日記

1999年10月31日

ついドラクエ2に夢中になってしまった。いけない、いけない。 4時間ほどで、邪神の像をとるとこまでいった。 しかし、あのゴツい洞窟の進み方を完全に忘れた上に、 あれをもう一度攻略する気にもならず、目が覚めた。 それにしてもいい感じにキツいのがいい。たまに「ヤバッ」という感蝕があるのだが、 その頻度が絶妙だ。間違ってRPGを作るようなことになったら、 いろいろと参考になるだろう。オレの好みとしては、 むやみやたらに数字が大きいやつよりも、 1という値の重みが伝わってくるようなものの方が好きだ。

天外魔境というゲームでは、最初のダメージはほとんど3点。 しかも4というダメージがなぜかなく、3の次は5なのだ。 だんだん、5が出る確率がじわじわと高まってくるのがまたいい。 また、いわゆる会心の一撃という奴はダメージ2倍なのだが、 4がないために、3の倍の次は5の倍。つまり、いきなり10点あたることがある。 この快感は筆舌に尽し難い。このゲームは10レベルくらいになっても ダメージが7とか8をうろつくほど成長が遅いゲームだが、 それがなんら問題にならないほど緊迫感がある。 それでいて、最後の方にはもうなんだかわからないようなダメージ量が連発して、 爽快感がもたらされる。ボスを倒すごとに剣が強化されてダメージが ボンボン上がるのだ。それでもダメージは100程度だが、 100というのがいかに大きい数字か。 TRPGの人間としては、むやみに大きい数字にするまえに やることがあるだろうという気がする。 だいたい、人間の域をはるかに超えてしまうのはどうだろう。 RPGにもそこそこのリアリティーが欲しいではないか。 一般人のHPが15とかなのに、 ヒーローのHPが8000とかになるのはもはや人間ではなかろう。 その点、Wizzardryや、ドラクエ、天外魔境などはそこそこそういうものと おりあいをつけた成長システムになっている。

ところで、オレはレベルというものがどうも嫌いだ。 成長が階段状になっているのは、どう考えてもTRPGのなごりである。 TRPGでは面倒な計算を排すために、レベルというおおざっぱな成長 システムを導入したものが多い。だが、コンピュータものでその必然性はなかろう。 一回戦闘するごとにわからないくらいの幅で成長していくのもアリである。 ボスと戦って勝てなかった時を考えてみよう。戦い方に欠陥がなければ、 レベルを上げる以外にない。 そういう状態の時に次のレベルまでが長かったら、それは作業になる。 いっそ戦闘一回ごと、あるいは1ターンごとにわからない程度成長しているならば、 「うーん、そろそろいいか」というあいまいな基準で進むことができる。 もちろん、ドバっと強くなるという快感は欲しいところだが、 それは技やら魔法やらの体得や強烈な武器防具の入手で補える。 強さにわかりやすい基準が欲しければ、 パラメータの大きさによってレベルのようなものを称号としてあたえておけばよい。 つまり、レベルがあがって強くなるのではなく、強くなった結果がレベルという形で 示されるわけだ。剣道や柔道の段と同じである。 段が上がって強くなるのではなく、強くなった結果段が上がる。 実際ラストハルマゲドンというゲームでは、攻撃力、防御力、 すばやさなどという個別のパラメータに経験値があり、 ある種の行動をするとそれがたまって、 個別にレベルがあがった。そして、全経験値の合計で総合レベルというものが決まる。 総合レベルは成長の段階の目安としてしかはたらかない。 (一応、あるレベルになると合体できるのだが、それはそれ) そういうのもアリだということである。

また、戦闘が楽しくなくてはいけないのは当然だが、 ムダな戦闘が極力少なくなるようにせねばならないだろう。 FF7で敵の本社ビルに殴りこみをかけるシーンがあるのだが、 そのビルの中ではなんだかわからない空とぶムカデみたいなものが 何回となく襲ってきた。警備兵が決まったポイントに、 あるいは決まった数いるならわかるが、 なぜムカデと、それもランダムに、かつ無限に戦わねばならないのか。 今ちょっとFF6をやってみたのだが、 冒頭に戦闘メカにのりこんで炭坑に侵入するシーンがある。 そこで最初にでてきた敵がネズミ。これを戦闘メカのビームで倒す。 アホらしくはならないか?メカにのってるんだからネズミくらい 踏みつぶして無視すればよかろう。 それ以前に炭坑の守備と戦うのはシーンの一部になるが その他のわけのわからんものと戦うのはシーンでもなんでもあるまい。 一体何を表現したいのか。 旧態依然としたゲーム観そのままで作るからこういうことになる。 ストーリーやら演出やらには凝った作品として知られているが、 そういうところはおそまつもいいところである。 FFは全般にその傾向が強い。 基本的にダンジョンのような限られた空間においては、敵の配置を定めるべきである。 あらゆる場所はシナリオが進行している過程なのであり、 シナリオに必要ないものは排除せねばならない。 例外的にゆるされるのは、それによってゲーム的、いうならば戦略的、 戦術的楽しみが得られる場合だが、 たいがいのゲームの戦闘はその役を果たすにはおそまつすぎる。 従って、極端な話ランダムエンカウント0でも一向にさしつかえない。 戦闘がつまらないなら、必要ないのだ。 無制限に戦える空間が欲しければ、 ストーリーから独立した場所に別に作っておけばよい。 ストーリーを進める上でランダムエンカウントはただのジャマである。 少くとも、固定敵と、ランダム敵の比率を考える必要があろう。

Wizzardryでは、敵は固定敵、半固定敵、ランダム敵の3種類がある。 固定的はシナリオ上配置されている敵であり、重要なアイテムをもっていたりする。 半固定敵は敵の種類こそ決まっていないが、 ダンジョンの部屋に配置されており、これを倒すと宝箱が出る。 一度倒すと当分その部屋に半固定敵はでない。 そしてランダムはそのとおりランダムである。宝箱をもっていることは 極めて少ないし、ランダム敵の出現率はかなり低くなっている。 この3種類によって絶妙なゲーム性が生まれているのだ。

戦闘が何かの手段になるようでは終わりである。 あくまで楽しみの一つ、つまりは目的になるような戦闘を作らねば意味がない。 レベルあげは前に述べた手段によって、少くとも緩和されるし、 金ためについても、武器防具を買うことに判断がもう少し入れば緩和される。 「新しい町にいって、攻撃力があがるのがあったら金をためて買う」 というルーチンが固定してしまうような武器、防具の売り方はあまりにもおそまつだ ということだ。 例えば、 同じものを違う値段で売っている店があると判断に幅が出る。 さらに、武器に熟練度を設定するという手もある。 使えば使うほど性能が上がるようにしておき、 新しいのを買っても慣れないうちは古いのの方が強いが、 新しい武器をそこそこ使えば古い武器より使いやすくなる、という状況を作れば、 「大してかわんないし、まだいいか」、という判断が生まれる。 「先の町ではもっと安く売ってるかも」、という考え方ができるともっといい。 さらには、武器ごとに傾向を設けて、 戦略性をもたせるとさらにいい。 命中率、平均値、最大値、最小値、装甲との相性。 そういったものを影で設定しておくと深みが出る。 数値にして見せてしまってはいけない。「この武器なんかバラつくな」とか、 「この武器、硬い奴なぐるとよく効くぞ」とか、そういう発見が実感として あった方がおもしろいからだ。

Wizzardryは武器のダメージがXDX+X (Xは数。3D6+3は6面サイコロ3つの合計に3を足すの意味) の形で表現されていて、 たとえば1D6+7の武器と3D6+0の武器は平均値が同じだが、分布が全く違う。 そういうのが影で設定されていたため、 単純な強さで武器を決めるということができず、 好みが反映されていた。「オレはだんびらよりメイスがいいね」とかいう感じだ。 これを「攻撃力200」とかにしてしまうと何の深みもない。 ダメージなんてものは使ってみるまでわからない方がいいのだ。 それが不親切なら、 武器屋のおやじが武器の性質について言葉で説明してくれたりしてもいい。 「この武器はいいよー」 とか、「あんたのそんななまくらと比べてもらっちゃあこまるねえ」 なんて言ってくれると武器屋のおやじまでキャラが立つ。 ウソつく奴がいたりして、性格によって言葉が違うともっといい。 それでも不親切なら、ためしぎりさせてくれるようにしてもいい。 キャラが振ってみて、使い心地についてコメントを言えばいいのだ。 なんかを適当に斬って、ダメージを出してもいい。 なんにせよ、コメント次第でキャラが立つ。 また、キャラによって特定の武器を使えないという設定が多いが、 あれも味気ない。使えるが下手くそ、あるいは重くてまともに振れない、 とかいうふうにした方がいい。 「くっそーこいつやっぱ剣は苦手だ」。みたいな発見もいいではないか。 それでも使わせるという判断がアリなのもいい。 こういう時に熟練度を設けると生きてくる。 「最初はどうなるかと思ったが、結構使えるようになったなぁ」 なんてのは育てた感慨が深い。 FF2では素手が最強の武器なのだが、最初は力も弱く、 武器を持たないと本当に悲惨である。しかし、それでもしばらくそのままで 戦っていると、あっというまに武器の強さを追い抜いていく。 それがいいか悪いかといわれれば明らかに悪いのだが、 そういう種類の楽しみ方ができるのも悪くはないということである。 もちろん、熟練度には個々の武器だけなく、武器の種別によるものも設けた方が良い。 「おれ槍しか使ったことないんスけど」なんて奴に、 「剣しかねえよ。なんとか使え」「そんなぁー」ってのがいいと思うのだが。 本当は命がかかってるからそんなのは論外なのだが、 そこはゲームなので妥協である。ひのきの棒でボスを倒すような楽しみが 完全に排除されるのもまた寂しいではないか。 できたら武器を買ってやる時や装備させるときに、 キャラが「オレこんな重いのヤだよ」とか、「イメージにあいませんわ」とか セリフで表現してくれるとキャラが立ってオレ好みだ。

しかし、 こういうふうにパラメータを増やすと難易度が上がるといって嫌われる。 それがいやならば、「普通に何もかんがえなくてもクリアできるが、 考えるともっと効率的にクリアできる」、程度にしておけば問題は出ない。 そういうのが隠しパラメータなら何も考えない人は何も考えなくて済む。 やりこまなくてもおもしろいが、やりこむと異様におもしろい、 というのが理想だ。 FF3などはそういうムチャな楽しみ方ができたゲームだ。 クラス(戦士やら魔法使いやらの分類)を状況に合わせて変えて 有利に進めるのが普通なのだが、あえて最初から最後まで白魔道師4人 のみでクリアするなどということも不可能ではないようになっていた。

まあ、そんなことをやっても売上には直結しないので、誰もやるまい。 オレが気付かないような致命的な欠陥があって誰もやらないのか、 そんなものを面白がる人間が少ないのか。 どちらにせよ、放っておいても未来永劫そういうゲームは出ないだろう。 しかも今はムービーでポリゴンな時代だ。 それに、多くの人は予想以上に単調な作業に耐性がある。 オレもヒマな小学生の時はずいぶんとムダな作業をやっていたものだ。 それと同様の状態の人が多いと考えなければ、 FF8があれほど売れることは説明できまい。 確かにムービーはきれいで、絵はきれいだ。 しかし、ゲーム本体はすさまじい。 戦闘一回に3分以上かかり、かつほとんどが見ている時間だ。 かといって戦闘回数が少ないわけでもない。 何もしていないことに耐えられる人が多いという状況をみこしてあれを 作ったとすれば、スクウェアの戦略には脱帽する他ない。 でも、そんなことは知ったことではないので、 オレはオレがおもしろいと思うものを作る。 手を貸してくれる人は大歓迎だ。 その第一歩が字ゲーの汎用プログラムである。 おっと、いかん。だが今はそんな場合ではない。 小説だ、小説。明日中に第1版をあげる予定なのだから。 だが、そのまえにメシ食おう。

DQ2の戦闘MIDIを答え合わせ。記憶だけで作っていたのを、耳コピーベースに改める。 ただ、リメイク版のはアレンジがかっこ悪いので、 音以外は無視。勝手に編曲する。 それにしても、よくこんな和音思いつくものだ。 理屈では出てこない音がある。 もっともすぎやまこういちのオリジナルではないのだが、 オレ以外の誰が作ったにせよ同じことである。

カウントが11000。だからなんだといわれるとこまる。 いいかげんMIDI以外をのせねばなと思うだけである。 もっとも、明日小説をのせるつもりではいるのだが。

小説、部分部分は一旦終えた。後は構成をみなおして、 細かいところを直しまくる。これにどれくらいかかるかはわからないが、 明日一日あれば終わるだろう。 できたら明日の夕方には終わらせて、KANON本のコンテに行きたいものだ。 というか、いいかげんヤバい。 11月20までに下書きが完全に終わっていなければ絶望もいいところだ。 印刷所の手配どころか、ページ数も、題名も、何も決まっていない。 印刷所に頼む作法も知らぬのに、どうしてくれよう。 本当に冬コミに間にあうのだろうか。 「なんとかなるさ」という言葉は便利だが、 なんとかならなかった時にはその言葉の存在自体を呪うものである。

1999年10月30日

昨日はまさひろと柊(うに)が来て、ダラダラしていたが、 オレが市場疲れのせいか眠くなったので、 日が変わってしばらくしたころには解散となった。 そして、起きたら10時。メシを作るヒマもなく研究室行きだ。 干しいちじく5個を食って出る。空しい。 さすがに5分もない状態では料理もくそもない。 冷蔵庫にはあんなにいっぱい食べ物が入っているのに。

オフィシャルKANON名雪小説を読む。一時間とかからなかった。 出来が悪いとは言わないし、むしろちゃんとしているが、原作そのまんまである。 わかりやすくなるわけでもないし、 新しい驚きがあるわけでもない。 あゆ関係の部分はほとんど何もかかれていないし、 奇跡がどうのこうのの部分も記述はない。 それはそれでいいのだが、だったら原作でこと足りるだろう。 やはり二次創作の醍醐味は、かかれなかったことを表現するとか、 視点を変えてみるとかにあるのではなかろうか。 いかにおもしろいものを原作を利用してデッチあげるかが 腕の見せどころであろう。

ふと、この日記に「オレ」は似合わない気がした。 「私」にしてみても良いが、「我輩」も捨てがたい。 「ぼく」とか「ボク」にすると印象がガラっと変わっておもしろそうだ。 特に後者は効果が大きかろう。「うぐぅ」とか書いたりとか。 それはダメだ。 まあ、それは置いておいて、なぜカタカナで「オレ」なのだろう。 普段確かに「おれ」と言うので、「おれ」でいいのだが、 目立つように「オレ」にしてみたのかもしれない。 ただ、「俺」は硬いのでイヤだな、ということはある。 さあ、どうしようと考えても仕方ないので、 特に思いつくまではこのままにしよう。

小説の長さについて考える。データサイズと本のページ数の関係を 一度明確にしておこうと思ったのだ。 量的な感覚は文庫本のページ数が一番素直にわかりやすい。 うちの文庫本を調べると、だいたい1行40字から45字。 1ページ15行から18行。少ない方をとって40字15行とすると、 1ページ600字である。仮に1ページの面積の6割が字で埋まるとすると、 1ページ360字。さて、舞小説は予定では75KB前後。 2バイト文字だから半分にして37KB。 HTMLのマークアップや改行が1割弱を占めるとすれば、 34000字前後。これを360で割れば、だいたい94ページとなる。 もし1ページを45×20とすれば60ページとなる。 B5の本を仮定して24行×30字×2段としても39ページ。 別に印刷なんて考えてはいないが、 単純に読む気がするか心配になる量である。 まあ、書きおえてから考えるが。

小説の方が楽だし、小説が軌道にのったらそっちをメインにしよか、 なんて思っていたが、漫画が猛烈に描きたくなってきた。 やはり絵があるというのはおもしろい。 しかし、単に小説が辛くなっただけということもありそうなのは 否定できないところだ。 しかしマイナスな動機は見て見ぬふりをして、 プラスな動機をデッチあげて生きるのが健康に生きるコツであろう。 だから、いいのだ。オレは漫画がかきたい。それだけで良い。

1999年10月29日

市場の収穫。羅臼こんぶの耳(切りかす)1kgを1800円。 キロ5000円するものとダシの出方は同じというお買い得度よ。 羅臼こんぶは日本最強と歌われるダシの出を誇るこんぶである。 しかも煮て食うのにも向き、 ダシをとった後のこんぶは煮物にしてもおいしい。すなわち、二度おいしい。 そしてかつおぶし。 これは190g1100円とベラボーに高い。 しかしかなりの高級品らしく、期待がかかる。 なんといっても、本枯節だ。つまりかつおぶしの完成品である。 いぶっただけの荒節とは違う。いぶって、ついたタール分を洗って、 カビをつけて干して、カビをつけて干して、カビをつけて干して…。 えんえんとこれをくりかえして、もはやカビすら生えなくなったという究極の乾燥 状態だ。 それと、身欠きにしん1kg。これが1000円。 9枚入りである。ダシ汁で煮て冷蔵しておけば、 2週間は保存できる。煮るまでは冷凍しておけばいいので、 完全に近い保存食だ。というわけで、まずはダシ汁がなくては始まらない。 ダシ汁を作っておけば、いつでも煮物が作れるのだ。 そこらへんでおからでも手に入れば、炒め煮にすると栄養があっておいしい。 里芋だろうと、大根だろうと、身欠きにしんだろうとこれで煮ればいいのだ。 さらに椎茸のダシを合わせて調味すれば、瞬時にそうめんのつゆになる。 夏場にはそれもストックしておく価値があろう。 ダシをとった椎茸はそのまま煮物にして、つけあわせにすると良い。 昆布の煮物もまた味わいがある。うまそう。

さて、コストの検討といこう。 ダシ汁といっても、どうせ醤油と酒で味つけしてしまうのだから、 今のうちにやっておく。 というわけで味付けした2Lのダシを作るのに、かつおぶしが80g、こんぶが20g、 酒が180ml必要だ。醤油はカス同然なので無視できる。 つまり、かつおぶしが500円、こんぶが36円、酒が260円。 ほとんどかつおぶし代である。こんぶはただでも安い上に、 後でおかずになるのでカスのようなコストである。 合計すると、1Lで400円前後。市販のダシ汁なんかよりもはるかに安い。 あとはダシのとり方や醤油の配合比率を洗練させれば、 市販のダシとの味の差は開く一方だろう。 おいしいそうめんがうちで食えるのも遠い未来ではない。 しかし、この酒。甘いから料理に使いやすい。 たいがい酒は深い甘みを出すためにいれるのだが、 この酒はうってつけである。イヤな味がなく、 深い甘みがあり、かつ甘み以外も濃い。 しかし、飲むにはもう少し酸味が高い方がいい気もする。 どうしたものか。料理と飲用どっちを優先していたのかすらあいまいになってくる。 そもそも料理用にこんなまともな酒を買う方がおかしいといえばおかしいのだが。

