だだもれ

2016年07月30日

7月が終わる。新しい職場は9月からだから、あと一ヶ月だ。

2016年07月26日

弟の定位照射が済んで4日経つが、まだまだ吐き気が強い。 放射線で細胞が大量に死ぬと、いろんなものが血中に出てきて中毒っぽい状態になり、 吐き気が出るらしい。 抗癌剤の吐き気と同様、弱れば弱るほどキツく出る類のものなのだろう。

吐き気というのは何のためにあるのだろうな。 毒物を排除するためにある防衛機能、という説明はされるが、 少々コストパフォーマンスが悪すぎる。 吐いてもいいけど、苦しい必要ないだろ。 苦痛で動けなくなることに利点があるとは考えにくい。 生物の進化は目的をもって行われるものではなく、 単に「そうなっちゃったけど不利じゃないので残ってる」 と解釈すべきものだ。吐き気がそう不利でなかったと考えると、 吐き気を催すような事態が稀だったからだろう。 つわりは今の人類には高率で発生するが、 もしかしたら昔はあまり起きなかったのかもしれない。 食べ物や行動パターン、環境などが変わってしまった結果、 人類の設計と合っておらず、吐き気を起こしてしまっているのだろう。 放射線治療や抗癌剤、乗り物酔いや酒もそうなのかもしれない。

また、そもそも個体を生き延びさせる方向の機能が常に有利とは限らない。 個体の生存を不利にする機能が選択されることもありうる。 例えば、繁殖に寄与しない個体はさっさと死ぬことで余計な資源を 消費せずに済み、集団の生き残りは有利になる。 吐き気が出るような状況というのは、文明以前であれば「もう集団の役に立たない」 ような重篤な状況だったのではないのか。 吐き気で動けなくなって死ぬことが集団を利するから、 吐き気のようなものが残っているのではないか。 もしそうだったならば、癌患者が生き残るのは遺伝子に抗う行為ということで、 それが難しいのも無理はない。 放っておけば治る病気であれば、辛ければ食べず動かずに待てばいい。 しかし、放っておいても治らない病気では、食べず動かずにいることは 命取りになる。どんなに辛くても、食べ、動かなくてはいけない。 だが、食べる気が失せ、動く気も失せるのが本能のようなものだとすれば、 そう簡単に抗うことはできないだろう。 闘病は容易ではない。

癌患者が生き残ろうとして戦うには、 たぶん個人を超えた理由があった方がいいのだろう。 誰かのために戦えた方が、たぶんずっといい。戦いやすい。 弟は、たぶんその理由を持てていない。 自分の理由だけで戦おうとすれば、 本能に抗うのは容易ではなくなる。自分の苦痛、自分の快楽だけが 行動を決めるのであれば、食べたくなければ食べないし、 動きたくなければ動かないだろう。

医者にかかった段階でもう負けている。 いかに負けを小さくするかでしかない。 医者にかからずに済ます努力をすることは、割に合う。

ポケモンの動作要件に「メモリ2GB」があることに今更気づいた。 ダメだこいつ。あと、ジャイロないとARが動かないらしい。

2016年07月20日

今日は墓参りに行った。正確に言うと、墓を探しに行った。

父方の祖父は13年前に亡くなった。 その墓は千葉県松戸の八柱霊園にある。 そして、この八柱霊園というのはひつじこの実家から 歩いて行けるような場所だ。 一緒に墓参りに行こう、ということになった。 しかし、場所がわからない。

法事などで行ったことはあるが、親と一緒だったので 場所を覚えようとなどしておらず、当然墓地内の アドレスも知らない。親に聞いてみても、 なんとなく感覚で行っているのでアドレスがわからない。 祖母は墓地の使用権利書みたいなものを持っているはずだが、 祖母は父のお兄さんの家に同居するようになり、 しかもボケてしまった。もはやどこにあるのかわからない。 管理事務所でアドレスを教えてくれればいいのだが、 どうもプライバシー保護のためかダメらしい。

