だだもれ

2015年11月27日

「「DNA検査」が暴き出すもの」という記事。 結婚なる制度があってその中で子供を作るのが当然、 という世界観が問題の原因な気がするんだが、 それ以外の世界観で生きてないから本当にそうかはわからない。 それにしても、この目的でDNA検査した段階で夫婦の関係は終わってるように思う。 病気リスクを知るための検査ならともかく。

ビタミンCを大量に点滴する癌の代替療法がある。 ノーベル賞を取った化学者が提唱した、 という経緯があり、人を騙すにはうってつけだ。 原価は安く利幅を多く取れ、また、 点滴であることから医師しか行えず競争が緩くなる。 保険適応でないことも商売に向く。 また、科学から逸脱せずに効く理屈を作りやすいのも強い。 実に利益を出しやすい代替療法である。 こういうものが効くか効かないかわからないままのさばるのは 実に困るわけだが、残念ながら ランダム化されたまともな臨床試験はないらしい。 しかしそもそも、臨床試験をやるには動機が必要で、 薬を売って儲けるのに必要だったり役に立ったりする試験は 比較的行われやすい。 効くのかよくわからないまま流行っている治療に白黒つける、 という場合には製薬会社がやることは少なかろうが、 大学や国家主導であれば行われることがある。 是非ともそれを期待したいところだが、 今のところはその気配はない。

しかしビタミンCは効かない、ということがそれなりに知られてきたからか、 最近はアレンジがかかっている。 糖質制限と組み合わせる、というアレンジだ。 元々ビタミンCが出てきたのは、 癌患者の血中ビタミンC濃度がゼロに近い、という観察があったからだという。 癌細胞はブドウ糖取り込み機構が異様に活性化しており、 血中のブドウ糖をバンバン取り込んでは細胞分裂のための資源としている。 この取り込み機構はブドウ糖とビタミンCの区別がつかず、 癌細胞が多数あるとビタミンCがどんどん癌細胞に取り込まれてしまって、 血中から失われる、ということのようだ。 そして、癌細胞内に入ったビタミンCは過酸化水素を生み、 これを除去する力が弱い癌細胞はダメージを受ける、という仮説が別にあり、 ここで糖質制限をしていると血中のブドウ糖が少ないので、 細胞にビタミンCが入る確率が上がる、というストーリーになるわけだ。

現状、厳格に糖質制限をした患者でビタミンCが効くかどうかはわからない。 最近言い始めたばかりで数がないし、 やってる所はほぼ確実に自由診療の怪しいクリニックだ。 まっとうな統計を取っているかは怪しいし、取っていても 論文にはならないだろう。 それに、糖質制限の徹底は難しく、 何に糖質が入っているかを十分に知った上で、 血糖測定器で毎度チェックしながら生活するくらいの覚悟がいる。 糖尿病患者なら癌関係なく糖尿の管理のために糖質制限する気にも なりやすかろうが、糖尿がなければそれは難しかろう。 そういうわけで、糖質制限+ビタミンC、という組み合わせが 効くかどうかは当分わからないだろう、ということになる。

加えて、糖質制限をしても血糖値は大して落ちない という問題もある。 正常値は70-110くらいだが、私は95くらいあるし、 ひつじこも90くらいある。糖質をあまり食べない生活をしていても、 大して下がらない。肉食である猫の血糖値がやはり70-110くらいある、 ということから言っても、食べなければ血糖が下がるというわけではないことがわかる。 食べなければ蛋白から糖を作って供給されるだけだ。 そういうわけで、効くとは正直思えないのだが、 糖質を減らせばここのところの体重増加が止まるかもしれんし、 試してみるのは悪いことではないと思う。

ふとfloatやdoubleを文字列にする方法が気になった。 私が自分で考えつくのは、IEEE754準拠である場合に限るが、 指数部、仮数部を取り出して、 仮数部を指数部の数だけ2倍したり2分の1したりするやり方だ。 23bitの仮数部を32bitの整数に入れ、例えば指数が5なら、5回2倍する。 オーバーフローを避けるため、 適切なタイミングで10で割って、10で割った回数を覚えておく。 除算で誤差が出るが、この場合は9bitの余裕があるのでそれなりに持ちこたえる。 この方法の欠点は、指数がデカいと遅いことだ。

