するなり 焼き捨てるなりせねばならない 物体なのだという事実が思い出されるだけである。 自分が描いた漫画がエロでないのがかすかな救いではあるけれども。 それにしても、その手の業界の人の家庭ではそのあたりはどうなっているのだろう。 なんだかんだ言うて幼い子供の目にその手のものを触れさせることを有害だと 感じるオレの感性は古くさいのだろうか。

科学と哲学について今のオレの認識-理系のタワゴトですが

  ギリシャの哲学用語では、 「どうであるか」をエピステーメー、「どう見えるか」をドクサという。 そしてプラトンを始めとした人々と、 それをキリスト教に組みこんだ人によって、ずいぶん長いこと もっぱらエピステーメーがすごいもので、ドクサはカスだと言われてきた。 西洋で自然科学がバカみたいに発達して、世界を征服してしまったのは その考え方のせいという面もあると思う。 どう見えるかにとらわれず、実際どうなのかということを追求する態度は 科学の根本である。 しかし、世の中はそれだけで動くものではないし、人の頭がからむと 事はそう単純ではなくなる。 プラトンの一世代後の人間であるアリストテレスはすでに 世の中はドクサで動いており、到底無視できるものではない ということをよく知っていた。 アリストテレスの思想はヨーロッパにはあまり浸透せず、 むしろアラブやらインドに渡ってしまったわけで、実はイスラム教は ずいぶんとアリストテレス哲学を研究したらしい。 ルネサンスのころにイスラム圏から逆輸入されるまでは ヨーロッパはアリストテレスをまるで知らなかったという。

  というわけでかどうかは知らないが、 ヨーロッパは科学の進歩とそれに伴う侵略が楽しくて仕方なかったらしく、 科学だ科学だとモロクソにつき進んで20世紀まで来てしまった。 20世紀は転換点だ。侵略する場所がなくなり、加えてその万能に見えた 科学にも不吉な影がまとわりつくようになる。幸せの守護神たる科学が 毒ガスは作るは、原爆は作るは、ミサイルは作るは、公害は起きるはで いまひとつ信じられなくなってきた。加えて世界、ひいては人間がそんなに単純 でなく、いろんなものを信じていて、いろんな生活をしているということを ヨーロッパ人もさすがにわかりはじめたのである。

  科学の発展が幸せに直結していたころは、つまり「がんばればどうにかなる」 という雰囲気が蔓延していた。がんばれば進歩し、敵に勝って裕福になれる。 しかし、この原則が崩れてくるとやる気がなくなり、「やっても無駄だ」という 意識が生まれてくる。これをニヒリズムというらしい。 しかしあんまりニヒリズムでやる気なくいても飽きてくる上に何も いいことがないため、「無駄かもしれんがどうにかならんか?」 という発想をするようになった。「できることをできる範囲でがんばる」 という思想だ。これが現代の哲学なのだという。 鶴見俊介という哲学者は漫画"寄生獣"の 「せいぜい自分の家族を守ることができる程度のうんぬん」 みたいな台詞に感動したと言うが、彼はそこに「できることを、 できる範囲でがんばる」という現代哲学の精神を見たのであろう。

  さて、「どうであるか」を追求することはヨーロッパ人を勝利者にしたのだが、 その副作用はけっこう大きかった。「どうであるか」を追求できることと できないことの区別がつけられなかったことである。 死後の世界とか、神の存在とか、いうならば科学できるはずもないことを 科学できると思いこんでしまったために、今から見れば爆笑ものの 学説が山と生まれた。神の存在証明なんかはその一つだ。 「神はありとあらゆるものを 内包しているので、"ある"ということも内包している。よって神は"ある"」 なんていうアホすぎる学説まで出る始末である。 そういうことのアホらしさに気づいた人の一人が カント先生だ。「どうであるか」を追求できるものとできないものが この世にはあるのだというツッコミを浴びせた上に、 結局人間には「どうであるか」なんざ知ることはできないのだという致命的な ことを言ってしまった人である。しかしそうすると 数学やら物理がちゃんと成功していることの説明がつかないので、 そういうのは「どうであるか」をわかることができやすいものとして 別格にした。先験的うんぬんとか、アプリオリーとか よくわからんことが書いてあるのはそれのことだ。 純粋理性批判の最初の30ページから後はえんえんそんな話である。

  さて、これはともかくも事件だ。「どうであるか」がわからんのであれば 科学は成り立たない。しかしそういう極端な意見はいずれいい感じにまとまるもので、 事実それでも科学は役に立つんだからいいじゃないかということで 科学は可能だということになった。カント先生が物理やら数学を別格にしたような ことをもっと巧妙にややこしく考えた人がたくさんいるおかげである。 しかし前述のように科学に影が落ちるようになってくると 今度は「どうであるかはわからん」というところにスポットが当たるようになった。 いろんな悪いことが起きるのにどうにもならない、がんばってもうまくいかない といった不満が、なぜうまく行かないのかを考える方に 頭を割く原動力になったのだろう。そして、実存主義というのがうまれた。 要は「どうであるかなんざわからんし、どう見えるかの方が人間にとっては よほど大切な問題なのだ」という思想である。 それの用語では、 「本人にとって状況がどう感じられるのか」ということを「実存的状況」 と言う。「同人で大もうけしているけれどもクソおたくにからまれてノイローゼ」 という例で言えば、 同人で大もうけしてるんだから幸せだろ、と言っても本人が不幸だと 思っているのだから実存的状況としては不幸なわけだ。 なんか実存主義もこう言うといまひとつ淋しい。 なんだかわからんころはえらくすごそうに思えたものだが。 というわけで、とらハがいかに客観的に出来の悪い部分が多かろうと、 オレとしてはそういうところがあまり気にならないわけであるから、 実存的に出来がいいということになる。便利な言葉なので多用しよう。

  そんなこんなで西洋人も今はずいぶん大人しくなっているのだが、 こういう微妙にあきらめの入った考え方というのは アジアでは常識もいいところだった。 仏教でもイスラムでもヒンドゥーでもことさらに人にわかるような言葉で書物 にする人がいなかっただけで、あたりまえのように 「どうであるか」はわからないものだったのである。 その分精神世界についての考察は西洋よりもよほど進んでいた。 仏教の経典やらもまんま読むと電波だが、実はそういうことが書いてあるのである。 精神世界の考察とは、つまるところ「どう見えるか」の究極であって、 矛盾まみれの現実に生きる人間を矛盾まみれのまま扱った学問なのだ。 しかし、こういう哲学が蔓延しているとやる気は出ない。 やる気というと語弊があるが、要は科学万歳な雰囲気にはならない。 アジアが西洋に蹂躙された原因は文明レベルの差でなく、気質の違いだった と言えるだろう。元々豊かで他人から奪うようなヤバいマネをせんでも生きられた アジア人と、土地がやせてて寒くて他から奪わんと裕福には とてもなれないヨーロッパ人では当然そういう違いが出てくるわけだ。 広く知られていることだが、ヨーロッパにジャガイモがなかったころは 本当に悲惨なほど人口が少なかったのである。 麦ごときではロクに人をまかなえないのだ。 肉を多く食うのも、草しか生えんような大地ではなんぼ効率が悪かろうと動物を育てて それを食うしかなかったからである。

  というわけで、哲学というとなんか普遍的っぽい雰囲気があるのだが、 所詮人間のやるものだけあって、その時のふところ具合の影響を受けざる を得ない。腹が減れば気が立つ。満腹なら落ちつく。 その差が今の世界の勢力地図を作ってしまったのだ。 哲学も社会学も歴史も経済学も、根本では一つのものだということを 忘れない方がよさそうである。

  最後に。たぶんかなり間違ってる上にアホみたいに単純化してしまってるので、 あまり信じないでください。あからさまに間違っていることは指摘してくれると オレが賢くなれるのでうれしいです。

2001年1月21日

一昨日のスウェー反撃練習で背筋、腹筋、脇腹が筋肉痛。やはり足りない。 強靭な体幹を作ろう。腰が細くてもいいことはない。

見切り練習でしばらく殴られているとふと頭が 格闘モードに切りかわる。 恐怖が消え、身体が固まることもないし殴られても効かない。 あれが好きな時に出せるようにならないとダメだ。 まずは恐怖をわがものとすること。 狂気の扉を自由にくぐれる精神を手に入れねばならない。 ついでに漫画を描く時にも役だったりして。

昔からなぜか知らないが漫画はストーリー漫画とギャグ漫画に分類されてきた。 しかし、同人においてストーリー漫画はほとんど存在しない。 20ページ以上の漫画は同人ではレアだし、 ストーリーは原作に依存することが多いので無理もないことだろう。 同人においてギャグに対する言葉がストーリー でなくシリアスなのは、それ故のことであろうと思う。

同人でも楽に可能なページ数といえばまあだいたい8ページくらいではないだろうか。 さほどの構成力、時間、根性がなくても出来はともかく描きあげることができる。 その範囲でストーリーとは言わないでも"筋"、言い換えるなら 起承転結やら序破急がある漫画を描きたいものだ。

やっぱ1〜8くらいがいい。 そう練らんでも描き始められ、覚める前に描き終われる 量だからだ。思えばオレは部内月刊誌で 15話(全66ページ)で完結した連載と、4話(全32ページ)で放り投げた連載を やったことがある。 15話の方は最初の4話が2ページ、次の4話が4ページ、次の3話が6ページ、 最後の4話が8ページで、調子にのってバカスカページ数を増していった。 そして後にやって放りなげた方はハナっから8ページである。 よくやっとったもんだ。

と思って見直してみる。うぐ。見れたもんじゃねえ。がんばってるのはわかるが痛い。 絵は汚ねえし、話はおかしいし、ネタは痛いし、展開速いし。 15話の方は毎回行きあたりばったりで予定を立てず にやってたので帳尻合わせに毎回死にそうなのがありありとわかる。 その点放り出した方はだいぶマシだ。アホにコピーされたために 東京の身内の目には触れてしまっているようだが、 今同人でやってるのと大差ない。というかこっちの方がおも ろい。やっぱパロ、向いてないのかな。

日曜午後4時現在、荒下書き(通常コンテとも言うが)3ページ。 けっこうノリノリ。

日曜午後6時半、下書きA(コマ割り、構図、ポーズ等)終了。 総コマ数41。平均コマ密度6.83/p。 最大コマ密度9/p。オレにしてはあんまり詰めてないし、展開もそんなに速く ない。これでバカにされずに済むぞ。 一休みの後下書きB(そこそこ細く描きこむ)に入ろう。 というわけで、遅れたとしてもせいぜい締切超過2日 くらいだから安心しなさい良月。 締切までには最悪でも下書きのコピーは送るから編集はできるぞう。 しかしそうすると清水とまさひろともりりんの 原稿は先に送らねばならなくなるが…。