一度一緒に行けばそこでアドレスがわかるのだが、 うちの両親は福島在住で、それほど頻繁に来るわけではない。 最近は頻繁に来ているが、 それは弟が病気になったからで、 墓参りに千葉に寄るような余裕を持てないでいる。 そんなわけで、墓参りしたくでもできない状況が続いていたわけだ。 ひつじこの家は毎月お墓参りに行くくらいちゃんとした仏教徒なので、 親戚の墓が近くにあるなら定期的にお参りをしたいと強く思ってくれている。 これに応えることができていなかったのである。

で今回はこれをどうにかすることにした。 弟が東京の病院に入院したことで、 今は家族5人が東京に集まっている。 そして今はスマホがある。 スマホで地図を見せつつ、 「なんかトイレあってそこを曲がったなあ」「道から見えるところにあるよ」 的な感じに範囲を狭めていくことができ、 実際に行かなくてもある程度の絞り込みはできた。 あとは確認だ。というわけで、会社を早めに抜けて 私一人で行ってきたわけである。

墓はあっさり見つかった。外縁部で、道沿いだったし、 手入れもされていたので字を読みにくいこともない。 同じ名字の別の墓という可能性もあったので卒塔婆を確認したが、 確かに祖父の戒名がある。名前から一字取っているので間違いない。 坊さんが言っていた戒名も音だけは何となく覚えていたし。

そういうわけで、初めて一人で墓参りをした気がする。 一つ大人になったと言えるかもしれない。 もう血縁関係のある祖父母は地上にはいない。 次の世代につなぐ立場になったのだな。

ところで、八柱霊園はデカかった。 松飛台駅に着いたの16時56分で、駅から近い南門は 17時で閉まるという。4分あれば入れると思っていたわけだが、 べらぼうに遠い。 近く見えたのは、スマホの画面で八柱霊園が入るように縮尺を合わせた からだ。八柱霊園は東西の幅が1km以上あるのである。 結局数百メートルダッシュする羽目になった。間に合ったので良かったが。

で、墓参りのあと、ひつじこ達がいるひつじこ実家に寄って場所を伝え、 少し休んで東京に帰ってきた。そして採点。 いかんもう4時だ。1/3くらいしかやってないのに。

残った時間でいろいろと伝えたいと思っていたのだが、 あんまり需要なさそうだ。 ドラッカーとかジムコリンズとかミクロ経済学とか、 やっぱりそういうのは興味ないよなあ。 それよりはアジャイルとかテスト駆動とか、 そういう方がいいんだろう。 なんというか、考え方とか指針とかじゃなくて、 「こういうやり方をする。こういう道具を使う」 という方が取り入れやすいんだろうな。 gitなしで分散管理ができるか? Cでクラスが実現できるか? みたいなことを考えると、確かに概念を道具と独立に 扱うのは困難で、道具が先にあるとみなさざるを得ないことは多い。 物の進め方に関しても、何かしらの道具が先にあって、 その背景になる思想や目的はその道具を通して 感じ取れた方がいいのかもしれない。 確かにそれも必要なことだとは思うんだが。

私は具体的な知識ほど不便だと思っている所がある。 現実は多様なので、具体的なことほど特殊な状況に特化していて、 そのままは使えないのだ。 基礎教養が大好きである。 しかし、具体的な状況に結びつかない抽象的な知識は さっぱりわからないのでやはり役に立たない。例が必要だ。 抽象的なことを具体的に語るのがいいんだろう。

CEDECどうしようかな。 9月以降もしばらくはゲーム屋ではあるだろうが、 CEDECに行く意味がある類のゲーム屋でいるかはわからない。 もし転職が1月早ければ仕事の概要がわかっていただろうから 行くかどうかも決めやすかっただろうが、 なにせ転職前なのでわからん。 ヒマなら行く、としておければ楽だが、早期割引がなくなると かなり高くなる。そこで1.5万も損したくない。

なんか面倒になってきた。夕方人に会いにだけ行くかなあ。

昨日は新橋で二郎を食べた。多かった。もう無理かもしれない。 味は満足だった。でも、しょっぱい。

「問題の複雑さを理解している人は一言でバッサリとは言わない。 問題をよくわかってない奴は一言でバッサリ言う。 人に受けるのは後者だ。辛い」 みたいなことを書いている人がいた。