別の方法として、整数にキャストしてから整数部を文字列化し、 小数点以下必要な桁数に応じて10の羃を掛けて小数部を整数化して文字列化する、 というものがある。高速だが、1e35のように巨大な数は無理だし、 小数点以下の桁数が大きいと、10の羃が正確に表せず誤差が混入する。

浮動小数のままやる手もある。10の羃を作って、上の桁から順に割り商を書き込む。 あるいは、下の桁から順に割り余りを書きこんで反転する。 しかし、10の羃にそもそも誤差が混入し、次の除算でも誤差が混入するので、 どこまで正しく計算できるかは場合による。

さて賢いやり方はなんだろう。たぶん、浮動小数点演算で近似値を出してから 整数化して誤差を除く感じなんだろう。 m*2^eをm'*10^e'にするうまい方法が考えつくといいなあ。 gccの中身とか見れば一発なんだろうが、どうせ趣味だしもう少し先延ばしにしたい。

2015年11月26日

水曜日のこと。

「代替医療解剖」を読んだ。 代替医療に効果があるのかないのかを科学的に解明しようとした過程と、 現在のところの結論が書かれている。 結論から言えば、ホメオパシーはインチキ、ハーブ療法はモノによるが 普通の医療の方がおおむねマシ、鍼は効かないと断言はできないが コストや安全性から言って普通の医療の方がマシ、 カイロプラクティックは危険性が大きい、という感じになっている。 これら4つはイギリスの現実に即した選択であり、 マツキヨにホメオパシーの薬モドキが売られている、というような状況に なっていない日本では少々応用がしにくい。 しかし、議論の方法はどんなネタであれ同じであり、 日本人であっても身の回りにはびこるインチキに対処するための 基礎知識として皆が読むべきだと感じる。 もちろん、日本人に向いたアレンジバージョンがあればなお良く、 その場合は整体、鍼灸、接骨、そして漢方が入ってくるだろう。

インチキかどうかを見分ける最強の方法は、臨床試験である。 その行為をやった群とやらない群を比較する必要があり、 ある患者がどちらに入るかはランダムに決められる。 できれば患者は自分が正しくその行為をされたのかそうでないのかが わからないようにすべきだ。施術されたと思うだけで体が反応して 病気が治ってしまうことは多々あるからである。 また、理想的に言えば、施術者も、ある患者にその施術をしたのかしていないのかが わからない方がいい。鍼や整体では不可能だが、薬ならそれが可能だ。 中身が本物か偽物かは第三者しか知らないようにする。 ここまで周到にやった上で、さらにそういう試験を複数のグループでやり、 その結果をまとめて結論とする。 ここまでやるには億単位の金がかかるが、得られた知識の価値は大きい。 その条件において、その手法が効くか効かないかがはっきりするからだ。 効くと思っていたことが、単なるプラセボ効果で実際には効いていない という結論が続々と出てくることになる。

このランダム化臨床試験の素晴らしさは、 理屈がわからなくても効くか効かないかがわかるということだ。 理屈なんて後から解明されれば良く、 どんなに胡散臭いトンデモ理論で構築された手法であっても、 実際に効いてしまうのであれば効くと判定できる。 もちろん効かないケースが圧倒的に多数なのだが。

臨床試験の結果が出ていることについては、それをわきまえるべきだと思う。 ただ、臨床試験で白黒つけにくいこともあるし、 臨床試験が行われる見込みがないこともある。 例えば漢方の臨床試験は行われる見込みがほぼない。 やられても規模が大きくなかろうし、一流の人材がそこにいる確率も低い。 また、やるとしても「○○湯がアルツハイマーに効くか」みたいな限定的な条件で、 応用性に欠ける。 臨床試験に参加する術者のレベルはどうなんだ、という問題もある。 ひつじこによればマッサージあるいは整体の術者のレベルには 天地の開きがあるという。高レベルの術者が臨床試験に参加する動機はおそらく薄い。 もちろん科学的に考えれば、単に高レベルの術者ほどプラセボ効果を 演出するのがうまい、というだけかもしれないのだが、 実際に効きが違う可能性もある。 もし世の中の術者の99%がほとんどインチキレベルで、たまに効かせる人がいる、 ということだった場合、臨床試験の結果は「インチキ」となるだろう。 もちろん、実際に治療してもらおうとのれんをくぐった先の術者の 99%がインチキなのであれば、 そもそもその術がインチキであると断じても現実的には問題ない。 しかし西洋医学が苦手な分野で成果を出せる人がいる可能性を つぶしてしまうことには多少の躊躇がある。