あ、予定見たら7から11スキー旅行だ!!行けねえわ10日。横浜は火曜か金曜な ので、たぶんそれより前だろう。スキー旅行から直行というマネをしても 着くのは11日早朝。13日の火曜日に横浜に行くとすれば、 「火曜早朝から実験したいんですよ」とでも言えば月曜に行くことができる。 そして同じく月曜サボるなら、 11に行っても文句は言うまい。そしてつまりはスキー旅行から直行だ。 というわけで覚醒夜に行ける可能性はなくもない。 しかしかなりの確率でダメだろう。

倉庫にtimidityの設定 ファイルを3つ置く。 それぞれメロディ楽器を全部ピアノ、オルゴール、ギターにしてしまうものだ。 お遊び。

午後9時。 下書きB1ページおわり。似てねー。致命的に似てねー。でも調子いいや。 寝る前にもうちょい行こ。

10時半。2ページ終わり。困った。本当に似てねー。しかもよく思い出してみ ると初音とか楓ってこんなキャラじゃなかった気がする。 しばらくオリジナルを見ないうちに頭の中で熟成が進んで変わってしまったら しい。まあいい。これがオレの初音と楓だ!!…と言いはっていいものか。 ちなみに、この日記は気分転換。続く駄文に容赦あれ。 それにしてもまだ覚める徴候がない。今回は終わるまで酔っていられそうだ。

…知佳の声でしゃべらせたらえらいしっくりくる一方で、 こいつに「おにいちゃんを返せ」とか言わせるとどうも合わない。 ということは、これやっぱ知佳だ…。偽春菜の知佳スキンの名前も偽初音 なのだし、きっと許されるに違いない。

ふと気づいたが、 二人いたら必ずボケとツッコミに役割分担させられてしまうのは オレの漫画では避けられないらしい。 例え同じくらいボケから縁遠いキャラ二人でも、 塩素ガスが水に溶けて不均化する ように無理矢理片方がボケにまわされてしまう。 楓はボケキャラじゃないはずなんだがなあ。 なお不均化とは、同じ種類の原子が違う酸化状態に分離する現象。 塩素が水に溶けると塩化水素(HCl。この塩素は-1)と 次亜塩素酸(HClO。この塩素は+1)に不均化する。 漂白作用があるのはこの次亜塩素酸。どうでもいいか。

11時半。3ページ終わり。ウシオの名台詞を頂こう。「うお、たのしいっ!」。 しかし同時に眠気が襲ってきた。マズい。このペースでは明後日中に発送は 不可能だぞおい。

2001年1月20日

道場。柔軟性はそこそこ足りてきた。しかし、圧倒的に体幹、下肢の筋肉が足りず、 スウェーを高速でできない。反応が間にあってもこれではまるでダメだ。 加えて、四肢の脱力がなお足りない。筋肉が粘って勁をせきとめているようだ。 末端のストレッチとイメージトレーニングを欠かさないようにせねばならない。 あと、殴られないとダメだ。覚悟ができてれば殴られてもなんてことない ということを身体が忘れている。今日後半になってようやく思い出しかけたので、 それくらい毎回殴られる必要がある。

今日は道場にあしわら空手の人が来ていた。 20年も空手をやっているとかで、 かなり見事な動きだ。クロックがそもそもオレとは違っている。 体格差の克服のためのヒントを得られないかと 尋ねてみたらしいが、空手とはかなり相容れないものがあるだけに、 いろいろ大変だろう。というか、あんだけ強かったらもういいんじゃないのか?

プロットをより自然に、妄想のおもむくように改良した。 そんな時間あるのかと言われると困るが、絵がショボいよりも漫画がつまらない方が やっぱりオレはイヤだ。ごめん。でも時間の限りどうにかするから。 今回はひさしぶりな上にいろいろとな。

理性を半分殺して妄想で漫画のシーンやらセリフを生産する技法だが、 今日道場の兄弟子(以下「ニャ以下略」)に「それって自動書記だろ」 と言われた。言葉だけの問題だが、 そういうと途端にオカルトな響きになる。しかし確かに、 自動書記ってのは 「半無意識状態から出てくるイメージを噴出させること」なのだろうから 間違ってはいないのだろう。 もっと身近な言い方をすれば「ひらめき」だ。 創作と名がつくものはその意味での自動書記なしではとてもできまい。 ああ、非言語領域が暴走するくらいの妄想力がほしいものだ。

LANが遅い。hdbenchではかると、 読みこみ(FreeBSD->windows)が10-50KB/s、 書きこみ(windows->FreeBSD)が600-1000KB/s。 検索して見つけた情報を元にmssを変えたりもしてみたが、 まるでダメ。やむを得ず余っていた10BASE/Tカードに差しかえたところ、 読み込み、書きこみ共に600KB/s程度でともかく使えんこともない程度にはなった。 それでも遅いので研究室で余っているRLT8139を借りてきて試してみると、 読み4800KB/s、書き600KB/sまで改善された。 どうにか使えはするが、書きこみの遅さが謎だし、 読みも100MBit/sたる12500KB/sには遠く及ばない。 そのあたりはこのカードのショボさによるのだろうか。 ところで、このノートパソコン用ハードディスクの 速度は読み書きともにせいぜい2MB/sである。遅い。 やはり近いうちにハードディスクを買わねばならないだろう。

原稿の合間にらぶちゃ箱ミニシナリオ。雪の方は吹き出す日常シーンに無理矢理 てきとうなストーリーをつけたような感じで、ああやっぱり、だ。 一方猫の方はかなりおもろかった。ところで次郎だが、 子虎の親代わりってんだからけっこう年上なのだろう。 とすると、人間に直せばまあ若くみつもっても20代後半くらいだろうし、 下手をしたらダンディなおじさまってなことにもなりかねない。 それであの挙動はコワイような…。

原稿は自分ではいい感じ。 でも絵が、絵が…ッ!!初音、似なさすぎ。 「俺では無理だ。君が代われ」と言えるような絵描きがいたら 迷わず渡してしまいそうだが、そうするとそうしたで自分がまるで目立てないので やはりおもしろくない。まあせいぜいがんばってみよう。とにかく今回は 「絵柄で無理をしないこと」が掟だ。変に似せようとしたりすると ひどくひどい目にあうのは今までの経験で骨身にしみているのである。 もうハナっからギャルゲー同人だと思わない方が良い。 どうせおかっぱとアンテナによって同定は可能なのだから、 ここは好き勝手しよう。ちゃんと人格がかけていれば なんぼ顔が似ていなかろうとちゃんとわかるはずなのだ、が。

初音が知佳にのっとられるのはもう避けられないとしても、 楓までそうなるのはマズい。 楓は内気かわいい系であって、無愛想精神構造不可思議系 ではないのだが、無口というだけで舞にのっとられそうになった。 危うく回避したが未だ予断を許さない。 しかし、初音のないしょで「ジャンボ。鶴田」をやってしまった 前科があるのも事実で、 作者も精神構造不可思議系とみなしているケがないでもない。 なんにせよ楓は思念体形成(=人格イメージ構築)が 弱かったらしく少々危険な状態にある。

文字コードについて勉強したくなった。 それというのも、とらハのテキストファイルを楽に読むためである。 エディタにブチこめば読めるには読めるのだが、文字じゃないものが 混ざっていてうっとうしいのだ。文字じゃないものを消し飛ばし、 適切な文字("。","」")の後で改行をさせる簡単なプログラムを作れば 楽ちんにまぎれたボツシナリオを読むことができる。 幸いなことに本文では全角しか使っていないので、半角で書かれた 音声ファイル指定なども簡単に切り飛ばせるはずだ。 でも、どこで勉強すればいいんだろう。文字コードの仕様書みたいなのが どっかにあるはずなのだが。

たぶん私信

  呼ぶなと言われても…それとは関係なく東京には行くんですが…。 ところで締切はのびたわけではなく、元から24でした。 ただ実験の都合で22までに送ってしまいたかっただけです。 でも、実験どころじゃなく原稿が進まないので23ギリギリまでかかっても 大丈夫なようにスケジュールを組み直したと。その代わりその後が 地獄になってるんですが…。

2001年1月19日

となりのクレイジータクシーにみとれてる間にメシがこげた。 米4合が失われ、鍋を磨くための時間もまた失われる。 部屋の中は煙まみれ。

やっぱり原稿はある程度電気に頼らざるを得ない。 字をはりつけたり、 トドメに白いとこても必要なのである。 そこで今度は2000を入れてみることにした。98よりマシならばいいのだが。

驚愕の事実。なんとハードディスクが足りないといって蹴られるのだ。 789MB以上空きがないとダメらしい。こいつは810MBだが、領域を切ると 768MBに目減りして21MBほど足りないのである。 win98を入れるのは絶対にイヤなので、かくなる上はハードディスクを買うしかない。 ところで、中古屋に981円で840MBが売っていた。問題は840MBが目減りしても 789MB以上を保てるかどうかだが、たぶん大丈夫だろう。 30MB増えて、正味が21MB増えないとは思えない。 というわけで買ってくる。オレが手書きで字を書くのは犯罪だ。

売れてた。残された道は新品を買うか、98で我慢するか、NT4とかを手に入れるか。 ごめんなさい、98でいいです…。インストールした瞬間に マザーのAMDチップのドライバを入れれば大丈夫らしいので それで我慢します。玄人によるとwindows98はカスらしいので 気は進まないのですが…。

「ひらしょーを呼べ!」って言われても…。まあそれとは関係なく 2月に2回ほど横浜へ行くので そのついでにアホのところに寄るでしょう。 ついでに言うと、うまくすればどちらかを2/11の 楓のないしょに合わせるように仕組むこともできるかも。 ただ一緒に行く先輩は放っておくことになりますが。

自分の頭の中にできあがった漫画を読んで「うお、おもしれー」などと 自己陶酔している。この時が一番幸せな時だ。この後絵にするにつれて どんどんガッカリしていくのが常である。

プロとそうでない人の作品をどう分けるべきかけっこう迷う。 感想を書いたりする時の話だ。 プロの作品は金をとるだけに、いかなる批評が存在することも覚悟、 あるいは無視できなければならない。怒って口を封じることはできないし、 観賞する方もそれに関して遠慮してやる必要はないだろう。 それあってこそプロはプロなのである。 一方で同人あるいは素人が金もとらずにやっているものについてはどうか。 実はできたものはプロが作ったものと同様に 作品であり、観賞した人間がどのような印象を抱くのも止めることはできないし、 それについてどこぞで語り合うことも止められないのは同じだ。 作品を出す限り感想は生まれるし、それが頭の中から出てしまうことは 避けられない。 しかしそれでもプロとアマでは事情が異なる。それは理屈よりもむしろ 情けの問題だ。