簡単に言う奴は信用できない、というのはまあそうなんだが、 目的が何かしら成果を出すことなのであれば、 理解は手段でしかなく、単純化しないと仕方ないという気もする。 理解することなく問題が解決することはある。 基本、複雑なことには複数の人間が絡んでいるはずで、 細部の複雑さは人に任せるべきだ。一人で理解できるはずがない。 利害や価値判断が異なる集団がいて、どういう構成をしているかを おおまかに把握すれば、たぶんそれで足りる。 「大枠これで行こう。細かい所の妥協はよろしく」 と言える状態を作るためのコミュニケーションとリーダーシップの 問題に帰着する。

例えば、クソゲーになるという問題があるとする。仮の話な。 ゲームは複数人で作るので、 当然利害や価値判断が異なる集団だ。 必然的に複雑な問題であり、解決は容易ではない。 しかし、多少の損害を覚悟すれば、問題を理解することなく 単純に解決することもできる。 例えば「クソゲーは売らない」と経営者が決めて折れなければいい。 これだけでクソゲーが世に出ることはなくなる。 最悪会社がつぶれるが、 クソゲーを作らないように組織が軌道修正される可能性はそう低くない。 ゲームが出せないとプロデューサも困るし、下の社員も困るだろう。 クソゲーであっても期限内に出して利益が出ればとりあえず 生き延びられる、という状況ならクソゲーになるかもしれないが、 間に合わせることに意味がなくなれば行動の優先順位は変えざるを得ない。 つまり、何故クソゲーになるのかを経営者が理解せずとも、 何らかの強制や規制、あるいはインセンティブを与えることで、 組織が自律的に行動を変えることを期待することはできる。 問題を理解しなくては解決できない、というわけではないのだ。 政府とか政治家、さらに経営者はそれを仕事としているのだろう?

まあ、リーダーが細かいところを無視して大枠の話をした時に、 現場の人が反感持つのは当然だと思うけどな。 コミュニケーションが足りてないことの現れではあるが、 なんぼうまくやっても その反感をゼロにするのは無理だろう。 たぶんゼロにすべきでもない。 私はできるだけ細かい所は無視して大枠の話だけを するように心がけていた。たぶんこれからもそうするだろう。

うん。やることないな。とりあえずSunabaをweb化しよう。それは絶対にやらないといけないことだ。

プログラム書きを家でできれば一番いい。 今後も家でプログラムを書ける状況を作ることには意味がある。 しかしそれには、かなり寝た状態に近くなる椅子と、それに合った机、 デカいモニタといったものが必要になる。 ノートPCがあれば書けるには書けるが、姿勢を保てないから長時間もたない。

枕がある椅子、机、PC、モニタ2枚。いくらかかるんだ? そしてそれ以上に、そんなもんどこに置くんだ?

引越ししないとすれば、当分2DKだ。 とにかく場所がない。子供は大きくなる一方だ。 だが、転職なんていう危険なマネをする以上、 しばらくは出費を抑えておきたい。いつ職を失ったり給料が減ったりするかわからん。 家賃を増やすのは危険な選択だ。

うん。やめよう。しばらくは今と同様に家でプログラムは書かない。 それならば椅子はいらん。PCもいらん。机もいらん。 転職直後は最速で慣れるために多少長めに働きたいのだが、 それをやると諸々まずい。家で書くべきだとなっても、 今あるPCで寝そべってやれる範囲でどうにかする。 3DK以上の家に引越してそこに作業場を用意する、 というのは贅沢に過ぎる。非効率だ。

しかし、考えてみれば、いずれ子供も机で勉強するようになるはずなんだよな。 もっともその机がいわゆる子供用のゴツい学習机である必要はないし、 あんなもん人数分置けるはずもなかったりはする。 やはりダメだな。用途が違いすぎるし未来すぎて状況がわからん。 小学生のうちはロクに勉強なんてせんだろ。しなくてもできるはずだと思いたいし、 しないといけないとしたら私も一緒にやらんといけないから、 ちゃぶ台の方が都合がいい。

あーでも、仕事している所をひつじこや子供に見せることには大きな意味がある気がするなあ。 とりあえず机と椅子だけは見ておくか。案外小さなスペースでどうにかなるかもしれん。 立って使う机とかならなおさら。

