日記

1999年9月30日

今日の食事。朝はメシを炊いたところで力も時間も尽きたため、ちりめんじゃこを かけて食うただけ。 昼は実験(2800コロニー4時間半。むなしい加速)で食っていない。夕方。 いつ買ったかもわからないようなしなびたピーマンを処理する。 半分にきって種とヘタをとり、水を切る。中華鍋を熱して、油をいれた瞬間に ピーマン投入。20秒ほど炒めて火をとめて、かきソースと醤油を少々。 余っていてこれまたしなびたねぎをきざんで投入。ちょっとかきまぜて終わり。 しなびていても、うまい。ごはんにはちりめんじゃこ。うまい。 なんだこの食事レポートは。

丸元を試してやろう。そう思って、材料をしいれにいく。 しかしそうそうあるものでもない。 なんといっても聞いたこともない豆やわけのわからないスパイスである。 そういうものが売っている店といえば、 白川今出川のサンプラザだ。丸元の手下であるかのように、見事にそろえている。 そこで豆3種類と、黒こしょう、ターメリック、月桂樹の葉を買う。 例の朝飯用穀物つめあわせも非常食として補充。 帰りにかきソース、ストック用のセロリその他を買う。 関係ないが、途中の本屋で中坊林太郎(原哲夫の漫画)を買う。 なんと一回の買い物で5000円近い消費。もちろん当分もつような量なのだが、 なんとも気分がいい。最初に作るのはいんげん豆のスープである。 栄養があるのは当然だろうが、はたして言うほどうまいのか。 明日の朝実験をする。 そのうちこのサイトに料理のコーナーでもできたらおもしろいかもしれないが、 オレは味オンチなので、ダメである。つまり、ここに書いてある「うまい」は 信用できない。

丸元によると、穀物、豆、野菜、魚の4つが必須であるということだ。 砂糖や肉は全くいらない。普通は穀物4、野菜3、豆2、魚1くらいのバランスになる。 穀物といえば米だが、白米にするといまひとつ破壊力がない。 丸元もさすがに玄米にしろとまでは言っていないが、幸いオレは玄米に慣れたため、 これで大幅に栄養をかせげる。 次の豆だが、最強の栄養を誇る大豆は固くて面倒である。 無理に食うにしても水につけたり長く煮たりする間に栄養が 粉砕されてしまってもったいない。 ということになると、多少栄養が劣ってもすぐ煮てやわらかくなる豆がいい。 この条件をみたすのが、今日買ってきたレンティル、割ったグリーンピース、 割ったインゲン豆である。 これらが常食する気になるほど簡単にうまいものにバケるかどうかが問題といえよう。 次は野菜だが、丸元本にはあまりオレの食生活になじみそうなものは書かれていない。 グレイター(スライスする機械)がないと面倒だったり、 無水調理鍋が必要だったりするからだ。いずれ買ったら考えるが、 今は何も考えないで炒めて食えるキャベツ、チンゲンサイ、 小松菜、ピーマン、にんじんがいい。こいつらのどれかはたいがい安いし栄養がある。 炒めれば早くてうまい。 料理してからの保存がきく野菜としてはじゃがいもがあるので、 いずれポテトサラダにして常備しておこうとは考えている。 さて、魚だ。これはちりめんじゃこと鮭がある。丸元によるとたらこがいいそうだが、 たらの卵を樽で買ってきて自分でたらこにするのはあまりにもだ。 初期投資が1万超とデカいのも辛いが、 冷凍庫が小さいのが一番痛い。巨大な冷凍庫があれば即やっているだろう。 そういうわけで、鮭とちりめんじゃこである。鮭は骨まで何かに使えるし、 なにより値段のわりにうまくて、保存がきいて、栄養がある。 ちりめんじゃこはキロで買えば安いし、保存がきくし、メシにのせればそれでうまい。 あとはたまにその他の果物や魚を安く買える時に食えばいい。 どうしようもなく時間がないときは例の穀物を食うが、あれも栄養はすごい。 牛乳をかけて食うので、さらにすごい。あれは保存がきくので、 たまに食うなら高くもないのだ。

リンク集を、どうせバナーを使わないのだからとすべてDefinition Listにする。 見栄えが悪いという方もおられるだろうが、この方が自由度が高く、軽く、 Lynxでも見やすいのである。見栄えなど二の次だ。

いきなり思いつく。「バナーを作ろう」。 自分のとこのリンク集にもつけてないようなものを置いてどうするのか よくわからないが、バナーがあるとなんか流行りのサイトみたいで気分がいい。 自分がそう思うんだから、ここにも他の人のをおかねばならないのだとは思うが、 そこはそれ。バナーにはテーブルがつきものであるが、 テーブルはLynxでは見にくいのだ。

バナーを描きながら、腹が減ったので豆スープを作る。 しかし、ひとつだけハデな失敗をした。ストック(ダシ汁)を作る時に、 「オレがセロリが嫌いだ」ということを度外視してしまったのである。 少量ならいいものを、2本分の葉をブチこんでしまった。 部屋中セロリ臭である。しかし、このスープ味そのものは悪くない。 鳥ガラでストックを作り、セロリを減らし、キャベツの芯なんかで甘みを出せば、 けっこうおいしいはずだ。だが、今回は失敗である。 味はセロリだし、臭いはセロリだ。セロリの呪いから解き放たれるためにはえんえんと これをすすり続けなければならない。 ストックを作ろうなんてせずにただの水だったらこんなことにはならなかったものを。 しかも途中で気づいて薄めたために量は倍になっている。 オレの慟哭を聞け。

1999年9月29日

28日早朝。4時半。下のイヤな文章を書いてのちいきなり思い立つ。 「市場へいこう」。行った。千本七条にそれはある。 京都市中央卸売市場。しかしデカデカと書いてある。 「小売はしません」。なかばあきらめながらも、そのへんの人に聞く。 「ここって、一般の人も買えるんですか?」「ゼニや」「は?」 「ゼニやゼニ。ゼニあったらなんでもうったるで」 あきんどだった。かくしてちりめんじゃこ1Kg1800円に、 約2.5Kgの紅鮭(特・特、8尾。こう書いても誰がわかるだろう)一本を3000円で獲得。 急いて帰って解体する。 この道のりの長かったこと長かったこと。実際5Kmくらいはあるのだろうが、 気分のことであることは言うまでもない。 まず3枚にし、骨周辺や頭をふくろにいれて保存。これはそのうち三平汁にする。 次に腹の身を焼きやすい大きさに切って保存。 最後に背の身は刺身用なのだが、適当な大きさに切って保存。皮はとらない。 食う直前にとって、とった皮は軽く焼いて食うのである。 さて、まだまだ下手くそなので、ちょっと身がつぶれてしまった。 まないたにはりついていた断片をつまむ。「うめえ」。 メチャメチャうまい。塩加減が絶妙で油はのってるし。 醤油なんてもったいなくてつけられません。ええ、本当ですとも。 わさび(こうなったらもちろんすりおろす前のやつだ)を買ってこよう。 安めの鮭でこれなので、金のある時に良いデカい奴を買ったらどれほどうまいのか。 次は大枚をはたいて「特・沖の6尾」を買ってみよう。わからんっちゅうに。 そして、ちりめんじゃこ。うめえ。 そのへんに売ってるやつは無理にやわらかくしようとして、 干し具合が浅く、それでも保存性を高めねばならないので塩がききすぎている。 さらに白いのが売れるらしいので、不自然に白い。 だが、今日買ってきたのは違う。よく干してあるし、 赤っぽかったりしてぜんぜん白くない。だが、これがうまい。 高いんじゃないかと思うかもしれないが、1Kgである。100gの10倍だ。 10gの100倍である。10gのしらすというものは、思ったより多いのだ。 それの100倍である。 つまり何がいいたいかというと、けっこうな量だ。 袋につめてるおっさんを見ているオレの目はおどろきに満ちていたに違いない。 ああ、栄養だ。丸元の口車にのせられている可能性もあるが、 無駄に金がかかるわけでもなければ、不健康になるわけでもない。 損をしなければダマされてもいいのである。というわけで、いいぞ丸元。

朝飯。メシを炊く。今日はちょっとあたたかくて、メシを炊きたくなる度が低めだが、 あのうまさを思い出した後ではそんなものは障害にならない。 ましてや今日はおかずがあるのである。ひときれ刺身用に出しておいている。 ちりめんじゃこもある。なんて贅沢な朝飯だ。あとはみそしるがほしいが、 これは別の機会にしよう。今は金がないので、 いいかつおぶしなんて買ってこれないのである。相場は今日確認済みだ。 買えない値段では到底ない。 金をおろしたら、即座にかつおぶしとかんなを買ってきて、 けずってみそしるを作る。ああ、何こってんだろ。でもよし。 こうしてオレはまさひろの陰謀に見事にはまった。くそ、ありがとう。

それにしてもいい包丁がほしい。中華包丁は野菜や肉には理想的だが、 魚、それもモロい魚を切るにはしんどいものがある。 熟練次第でどうにでもなるのだろうが、すこしアレだ。 今日の解体も専用包丁ならもうすこし楽だっただろう。 そしてまな板。小さい。40cmを超える鮭を解体するにはあまりに小さい。 巨大なものが必要だ。 これらを買える店は京都では知らないので、 東京に行った時にかっぱ橋でまとめて購入だ。年末が楽しみである。 金が万単位でかかることになるが、 こういうことに使う金は本に使うのと同じで惜しくはない。 飲み会やらカラオケやら服やらに使う金があったらこういうことに使う方がいい。

朝飯くった。しらす、鮭共にうまい。こうなると問題はメシである。 もっとうまい炊き方を工夫しないと、せっかくのおかずが生きない。 水加減、そして火加減である。すこしその関係の本をあさってみよう。 玄米だけに手強い。

今日の実験。プレートにみっしり生えたコロニーをひとつづつ 区画わけしたプレートにつまようじでつついては移す。 レプリカプレーティング法といって、都合のいい菌を選ぶ方法の一つである。 移すプレートには細工がしてあって、 都合のいい菌が生えると色がつくようになっているのだ。 数日たってみてみると都合のいい菌が染まっているので、 そいつをとってきてうれしいというわけである。 今日。2800コロニー。一回つかったつまようじはもう使えない。 つまり2800本のつまようじが消費された。こいつは蒸し焼きにして殺菌し、 また使う。11時半から5時まで、休み時間は合計5分もない。 飲まず喰わずでつつきつづける。コロニー1個7秒。もうヤダ。 でも、明日は続きだ。その数2700コロニー。 しかも、これで都合のいい菌があまりとれなければ、 いくらでもこれをくりかえすことになる。

研究室からうちのサイトに行ってみる。うちからのリンク先を見るためだ。 朝方更新するサイトもあるが、今日は市場だったのである。 で、うちのカウンタをみるとぴったり9000だった。 8000だったのは16日である。一日75カウント。 よろこばしいと言っておこう。もっと充実させなければ失礼にあたるに違いない。 しかし、誰が見ておられるのであろうか。不思議である。 こちらへのリンクは検索してもほとんどないというのに。