実験やることないので帰る。 こういうのはいい顔をされない気もするが、 うちに帰ればいくらでもやることがあるので仕方ない。 とかいいながら「ラストハルマゲドン戦闘MIDI」の完成度をあげた。 何度聞いてもRPGの戦闘とは思えない。超兄貴の葉山というだけある。 ずっと聞いていると頭が揺れ出すので、危険だ。 しかし、ペプシマンとまぜてランダムに流しておくと、やる気がでてくる。 ただし、かけっぱなしで小説を書くと内容が崩れるので、厳禁だ。 あくまでやる気を出すまでである。

小説をかきっぱなし。大詰めといえば大詰めだが、 まだまだ辛い。あることないことデッチあげて作ったストーリーだけに、 心理描写やらなにやらでハッタリかまさねばどうにもならない。 そして、日記からもわかるように、 オレはセンス爆発系の人ではない。 頭でこねくりまわしてセンスをエミュレート(真似)するしかないのだ。 特に感情の表現ともなると「あぅー」かつ「うぐぅ」である。 結局一からストーリーを書くのとそう大して変わらない労力がかかってきている。 ああ。次小説を書く時はオリジナルにするか、好き放題できるネタにしよう。 しかし、痕の梓シナリオ完全版をオレがデッチあげてやる、という無謀な計画もある。 楓は一番人気だが、一般に楓の扱いは良い。オレがやらんでも…という気もする。 一方、梓の扱いは総じて悪い。 加えて梓シナリオは楓シナリオ同様に中途半端で、いくらでもやりようがある。 デッチあげ放題だ。 ちなみに梓はオレ内部で2番人気である。根拠はわからないが間違いなく言える。 梓はいい奴だ。いい奴で、うーん、いい奴だ。 多分に願望や属性の影響があるのだろうが、ギャルゲはそれを狙い打ちするものだ から仕方ない。 それにしても、パロディーを考え出すと、頭にキャラが住みついてくるため、 萌え度が高まって困る。 特定のキャラに異常な愛がこもった同人誌を見かけることがまれにある。 もちろん元からある愛も大きいだろうが、 考えてるうちに住みついてしまった効果もまた大きいだろう。 心の中で瑠璃子さんに問えば、 心の中の瑠璃子さんが答える。 そんな状態になった人間の書くものが おもしろくないはずがない。 オレもその境地まで辿りつきたいものである。

1999年10月28日

雨。だがオレは大阪に行かねばならない。かつおぶしのために。 そのためにまだ10時にもならないが実験にいくことにする。 くそ。どうせなら6時ころに行けばよかった。 さて、エタノールのせいか今まで忘れていたが、ゆうべ弟から電話があった。 そこで恐しい事実を知ったのだ。なんと、 弟もリーフ系3つとONE、KANONをプレイ済みだったのである。 それも、口ぶりからしておそらく全キャラ。さすがにヒマな中学生だけある。 中学生といえば、無意味にFF3で最初から最後まで白魔道師だけでクリアしたり、 ドラクエ2で全員経験値0の状態を作ってみせびらかしたりと ロクなことをしないほどヒマなものである。 我が弟もその例にもれずヒマなようだが、オレの影響のせいで ギャルゲーにまで手を出してしまった。18禁などなんのその。 オレより8歳年下だから、まだ14なのだ。 オレは今度帰る時には速いCPUと同人誌をみやげにしようと心に決めていた。

13時前。実験終了。大阪へいこう。 まあ、今回はかつおぶし用かんなが目的。デカいまないたや、ステンレスの両手鍋が 安ければ買うかもしれないが、金はそうそうない。

戦利品。かつおぶしけずり、60×30のまな板、金網杓子、干しいちじく。 それにしても干しいちじくはおいしい。コンピュータ関係はなしだ。 k6-3の新型が8000円とかになったら考えよう。一ヶ月はかかる。 小さいキーボードが欲しいが、そんなものはかつおぶしに劣る優先度だ。

今日の食事。ブロッコリーのかきソース炒めをそれだけで食う。 一株98円の品だが、一株も食うと腹がふくれる。良し。

忘れていたが、実験中に星新一の「気まぐれ指数」を読んだ。 粋な小説である。なにか現実味がありそうでないのだが、 それがこの人の味だろう。出来事の組み立てが込みいっていて、 かつ鼻につかず、おもしろい。「知的」という表現がしっくりくる。 推理物かどうかは意見が分かれるだろうが、すくなくとも 他に似ていない。

朝6時。市場へ出発。雨は降ってないだろうな。

1999年10月27日

10時くらいまでいっぺいとダラダラしながらメシを食い、 カレーソースを作った。 これでカレーパンも可能になる。 その後実験。

激闘4800コロニー。8時間。もうイヤだ。 だから、これで最後にする。最後にできるよう手を尽すことにしよう。 明朝は市場に行くので、今日は早く寝る。

いきなりPC-engine晩のラストハルマゲドンの戦闘とフィールドの曲を MIDIにしたくなった。あれは両方ともおかしい曲だ。 曲がおかしいというより、場面に合ってない。ムチャだった。 そのうち作ろう。そのうち。

オレの酒許容量。 今それを確認する実験をした。そんな状態なので、この文章がどうかはわからない。 とにかく、どれくらいでどうなるのかこの際はっきりさせようと思ったのだ。 実験は三段階。30ml、45ml、60ml。それぞれの量で一旦止めて、数分まわるのを待つ。 60mlというのには根拠があって、以前どっかでそれくらい飲んだあたりで 動けなくなって寝た覚えがあるからだ。それ以上は、次の日にダメージを残したり、 意識をなくす恐れがあるので、また今度にする。 明日は朝から用事があるのだから。 ちなみにつまみというか食い物は豆カレー。夕飯だ。 朝作ったもの。甘くて辛くてうまい。で、結果報告。 エタノール30mlで、平衡感覚が弱ってくる。ほろ酔いというあたりだろうか。 力が抜けるので、この状態だとパンチが飛ぶ。 しかし目標が定まらないのでダメという話もある。顔は赤っぽい。 45mlで、動きがおかしくなる。フラついてくる。上半身が回転運動を始める。 顔はあからさまに赤い。でもパンチは飛ぶ。 そして、60ml。階段が恐い。動く気がしない。 今そんな感じ。しかし、精神に異常はないと自分では思っているので、 実はまだまだいけるのかもしれないが、やる気がしない。 なんか動かない。うーん。なんだ。 ということは、75ml(日本酒500ml)あたりがダメージを残さない限界だろう。 数時間かけて飲むならその1.5倍くらいは大丈夫かもしれない。 しかしこの酒、量飲んでると甘い。カレーに玉葱がおおいので、 かなり甘さが増幅されているというのもあるのだろうが。 なんにせよもっとすっぱい方が好きかもしれない。 辛口ってのはすっぱいことだった気がするので、辛口にしよう。次は。 いかん。上半身の回転が止まらん。上げなくては。 しかし、こんなまともな酒こんな実験に使っていいのだろうか。 いいか。寝る。絶対に朝まで更新はない。朝早いから更新するかも。

撤回。ダメージが残った。朝5時。8時間後に動きが制限されるのはダメージである。 60mlでもちょっとダメージが残る。エタノールの代謝が遅いのだろう。 飲める酒量そのものがそう少なくなくても、これではちょっとしんどい。 とにかくだ。この程度ならまだ動ける。次の日やることを考えて、 限界を設定するとしよう。何もなければ75ml程度。何かあるなら50〜60ml程度か。

夢。ボランティアに参加してなんだかと戦う話。 途中で毒殺されても怨念となってこの世にとどまり、 運動(何のかは知らん)の存続に力を尽す。 そして新月とともになんかの力が衰えて消えてゆくという なんだかわからないすごい夢。 いったいいくつのネタが混ざっているのか想像もつかない。 夢まで酒が入ったのか。しかし、夢の中ではそういうメチャクチャなところを除けば しごくまっとうな思考で、ボランティア、いうならば一見得にならないことを するのに人数を集めるのがいかにむつかしいか、という問題が常に議論される。 シーンひとつひとつも、なかなかイカした台詞まわしだったりして、 おこることのムチャさ以外はなかなか見られる構成だ。 なぜこんな映画くさい夢を見たのだろうか。 近頃ストーリーばっか考えてるからだろうか。 ラストシーンでは(夢にラストシーンがあるというのもめずらしい) 理想のような地に足のついてないもののために人を集めるというのが、 ほとんど不可能に近いという感覚が、運動(何の運動かはわからんが)の 失敗とともに残ったメンバーに実感として訪れる。 メンバーは最後の戦い(何とかは知らん)でほとんど死んでいて、 それぞれの幽霊みたいなものが、いろいろなものにとりついて最後の会議で出席する。 そのあたりのシーンもまたいい。必勝のダルマにとりついてしゃべる奴とかは、 なかなか皮肉っぽくていいシーンだ。 そして、最後には絶望とともに解散していくのだ。 なんなんだろう。この夢は。

しかしまあ、得にならないように見えることに人をひきずりこむことのむつかしさ というのはいつも問題になる。 ひきずりこむことに意味があるかどうかもまた問題になるが、それはそれだ。 選挙の投票にしても、ゴミの分別にしても、ボランティアにしても同じで、 金にも快楽にもならないことを人にやらせるというのは至極むつかしい。 だから、そういうことを企てるときには 「やったら得になる」と思わせるか、「やらないと損をする」と 思わせるかの2通りしかない。理念とかに共鳴して勝手に一生懸命になる奴というのは えらい少数だからだ。 こういうのを社会的にやるとプロパガンダとも言うのだが、 質を無視してある行動をする人間の数を増やそうとしたらそれしかない。 教育(一般的なイメージでの)によってひとりひとり養成していくよりは、 ちょっとしたエサをちつかせて行動にかりたてる方がよほどはやい。 人になにかをさせようとする企てを「運動」と定義すると、 運動の効果はだいたい「ひとりあたりの影響力×人数」できまる。 クーデターを起こすなら上の方の軍人がいればいいだろう。 それはひとりあたりの影響力が大きいからだ。 この場合は理念ゴリ押しに近くても、 勝手に共感して参加する土台(不満)さえあれば事は動きやすい。 だが、ゴミの分別やら選挙となると、ひとりひとりの影響力が小さいために、 人数を集めなければどうしようもない。そういう時に理念ゴリ押し戦法はムダだ。 時間をかけて教育すれば可能だが、それが不可能にちかいために結局不可能である。 それをなんとかする役目の人というのがいるはずだが、 一向になんとかなる気配はない。 国家の問題の根幹はたいがい教育にあるが、そういうことなので 教育をなんとかすることもまた不可能に近いし、さしせまって今どうにかすべき問題 には効果が0である。だから、利益、つまりはエサをちらつかせるか、 やらないと損をするというイメージを流すか、2つにひとつなのだ。 まあ、国なんていう大きいことはオレの考えるべきことでもないから 置いておくにしても、 自分の望む効果のためにどういう戦法で人を集めるのが良いのか考えるのは 力の見せどころであろう。 テレビCMと、いっしょに同人誌を描こうと誘うのでは おのずと方法は異なるのである。 物をつくって見せる時にもこういう思考は有用だ。 「不特定多数の人間に読ませる漫画を描く」にはそれだけのエサがなくてはいけない。

音。なんだろうと外を見る。 なんてこった。雨だと。雨だと言うのか。遺感ながら市場は明日に延期する。 でも実験終わったら大阪はいこ。今日かつおぶしが使えないことが 確定してしまったみゅー。語尾につけるとみゅーみゅーして良い。 どんなイヤなことを書いても許されそうに思えるのは錯覚だとしても。

1999年10月26日

小説が終わらない。まだ部分しか書いてない。 それというのも解釈がむつかしい部分が異様に多いからだ。 いや、はっきり言おう。 解釈がむつかしいというより、あからさまに矛盾しているのである。 KANON。細かく見ると、えらいいいかげんに見えてくる。 ある程度ムチャな解釈もやむを得まい。 より話として美しくなるように、より心情に即した方に解釈を曲げる。 多少「ここおかしいんじゃないの」てのがあっても、それは仕方ない。 それにしても、このままじゃ味気ないただのあらすじだ。 味気を足していったら倍以上になる。気がついたら150KBなんてのはシャレにならんぞ。

きのうの予想は外れた。太陽の奴め、なかなかやる。 どうしても秋でいたいらしい。だが、そうは問屋が卸さない。 明日は寒いに違いない。だが、オレとしてはあたたかい方が良いのだ。

弁当にジャムパンをもっていった。腹がふくれた。これはいい。 是非カレーパンを作れるようにパンにつけるための豆カレーも常備しておこう。 ガラでダシをとらねばならんな。野菜くずを使う時が来た。 セロリの茎ももったいないがストックに使ってしまえ。 というわけで、1.2Lタッパーを追加しよう。ダシ汁保存用だ。 かつお・こんぶダシ用4個、鷄ガラ・野菜ダシ用4個。 一個を冷蔵庫に、残りを冷凍庫に保管すればいつでも使える。 冷凍庫の棚板を外せば高いものも入る。

今日は鮭のアラと里芋、大根の煮物。調味料は酒だけ。 まずは鮭のアラ一匹分を水につけて塩を出す。 2時間くらいやらないとしょっぱくなる。 そしたら、煮て、大根と里芋をいれて、やわくなったら終わり。 塩は鮭から十分でる。うまみも鮭から十分でる。甘味は酒でおぎなう。 完璧。 鍋いっぱいできるので、オレ一人だと2日はもつ。 何回にもわけて使うのも面倒だ。 アラは一番場所を食うので、買ってきた日に使ってしまった方がいいかもしれない。 これからはそうしよう。冷凍庫の限られたスペースは有効に使わねばならない。

まさひろにビデオを借りに例会に行く。 するとまさひろがKANON小説をもってきた。オフィシャルなもので、 同人でないちゃんとした売りものだ。名雪小説。 5人全員小説化するつもりらしい。舞をうまく小説にできるか お手並みを拝見したいところだが、拝見するころまでにオレのが できていなかったらどうしようもなかろう。

まさひろからビデオを借りる。 いろいろと見るが、わかったのは、BIG-Oがバカだということだ。 最初の5分くらいは完全にダマされた。 シブい系アニメだと思ったのは大きな間違いで、 これはバカだ。それ以上は書かない。見て確認してほしい。 それと、ターンAはおもしろいなあということをあらためて確認した。 52話終わったらまとめて見よう。こんなおもしろいアニメは近頃はない。 というわけで、BIG-OとターンAだ。 ミトはおもしろいが、ちゃんとできがいい作品で、 印象そのものは強くない。時間があれば見たいが、その程度だ。 おじゃまドレミは、ちゃんとしているが、オレがおもしろがるものでもなさそう。 CCさくらは一話くらいまともに見ておかねばならんなーと思うが、 趣味ではなさそうな気もする。

いっぺいがメシを食いにくる。 大根と里芋の鮭あら煮がしょっぱかった。 塩抜きが不十分だったようだ。 次は2時間くらい流水で抜こう。ためた水では抜けないらしい。 それにしてもちりめんじゃこと大根おろしの組みあわせはすばらしい。 食いおわり一緒にBIG-Oを見たあと、いっぺいは寝てしまった。

1999年10月25日

買い物に行くことにする。が、腹が減った。 昨日作っておいたパンの生地を焼いて蜂蜜をかけて食う。 うまい。焼いているあいだに舞小説を一節書く。 食いおわったら、もうすっかり腹がふくれていた。 いくら分だっただろう。作った生地の4分の1くらいだ。 作った生地は小麦粉3カップ分だから、 仮に1kgが8カップ程度としても、 50円しないことになる。並みの食パン三枚分はかるく腹がふくれる。 もちろん栄養は比ではない。 このパンは弁当や朝飯にぴったりである。 ますますジャムを常備する必要に迫られてきた。 蜂蜜だけでは飽きるだろう。 さて、では出かけるとしようか。

太陽の奴め名残惜しいのか、ずいぶんハデに顔を出す。おかげで暖かい。 だが、これも最後のあがきだ。半袖で外に出られるのも今日が最後だろう。 修羅場のあたりにこの陽気だったら彼等も寒さ にこごえながら原稿を描かずに済むのに。 あれは本当に辛い。寝ても回復せず、むしろ消耗する。 炊きこみごはんの差しいれでももっていってあげようか。

三条のエラソウ系スーパーで、小麦全粒粉を安く発見。 キロ400円。30円安い。スパイス系も安く充実している。 さらに丸元の本に書いてあったインデラカレー粉を発見。 400g1200円と破格に安い。この前買った奴は75g400円だから倍近く安い。 とりあえずそれも買った。下のくだもの売り場も見てみると、変なもの発見。 赤バナナ。古くなったのか半額だった。即買う。 それを食いながら錦市場を回る。このバナナ、断面が三角形で、ちょっと味が違う。 水気が少ないかもしれない。回るうちにそば粉を発見したが、 キロ800円と常備するには高い。 大豆もキロ1200円からで、常備するのはあまりにもしんどい。 中央卸売市場でも高ければあきらめるしかなかろう。 かつおぶしも売っているが、どうせ買うなら中央卸売市場に行こう。 その前にかんながいるので、一度大阪に行かねばならない。 それにしても削りたてのかつおぶしの香りはなんともいえない。 けずって売ってるものがニセモノに思えるほどの香りだ。 あれでダシとったら…、急ごう。かつおぶしけずり。 遅くとも来週にはなんとかせねば。

酒の方はたまたま見つけた酒屋で買った。 品揃えがよくて、酒ごとに一応の説明がつけてあるのが目についたのだ。 四条の方にはデカい店があるのではないかと思ったが、 見つからなかったのである。 観光客やら若いのがたむろするあたりには期待できないかもしれない。 で、その酒屋のおっさんにどれがいいか聞いたのだが、 「冷やならこれか、いや、これか…」と2本の間で悩みだした。 で、結局、「これだな」といって差したのが、「久寿玉」という酒。 2500円。純米吟醸。 それと「天狗舞」というので迷っていたらしい。こっちは2800円。山廃純米。 で、まあ一発目だしと思ってとりあえず買った。 おっさんがいわく、「冷やだよ。絶対冷やだからね」。 こだわりだ。