立ってやる場合、キーボードは心臓くらいの高さにほしい。 最低でも肘より高くないとダメだ。手の甲側が凹になるような角度で指を動かすのは 人体の設計を無視している。となると、机の板は130cmとか140cmとかいう高さになる。 既製品でそんなものはない。段ボールで作れって感じだなこれは。 35cm段ボールを4つ重ねれば完成だ。なんだそれでいいんじゃないか。 大きなモニタを使わず、ノートPC+補助USBモニタでやるのであれば、 キロ単位の重さに耐える必要もない。それで作業できるものか試してみるとしよう。

WebSunabaを作り始めた。Javascript文字列処理は面倒だな。 1文字づつ置換したり結合したり文字比較したりしだすと結局配列になる。 文字列のままやるのはヤバそうだ。

2016年07月16日

twitterとfacebookに転職することを書いた。

2016年07月13日

「決意は固いみたいだから止めないけど」と言うが、 固い決意なんてしてないけどな。不安しかない。 だからこそ、ギリギリまで引き返せる状況を保ったままやってきたのだ。 失敗したら野垂れ死ねばいい、というような簡単な状況ではないのだから。 こういう日も来るかもしれないというのもあって、 無駄に金を使いすぎないようにしてはきたが、 それでもいざ来てみると心理的には何の足しにもならない。 重要なのはストックではなくフローだ。 いくら溜まっていてもさして安心にはならない。 十分なフローを生み出すほどストックがあれば別だが、 年間400万の収入を生み出すような貯金って一体いくらなんだよ。 1%と見積れば4億だし、2%でも半分だ。つまりありえない。 その1/10がせいぜいであり、多少出血を抑える程度のものでしかない。

ともかくも川を渡った以上、渡らなかった未来は消えた。 その方向で生き残る方法を考えることに集中しよう。 選択をした時に問題なのは、 それが失敗だったか成功だったかではない。 そこからどれだけのものを得られるかだ。

もっとも、この思考をあまり広く使うと人間としてはアウトな方向に 行くんだろうけどな。 家族が病気で死んでも、得ようと思えばそこから得られるものはあるのだ。 それを「ポジティブ思考」と考える人は共感を得られないだろう。

鳥は糖質を食うが、アホみたいに運動量が多い。なにせ飛ぶからな。 ネズミも糖質を食うが、やはりアホみたいに運動量が多い。 強いられもしないのにグルグル車を回す。 一方、普通の肉食動物は無駄に動かない。 また、草食動物も無駄には動かない。 草食動物が食べているのは炭水化物ではあるが、 糖質ではなく繊維だ。 それを微生物に食わせて出来た脂肪と蛋白を食べており、 直接吸収する栄養としては肉食と言える。 人類が糖質食の生き物であれば、 放っておいても無駄に運動すると思うんだよな。 糖質食だと蛋白と脂肪がカロリーに比して不足するので、 蛋白と脂肪を補充しようとするとカロリーが余る。 だから運動して捨てているのではなかろうか、と夏井医師。 人類が放っておくとダラけるのは、糖質食ではないからなのではなかろうか。

2016年07月11日

さあ、後戻りできなくなったぞ。

確定拠出年金というのがある。 定期的に決まった額を投資に回し、 それが増えたり減ったりしつつ65歳とかを迎えると、 年金になって帰ってくる。 いくらもらえるかはわからない。 普通に投資すると運用益に税金がかかるが、 この制度を通してやると税金が減るのでお得らしい。 今のところ企業に年金制度がある人は使えないのだが、 来年からその場合でも使えるようになるようだ。覚えておこう。

弟の栄養状態が悪くて傷が治らないという話で、 土曜に行ったら帯状疱疹まで出ていた。 どんだけ免疫落ちてるんだ。 もう糖質制限どころではない。 アルブミンが3.2とかだし、血色素量が11とかだ。 アルブミンは4切らないのが普通だし、血色素量は15くらいあるべきものである。 もちろん糖質を50gとか食うと血糖が200を超えてインスリンを点滴で 入れられるのは確実で、 「糖は癌の餌でインスリンは癌を悪化させる仮説」もあるし気持ち悪いのだが、 弟が糖質制限を守っていては食べるものがなく カロリーも蛋白も不足する、ということであればやむをえない。 かといって白米食べたい、とかいうわけでもないのが謎なんだが。 なぜかポップコーンを食べたらしい。 もうなんでもいい。今はとにかく蛋白とカロリーを取りまくって、 傷を治し、帯状疱疹を治し、予定通りに放射線を当てる。 それ以外のことは考えなくていい。