たとえばこの日記に誰かの同人ゲームの感想を書いたとして、 それをまかり間違って作者が読んでしまったとしよう。 そしてとてつもなくがっかりした場合、それを「批評は避けられない」 という非情な言葉で片づけるのはかなりの抵抗がある。 そのせいで落ちこまれでもしたら書いた方もいたたまれないだろう。 アマは観賞者からの距離が近く、観賞者の数もまた少ない。 また、たいがいの場合生活の全てをかけて作っているわけではなく、 そういうものが容赦のない批評にさらされ、ひいては人格までどうこう 言われるのは耐えられまい。「卒直な感想」の恐しさはここにある。 なんであってもサークルで互いに感想を言うのがむつかしいのは 人間関係というものを解する人なら誰しもわかるものと思う。

しかしさらに問題なのは、アマとプロの境界など実はないということだ。 同人でも金をとる。同人でも数千人が観賞する可能性がある。 逆にプロでも覚悟ができているとは限らず、運悪く誰かの否定的な 批評を読んでがっかりしてしまうことだってある。 そこが恐いのである。

作家が上を目指すことを至上として強い心をもっているならば、 卒直な感想をあびせまくることは必ず糧になる。アマだろうがプロだろうがだ。 しかし、人間はそんなに強くない。普通はけなされればへこむし、 それをバネにしてがんばる前にやる気を失うことだってある。 しかし我々観賞者は作家については基本的に 作品でしか知り得ないわけで、覚悟のほどなどわかろうはずもない。 しかし、だからといって否定的なことを誰も言わなければ 作家は自分の欠点に気付くチャンスに恵まれないことになるだろう。 では一体感想や批評はどうすればいいのだろうか。

結局のところ、相手のプロ度を推しはかって、 それに合わせて物を述べるしかない。 規模が大きい同人ならプロ度は高いと言えるから、多少の辛辣な意見も 持ちこたえる率が高いし、そもそも本人の目に触れない確率も高かろう。 あとは誠意と優しさを失わないように、 しかし卒直にがんばって書くしかないのではないか。 それによって相手が傷つくこともあろうが、そもそも批評をしないという のよりはよほど健康的だ。だから、カスとかゴミとか言ったり、 あからさまにバカにするような表現はできるだけ避けたい。

ところで物事には例外がある。 まず何を言っても心が痛まないようなものもやはりある。 プロ度が高いくせにあんまりにもショボイものは ボロクソにけなされるべきだろう。 そしてもう一つは身内というものの恐しさだ。 知らん奴にけなされるのは耐えられるし無視すれば終わりだが、 知りあいにけなされるのは耐え難く無視して済むものでもない。 だから、知り合いのものに感想を述べるならば細心の注意を払うべきだ。 たとえプロ度が高い人であってもである。 あまやかさず、かといって厳しすぎず、相手のことを思ってやらねばならない。 そして、感想への反応は十分に覚悟せねばならない。 できることならばそれを身内でない人にも適用できるとよいだろう。

そしてもうひとつは逆の話で、自分の作品の感想を求めるということを 軽く見てはならない。上に書いたように感想を言うというのは 覚悟をともなうことである。そしてその覚悟は感想を言う作品の作者が 自分に近ければ近いほど重大になる。感想を聞くとは、 そのような重大な覚悟を相手に強いる行為なのだ。 それもできない程度では友達とは言えないので大いにすべきとは思うが、 それは道理や礼儀をわきまえずにバンバン聞いていいということではない。

カノンCD舞

  知らん人間にはどうしようもない始まり方だ。 最初のトラックはあらすじ回想ってところか。

  佐祐理さんの声かわいすぎて慣れん。舞の声もなんか不自然で慣れん。 時間の問題か。久瀬ショボ。絵なしでやるのメッチャしんどい内容じゃねえかこれ。 名雪眠い。

  久瀬ショボい。つうか、こうやって聞くとショボい話だなおい。 メディア変えちゃダメだよあの人のシナリオは。

  目の下に傷が!!の謎は解決されなかった。はしょってる分余計に悪いわ。

  ハラキリの謎も解決されなかった。はしょってる分余計に悪いわ。 やっぱり過去改竄か、頭の中でなかったことにしたか、それくらいしかないん じゃないだろうか。

  なにやら感動的っぽいセリフにダマされて何もわからないが、 元の作品ではなにやら感動的っぽいだけでオレは満足だった。 そこを考えないで済むレベルに舞がいい奴に思えたからである。 しかし、ここまで「なにやら」が強調されたものを聞いていると なんとも言えん。舞のいい奴さもいまひとつこれではわからん。

  ゲームから声とりだしてシーンごとにまとめて流してるだけみたいだ。 まるでわからん。さっぱりわからん。真琴編よりさらにタチが悪い。

  舞の声普通にかわいい。よし、慣れた。

  終わった。わけわからん。どうすんねんこれ。 考えないで声だけ聞いてろということだな。つまりは。 オレの負けだ。

  舞はいい奴だが、いい奴だと言われすぎるのがシナリオ的に気になる。 麻枝氏はちと言葉にしすぎるのではないか?

2001年1月18日

偽春菜の作者の人のサイトを見ていた。 辛辣な論調が特徴的だ。全体に漂う「こなくそ」という雰囲気に惚れる。 これだけの覚悟と正直さをオレは持てるか? 絶えることのない誤解と反撃への恐怖に耐えられるか? 残念ながらオレはもう折れました。

絵のうまい人は、絵がうまいという点においてオレよりも上である。 さて、上である人に対しては当然遠慮が働く。そしてその遠慮の起源は 実は恐怖である。「オレなんか近づいてもうっとうしいだけなんじゃないだろうか」。 その恐怖だ。というわけで、自分よりも格が上だと思ってしまった人に こちらから近づくことをオレはまずしない。むしろできない。 相手に失礼などという建前じみた理由でなく、 単純に自分がバカみたいにでしゃばっているという状態に陥るのが恐いだけだ。 しかし同時に、そういうすごい人々がどんな人達なのかはとても興味があるし、 作品を通してだけでない交流を持ちたいと思うのも事実で、 結果こちらのレベルを上げて対等の地に立とうという発想に至るのである。 相手の土俵に登る以外にこの恐怖をのりこえる方法はない。 さて、今現在オレがそういうふうにすごがっている対象は 同人で絵がうまい人とプログラマの方々だ。 両方こなしている人も多くいて、自分がイヤになる。 他人をすごいと思うことが即自己嫌悪につながるヨゴレなのだ。

昔のエネルゲンはオレのこの感情に基いて 良く言えば硬派、悪く言えば非友好的なサークルだった気がする。 実際いろんなことを良月に渡してからは他のサークルとの関係も増えたし、 友達も増えたらしい(らしいというのはオレが京都で話しか聞かないからだ)。 明らかにオレのそんな感情は行きすぎているということだろう。 しかし、それでも自分のレベルが足りないという恐怖は大きくなる一方だ。 気づかなかったかね?つぶれるのはオレが先さ。むしろ、もうつぶれていた。

がんばるぞ、そのひとことが言えなくて。

思考停止は行動を起こすのに必須だ。

それの長さが驚くほど長かった。 玄米とミューズリの力であろう。 ただ問題がある。流れないのだ。

すべきことを列挙してみて、かなりげんなりした。 が、なんだやるしかねえわという気もしてある意味すっきりもした。 めんどくせえと思うヒマもないわこんなん。 まずは研究室に行って二つほど片づけてこよう。 耐性培養実験開始と、RNA調製のための試薬注文だ。30分で済む。

2001年1月17日

奈良の合間に 星界の紋章。3冊で完結。おもしろかった。それ以上どう言えばいいのかわからないが、 今時のものには珍しく設定が凝っているのがいい。 設定の説明が少々うるさいかもしれないが、この手のものが好きな人にとっては それほどにも感じないだろう。凝った設定の割にはお話そのものは 主人公とお姫さまのドタバタ冒険劇で、それに背景として宇宙戦争が からんでくる程度。読みやすく、疲れない。設定で魅せつつも主軸は 冒険活劇、というわかりやすい態度がいいのだ。 私利私欲に走らずに宇宙の統治などという抽象的な目的のために 命をかけるその種族の高潔さがなければ成りたたない設定だが、 その単純な設定のおかげで普通の人類、ひいては実際の我々との 対比がよく出ていてわかりやすい。「1000年も支配者やっててあんなに 高潔なままいられるか」というツッコミはこの際捨てておこう。

ところで、その種族は遺伝子改造があたりまえでみんな美男美女。 あたりまえというより、 むしろ義務として、あるいは芸術の一環として遺伝子改造を行う。 一方対立する陣営である普通の人類は遺伝子をいじるのは悪として、 そういう神を冒涜する種族を地上から消そうとがんばるわけだ。 遺伝子の話に限らずそっちの普通の人類はかなりアホウに描かれており、 現実の問題においての作者の態度と理想がよくわかる。 よくわかりすぎるあたりがこの人の今の力量を表しているように思うが、 これだけ読みやすくておもしろければ気にもなるまい。

遺伝子いじることの予期せぬ副作用さえ抑えられるなら、 バンバンいじった方がいいと思うのはダメか。 顔なんていい方がいいし、障害なんてない方がいいし、 みんなが慣れさえすれば子供を好きにデザインして困ることなんてないだろう。 進化しようぜ、人類。

バンと文章を見て、同じ行に「空」と「手」があると 自動的に結合されて空手になる。病気だ。誰のせいだと思う?

書き忘れていたが、また坊主になった。空気抵抗が減っていささか自転車の速度も 増したような気がする。予定によれば2ヶ月後の学会及び RMには2センチのびて普通の人になっているはずなので、 そのあたりの心配はいらない。おそらく坊主にするのは今回が最後だろう。 6ヶ月ごとにスポーツ刈りにするようなサイクルでこれからは 生きていくのに違いない。

変わったものを見つけた。偽春菜。 とある人の日記に出てきてなんだそりゃと思っていたのだが、 ちょっとした気まぐれでリンクをたどってそれが何かを見てみたのである。 説明は面倒くさいし元の春菜ってのをまるで知らなくていまひとつどんなもんか ピンと来ないので、 詳しいことはそちらを参照してほしい。しかしなにやらすごそうだ。 ちなみに、この人の日記はおもしろい。共感するところも多い。 しかし、耳が痛くて死にそうだ。

誰かの文章を読んだ時に耳が痛いと感じることは多い。 ひょっとして自分のことか、などと自意識過剰になることも、また多い。 しかし書いた方は当然悪くないし、やましいところがある自分にこそ全ての責任が ある。しかし立場を逆にして自分がそういう文章を書くことを考えてみると、 誰がそういうブルーな気分になるかわかったものでは ないという危険は無視できるものではないだろう。 仮に誰かをブルーにしようとして書いたとしても、 名指しでなければ関係ない人が自分のことかと思いこむ可能性もある。 責任と原因は違うものだが、人情とか損得勘定が関わるとその境界線が あいまいになるわけで、書いた方に責任がないとしても 自粛すべき時というのは必ずあるものなのだ。 その自粛すべき時に自粛しなかったことを責任と言うのは厳しかろうが、 少なくとも本人は原因ではあったことを知っておく必要がある。 つまり、人を攻撃するなら人を攻撃するような人間であると思われることを 覚悟せねばならないということだ。 昔と違って今のオレはそれに耐えられないので、攻撃は控えることにする。

ヨガ本を全ページコピーして返した。 どうせ絶版なので引用や要約、ポーズの模写をしても問題はあるまい。 というわけで、次にサイトをちゃんと拡充するとすればヨガページかTRPG 内に作る予定の「戦闘シミュレーション考察コーナー」だろう。 ちなみに運動科学の本は時間切れで返してしまった。 遅延のせいで延長もできない。 ネタ本にしてコーナーを一つ作るつもりだったが、 いまひとつおもしろくなかったので、あの企画は立ち消え。 得た知識は食い物の方に統合しておく。

X。カーソル動かしたり音が鳴ってたりすると画面がゆれる。 それはノイズか?しかしwindowsでそんなことが起こらんということは ドライバが悪いのだろう。それ、どういう何?