7時に寝たので、3時におきる。この前の段落までを置いてきて、 えんえんと絵に色をぬる。むつかしすぎるわ。どうすりゃいいのかさっぱりわからん。 なんでこんなに線がベレベレなのか。まあ、そのうち慣れるだろう。 とりあえずおくが、さっさとこんなもの廃棄できるように新しいのを描こう。

1999年9月28日

近頃落ちこんでいるので、これを読まれる方はさぞ不快になられるのではないか、 と不安になる。日記はエンターテインメントである以上、 人を不快にすることは書くべきでないのだが、 理でどうにもならぬことがあるものなのである。 かえってそれをおもしろがる方もおられるか、 などと甘えが入ったりしてこのような次第になっている。 ご容赦いただきたい。

今日は実験第1日だ。えんえんと培地を作って、遺伝子をもてあそんだ大腸菌を植える。 明日はそれの選別である。これをえんえんとくりかえして都合の良い菌をみつけ、 よろこぶ。そういう作業だ。しかし近頃焦っている。 年のせいか、すぐに結果の出るものじゃないと努力する気にならない。 しかも、結果とは人の評価である。漫画、絵、MIDI、プログラム。 そういうものだ。だが、研究はそうではない。 オレにつとまるのか不安になるのである。 学者などというのはひょっとしたら向いていないのではないか。 早いところ売りになる能力を開拓して堅気の道から外れた方が幸せなのかもしれない。 そのための修行でもある。

ここからイヤな反論。一線を超える。

どこぞで苦痛はいかんとかいてあった。 オレだって苦痛はいやだが、苦痛を快楽に変えられるくらい自分を説得できるなら アリかと思う。 「男」という概念も内容がなんであるかなんてどうでもいい。 「男でなければならない」というのは他から強いられることではなくて、 自分に強いることをあえてえらぶあたりが美学なのだ。 その程度の自己満足の話で、内容はない。 オレは一生懸命であることがかっこいいと思う。 いいかげんなのはかっこわるいと感じる。仮にいいかげんな方がうまくいって、 人から認められるとしても、かっこ悪いと思うものは仕方ない。 それは理でなく情である。ただ、自分がそのかっこ悪いものの一部であるより、 かっこいいものの一部である方が気持ちがいいだけだ。 気持ちいい。所詮これも快楽である。 人よりも快楽が面倒なことをしないと得られないだけのことで、 快楽を求めて生きているのは同じことである。

違うことを認めることができないのはオレの未熟さのせいで、 オレの傾向が必然的にもたらす性質ではない。 つまり、オレは狭量なことを望んでいるのではなく、 未熟でアホウなためにこう狭量なのだということ。 狭量はかっこわるいので、かっこいい男になるためには 克服せねばならないとは思う。理ではわかっているので、 情をそういうふうに変えていかねばならない。 それと。別にオレは目的のために今を犠牲にしているのではない。 目的は「他に何も考えられないほど楽しいこと」を見つけることであって、 そのためにはオレの見栄張りな特性からしてある程度自分で 「あ、オレもけっこういけるじゃん」と思うレベルにならねばならないだろう、 と思うからこうやって修行しているのだ。修行とは言いつつ、 やっていれば楽しいのでそう問題ではない。 もし、オレがうまかろうと下手だろうと何も気にせずやってるだけで 他のことが考えられないほど楽しいのなら、こういう面倒な手順もいらない。 他の人がそうならばそれでいい。いいも悪いもなく、それはそれである。 だが、オレは残念なことに違った。オレは未熟でアホウだから、 他人がそうじゃないということを素直に受けとめられないだけのことである。 「自分の正しいと思ったことを他人がみとめないのが我慢できない」 のはアホウで未熟な証だ。かっこわるい。だから、直したい。 そう思いつづけてはきた。

実は。 近頃オレが機嫌が悪いのはそういうこととはまったく関係がない。 苦痛の出どころは漫画やらのことではないのである。 それらのことで悩んでいるのはとあることのとばっちりだ。 つまり。オレと似たようなバカヤロウ、 あるいはこれを認めてくれるバカヤロウが近くにそれほど多くない 状態が長く続いているのがしんどくなった。それだけのことだ。 オレは変人であり、外の人間である。そう思われがちだ。 これはオレのせいで、オレ以外の誰が悪いわけでもない。 人はそれぞれであって、オレとは違う。あたりまえだ。 理性は知っている。上下ではなく違いである。勝ちも負けもない。 理性はよく知っている。しかし、理性で機嫌はよくならない。 こんなことで機嫌を悪くするオレが悪いのだし、 似たようなバカヤロウがいないと楽しくないようなオレが悪い。あたりまえだ。 だがだ。悪いこととは知りつつも仕方ないではないか。 そうなってしまったものはそうなってしまったのだし、 しんどいものはしんどいのである。あーあ言っちまった。 ベルセルクのグリフィスは言う。「おまえだけがオレに夢を忘れさせた」。 そういう奴がいれば目的もクソもなく楽しいはずなのだ。 たぶんオレはそういうバカヤロウといっしょにいれば、 いちいち漫画を書くだのせんでも十分楽しいのである。 それでもたぶん、いっしょにいれば漫画を描き出すだろう。 ゲームを作りだすだろう。だが、それは今よりもっと楽しげにだ。 だが、それが望めない。代わりになるものを探さねばならない。 幸い自己満足という楽しさはそこそこ得られるし、理性は情にそれを納得させるのに 美学という道具を作った。 代わりとしては悪くない。だが、それでも代わりだったから、 ちょっと淋しくなったというだけのことだ。 だが、どうしようもないではないか。バカヤロウをみつける日まで、 なにもせずに空虚な日々をすごしたのでは、そのバカヤロウに申し分けがたたない。 だから、修行するのである。もちろん修行指向はもともとのものでもあるのだが。

寛容。いいことだ。いっしょうけんめいじゃないことが悪いことじゃない。 世の中にそういう意味で悪いものなんてない。 だが、「オレは」いいかげんは嫌いだね。嫌いなんだ。 いいかげんなのは。そこそこなのは。嫌いなんだ。 さかしげな理屈や「こうした方がいい」なんてことはとうの昔に知っている。 知っていても、どうしようもなかったし、どうしようとも思わない。 ただ、他人をそれで不快にするのはかっこわるいから、 それだけはなんとかしなくては、と思うだけである。 もし、オレがいいかげんに、(言葉が悪ければ「そこそこに」)やって我慢できるように なったら、それはオレじゃない。「オレじゃない」ということは相当にイヤなことだ。 これは理性もクソもない。良識も常識もない。イヤなものはイヤなのだ。 オレは断固として戦わ「ねばならない」。戦いたい。 そうでなければオレの快楽は手に入らない。 もしかしたら、そのうちに丸くなってそこそこな人間になって、 「あのころはバカなことに執念もやしてバカだったなあ。世の中はこんなに広いのに」 などと達観してしまうかもしれない。イヤの極致だ。他人がそうなのはいい。 たぶんそういう人間には魅力を感じるだろう。尊敬するかもしれない。 だが、「オレではない」。

「バカでいい」のではない。「バカがいい」のだ。この違いがオレである。

1999年9月27日

MIDIの調整もすんだので、それをBGMにして電気絵に挑戦。 うわ、自信過剰。いやいや、元の作曲がいいだけでござるよ。本当に。 この調子で壁紙も自分の絵になったらいいな、なんてな。 ま、枕はそれくらいにしてだ、 タブレット(ペン入力装置)でいきなり描いてはみたものの、 線がよれてよれて。ストレス。 えんぴつでダラダラ描いてる分にはそうひどいもんじゃないな、 なんて思ってたのだが、えんぴつでダラダラかいてる段階で止まってたから ペン入れをすると無惨になってしまっていたのだ。 このタブレット一撃必殺描きは非常に修行になりそうである。 しばらくはストレスの嵐だろうが。 ま、とりあえず出来はどうあれできたらサイトに置いてしまえ。 「うおーこんなものおいとけるかーはっずかしー」と思って余計に 一生懸命になることうけあいだ。

前の段落無理してんな。 しかし楽しげな文章を描く練習もかねているので、 よしだ。って、バラしたらダメだけどな。だって、落ちこんでんだーオレ。 昨日にくらべると開きなおってるけどな。

BGM(WIZ)よすぎだ。いや、作曲のことだよ。 ドラクエやらFFやらと対等どころか上だろうこれは。 この人他になに書いてんだろ。 やっぱり。どうせパクるならポップスよりクラシックだ。 パクり元のバラエティーが大きければそれだけパクったものも多様になる。 FFがどんどんマンネリな音楽になってんのもそういうことじゃないか。 ドラクエはパクり元が数百年分あるわけで、適当にゴッツイのをパクれば とんでもないバラエティーになる。それだけ他に似ていない音楽になるわけだ。 ああ、オレも作曲やってみよっかな。どうせパクり音楽だろうが。

ひとりボケツッコミができる人間のボケは真のボケではない。 ツッコミのためのボケにすぎないのである。 ボケとツッコミは戰いだ。敵同士だ。 敵に攻撃されることを認めたボケなどボケではない。 だからなんだ(こういうのだ、つまり)。

本を買ってくる。例の丸元の料理本だ。 これがまたおもしろい。ムチャさは減ってるが、 内容の豊富さと異様な説得力はすばらしい。料理にでも凝ってみるかな。 そして隆慶一郎の「時代小説の愉しみ」。これがまたおもしろい。 隆慶一郎が相当なかぶきものだったことがうかがえる。 そして最後に村上春樹の「ダンス、ダンス、ダンス」 ONEの元ネタといわれるだけに期待も大きい。 絵は中断して、ちょっと読書タイムだ。

隆慶一郎のエッセイ集を読みおわる。この人がものすごい人だったことがわかる。 知と情の両方がけたはずれに豊かで、それが調和している。 どちらかに偏った人間は魅力がない。 どちらもない人間はさらに悪かろう。 だが、両方をそなえた人間はそういう人間にすら魅力を発見できるのである。 どうしたらこんな男になるだろうか。

料理本にひととおり目を通す。腹が減る。 これはなんとしても市場にいって魚を買ってこなければ。 たらこを自分の家で作るとものすごくおいしいらしい。 たらこはしょっぱいので好きではないのだが、 自分で作ればしょっぱくなくできる。 それには市場で塩づけしていない卵を買ってこなければならないのだ。 たらこは数ヶ月保存できるらしく、多少大きな出費も問題ではない。 何をみてもうまそうだ。 オレってやっぱり影響されやすい人間なんだなと思う。