プロテインを置いてきた。ココア味。これを一日3回飲めば、 蛋白を余計に45g確保できる。それだけ確保できればかなりマシになるはずだ。 次の血液検査でアルブミンがどれくらい回復するかだなあ。 CRPが4とかあって高く、アルブミンが低くて痩せ、というのはいかにも悪液質っぽく、 本格的に危険な状況なんじゃないかと思えてしまうのだが、 とにかくもこれで回復することを期待したい。 だいたい見舞いに行くと新事実が発覚して何かしらの手を打つことになるので、 可能なら毎日でも見舞いに行きたいが、 今は諸々あってなかなか行きにくい状況だ。

おとついだったか、ひつじこが友達から葉書を受け取った。 古くからの友達らしいが、内容は参院選の選挙協力お願い。 生活だか共産だかに入れろという左寄りな内容だ。 それを読んでひつじこはえらくショックを受け、 胃が止まってしまった。よくあることだが、この後の対処をしくじるとひどいことになる。 そして今回もひどいことになった。

最初は茯苓飲を試みた。胃の通過障害と言えばとりあえずはこれだ。 しかしイマイチ効かない。そして昨日、朝から嘔吐して全く動けない状況に。 精神的なものが発端であれば加味逍遥散、というわけで試したが、 これも効かない。とりあえず脱水ということでOS1での補水も試みたが、 飲んだ以上に吐く。

そこまで行ってやっと気づいた。問題は脱水だ。吐き方もいかにも水逆なので、五苓散。 プラスOS1。 やっと効いた。夜には回復の兆し、そして今日の朝には 多少動けるようになり、夕方には腹が減って仕方がないと食べまくる状態まで回復した。

まず精神的ショックで胃が止まる。どういうことかはわからないが、 交感神経優位だと胃の蠕動が止まることは知られている。 腹の大動脈がドクンドクン言うのもそういう時だ。 胃が止まると水を飲んでも流れないので、飲まなくなる。 そんな状態でドバッと小便が出たり、授乳をすれば、 脱水に陥る。というか小便すごい出てた。 たぶん血糖かケトンか知らないが何かで血の浸透圧が上がって尿を増やしたのだろう。 その分体液が減って脱水する。 脱水が進むと嘔吐が出てくるので、余計に飲めなくなる。 飲んでも吐き、飲んだ以上に吐くのは、体液が胃に出てくるからだ。 これを抑えるのが五苓散で、胃に水が出てくるのを止め、胃の中の水分を吸収させて 血に回す。

胃が止まった時にはまず加味逍遥散の類を飲むのがいいのだろう。 交感神経を鎮めないといけない。それには柴胡、山梔子、牡丹皮、芍薬だ。 もちろん薬に頼らず、楽しく話をしてリラックスさせてもいいし、その方がいい。 それは私の役目だ。 さてそれでも抑えられず脱水に進展した場合には、 さっさと五苓散+OS1で手を打つ。今回そうしていれば丸一日早く回復させられただろう。 五苓散は緊急で使うことが多いことを思えば、生薬で持つより錠剤なりエキスで持つ方がいいだろうな。

福島から出てきて東京に滞在している両親も疲労がヤバい。 母は口唇ヘルペスが出ている。免疫が弱っている。 一回福島帰った方がいい。補中益気湯でも煮て持っていってやろうかと思うが、 一日飲んだ程度でどうにかなるわけでもない。 医者にエキス出してもらって継続した方がいいだろう。

2016年07月08日

40代前に管理職とかになってしまって先が見えない感じになったらどうする?的な記事 転職業界がもうかることに利益がある人が書いていればそういう偏りも入るだろうが、 それはそれとしてこういうことはあるかもしれない。 成長が止まった会社で中途半端に上の地位についてしまった後にどうするか、 というのは確かに問題になるんだろう。 しかし、より大きな会社に行って上がる余地を大きくする、という選択肢以外にも、 より小さな会社に行ってその会社を大きくする、という選択肢もあるんだろうなとは思う。 そういう主旨の記事もあった気がするな。