出町柳商店街でりんご10個380円というのを発見。 小さめで硬そうだったが、ジャムにするならそれでいい。 ついでにかぼちゃを買った。 さらにブロッコリーと大根を買う。

北上してディスカウント店ジャンプを目指す。 ジャンプに着いて手元の袋を見ると、なんと穴があいている。 大根がない。どうやらここへくるまでに袋を突きやぶって落ちたらしい。 ちょっと戻ってみるが、ない。相当手前で落としたようだ。 誰かが拾ったか、そのへんのガキが蹴とばして遊んだか。 転がって車に轢かれたか。 大根の運命を考えると空しくなる。

ジャンプでタッパーと密封びんを買いこむ。 タッパーは料理保存用と、小麦粉や豆の保存用だ。 密封びんは当然ジャム用である。 シナモンも買ったし、準備は万全だ。 背中のリュックが異常に重くなったが、これで終わり。

りんごを皮をむいて種を取り、ビタクラフトで蒸す。 さすがに10個むくのは疲れた。ちりめんじゃこをほおばりながら皮をむく。 うまい。 腹が減ったので、豆も煮る。今度はカレー風味にしよう。 今やカレー粉は大量に安く手に入るのだ。 なんにでも適当にかければ香りがつくという便利な代物である。 それにカレー粉を入れて作ると保存が効く。 と、思いついた。カレー風味にして玉葱を大量にいれたダールって、 煮詰めたらソースしてかなりいいんじゃなかろうか。もちろん鳥ガラストックで。 それは豆カレーだな。例のパンにつけて食えばおいしいはずだ。 生地にそれをいれてから焼けば立派なカレーパンだ。 弁当によろしい。広がる食生活。

りんごが煮えた。味見。うまい。シナモンで香りをつけ、 甘味を蜂蜜でちょっとだけ補強する。さて、びんに詰めるか。 っと、入りきらない。1リットルのびんに入りきらないほど作ってしまった。 タッパーにいれて、こちらを最優先で食うことにする。 さしあたってパンを焼いてつけて食ってみるか。 いや、パンの生地のなかに入れてから焼こう。 それに成功すればべんとうとして完璧だ。

りんごジャムパン。失敗点1。ジャムの煮詰め方が足りない。 もう少しにつめてドロドロにする。失敗点2。ジャムの甘さが足りない。 そのまま食うには甘くても、パンなんかにちょっと詰めて食うには弱いようだ。 生ではあんなに甘いりんごもこうなると残念ながら甘くなくなる。 加熱の罪だ。だが、こればかりは仕方ない。蜂蜜を足そう。 蜂蜜の主成分は加熱では飛ばない成分だったはずだ。 意地で砂糖は使わない。いっそアスパルテーム(砂糖の500倍甘い物質)でもあったら その方がいいのかもしれないが。 というわけで、煮直す。

カレー風味ダール。カレーがつよすぎる。 カレー粉の量も問題だし、やはり玉葱がほしい。 鳥ガラのダシ汁もほしい。 しかし、それらがなくてもけっこうおいしい。ちょっと味のバランスが悪いだけだ。 これで確信した。使える。これをメシにかけて食ってもうまそうなほどだ。 しかし辛い。

酒の味見。これは飲める。なめられるじゃない。 飲める、だ。アルコールの苦みもやわらかくなっているし、 甘すぎて気持ち悪くなることもない。 いうならば酒臭くない。 淡麗辛口っていうのはこういうものらしい。 しかし、これを料理にたたきこむのはもったいないんじゃなかろうか。 アホとの宴会で飲んだ酒にくらべると味が薄いかもしれないが、 最初はこれくらいだと慣れるのにいい。 味がわかってきたら、濃醇な酒もおいしく感じるようになるだろう。 越の寒梅って奴は濃い酒だったので、 すごく上等なのはわかったけれどもオレにはまだしんどかったのである。

今日の食費。ダール800ml(70円)、赤バナナ(125円)、自作パン(80円)、 調味料各種及びちりめんじゃこ数グラム(合計50円以下)、 で推定350円以下。それで満足である。 赤バナナがなかったら一体いくらになることか。 食費月1万円なんてのは実は簡単なことなのではなかろうか。

1999年10月24日

新しい豆スープ。グリーン・スプリット・ピー(乾燥グリーンピース)のスープだ。 ダールとはまた違った味。グリーン・スプリット・ピー1合を水(ストック)6合で煮る。 その間にたまねぎ一個のうすぎり、にんじん一本の乱切り、 セロリ一本のうすぎりを炒めておく。 豆を30分煮たらそれらをいっしょにして、さらに45分煮る。 その後塩とこしょうで味をととのえて終わり。 ほとんど塩はいれなくてもいいし、こしょうは香り程度。 こしょうを入れすぎていまちょっと後悔しているところだ。 セロリの強すぎる風味はやわらかくなるため、 オレのようなセロリ嫌いでも大丈夫。 甘くて、香りがよくて、幸せである。 普通グリーンピースといってるのはゆでて、着色して、さらに洗ったものだから、 味など残っていない。イヤな臭いだけがのこる。 それで子供がグリーンピース嫌いになるのだ。 コストは、1.2Lで300円以内。 ダールは1.6Lで130円という破格に安いスープだが、そればかりでも飽きるだろう。

カレー粉を手にいれた。75g400円。かなり安い部類である。 これでカレーを作ることができる。 作るのが楽で、かつ冷凍保存できるカレーを開発できるかどうかが問題だ。 野菜主体のカレーは冷凍に向かないため、鶏肉カレーになる。 野菜くずが溜まったら挑戦しよう。

ロールド・オート、つまりローラで押しつぶしたからす麦は見つからなかったが、 つぶした大麦が手に入った。 800g350円。安い。これをさっそく例のスープに入れてみる。 10分くらいでやわらかくなる。 腹はふくれるし、繊維もとれる。健康にまた一歩近づいた。

小麦全粒粉。精製しないで全部粉にしてしまった小麦粉である。 1Kg430円と並のものよりは高いにしても、 米はキロ450円だから同等である。ちなみに豆はキロ900円前後だ。 これを水でこねて寝かせ、焼けばパンができる。 もっともパンというには硬すぎるのでせんべいの方が近いかもしれない。 蜂蜜をかけて食うと、またうまい。味が濃いのがいい。 おそらくイーストをいれて発酵させればやわらかくもなるんだろうが、 やわくなっても場所を食うだけでいいことはない。 これを弁当としてもっていくようにすれば、 昼飯抜きにならずに済む。 りんごジャムを作っておけば、さらにいい。 ジャムにするのに一番いい果物は、 値段から言って間違いなくりんごである。 特売のショボいりんごを大量に仕入れて作ろう。 これで甘いもんを食いたい欲求がおさえられる。 砂糖をとることなくだ。

ポップコーン。 そのふくらせる前のとうもろこしを手にいれた。 150g108円。キロ720円とこれも安い。 キロで手にいれる手段が見つかればもっと安いだろう。 加熱するだけなので、おやつとして最適である。 ちょっと何か食いたい時に重宝するだろう。 しかもとうもろこしだけに栄養がある。 そしてうまい。火加減がむつかしく、はじけない粒が残ったりもするが、 数回作るうちに熟練するだろう。 これはもうキロで仕入れねばならん。しょっちゅう食うに決まっている。 下手したら一日これだけしか食わないということもありうるほどいい。 だが問題が一つ。止まらん。

今日食ってばっかだ。だが考えてみれば、これだけ食ってても 食費は300(スープ)+60(とうもろこし)+20(パン)+なにかで400円。 今日でこれならどうしたって500円を超えることはない。 だが、また問題がある。うますぎるのだ。 確かに栄養があるから少量でも十分で、腹にもたまる。 だが、それは肉体の欲求であって、精神の欲求ではない。 うまいものは腹いっぱい食べたくなるのが人情ではないか。 いくら安くて栄養があるにしても、食べすぎれば金がかさむ。 量が少なくても腹いっぱいになるように慣れる必要がありそうだ。 もっともちょっと前にくらべればはるかに胃袋は小さくなってはいるのだが。

冷凍庫の中の製氷器やその他のジャマなものをドライバーで外す。 これで容積が増した。4Lタッパー2つくらいは入る。 カレーと牛丼をおこう。

酒だ酒。良月に基本は教えてもらった。 とりあえず、デカい酒屋を探すことにしよう。 三条に行って穀物を探すのと一緒に酒屋も探すことにする。 そろそろ酒の味がわかるくらいになっておくのも悪くないだろう。 宴会がもっと楽しくなるはずだ。 明日が楽しみである。では小説を書こう。

ストーブド・ポテトを作る。 この前はさつまいもでいまひとつだったが、今度は正真正銘のじゃがいもである。 まだ食うのか。 今日はじゃがいもが異様に安かったのでいいのである。 厚目に輪切りにして、ビタクラフトで焼くだけ。 アホみたいな料理だが、これがまたとてもおいしいのだ。

今日の実験はいいデータを残した。丸元の本にはまだウソが見えない。 オレ用にカスタマイズすれば、安くて、楽で、健康な食生活が保証されるだろう。 一人ぐらしなのと、冷凍庫が小さいのが不利なので、カスタマイズは必須である。 豆類、穀類を基本装備として、 そこにちりめんじゃこや鮭といった保存が効く魚を加えるのがよかろう。 メシを炊いた時には鮭とちりめんじゃこが物をいう。 メシを炊く気がしない時は豆のスープがはばをきかせる。 そのためのたまねぎの備蓄である。 さらにじゃがいもで即席に腹をうめる。スープにいれてもおいしい。 小麦粉は弁当用のパンに使う。 野菜を買った時にはビタクラフトで蒸せばいいし、 大根なんかだったらダシ汁が味方だ。 鮭のアラも野菜を煮るのにいいダシを提供してくれる。 冷蔵庫にはそこそこあきがあるので、 ダシ汁を保存することくらいはできる。そのためにもいいかつおぶしを大量に仕入れる のは絶対の条件なのだ。かんなもいる。 確かに最初は金はかかるが、いちど軌道にのってしまえばメチャクチャ安くてすむ。 これだけ種類があれば飽きることもあるまい。

身欠きにしんだ。あれがいい。保存が効いて、おいしくて、栄養がある。 市場で箱で買ってこよう。キロ1500円くらいらしい。それは安いぞ。 にしんそばとかで食ったことはあるが、甘くてしつこかった。 ちゃんと煮れば相当うまいに違いない。

1999年10月23日

漢字仮名変換プログラム。 全部カタカナやひらがなやローマ字になる。 何に使うのかは知らないが、何に使うんだろう。 やるとしたら、日本語ファイル名が読めない環境のために、 それをかたっぱしからローマ字にするくらいか。 もっとも、大阪弁変換プログラムより実用性はある。

久しぶりに大阪弁変換プログラムを使ってみる。 あいかわらずメチャクチャな変換だ。 日記をこれにかけたらさわやかになるのだろうか。 置いてみよう(大阪弁版)。

道場は蹴り組手の日。久しぶりに拳法日記を書こう。 調子がいいのは食い物のせいか、気分のせいか。

1000円だけおろして風呂に行く。 実はもう仕送りは入っているのだが、 月が変わる前に手を出すのは避けたい。だから1000円。 いくらなんでも2週間フロ無しはオレがよくても会う人に悪かろう。 風呂屋。ふと見ると体脂肪計がある。計ると9%。体重は58.6Kg。 今まで59Kg以下になったことはなかったのだが、 ついにここまで来たという感じだ。 計算上、55Kgでヤバくなる。 この健康的でありながらカロリーの足りない生活は、 栄養のバランスを崩すことなく体重をどんどん奪っていくらしい。 体の調子はいい。大便は黄色い。水に浮く。 健康そのものだ。だが、この体重。 筋肉が足りないのはわかっているが、どうしよう。 今天一の大を食ったらどうなるのか非常に興味がある。 この前は普通のラーメンの大で腹痛に悩まされた。 天一の大となればタダではすむまい。ゲロくらいは覚悟せねばならん。 本当は二郎で試したいところだけれど、おそらく大は食い切ることもできまい。 ああ、財布には758円。天一が食える。実験してえ。腹も減った。 おっと、研究室いってピペット洗わねば。6時間水を通すのだが、 6時ごろにやってしまったので、日が変わる今ごろになって回収せねばならんのだ。 ああ、なんということだ。外に行く口実ができてしまったではないか。 葛藤の中、研究室に向かおう。現在23時55分。

ピペットを洗った後、帰る途中にそれはあった。 結論。ダメだ。もう食えん。食わんぞ。 まず、臭いからしてヤバい。 食ってみれば明らかにヤバい。 ナトリウム。動物油。炭水化物。 不健康な食生活をしていれば、これでも栄養があっていいのだろうが、 オレの今の生活に天一を放り込むのはムチャというものである。 実験という意味で特大にしたのだが、 量的にも質的にも今のオレには耐えられないものだった。 満足な結果である。だが、胃が痛い。吐き気がする。動けない。 明日は豆スープで十分だろう。 「カロリーを取りすぎた。遺感ながら明日の食事を放棄する」 ドズルはかっこいいと思うが、どうか。

mp3をやっぱりまともな音質にすることにした。 ステレオにするのは無駄が大きいにしても、 モノラル44100Hz16Bitで、ビットレート64kb/sは標準だ。 というわけで、またエンコードしなおす。 そのかわり、どうでもいいものはmp3にしない。 ネタ的におもしろいものだけにする。

1999年10月22日

新しいmp3エンコーダを手にいれる。 今までのはbladeenc、今度のはgogoである。 音がマシだ。元のを十分減らしておけば、そこそこになる。 16000Hz、8ビットにすれば、 ビットレート16kb/sでも聞こえないことはない。 チラチラウニョウニョいってはいるが、まあサンプルだしこんなのでもよかろう。 そもそも同じプログラムとパッチを集めれば同じ音が鳴るのだから、 mp3にして置くのも大した意味はないのである。パッチもソフトもタダなのだから。

今日の食事はダール。豆スープだ。 たまねぎとにんにくを炒め、ローリエとターメリック、 それに主役の豆をいれて弱火で煮る。 45分程度で食えるようになり、一時間半もすると豆がくずれる。 好きなところで火をとめてレモンと塩で調味してできあがり。 簡単で、うまい。 コストも安い。8人分(1.6L)でたまねぎ2個、にんにく2片、スプリット・ピー(乾燥 いんげん豆)1カップ。200円もしない。

さいふに98円。フロにも行けない。

1999年10月21日

掲示板で「少女の檻」(kanon舞テーマ)をつくらないのかときかれたので、 一秒で了承。めんどうだったのは、 上でちらちら鳴っている音。そういう音色はみつからないので、 適当な楽器を超高音でちらちらさせた。 そうして原曲と聞きくらべると結構似ている。 おもしろいのでmp3版もおこう。

今日の食事はさつまいも。 厚めに輪切りにしてビタクラフトで20分弱火。 じゃがいもでやればストーブドポテトというれっきとした スコットランド料理である。 だから今日はイモの日。 ただ、味はいいが ボソボソして食べにくい。 じゃがいもより水分が少ないらしい。 残り半分は少し水を足して蒸すことにする。 今日食うものがイモ3本というのは幸せなのか、不幸なのか。

小泉氏の家に行って、メシを食わしてもらう。 ついでにいろいろともらってくるが、もらったフロッピーが読めない。 IOエラー。仕方ない。 ICQを立ちあげるとまさひろが。しばらく話すうちに、 いきなりICQが落ちる。つなげようとしても"server is busy"。 つながらない。どういうことだ。やはりタダでやってるというのはこういうことか。

1999年10月20日

心がやけに落ちついていて、日記に書いてウサばらしをしたくなるようなことがない。 悩みというのは去ってしまえばなんてことないものである。 しかしまあ、そういうことにこだわって苦しむのがオレの性分なので、 またほどなく襲ってはくるだろう。だが、次はもっと高いレベルでの悩みのはずだ。 ところで、高レベルの悩みってなんだろう。

実験2400コロニー3時間半。オレのコロニーつつき能力も限界まで高速化されたようだ。 毎週2000〜3000のコロニーを培地から培地へとつまようじで移す。 慣れてきて別のことを考えながらできるため、辛さそのものは減ってきたのだが、 空しさだけはいかんともしがたい。パン工場のバイトなんてのはこれ以上に 辛いのだろう。金がもらえてもオレには耐えられない気がする。

全財産250円。だが恐れることはない。備蓄があるではないか。 今日は4時ごろに一回しか食っていないが、玄米にとろろかけてねぎを刻み、 鮭の刺身がおかずというやけに豪華なものだ。 これが豪華かどうか確証がるわけではないが、 少くともうまいし健康的である。このペースなら月末までは軽くもつだろう。 鮭とちりめんじゃこのすばらしさは何物にも換えがたい。魚だ。 だが、金はあった方がいいし、別の物も食いたい。 誰か材料もって遊びにこんだろうか。 今日の句。 「米食って、野菜も食って、魚食う。肉の入る間、あると思うか」

小説がすすまない。実験のせいにするのもいけないが、実験のせいだろう。 十分に妄想して頭をあたためておかないと到底書けないのだ。 コロニーをつつきながら妄想にひたればよいと思うだろうが、 作業しながらひたれる妄想レベルなどたかが知れているし、そもそもそれはどうか。 帰ってから妄想にひたりはじめても、 書ける状態にあったまるころには眠くなるのである。 小説には漫画とは違った辛さがあるもののようだ。

mp3がデカいので、32000Hz8bitに落としてビットレートを40kb/sにした。 ダッタリラも3分の2くらいになった。 これというのもオレの作った曲をmp3にしたらとんでもなくデカかったからだ。 減らして700KB超。うちで最大のファイルである。 2分もあれば仕方がないといえば仕方がない。 それにしても、作曲ってのはむつかしい。 何がむつかしいって、他のに似ないようにすることだ。 才能というかセンスというか、そんなものの重要度が高い気がする。 適当なBGMならまだしも、まともに印象にのこるものを書くのは無理そうだ。 がんばってどうにかなる気がしない。