ダンス・ダンス・ダンス。変だ。しかし読むのは相当疲れる。 これは実験の待ち時間に回そう。今は今しかできないことがある。

本のせいで腹が減ったので、飯を炊き、チンゲンサイ炒めを作る。 チンゲンサイだけを炒めたものだ。しかし、これがうまい。 チンゲンサイを洗って、水を切り(重要)、そこそこに切る。 中華鍋をいやになるくらい熱して、あぶらを少量入れた瞬間に チンゲンサイを投入(ここでもたつくと部屋が油蒸気で充満する)。 かきまぜながら数十秒(色が変わったら終わり)。 火をとめて、オイスターソースと醤油少々。香り程度。 かきまぜて、即座に鍋から出しておわり。 余裕があればネギをこの段階でいれると香りも出る。 ネギも最初にいれると焦げるので、火をとめてからで十分だ。 肉などなくても十分おいしい。これがあれば当分生きていけるだろう。 前からよくこれは作っていたのだが、ひさしぶりに食うと本当にうまい。 しかも早い。数分でできる。128円+少々でこれだけうまいのだから、十分である。 しかし、魚がほしい。狙い目は鮭だ。例の本によるとあれがいいらしい。 栄養、保存、味、使い勝手。すべてですばらしいらしい。買ってくっか。

月刊誌はやはり厚かったらしい。 こういう時に対応策はいろいろある。 もっとも簡単なのは、新たな月刊誌を作ることであろう。 一人で印刷して配ってもいい。 厚いから描かないというのは非常に楽だ。 オレはその楽さを味わった。後悔するに足る楽さであった。

集団に団結をもとめるなら、いっしょになにかをしなければならない。 その手段としても月刊誌は有用である。 現在京大漫研には団結のための公的な手段は半年に一回の部誌だけであり、 あとは非公式な月刊誌しかない。 部誌は半年一回なだけに効果が薄く、 さらに部費の関係から破綻は近い。 月刊誌は人が増えてきていい傾向であったが、 皮肉なことにそれが個人に依存したシステムを破綻させようとしている。 それらに頼らず個人でやる人間が出てくれば 破綻は避けられるだろうが、もはや団結もくそもなかろう。 しかしそれはそれでいいらしい。集団に団結が必要と決まっているわけでもない。 「友達がいる場所」で十分なのだろう。

1999年9月26日

夕方。まだそのままMIDIを作りつづける。もう、いい。

部内月刊誌で 連載を始めてから、はじめて自分の意思で原稿を提出しなかった。 描けば提出できたであろうところを、わざと描かなかったのである。 描く気がしなかったという感情に敗北したとも言えるし、 描くことに意義を見いだせなくなったともいえる。 いわば今まで無理矢理自分を描くようにしむけてきたことが、 破綻を来たしたのである。きっかけはささいなことだ。 とにかくも、オレは負け犬である。やると言ったことをやらない者は、 善悪は別にして負け犬なのである。

道場から帰ってきた。人に会いたいが、例会の連中は麻雀であろうから 合流することはできない。 それ以前に、今人にあったら何を言うか容易に想像できる。 精神が前々から病んできているなとは思っていたが、 ここまでだとは思わなかった。 やることが増えれば考えることもなくなると思って、 やることを無理矢理増やしてもみたが、 そう簡単でもない。やることはすべて人に見せるという行為をともなっており、 人との接触は避けられない。その中でその関係について考えないことなどありうる はずがなかった。アホに言われたことを思い出す。「ふぬけた」と。 精神の余裕というものは頭を使うのに絶対に必要である。 多少知識がついて賢くなったところで、 余裕のない精神ではその賢さを使いこなすことはできない。

MIDIのデータベースサイトに登録する。 聞いてくれる人が増えるとうれしい。 次は電気絵だ。

1999年9月25日

おもしろい本を借りた。いや、むしろバカな本だ。 「丸元淑生のシステム料理学」である。もちろん料理の本だ。 やけに自信たっぷりに説得力ありそうなのだがそこがバカで、 かつ表現がバカなのである。 題名からしてすでにそこはかとないどころでない自信と、 なにか行きすぎたものを感じられはしないだろうか。 第一章。「丸腰で立ち向かうな」。ジ・エンドだ。 こんな見出しがあるものか。料理の本ではなかったのか。 だが、驚きはまだ尽きない。第一文。 「石器が青銅器に敗れ、青銅器が鉄器にやぶれたように、 戰いは武器の優劣によって決する。」 ちょっと待て。確かにちゃんとした道具をそろえよう、 あるいは材料をそろえよう、 などといいたいことは明らかだ。しかし。 第二文。「まして、丸腰の者がガンマンの前におどり出たとすれば、 これはもう結果は明白であろう。」。ガンマンの話などしていない。 そういえばこういう文体をどこかで見たことがある。そう、柘植久慶だ。 大山倍達にも通じる。なんでこうも自信たっぷりで、 かつ表現が行きすぎているのか。こういう文章を書ける人間というものは おそらく似ているのであろう。オレが似ていないか心配になる今日このごろである。

朝5時に起きてセミナの準備をする。 謎の腹痛に苦しみながらである。 やはりいつも穀物と牛乳で生活していた状態に数百グラムの肉塊が押しよせれば、 かようなことにもなるのであろう。肉は似合わない男である。 なんにせよ一応終えた。十分説明できるだろう。

何故漫画を描くか。やりたいからやる。それは正しい。 しかし果してオレはやりたいからやっているのか。 残念ながら完全にそうというわけではない。 実のところ、他になにも考えられなくなるほど楽しいことを 見つけたいからなのである。漫画を描くことがそうなる可能性は大いにある。 MIDIもおもしろいが、オレがやっているのは所詮パクりである。 アレンジでもまともにやれば少しは別だろうが、それはちょっと辛い。 プログラムもおもしろいが、ゲームに関しては みんなで何かプロジェクトをやるのが楽しいというのが一番の動機だ。 どれほどのものを作れるのか、自分も奴等も含めて試してみたいというのもある。 さて、今漫画を書いているのがかなり無理矢理であることは否めない。 部内の月刊誌に毎回自分で強制的に描いている。これがいいのか。悪いのか。 確かにかなり楽しい。だが、他のことを考えられる程度でもある。 オレに関しての話ではあるが、 下手くそなうちはそうメチャクチャに楽しくはない。 「あ、オレもけっこういけるかも」という思いがオレをハメるのである。 当然描かねば上達はしない。上達しなければ人に見せる楽しみは薄い。 だから、未来の快楽のためには多少の無理もやむを得ない。 しかもそれを自分にそう大した無理でないように思わせられ、 かつ楽しめるように自分を誘導できさえすれば、チョロいものである。 徐々に楽しさは大きくなっていき、 いずれ完全にハマったときには過去の自分の努力に感謝することができるだろう。 修行とは快楽のための階段である。苦痛が快楽のためにあるならば、 快楽主義者であればあるほどその苦痛をあえて受けいれ、 さらにはそれを快楽へと変えていくことができるのだ。 真にやりたいことをやる人間とはそういうものだと思っている。 なんでこんなことかいとんのか。なんでだろう。疲れてるんだろうが。

部内月刊誌が厚い。熱いかどうかはわからないがとにかく厚い。 最近あれが厚いことがあまり望ましくないような雰囲気があるように感じる。 なぜか。物理的には資金面、労働力面である。 60ページ超のコピー本を作るのには金も手間もかかる。 そういうことだけなのかそうでないのかわからないが、 とにかく厚いのはあまりいいことでもないらしい。 だが、ここで問題にしているのはそんな全体の話ではない。 オレがどうするかである。もちろん漫画は描く。 せっかく楽しくなってきたのにここで投げるのはアホウだ。 ただ、発表する場所、ひらたく言えば人に見せる手段が問題なのである。 人に作業と金銭的負担をまかせて原稿を描くのはダメだ。 プロでない人間が原稿を描くのは、自分の欲求だ。 自分の快楽だ。例え他人が楽しむとしても、それも含めて自分の快楽である。 だから責任を負う。 だが、現実的にどうするか。 大人しく自分のサイトに置けばいいのかもしれない。 タダで手間もないのだから。

システム料理学を読みおわる。まったくこの忙しい時期にこんなもの貸しやがって、 どうもありがとう。さて、足りない。オレには栄養が足りないのか。 のじり氏が野菜食うと元気になるといっていたのはこのことか。 栄養のあるものはうまいのか。近頃食っていたものといえば、 穀物と牛乳。これが量の割に満足するのである。 それは栄養が多いからだ。量など問題ではなかったのだ。量を問題にするのや、 食ってすぐに腹が減るのは栄養が足りないからである。 ひとつおもしろい話があった。甘いものを食いたくなるのは ビタミンCが足りないからだというのだ。 本来甘いものとは果物であり、それはビタミンCのかたまりである。 だから、甘いものを食いたくなったら果物を食う。これは ビタミンCが足りなくなったら果物を食うということでみごとに整合性があった。 しかし、つい百年やそこら前から砂糖というとんでもないものが現れた。 甘いものを食いたくなって砂糖が入ったものを食うが、 ビタミンCはないので結局満足しないというのである。 確かにそうだ。だから甘いものを食いたくなったら レモンをなめれば実はおさまるらしいのである。 そうなのか。本当か。試してやろうじゃないか。 栄養栄養栄養栄養。ふふふ、栄養だ。 以前からうしおの奴が「多い」と「うまい」の区別がつかなくて困るのだが、 「栄養が」「多い」と「うまい」というならば説得力がありそうだ。 だが、奴は「何百キロカロリーもあるんだぞ。うまいに決まってるじゃないか」 などと言うので、やはりダメである。 それにしても、オレって自信まんまんで理屈を並びたてる説得に弱いなぁ。 こういう語り口の本はつい納得してしまう。 この前のせっけんシャンプーもそうだ。 しかも、かなり客観的に見てもここに書いてあることは正しそうである。 うまく、安く。すばらしい。魚だ。貝だ。卵だ。牛乳だ。食うぞ。

やる気しねえ。なんでだ。なんでだ。わからん。 自分でもわからんが、なぜこうやる気がしない。 自分でも今回のプロットちょっといいかもとかおもってるくせに、 それでもやる気がしない。さすがに間にあうギリギリのラインである。 もう日が変わった。あと下書き6ページ。ヤバいというのはこういうことなのか。 やはり頭にドハデにひっかかっているのだ。 やりたくない時にはやらない方がいいのかもしれない、とも思うが、 断じてやりたくないわけでもない。そもそもそこでやるのがオレではないか。 なんと理由をつけても「やりたくない」は「やりたくない」である。 しかも、やってうれしいのは自分であり、他人に頼まれてやることでもない。 これに関して世界には自分しかいないのである。 だから自分が許せば許される。その甘さが恐しくも甘い。 だが、もし今回出さなかったら二度と出せないかもしれない。 どうすればいいのだろうか。 オレは「これをすべきだ」ということが決まればあとは速い。 考える必要がない段階までいって実行をためらうのは愚かだからだ。 だが。「するかしないか」を決める段階でストップした場合は話が別である。 すべきか、そうでないのか。優先順位が本当に高いのか。