星界の戦旗IとII。まあ、おもしろい。が、紋章にくらべるといまひとつだ。 妙に翻訳調な会話に磨きがかかり、うさんくささと退屈さが増したことが 大きかろう。勢力同士の戦争の描写が多くなった一方で人物描写が減り、 かといって増えた戦争描写は大しておもしろくない。 刑務所星というアイディアはおもしろいが、 キャラの行動がどうにも無茶で納得しがたいところが多かった。 結局悪くはないがいまひとつといった感じである。 なお、次のIIIが完結編らしく、主人公が故郷に帰る話らしいので 多少の興味はある。

ところで、こういう宇宙戦争物は星というものを国一つ、 都道府県一つ、あるいは街一つ くらいの規模としてしか扱っていないことが多い。 確かに何千の惑星に人が住んでいる世界において 個々の惑星の個性を出すためには「水の少ない惑星」とか 「この惑星の文化はどうこう」みたいな描写もやむを得ないのだろうが、 この地球の多彩な環境を思うとどうもしっくりこないのだ。 だって広いぞ。惑星って。 部屋ですら爪切り見つからないんだから。

宇宙戦争ものを描くのは大変だ。 光速を超える方法を考えねばならないし、 なによりも宇宙空間で敵と遭遇する状況を整えてやらねばならない。 宇宙でどれくらい遠くが見えるのかは知らないが、 数光年も離れた場所に行く途中で誰かとすれ違う確率なんてほとんどないことだろう。 加えて三次元空間での艦隊戦をちゃんとわかりやすく描くのは至難だろう。 星界の紋章にしろ銀河英雄伝説にしろそのへんはがんばって理屈をつけている。 前者は門という概念(ワープゾーンもどき)によって宇宙の 範囲を狭めているし、 平面宇宙というよくわからない概念を持ちだして戦闘空間を限定している。 銀英伝はもっと単純で、二つの国の間にある細い道以外は侵入すると宇宙船が 壊れてしまう特殊な空間になっているという設定だ。 三次元空間については、何の設定もなくハッタリで二次元のまま 通されてしまっている。宇宙で三方から包囲するあたりがなんとも潔い。 ちなみに、オレはあまりそういう科学部分はこだわらないので どうでもいいのだが。その点星界の紋章はわかりにくいので少々好かん。

田中芳樹と言えばやりたい話のためにはどんな無茶な設定でも 平気でやってしまう剛の者である。 銀英伝では宇宙のどこに行くにも定められた航路を通らねばならないという とんでもない設定を作り、遭遇戦を可能にした。 七都市物語では、地表から一定以上の高度に上がるものを全て破壊する 衛星のおかげで飛行機が使えず、進歩した技術で船による艦隊戦をやら ざるを得ないというとんでもない設定を作った。 バカにするのは簡単だが、オレにはかなり恐しい男に見える。 一見硬派そうなお話で歴史っぽい記述をしつつも 美形の曲者キャラが乱舞する様は全くすさまじい。 硬派の皮をかぶったキャラ萌え小説である。

良いキャラ萌え作品はキャラだけには頼らない。 泣きも同じで、泣き要素だけで良い泣き作品は作れない。 たとえば加奈はオレにとっては優秀な泣き作品ではなかった。 キャラ萌えも泣きも、ストーリー、演出、音楽、画像などが 複合した総合芸術であって、あまりある要素を軽視していただいては困る。 そうそうバカにはできないのだ。ただ世の中にはバカにするしかない 作品が多すぎるために泣きだ萌えだとバカにせざるを得ないのである。

ヤなこと

  世の中にはいろいろと区別されていないことがある。 特に気になるのは「〜〜すべきである」と「〜〜であれば良い」 の区別だ。たとえば「オリジナリティを追求すべき」というのは けっこう正しかろうが、 だからといってオリジナリティに欠けたものが常に悪いとは限らない。 問題は「〜〜すべき」の〜〜だけを見て他の面を無視してしまうことによる。 つまり何かと言うと、話題にしている要素に対する評価と、 そのもの全体としての評価を区別した方がいいなということである。 たとえば「奴は頭がよくない」と言ったとしても、 それはその人を嫌いだとか、その人は人間として劣っているとか、 そういうことをいきなりは意味しないのだ。 もちろん意味していることも多々あるだろうが、 こと言っている本人が理性的に話をしようとしている限りにおいては 意味しないことの方が圧倒的に多かろう。 直接的に話題になっていることだけを見ているとそういうことになって 人間関係が険悪になる。実に注意すべきことだ。 もちろん書いたり言ったりする方も、しばしば聞く方がそういう聞き方を してしまいがちなのだということを考慮に入れて 区別しやすいように伝える努力をせねばならない。

  もうひとつ。前にも書いたかもしれないが、 「〜〜すべきである」と「〜〜であるはずだ」は違う。 前の例で言えば、人は多面的に物事を見て視野を広く持つべきだが、 一方でそうであるはずだと思えば必ずひどい目にあう。 そうなっていないからこそそうすべきだと言う人がいるのであって、 現実を見ないのはアホウであろう。 ブラウザはHTML4.0に対応すべきだというのはまあ正しかろうが、 現実には対応は完全ではなく、対応しているはずだと思いこんで OBJECTとかのマイナーなもんを使うと誰も見られなくて悲しい思いをする。 主義主張があって、現実と理想のギャップを覚悟して いるならばいいが、頭の悪い幻想にとらわれてロクに考えもせずに 「〜〜べきだ」と「〜〜はずだ」を混同していると、必ずひどい目にあうことだろう。 オレもずいぶんひどい目にあったものだ。そしてこれからも遭うだろう。 「べきとはずを混同すべきでない」のは事実だが、 「べきとはずは混同しないようにするはずだ」は幻想なのだから、 それもまた仕方ない。こうやって頭に刻みつけることでその頻度が いささかでも落ちてくれればもうけものだ。

  なんか、書いてて思うがオレ覚めてるな。 2年ほど前までは「〜〜すべき」を連発してはその通りにならずに えんえんがっかりしていた気がするが。 元からダメでもともとと思うととても落ちついて考えられる。 しかし一方で 落ちつくことと楽しいことは矛盾しないでいられるのかという 疑問はますます強まるばかりだ。 楽しけりゃ他のことへの関心は薄れる。 そうすりゃ当然視野は狭くなるし、つまりは落ちついてない状態になる。 ということは落ちつけば落ちつくほど、覚めれば覚めるほど 楽しくはなくなるんじゃないのか?落ちついていれば悲しくもないが、 それでは何もする気にはなるまい。というわけでやっぱり世界に甘えよう。 誰か熱狂くれ。宗教につくしたり、恋人につくしたり、会社につくしたりってのは つまりそれだ。男女の仲でも求めてみるか?

やる気くれよ

  さて、自分のチキンさ加減が問題であることは知れた。 問題の解決方法ははっきりしている。 あとは実行するだけだ。何をするか決めるのは能力の問題だが、 実際にやるのは根性の問題だ。 根性が能力でないなら、誰にでもできるはずである。 オレは根性は誰でも出せるという立場に立って生きていたわけなのだから、 ここで根性を出さねば過去の自分は否定されてしまう。 しかし、ここ数ヶ月ずいぶんと過去の自分を否定してきた気がする。

  たいがいの場合、根性の出所は誇りとか、不満とか、怒りとか、悔しさとか いう激しい感情だ。おだやかであたたかい感情で根性が沸いてきた試しはない。 歴史上そうだ。だとすれば やっぱり以前のように「奴をだし抜くため」とか「奴に思い知らせるため」とか 「奴を見返してやるため」とかいう動機で 根性を出すしかないのだろうか。やってて楽しい、という程度の動機 で大きな物を完成させられればそれに越したことはないのだが、 そういうふうに自分をもってゆく方法がいまひとつわからない。

  しかし周りを見わたすに、「楽しいからやってます」っていう人よりは 「こなくそ」って感じの人の方がすごいものを作ってる気はする。 シャカリキと帯ギュどちらにあこがれるかと言われればシャカリキだろう。 尊敬され、すごがられるし、成果も出る。 しかし一方で、現実に幸せなのは帯ギュっぽい。 ただ、帯ギュのキャラは全員才能持ちだからあれが可能なのであって、 凡人に許される方法はやはりシャカリキの方だ。 がんばりゃいいじゃんの一言で済むはずの問題がこれほど複雑というか 自分でどうにもならないというのは大きな発見だ。 これと同じことが他人で起こっているとするならば、 やる気ながない奴を責めてもせんなきことだろう。

  いつだったか秋だか夏だか、 ウシオに「がんばるのはいいが幸せには見えん。普通の人の方がいいぞ」 などと言われ、確かにそれが一面の真実であったのは確かだ。 がんばっていばかりいると周りは見えなくなる。 しかし、がんばるのをいざやめてみると、異常なほど物足りない。 もどかしい。よし。オレがやる気がないのはウシオのせいだということにしよう。 そうやってどっかに悪いところを押しつければやる気もでるかもしれない。

  そう思いつつ以前の日記を読むと、
「オレは一生丸くはなれねえな。我慢ならんことは我慢ならんのだ」
みたいなこととか、
「オレが丸くないことを喜ぶ人がこれを読んでるなら、丸くならんのもアリか」
とか書いてある。以前といっても1年も前じゃない。 さらに2年前には友達がやる気なくやりたいこともなさそうなことを 嘆いている。自分のことを棚にあげてよく言うものだと思うが、 確かに言ってもいいくらいやる気に満ちていたような気もしてうらやましくもなる。