なぜか知らんが、 ペプシマンのテーマをMIDIにしたくなった。 誰かあのとんでもないアレンジバージョンをもっていはいないだろうか。 「ペープシッ、プシッ、プシッ、プシッ、…」。 あれはおかしい。しかし、誰かが作ってたらつまらん。探してみよう。 探してみた。みつからない。穴場だ。余計に作りたくなった。 とりぜず記憶だけで作ってみよう。

カレーだ。カツカレーは環境的にしんどいのでやらないが、 せめてカレーをつくろう。カレーを大量に作って、分けて冷凍保存。 これでいつでもカレーが食える。鳥一羽丸ごと使ったカレーだ。 牛丼とカレーを備蓄に加えれば、根拠はわからないが、無敵であろう。 残念ながらクレープやイチゴサンデー、 ワッフルなどの菓子類はなんともならないので、 牛丼とカレーあたりで良しとしよう。そういえばさつまいもがあったな。 相当に嫌いじゃないぞ。

鮭の腹身は塩がききすぎていてしょっぱい。水につけて抜くようにしよう。 これはナトリウムのとりすぎだ。

書くことないなと思っていたが、なんとかなるものだ。 内容のないことを水増しして書くのがどうかとも思うが、 エンターテインメントに内容がなければならないと決まっているわけでもあるまい という言い訳。

1999年10月19日

昨日作ったダッタリラが気になるので、作り直すことにした。 パートごとにしっかり分け、和音をいじったところ、だいぶかっこよくなった。 シンバルとティンパニはすばらしいですな。 またつまらぬMIDIを作ってしまった。そんな暇ないのに。 しかし、実験があったりすると妄想が途切れるので、 小説を書くのは辛くなる。 漫画だったらある程度いけばあとは作業で、 しかもこれ以上手を加えられないという点が必ず来るものなのだが、 小説の場合最後の最後まで手を加えられるところが痛い。

さて、金はない。あと10日である。こういう時に大量に仕入れた食料がありがたい。 米。豆。鮭。ちりめんじゃこ。じゃがいも。オレは無敵だ。 今日はポテトサラダに再挑戦しよう。 前は油がオリーブ油だったために臭いがすごかった。 今度はキャノーラ油、つまりは菜種油である。 これなら無臭に近いから、酢の臭いと競合することもないだろう。 いもはうまいのだ。皮をむいてゆでている人は絶対に味わえないこの味である。 皮ごとゆでるのがよろしい。

1999年10月18日

昼頃おきてきて、舞小説。 思いのほか小説が大変なことがわかる。 漫画より作業量は少ないかもしれないが、 細い描写ができる分だけ細いところまで考えなければならない。 これがなかなか大変である。 早くしないと漫画を描くのに支障を来す。

牛丼だが、もうひとつ改良点がみつかった。 油である。肉は油がついている。 これがちとうるさい。油っこいのだ。 そこで、次からは肉だけを少量の水でやわらかくなるまで煮て、 肉と汁をわけた後、汁を一度冷やしてかたまっている油を取りのぞく。 肉の油は室温では固体なので簡単にとれる。ザルで漉すだけでいい。 圧力釜なんかで煮てしまうと、肉のゼラチン質が溶けてしまって、 油だかゼラチンだかわからなくなるため、分離もできないし、 肉そのものの味も失われる。 ビタクラフトでの低温かつ水をほとんど使わない加熱なら、 やわらかくはなりつつゼラチンは溶けないという状態になる。 これは今回確認済みである。 その後ダシ汁や炒めたたまねぎと煮る。 もちろん煮汁はいっしょにする。肉のダシを捨てるような愚かなマネはしない。 こうすればかなり油がとれてしつこくない味になるし、 うまみを損うこともない。また、ダシ汁を加熱する時間も減るから、 よりダシの味が生きる。 あとはダシ汁を少し濃い目に作ればかなりの味になるだろう。 メシにかけることを考えると、ちと濃い方がおいしい。 醤油や塩が濃くなるわけではないから、健康に悪いということもない。 ダシは栄養なのである。というわけで、 来月はいい昆布といいかつおぶしを仕入れよう。 ちなみに材料はスジ肉300g、たまねぎ3個、かつおぶし30g、こんぶ10g、酒半カップ。 5杯分はできる。600円かかっていない。 米代なんて一合63円だから、一杯一合でも180円前後である。 工夫次第では牛丼屋をはるかに超える味をたたきだせるだろう。 作った煮込みを冷凍しておけば メシを炊くだけでいつでも食べられる。 ああ、もうひとつ改良可能性。生臭さだ。 肉を煮るときにスパイスを入れるといいかもしれない。 八角だろうか。肉を煮る時にはメジャーなスパイスである。 まあ、試してみればわかる。 満足のいく作り方がみつかったら、肉をキロで仕入れてきて 大量に作って冷凍しておこう。もっと安くなるし、一回の手間で済む。 KANON熱が冷めたら牛丼なんか食いたくなくなる気もするのだが、それはそれ。 ところで、佐祐理さんと舞がボケツコミをしながら 牛丼の作り方を説明する漫画っておもろそうだ。 料理漫画って描いてみたいし。 ああ、とめどなくロクでもない考えが浮かぶ。小説小説。

BGMを自分MIDIにしていると、急に改良したくなる。 近頃のMIDIの改良はそういうことだ。 音量のバランスや曲の表情となると直すところは尽きない。 また、音色も128種類把握したわけではないので、 「こっちのもいいかも」ってことが頻繁におこる。 回りでMIDIで遊ぶ人間が増えてきて、 そのうえなかなかのスキルをもっている人間が多いため、 オレが焦ってきたというのもある。 記憶だけであんなものを作られてはヴァイオリン10年以上という誇りが 木ッ端微塵ではないか。リズムや打楽器の配置では 現代音楽に親しんだ連中には勝ち目がないにしても、 曲の表情や、ハーモニーの美しさ、テンポの緩急などでは勝たねば クラシック人として情けなかろう。 お遊びで始めたMIDIだが、そこそこ燃える。 なんでも勝負にしてしまうオレは、やはり社会の中にしかいられないらしい。

舞小説。ギャー。お前苦労してきたんだな、と自分で勝手にでっちあげたストーリーで 感情移入するオレ。とりあえず個々の部分を荒くつくり、 次にそれを並べ換え、あるいは挿入して構成を整え、 最後に全体の表現を修正してまわる予定。 プログラム技法でいうとトップダウンとボトムアップのあいのこだ。 やっと5分の1ってところか。それにしても、原作がいかにムチャかが よくわかる。これをムチャじゃなくすのがオレの役目だ。勝手にそう思う。

BGMが気になって、しばしば中断して改良。 おいおい。集中するんじゃなかったのか。 ところで、牛丼の汁をボールにいれて冷蔵庫で冷して油を分離してみた。 若干ダシも失われたが、おかげでだいぶ食べやすく、食った後の腹の調子もいい。 やはり油は捨てるべきだ。

おい。相沢祐一。制裁だ制裁。 小説書いてると、どうもこいつの性格が気になる。 10歳のころの舞との思い出シーンのところだ。 舞の身のうえを聞いていながら、最後の別れの日のあの対応はなんだ。 この野郎。まあ、ガキだから仕方ないし、実際これは仕方ないのだが、 もう少し言いようがないか?おい。 それにしても一人称にすると舞がとたんに頭がいいキャラになっちまう。 せりふの一環として状況説明をするんだから、 状況を説明するだけの頭はあるように感じられてしまうのだ。 でも、仕方ないよね。とりあえず全体を書き終えてから修正してまわる。 それでどこまで舞になるか。

パクリはオリジナルより容易い。常識である。 舞シナリオを舞の一人称にするというのは、 舞のサイドストーリーをひとつ考えるよりもパクリ度が高い行為だ。 そのまんまといっても過言ではない。二次創作としては低レベルもいいところで、 素材引用に引っからないか気が気ではない。 それだけにより安易なはずである。しかしどうだ。 どーでもいいサイドストーリーならいくらでも浮かぶが、 すでにあるストーリーの視点を変えることがこんなにむつかしいとは。 これが名雪や栞なら簡単だ。あゆでもなんとかなる。 香里でもいい。佐祐理でもいい。まことでもまあ、なんとかなる。 だが、舞だけは、舞だけは勘弁だ。 元の味を残しつつ一人称にするのは不可能とも思える。 どうしても悟った感じになってしまうのだ。 シナリオライターすら避けて通った道だけに、 オレなどは入ることも許されないような道だった。 でも、仕方ないね。いまさら。 シナリオ解釈のひとつとしてとってもらおう。 「舞じゃねえ」という意見を封じられるほどの出来にはなりそうにないわ。 口惜しや。

「おのれ祐一!そこに直れ!叩き斬ってくれるわ!」オレは叫ぶ。 ちなみに、オレも狭いのと暗いのが嫌いだ。それはいいとして、 やっと、祐一と舞の一回目の別れのシーンを書いた。 くっそー。ガキって残酷なんだな。というか、こいつガキじゃねえ。 なんで麻枝の書くガキはこうなのか。こんなガキ見たことねえ。 アクセントは「と」。ここのセリフだけは変えちまいたい。 でも、変えたら祐一の性格が変わっちまう。 ギャー。後で考えよう。

寒くなって参りました。みなさんいかがお過ごしでしょうか。 さて、寒いといえば冬ですが、冬といえば何が思いうかぶでしょう。 もし、ONE、KANON、White Albumのうちどれかだったら、 あなたは私の同志です。あきらめて私といっしょに堕ちましょう。 同級生2だったら、同志ではないにしてもあなたがダメなことは私が保証します。 True Love Story だった場合、あなたは相当なダメ人間です。 あれは春も夏もあるゲームで、冬ゲーというわけでもないのですから。 それにもかかわらず一発で浮かぶとすると、 それは末期症状です。やっぱり中里さんですか?

舞過去編を書く。がんばってるな、舞。またもや勝手なでっちあげに、 またもや勝手に泣きそうになりながら書く。 そして当然祐一は制裁だ。しかしまあ、オレ文章下手くそだな。 この日記の文体そのまんまだから、このままじゃゲーラゲーラ笑っちまうよ。 後で直してまわろ。次はハラキリ編。それはいいとして長いよ、日記。 ま、今日は楽しい文章ばっかだし、いいや。

牛丼改良点。酒だ酒。今使ってるのは残ってた紹興酒。 臭いがキツい。香りがいいといえないことはないが、何か合わない。 ここはやはり日本酒で勝負だろう。コメパワーだ。 しかし、料理酒を使うとマズい。やはりちゃんとした酒か。 たまに飲めるとなおいいだろう。なんといってもオレは酒が飲めなさすぎる。 たまになめて慣らしておかないと、アホどもとの宴会の時にもったいない。 というわけで、そんなに高くなくてオレでものめそうな酒をなんとか調達しよう。 月が変わってからの話だが。

小泉氏がメシ食いにくる。メシ代として舞を書いてもらう。 その間オレは小説も書く気がせずMIDIを作ることにした。 ダッタリラといわれたドラクエIIの戦闘だ。 ファミコン音楽史に残るインパクトのある曲である。 気づかぬうちにダッタリラ〜と歌っていた経験のある人は多いに違いない。 ちなみにこれもすぎやまこういちの例にもれずとあるクラシックのパクリなのだが、 そんなことは問題ではないのである。 というまに小泉氏の絵が完成。 ちょうどいいので10000カウント記念に著作権の3分の1を頂くことにした。 メシ代である。というわけで、しばらく表紙に飾ろう。

朝まで話した。自分は何なのか。自分はどういう性質を持っているのか。 何がしたいのか。何ができるのか。 大学四年生というのはそういうことを考えるものらしい。 オレがずっと悩んでいたのと同じように小泉氏も悩んでいたようだ。 理屈と感情。2つをうまく折り合いをつけて生きていく。 そのさじ加減で悩むなら今が悩み時だ。 オレなどは院にいくからまだ2年あるが、彼は卒業だ。 銀行に内定まで決まっている。 今それに疑問を持ったのは幸せだろう。 悩んで、苦しんだとしても、それは幸せというべきだ。 彼ほどの頭があれば、遅かれ早かれ悩むことになる。 就職してから悩むことになれば、いくらかの時間を無駄にすることになるだろう。 だから、今がいい。大学生とはそういう時間を与えられた人種だと思う。 一部の飛びぬけた才能を持った人間を除いて、 この時期に悩んで、考えて、苦しみぬいておくべきなのかもしれない。 つまらない意味で楽しいだけの大学生活は、やはりつまらないのだ。

感情は理性的判断においては単なる制限である。 だから、極限まで理性の働きで感情の働きを排す必要がある。 だが、感情は生き様を選択する場面においては最後にして最強の決定要因だ。 理性でこねくりまわした理屈も、感情、ひいては人格の欲するところの前では 無力である。やりたいことはやりたいのだ。 時と場合で感情の扱い方を間違えないようにしたい。

1999年10月17日

起きてから3時間。布団の中で妄想をくり広げていた。 ようやく形になりそうな予感。あることないことつけくわえて、 やっとそこそこな解釈。さあ、メシ炊いて、食って、書くか。 締めきりには間にあわんだろうが。

なんで創作は楽しいのか。 いや、もう少し具体的にしよう。 なぜ創作の楽しみは肉体の快楽よりも上だということになっているのか。 これは実は明らかで、 肉体の快楽は他人に対しての影響がないに等しいが、 創作の楽しみは他人に影響を与えるからだ。 モノを作るということは、他人に何かを与えることである。 元々は生存に必要な物を与えることだったのだろうが、 社会が大きくなって許容量が大きくなるとともに、 生存に必要ないものを与えることも 同様に扱われるようになった。 その結果、創作、つまりは自分を表現することもまた 社会によって推奨される行為となった。 それで、創作を含むモノを作る行為が肉体の快楽よりも上であるように 教育することになるのである。 これは、逆に言えば、肉体の快楽は創作の快楽よりも下である、という制限でもある。 創作の楽しみもまた反射であるということだ。 では、この反射をそなえるに至らなかった人間はどうなるか。 そういう人間にとっては創作が特に楽しいことにもならなければ、 肉体の快楽が特にレベルが低いものにも見えない。 つまり、区別がなくなる。 まして他人に対しての興味が著しく薄ければ、 創作の快楽の大きさはどんどん小さくなる。 他人に与えることに対して快楽を感じないのだから、これは当然である。 そもそも個体の維持のために備わった本能的な快楽の中に「与える快楽」など というものがあるはずがない。 そうして、肉体の快楽の比率が増す。 結果、本来の生物の姿に近づくとともに、 社会にとって役立たずになるのだ。 善悪を問うのは愚かであろう。 さて、こう考えたところでオレはどうするか。 答えはひとつ、「知るかボケェ」である。 オレは凡人であるから、役に立つのがうれしくて仕方がない。 期待されるのがうれしくてしかたがない。 悪いか。悪いのか。悪くないぞ。オレは社会の中にいるのだ。結局。 ちょっとあまのじゃく気味ではあるが、 やっぱりオレは集団の中でしか生きられんのだ。 優越感も集団の中にいてこその感情だ。 社会から逸脱しようとあがくのも、社会の中にいるからこそだ。 元から中にいない人間がそんなことで気に病むはずがない。 だから、がんばればいい。 というわけで何をどう考えたところで結論は同じだった。 それが限界でもあり救いでもある。

牛丼。舞小説を書くには必須の品だ。 だが、そのへんの牛丼屋で食う金はないし、あまりにもチープだ。 ということは自分で作るしかない。 さて、牛丼の味は何で成り立っているのか。 そう考えるとまず浮かぶのは肉のうまみだ。 しかし、肉から出るダシなどたかが知れている。 ましてや煮ればそれはどんどん減ってくるのだ。 とすれば頼るのはダシグッズしかない。 かつおぶしとこんぶである。 かつおぶしはどこからか15gだけ出てきた。こんぶはそのへんのスーパーで 110g298円で売っている。 本当なら両方とも市場にいって大量に高級品を仕入れたいところだが、 もう金は1000円もないのだ。というわけで妥協。 これらでダシをとって、酒で甘みと深みをつけ、 たまねぎを大量にいれて甘みを増す。 肉はスジ肉。安いわりに煮た時のダシが強い。 並の肉では味がない。 これらをビタクラフトで煮る。 圧力釜でやると、どうしても加熱が強すぎてダシが粉砕されるのでよくない。 100度以上で長時間というのはうまみを完全に粉砕してしまうのだ。 正気の沙汰ではない。 ビタクフラフトなら100度以下で、かつ最小限の時間で料理できる。 加熱なんてものはしないで済むならしない方がいいのである。 さてある程度したら醤油で味を整える。 あとは肉がやわらかくなるまで煮つづける。 砂糖はいらない。砂糖を使うような料理はその根本からして間違っていると 丸元は言っている。今のところそれは正しいと認めよう。 ダシがよければ砂糖はいらないのだ。 事実この牛丼はけっこううまい。 牛丼屋のと比べてどうかと言われるとむつかしいが、 少くとも健康的な味がする。濃すぎないし、かつおとこんぶのダシがきいている。 明日一日はこれで生きられるだろう。 さて、反省点。まずはたまねぎを炒めなかったことだ。 炒めた方が味がよく出る。あとはダシグッズの質。 こんぶもかつおぶしも安物であまりいいダシが出ていない。 最高級品を手に入れよう。ということは鉋(かんな)がいることになる。 来月に買おう。かつおぶし(もちろん削る前)とこんぶを常備することで、 にわかにうちの料理も本格的になってくる。

1999年10月16日

感情は経験と本能によって備わる反射である。 熱いやかんにさわって苦痛をあじわった経験がなければ、 躊躇することなくやかんにさわれよう。 罪悪感も同じ。怒られたりした経験が積み重なってそれを生みだすのだ。 そして、こういうものは理性を制限する。 マイナスの制御がかかったものでは苦痛がおこり、 プラスの制御がかかっているものでは快楽がおこる。 それらによって理性の使い方が制限されるのである。 道徳とは社会にとって有益な反射の体系である。 借りたものを返さねばならないのは元をたどれば社会の要請であって、 個人に条件なしで保証された原理ではないのだ。 だから、そういう反射がそなわる前に強い理性をもった人間、 あるいはそういう反射がほとんど備わらなかった人間は、 理性にかかる制限が少ない。 それを規格外の人間と定義するなら、 規格内の人間、すなわち凡人とはその反射たる感情に大きく支配され、 かつさほど能力の高くない人間のことと定義できる。 その意味でオレは凡人だ。