数分のループを経て。 やめだ。いい。描きたくなったら描く。この言葉がいかにウソであろうとも、 悩んでいる時間に優先順位が近いことから片づけた方がマシだ。 どうせこれからでは間にあわん。17時間で上がるわけがない。 いや、上がりはするだろうが、それではもう意味がないのだ。 そして、やらないと決めたら決めたで何かやらないと落ちつかない。 罪悪感なのだろうか。これが。 優先順位が近く、それでいてこの状態でやる気になること。 それは電気絵とMIDIである。まずWIZのMIDIを完膚なきまでに片づける。 もう当分いいよと思わせる。そして絵第1号を置く。 第1号を一度置いてしまえば、もはや次を描かざるを得ない。 味をしめれば漫画もネット公開する気になるかもしれない。 今は可能性を広げるのが先だ。やることを広げる。

アホが本気になった。理由がまたおもしろい。 高校の時の一年下の友達にとんでもない才能をもったのが3人いて、 そいつらを我々の空間におびきよせるためだ。 奴等はやけに特定の方面でとてつもない才能をもっているが、 いかんせんそれを発揮する場がない。しかも本人にその気がない。 そこで、奴等の活躍できる場を作るために我々ががんばるのである。 なんとさわやかな目標か。そうこうしているうちに、 そのひとりから電話が。やはりバカだ。だが、頭が切れすぎる。 オレなど比ではない。高校のころから大学院入試の化学を解き、 哲学書を読み、たいがいの文学を読んでいた恐るべき男である。 知識量、本質を見抜く頭脳。このどちらでも到底かなわない。 だが奴もアホに魅せられた男だけにバカだ。それとは関係ないが 病弱な男で、高校の時の医療費は20万を超えたほどだという。 「流行の最先端を行っていた」とは奴の言であるが、 これはカゼが流行る一週間前くらいにそのカゼでねこんでいたという意味である。 粋なものいいだが、バカだ。今では競馬マニアらしく、その道では相当有名らしい。 競馬雑誌に4歳の時の競馬の印象かなにかを文章にして送ったら掲載されたが、 学生だったので応募対象ではなく賞はもらえなかったというからすごい。 実はけっこうな頻度で京都に競馬を見にきているらしいので、 なにかと会う機会も多いだろう。バカ万歳である。

怒涛のようにMIDI4曲を作って朝7時半。ふと横のちゃぶ台を見ると、 描きかけの原稿。今本気で描きたいと思った。気を抜けばモニタに頭をつっこんで 寝てしまいかねないほど眠い中で、描かなかったことを後悔した。 そうだ。描けばいい。人にみせる手段などいくらでもある。

1999年9月24日

11:30プロット完成。今回はネタが少ない。コマも少ない。 だが、これでいいのである。というわけで下書きにとりかかろうではないか。 表紙どうしよう。途中の段階でスキャンして色塗って遊ぼうってんだから、 やはりそこそこなもんを描かんとなぁ。サイト初画像の予定である。 が、その漫画は男しかでてこないので、男にならざるを得ない。 もっとも、女装でもしていただけば所詮漫画の絵なので問題なく女になる。 オレの絵程度だと、女と男の描きわけなど記号の域でしかないのである。 記号。よく考えれば、現実もそうではないか。 鹿の牡と牝はよく似ているように見えるが、実は人間も大して違うわけでもない。 頭の中で記号化して誇張しているだけのことだ。 写真なんかだと見まちがえることもよくあるだろう。 所詮そんなものである。だからなんなのか。よくわからない。

突然だが、オレはCG(コンピュータ・グラフィクス)という言葉が好きではない。 なぜなら、まるで「コンピュータ占い」のような響きだからである。 コンピュータをつけるとありがたそうに聞こえる時代が確かにあった。 NASAやKGB、CIAにFBIに内閣調査室。それと同じである。 しかしそれらと同じく、今ではそのありがたみが失われて久しい。 この時代に絵といわずにわざわざCGというのは何か時代錯誤な印象があるのである。 コンピュータも画材の一つであり、油絵、とか水彩画とかと同列だろう。 油絵集とか水彩画集とか言うのであればCG集といってもいいのであるが、 オレの印象としてCG集よりは画集の方がかっこいい。 というわけで、オレは意図的にCGという言葉を避けているのだ。 どうでもいいことであり、勝手な話である。

午後。小泉氏の家へいく。まさひろもいる。えんえん話す。 絵とはこのようなものであったか。やる気が出る。 10月になったらだが。で、漫画は表紙の下書きしかやってない。 そして、セミナの準備はまだだ。 5時間寝てから始める。勝負だ。 そして夕方から原稿勝負だ。

1999年9月23日

隆慶一郎の鬼麿斬人剣を読みおえる。 ストーリーのおもしろさを知のおもしろさと 情のおもしろさに分けるとするならば、これはそのバランスがいい。 さわやかだ。近頃なにをみても「さわやかだ」を連発するので、 そのへんがさわやかでない。さわやかになろう。

昨日(21日夜)朝まで起きとったにもかかわらず即研究室だったので、 いきなり昼寝というか夜寝。起きたのは23日2時。 漫画のプロット+下書き4ページが夕方までにできていないとマズすぎる。 セミナの準備も面倒だ。どうも今日は休みらしいので それでなんとかなるかもしれない。 戰いは続く。

他の人がどうとってるかを知るために WIZZARDRYのMIDIを探す。「うに」のリンクから発見。 しかし…、音とりまちがってる。ドハデに。この世のものとは思えない音に。 こうなったらwiz1全曲網羅して、あの図書館からリンクはってもらうか。 10月になったらwizをかたづけてしまおう。 3日もあれば全部できる。

1999年9月22日

昼。実験がなく、何もすることがないので帰ってきた。 研究室の誰がどういう位置付けで実験をしているかが複雑になってきたために 先生がパンクしているらしく、全員が止められているのだ。 どういうわけかプログラムの設計をしながら、 WIZ1戦闘曲のアレンジをしていた。 元はFM音源の3音だったのを、オーケストラバージョンにしてみた。 場所によって音量から楽器からをどんどん変化させ、 勝手にティンパニやらシンバルやらをつけくわえると、あら不思議。 かなりそれっぽい。 自信がもてたところで、プログラムに戻るとしましょう。

オレって悪人ですか?ヤなやつなのはわかってますが、悪人ですか? どうしたらいいでしょう。わりと悩んでます。わりと。 正確判断サイトの結果が頭をめぐる。「あなたには人徳がありません」。

1999年9月21日

19日夜から朝にかけて、徹夜で「加奈〜いもうと」を終わらせた。 感想は別に。

変なメールが来た。差出人はオレで、TOに誰だかわからない"taka yama"という文字列。 アドレスは控えよう。 ccにオレのアドレスが指定してある。それで届いたようだ。 subjectは"aaaaaaaaa"。本文は"sayonara"。さよならである。 メーラーはWindowsのOutlookだから、オレが自分で出したはずはない。 出したとしたら、ウイルスである。最近IEを使ったので、 その時に可能性はあるがそんなことあるのか? Recieved fromのところがまちがいなくオレのユーザ名なので、 出したのがここからであることは間違いないようなのだが。まったく解せない。 なにかヤバいことになっていなければいいのだが。

例会後。みなはとある家に遊びに行ったようだ。 オレが行く前にまさひろは帰ってしまったというので、 オレは小泉氏にホアルバ(ホワイトアルバムの略称)を貸すべくそちらへ行った。 そこへK.Ten氏。ネットでいろいろなヤバげなものを見てひたっていた。 上品ぶるつもりはないが、オレはこの手の話題に弱い。 日が変わる前に帰った。さて、みなが遊びにいっているはずの家の音源はYF724なので、 うちのMIDIがどう聞こえるかを聞きたいのだが、 日が変わってから行くのも面倒であるし、 やることもそれ以外にみつからないのでやめる。

もう戻れない。オレはある条件をみたさない限り、 なんにもならないと思うことを楽しむことができない体になってしまった。 ギャルゲにしろ、映画にしろ、クソアニメにしろ、 何かを考えるきっかけになるし、学ぶところは必ずある。 拳法だって、体が鍛えられて、 なによりも人類の叡知の一端をかいまみることができる。 それは脳をここちよく刺激してくれる。 一方、アクションゲームやシューティングゲームなどのゲームや、 麻雀などは、考えるきっかけや学ぶ媒体としての効果が薄すぎる。 他にやることがなければ楽しいだろうし、実際やっている間は楽しいのだが、 オレは時間が惜しい。 創作の糧にならない娯楽、後に残らない娯楽に 時間を費やすことはもうできないのだ。 いや、はっきり言おう。したくないのだ。 それがオレが老いた証拠なのか、成長なのかはわからない。 もちろん、たまにそういう無意味なことだってしたくなる。 だが、それを楽しむためにはある条件が必要だ。

1999年9月20日

18日夜。SC88の持ち主にうちのTIMIDITYの音を聞いてもらう。 おどろいとった。さて、日記の検閲を終えた。上げる準備をする。 しかし、日記だけで数百KB。でも、まあいいや。 読みたくない人は読まないのだし。

19日昼。暑い。またか。とにかく日記をおく場所を設定して、 やっとおく準備ができた。 あとやらなあかんことは、部内月刊誌の漫画8ページ、レポート2つ、 卒研でやることの確認、「加奈」(ゲーム)、KANON本の構想、ゲームプログラム、 借りた星新一、買った隆慶一郎、WIZのMIDI、電気絵、太極拳の練習、 そんなもんか。今はとりあえず「加奈」だな。

ごめんなさい。TIMIDITYの33MBパッチはショボくありませんでした。 楽器によってはうちで使っているのと同じものです。 ちゃんと入っているtimidity.cfgを読んでやればまともに鳴ります。 ごめんなさい。 それと。デカい音色ファイルのものはサンプリングが ゴッツイのできれいなことが多いです。 それにしても。音色が違うのはいいとしても、 音量の推移まで全然違うのはマズいだろう。 うちで、ベースを補強するために使ってるfingerd baseが 他の音色ではすぐ消えてしまう型の推移になる。 オレはあれが音量が落ちないものと思って使っていたのに。 これではダメだ。楽器変えねばならん。 なんか規格ないのか?音量の推移の形くらい決まってないのか? こうなったら生楽器もののみを使おう。生楽器だったら解釈もクソもない。 サンプリングしたりしてるだろう。