  誰かどうにかしてくれ。神でもいい。 自分でどうにかするしかないことはよく知っているが、 それでも言ってみたくなる。こんなに物を考えてしまうほど落ちついていては 漫画なんて描けやしないじゃないか。

2001年1月16日

移行中。だが、windowsインストールごときにてこずっており、 原稿が終わるまで断念。文字はどこかで打たせていただくことにしよう。 また、Xは4.0.2にしたら速度は問題なくなった。 しかし、謎なことに画面がゆれる。

大阪ソフマップにて とらハファンブックを入手。これを買うのは何か人類として一段違う段階に 立つことを意味するのではないかと本気で思うくらい抵抗のある表紙だ。 トゥルーラブストーリー2の攻略本に勝るとも劣らない出来である。 モノが大きい分だけ勝っていると言っても良いであろう。 で内容だが、なんの変哲もないと言ったらなんだが、これ系の本としては 普通の出来だ。しかしそういうことは問題ではないのである。 ところで、都築真紀氏のインタビューを読んで改めて、 ああ、と思った。どう「ああ」なのかは敢えて説明すまい。 ただ「心意気に惚れた」とだけ言っておこう。

ところで、とらハはこの手のものでは、 かなり早い時期に声を入れた作品であるらしい。 そういうこともあって出た当時から評判が高く、売れ行きもよかったそうだ。 しかしほんの数ヶ月前まで名前すら伝わってこなかったのは 一体どういうことだろう。ところで、今でもオレはとらハシリーズを「出来がいい」 とは評価していない。しかし、言うまでもなく それと好みの問題は別なのである。キャラの好きさ加減だけ言えば この手のものでとらハシリーズに勝るものは今のところない。

好きなものなんだから欠点なんてことさらに言わずに いいところだけ誉めちぎってればいいじゃないかと思われる方もおられるだろう。 欠点について書いたりするから 嫌いなのではないかと誤解されたりもするのであり、確かにその通りだ。 しかし、これはなかなかむつかしい問題である。 これを説明する最もダメな理由としては「他人にけなされたくない」という思いと、 それから派生する「オレだけがこれをけなしていい」という思いの存在が 挙げられる。 また微妙に建前ながら一応実際的な理由としては、 ただ「うおー好きじゃー」と言っても人が読んでおもしろいものにはならない ということがある。 問題はその二つの理由がどの程度の割合でオレの行動を決定しているかなのだが、 これはオレの人格を分析する上では重要でも、 オレと関わりを持たない他人にとっては大したことではない。 ダメな理由であっても、オレと関わりを持たない人間にとっては 文章がおもしろければそれでいいのであり、いかなり理由であったとて おもしろくなるような努力を払う方が正義であろう。 客における知り合いの比率よりも会ったことがない人の比率の方が 高くなってしまった今となってはなおさらだ。

たいがいの場合世の中は結果が全てである。 過程や動機が大切なのは本人にとってだけだ。 本人が世界に一人しかいないことを考えれば社会的人間としては 結果を重視すべきであろう。 どんな理由で募金をしても10円は10円であり、それで助かる人はいる。 ただし間違ってはいけないのだが、その理由を人に悟られるようでは それはもう「印象を悪くする」という「結果」を伴ってしまうのであって、 「オレは自己満足のために募金するけど10円は10円だよな」などと 声高に言っては台無しだ。 動機や過程が大切だと言うのは自分の魂のレベルを上げるために 自分に言い聞かせる言葉であって、 他人の成果を貶めたり自分の怠慢を正当化するための口実ではない。

こたつから手を出すと手がかじかんで動かなくなる。 キーボードもこたつに入れて打っている始末だ。 まさにブラインドタッチである。 実はまだ完全にはできないので、ミスが多い。

2001年1月15日

移行中。ハードウェア的なものは完了した。が、いまさらすばらしいことが発覚。 ビデオが激烈に遅いのだ。mvp4に元から期待などしていなかったが、 いくらなんでもこれはひどい。 スクロールすると波打つのである。まるでtelnetしているかのようだ。 遅いのはスクロールだけで動画再生などの書き換えは問題ないので、 余計に腹が立つ。これはXサバの出来の問題だ。 さらに音がまともに鳴らない。dspにブチこめば音そのものは鳴るが、 esd経由のソフトは全滅だし、pcmplayあたりに渡して鳴らしてもらおうとしても ノイズの海で使い物にならない。思いっきり対応と書いてあるんだし、 おそらく一時の気の迷いと思おう。 さしあたってカーネルでも作り直してみるか。 ビデオの方はXを4に入れかえてみる。 コンパイルで流れるメッセージにCPUが25%も食われるような状況は あまりに使い物にならない。

VIAが関わるといつもこうだ。絶対買ってなんかやるものか。 SiS540積んだマザーがあったら差しかえてやる。 うう、あの530売るんじゃなかった…。 不思議とSiSは安物のわりにひどい目にあったことがない。

PCコーナを封鎖。放置しておくうちに古くなったし、 最近は機械に興味がなくなったので これ以上更新する予定もないからだ。ああいう風化するタイプの内容は 常に更新せねばならない義務が生じるのでもうやらない。 大した知識もないのにああいうものを堂々と置いておくのが 恥ずかしくなったのである。

2001年1月14日

道場。すばらしく無理がない。エンジンが止まらず、自然。 OKなり。

貸してたRIVA128ZX(AGPビデオ)と、ESS1868(ISAサウンド)が帰ってきた。 帰ってはきたが、実家からもってきたマザーは両方内臓なので使い道がない。 しかし捨てるにも売るにも忍びない。特に後者はFM音源塔載で なつかしい音がするので特殊な用途にはおすすめ。

今となりにえんえんクレイジータクシー軍団。上級者はタイムが減らない上に とてつもないショートカットや華麗すぎる運転技術を見せつけてくれる。 2万ドルは人のわざとは思えないのだが。

いっぺいと話しててまたゲームのルールを作りたくなってきた。 しかし、オレはルールに数学的美しさをもとめる傾向があるため、 どうしてもTRPGにはむかない。手計算でできる範囲というのは 数学的であることを許さないことが多いのである。 やはりコンピュータか。タクティクスオーガ系のゲームの シミュレートシステムを考えるのはとても楽しい。 剣と槍と棍棒を同じルールで連続的に扱う方法を考えるだけで 一日過ごせるくらい楽しいのだ。

体中痛い。実家ではカゼのせいで身体をまるで動かしていなかったので、 そのせいだろう。しかし、今筋肉痛になっているところが足りないのだと 考えれば、それは有益な情報だ。

マシンを増やそう計画

  余った部品をどうにかマシンにしたい。 しかしここで考えねばならないのは、オレがどうコンピュータを使うかだ。 まずwindowsでなければできないこと以外はwindowsは使いたくない。 windowsでやることは印刷、お絵描き、ゲームだけである。 そして後ろの2つはやけに速度を必要とするのでつまり速い方に windowsをインストールするのは避けられない。 遅い方にFreeBSDをあてるのは何か腹立たしいが、 もうこれは仕方ないだろう。2台同時に使えることの便利さを思えば その程度は我慢せねばならない。

  というわけで、windows、FreeBSDの両方が24時間起動しっぱなしという 贅沢な環境が得られることになった。 しかし今余っているハードディスクはノート用のわずか810MB。 そこで、システムだけインストールしてデータの置き場所は 全部サバに提供してもらう。sambaを使えば一発だ。 これでwindowsからFreeBSDのホームディレクトリが見えなくて不便という こともない。もちろんフロッピーディスクもCD-Rもサバにしかないのを 共有である。 さて、ここで問題がある。今使っている10GBハードディスクは windowsとFreeBSDが共存しており、いらないwindowsには さようならしなければならない。 いっぺんまっさらにしてやり直せば話は簡単なのだが、 バックアップをとれる大きさのものがないのである。 4GBもあるものをCD-Rでやるのはあまりにイヤである。 そこで、消したwindowsが使っていた領域はまるまるsamba用にくれて やることにして、まっさらにするのはまたの機会ということにする。

  というわけで必要なものを買いにいった。 DEC21140のネットワークカードが 1980円だったので2枚。加えてガチャガチャなる101キーボード が981円と、スケルトン3ボタンUSBマウスを471円で手に入れた。 windows機のハードディスクにはお役御免で余っている810MB のノート用を使う。遅かろうが、ハードディスクが遅くて 致命的になるようなことはwindowsでやる予定はない。 お絵描きもスワップするようではお話にならないわけで、 もしどうしようもなく困ったらむしろメモリを足すだろう。 で途中で気づいたのだが、モニタも共有せねばならないわけで切替器がいる上に、 あの高そうなVGAケーブルまで2本も必要。これだけで5000円はかかる。痛い。 あとスピーカの問題もある。 FreeBSD上ならESDなんてのがどうもサバになるらしいので サバに再生データを送りつけてサウンドカードやスピーカを共有してしまうことも できるのだろうが、 windowsがそのクライアントになれるとは思えない。 まあオレは構造的にステレオを認識できないので両方のマシンで出力をモノラルに してスピーカの左右の入力に別々にそれをつないでしまうという手で行こう。 モニタ切替器を手に入れ次第さっさと決行する。

  そういえば、FreeBSD上からLANでつながったwindowsマシンを操作し、 加えてFreeBSD上のウィンドウの中にwindowsの画面を 表示してしまうものごっついソフトがあった気がする。 それが十分な速度ならモニタ切替器などいらないのだが、 残念ながら世の中はそう甘くない。 ただあれはXが遅いために画面表示が間にあわず、 ゲームや動画では使い物にならなかった気がするのだ。 でも入れよう。

  そのソフトの名前はVNC。 実は表示させる画面はwindowsでなくてもいい。 加えてインターネット上のどのマシンでもいけるそうだが、 画面のデータなんてデカいからLANでなくては使い物にならないんではないのか。 まあ入れてみよう。

2001年1月13日

研究室サバにつながらなくなったので、何かと思って夜中にわざわざ 行ってみると、サバは無事だったがその上流が死んでいた。 停電の時もしばらく死にっぱなしだったいわくつきのサバだが、 今回は停電でもないのに死んでいる。あまりに死にすぎだ。 研究室サバの上流は130.54.32.254だけであり、 そいつが死ねばもうどうしようもない。 一体何が起こったというのだろう。 こうも頻繁に落ちるとなると、一度事務に問いあわせて 管理がどうなっているのかを問いたださねばならない。

しつこくそのルータにping。すると通った。ただし12000msとかかかっている。 死んではいなかったのか。その先にある 研究室サバにも到達しないことはないようだが、20000msとかかかる上に 到達するパケットは100個に1個くらい。お話にならない。 一体どういう死にかたをしたというのか。