昨日TENTOというプログラミング教室の見学に行った。 マインクラフトってプログラミングを学ぶ環境にもなるのな。 あと、アルゴブロックというサイトを知った。パズルゲームとしてちょっと面白そうだったので、 ひつじこにやらせてみたい。

プログラミングは子供の教育に有用か? プログラミングが有用であるとして、どのようにさせると良いか? このへんの疑問には答えが出ない。 scratchのような良く出来た子供向けプログラミング環境が出来てから、 まだ10年であり、web化してどこでもやれるようになってからだとまだ3年でしかない。 このアプローチの効果を測定できるようになるにはもう少しかかるだろう。 その結果が出る前に、もし私にできることがあるなら参加しておきたい気はする。 うちにも子供がいるわけで他人事ではないからな。

現状の私は、プログラミングを子供の頃からすることが有用だという確信を持てないでいる。 だいたい私自身子供の頃からやっていたわけではない。 今まで見たできる人は大抵独学でやっており、 また、そういう子供向けの簡易環境でお膳立てされてできるようになったわけでもない。 ただ、いきなりマシン語、というわけではなくBASICが果たした役割は大きいという 話は聞くので、全くお膳立てがなかったというわけでもないのだろう。 昔BASICが果たした役割を、scratchがもっと良く果たす可能性はある。 Sunabaもそういうものの一つとして作ったが、 これが役に立つケースもどうやらあるようだと思える感じにはなった。 はっきりした実感があるわけではないが、 本が1.5万も売れてるんだからたぶんそれなりに支持されてるんだろう。

Sunabaは子供を全く見ていない。 それなりな年になって、プログラミングに関わりたいという意思はあるが理解できない人や、 プログラミングに関わる立場になったにも関わらずわからなくて危機感を持っている人が対象だ。 そこに絞ったので、「楽しさ」は度外視している。 理性と危機感でやるもので、楽しさを求めてやるものではない。 そもそも上達や達成に充実感を持てさえすれば、それが楽しさになるので、 モノを楽しく作ろうなどと思う必要はないのだ。 拳法やピアノは楽しくなるように設計されていないが、楽しいと感じられる奴は楽しいだろう。 あの本と、そのためのSunabaはそれでいいと思う。 しかし、子供にやらせて教育効果を上げよう、 みたいな話になるとそう単純な考えではマズいのだろう。 子供が必要性を感じるとは思えないし、危機感など持つはずもない。 しかも、子供にその選択肢を与える親も当然プログラミングというものを知らない。 その状況でなぜプログラミングをやるのか、 なぜその手法で学ぶのか、 ということになると、何かしらの売り文句が必要になる。 子供に対しては「楽しさ」、親に対しては「有用性の保証」だ。 その世界は私にとっては未知である。 大人は自己責任で本を選んで勝手に勉強するわけで、 統計的にSunabaのやり方が効果があることを実証せねばならない必然性は薄い。 それは本の売上が間接的に示してくれる。 本が絶版になればそのアプローチに効果がないと言えるし、 売れ続けていれば何かしら価値が認められていると言える。 だからあれはあれでいい。 でもwebアプリ化しないとダメなのはよくわかっているので、どうにかがんばってやる。 それをしないと使ってもらえないし。

Sunabaにしてもあの本にしても、私の中ではもう過去の仕事で、 あれを生かしてどうこうしようという気分はあまりない。 しかし、本がしぶとく売れ続けており、 中国語版も出て、まして教育にあれを使うという人が現れるのであれば、 考え直すべき時だろう。 あれを私の武器として、それなりにメンテ拡充し、 さらにはプロデュースしていくべきなのかもしれない。 もしかしたら、それが将来いささかの収入をもたらしてくれるかもしれないし。

でもまあ、過去の仕事はやっぱり過去の仕事なので、 あまり手間をかける気にはなれないな。 とりあえずコードをgithubとやらに上げておくとしよう。 しかし正直家のコンピュータではそれをする気にすらならん。 そろそろコンピュータを投資として買わねばならんようだ。