私自身は「臨床試験の評価を経てないことはやらない」と言う 態度にはなれそうにないし、 臨床試験の評価を経た治療法に不満があるケースはごまんとある。 例えば癌の化学療法による延命効果は甚だ不満だ。 治療開始後1年で半分が亡くなる、というのが多くの癌の現実である。 他にないんだからそれでいい、と割り切るのはなかなかに難しい。

つうか、私はエビデンスに基いたまっとうな医療を否定する側の 人間に見られてしまうのだろうな。 以前は玄米食、中国拳法、今は糖質制限、さらには漢方薬だ。 ひつじこやオタマの具合が悪い所に手を当ててるのも、 代替療法にある「セラピュティックタッチ」という奴と同じようなものだろう。 ただ触っているだけではなく、 謎の精神集中をし、温感だか何だかよくわからん感覚を頼りに悪いところを探したりしている。 かめはめ波の練習をする子供と大差ない。 ひつじこは楽になったと言ってくれるし、シノンもオタマもそれで大人しくなったり、 寝てしまったりするのだが、科学的にはプラセボ効果として説明がつく。 プラセボでいいやと思いつつ、主観的には単なるプラセボじゃないんじゃないかなあこれ、 と感じていたりするわけで、私は根本的に代替療法にハマりやすいタイプ なのだろうなという気はしている。

ロハスとか嫌いなんだけどな。 連中は健康上の効能とおしゃれ感がごっちゃになってて嫌だ。 効くかどうかとおしゃれかどうかは関係ないし、おしゃれとかいらん。

そんな本を読みながら電車に乗って、今日は代替療法気味セミナーを見てきた。 情報としての価値はほとんどなかろうとハナッから思っていたわけで、 半ばそっちの業界のノリを見てみようと思った、という感じである。 セミナーは医師によるもので、その内容については 「あー暗黒面に落ちたわけではなかったかまあ安心。いろいろ事情あるよな」 という感じだったのでそれは良しとする。 障りがある可能性があるので詳しくは書かない。 しかし、そのセミナーを主催した団体はあきらかにヤバい。 命がかかるとこのレベルにインチキ感あふれるものでも人は引っかかるんだな、 と思った。「アメリカでは主流」とか、もうギャグでしか使われないと思ってたんだが、 普通だった。あとスウェーデン。 北欧出すとダマされる人が多いってのは嘆かわしい限りだな。 本当北欧に謝りたい。

朝は妊婦健診。2500gを超えたようで、もういつ産まれてもいいそうだが、 子宮口は固く閉じていて、まだ産まれる気配はない。 予定通りクリスマス前になるのかな。 弟の治療に動きがあるなら、その前に片づけられるといいなあと思う。 放射線の病院行ってトモグラフィーで焼いてもらうと。

漢方って効くのかなあ。シノンが下痢なので、 昨日は五苓散-猪苓+大棗生姜を1/3量煮てシノンに飲ませた。 一日量のつもりだったがひつじこが一度に飲ませてしまった。 五苓散は生薬に農薬残留や汚染がなければ多少飲みすぎても害がなく、 足した大棗(ナツメ)と生姜(ショウガ)も所詮は食品だ。 まさか大した問題にもならんと思うわけだが、 なぜか朝までぐっすり。不自然なくらいよく寝た。 シナモンだろう。 下痢は終息しそうだが、薬が効いたかどうかはわからない。 今日も同じ薬を作ったが、半量を飲ませた。

2015年11月24日

弟CT。CTでは異常は見当たらなかった。 右脇腹の痛みは単に筋トレのせいかもしれない。 しかし、CEAは上昇を続けており、2ヶ月前の3倍になっている。 どうやらDupanは止まっているようにみえるが、 サイラムザ単剤では抑えられないことは明白だ。 癌細胞には多様性があり、弟には最低でも2種類の癌細胞がいる。 出す腫瘍マーカーが違うならば、効く薬が違うことだってあるだろう。 そして肝転移が増大していないのにCEAが上がっているということは、 肝転移以外に元気な奴がいるということを意味する。 あまり時間はないぞ。手を打たないと。