朝5時復旧。何だったの一体。

macをプライベートネットワークから全部出した。 これでnetatalkを走らせるインターフェイスが一個になり、 まともに運用できる。どうにも売り物のsambaクライアントは 使いにくいので、やっぱりnetatalkに戻すことにしたのだ。 sambaクライアントのくせにプリンタ共有もできず、 不思議なほど使い勝手が悪いのである。

いっぺいが寝っぱなし。

楓漫画の脚本もどきができた。たぶん6ページ。明日中に下書きできないと しんどいが、たぶん終わるまい。それでも上げるには平日が勝負。ヤバいなあ。

2001年1月12日

とらハのファンブックは買わねばなるまいなあ。しかしレアっぽい。

netbios名ってのは15文字までだ。そんなもので世界中のwindowsマシンを 一意に名前づけできるはずがない。それをipアドレスに変える winsってのはDNSみたいなもんだと書いてあったが、 それにしちゃあおそまつすぎるだろう。 明らかに全世界がつながることなんて考えてない時代のもんだ。 ということは、やっぱり全世界的スケールでの使用は無理なんだろうか。 同じnetbios名のマシンが何台もあるなんてザラだろう。 しかしまあ、ともかく「できません」という記述か、「こうすればできる」 という記述かのどちらかが見つかるまでは永久に解決しない。

アホに同じ設定をやらしてみたが、やはりダメらしい。 ダイアルアップだから、という可能性を消すために 京大内のちょっと遠めのマシンからもやってみよう。 そんなマシンをいじれる奴は、一人しかいない。

今日はとらハOVAの2個目の発売日である。 誰かがそんな行動に出るといいなあ。 出なかったとしてもそのうち借りてきて見よう。 数百円ならがっかりしてもネタのうちだ。

mpeg4がFreeBSDで見られるようになった。aviplayとかいうのがportsにあって、 それを入れたらあっさりと見られてしまったのだ。 また一つ快適になった。

実家であまった部品が届いた。microATXケース、mvp4マザー、K6-500。 HDDとメモリとLANカードがあれば使える。使えるぞ。 いつか買おう。いつか。

変な校歌3連発+アルファ。

詩は全部同じ人。銀河と雪崩れがお好きらしい。

実験長びいて道場行けず。

sambaは京大内からは行けることを2個所から確認。 電話線を通るとダメだということだろうか。極めて謎だが、 それならとあきらめもつく。

IEでftpに接続でき、アップロードもでき、あまつさえ日本語ファイル名のも のを送りつけてもunixから扱いにくいだけで特に支障はないらしいこと がわかった。 ということは、sambaいらないんじゃないのか? プリンタ共有しない限りはまるで無用の長物である。 FTPでいいなら世界中どこからでもなんも面倒なしに 使えるのだ。今までの苦労は一体なに?

netatalk追放。mac用smbクライアントを導入。 それもFTPでいいような気がするが、 macのファイル形式やらなにやらを考えると sambaの方が確実だろう。クライアントがわざわざmac特有の情報を失わないよ うに工夫してくれるからだ。FTPにブチこんだらそういう情報が たぶん消えてなくなってしまうに違いない。そしてmacはそれなしでは ファイルをソフトから開くこともできないらしいのである。

2001年1月11日

ipfilterの設定に成功。ただしnat機能しか使ってないので、 本来のファイアヲールとしての働きはまるでしていない。 結局そのへんのインストール本を読むよりも、 ソフトウェアのドキュメントをがんばって読む方がはるかに速いということが 今回でよくわかった。これで中から外のプリンタを使うことも、 中からメールを直接外のサバに取りにいくこともできる。

netatalkの設定がうまくいかない。中か外のどちらかから 共有資源を使うことはできるのだが、両方同時にはできないのだ。 192.168.1.Xの連中から見られる時には、130.54.32.Xの連中からは見られない。 逆は逆。 atalkd.confの設定がおかしいのだろうが、まるで謎。 appletalkの文書を読んだりもしたのだが、それでもダメ。 同じ問題でハマっている人をメーリングリストで見つけはしたが、 その人も何回も問答をくり返して試行錯誤してはいたものの 解決したという記事はなかった。 ひょっとして、どうやってもダメなのか?

全てはappletalkのせいだ。 素人がよく知りもしないで言うのはマズいのだろうが、 どうにも頭がいいプロトコルには見えない。 まず、 それぞれのホストには自分の識別番号が必要である。 で、それを得る方法がすごい。 これを起動の時に1から254のうちからてきとうに選び、 近くに同じ番号を使っているホストがいたらもう一回選び直すのだ。 そうして3回やってダメだったら接続をあきらめるのである。 1から255まで全部埋まっていなかったとしても 接続に失敗してしまうことがあるというとんでもない方法なのだ。 もし近くに一つもホストがなければ必ず成功するが、 もし一つホストがあれば、1/254の確率で失敗する。 3回連続失敗する確率は1600万分の1で確かにそれはない。 しかしもし254のうち127もホストが埋まっていたら、 失敗率は1/2になる。つまり1/8の確率でネットワークに接続できないのだ。 まあ確かに同じネットワークにそんなにたくさんコンピュータがいることも ないだろうからいいんだろうが、何かふに落ちないプロトコルである。 少なくとも今時使うもんじゃないだろう。

要はmacがアップルトーク以外の方法で奴の共有ファイルを見られればいい。 とすれば、いっそsambaのクライアントをmacに入れてしまうというのはどうだろう。 もしちゃんと動くなら一発解決だ。試してみることにする。 成功したらさようならnetatalk。と思ったが、どうも売り物しかないらしい。ダメだ。

sambaサバに家からアクセスするのは不可能なのか。 しかし、winsサバというのがあればnetbios名からipアドレスにしてくれるはずだから netbios名を入れればそれで到達できるはずだ。 しかし現実にはダメ。 それならとc:\windows\lmhostsにipアドレスとnetbios名を書いて nbtstat -Rで読みこんでやって、ダメ押しに、nbtstat -cで ちゃんとサバのnetbios名とipアドレスの関係を知っていることを確認しても、 ダメ。何か途中でwindows系パケットであることを検知されて捨てられてるとか そんなことでもあるというのか。それともダイアルアップでは そもそもダメなのか。あるいは元々地のはてのネットワークのファイルを共有 できるようなものではないとでも言うのか。困り果てた。 できないのがあたりまえだからどこにもできないと書いてないのか、 できるのがあたりまえなのに何らかの原因でウチではできなくなっているのか。 なんにせよ、そもそもできるのかできないのかすらわからない。 もっと調べよう。

2001年1月10日

縁あってとらハのOVAを見ることができた。 しかし、これはどうしたものだろう。 思わずオレはこんなものにハマっていたのかと目が覚めかけてしまうほどの どうでもよさだ。絵がどうとか動きがどうとか言うつもりはない。 声がどうとかいうつもりもない。ただ、あまりにどうでもいいのだ。 原作のあらすじの一部をとり出してエロシーンをつけただけになって しまっているのは一個目だからと信じて、2個目に期待しよう。 ゆうひの話で都築先生が直々にプロットを書いているとなれば 期待もしたくなる。

ここのwindowsから研究室サバにwindowsネットワークでログオンする試みは失敗。 どうやって動いているのかわからない代物だけに、 どこでダメなのかもわからない。 windowsはwebで探しても情報が少なく、まるでダメだ。 本を読むしかない。windowsの本を読むのは気がすすまないのだが、 いたしかたあるまい。

なかなか伝わらない。伝わると思う人にすら伝わらないのなら、 つきあいの浅い人にはどれだけ伝わるのだろう。 他人が伝えようとしたことをオレがどれだけ受けとっているかも問題だし、 オレがどれくらい受けとっているかということが相手にどれくらい伝わっている かも問題になる。さて、話を日記に移すと、これが引きおこす問題には 間違って伝わることによる問題と、伝えるべきでないことを伝えてしまうことに よる問題の二つがある。 前者が多いとすれば伝える能力が足りないことになるし、 後者が多いとすればオレの人格に問題があることになる。 どちらが多いかな。

精神が安定してきたのは事実。しかし、かなり低いレベルで安定しているのも また事実。やればできるという幻想なしにやる気を出すにはどうすればいいのだろう。 この不思議なほど落ちついたやる気のなさはなんだ。 やろうという言葉がこんなに軽い。

すべきことがあって、それぞれに期限がある。 面倒でもやらねばならないので、やる。 やり始めると微妙に楽しかったりもするが、やり始めるまでは面倒なままだ。 誰かが熱狂にたたきこんでくれるというのが幻想であり、 同時に自分の内に熱狂するものがないのだとすれば、 熱狂を得るには自分で外から熱狂のタネを探してくるしかない。 なるほど、他人に熱狂を提供してもらうことはなんと楽なことか。 他人が熱狂を提供してくれるという幻想とともに何もしないこともまた同じ。 やろうという言葉で熱狂に片足をつっこんだような気分を味わい、 実際には何もしないというのはいかにも楽だ。 それが自分の株をどんどん下げていく ことすらも気にならないほどに楽なのだろう。 他人に熱狂を提供しようとすることに熱狂していた自分がなつかしく思える。

「やる気なんかなくても生きられる」と本気で思う状態が 最終形態なのだろうか。

とらハCDリアルタイム感想

  とらハCD1。ぬおーいきなりかなりすごいダメすぎる。むしろ痛い。痛すぎる。 誰か止めて差しあげれ。いや、止めちゃダメなのか。ぬおお。 この人放っておいたらどこまで恥ずかしいんだろう。

  CD2つめへゴー。ぐおわぁ。唯子の人なんでこんなに甘ったるい声なんじゃあ。 でも、普通にしゃべってりゃ普通にいい声だなこの人。 けっこう演技も悪くないんだがなあ。それなのにレンのあの謎の言語はなに。

  凝ってる分だけ2個目の方が痛さが増した気がするが、 そんなことはないか。1個目の最初の痛さを思えば。

  ぐれーとがいあー。 なんだこの異様にそれっぽい設定は。うお、曲までそれっぽい。 美緒の人ゆうひの人より歌うまいんじゃないのか? というか、普通に歌ってんのもこの人か。これはまだ聞けるぞ。 ひょっとして一番うまいんじゃ。 ところで、この手のニセ昔アニメソングを作る際に最も問題になるのは 楽器である。この手のものにはどうしても絃や管などの生楽器が欠かせないが、 今それを調達するのはむつかしいらしく電子楽器の残念な音が鳴ることが多いのだ。 スーパーロボット大戦などの焼き直しソングも同じ問題をかかえている。 生楽器はそこそこのレベルの演奏者を必要とするので おいそれと使えないというのはわかるが、 案外そこらへんのオケのメンバーなどならタダ同然でやってくれそうな 気がせんでもない。大学のオケメンバーでもショボい電子音にくらべれば よほどマシな演奏をやってくれるだろう。