キーボードがなくなる日についてよく考える。 会社の報告書をスマホで書く奴はもういるんじゃなかろうか。 人に売るプログラムを作る環境には、分業耐性と規模耐性 がまず求められる。 さらに再利用性、頑健性などが続くが、 Cがまだ使われていることから考えて、それらは規模耐性と分業耐性が 備わっていれば工夫でどうにかできなくはないと言える。 関数と構造体とファイル分割があればどうにかなる、という話だ。 ギリギリまで削って設計したら何ができるのだろう。

スマホが欠いているのはファイルシステムだ。 しかしこれはweb上に置けば何ら問題がなく、 そこに置くならもっと良い見せ方もある気がする。 ファイルシステムは本当に木が良いのか? 単体アプリはブラウザ上で動かせる。 サーバへの設置もブラウザ上からできれば、 サーバアプリも作れる。ブラウザから一歩も出ないで 開発を完結できるはずなんだよな。 セキュリティ上の制約は諸々ありそうだが。

2016年07月06日

未来はわからない。不確定性を減らそうとしても限度がある。 それよりも、より多きな不確定性に耐えられるようになる方がいい。 金を稼ぐ腕を持ち続け、鍛え続けることだ。 それが一番簡単で確実なことだろう。

とかいいつつも、投資ごっこは変わらず続けている。 円高で目減りしているし、 新興国投資は慢性的に損が出ているが、 全体としてはまだ大きくプラスなのでいじらない。 こうなる前に一旦売っておけばかなり儲けを確定できただろうが、 一旦売れば、これからも売るタイミングを計るようになるだろう。 そういう生活はしたくない。

蓄えはそれなりにあるが、これが吹き飛ぶくらいのことが起こらないとも限らない。 結局ストックよりフローだ。金を稼ぎ続けることが大切で、 いくら溜まっていても、それは安心にはつながらない。 毎月確実に金を余らせることが大切で、 そういう生活規模に抑えていかねばならないと思う。

それはそれとして、収入を増やす努力をするのは悪くない。 と言っても、今は過ぎた給料をもらっており、増やせと主張する気はない。 給料は結果だ。もっと活躍することで収入を増やす。 ただし、労働時間を増やすのは犠牲が大きいし限度もある。 これからすべきことは「活躍効率」を上げることだ。 誰かのためになることをする。 オタマには「お金は誰かが喜ぶことをするともらえる。お金が欲しければ人が喜ぶことを たくさんしないといけない」と言った。それは自分への言葉だ。 そろそろ実践せねば口先親父になってしまう。

2016年07月04日

「なぜ今、私たちは未来をこれほど不安に感じるのか?」を読んだ。 こういう小説風の味付けをしたものは情報密度が薄いので、 斜め読みでも問題ない。 話の構造さえ取れれば、ややこしい所は後で検証してもいい。

経済成長がない前提で生きよう、という主張。 日本人は江戸時代にそれを実現していた、 と言うあたりは完全には信じ難いが、 同時期のヨーロッパに比べれば持続可能な社会に近いとは言えるか。 腐敗がなかったかどうかとか、身分に流動性があったかどうかとか、 そういうことは私にはわからない。

中央銀行が国債や株を買いまくってもうれしいインフレにはならない、 という主張。うれしくないインフレになる可能性は上がってくる。 いずれインフレにはなるのだろう。 円の比率は低い方がいいと思う。

2016年07月01日

誕生月間か。さっぱり忘れてた。30代最後の誕生日ということに気づいて、 人生長くないぞマズいと思った。 ここの所いろいろあって、いつどうなってもおかしくないのはよくわかったので、 もう少し回転数を上げて生きないといけない状況に追い込みたい。

カフェとかエステとか意味がわからんが、そう言っておけば多数派が喜ぶ、 ということであればそれでもいいんだろうな。統計的には。 とはいえ、ひつじこにそんな話をするようでは、 明らかに「こいつ話聞いてくれてないな」感が出てきそうな気がするんだが、大丈夫か。 あるいは、大丈夫でなくてもかまわないのかもしれない。 なにせ企業ではない公的施設なので、客が離れても一向に困らないのではなかろうか。