凡人が凡人を克服しようとしても無理だ。 努力の末に見えるのは限界だ。 限界まで来たかどうかはわからなくても、 限界がそう遠くなさそうなことはわかる。 限界が自分の望みより高ければ努力すればいいだけで事は簡単だ。 だが、自分が望むよりも限界が低かったらどうするか。

なんでこんなことを書いているか。 それは、 いまだに自分の理性から根本的な制限が外れていないことを実感したからだ。 感情と理性を分離して制限を克服する。 あるがまま見て、偏見や主観を排す。 それを目標にして費された努力は、望むほどの成果を上げなかったのである。 限界まで来たとは言えないが、限界はそう遠くはない。 これがあきらめなのか、分析の結果なのかを問うのは愚かであろう。 その2つの間であるに決まっている。 無限の努力によって限りなく制限を遠ざけることができるとしても、 できる努力をはるかに上まわる努力が必要ならば、 もはやそれは不可能と同じだ。 覇気が失せる。

だが、それがどうした。 あきらめて限界を見つめながら生きていくことも苦痛。 限界に気づかぬふりをして無駄かもしれぬ努力をつづけるのも苦痛。 どちらに転んでも生涯苦しむことはもう約束されている。 だから結論はひとつだ。 自分を高める。それはオレ内部ではいいことだし、 オレはいいことをすれば気持ちが良くなるようにできているからだ。 今はそれしかよりどころがない。

さて、オレに限界があるのはいいとして、 ビタクラフト鍋にも限界がある。 一合は二合と同じようには炊けないのだ。 加熱時間がまったく変わってしまうし水加減もむつかしい。 2合以上ならば同じ条件で炊ける。 さすがのビタクラフトもこういうところは仕方がないようである。 焦げてしまった。 条件を変えて試せばそのうちいい条件が見つかるだろうが、 おとなしく2合以上炊いた方が早い。 あきらめが肝心なこともあるようである。

実験が長びいて道場にいけなかった。 明日行く。数日前まで予定があったが、それも去った。

1999年10月15日

オレは悩みマニアだ。 悩むのは未熟を知るからで、成長の過程である。 めでたいことだ。 しかし悩んでいる間はKANON本を描けない。 それゆえ、今は悩みは害悪である。 悩む原因はたいがい人間関係だ。 能力で悩むなら訓練した方が早いから無益だが、 人格で悩むのはたいてい有益だし避けられない。 いままでも同じ原因のために何度も悩んできたが、 そろそろ手術して原因をとりのぞいた方がいい気がしてきた。 手術は痛いので決断がためらわれてきたのだが、 このままでは手遅れになる。

同じ道にいる人間を探すためにそういう人間がいる確率の高い場所にいくのはいい。 だが運悪くみつからなかった時に 同じ道にひきずりこもうとするのは無理なことが多い。 自分の洗脳力と相手の耐洗脳力、 自分の傾向と相手の傾向。そういったものを見くらべれば結果は予想できる。 それで無理とでたら、 あきらめるか、自分の道を変えるか、 別の場所に行くのかのどれかしかない。 自分で信じた道を行くだけで 自然に同じ道に移ってくる人間がいたとするならば幸いだが、 それ以上のことは期待できないし、するのは無礼である。 今までの無礼をわびよう。そして。

社会が契約のみで成り立っていると思おう。 現実をありのまま見よう。 一時でもそれを忘れられるところに行くためにこそ。

シェイクスピアの「あらし」「尺には尺を」を読む。 おもしろい。そこかしこに楽しませようとする趣向がこらされているうえに、 世の問題についてなにか主張しようとする意思も強い。 当時のイギリスの時代背景がわからないと細かいところはわからないが、 それにしても十分楽しめる。いろいろなものの元ネタになるわけだ。 元ネタといえば、舞シナリオの元ネタと思われるものがシェイクスピアの 何かだと聞いた。 確か「あらし」だったような気もしたのだが、確定とはいえない。 しかし、そんなこととは関係なくおもしろかったのでよい。 さて、解説によるとこれらはシェイクスピアの作品としては ちょっと変わっている部類らしい。 普通のおもしろさ以上に問題意識が出すぎているのだ。 しかし、そこがまたおもしろい。 一見丸くおさまったけれども「いいのか、これで」という 感想が残るあたりがいいのだ。 後は悲劇と歴史物を読んでおけばシェイクスピアはとりあえずいいだろう。 特にどれがおもしろいということを知っておられる方はどうかお教えいただきたい。

ところでシェイクスピアの作品はたいがいパクリである。 解説にはほぼ例外なく元ネタが示されているのだ。 パクリというと言葉が悪いが、芥川の小説がパクリであるならばこれもパクリだ。 「題材を得た」というのがいいのだろうが、そんなものは言葉の問題である。 さて、常にパクリがオリジナルに劣るという保証はない。 オリジナルより優れたパクリ作品は、歴史に残ってしまう。 今となっては シェイクスピアがパクった作品はおそらくシェイクスピアよりマイナーであろう。 それは当たり前のことだ。 実はまったくパクらずにつくられたストーリーなどないのではないか。 いろいろなものをその人独自の配合バランスで混ぜるのが創作ではないか。 その配合バランスこそオリジナリティーである。 ただ、どれだけ元の作品に依存することなく独立した作品とできたか、 あるいはどれだけ違うものをつけ加えられたかによって評価は全く違うものになる。 同じものを作るとパクリと呼ばれ、格が低い。 「新興宗教オモイデ教」から「雫」が生み出されるのだから、 オレもKANONからKANONに依存しない何かを生み出せるのだろう。 KANON本ではそういうものを敢えてめざしたいところだが、ページ数の都合上 そんなには理想には近づけそうもない。 しかし、共有する情報を根拠にして範囲は狭いながらも よりおもしろいものを作るというのもひとつの考え方だ。 パロディー本の大半はその考え方によっているのではないだろうか。 この考え方を示してくれた滝沢氏に感謝する。

小泉氏の家でダラダラする。舞を描けというので描くが、 ポーズがむつかしくてさっぱりわからん。 そこで小泉氏によるアドバイス。「鎖骨は前後に動く」。 つまり腕を前に出したりすると肩幅が変化するということだ。 勉強になった。もっと素直になっていろいろ教えてもらおう。 それにしても、戦いなポーズを描こうとするとけっこう大変らしい。 胸から上しかないコマばっかな漫画は描きとうないのだ。

「萌えは反射である」とは小泉氏の言葉だ。 「萌え」の感情、すなわちキャラにはまるということは、 理性と本能の間にあるものだという意味である。 生きてきた上での経験のつみかさねの結果、 自分でも認識できないような複雑な理由でその感情が生まれるのだ。 よって、どういうものに「萌え」るかは生きてきた人生で決まる。 これは出来がいいとか、そういうこととはほとんど無縁だ。 オレは舞シナリオがおかしくて、舞もちゃんとしたキャラでないことを知っているが、 好きである。それは理性で分析することがほとんど不可能な感情だ。 これが人生におけるさまざまな経験による作用の現れなのである。 つまり、何がいいたいかというとだ。 「ロクでもないキャラにはまるのは仕方がない」ということだ。 責められることではなかろう。 これは「好み」というもの全般に言える。 出来の良さと好みはしばしば食い違うのである。 クソなものを好きになることはなんら不思議なことではない。 だから、舞が好きでもいいのである。

1999年10月14日

昨日からの30時間待ちが1時におわるので、 午後から実験。それまで舞を描いていた。 似てないが、わかればいいのだ。 だからよし。そもそもオレはプニ絵やロリ絵に 特別な感情をもってはいない。 しかし、舞くらいならいいが名雪なんかを描くとなると どうなるのか想像もつかない。

実験中。舞を描いていた。 なんとか識別可能だと思う。 というわけで、問題はストーリー。 どこを切り出すか。漠然と舞が住みついてきた気がする。

舞小説。書くには書くが、サイトにのみ置くことにする。 なぜか。それは下の段落にあらわれている。

甘ったれんなというメールに打ちのめされているところに、 のじり氏があらわれた。 ありがとう。もうすこしふっきれた。 近頃オレはどんどんノジライズ(のじり化)してきているが、 やはりのじり氏に会うとその速度が高くなる。 とにかく人に甘えるのはよくないということだ。 だから、オレは人を同志にしようとするのではなく、 オレが同志になりたいと思う人間を探しに行かなくてはならない。 人はそう簡単に変わりやしないのだ。 人に干渉するのをやめ、一人立ちする。 そのための訓練を始めよう。 また、今まで西洋思想に偏りすぎて、理屈の力を過信しすぎていたのも 欠点として大きい。 東洋思想を読むことにした。

教育。洗脳。調教。プロパガンダ。これらの違いを説明するには、 それぞれどういう意味であるかを考えねばならん。 善悪はイメージで、論理的な意味には関係がない。 まず、これらは人になんらかの行動様式を植えつける行為だ。 それを理解した上で、それらにどういう違いがあるかを考える。 たとえば教育にはプラスマイナス0、つまりいいイメージも悪いイメージもあまりない。 洗脳には一回なにかをブチこわしてまっさらにしてから植えつけるような イメージがある。調教には理性的でないというイメージがつきまとう。 プロパガンダには社会的な響きがある。 しかし、それらはすべて「植えつける」という根本的な意味をもっている。 教育は善で洗脳は悪というのはあまりにも短絡的であろう。 状況と伝えたいイメージによって言葉を選択するだけで、 その言葉が定まった意味を保証されているわけではないことに注意したい。 オレはこの日記で意図してイメージの悪い、いうならば刺激的な言葉を使っているが、 それはエンターテインメント性を重視してのことである。 言葉を文面通りうけとると、オレがとんでもなく不道徳なことを言っているように 見えてしまうかもしれない。 だから、文面通りとらないようにお願いする。 それというのも、誤解が無視できないほど頻繁におこって、オレの立場が あやうくなっているからだ。 この日記はオレの主張とエンターテインメントの両立を目指している。 主張をしっかりしようと思えば長くなってタルくなるし、 エンターテインメントをこころがけすぎて変な表現で埋めつくせば 言いたいことが伝わらなくなる。 オレは両方を立てるように最大限の努力をするが、 それでどうにもならない部分は読者の読解力にまかせるしかない。 それで誤解されればオレの責任だが、それにしても辛いのである。 甘えであることを承知で申しあげる。 不道徳な言葉であっても文面通りとらず、 どういう意味で使っているかを把握しながら読んでいただきたい。

カウンタが10000を超えている。 9000をこえたのは、9月29だった。 一日60前後。安定しているようである。 たくさんの人に見てもらえるに足る価値のあるサイトにしよう。 オレは期待されるのが大好きだ。喜んでもらえるためならけっこうなこともする。 というわけで、さしでがましいなんて言わないで要望はどんどんお願いします。 けっこうがんばると思います。

1999年10月13日

米を買う金がない。 米代と道場の月謝が問題である。 貸した金が帰ってくれば月謝は払える。 だが、米は買えるかどうか。玄米は10Kg単位でしか買えないのである。 備蓄の大半は米を前提としている。ちりめんじゃこも鮭も米があってこそだ。 実家から送ってきたジャンクレトルト類も米がなければ仕方ない。

なぜか大量にあるもちにレトルトビーフシチューをかけて食う。 ハヤシモチだ。寒い。玄米にくらべて味がない。 なんとか借金をとりたて、それからまたなんとかして米を買わねばならない。 米がヤバいほど大切な食べものであることが骨身にしみた。 知れ。米はうまいのだ。

舞の妄想にひたる。時代順に出来事を整理し、 そのときの心情をひとつひとつ感じていく。 そのためにはひたりきらねばならないのだ。 BGMに「少女の檻」をかけっぱなしにしながらひたすらひたる。 泣きそうにすらなる。だがまだ舞はオレに住みつかない。 まあ、それができてしまえばあとは書きたいポイントと視点を定めるだけ。 舞台さえ決まれば住みついた舞が勝手に話を進めてくれる。 ただ他に問題がひとつ。 小説というのがどの程度の長さになるものなのかさっぱりわからないのである。 だが、締切は近い。どうなることやら。

めざまし。おおたにいくえ。おきてー。致死量。 毎朝ショック死しかねん破壊力。いや、わからずとも良い。

東京遠征記

  9日夜。漫研の連中が修羅場っている。 オレはというと出発まで間があるにもかかわらず料理のために家に帰らねばならない。 そこで、まさひろと小泉氏を話し相手にすべくうちにつれてくることにした。 しかし、問題がひとつ。 うちの漫研は土曜は麻雀の日である。 修羅場っていてもそれは例外ではなかったらしい。 修羅場の連中も麻雀に行きたがり、 修羅場会場に留守番が必要になったのだ。 修羅場は大学の教室を無断占拠して行われる原稿描き大会である。 確保した教室を死守するためにも留守番は必要だ。教室の競争率は高い。 人のいいまさひろが留守番をひきうけようとしたが、オレが 「いや、することがあるならそっちが優先だろう」といってうちに 連れてきてしまった。そのすることとはオレの話し相手である。 みやざき君が麻雀に行かずひとり留守番。 どう考えてもオレは悪くないが、罪悪感というものはそれとは関係ない。

  うちで料理をしながら話す。KANON本は正式に発動し、 そんな話をする。小泉氏には表紙を依頼した。 あゆを描いている。丸い。自分を殺している様が壮絶だ。 2枚目。これはXX(本名)だ。こうでなくては頼む意味がない。 元絵に似せようとなどされては見込んだ甲斐がないではないか。

  22時近く。ちょっと時間がヤバい。 ダラダラしすぎた。これまた勝手にも2人を追い出して急いで向かう。 バスは22時30分。地下鉄今出川駅からの電車が17分。 あせる。京都駅到着。28分。あせる。 バスのりば。30分。乗る人はもういないかと呼びかけているところにすべりこむ。

  10日6時半。 アホ(一応通り名は「良月」)の家につく。 起こすなということだったので静かに入って床に寝転がるが、上から屁音。 起きたことの意思表示と、歓迎の表現がこれだとすれば、 殴る程度でよかろう。殴る。

  11時。宴会の買い出しにアメ横に向かう。 上野アメ横。相場が破綻した街である。 そこで大量のトロ、カツオ、めんたいこ、たらこ、松茸などを買いこむ。 これだけのものを普通に買ったらいくらになることか。 トロに至ってはキロ1500円である。カツオも一本1000円。 確かにアメ横は異常だ。だが、場所を選んでいいものを大量に買えば他のところでも そう金のかかることではない。市場に行ってそれは実感している。 だから、これだけは言える。 宴会屋で宴会をやるのはもったいない、と。

  3時。会場の酒屋に行く。2階が会場になっているのだが、 1階と空間的につながっているのだ。 この酒屋の店主はこれから後悔することになる。 我々の宴会がそう静かなわけがないからだ。 営業妨害にもなりかねない。ここは最後だろう。 そう思いながら準備をする。

  5時。全員そろう。 主賓は一応漁師になるために釧路に帰るK.F。 しかしこれはほとんど宴会をするためのこじつけ。 参加者はすべてアホ以外の共通点をもたない人々だ。 ラ・サール時代からの友達、成蹊大漫研の人。 そのどちらかか、そのどちらかが連れてきた友達である。 ラ・サールだったがあまり親密ではなかった人もあっというまに親密になった。 みなLeafとTactics、Keyでダメになっている。 まだなっていない人もこれからダメになる運命になるのだ。 理想的なまでに輪が広がるさまを見た。

  自己紹介なんてのをやったりしながら話し、飲んで、食う。 料理は素材がスゴいし、腕の方もバイトで鍛えたYである。 酒は100件以上の酒屋をまわっているアホや酒飲のK.Fが選んだ高級品である。 「越の寒梅」なんてのはプレミアがつくほどの酒らしい。 それがこの酒屋では普通な値段で売っている。 だいたいロクに飲めないオレが、 味がわからないにしても飲めるという段階でそれはもうよほどの 上物なのである。宴会とはかくありたいものだ。 準備を自分でするからこそ、いいものを、楽しく味わうことができる。 そもそも準備も楽しいのだ。

  そのうちとんでもない企画。 「ノット100」とかいう遊びらしい。 それだけならただの他愛のなに宴会用の遊びなのだろうが、 やるネタがネタだ。用意するのはワッフル。練乳。はちみつ。強化砂糖。 おわかりか。一人3回までそれらをワッフルにかけ、回す。 100は多いので50を数えた人がそれを食うのである。茜だ。 結局主賓にあたった。海の男の見事な自爆である。 しかし、みんなが食いたがったので、一人で食うことはなかった。 オレもかじったが、あれは食いものではない。 アスパルテーム(強化砂糖に入っている砂糖の何百倍甘い物質) がいかにヤバい甘さをもっているかが骨身にしみた。 それにしても男だ。「XXX君います?」と彼の家に電話した人が、 「いま海に出てますから」といわれたという逸話はすばらしい。

  よっぱらいが出始まった。滝沢氏はゲロって床に伏し、YOUはつぶれた。 そして凶悪なのがK.Y。要領をえないことをわめきちらしながら 襲ってくる。こっちの言い分なんて聞きやしない。 なんてよっぱらいだ。しかしまあ、いろいろ溜まってたんだろう。 それはそれとして、小松氏とかといろいろと話ができた。

  片づけをして、つぶれた奴をなんとかして宴会第一部は終わった。 Yの家にゴミを置きにいくときにいろいろと話をしたりした。 内容は秘密だ。 で、滝沢氏はよっぱらいが度をすぎたのでタクシーで帰り、 YOUとK.Yはアホの家に戻った。 残りの人間はカラオケである。 何箇月ぶりだろう。カラオケ。普段ならこんなことに金は使いたくないところだが、 特別である。

  どんな歌を歌ったか。そんなことはどうだっていい。 ただ、オレはほぼ全曲全力で歌った。よく知らないB'zだって、なんだってだ。 アホと2人で立ちあがり、酸欠になりながら銀河鉄道999を歌う機会など そうはない。そして最後は哀戦士。これは定まっていることである。 全員斉唱。声は枯れたが、枯れたものだけではない。

  アホの家で3次会。といっても話すだけだが、それがいい。 ところが、帰ってみるとYOUしかいない。一緒に帰ったはずのK.Yがいないのだ。 YOUに聞くと、帰るといって帰ったという。よっぱらいである。 危険を感じたが、別に死にやしないだろうとみな放っておいた。 そもそもどうにもなるまい。