加奈をやる。もう日が変わり、明日は月曜なのだが、これは仕方のないことだ。

知っているか?エネルゲンを凍らせると、ガリガリにならないで、 なにやらドロドロになるんだぞ。やめよう。

1999年9月18日

混乱をさけるためにひとつ。「ウシオ」、「うしお」は 掲示板に「日里湖」の名で書いている男。 「潮(おおしお)」、「まさひろ」は「潮勇魚」の名を名乗る人である。 ややこしいから、「潮勇魚」氏は「まさひろ」、 「日里湖」は「ウシオ」か「うしお」とかく。 別に本名が出て困る連中でもないから、いいはずだ。

今日は研究室でレポート書き。夕方はセミナー。 夜は拳法。なにごともないが、学校が始まって気づいたのは、 前よりずっとやりたくないことをやれなくなっているということだ。 前はやりたくないことでもそこそこやったが、今はかなり我慢できない。 やりたいことを自分で決めるようになったのが大きいのだろう。 その状態で院に受かったのは打撃だ。 今は自分がやりたいことを探している段階なので、 しばらく自分でやると決めたこと以外のことを一切しない日々というのを すごしたかったのである。贅沢もいいところだが、 それくらいの甘えはいいのではないだろうか。 オレはこれまで十分ちゃんとしていたのだから。 しかし、すべては終わったことである。

「加奈」というゲームが気になる。ちょっと店に行って値段を見てこよう。 そう新しいものでもないし、ひょっとしたら値が下がっているかもしれない。 どこを見ても目につく名前だし、評価もとにかく高い。 オレがまだ読んでいないことは罪とも思える。 名の知れたものは経験して、なにが優れていて名が売れたのかを確かめる。 これはオレが自分で課した義務である。その意味でまっさきに片づけねばならない 「ときめも」。しかし、プレステだしいいやというのもありか。

考えても仕方ない。買えばいいのである。 何の話か。それはとあるギャルゲだ。 つまらなければ売り払えばいい。 損害はせいぜい3000円程度だろう。 オレがオレとして認知されるために必要な、これは儀式である。 明日買いにいくだろう。みずしらずの人が読んでくれ、 さらに掲示板でわざわざすすめてくれたゲームである。 人が読んでくれている証というのはとてもうれしいものなのだから。

いきなりKtoreishi氏が「加奈」をもって現れた。 上の段落を日記に書いて数時間もたたないうちにである。 かくして、加奈を借りることができた。 用事はそれだけだったそうだが、 それだけで済むはずがない。 今が何時かわかるだろうか。 わからないだろう。 あたりまえだ。 でだ。18日12時半である。すなわち昼。 話のネタは多岐に及んだが、 一貫していえるのは、偏った話題であったことだろう。 オレはオタクともマニアともいえないが、 その予備軍である。すなわち、マニアやオタクになる素質をそなえている自信がある。 その素質とは、周りの目を気にしない大胆さ、 他人と違うことをやることに誇りをもてること、 そして、何かに異常なこだわりをもつことである。 すなわち、カッコわるいと思われることを苦にしないことをかっこいいと思い、 好きなことのためならなにをも犠牲にして顧みることなく、 かつそれを誇りにするという救い難い人種のことである。 それはいいとして。あの人に自分の遠大な野望を語りながら、 自分でその野望の遠大さに驚いた。そして、それが実現すれば限りなく無益な名声 が手に入ることも確認できた。唯一の利益は自己満足という最強の利益である。 自分が満足する。これ以上自分にとって満足なことはない。 おかしないいまわしだが、言葉のイメージにとらわれた人間にとって これが自明でない場合が多くあるように思われる。

過去の日記を置くべきだといわれた。 日記を読む人がいて、昔のを読みたい人がいるのではないかという疑いがあれば、 それは置くべきだというのである。確かにそうならばそうだろう。 検閲の上のせることにする。

1999年9月17日

またバカ扱いされた。今掲示板を見ればわかるだろう。 ウシオの仕業だ。で。そんなに私の日記バカですか? 反応お待ちしております。

例会後。みんなどこかへ行ったが、オレとまさひろ(以前潮とかいていた) でうちにくる。柘植久慶のサバイバルバイブルを読ませて笑わせて楽しむ。 オレはその間MIDIを作っていた。 TIMIDITYの音の良さに驚いていたようだ。 帰ったら早速導入するつもりのようだ。 ということで、まさひろは明日テストなので帰った。 オレはとりあえずMIDIを完成させることにする。

1999年9月16日

日本橋に行って、いらないものを売り払ってくる。 今日は暑くなくてよかった。雨のおかげだろう。 ちょっと買い物をして、いい気分。

気をよくしてこみパ。彩攻略失敗。 これだからランダムものはイヤなんだ。 快適すぎるほど快適なだけに、 メッセージを飛ばしてると味もなにもあったものじゃない。 それにやっぱこれ普通のゲームだ。 ネタがおかしいだけのはすぐ慣れる。 オレが時間を割くべきものではないようだ。 それよりやらねばならぬことがある。

だれかが検索エンジンでどうのこうのヒャッホーと書いていたので、 マネをしてみた。サーファーズパラダイスだ。 莫大なジャンルの数にビビるもなんとか終える。 しかしおそろしいのはここの管理者が 生身で登録作業をしているということだ。 なんとも男気のある人ではないか。 さて、身内以外が見る確率がちっとは上がるのだし、 気合いをいれて中身を作らねばなるまいな。 冬ごろにはここに絵がおいてあるようになって、 春ごろにはここにゲームがおいてあるようになるといいのだが。

とみたら8000超えてる。だからなんだと言われると困るが、 なんなんだろう。

1999年9月15日

卒業研究再開。時間はどんどんなくなっていくだろう。 そして、順調に行くとおもわれたプログラムにも新たな問題。 リンクの処理をなんとかせねば。 手順が多すぎるのだ。 どのような経路をたどったか。どのリンクから来たか。 それらを簡単に管理する必要がある。 今のまま拡張していけば、いずれダメになるだろう。 なお、K6-2を探しに京都のパーツ屋を2軒ほどまわってみたが、 あっても型番がAHXでは仕方ない。オレがほしいのはAFXだ。 こうなれば明日日本橋に行くしかない。土日には行きたくないし、 平日は研究がある。休日である明日を逃してはもうない。 もっとも、前行ったときにはK6-2は品薄気味だった。 DOSパラにもsoft islandにもK6-2そのものがなかったのである。 電車賃が無駄になるのだけは避けたいが、避ける手段はない。

今日も暑い。四条にある温度計は33度を指していた。 京都の気候はオレの我慢できるものではない。 高級系スーパーで抹茶が売っている。高い。いや、 40g500円というのは抹茶の中では相当安いのだが、 やはり高い。躊躇した結果、横にあるグリーンティーという奴を買ってくる。 安い抹茶に砂糖をまぜたものだ。200gで350円。これでどれくらいの体積が できるか試したところ、だいたい3L前後ではないかという結論。 ここから抹茶40gでできる茶の体積を推定してみよう。 仮になんの修正もなく濃度が同じだと仮定すると、抹茶40gでできる茶の体積はわずか 0.6L。しかし、グリーンティーの粉末は明らかに色が薄い。 砂糖が入っているからである。 グリーンティーにおける砂糖の割合がいかほどかはわからないが、 粉を観察したところ、グラニュー糖の割合は思ったよりも高い。 味から考えると、だいたい300mlの紅茶におおさじ一杯の砂糖をいれたのと 同じ程度の甘さである。相当な量といえよう。 さすればこのグリーンティーの相当部分は砂糖である。 さらに冷たい飲み物というものは相当多めに入れないと甘くならないものなのである から、この値はさらに大きいことが予想される。それを確かめるために、 敢えて熱湯で作ってみた。汗を流しながら飲むが、結果は無惨である。 もはや同じ濃度では 甘さしか感じられない。茶の味などまったくないといってよかろう。 かといってこれ以上濃度を上げれば甘くなりすぎる。 よって、普通の抹茶でできる体積はこれに数倍することが予想されるのである。 しかしよく考えてみればなんのことはない。紅茶ティーパックは一袋で3g以下。 これで300mLの茶がのめる。だったら40gで4Lは飲めるではないか。 なにを考えていたのかバカらしくなる。 まあそれはそれとしてだ、 しかもオレが茶せんで茶を立てている光景はあまりにも場違いで面白い。 抹茶などという偉そうなものを 並の飲み物といっしょの扱いをしているのが間違いといえば間違いなのだろうが、 それが間違いであることが間違いなのだとも思えるではないか。

ところで。オレの日記は論文でも書いているつもりなのではないかと 指摘されたことがある。いや、日記にかぎらずオレの文章はすべてである。 その時はそんなバカなと思ったが、思いあたることがないでもない。 「だ」、「である」調で書いているのもバカに拍車をかけている。 本来は漢字を使わずに、口語表現で書こう書こうとはしているのだが、 なぜかこうなってしまう。実はオレにとってはこれが口語なのではないか とも思うので、救いがない。 近頃おまえの文章はバカだとアホに いわれつづけていたのだが、 今日なにやら本当にそうなのではないかという気がしてきた。 せっかく人にみせるんだし、普通では価値がなかろうと思ってキバって書いた結果、 まじめが裏返ってバカになっているのである。 だが、いまさら知るかボケ。

ならばだ。いっそのこと全文書を「である」調に書きなおしてやろうか。 大した手間ではない。それで文章の印象が強くなるのなら安いものである。 しかし。以前ウシオに指摘されたことが頭に浮かぶ。 それによると、オレの文章は内容はそうおかしくはないのだが、 口調や表現が不相応でおかしく、 その印象が強すぎるために内容が頭に入らないというのだ。 せっかく人にみせるんだし、普通では価値がなかろうと思ってハリキって書いた結果、 執念が裏返ってバカになっているのだという。 だが、いまさら知るかボケ。

ふと不安になった。オレは多趣味なのだろうか無趣味なのだろうか。 実は何もしていないのではなかろうか。 何もしていない時間がほとんどないことが、 何もしていないことの証拠ではなかろうか。 しかし、いくら考えたところで、やりたくてやっていることにいつわりはないし、 いくらひとつにしろといってみたところで、 そのひとつすら本気でやっていないのにくらべれば はるかにマシなのである。 それにだ。オレのやっていることは実はすべて同じ根をもつ。 自己鍛練。修練。修行だ。つまりオレの趣味は修行であり、 その手段がゲーム作りであったり漫画であったり ギャルゲであったり拳法であったりするだけなのである。 やった。オレはこれでいいんだ。 ふと浮んだ悩みはふと浮んだ屁理屈ひとつでなくなるものである。

1999年9月14日

13日午前。パフェを食いにいく。茶屋である。 というわけで、抹茶パフェ。ひどく上等だった。茶にうるさくなるかもしれない。

昼。工学部から連絡。結論から言おう。大学院受かった。 従って、来年は遊べない。 だから、今を大切にオレはとことんまでダメになっておかねばならないのだ。 分野も志望分野の範囲内であり、何ひとつ文句のつけようがない。 ただ、世の中がオレの望まないほどに出来すぎているという事実があるだけである。 都合よく工学部に留年者が多かったために受験者が少なく、 補欠受け入れ専攻が今年は都合よく合成・生物専攻だった。 しかも、都合よく、オレの志望する研究室が空いていた。 オレが運命にいくら逆らって勉強しなかったところで、 現実はかようにも不条理である。