  作中で漫画家やら歌手やらの専門家を 扱うのは危険である。 にもかかわらず、とらハという奴はそれを気にした形跡が全くない。 歌がヘタくそな人に 歌手役をやらせるのはあまりに痛すぎるのではないか。 ましてこれは絵のないCDなのだ。

  でもまあ、こんなものはそれを承知な人しか買わんし、 そもそもとらハのファンは そういうのを「置いておく」技能に長けた人が多いだろうから 企画としては別にかまわないのかもしれないとも思ったりもする。 たいがいの人はこの幸せ時空の破壊力 だけを見て他の痛い要素を無視、あるいは痛くないものに脳内変換できる ことだろう。KANONファンがわけのわからないストーリーを「置いておく」 ことができるのと同様に。

  こんなにストレートに説教くさいことを脚本にしてしまってはダメだろう。 ゲームだといくらか暴走を止める力が働くようだが、 この程度の規模の企画だとそういう力もあまり働かないらしい。 これをやってしまうのがこの人の個性かと思うと まあいいかという気にもなるが、やっぱダメだ。 やはりこの人には黒幕が必要なのではないか。 麻枝コントロール説、高橋コントロール説はそういう黒幕の存在が いかに重要であるかを物語る神話であろう。

  とらハについて書くといつも非常に失礼なことが並んでしまって 自分でもけっこうイヤになる。こんだけ文句を書くと オレがとらハを嫌いだと誤解されるかもしれないということもある。 作品を出す者はそれに対するあらゆる意見を覚悟せねばならないわけで その原則から言えば問題はないが、それでも気がとがめるものは仕方ない。 確かにタダでバラまいたものならまだ「感想を言うな」と言う作者に対しても 情状酌量の余地もあろうが、売り物を作った作者に対してはそんな余地はない。 しかし、何かとらハはプロの作った売り物というよりは同人 に近い臭いがするので、そうそう厳格に言うのも気がひけるのだ。 ちなみに、リーフや最近のkeyについてはいくら厳しいことを書いても まるで良心がとがめない。売り物を作ろうという意思がバリバリに感じられる からである。

  フィアッセの人はゆうひの人よりまだマシかと思ったが、 音から音に移る時に変に凝ったことをしようとしてボロが出る。 そういやフィアッセシナリオでさんざん味あわされたのだった。 と思ったら、歌は別の人だったのか。I'veの人らしいが、下手じゃないか。 困った。

  ところで、とらハ2の主題歌は歌詞と旋律がかみあってないのが最大の欠点である。 そういう歌はこのご時世少なくないがこれはちと残念なレベルだ。 山田耕作、とまでは言わないがもう少し調和を求めてほしい。 歌う方もしんどいし、聞きとりにくいから心が伝わらない。 ゆうひやフィアッセに言わせたセリフが泣くぞ。

  唯子の人の歌はまだまともだ。ただ、役で歌うスキルはないようで、 無理をして炸裂する瞬間ががっかり。特に低音。 っと、加山雄三も真っ青なはずかしい語りがドカン。この人やっぱり異星人だ。

  声優が歌ってるようなもんをそんな細かく評価してる自分はひょっとしてバカか。 声を聞いて幸せにひたるのの邪魔をしない程度にはやはりうまさも欲しい。 まあ、かわいらしく下手とかならまだいいんだが、 これの下手さはそういう味のある下手さじゃないのがまた残念である。 オレとしては宮村優子の下手さは 思い切りが良く潔いのでけっこう気にならない。

  ああ、恥ずかしかった。正直に言います。歌はたいがいはまともには聞いて いられませんでした。しゃべってるところもいろいろ痛いんですが、 内容について考えずにキャラ達がどんな感じでしゃべくってるかをボンヤリと 想像してると妙に幸せになれるのでまあいいのです。しかし、さすがに買う のはちょっと。ごめんなさい。と思ったら一個目は1500円か。 む。

2001年1月9日

tcpdumpの出力を見ていて意味がわかるのがなんとも快感だ。

ひどいものを読んだ。 leafやkeyの人々をキャラクタにしたリレー小説だ。 2chという掲示板で行われたものである。 名誉もクソもないひどい話なのだが、しかしこれがまた文章がうまかったり 構成がよかったりして妙におもしろいのが混ざっているのが困る。 もちろん、こういう匿名で実際の人をどうこうした小説を 書くのはよくなかろうと思うのだが、ものの出来が悪いとは言えない。 往々にして不道徳なものはおもしろいものだが、 それにこうも技を投入されては余計におもしろくなってしまう。 複雑な気分だが、これは別に名誉を貶めようとして書かれたものではないだろうし、 いうならばちょっと行きすぎっぽい茶目っ気で、愛着やファンとしての感情の あらわれと見えないこともない。 でもそれはそれとして、こういうのはいけません。嫌いです。

全機能を79に移動したので、68サバ停止。 7980円のノートパソコンもその第一の役目を終えた。 しかし、移動しながら使うという用途にはデカくて無理だし、 そもそも無線接続手段がない以上まるで使い道がない。 うちでネットワークを組ませてもやらせることがない。 というわけで、押し入れ行き決定。

ircdが動かず今までてこずったのだが、 なんのことはない。inet6というコンパイルオプションを外したら あっさり動いた。それにしても ipv6に関して何も知らないのはやっぱりまずいだろうか。

netatalk、sambaがうさんくさいながらも動き、 研究室内でのファイル共有システムがとりあえずどうにかなった。 あとはnatdを動かして、プライベートネットワークの 外にあるネットワークプリンタを使えるようにせねばならない。 79にプリントサバもやってもらえばいいのだろうが、 PM3300CをFreeBSDで使うのは辛かろう。 ともかく応急処置として、PM700Cをとあるマックにつないで マックはみんなそれを共有し、PM3300Cをwindows2000機につないでwindows機は みんなそれを共有するようにしよう。

ところで、まともに稼働しはじめたので、設定をいじったりできるのは 明け方くらいになった。昼間はもう恐くていじれない。 まだやらねばならないことは山とあるし、 セキュリティーホールなんてバリバリに開いているのだろうが、 みなの目に耐えられなかったのである。 ちまちまとでも成果を出していかないと 「奴は新しいコンピュータを国の金で買って遊んでいる」 という風評が立ってしまう。ともかく、これ以上いじるのは当分待とう。 しばらく本やらなにやらで知識をつけて、 なぜうまくいかなかったかの当たりをつけてから再挑戦だ。

dspにためしに8文字の並びを繰り返したたきこむと約1000Hzの音が鳴った。 てきとうな文字列なので高周波もかなり混ざっていかにもな電子音になっている。 量子化ビット数が8ビットとすれば、 デバイスの設定サンプリング周波数は8000Hzとなるわけだ。 おそらくサンプリング周波数を変えたり量子化精度を変えたりする システムコールがあるのだろう。ともかく、数字の列をたたきこめば音は鳴るわけで、 だいたい想像がついた。あとは符号がどうのとかの細いことさえわかれば音は鳴る。 その手の本はないものかと思うが、ソース読めってことだろう。

windowsのログインについて勉強しないとダメらしい。 奴等が何をやっているのか。

2001年1月8日

「帯をギュッとね!」全30冊読破。もう10年も前の漫画だと言うことに気づいて 愕然としたりもしたが、確かにちょっと昔のサンデーっぽさが色濃くでている。 柔道をまともにやっている時は普通の漫画でさほどすごいわけでもないが、 それ以外の時にはキャラが生きていて、しかもみんないい奴だ。邪気のかけらもない。 とてもいい気分で読めた。

帰ってきた。が、明日から学校。面倒くさい。

研究室サバのネットワークカードを入れかえたら 「ダウンロードだけ死ぬほど遅い」という 怪現象が消えてなくなった。掲示板がまともな速度になっていると思います。 もちろんあっちも。

年賀状。研究室の人からも来ている。これも返事を出さねばなあ。 妙に気合いの入ったのもあって、さあどうしようと途方に暮れてしまった。

妄想。というと言葉が悪いが、要は考えることの方向性だけを与えた状態で 左脳の働きを鈍くしてちょうど夢を見るような豊かなイメージその他を 得ようという試みである。「痕、できれば楓」という制限をかけつつ 半分寝たような状態にまでボーッとしていくと、 うまくいけば勝手に奴等が動き出して使えるエピソードやセリフやシーンを 作ってくれる。 弱点は、そもそも望んだネタでそのエセ夢を見られるとは 限らないことと、結局寝てるのと一緒で時間がムダっぽいことと、 モノが支離滅裂になりやすく使いものにならないことが多いことと、 夢同様に我に帰った時に忘れてしまいがちだということ。 しかし、言葉を使える状態であれこれ考えるよりはよほど生きたキャラ が見られる。しかしオレにはそれを絵にする能力が決定的に欠けているので、 結局まるでダメなのだ。

なお、漫画を描くにあたっては描くキャラで十分にこれを行っておかないと キャラが勝手に動かないので非常に苦労することになる。 オリジナルであってもパロであっても同じ。 これみよがしに左脳を止めなくても右脳の働きが強い人は、 きっとこんな面倒なことをしなくても豊かな感覚的イメージが 頭に広がるのだろう。

楓本。久しぶりに漫画を描く上に、売り物である。 ジャム本も売り物だったが、どうも売り物という意識があんまり なかったのが困りものだ。今回の楓本はうちの5番目のメイン企画な上に 参加者が参加者だ。そうそういいかげんにやるわけにもいくまい。 モノの中身はいつも通りだろうが、作業はていねいにやろう。

妄想していて気づいたのだが、初音が知佳に乗っとられている。 いいのか?いいや。

2001年1月7日

「シャカリキ」全18巻読破。うおおおおおおおおおおおおおおおお!! 熱い!!かっこいい!!燃える!!たぎる!!これほどか曽田正人!! なるほど「め組の大吾」もシャカリキには及ばないという人が多いわけがわかった。 確かに最初のうちは特に技術力が足りない。読みにくいし、絵は荒れる。しかし、たぎる迫力は め組の大吾をすら上回るほどのものがあった。 それにしても曽田正人の描く女性はなぜこうも魅力的なのだろう。 でてくる頻度がそう多くなくても強い印象を与える。絵も魅力的だ。 そしてあの絵の崩れ方すらもその魅力を増幅しているように思える。 ともかくも、これほどに美しい熱さを持った漫画はそうそうお目にかかれない。

次は漂流教室。

ところで、今日はたきぽん氏が来た。仙台で働く先輩である。 男女についてとか、痕についてとかそんな感じで話した。 やはり年上で、加えて社会で働いている人は迫力が違うのである。 牡蠣フライ定食をおごってもらってごちそうさまでした。 揚げ物など間違っていると普段なら言うところですが、 あれはおいしかったです。ちゃんとした材料で技術を尽くしたものならば 間違っているということはないのだろう。でも、自分で確認したものしか 認めないので、牛丼、すき焼き、しゃぶしゃぶなど牛肉を和風に煮る料理は 今のところ間違い料理。それはともかくとして、 春にはオレも進路を決めて一回り大きな男になって 会いに来ます。