  11日1時。K.Yから電話。どこだ、と問うと、国分寺という。 国分寺とは東京の西のはずれの方である。 アホの家が荻窪だが、そこより西だ。K.Yの家は東京より東だから、 何かおかしいことになる。そして「記憶がない」。 バカめ。それを放りだすYOUもYOUだからしかたない。そういう奴だ。 そもそもそっちもよっぱらいである。よっぱらい2人を放り出した我々も悪いが、 カラオケに行きたかったのだから仕方ないのである。 とにかくもK.Yはホームで一夜を明かさざるを得なくなったのだった。

  その後。寝る。ベッドの上に3人。下にも3人というとんでもない状態である。 しかも奴の家は狭い。6畳は6畳だが、モノが多すぎる。 数百冊の同人誌。わけのわからないコンピュータ類。 わけのわからない本。散乱するCD。とにかくメチャクチャだ。 それでもいつもより片づいていた方ではいた。寝られたのだから。 YOUなどはそのマイペースさを表すかのように寝袋を持参。 しかし、ベッドに3人。しかも、長いオレと、太いアホと、デカいJAGである。 一枚しかないかけぶとんを取り合いながら寝た。 面積をへらすため互い違いになって寝たのだが、 そのためにオレの顔は奴の尻の方向にある。 そのせいで電気を消して最初はアホがわざと屁をこいたりしてオレが叫んでイヤがり、 JAGがアホにかかと落しをくらわせるといった 昔はよく見られた光景が展開されたが、やがて静かになった。 図解するとこうなる。

+-----------------+
|(頭)jag  +-------+
+--+------+       |
|オ|  (尻)良月(頭)|
|レ+--------------+
+-----------------+

  11日8時。ダラダラ起き、ダラダラ話す。 JAGはバイトとかで起きた時には帰っていた。

  10時。KEYオンリーイベント「eternal KANON」へ出陣する。 そこで昨夜の主賓たるK.Fとは別れる。 次に会うのはそう近いことではあるまい。 釧路である。しかし今はネットがある。 魚のとれぐあいなんかを聞いたりして。 電車でも今年は鮭が全然とれなかったことを教えてくれた。 どうりで高いはずだ。 彼は高校時代にただ寝ているだけで「XXが死んでる!!」 とか言われたほど死に度の高い男だが、 数年後には海の男の色になっているに違いない。

  品川でのりかえて蒲田。せまい会場にギッシリ。いつもの光景である。 しかし、これが全部KANONなのだ。タダのエロ同人なんてのはほとんど皆無。 どんな形にしろ作品を愛している人達の集りである。 濃くないはずがない。人混みのなかアホの背中について同人誌をのぞき見る。 いいのがあったら買う。いいものだ。滝沢氏も回復して本を出していた。 天野小説。愛。

  まさひろに頼まれていたKANOSOをみつける。 しかし、フロッピー配布で、しかもいっぱいある。 ひとつひとつは500円やら700円だが、それがいっぱいあるのだ。 フロッピーということはそう大したデータ量ではない。 どうしていいかわからないうちに、行列まみれに。 ちょっとしたら完売してしまった。それはともかくあの絵はいい。

  昼すぎ。桑原ひひひ氏がコピー本をうりはじめる。 つい並んで買ってしまった。この人。女の人なのだが、まず絵がちゃんとしてる。 そして、ネタがおもしろく話もちゃんとしている。なにより作品を愛していて、 そして、バカで下品だ。 この人の下品さにはなにか小学生が「チンチン」というのに似たさわやかさがある。 バカさもまた然り。男にありがちなやりすぎな、あるいは力ずくのバカや下品でない。 そこに惚れた。アホの家にはあの人の本がいっぱいあり、どれを読んでもいい。

  目的は果たされた。11日14時。とりあえず疲れはてたのでアホの家に戻る。 吉祥寺でコスプレした連中が練り歩くというあやしい行事があるというので 見にいく予定だったのだが、疲れすぎた。 戻って、他に行く人がいたら行くことにした。

  戻る途中。アホがいう。「オレとおまえのキャラの趣味似てるよな」 確かに。雫。瑠璃子さんは別格としてさおりん。同じ。しかしこれは珍しくあるまい。 痕。誰も好きだが楓ちゃん。同じ。オレは若干梓を押すが、その程度の違い。 ToHeart。あいつは綾香。オレも綾香は好きだ。しかし、マルチも好きだ。 保科も好きだ。 というかあまり差がない。あいつもそうらしく、さほど違うというわけでもない。 ONE。みさき先輩。一致。KANON。舞。佐祐理さんのオプションとしてでなくだ。一致。 話には登らなかったが、ホワイトアルバムもはるか。一致。 オレがアホ化した結果なのか、元から似かよっていたのかはなんとも判断がつかない。 いいや。

  戻って、Yに電話したがいない。面倒だしやめた。 そのままアホと2人でえんえんとダラダラした。 納豆巻を食ったりしながら。あまったたらこを食ったりしながら。 ダラダラした。

  暴れるよっぱらいK.Yから電話。どうやら無事家にたどりつけたようだ。 記憶がないから不安だという。確かに不安になるに足るだけのことをした。 オレとアホは最大の被害者である。メチャクチャいわれた。 というわけで、せいいっぱいいじめてやった。 「頼むよ。忘れてくれ」「出前でも頼んでろ」とか、 「いや、溜まってたんだよ」「そーかー」「だから、忘れてくれって」「そーかー」 「…」「そーかー」とか。アホに「いじめ方がオレと同じだ」 といわれた。ゲラゲラゲラゲラ。笑えない。

  オレのMIDIがどうなるかを聞かせてもらう。 アホの音源はsound blaster live!。高い奴だ。 それだけに期待も大きい。だが。それは完全に裏切られた。 ショボい。FM合成+アルファといった感じだ。 以前「ショボいもん作ってんな」と言われた意味がわかった。 おそらくサウンドフォントのせいだろう。標準の4MBのものだと 悲惨の一言につきる。mp3版を聞かせたら、「わざわざこんなの置いて。 どっかからもってきただけじゃないのか?」 などといわれ殴る。それが「まともだ」という意味を含んでいるのはわかっているが、 殴るのは礼儀であろう。

  いろいろとみやげをもらって、21時。 そこへT。高校時代からバカで変態として知られたTである。 ノートパソコンをアホに売りにきたのだ。 「八つ橋食いてえ」というだけで京都までバイクで行って その日のうちに帰り、道中ガソリンがなくなったが金がなく 「300円分おねがいします」とか頼んだり、 金がなくて故障もなおせず頼みこんでツケで直してもらって帰ってきたり というバカっぷりである。 話によると、風俗店の店長代理になってくれといわれているという。 条件がおいしいのはいいが、この先の人生に不安があるらしい。そりゃそうだ。 知りあいにそういう世界の人が一人くらいいるといろんな話が聞けておもしろい とは思うが、さすがよく考えてきめてほしいものである。 家族に「風俗に務めるから家出る」なんて言うのはあんまりであろう。 ふと時計をみると21時半。別れを告げた。

  東京八重洲口。バスがくる。

  12日6時。京都。遠くまで来た。

1999年10月12日

帰った。アクセントは「え」。

夜行バスで6時10分に京都につく。 体調は最悪。寝不足、カゼ、疲労コンパイルでシグナル11である(わからずとも良い)。 今日の実験は簡単ですぐだったので研究室に行っておわらせ、 ソフトボールはカンベンしてもらう。 帰った。アクセントは「え」。

2日間なにがあったか。それを書くには今は7時25分であるから時間が足りない。 改めて明日更新分に記すこととしよう。 なお、大量にいろいろともらったり買ったりしてきたので、 身内で気になる方は今日でもいいからうちに来られると良い。 どうせ動けず寝ころがっているので、客の一人でも来た方がうれしい。 と、こんなところに書いてなんになるか。思考がゆるい。

一週間日記以外追加していない。 もうMIDIはよかろう。リクエストがあれば調子にのってやるが、 自分ではいまひとつ思いうかばない。 最初はリクエストのあった「終の空」の感想か。 やっとお借りすることができたのだ。 また、16日までに小説を書かねばならないのだが、そのうちここにも載せる。 一体このサイトはなんなのだ。

1999年10月10日

(この段落はKANON)。 起きたが起きない。11時。頭は舞。 「知らなくてもおもしろい。知っていればよりおもしろい」 の境地は高い。 短くまとめつつ、原作に頼りきらず、中でちゃんと完結していて、 かつ原作を知っている人はよりニヤリ。それはもはやオレの及ぶところではない。 だが、負けを認めるのもつまらん。戦って、死ぬのがよかろう。 とりあえず、主人公をオレにしよう。別に名前をどうこうするわけではないが、 オレの分身を主人公にする。ストーリーがどうなるかは奴にまかせる。 舞は舞だし、最初の設定を借りればそこでどうにかなるであろう。 あとは舞の人格がオレの中に現れれば勝負開始となる。 起承転結をつけて体裁をととのえるなんてのは後でなんとでもなるのだ。 だが、その舞の人格がなかなか現れない。 「夜な夜な外にでかけていく舞を親はどうおもってるんだろう」 「夜遊びがすぎるなあと思っている」 なんてことを作った連中が書いていたが、言い得て妙である。 それはそれとしてちゃんと作れよ。

アホから電話。お馴染みのフレーズ。 だからどうしたわけでもないが、それはともかくとして、 高校時代の漫研の同人誌を発掘する。どういうわけかアホのいる漫研で うちらの高校が流行っているのだ。そのネタである。 見てみると教師をネタにした漫画がのっている。バカすぎる。 これを描いたのがオレの名付親Fだ。すなわち「尚」を「ヲサム」と読んだ帳本人。 埋もれさせるには惜しい男である。今どうしているのか。 そろそろ確認してみた方が良いかもしれない。いや、確認しよう。 とたんに今まで連絡しなかったことが罪悪に感じられてきた。 でも、アルバムがないので連絡できない。やはり高校のアルバムはここに置くべきか。 ネタとしても極上の一品だ。

宴会に備えて、持っていく料理の準備をする。 バス内での9時間の常温放置に耐えるものでなくてはならない。 まぐろ(犬ではない)を大量に買いこむ予定のため、油のないものを予定。 冷凍してもっていけば数時間常温にさらされる時間が減っていいのだが、 果して味がどうなるか。さすがに9時間常温は恐い。

かぼちゃハズレ。まだまだ見る目がない。 水っぽく味がない。マズい。 到底人に喰わせられるものではない。 赤く、種がしっかりしていて、重いのが当たりだ。 くそ、200円。 しゃーないからこいつは捨てて新しく買ってこよう。 外側まで赤い奴なら大丈夫だろうと思うのだが確証はない。 しかし前のうまかったのは外皮まで赤かったし、 赤くなるにつれて甘くなるのが植物の常である。 ピーマンも赤い方がうまい。

かぼちゃは赤い方がうまい。これまでの経験から今のところはそう言っておく。 うまい順と赤い順が一致するのである。ただしサンプル数がたった3つなので、 あまりアテにはできない。ご了承願いたい。 今回のは身は黄色いが皮に若干黄色いところがある。 ヘタもこれ以上なく枯れていて、熟していることを示している。 半分で売っていたので、種の状態も確認できた。 十分おいしいレベルではあるが、前のようなすさまじいまでの味の濃さはない。 並みといってよかろう。それでも下手に煮たりしない分おいしさは守られる。 これをもっていく。

次はプロッコリー。まぐろ爆撃で油まみれになった胃には野菜である。 それも緑の野菜がいい。ポリポリ食ってうまいといえばブロッコリーだ。 これをビタクラフト鍋で数分蒸すだけ。 組織はほとんど壊れないのでおいしさ長持ちである。 味がほしければ少量の醤油、マヨネーズ、酢などをその場でかければいい。 保存で注意しなければならないのは光、水、熱、酸素であるが、 光、水、酸素までは大丈夫である。熱ばかりはどうしようもないが、 9時間程度ならなんとかなるであろう。

次はメシ。炊き込みごはんである。 あくまでおかずなので、10人に4合しかない。というか、米がそこで尽きた。 しいたけのもどし汁に米とちりめんじゃこを漬けて数時間。 しいたけを刻んで戻して炊く。米は玄米なので、余計に味が濃くておいしい。 ごはんは冷凍が効くので、即座に冷凍する。 解凍の間だけ常温にさらされる時間が短くなる。

次は豆サラダ。大正金時豆を7時間以上2.5倍体積の水につけ、 ビタクラフトで40から50分煮る。味付けなどいらない。 この豆はそのままで十分うまい豆なのである。 その後、油と酢の混ぜたものであえて酸素から守るとともに、味をととのえる。 おいしい。

人間は身近な人間の不道徳に対して過敏に反応するが、 遠くの関係ない人間の不道徳ならやけに面白がる。 不道徳な友達はイヤだが、不道徳な人の書いた本はおもしろいことが多いだろう。 本来人間は不道徳にあこがれている。 道徳は社会の要請であって、個人の欲求とは逆だからである。 不道徳をイヤがるのは教育(経験)の結果だ。

12日まで帰ってこない。更新はありえないので、お断りしておく。 新鮮なネタを仕入れてもっとおもしろい日記をめざす所存である。 というか、ネタまみれの2日間になるのはもはや避けられない。

1999年10月9日

東京遠征。残念ながら8日夜のバスは満席だった。 だから、9日の夜に出る。10日朝に新宿につく。 壮大なムダ遣いである。 どうでもいいのだが、 ここでいう「ムダ」は「一般通念としてはムダとみなされるであろう」 という意味で、オレ自信はこれっぽっちもムダだなんて思っちゃあいねえ。 そのあたりを誤解されても別にダメージはないのだが、誤解はイヤ。

ところで。仮に、そう仮にだが、 この日記がおもしろいとするならば、 それはほとんど才能でなく努力のせいである。 オレは凡人であるから、 天然の素質による部分よりも努力による部分の方がはるかに大きい。 天才というものはそのままのそれでいいが、凡人はそのままのそれではあれである。 努力なき凡人などどうしようもない。 いくら凡人であろうと努力しているうちに、 その努力の過程そのものが人格を形成する。 その結果かもし出される個性は、 もう努力の産物を超えて天然モノと区別がつかなくなるのである。 自分が普通でつまらん、とか、才能がない、とか言う前に、 人を楽しませようとかいうような努力を死ぬほどしてみるといい。 他人を分析し、自分を分析し、それを突きつめては努力を重ねる。 気がついたら「おまえ、なんかおかしい」とか「変だ」とか言われるかもしれない。 勝利と言って良い。凡人を克服した証である。 だから、技術しか成長しないような努力は価値が低いと言って良い。 自分を変えてしまうくらい激しい努力がいい。 あきらめ。もったいない。

拳法をサボって、研究室コンパ。 何をするわけでもなく先輩の家でテレビをつけながらダベっていた。 話題についていけず困ったが、 最近どういう番組がおもしろいとされているかの傾向はつかめた。 しかし、それだけのことである。 ところで収穫がひとつ。 ある女の先輩が有栖川系の同人小説の人であることがわかった。 いつもそれ系のサイトを研究室で見ていたので、そうかなとは思ったのだが、 そうだったのだ。帰る時に「どうもオレかたよってますからね」 と言ったら、「おもしろいけど」といわれたので、「それはよかった」と返した。

日記内メタコラム−日記について−

  日記とは日々適当になにか書くものである。 自分のためだけに書くものはそれで良い。 しかし、これをWEBに置くとなるとにわかに話は変わってくる。

  人に何かを見せるというのは、すでにコミュニケイションである。 であれば、人の興味をひかねばならない。 少くとも、相手にとってどうでもいいものを見せることはコミュニケイション の破棄である。無礼である。それでいいなら勝手にやればいいが、 たいがい人から捨てられる。捨てられるのに我慢できるなら結構だが、 我慢できないなら対策を考えねばなるまい。 さて、日記も人に見せる場所に置くならばそれはもうコミュニケイションである。 人の興味をひかねばならない。

  人の興味をひく手段には大きくわけて2種類ある。 相手が知りたいことを教えるか、相手がおもしろがることを見せるかである。 前者はWEB日記には合わない。 各人が知りたがる情報はバラバラであるし、 そのうえそういうものを知る手段はちゃんと別にあるからである。 そもそもだれが日記に情報を期待するだろう。 であれば、日記のとる手段は一つしかない。 エンターテインメントである。

  人を楽しませる。これが日記の課せられた使命になる。 そして、また一方、それとは別に自分が書きたい内容がある。 これをどうおりあいをつけるか。ここが真髄であろう。 ただ媚びるのはアホである。自分のしたいことを我慢して 受ける話題を提供するなど空しい。 そのうえそれで受けるという保証はないのだからたまらない。 耐えられるならああそうですかだが、 到底耐えられるものではなかろう。逆に、ただ好き放題書くのもあれだ。 天才がやればそれでおもしろがってくれるだろうが、 凡人がそれをやれば待っているのは確実なさようなら。 誰も見向きもしなくなる。それに耐えられるならああそうですかだが、 WEBに日記を置くような「みせびらかしマニア」には到底耐えられることではあるまい。 だから、間でちょうどいい場所を探すのである。

  おりあいをつけるためにまず考えねばならないのは、 読者がそれをどれくらいおもしろがるかということと、 自分がそれをどれくらい書きたいかということである。 それをはかりにかけて、書くことを決める。 起こったことをただ書くのは論外であるというのはここにある。 人間は事実がよほどおもしろければ事実をおもしろがるが、 事実があまりおもしろくない場合は人間の心をおもしろがる。 だから、起こったことを書くならばせめて態度が現れなければならない。 そして、あとは書き方を考える。見せ方である。演出といってもいい。 自分の書きたいことがネタとしておもしろくない可能性が高いのならば、 その分演出で補わなければならない。文体。言葉。意見。そういうもので演出する。 たとえば主張したいことがある。だがそれをそのまま書いても説教臭いしつまらない。 ならばどうするか。演出するのである。不純というなら言えばいいさ。 だが、言いたいことをエンターテインメントの中に含ませて表現すると、 見やすくおもしろくなる上に、 驚くほど言いたいことの説得力が増すという事実も知っておいた方がよかろう。 ナウシカを見て自然やら文明どうのこうのに関して考えさせられる人が多いのは、 あれが極上のエンターテインメントだからである。 ただ「自然破壊はいけない」と言ったとてどれほどの人間がそれを実感できるか。 人に何かを伝えようとする時にただ何の思慮もなくそのまま表現するのは愚かである。 断定してやろう。愚かである。