To Heart智子クリア。これで全員である。サウンドテストモード発見。 ここで、おそろしい魔の手がオレに迫る。 目覚ましと留守電の声がキャラごとにおまけとして入っていたのだ。 特に凶悪なのは大谷育江。ピカチュウ声で「おきてー」といわれれば、 もう致死量である。 いかにせばよいのか。それはPS版を買って音声を吸い出して、 cron(時間をみてプログラムを実行するプログラム)で設定しろということなのか。 危険である。はなはだ。

1999年9月13日

AMDからK6のデータシートを落とす。 新しいK6-2は別物だ。500MHzで21Wしかくわない。 計算があわないことをみると、何やら改良されたらしい。 以前380が2.0Vで336MHzでまわったことを考えると、 さらに上へ行けることは保証されたようなものだ。 くっそー。日本橋で買ってくりゃあよかった! ちなみに型番がAFXで終わってるのが新型。 型番が重要ともなると通販は無理だし。ちょっとまた日本橋行ってくっか。 前にK6-2を試したのは6月2日のことであった。3ヶ月のうちに、 450のK6-2は新型になってかつ、値段が14000から9000に落ちている。 新型になって外部クロック耐性が上がっていれば 133×3あるいは124×3に挑戦できるかもしれん。 悪くても112×3.5=392は約束されたようなものだ。買いだろう。 しかしなぜ今さらK6-3でなくK6-2が新型なのか。 やはり世間の人はクロックしかみておらず、 同じクロックのくせに高いK6-3は売れなかったのだろう。 あっちの方が速いわりには電気を食わないのに。 AMDにはがんばってK6-3を安く作れるようになっていただきたいものだ。

今日の昼にはもう研究室いかねばならん。 っていうか、ちょっと遅いかも。 いつから何をやるのか聞かねばならん課題研究の立場。

gigahitでアクセス解析だ!と思ったが、ぜんぜんつながらん。 むこうのサーバ混んどんのか。ま、今度でいいや。 たぶん誰が来ているのかわかるのはおもしろいものであろう。

1999年9月12日

今日(11日昼)は買い物に行った。いつものように暑さから逃避行である。 本当はおいしいといわれるパフェを食いにいこうと思ったのだが、 たいがい混んでると聞いてやめた。 で、とあるスーパーで乾燥穀物を買ってきた。 麦とほしぶどうとなつめやし。ちょっとクセがあるがいい。 1Kgで900円というのもお得である。

例会に行く。だれもいない。帰って道場に行った。

ウシオからメールでLeaf系同人小説のかきなおし版がおくられてくる。 読みながらICQで感想をいう。なんでこんなもん書けるんじゃと思うほど のすごい出来。たまらない。 しかも書きかけで、死ぬほどかっこいいシーンで終わってる。 ギャー、速く書けー。これは自信をもって勧められる一品となるであろう。

楓テーマがうまくいかない。とにかく音色がないのが致命的だ。 こうなると自分で編曲しなおしてしまうしかない。 ここにある音色だけでなんとかせねばならないのだ。 これではGMに対して拡張規格が乱立するのも無理はなかろう。

昼。あまりの暑さに隆慶一郎の吉原御免状を読む。デビュー作だ。 そこに死ぬほどかっこいいせりふが。 「この齢まで人間をやって来て、生命を狙われるおぼえもないようでは、 男の値打があるまい。」 シビれる。すげえ。それにしても暑い。この時間じゃ小泉氏は寝てるし。 我慢して読みつづけるか。

読みおえると5時。ああ、まだ暑い。だが避難場所はない。 くそー。あそこってxemacsあるからフロッピーにソースいれてもってけば プログラムできるんだよなー。ま、あまりにもひどいのでそれはなしだが。 うー。本屋に行って時間をすごすのももったいないことである。 そうだ。茶でも買いにいこう。って、明日パフェのついでに行ったほうがいいな。 そもそもこのへんに抹茶を売ってる店なんてしらん。 あのへんはえらそうだからそういうのがあるだろう。 相場を知るだけでも十分である。

いきなり「みゅー」と叫び出す自分を発見する。 そういえば、潮氏のコンピュータには「OK」という文字列を「うぐぅ」に 変換してしまうプログラムがインストールされている。 おそろしいのはそれがICQの外からの入力にまで適用されることだ。 オレがOKと書いておくったら、ダメ扱いされた。 それはもうすでにウイルスである。

しめじ、ねぎをいれて、醤油、とうがらしで味つけしたスパゲッティ。 油がオリーブオイルなのがわけがわからない。 だがなかなかいい。まあ、ニンニクがほしいところである。 ミートソースに飽きただけか。

1999年9月11日

朝。犬大将氏から電話。18切符があまってるから、どこかいかないかとのお誘い。 使用期限が今日までらしい。すぐに出る。 まずは奈良。鹿とニラみあいながら、東大寺をみる。 鹿もなかなかで、戦う気まんまんで近よると逃げるが、 なにげなく近よると逃げない。人間より敏感である。 駅に戻る途中、商店街で抹茶ソフトを食う。これがすごい。 まず色。緑だ。それもなんかにごった緑。濃い緑。 そして味。茶そのもの。しかも茶葉でザラザラする。こんなに濃い抹茶ソフトは はじめてだ。値段も200円で安いのでポイント高し。こりゃあいい。 そして法隆寺に行く。古いのう。他にもいろいろと感想はあるがそれは置く。 さて帰りにまた抹茶ソフト。今度は普通の味だった。 そんなこんなで抹茶のよさを語られたので、今度試してみよう。 今度というのは今日のことだ。さて、次は難波。つまり日本橋。 CD-Rを買いそうになりながらも、まだいいやと思って買わない。 なんかのコピーやバックアップという用途では説得力がない。 自分で何かをバラまくのに必要ともなれば迷わず買うのだが。 次は梅田。適当に食い物をさがしながら歩くもなにもない。 いきなり180円のラーメン屋をみつけて食うが、グルタミン酸の味。 味の素。腹が減ってたので汁をのみほしてしまったが、 グルタミンゲップで後悔する。次は京都。帰りだ。 そのまま帰るのもつまらんので小泉氏の家に行く。 シャワーを借りてああいい気持ち。ターンAガンダムをはじめてみる。 戦わない。おもしろい。変だ。ヒゲだ。ガンダムが河をかきまわして洗濯機。 気にいった。あとでまとめて見よう。その後いろいろ。 帰ってきた。そして日記を書いている。

ひとりで延々となにか物を作るのは楽しいし充実しているのだが、 だんだんと心の何かが減ってきて、そのうち我慢できなくなる。 その何かを増やすためには人にあって楽しく話したり、 なにか他のものを見たりせねばならない。 その意味で今日はずいぶん減っていたその何かがずいぶん増えた。 また明日からはげめそうだ。 ただ、一番いいのはふたり以上で物を作ることで、 そのなにかが減る速度は相当落ちるだろう。 だが、同士が遠く離れているので仕方ない。 東大の大学院にでも行けばいいのだろうが、武術家への道がオレをひきとめる。

腹が減る。メシを炊くのを待てん。コンビニでパン。ついでに1リットルで120円という 異様に安い洋梨ジュース。マズい。1リットル=拷問。

どこぞに「思うことはあるが、ヤバいのでめったなことは日記なんぞにはかかない」 というようなことが書いてあった。オレもそう思うが、 オレはあさはかなので思うところがあるのがバレバレで、 ついでに思うところの内容までバレバレなのである。この日記。 このようなこともあってわかりやすい人間なのが売りなのだが、 わかりやすく悪人というのはどうか。 しかし自分が悪であることを自覚したディオみたいな人間はあこがれなので、 これでいいのではあるが、いけなくもある。どっちだ。どっちもだ。

来年は北海道に行こう。奴が札幌にいる時期を狙って行けば、 いろいろと楽しそうだ。 もちろん18切符で。故郷へ帰りたくなる年頃なのか。 情緒不安定の22歳である。

1999年9月10日

例会後、うちのMIDIがSC88でどう聞こえるかを確認しに行った。 それはいいとして、To Heartの智子シナリオが読みたくなった。 それはいいとして、ジャイアントロボのような世界観をゲーム化したものを見た。 あのコンセプトだけでも十分ネタになろう。 それはいいとして、帰ってきた。腹がへった。

1999年9月9日

授業があるかもしれないと思って行ったら、あった。 レポートが出た。ギャー。でも卒業のためだ仕方ない。 いや、卒業しないとしても、 やりたいことをするためにも邪念は抹消しておこう。

スキャナがつながる。デカいのを読むとGIMPが死ぬほど遅いが、 ちゃんと使えることがわかった。試しにTo Heart本のマルチを読みこむ。 そんで加工して壁紙に。デスクトップがマルチまみれになってダメだ。 Xにバグがあるためにたまにターミナルや xemacsにもマルチが侵入してくる。つまりダメだ。 さて、じゃ、絵を描くか。という前に寝よう。まだ寝てない。 でも腹減った。食い物ない。買いにいこう。 ついでに隆慶一郎のエッセイ集も買ってこよう。

近頃BGMが自分MIDI。出来に自信があることの現れだが、 元がいいだけの話である。今度作曲でもしてみるか。 どうせクラシックの寄せ集めにしかならんだろうが。 それもバッハとビバルディ。

本屋に行く。近頃いきなり本屋に行くことが多くなった。 というのも暑いからだ。さて、そこで見たものはオレをさらにダメにするグッズだ。 「To Heart Visual Fan Book」。アホに以前すすめられた時に 買いにいってみつからなくてそのままになっていたのがあったのである。 1400円。安くはない。だが、加賀屋の件でオレはこりた。 金などなくなったら後悔すればいいのである。 そうして幸田露伴の五重塔といっしょにそれを買った。 文庫本にカバーつけますか、と聞かれて「はい」と答えたが、 カバーをつけている間に後で待っている客の視線が熱い。 アイスを食うあかりと、カバーをつけられる岩波文庫。 コントラストが美しい。 さて、内容。よすぎ。むしろ高橋と水無月バカすぎ。 そして、プードル関西の企画(水無月がTo Heartの原画であることを隠して プードル関西の名で秋葉原の路上でギャル絵かきますといって 似顔絵描きよろしくたたずんでいたという企画)のページにその時に アホがもらったという水無月の絵の写真がある。「××さんへ」と書いてある。 オレがアホの部屋で見たものに相違ない。あのアホすら「これ現実か?」 と疑ったといういわくつきの代物だ。しかし現実は現実だ。 昨日書いた通り「すごい偶然」などダース単位でないと数えられないのである。 それはいい。その本だが、実にいい買いものであった。 コストパフォーマンス抜群である。 この場合コストパフォーマンスとは人をダメにする性能と価格の比のことだ。 今までで一番この値が高かったのは「痕」である。