つうか小学生アウトとか、年齢ごとに施設が違うとかいうのは、 それだけ一人っ子が多いということなのか。 小学生が一人しかいなければ預けないといけない状況はかなり減るだろうからな。 もしかすると、小学生になって肉体的にも知的にも強くなってくると、 面倒を見切れなくなるということなのかもしれない。 逃げると捕えられないとか、いたずらのレベルが上がりすぎて対処できないとか。 なんにしても、そこに割いている資源が手薄だということだろう。 人材的にも施設的にも。子育てに行政が金を出していないということだ。 そしてそれは、そこに金を出すことを皆が歓迎していない、ということだ。 社会の雰囲気として、あまり未来を見なくなっているのだろう。 単に行政が怠慢なだけなら企業が入ってきて隙間を埋めてくれるだろうが、 社会の雰囲気として子供を育てる気がないのであれば、企業もそこをやろうとは思わない。

人の相談を受けた経験はあんまりないな。あるけど覚えてない、という可能性もあるが、 たぶん少ないんだろう。

本読んだり旅行したりして楽になれるなら、したらいいと思う。 「する!」と言うなら、してほしい。後はどうにかする。たぶんどうにかなる。 私はひつじこから見れば行動の自由があるわけで、不公平だ。 しかし、ひつじこが旅行に行けばいいのかと言えば、そうでもない。 私の家事育児スキルはひつじこが十分と感じるレベルではないからだ。 安心して遊びに行けない。 気にせず遊びに行ける人間なら、とっくに行っているはずだ。 私が家事と育児をちゃんとやれれば、そんなわけのわからん所に 相談に行くまでもなかったわけで、私が足りてないのはわかっている。

でも、しんどい。実際問題どうしたらいいんだろう。 弟の件で昨日は一日家におらず、 今日は全然間に合ってない仕事を片づけに会社に一日いたし今もいる。 実家に行っている間に掃除くらいしろよと言われればその通りだが、 そうすれば仕事はもっと遅れる。それなりに片づけたつもりだが、 何を片づけたかわからないレベルみたいだし。鼻水吸引器は洗ったんだが。

なんというか、もう容量をオーバーしている。 仕事を真面目にやって、弟の件でやれるだけのことをして、 加えて家事と育児をひつじこが不満に思わないレベルにやる、 というのは、時間と精神と肉体が足りない。 そもそも複数のことを並列させるのは凄まじく苦手なのだ。 今の私の能力は、並列を避けて集中することで身についたものだと思っている。 もちろん結婚してから集中の度合いは下がったわけだが、 それによって初めてわかることはたくさんあった。 結婚しなければドラッカーなど読むことはなかっただろうし、 読んでもピンと来なかったかもしれない。別に能力アップのために結婚したわけではないが、 結婚はそっちにもいい影響を与えたと思っている。

しかしそれはそれとして、この6年間、自分自身の技術的な能力はほとんど上がっていない。 まあ正直、プログラムを書く能力自体はそれなりにあるっぽく、 「周りにバンバン抜かれてヤバい!」みたいな感じはないのでいいと言えばいいのだが、 世間の技術の流れみたいなものをロクに見ないで過ごしてしまったのはまずかった。 1月にスマホを買って初めてそれに気づいた。本当にマズい。 丁度仕事上も現場から離れた間接部門におり、その期間が長すぎた。 もちろんそうだからこそ仕事の比率を落として家にいる時間を長く取れたわけで、 それでよかったし後悔などしていないのだが、 それはそれとして、これからどうやって給料もらうんだよと考えると本当にマズい。 20代の頃の集中力を呼び戻さないと、時代に追いつけなくなるのではないのか。 だがそれをやったら、家での存在感がなくなってそっちも危険なことになる。 足りない。時間と精神と肉体が足りない。

いや、足りない、と考えること自体がたぶんダメなんだろう。 気の持ちようの問題は確実にある。 「資源は有限なんだから、何かを手厚くしたければ、何かを削らなければならない」 という考えにこだわりすぎているのかもしれない。 あるいは、本来削ってもいいはずのものを、きちんと削れていないのかもしれない。 それはあるな。ゲームやってる場合じゃないだろ。 いや、ゲームやってないとわからないことが大量にあって、 この6年間ロクにゲームをやっていなかったからこそこうなっているわけだが、 しかしこの半年でだいたいわかったんだし、これ以上は効率が悪い。 実際ちょっと辛くなってきたし。クラロワも城ドラもガチすぎるからな。 パズドラみたいな一人遊びゲームは「何も残らん感」が辛いから、もうたぶんやらんし。


もどる