  次に考えるのは対象とする人間の種類である。 身内、とか、オタク、とか、なになにのファンとか。 そのへんを考えると、一層何を書くべきかが定まってくる。 たとえば、身内の対象とするならばローカルな話題の比率は高くて良い。 逆なら逆である。日本中に散った人間を対象とするとき、 あるいは特定の趣味の人間だけ対象としないとき、 そういう時はジャンル的、あるいは地域的なローカルさは悪であろう。 これもまた、人間の比率を考えて分量の比を決めればよい。 また、切りすてて良い種類の人間というのもでてくる。 絵サイトでは絵に興味のない人間は切り捨ててよい。 そういうことを、書くことの質、量、ネタ等に関して 吟味すればおのずと決まるであろう。 例えば、オレは文章を読むのが嫌いな人間をはっきりと除外している。 そういう人間でもおもしろい文章がかけたらなぁと努力はするが、 それはそれである。 また、このコラムのように議論臭いことをネタにすることに 耐えられる人間を想定している。 さらに一見不道徳な表現を多用するのがオレの特徴だが、 これをイメージで拒絶してしまうような人間もまた除外されている。 サイトは見ない自由がある。だから、対象となる人間の楽しみを減らしてまで、 対象から外れた人間のことを考慮する必要はない。 見ない人間の存在はマイナスポイントではなく0である。 極端な話ではあるが、いくらイヤがらせても、いくらつまらなくても、 それで見なくなるなら0以下にはならない。 だが、対象としている人にとってはプラスの値が変動するわけで、 そちらがより重要である。死人よりも生きている人間のことを考えようということだ。 道理が通っている範囲であれば、すなわち 特定の個人やら団体やらをいわれない理由で攻撃しなければそれでよかろう。 ただ、これも程度の問題であるから、あまり極端に走らないのが良い。 月のない夜に後ろに注意せねばならないような状況はよろこばしくなかろう。 物事というのは0と1の間のどこにするかを考えることが大切である。

  さて、日記には戦略的な意味がある。 サイトを作るような人間は「みせびらかしマニア」であることが多い。 「みせびらかしマニア」というものは人に見てもらいたくてどうにも しかたがない種類の人類だ。 カウンタの流行はそれを証明している。 何千ヒットとかいってバカさわぎをする現象はもはや日常といって良い。 さて、ではそこで日記はどういう役割を果たし得るのか。

  日記という言葉はふつう毎日書くというイメージを伴っている。 毎日かくなら、毎日見る人が出る確率は高くなる。 それに、サイトのメインの内容というものはそうそう加えられるものではない。 絵も、音楽も、まとまった文章も、到底毎日足せるものではない。 であれば、さほど労力を必要とせず人をつなぎとめられるエサが必要である。 日記はその絶好のエサである。 しかし、エサはエサであるが故に極上でなければならない。 マズイエサしか持たない釣り人におとずれるのは敗北の2文字のみである。 夕焼けを背景に岩壁で空しくたたずむ初老の男の姿を想像するがいい。 だからこそ、日々エサの改良にいくらかの労力をつぎこんで、 自分の「みせびらかし欲求」を満足させるのである。 日記はよりおもしろくなる。人も楽しい。自分も楽しい。 みんな幸せ。 そして、そういう努力は人格、個性を形成する力にもなる。

  ただし。重ねて言うが、人にどう思われようが、サイトに人がこなかろうが どーでもいいという人はそれでよい。 オレは責めはしないしオレに責められたところで意にも介さないだろうから、 どうぞその道を行ってほしい。 好きでやることである。オレは人にチヤホヤされるのが楽しいから、 チヤホヤされるために死力をつくしているだけだ。人もそうだとは言わない。 何のためにサイトなんぞで公開しているのかという疑問は残るが、 まあそれぞれである。人それぞれ。オレはオレ。君は君。 思考停止の手段として至上の価値がある。上手に利用したい。

1999年10月8日

さる筋から弟切草とかまいたちの夜を手に入れる。 一回づつ読む。かまいたちの方はとりあえず犯人に殺された。 いまのところ可もなく不可もない。 一方弟切草の方はなんだかわからないが、終わった。 どう分岐するのかわっぱりわからないが、 終わったことに変わりはない。脚本が長坂(快傑ズバット、街、特捜最前線など) だったが、それに気づかない程度の長坂度だった。 両方とも情報を手に入れて再度挑戦してみることにする。 これだけということはあるまいが、どれほどのものかもわからない。

東京遠征の準備をせねばならない。生協でできるだろうか。 それより前に親に「ムダづかいをします」と報告を入れておこう。

1999年10月7日

ポテトサラダ挑戦。材料。いも。油。酢。以上。 いもを皮をむかずにゆで、やわくなったら即座にかわを剥いて薄く切る。 それをかたっぱしから酢と油のまざったものの中にたたきこんでいく。 配合比率は1:3くらいだ。皮をむかないのは、手間の削減とともに栄養、 すなわち味の保護である。ゆでてから剥いた方が楽だしうまい。 即座に油で酸素から保護し、味を保つ。これがまたいもの味だ。 市販のはマヨネーズの味であっていもの味ではない。 保存性も高い。常備する価値がある。 ただ、油にオリーブ油を使ったため、ちと主張が強すぎる。 オリーブの臭いに米酢は合わない。 それにクセが強いから、あまりたくさんは食べられない。 ここはサラダ用に別の油を用意すべきだ。

本屋で中原中也詩集を買う。これがまたすごい。 なんでかわからないが衝撃がある。 こういうものは、考える前に感じるべきものだが、 そんなことを考えるまでもなく ただ感じさせられてしまう。 言葉の力を知った。

親から荷物。あけびというものが入っていて、 食い方もわからずかみついてみる。 外側は味がない。むしろ食えない。 メロンみたいに種とそのまわりにワタみたいのがあるのだが、 そこを食ってみる。柿っぽい甘さがあるにはあるが、わずかだ。 そして凶悪なのが種。かんだらメチャクチャ苦い。どうやら種ははきだすものらしい。 なんだかわからない物体だ。おいしいもなにもない。不気味である。

親に電話。フランス文学のプルーストという人がすごいらしい。 母親が5行読んでやめたというすごさだ。読まねば。 うちの母親は大学でフランス文学専攻だったのだが、 フランス文学は合わなかったらしい。

アホから電話。いろいろと送ってくれるらしい。 「春よ来い」でまことムービー。汚ないよ。そんなの。 癒されよう。奴の家で集まった時に寝る時にそれをかけっぱなしにしたら、 「汚ねえよ。寝れねえよ」といって怒られたといういわくつきの代物だ。

KANON。2回目舞シナリオ読み終える。 わからん。アレで悲しむ主人公に舞の分身たる少女が現れて、 約束をする。その約束を汲んで超越者たるあゆが舞の命を救う奇跡をおこす。 その力の余韻か、舞の力によるかはわからないが、 心的な過去で舞と主人公は 再開かつ出会いを果たす。これが約束の履行になる。 最後のシーンはすでにさだまった現実 の延長にあることは確かだから、 あくまで心的な過去においての話であることは間違いない。 そして、それを舞は自覚していない。舞の力、すなわち分身と主人公の対話である。 主人公の勝手な想像、あるいは空想とすることもできるが、 それは世界観上おもしろくない。想像が閉じたものとみなされないのが この世界だからだ。あゆの夢が現実に力を及ぼすのもその現れだろう。 ああ、書いててわけわからん。 テキスト吸い出して読まんとわからんわ。 深くてわからんのか、出来が悪くてちゃんと作ってないからわからんのか。 どちらかはわからんが、好きになってしまった以上前者だと信じて 解釈せざるを得まい。舞シナリオの同人誌がほとんどないのがよくわかる。 ムチャだ。だが、それがいい。

アホから電話。とある友達が釧路に帰るので、おわかれパーティをすることになった。 10日だ。そして「eternal KANON」(KANON限定同人誌即売会)。これが11日。 行かねばなるまい。これから踊り出ようという世界である。スケジュールはどうか。 金曜夜研究室コンパを早々に切りあげ、夜行バスで東京へ。 不可能なら土曜に行く。 イベント。11日夜。夜行バスでとって返す。12日。研究室対抗ソフトボール大会。なるようになるさ。 というわけで、問題は金だけ。 生きる力がわいてきた。金は、どうにでもなる。のだろうか。

1999年10月6日

かぼちゃ時間2。今度は水だけ。かぼちゃの極限の味に挑戦する。 さて、実験中に芥川の小説を読んだ。早緑氏に借りたものである。 自伝的なものや、 ストーリーっぽいものがないのが多かったが、 とにかくこいつもおかしい。 ただ、地に足がついたおかしさである。 考えて、考えて、悩んで、悩んでその末にたどりついたおかしさではないか。 明らかに読者を意識しているいわば狙った文章なのは確かだが、 そこに現れる感情、考察はおかしくも真剣で、なにやら迫るものを感じる。 狙った技巧の中に光る天然が美しく、また、はかない。 さすがに名の知れた人で自殺しただけはある。 しかし、このレベルにおかしいものがゴロゴロしているとしたら、 創作の世界というのはなんと奇人、変人、天才の多いことか。 到底オレごときに立ち向かえる世界ではあるまい。 だが、そこであえて闘ってみるのもまた一興である。 あきらめは正しくも賢くもあるかもしれないが、美しくはない。

しかし、読書感想文のコーナーでも作った方がよくないか。こうなると。

かぼちゃがうまい。バナナより甘い。しかし、何もいれないよりも 少量の醤油をいれた方がよりかぼちゃの味を ひきだしてくれることがわかった。次からは醤油をいれよう。 これ食うだけで満足。かぼちゃ8分の1個分も食えば、腹がふくれて幸せである。 これから冷蔵庫に常備しておくようにしよう。 コストは200円。かかる時間も20分そこそこで、 保存がきいて冷めてもうまい。栄養は申し分なく、味も完璧である。 腹がへったら蒸しかぼちゃだ。菓子パンなど食っている場合ではない。

次はじゃがいもである。ポテトサラダを常備するというのが目的だ。 じゃがいもはカロリー、ビタミン、ミネラル、値段などでけっこう優れている。 カロリーがあるのが特においしく、 メシを炊くのが面倒な時に冷蔵庫にあれば、こんなに幸せなことはない。 かぼちゃと併用すれば栄養のバランスも悪くはないのである。 あとは手間と味の問題となる。そこを実験で確かめるのだ。 手間と味が合格なら、うちの冷蔵庫には常にポテトサラダがあることになる。 なんと幸せだろう。

夜。KANON。メモをとりながら舞シナリオ。ああ、やっぱええ奴じゃ。 しかし。シナリオライターがちゃんと心情を考えて書いているかははなはだ疑わしい。 どうもしっくりこない。妄想で補わないとダメだ。 ストーリーを自分で作るなら、もう好き放題変えないと形にはなりそうにない。 原作からキャラ以外はもらわないくらいの覚悟がいりそうだ。 はちみつくまさんなどもってのほかだ。シチュエーションとしておもしろいが、 どういう心情でそれを言うのか全く説明できそうにない。 やはり舞はおもちゃ的キャラらしい。 というかKANONは全般におもちゃキャラしかいない気がする。 最大の欠点であろう。 それでなぜオレが気にいったのかはよくわからないが、 気にいったものは仕方がない。 最大限に妄想を働かせて舞という姿をうつし出す努力をしようではないか。 とりあえず、今日は実験で眠いので中断。

HTML関係という称号でリンクをはってくれる人が現れた。 光栄である。おそらく一番労力を割いたコーナーにもかかわらず、 読んだ人は数人であろうからだ。 あれでも相当簡単にわかりやすくしたと思うのだが、 そもそもHTMLをエディタで書く人間などゴミのような数しかいないのである。 それを強要する段階でもう誰も読めないものになっているに違いない。 スタイルシートもこんなに便利にもかかわらず使う人は全くといっていいほどいない。 すくなくとも身内では皆無である。段落字下げ、背景画像配置、行間制御などは スタイルシートでしか実現できないというのに。仕方ないことだ。 たぶん、未来にハデに楽をするために今少しの努力をする、 というのはダサいことなのだろう。 未来の大きな快楽のために、今すこしの苦痛を味わうのも同じように ダサいことなのに違いない。つまり、オレは、ダサい。結構だ。ダサくて。結構だよ。

日記内イヤコラム−バカにするとは何か−

  バカにされたと思った時にどうするか。これはけっこうおもしろい問題である。 というわけで、少し考えてみよう。実は実験中にえんえんと考えていた。 まず、バカにするという行為は3つのことを含んでいる。

  1. 何らかの欠点を指摘すること
  2. その点において自分がより優位にあることを表現すること
  3. 対等にふるまう態度を破壊する意思があることを表現すること

  この3つである。ひとつでも欠ければ「バカにする」とは言えない。

  さて、まずバカにされたと感じたら、 「何に関してバカにされたらしいのか」を考える必要がある。 この段階で上の条件の2番目や3番目について確認をする必要はない。 してもかまわないが、その結果は手順にさしあたっては影響しない。 バカにするという条件を満たさないまでも、 「欠点を指摘」されたのは明らかであり、 その原因が自分にある確率はかなり高いからである。 もし、ここで「奴の方がひどいじゃないか」 という結論が出た場合、それは2人の間の比較で終始してしまい、 せっかくの指摘を自分の成長に使うことができなくなる。 また、「奴はバカにするような奴なのだ」という解決のしかたも、 それと同様になんら自分にプラスにならない上に、 こちらから対等な関係を破棄することになってしまう。 指摘された欠点を棚に上げて、人格面で自分が優位に立ったかのように考えるのは 健康とは言えないし、 時期尚早といえるであろう。 つまり、指摘は一旦は素直に受けいれた方がよい。あくまで「一旦は」である。

  さて、指摘された欠点がいわれなきものであるならば、 話はそれで終わりである。相手のこちらに対する態度を推定して、 こちらから彼に対する態度を自分の性格を考慮してきめればいい。 バカにしかえすも良し。無視するもよし。そのへんは価値観の違いで変わる。 だが、指摘された欠点が思いあたるものである場合、 それを直す手段を考えた方がよい。 いかに相手の行為が悪意に満ちていたとしても、状況は最大限に利用すべきである。 これを機に欠点がわかり、直すきっかけになるならばそれに越したことはあるまい。

  さて、それで相手の行為の一応建設的な利用は終わった。 次は相手の自分への態度をはかることになる。 3番目の条件「対等な関係を破棄する意思の現れとしてかどうか」である。 これは他人の心の中のことなので断定はできないが、 確率的にどうであるかを推定することはできる。 その結果悪意がある確率が高いと思われるときには、 自分の性格に照らして行動を決めればよい。 一応自分の欠点を認めてはいるのだから、「なんだこの野郎」といって逆ギレするのは 愚かであろう。ただ、今後の態度に影響するだけのことである。 悪意がなさそうだと判断されたならば、それは単なる意見の宣言にすぎない。 「あなたはこの点で能力が足りない」という宣言だ。 それを聞いて怒るのは勝手だが、相手にそういう悪意がない以上、 怒るのは一方的な関係の破棄になる。賢くはない。

  さて、感情的には「こいつに言われたくない」というのがある。 つまり欠点を指摘してきた人間の方が自分より下に思える場合である。 この場合、相手がその能力を過信しているのか、 ただその能力と関係なく責任や役職に照らして能力が足りないといっている だけなのかを区別しなければならない。冷静に比較して前者の結果が出たのなら、 相手にする必要はない。さようならである。 しかし後者であれば甘んじて受けねばならないだろう。 仮にそこに悪意があるにしても、その点に関しては受けいれるのがいい。 彼に対する態度をどうするかは別の問題である。 ここで頭に血がのぼって敵意だけになってしまうと、冷静な自己分析は不可能になり、 いろいろとやっかいなことになるであろう。

  結局のところ、「バカにされた」と感じたら、「本当にバカにされたのか」 「それに根拠はあるのか」の2点を考えた方がいいということだ。 相手に対する態度を決めるのはその後で十分間にあう。 話をすりかえて心の安寧を得るのは簡単で効果的ではあるが、 後にさまざまな弊害を残すこととなるからである。 なんにせよ、「何をどういうふうに」言われたのかにおいて、 「何を」と「どういうふうに」を分けて考えるのが良いと思う。 それは感情の産物と、理性の産物をある程度分けて考えるということであり、 より物事が見えてくることになるからだ。なお、オレにそれができるかどうかはこの 際問題ではないので、「できもしないことを言うな」などという誹謗は無効である。 理想と現実もよく区別した方が良いのではなかろうか。

1999年10月5日

おやつ。蒸しキャベツ。おいしい。幸せ。

かぼちゃ時間である。適当に切り皮を下にして並べ、 5mmほど酒をいれ、醤油を少しかける。 あとは弱火でやわくなるまで加熱する。 ちなみに種は栄養があるので干しておいて、後で煎っておやつにする。 さて、やわらかくなった。ところが。酒くせえ。 これは酒だ。考えてみれば入れたのは紹興酒。 料理酒などとは比べものにならないくらい主張の強い酒である。 少量なら香りが出ていいが、こういう大量に使う用途だと激しすぎる。 無駄とは思うが少し水を足して、しばらくとばしてみよう。 次からは酒少々に水にした方が無難かもしれない。 さらに醤油が少しきつい。減らそう。かぼちゃは味が濃い野菜だ。 醤油など香り程度で十分である。 しかしそれを抜きにしてもうまい。 酒の臭いがなくて、醤油が適当だったら絶品であろう。 こんなにかぼちゃってのはうまかったのか。

KANONを借りる。もってるものを借りるなんて、泣きたい。 実はどこかに置き忘れているのではなかろうか。 置き忘れられた人も気付かぬくらいひっそりと置き忘れているに違いない。 さて、 KANONで小説を書けるかは舞への愛の大きさにかかっている。 二度やって観賞に耐えるかどうかはむつかしい問題だからだ。 なお、部内小説同人誌に舞小説をのせることに関しては責任者、 すなわちまさひろからOKをいただいている。 が、やるかどうかは出来しだいだ。 「原作を知らなくてもおもしろい。知っていればなおおもしろい(出典:こみパ)」 ものを目指さねば到底載せられるものではない。

うちの漫研は都会的である。 一方オタクやマニアは都会的ではない。 したがって、うちの漫研はオタクでもマニアでもない。 ここでの「都会的」の定義はそれをみたすようなものだと思っていただきたい。 これって特殊なことではなかろうか。善悪の問題ではなく、 ただ事実として特殊である。京大においてアニメ同好会などの マニア・オタク系サークルが漫研と別に 存在しているのはその現れではなかろうか。

1999年10月4日

電車の中で、舞漫画を書く前に小説にしてみたらおもろいかもなって思った。 プロットがより頭の中ではっきりするし、文章もうまくなる。 さすがにそれを部内同人誌(水車小屋)にのせると言ったら拒否されるんだろうが、 それはそれとしておもしろい。このサイトに小説を置くというのも ネタとして十分なおもしろみがある。よし。KANONだ。決定。でもみつからない。 仕方ないので誰かに一時的に借りよう。 盗まれたのか、想像もつかない人間に貸しているのか、落としたのか。 この狭い部屋の中に隠れる場所などない。麦畑ではないのだから。 うさ耳をつけたら見つかるのか?