さてTo Heart本も読んだし寝るか。と思ったら15時である。 どうするか。例会に行ってこれをみせびらかさねばならんから寝すごすのはマズいし。 と、この思考ってアホに似てないか?それはよくない。 とりあえず寝よう。

1999年9月8日

アホから電話。今回は本当に幸せそうだ。 いつもヤツは幸せそうで、オレをうらやましがらせるために電話してくるのだが、 今回はグレードが違う。反応が違う。 こうなるとオレは余計にミジメである。 どうも加賀屋で相当いい思いをしたらしい。 一泊2万というネタでなければ永久に 経験することもなさそうな旅館だが、2万は安いとまで 思えるほどのものだそうだ。しかもヤツの常として、 ひとつでも「すごい偶然だなあ」という感じの事件が 数ダースまとめて起こる。 仲居さんの中に「かえで」という名前の人がいて、 それが「美人の見本」だというのだから、 その強烈な偶然ぶりがわかるだろう。神はやりすぎを好むようである。 そのうち幸せからある程度さめたら奴も旅行記を書くだろうから、 そうしたらそちらを読んでくれ。 そうそう。サンデーで連載している久米田もLeafにダメにされたクチのようだ。 中村博文のようにプロの中にも痕にダメにされた人間が大勢いる。 洗脳効果抜群だ。しかしなによりも、あのアホをダメにした功績は大きい。 オレも行けばよかった。拳法の合宿やら院試の発表やらあると思ってやめたのだが、 どれもなかったのである。 それに気がついた時にはすでに金を用意する時間はのこっていなかった。 3万や4万ネタのためなら惜しくはない。働けばいい。そのためだけに。 今回で思い知った。アレと行動を共にして恥以外の理由で後悔することはない。

昨日の記述撤回。遅いのはGIMPだ。Xは遅いが、GIMPの動作にはさほど関係ない。 昨日遅かったのはエラーメッセージの表示のせいだ。 高速でコンソールにエラーメッセージが表示されていたので、 それにCPUが食われたのだ。コンソールを消してやればその分は軽くなる。 サイトに置く絵程度の大きさなら問題ないだろう。 漫画は今のままでは無理だが。倍速くてもあやしい。

かえでさんの写真を見た。 写真ってやつはよくわからなくなるもんだが、 目の前にしたら美人だろう。 オレの負けか。また負けか。負けなのか。

瑠璃子テーマをちょっといじる。 2回繰り返すことにした。 そうすると、欠点がより見える。 最初の低音がうるさい。というわけでしぼってみた。 さらに終わり方がえげつない。テンポを落としてみた。 ついでにff2の曲をちょっとゴージャスにする。 しかし瑠璃子さんのテーマ。改良するごとに同時発音数が増してくる。 ひどい時なんて60音もなってる。残響に残響が重なってこのザマだ。 でもこれくらいやらないとマトモに聞こえないのである。 まともな楽器がないなら合成する。 1オクターブは12の半音で構成される。つまり半音上がるごとに周波数は 1.0595(2の12乗根)倍になる。倍音は整数倍であるから、 まずは2倍(+12半音。8度)、 3倍(+19半音。5度+1オクターブ)、 4倍(+24半音。+2オクターブ)、 5倍(+28半音。+長3度+2オクターブ)、 6倍(+31半音。+5度+2オクターブ)、 7倍(+34半音。+みじかめの7度+2オクターブ)、…となっていく。 これらを適当に混ぜることと音量の時間変化を変えることで たいがいの音色は作れるのである。 だから、音色の作者によってどの倍音をどのくらい混ぜるかは変わるだろう。 例のglockenspielに関しては、うちでは7倍音が強い。 JAGの機械で5度ずれたというのは3倍音が強かったものと思われる。 そういえば、 人類が初めに発見した倍音は5度と言われている(ヨーロッパ人のいうことだ)。 これは3倍音で、2倍音のオクターブを無視すれば 一番最初にみつかりそうな和音ではある。 確かにグレゴリオ聖歌は5度和音ばかりだ。

RCPとMIDの違いのひとつはリピート記号の有無らしい。 RCPではここから「ここまでくりかえす」とかけばすむのだが、 midはそうはいかないらしい。おかげでサイズが倍になる。 さすがにそれはまずいので、繰り返しはなしだ。うぐぅ。

プログラムの設計図を作っていた。山のように関数と変数が必要になる。 いじりやすくするにはそうやって分けまくった方がいいのだが、 すっごい数だ。ごっついぞ、こりゃ。これで画像表示なし なんだから、完成版はどれほどの大きさになるのか。 オレに作れるのか?本当に。

チャーハン失敗。油の温度が高すぎて入れた唐辛子があというまに真っ黒に。 赤くなってきれいなくらいが一番香りがいいのに。 おかげで黒っぽくて辛いだけのチャーハンになってしまった。 成功すれば香り高いチャーハンになるはずなのだ。 唐辛子って香りがあって、味もあるんだぞ。 辛いだけの奴はニセモノだ。

1999年9月7日

朝、授業があるかもしれないので行ったが、なかった。 先生のところにいってレポートの課題を教えてもらわねば単位が出ない。 授業の時でいいやと思っていたが、もう時間がない。 明日あたり直に行くとしよう。

MIDIに没頭。追加と改良を行う。今日で最後だ。 今はこんなことをしている場合ではない。また現実逃避の手段を手にいれてしまった。 さあ、スキャナとタブレットをつなごう。 電気で絵を描くのだから。

タブレット接続。さあ、GIMP(タダで使える画像編集ソフト) で試し書きだ!っと意気ごんだまでは良かったが、 いくらなんでも遅すぎる。 筆圧検知のせいだ。絶対そうだ。前はここまで重くなかった。 メチャメチャゆっくり線を引かんとついてこない。 ギャー。例によって、CPUはGIMPとXが山分けにしており、 原因の半分はXサーバの遅さによるということがわかる。 そして、GIMPも遅い。何もかも遅い。 Xを3.9系列にしたら速くなるだろうが、わからんものは使いたくない。 つまりソフト側からはどうにもならない。 ということは機械を強化するしかない。 だが、そんなことができるのか。確かに1万円払えば450MHzの石が買えてしまう時代 ではある。しかし。

1999年9月6日

MIDIはおもろいが、そんなにハデにやってるヒマはない。しかし一曲だけもさみしい。 そこで、とりあえずKANONだと思ったが、ない。 どこだ?本当にないぞ。 うーん。誰かに貸してる気もするぞ。 でも返してもらった気もする。あるいはどこかの家に忘れてきたのか? というわけで、心あたりのある人いませんか? とかいって、見つかったらゴメンナサイ。

MIDI。各楽器の鳴り方を確かめて、どこかに書きとめておく必要がある。 一回デカクなって消えていくのか、そのままの音量で行くのか。 これが肝要だ。 さらに始まり方がハデで音量が落ちないタイプの楽器は つなげるとプープーいうので、ほとんど使用不可である。 途中で消してもプツっという感じでダメだ。 音量を調節できるはずだが、一音づつ全部やるのはあまりに面倒なのでやめよう。 なお、バイオリン、笛系がこれに入る。 特に金管系は悲惨だ。 それと、低音をならすと倍音が鳴りすぎるタイプの楽器。 妙な和音ができてしまって困る。 これもマークしておかねばならない。 あとは発音が遅れる楽器。stringなどはこれだ。 小回りがきかないから、速いところには使えない。 というわけで、どれが使える音色なのか判断せねばならん。 機械によって音の質は違うだろうが、傾向はどこでも同じだろう。 聞ける方法が複数あればいいのだが。

純正SC88で聞いたところ、とんでもない音が鳴っていることを知る。 こりゃいかん。とっとと直そう。特にひどいのがGlockenspiel。 倍音しか聞こえない。そして打楽器。ギャー。 つまり、クセの強いのは使うなということか。

ふー。直した。表紙にいきなりあれはひどいので、 音ページにはりつけた。 さて時計をみると、12時。ああ、日が変わってしまった! どうしよう。長月氏の家に行ってXGでどう聞こえるか試させてもらうのもありだが。 あ、小泉氏おるかな?ONEとってこねば。いきなり行こう。 電話番号どっかいってしまってわからんし。

長居した。すまん。そして、KANONのサントラ、MOON、ONEを回収。 思いもよらぬところにあったものだ。でも、KANON本体は別のところ。一体どこだ?

巡回中、犬大将氏のサイトがアクセス不可になってることにきづく。 違法なものでも置いたのか?って、D.C殿のところもおなじだ。 Geocitiesのエラーか。

練習をかねて、変なMIDIを作る。資料がないので記憶まかせだ。 いいかげんだが、何秒もないのでOK。

1999年9月5日

例会後メシを食いながらプログラムの本職にいろいろと教わる。 勉強になった。そして、やはりVisual Cを買わねばならんことがわかった。 出費。その後、みなが麻雀に行ったので小泉氏の家にいきなり行く。 だが、いなかった。次に早緑氏の家へ行く。 そこでやることはひとつ。To Heartだ。 そしてほぼ征覇。 レミィ、琴音ともにダメダメだ。 愛がない。奴の愛はすべて志保にいってしまったようだ。 プロとしてあるまじきことではないか。 志保だけ読んで奴をほめちぎってしまったのは早計であった。 なお、まだいいんちょが残っているが、 ほとんどパソコン版と変わっていないそうなので、 とりあえずは保留。気がむいたらということで。

結局朝。midiがおもろそうである。 ちょっとシーケンサの使い方を覚えてやってみよう。 このサイトにBGMがつくのも悪いことではない。 しかし、BGMってスタイルシートで制御できんよな。 ということは各ファイルにいちいちOBJECTをかかにゃならんのか? 面倒くせー。

midiシーケンサがあった。名前はsted2。 ステップ入力という何もかも数値で入力する古くさいものだ。 でも、慣れれば速そう。さて、試しに瑠璃子さんのテーマ。

瑠璃子テーマver.1完成。細かい音量調整をしてないがまあいいや。 しかしmidi。ロクな音色がない。 えんえんと128種類聞いてまわるのはあまりにも面倒である。 打楽器を足せば160種類だ。 それだけ苦労してわかったのは生楽器の 名前がついたものは例外なくショボイということ。 ピアノすらそのままでは使いものにならん。 いっそのこと、と電気電気した音をつかうように変えたらなんぼかマシになった。

韓国産とうがらし粉を買ってくる。 理由などない。いや、あるんだろうが考えるのが面倒だからない。 さて、油を熱する時にこれを適量入れる。温度を間違えると大変だが、 うまくいくと香りが出て良し。即席ラーユだ。 これでチャーハンを作ってみた。 油が赤くなってどうなるかと思ったが、それほど辛くない。 キムチがあの色にもかかわらずそれほど辛くないのはこういうことだったのか。 ジャンは嘘を言わなかった。 とにかく、香りが良くてとてもよろしい。 次はもっと入れてみよう。また一歩野望に近づいた。

1999年9月4日

起きる。3時。ギャー。 ところで。ここのカウンタの増え方が増えてる。 誰が見ているのか不思議なのだが、 それならそれでこちらも対処せねばならない。 そう、内容の充実だ。 第1弾たる拳法Q&Aはとりあえずやった。 あとはCSS2を完了せねばならないが、 これはいつでもできることだし誰が見ているとも思えない。 ゲーム感想文はこれこそどうでもよく、 やったら書けばいい。 コンピュータ関係はそう大したものではないし、 エンターテインメントでもない。そこらじゅうに情報があふれてる分野なので、 安物のすばらしささえ伝わればそれでいい。つまり拡張する必要がない。 TRPGが問題だ。さっさとやらねばならん。しかし、 今はプログラムとKANON本が急務である。 本腰を入れてとりかかるにはやっかいすぎる。もっと片手間でできる拡張をしたい。 そうすると、残るのはただ一つ。 絵をかくのだ!