「代替医療解剖」を読んでいる。ランダム化した臨床試験の重要性を再確認した。 瀉血はないだろ瀉血は、と思ってしまうのは後知恵なのだろう。 てっきり日本にも伝わる刺絡と同じようなもので、静脈瘤がある所を刺して 数ml血を出すくらいのものかと思っていたのだが、 全然違う。ツボのように「肝臓ならここ」みたいなのが決まっていて、 そこを切って100ml単位でドバドバと血を捨てる。 どれだけの人が失血死したか。 それが19世紀まで当たり前のように行われていたということを知った。 いや、前にもどこかで読んでいたかもしれないが、再確認した。

私が知る範囲では、吉益東洞による水銀剤治療は瀉血に勝るとも劣らない 危険度を持っている気がする。 梅毒の細菌を殺すために水銀を使って強力に治療したそうだが、 梅毒と梅毒以外の結核や癌の区別がつかなかったため、 梅毒以外の患者はかなり殺されたらしい。 しかしそれで梅毒患者が多数治っていたというのであれば、 やむをえないとは言える。 それは今癌に抗癌剤を使うのと似たような状態だ。 何十年か後には「このパターンでこの抗癌剤使うとかありえんだろ」 みたいなことが言われるだろう。 効く患者を識別する技術は大抵遅れて発達するものだ。

漢方は私が日々試していて思うが、いきなりすごい副作用が出たりはしない。 大黄の下痢や、麻黄の不眠くらいだ。 多少量を増やしても、高が知れている。 鍼灸も安全性に関してはさしたる不安もない。 ホメオパシーは効く気が全くしないだけに、副作用はゼロだ。 西洋医学がエビデンスエビデンス言う方向に行っているのはおおむねいいのだろう。 それらの代替医療と違って薬が効くので正しく使わないと命に関わる。 臨床試験を経て検証された使い方を基本にしないと危なくて仕方ないというわけだ。

それにしても、2005年まで ホメオパシーが効くか効かないかなんていう研究に予算がついていた というのはすごいな。それだけ欧米では民間療法としてメジャーなのだろう。 1分子も入ってないもので何故効くと思えるのだろうか。 流行っているということはプラセボ効果が大きくて実際に治るということだ。 それだけ人が信じているのである。 なぜ信じられるのだろう。そこがわからない。

2015年11月22日

ひつじこ実家。私だけ帰ってきてコード書き。

ひつじこは腹がでかくなっていろいろ大変そうだ。 これに関しては女性が割を食うことは生物学上仕方ない。 男がその分負担を負うしかない。 しかし生物学上仕方ないことでも、技術の進歩によって そうでなくなることがある。 人工乳の発明によって、産んだ後に関しては大きく変わった。 帝王切開や堕胎、さらには出生前に性別がわかるようになったことも、 いろんな変化をもたらしていることだろう。 これからもそういう変化は起こるだろうし、 それによってできるようになったことを求める人がいれば、 それは普及していくことになる。 倫理がなんだといろいろあるが、3世代も待てば倫理なんて変わってしまうだろう。 倫理やら規範やら風習やらには、ほぼ確実に経済的技術的な裏付けがあるものだ。 つまり、経済や技術が変われば、倫理も規範も風習も変わるということである。

男女関係なく体細胞を取って混ぜて受精卵を作れるようになり、 それを3000gになるまで人工的に培養できるようになったとすればどうだろう。 結婚を男女に限る理由が薄くなるし、 女性が仕事を休む必要もなくなる。 そうする技術があって、そうしたいという人が増え、 それが直接的に誰かに害にならなければ、それは行われるだろう。 「伝統的な家族のあり方が壊れる」とか 「結婚や離婚が安易に行われて人心が荒む」といった 間接的な害があったとしても、たぶん抑止力にならない。 3世代もあれば10ヶ月自分の腹で胎児を育てる人が少数派になることだってありうる。 病院で産むのはあっという間に普通になったし、 メキシコみたいに帝王切開が多数派なんて国もある。 一方で一向に無痛分娩が普及しないなんてこともあったりするので、 技術的に可能なことが必ずしも素早く普及するとは限らないが、 多くの人が無痛分娩のことを知り、それを望めば、 いずれは普及するだろう。薬価や診療報酬、麻酔医の育成や資格、規制、 といったものがそれをやりにくくしているのだろうが、 時間の問題だろう。30年前にヨドバシのような店が許される国になると 思った人はそうはいなかったはずだ。 酒屋が値引きすることすら許されなかった時代がちょっと前まであったのである。