終の空を店でみかける。パッケージの裏のあらすじがおかしい。 本当におかしいのか、みせかけかを見極めねばなるまい。

本人にギリギリ聞こえるかどうかな陰口というのは美しくない。 誰のことを言っているのかなんとなくわかるような気がするけど 確証が持てないような文章のことだ。 ことを一般化してそうなっているというのが建前なのだが、 気にする人は気にするので、そういう人にとっては苦痛になろう。 だから反省してもうやめる。はっきりしていると何かと損をしがちであるが、 「かなり悪者」から「すげえ悪者」に昇格するだけと思えば大したこともない。 誤解もなにも、そう見えるものが見た方にとっては真実である。 見せてしまった方がそれを修正する努力をすることもできるが、 まず成功しない。印象というのはそういうものだ。手遅れ。 この文章を要約するとこうだ。「キレた」。アクセントは「レ」だ。 すぐキレる大人たち、なんて文章を書いてみたいものである。

オレは敵を量産することにかけては達人であるが、 それを自覚しているあたりもまたその性能を高めているに違いない。 身内にとってはたまらないだろうが、 赤の他人にとってはけっこうおもしろいのではなかろうか。 仮にオレがオレを知らなくてサイトだけを見ていたら、 「こいつ、バカだ。もう少しマトモに生きろよ」ってな感じであろう。 実際自分で日記を書いている最中にも「あ、ここクッセエ」とか 「お、熱血だ」とか「印象わるぅ」とか 「あ、この表現変だ。でもオレっぽいからいいか」 とか思っていたりするのである。 これをうぬぼれというのか自虐というのかはいまひとつわからない。

日記内コラム−究極の鍋−

  大阪。道具屋筋。実はいつも行っている日本橋の電気街のすぐ横にあった。 いちいち変な行き方をしたために時間ロス。 さて、そこでビタクラフト鍋を探す。特殊な鍋らしくそうそう見つからないが、 とある輸入物専門店で発見。値段を見てぼうぜん。 だが、いい物というものはえてしてこういうものである。 なんの変哲もない直径27cmのズンドウ鍋だって1万近くする。 であれば、最新鋭の特殊鍋でスイス製の舶来の品が その倍したとて何を驚くことがあろう。 中堅クラスのインクジェットプリンタと同じ値段だとしても、 使える時間、効果などを考えれば、なんら劣るところはない。 なにせ10年保証だ。メーカーのそこはかとないどころでない自信のほどが うかがえるというよりモロ見えであろう。 と、こういう理屈で自分を説得することに成功した。 親にあわせる顔がない。

  米を炊く。もちろんそのビタクラフト鍋でである。 この鍋。特徴はその恐しいまでの熱伝導率と、密封性、 そして保温性にある。熱伝導率が異常に高いために、 一箇所が強く加熱されて焦げることがない。 密封性が高いために蒸気が回り、蒸すような効率の良い加熱が可能になる。 そして保温性のために無駄な加熱をする必要がない。 そばをゆでる時など、湯をわかして後そばを入れ、 火をとめてフタをしてその時間だけ待てばいいという代物だ。 野菜の加熱も水を必要としない。熱が全方位から均一にくる上に密封されるため、 ただ野菜を入れて、数分蒸せばいいだけである。 水に溶けたり、熱でこわれたりする栄養は最小限になる。 そして、栄養のあるものはおいしいのである。

  それにしても、ビタクラフト鍋のあるところ丸元の影。 売っていた店でも丸元の料理本が置いてあったし、 説明書でも丸元の本が勧められている。 こういうのを見ると陰謀の臭いがするものであるが、 オレはさほどイヤな気分にはなっていない。 なぜなら、奴の文章にはそういう不純なものはまったくといっていいほど 感じられないからである。 頭は切れる男だろうが、自分の正しいと思ったことを広めたくて仕方がない様子が あまりにも目に浮かぶ。彼は実験を尊ぶ人間であるし、 さまざまなものを試してきたのは確かだ。それでビタクラフトが理想の鍋だ というのならば、そこにメーカーの利益が介在していたとしてもなんら問題はない。 そもそも、売ろうとする意思が不純であるなどと決めつけるのが間違いである。 いいものを作ったら売れるはずだと信じるのはなんら不思議なことではない。 おそらくその鍋を開発したメーカーも金銭的な利益だけでなく、 丸元同様の動機でも広めたくて広めたくて仕方ないのではなかろうか。 オレはこういう人間達が好きである。仲間だ。

  米が炊ける。見事だ。焦げず、かといって水びたしでもない。 見事である。ただ、やはり水につける工程を省いたために多少固めではある。 玄米の宿命であろう。 しかし、うまいことにかわりはない。 おかずは鮭の刺身とちりめんじゃこ。

  しかし、この炊け具合。チャーハンがちゃんとできそうなまでにちゃんと炊けている。 であれば実験あるのみである。まず油、卵、塩、かきソース、こしょう、ねぎ、 ご飯を完全に(瞬間的に左手で取って鍋に入れられるように)準備する。 中華鍋を熱する。油。間髪いれず卵。1〜2秒後にごはん。 以前はしめったごはんのためにパラパラにするのにえらい時間がかかり、 加熱のしすぎでたまごの風味が失われてしまっていたが、今なら。 数秒でメシをバラして塩、こしょう、かきソース、ねぎ。 火をとめてかきまぜて終わり。余熱を避けるために即座に盛る。 油投入からここまで1分とかからない。 そして、うまい。米とはかように甘いものであったか。 調味料の加減を洗練させ、もっと動作を速くして、 米を水につけてもうすこしやわらかく炊けば もはや十分であろう。 栄養も玄米だけに申し分ない。 味も白米などとは比べようもないほどしっかりとある。 残念なことに卵の栄養はだいぶ失われるが、 こればかりはチャーハンである以上どうしようもない。 しかしもっと加熱時間を減らせばそれだけ損失もすくなくなり、味も保たれる。 「速さはうまさ」である。

  炊飯器としての性能は確認された。次は野菜である。 本当はかぼちゃで実験したいところだが、時間が時間であり店は開いていない。 何よりも冷蔵庫にキャベツが余っている。 キャベツは丸元によれば加熱無用の野菜だが、生で食うのも面倒である。 そこで、これで実験を行う。これがうまく行けば、いちいち中華鍋で油を使って 料理しなくても野菜が食べられるようになるのだ。 あれはどうしても油が多くいるため、そう大量に食べる気にはならないし 油のとりすぎにもなる。蒸すだけでおいしいなら油など無用である。 さて、まずはキャベツを適当に切って、ビタクラフト鍋を中火で熱する。 水を入れるとすぐまるく鍋の上を踊りまわる程度になったらキャベツを投入。 ふたを閉めて2分。ときどきゆらす。火をとめてかきソースを少し入れて、 そのまま余熱1分。あけてかきまぜて終わり。 どうか。一見生である。なにしろ外見が変化していないのだ。むしろ鮮かで、 生よりも生に見えるくらいである。だが。食える。ちゃんと火が通っている。 生キャベツのトゲトゲしさはなくなりつつも、 キャベツの味そのものである。甘味をはじめとする味が濃いので、 何もかけなくてもおいしいだろう。 しかしかきソースは偉大で、さらにおいしくなる。

  だがだ。キャベツは生でも食え、加熱しても甘くなるだけでさしたる 変化がない野菜である。うまいのがオレの錯覚であり、 実は火がちゃんと通っていないという可能性も否定できない。 5けたの鍋を買うという経験はそのくらいのことなら難なくやってのけるような 力をもっているのだ。 そこで、完膚なきまでに生ではしんどい野菜を用意する必要がある。 第一号は人参だ。細く棒状に切ってあればサラダにもなるが、 大きければ固くて到底生で食う気がしない野菜である。 そこが狙い目だ。さあ、力を見せてみろ。

  にんじんを縦に厚さ3mm前後の短冊切りにする。皮はむかない。 皮のあたりが一番栄養があるのだそうだ。後はキャベツ同様に加熱。 そして。食える。中火加熱2分で、十分食える硬さだ。 しかし、甘くはなっているものの猛烈な人参の味。 だが、食える硬さになったことに変わりはない。ビタクラフトの勝利である。 ただ、多少こげついた。 強火は1分で切りあげて、あとは弱火にした方がいいかもしれない。 その後試しに弱火で3分加熱してみたが、さほどの変化がない。 人参の味はきついままである。ということは、 煮た時に人参の臭いが薄れるのは、熱の効果ではなく、 構成物質が外に流れているからだということになる。 この料理法だと水を加えていないのだから、流れようがない。 今まで炒めていた時には加熱が長い上に他の野菜の水分が多かったので、 人参の味は相当薄れていたのである。 その人参にしか慣れていなかったオレにモロの人参はちとしんどい。 残った人参は豆スープに入れて食うことにする。 幸いこの料理法だと組織の破壊が最小限なので保存が効くらしい。

  さて、にんじんといえばカロチンだが、 それならかぼちゃもすごい。 というわけで、かぼちゃでカロチンは補うことにする。 やはりオレは人参が嫌いなままだったようだ。 というわけで明日はかぼちゃで実験。一個蒸したら一日食える。

1999年10月3日

今日は昨日の道場の筋肉痛のおかげで動く気がしなかった。 メシを炊く気にならず、ふらふらとラーメンを食いにいって、衝撃。 大盛り一杯で胃が痛い。フラつく。気持ち悪い。 なんだこれは。おそらくここしばらくの異常に健康的な食事のせいで、 オレの胃はああいうものを受けつけなくなっていたのだ。 過剰な油。塩。そういうものをだ。 そもそも超特大すら食えたオレが大盛り一杯でしんどくなること自体がおかしい。 もはや二郎の大は食えまいて。 とにかく、健康的に生きざるを得なくなったのだった。

料理用具屋って、日曜やってんだろうか。 本当は今日大阪に行く予定だったのだが、 体中の痛みと寝不足で断念したのである。 であれば明日(3日)行くしかない。 だが、店がやっていなければ終わりなのだ。 果してどうなのだろうか。 普通の小さい店の集りだけに日曜休み率は高そうである。 今はコンピュータ関係の用事はないので、 大阪に行って店がねこそぎしまっていた場合、ただ1360円がパーになってしまう。 だが、一週間待つのは辛い。文明の利器、料理の革命とまで丸元が言う、 ビタクラフト鍋(多層ステンレス鍋)がどうしても早くほしいのだ。 京都に売っている店がないとは思えないが、ありそうにもない。 平日は動けない。となるともはや明日に賭けるしかないのではないか。

早緑氏の家に行って、和音の基礎を教える。 これで彼も基本は知ったことになる。 基本を知りつつもオカシイものを作るというのが彼の目標らしいので、 非常によろしい。

猿山(仮)から電話。奴もオレと同じことで悩んでいた。 似たような人間ということだろうか。しかし、 ああいう内容を人にさらしたらどんなにおもしろいことになるのかと思うと、 恐くて恐くて、とてもわくわくする。ストレスの発散に丁度いいが、 オレに不利益なほど楽しそうな気もするので、当分はやめよう。

1999年10月2日

研究室ではもうWEBサイトは見られない。 Navigator3が使えないほどショボい機械に代わるのである。 メールサーバがお亡くなりになり、 代わって今までNavigatorなどを使っていたメインマシンがメールサーバの 任を果たすことになったのだ。代わりにやってくる機械はメモリが12MBしかないため、 到底navigatorは動かない。ちなみにこれらはすべて古いマック(93-94年)。 先生はコンピュータに関して無知だ。 「この機械は丈夫だった」というのは何か間違っている。 コンピュータは丈夫さで評価するものではない。 あそこで作業をするにはどうしてもノートPCが必要だ。 なんとかしなくてはならない。それもかなり切実に。 金がいるだろう。働かなければならないかもしれない。 この忙しい時期になんということだ。

ノートPC。高級品の代名詞である。 しかし、オレに必要なのはエディタ(mule)とMP3再生能だけだ。 Windowsが動く必要などない。 しかし、新しい方が小さいし使い勝手もいい。 やはり最新の安いモデルが一番かもしれない。 安いのはないものか。

急にマウスが動かなくなって数日。Windowsでは動くが、Xでは動かない。 全てタブレットでやっている。何かおかしいが、何がおかしいかはわからない。

拳法後。のじり氏にグチを聞いていただく。ありがとう。 ある程度結論が出た。アテにしない。甘えない。 ドーナツが食いたい時にカレーがあっても満足しないのだ。 ドーナツを作ろうとしても、 人参とじゃがいもしかなければカレーにしかならない。 人参とじゃがいもではどう料理しても、ドーナツにはならない。 しかし、卵は無理でも鶏はいる。小麦粉は無理でも麦はある。 なんとか努力の末に、いくつかの材料が足りないながらもドーナツが 作れるかもしれない。それを夢見て、努力する。 たまには遠くまでドーナツを食べにもいくだろう。 いつもドーナツを食べられるところに住むのは今は無理なのだから、それしかない。 仕方ない。どうしようもない。できる努力はそれだけだ。 無理に人参やじゃがいもからドーナツを作ろうとする試みは 失敗に終わったのである。いや、それは終わっていたのだ。

謙虚。どういう意味か知ってますか?説明できますか? オレが求めるのはそういうことである。 言葉のイメージは大切であるが、それはそれとしてイメージにとらわれず 相手が何を考えてその言葉を使っているのかを考える姿勢。 これが欠けていることも狭量と呼ぶのではないのか?

1999年10月1日

今日は実験がない。なぜなら、結果待ちだからだ。たぶん明日もない。 だが、研究室には行かなければならない。これが面倒でもありもったいなくもある。 で、研究室で「羊をめぐる冒険」を読みおえた。やっぱりわからん。 筋はわかるが、なんでこんななのかよくわからん。 とにかくこいつは変だ。それもなにか都会的で、クールな変さだ。 一見「おかしい」ということの種類としてはうだるに似て見えるが、 あっちはもっとあからさまでドロくさい。 そこに彼の誇りがあるにしろ、あれは売れないだろう。 だが、これが売れるのはわかる。今は都会人の時代なのだ。

腹が減ったので豆スープの残りを食う。 マズくない。むしろうまい。なぜか。セロリ臭がだいぶ飛んだのである。 豆の味そのものはかなり濃く、 塩ちょっととターメリックしかいれていないとは思えない味だ。 さぞや栄養もあることだろう。事実、ここ15時間以内に食ったのは この豆スープだけであり、腹もさほど空いてない。減ってはいるが、 我慢できないこともない程度だ。 とりあえず、また研究室に行かねばならんのでちょっと補給をしていこう。 穀物詰めあわせ。研究室ではえんえんとダンスダンスダンスを読むことになるだろう。 やることがないのだから。

ダンス・ダンス・ダンスを読みおえる。素直に言えば、「わからん」。 ONEの元ネタであるという断定をする材料もない。 しかし、 この4冊を読む前のオレと読んだ後のオレにはこの本の厚さ以上の違いがある気がする。 何時間もかけて考えればそれがどういうことか説明できるかもしれないが、 それが大した意味を持ちそうにはない。理屈で言えるのは、 村上春樹はただおかしいだけの人間じゃないということぐらいだ。

明日もやることはないだろう。何か読む本をしいれなければならない。 隆慶一郎はおもしろいが、面白さの質はもう見たものだ。 まずは借りている星新一をかたづけるべきだろう。しかし、数が多すぎる。 ネタ的、つまりは知的なおもしろさに偏っているから、そう長くは読んでいられない。 別に何かいるだろう。 うだるの読んでいる本を読むのも悪くない。 それにしても近頃読書がはやりである。なぜか。

21時。寝ていた。今、 おもしろいことがわかった。まさひろから電話が来て、 今日は木曜日であることがわかったのだ。おかしい。水曜日ではなかったのか。 昨日、おとついとイヤな実験の印象が強く、 てっきりその前は日曜日だと思っていたのだ。 しかし、考えてみればその実験の準備をした日というものがあるはずだった。 今日商店街に行って水曜休みの店が開いていたのもおかしかった。 その時にもおかしいとは思ったのだが、それ以上考えなかった。 村上時空にとりこまれたせいか、それとも。 木曜といえば、漫研の例会の日である。 まさひろはオレを待っていたそうで、悪かったなと思った。 彼はこれから東京のリーフ系イベントに行くらしく全くうらやましい。 明日はたぶん実験がないが、たぶんであるし、 今からどうやって行動を共にできようか。 とりあえず、今から漫研に合流するのも面倒であるし、やることもなさそうなので、 寝なおす。

日がかわった。アホからの電話の後、漫研の友達に電話をかけてみる。 すると、明日一限があるからそう遅くまでは 遊んでいられないという。これでは彼の家には行けない。 そして漫研の残りの連中が麻雀に行ったことを知る。 先ほどのオレの選択は正しかったと言えよう。オレが行ったことでその定まった 運命が変わることはなかったであろうから。

バナー0号のドット修正をする。なんとか何があるかわかるようになった。 直径32ドットの顔は小さい。128色でこの辛さである。 いまだに16色でスプライトを作っている職人には、 その行為の是非はともかくとして技術には敬意を払っても良かろう。

KANONだ。舞に癒してもらおう。探さねば。どこ。どこ。どこなの。 セイラが出てくる。

日記が多い。ユーザアンフレンドリーだ。そんな言葉はない。 多いのはそれが多いからだ。あれも多いし、これも多い。それ、どういう何よ?


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