このサイトには絵が皆無である。なぜなら、ヘタクソだからだ。 ここに置いているような文章は内容が問題であって、 文章のうまいへたはさほど問題でない。 しかし絵はうまい下手だけで判断されうるものだ。だから、恐くておけない。 しかし、絵がうまくなるのはどうしても必要なことである。 そのために「人に見られる」という状況をつくることはとても有効だ。 なお、重くなるのではという心配は無用だ。 絵へのリンクは作るが、問答無用で文書の中に絵が表示されるようなことはしない。 はっきり言って、テーブル、フレーム、飾り画像の3つは有害3兄弟だ。 世間ではこれらがもてはやされるが、ほとんどLynxであるオレにとっては 毛ほどの価値もない。

1999年9月4日

リーフ系同人小説を読む。エルクゥ対エクストリームが主題という とんでもない小説だ。作者は友達の日里湖で、 ネット公開するにあたって直すべき点はないか意見を聞いてきたのである。 しかしまあおもろい。知り合いが書いたと思うとなおおもろいし、 「ああ、ここいやになってたんだな」とわかるのもおもしろい。 やけに正しい格闘技描写といい、坂下と綾香への異常な熱意といい、 どれをとっても変で、そしておもしろい。 ほめちぎろう。それだけに感想を描くのに3時間を要した。 もう5時である。

日記に描くことがない。しかし、これを楽しみにしている人がいるという話なので 無理矢理なにか描くことにする。そういう人がひとりいれば、 サイトを作る動機になりうるだろう。

いままでパロディー系の同人小説ならびに同人漫画を読んできて思った。 たいがいのものは2種類に分類できる。 ネタ系とポエム系だ。 ネタ系とはその名の通り、ネタで勝負する漫画である。 まあギャグだ。 ポエム系とは、なにやらよさそうなシーンを それっぽく語るものである。 私ははっきりいって、たいがいのポエム系は嫌いである。 正確に言うとポエムのふりをしているものが嫌いなのだ。 本当にポエムになっているならいい。 本当に語っている内容や表現がすごければ、 オレとてすごいと思うだろう。 だが、そんなものはそうそうない。 たいした内容でもないものを半端な演出技術で それっぽく描くのはポエムとはいわない。 そんなものには別の名前を与えよう。「ポエー」だ。 さらにポエーを描くやつはポエマー(詩人はpoet)だ。 これくらい蔑んでおけば自分への戒めにもなる。 そもそも、いいたいことをそのまんま描いてしまうのは エンターテインメントとして低レベルである。 芸術として高レベルであればいいが、そうでもないのに エンターテインメント性もないとしたら、それはダメだ。 いいたいことは楽しめる形に加工してそれとなく出せてこそより強く伝わる。 そしてギャグ系も少々飽きてきている。 たいがいキャラのネタは似かよっており、 あまりおもしろいものはそうないのだ。 時間がたてばそれだけネタもつきてくる。 しかもネタものは一回読めば終わりというのが辛い。 今ほしいのはその2種類に入らない同人誌だ。 つまり、「ストーリーを描いた同人誌」である。 そんなものは商業誌にあるじゃないかと言われるだろうが、 パロであることに意味がある。不満だった部分。もしこうだったらという想像、 後日談、語られなかったエピソード。いくらでもストーリーはあり得るのだ。 それを見事に実現してくれたものも少数ながらある。 だが、本当に少数なのだ。それを目指して及ばないものが多いのではない。 目指すものすら少数なのだ。 例の格闘綾香小説はその範疇に入る。 だからオレは評価しているのである。

この意見は、読む側の意見である。 ここでオレに「自分でできないことをいいたてやがって何様のつもりだ」 と言うのは筋違いだ。読む側は描く側に要求する権利がある。 もちろんそれを聞かねばならん義務はない。 ただ、「読者が文句を言うのを止めることはできない」のだ。 よほどの能力がない限り、それに耳を貸さない者は見捨てられるだろう。

1999年9月3日

windowsで送られたメールをどうしても読めなかった。 しかし、これだけは読まねばならなかった。 仕方なくえんえんとエディタでヘッダをいじったところ、 なんとか読めるようになった。 やったー! でも、字が欠けてる。いじる時にしくじったか…。 悪いが送りなおしてもらおう。

1999年9月2日

9月から授業といっていたのに、行ったらなかった。 しかたないので、影武者徳川家康を読みおえることにする。 気になってプログラムが書けん。 それにしてもそろそろKANONもっかいやらなきゃ。 って、誰に貸してたっけ?

例会でえんえん話しもせずに影武者徳川家康を読む。 ついでにテスト寸前の潮氏に一夢庵風流記を貸し、堕落させる。 同じようにハマってくれたのでとてもうれしい。 さすがに500ページの小説ともなると人を選ぶだろう。 例会後みなDDRと麻雀に行ったので、帰る。 影武者を読み終えよう。そしてプログラム。漫画。 実になる娯楽は楽しい。修行にまさる娯楽はない。

自分に自信を持つのには根拠が必要であるが、 その根拠がどれほどのものか考えた上でのことか。 また、自分に自信をもっていることに 気付かない憐れな例もある。 自分もまた疑わしい。

影武者徳川家康を読みおわる。無言。 男が描かれている。男を描けるのは男だけである。 性別の男ではない。イメージとしての男だ。 隆慶一郎は男に違いない。歴史の考証や、 事件の精密さがすぐれていることは当然だが、 隆慶一郎作品において心を打つのはなにより その男の生き様である。 もっと早く出会いたかった。 そう思う。

1999年9月1日

プログラムは謎のSegmentation faultで難航。 要するに原因不明に落ちるのだ。こまる。

日記内コラム1-合成洗剤VSせっけん-

  体用洗剤と髪用洗剤が尽きたので補充しにいった。 ふと昨日読んだ本に合成洗剤は体に悪いと書いてあったことを思い出す。 確かにたいがいの奴には指定成分が山のように書いてあり、 体に良さそうということはない。 指定成分とは「ヤバげなので明記しろ」と法律で決められている物質のことだ。 つまり多く書いてあるほどヤバげであるということになる。 そこでせっけんシャンプー (パックス ナチュロン シャンプー。名前は偉そうだが所詮せっけん) を買ってきた。 指定成分が香料だけである。所詮せっけんなので体用洗剤も兼ねる。 ちなみにその本によると、体用または髪用合成洗剤を ネズミに毎日塗ったりすると、まず毛が抜け、つぎには皮膚が剥げおちて 苦しみもだえながら死んでいくらしい。うさぎやらねずみやらでそうなるのなら、 人間でも同じだろう。薄いだけで害があることに変わりはあるまい。 髪がバサバサになったりハゲてきたりするのは合成洗剤の害なのだという話だ。 さて、私はなにかと影響されやすい人間なので、 そういうのを読むと踊らされずにはいられない。 そう、マルチがあざといとわかっていても敢えてはまってやろう、 というのと同じ心である。 せっけんであらって弱酸(酢やらクエン酸)でリンスすればそれで十分というのが その本の主張だ。 結局、化粧品屋に踊らされるか、その本に踊らされるかの二者択一なわけだが、 オレは本におどらされることにする。 情報なしでどっちがウソくさいかを考えると、 やはりイメージ的に化粧品屋の方がウソくさい。 さて、果してせっけんがどれくらい市販のえらそうな合成洗剤と違うのか。 オレの髪は尻をすぎるくらい長いので、影響はあからさまにわかるはずである。 報告を待て。

  報告一回目。使ってみた感じやはり洗いにくい。 それというのも、あからさまに泡立たないからだ。 ついでに洗剤の粘性が低く、すぐに流れてしまうということもある。 これはせっけんの特性でなく、この商品の特性だろう。 別のせっけんシャンプーがこうであるかは謎だ。 しかも、洗っていると毛どうしが強くくっつく。 洗剤がヌルヌルしないからである。 前つかっていた洗剤のコート剤が落ちた効果もあるかもしれない。 また、すすいでも何かさっぱりしない。 そしてリンス(クエン酸に油が主成分)の後では さっぱりはしないものの髪に指がよく通る。 偉そうな洗剤を使っていた時よりもよく通る。

  まず、すすいでもさっぱりしないのは、油がのこっているからであろう。 所詮せっけんなので、表皮の油を全部とってしまうほどの力はない。 本によると、これは皮膚にとって好ましい状態であるという。 また、洗った直後に髪どうしがくっつくのはあたりまえだ。 油がとれて濡れていればくっついて当然である。 さて、リンスの成分は3種類の働きをするものと思われる。 まずクエン酸でアルカリが中和される。 わざわざこんなものを入れているというのは アルカリが残るよりは酸がのこる方がいいという考えだろう。 そして油が洗った時にとれすぎた分を補い、髪どうしが くっつかなくなると同時に毛の保護になる。 おそらく水の蒸発を防ぐ効果があると思われる。

  ここまでの話はほとんど想像だ。ウソかもしれん。 「せっけん神話」に踊らされているのかもしれん。 しかし、髪の毛の調子がいいのは確かだ。 乾いたあとも指がよく通る。 そもそもリンスというのは「洗剤を使わないで軽く洗う」とか 「洗剤を落とす」という意味なのだから、これでも凝りすぎなくらいだ。 アルカリの中和をすれば十分であろう。だから酢やらなのだ。 液状せっけんとリンゴ酢をもって風呂屋に いくのも悪くはないのである(米酢はあまりにもイヤだ)。 さあ、これで数ヶ月後に毛がどうなっているか楽しみだ。 これが裏目に出れば、化粧品屋の勝ち。 どんどん健康になっていけば、せっけん神話の勝ちだ。 いざ、勝負。

  それにしても、なんでオレのような野郎がこんな実験をしているのやら。


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