便秘と下痢を解消するためにミューズリを調達。オレの貧弱な腸には実家の繊維が 欠けた食事はつらかったようだ。

弟がかけっぱなしにしていたmp3のなかに「flying」という曲があった。情報を見ると、 garnet crowとある。よく知らないがバンドの名前なのだろう。 でこの曲がどうしたかというと、盛り上がるところが4・5度和音でちょっとふわふわした 感じなのが面白かったのである。終わり方とか始まり方とかは普通で別に 気にもならないし歌いかたも声も普通なのだが、 そこんところのメロディだけが妙に耳に残る。 4度や5度の曲はやはり珍しくて面白い。

ところで、たきぽんに雫を布教したのだが、 そのせいで妙に瑠璃子さんが頭にこびりついてしまった。 やっぱりすごい人だ。登場シーンであれほどがっちりと心鷲掴みにしてくれる奴はそういない。 というか、あの登場シーンは面白すぎる。「いけない、いけない、おどろかせちゃったよ」 なんて使うなという方が無理なくらい使いたくなる台詞だ。 と、その余韻もあってか 某氏 瑠璃子さん画集を久しぶりに鑑賞。 やはりかわいい。絵が、そして漫画が描きたくなった。

さようなら。壊れたメガネ。

オレに足りないのは執念だ。最後に必死になったのはいつだっただろう。 そんな事では望むものを手に入れるどころか、何を望んでいるのかすらわからないままだ。 結局何かの手によって選択肢を奪われるのをただ待つのだろうか。 「本質は保留」というアカギにあった台詞は認めたくないが、認めよう。 オレの本質は保留だ。そしてそれを認めたからには「こいつには負けたくない」 と思う奴が都合良く現れて自分を引き上げてくれるなどとはもう思うまい。 だが、現実問題今オレは道を決められない。迫ること全てにその時その時に全力を尽くし、 大きな手がオレから選択肢を奪ってゆくまでまた保留だ。 だが、ただの保留にはすまい。その大きな選択肢が消えるのは3月。 何があっても3月だ。 学者としてオレが大成できるのか、したいのかをこの2ヶ月で見極めるしかない。

「漂流教室」。ものすごすぎる。最初の数ページでもうそのものすごさを感じさせてしまう あたりがまたすごい。この漫画家の恐ろしさをはじめてまともに思い知った。 全体に満ちた迫力と緊張感。そして彼らの行動が感動を呼ぶ。

今日は寝過ぎ。連日寝過ぎ。12時間くらいは平気で寝ている。 そのために眠りが浅く、とんでもなく変な夢を見っぱなしだ。起きた瞬間に興奮してしまう ほどすごい夢なのだが、夢だけにその興奮を長くとどめてはおけない。 半分ねているくらいの右脳バリバリ状態ではじめて生み出されるあの世界は、 起きて左脳優勢になってしまっては再現できないのだ。 もっと右脳で、もっと右脳で。

Airのある一場面の絵が妙に不自然に見えて仕方ない。過去編の、夜の森のなか神奈が 口を開けて上を見ている絵だ。なぜか首のあたりで不連続に見える。 顔はアニメ絵なのに、首から服にかけては立体感があってギャップがあるからだろう。 言い方は悪いが、まるででかいかぶり物の頭をかぶっているように見える。 首の細さの割に頭が大きいのも原因だろう。弟に指摘されるまでは気づかなかったのだが、 指摘されたせいで自然には見られなくなってしまった。くそ。 といってもまあこういうものかと思える範囲ではあるのだが。

ネットに接続と同時に再起動。windowsは奥が深い。

2001年1月6日

「YAWARA」全29冊読破。なるほど面白い。すじがどうとか言う前に漫画として出来がいい。 面白い漫画を描くために必要な事の全てを高い完成度で備えた漫画といった感じか。 それにしても浦沢直樹の描くバカ男やバカ女はなぜこうまで腹立たしいのだろう。

2001年1月4日

TCP/IPの本が難しい。しかし、苦労してどうにか半分くらい読んだ結果、 ダイナミックルーティングやら ICMPやらブロードキャストやらが何となくわかった。DNSも改めて勉強できたし、 やっぱりこれはいい本だ。ところでBOOTPってのが新鮮で面白い。 ハードディスクのない機械がネットワーク経由で起動するためのプロトコルだ。 そんなことができたのかと驚いた。さて、まだ読み終わってないのに言うのも何だが、 次はどんな分厚い本を読もうか。「これがUNIXだ」みたいな本はどうにも見つからないので、 こうなると「これがUNIXカーネルだ」というような本を読むしかない気もする。 カーネル(OS本体)の本は当然難しくて手におえないのだが、結局UNIXをわかろうと思ったら カーネルをさけて通ることはできないのだ。よくあるツールの使い方を勉強する事も 大切だが、それをいくらやってもOS本体を理解したことにはならないだろう。 本来ならソースやらMANやらを読みまくればいいのだろうが、 やはり本の形で概要をドカンと勉強してしまいたいところである。

2001年1月3日

スラムダンク31冊読破。なるほど面白い。 バスケットのルールがわかる必要がみじんもないと言うことは、 それだけ漫画としてレベルが高いということだ。 緊迫した場面での構図やコマ割りのうまさには全く舌を巻く。 絵も後のバガボンドに比べて無理がなく、漫画の絵として魅力的で 動きもある。バガボンドはリアルさを高めようとしすぎて 漫画の絵としては今ひとつぎこちなく見えるのだ。

詳解TCP/IP Vol.1(ピアソン・エデュケーション)を買ってきて読み始めた。 600ページもあるのでさすがに一日で読破というわけには行かないが、 内容が豊富なので読んでいて楽しい。さしあたってIPアドレスからどうやって 実際に通信する機械を決定しているか(arpってやつ)がわかって少々興奮気味。 ルーティングの原理もわかったので、その手のものを設定する時にも ちゃんと意味を知ってやることができる。やはり、わからんと思ったときには 面倒くさがらずに分厚い本を買って読むのがいい。 「本を書いた奴の頭の良さが同じなら、読むのがしんどい本ほどためになる」 というのがオレの実感だ。 頭のいい人が書いたにも関わらず読むのがしんどいということは、 それだけ内容が高度だと言うことなのである。 ちなみに、同じ内容ならば頭のいい人が書いた本ほどわかりやすいので、 ほしい知識の範囲がはっきりしている時には読みやすい方をとればいい。 そういえば一緒に同じ著者の書いたUNIXプログラミングとか言う本があってそっちも 面白そうだったのだが、ちと中身が高度で今のオレには役立てられそうもない 気がしたので今はやめておいた。

子育てをする上で何が重要か、というような番組をやっていた。 最後しか見てないのもあるにせよ、どうも話の流れが今ひとつわかりにくかった。
「遺伝の影響も大きいから親のする事が全てというわけでもない」
「親のする事が全てではないから親はのびのびと子育てをしてもいい」
「遺伝の影響もあるだろうが、それはさほどのものではなく、やはり親の影響は大きい」
そんな感じの意見はどれもある意味もっともだが、はっきり言ってこれは何もいっていないのと同じだ。 考えるまでもなくこの世界に生を受けてから受ける入力は莫大なもので、 親がどれだけ気をつけたところで完全な制御は無理だし、 遺伝因子だってほんの一部だというのは分かり切っている。 それがどの程度の割合で影響するかなんて事は学者以外には意味を持たないことだろう。 せめて生活や実感に即した形で言ってくれなくては何の役にもたたない訳で、 ウソでもいいから%で言うとかしなければあの番組を見た人も 何をどうしていいかわからないはずだ。たとえば、
「親50%、遺伝10%ってところでしょうから、まああまりがんばりすぎるのも意味はないですし、  かといって親の影響を軽視しすぎるのもよくはないでしょうね」
とか適当な事をいっておいて、さっさと「何をすべきか」の方に話を移すべきだろう。 なお、オレとしては詰め込み万歳という感じで、赤ん坊のうちにできるだけ何でも教えてしまった方が いいと思う方である。とにかくいろいろ見せ、聞かせ、話しかける。 赤ん坊の学習力のすさまじさは周知の通りで、その時期に頭を有効に使うための 回路を作ってしまうことはとてつもなく意味があるだろう。 「パパでちゅよー」とかいって甘やかしてるひまがあったらできるだけ早く人間として 扱って対等な話をしようとした方がまともに育つのではなかろうか。 「ブーブー」とか謎な言葉を使うのが子の情緒の成長に有益だなどと言うことはないと思うし、 そうやって赤ん坊を珍獣扱いする事は絶対にロクでもない結果をもたらす気がする。 というか、オレはそんな恥ずかしい事はできん。

「包丁と砥石(柴田ブックス)」。あまりの質実剛健な題名にめまいがするほどだが、 これがまた実にいい本である。包丁の種類、材質、製法などを歴史的、そして結構科学的に書いてあり、 加えて研ぎ方の解説がとてもていねいでわかりやすい。読み物としても面白いので、 興味がなくもない人にはおすすめ。

2001年1月1日

筋肉番付。跳び箱とか、走って落ちてくるボールにさわるとか、 そんなえらく単純な競技で競う番組だ。 何回か見たことはあるが前に見たのは年単位で前だし、 今日はヒクソンやらフィリオといった 格闘家やラグビー、野球といった球技の(オレは知らないが)有名選手が たくさんでていたので結構新鮮だった。 ああいうスポーツの一瞬というのはウソが無いだけに素直に感動できるし、 何よりあの競技はわかりやすく面白い。 ところで驚かされたのは、彼らの運動能力もさることながら 番組としての完成度の高さだ。 まず着眼点が面白い。陸上競技並みに単純な競技の数々は誰でも楽しめるし、 もっと複雑な競技の選手がそういった単純な運動能力においてどの程度の 力を発揮するのかというのは皆興味があるところだろう。 そしてそのアイディアを生かすために あれだけの面々を揃え、ああいった競技を発案するのも相当な事だ。 特に競技に関しては安全性の確保も大変な課題となる。 ケガでもされたら番組の生命はそれまでだからだ。 そしてさらに実際の番組づくりもかなり高いレベルで、 カメラ位置、カメラ技術、編集などが絶妙にうまいのである。 腹筋や背筋でその体の上下に合わせて カメラを動かすあたりなどはわかりやすく大したものだ。 あんなにデカいカメラを一秒に一回以上の頻度で動く体に焦点を当て続けるのは さぞや大変だろう。しかしあの画面の躍動感はあれなしではあり得ないのではないだろうか。 というわけで、CMがじゃま臭いという民放の欠点を差し引いても面白かった。

180cm近い身長があるなら、やっぱり80kgくらいはないとダメなのだろうなあ。


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