痛くなければダメージは軽く、入院期間も短くなる。 体力の消耗によって危険なことになる確率も下がる。 麻酔のリスクが十分に下がっていれば、それは経済的にも健康管理的にも合理的だ。 そして何より、普通の人は痛いことを望まない。 実際、無痛分娩をやっている近くの医院は分娩予約が一杯だ。 無痛分娩が流行ってないのは一時的なことだろうと思う。 その変化がひつじこに間に合わなかったのは残念だが。

政策や制度は、望んだようにはなかなか機能しない。 今ある制度が、その制度が意図した効果を今でも生んでいるかは定かではない。 例えば、結婚したら名字を変えろ、という制度がプラスに作用しているかは 定かではない。もちろん理屈はいくらでも言える。 夫婦が話し合うネタになっていいとか、 安易に結婚しなくなれば安易に離婚しなくなるとか、いろいろと言える。 「無痛分娩が普及すると子供を安易に作って捨てる親が増える」 と言う人も実際にいるわけで、私にはそれと似たような構図に見える。 それらは全て仮説だ。統計的に実証されたものではない。 シートベルトを義務づければ事故死を減らす、ということすら、 実際に統計を検証してみたらそうでもないということがあったと何かの本で読んだ。 安全になった分スピードを出し、大事故が増え、 歩行者が巻きこまれる頻度が上がったのだろう、 という考察があったが、その考察が真実かどうかも統計を取らねばわからない。 薬が効くかどうかは、最終的には理屈でなく統計の問題であり、 制度も商売も同じだ。「統計学が最強の学問である」という本の主旨には、 その点で完全に同意する。

うちは名字は両方とも変えたいとは思わなかった。 ひつじこは友達に呼ばれるあだなが名字由来だったし、 私もそうだ。そもそも手続が面倒くさい。 名前が変わればネットでの検索にも支障を来し、 旧友から見つけてもらうのも困難になる。 普通の生活では元の名字を名乗ればいいじゃん、 という意見もあって、そうしている人は大勢いるが、 そもそも変えなくて済めばそんな妥協をする必要もなく、 それについて考える必要すらないのである。 もちろん、それをネタにして夫婦がよくよく話し合う機会が得られて良い、 ということはあるだろう。結婚に臨んで慎重によくよく話し合うことはたぶん いいことだ。 しかし全ての夫婦においてそのことが発揮されているとは思えない。 単に風習に忠実に行動した結果男の姓が残るケースは多かろうし、 男女の居住地が離れていてどちらかが仕事をやめねばならなくなった結果 仕事をやめない方の姓に合わせる方が手続きが楽、ということもある。 子供の姓をどうするかという問題が新たに生じるのも確かだが、 それが、結婚時に姓を変えることよりも問題になるという根拠はないように思われる。 子供と親の名字が違うことは家族の一体感を損う、というのもやはり仮説だ。 データはない。全ては仮説であり、一旦ルールを廃してみてデータを取らない限り、 その影響はわからない。

ただし、では試しに規制を外してみよう、という話にならないことにも 合理性がある。 可能であれば限定的にルールを外して影響を見たいのだが、 この手の規制を地域的に限って外すとか、時間を区切って外すとかいうことは 政治的に難しかろう。 結局の所無痛分娩と同じで、そこに経済的な合理性があり、 望む人が増えればそうなるだろう、というだけのことしか言えない。 今夫婦別姓が認められていないのは、望む人が少ないからだ。 正義の問題でも、理念の問題でもない。 私は別でいいと思うが、他の人がそう思うかどうかは知らない。 夫婦別姓であるべきだ、とも言わない。

「夫婦別姓を認めてほしい」と言うことと、 「夫婦別姓を認めるべきだ」と言うことは異なる。 前者は「その方がオレは助かる」というだけのことだが、 後者は「そのことが国全体にとって良い」と言うことを意味するからだ。 私は前者しか言えない。後者を言うような確信はない。 しかし、もし夫婦別姓を認める政治家がいて、他の意見でも賛同できれば、 私はその人に票を入れるだろう。 投票する際に「国にとって良いか」なんてことを考えることは個人には無理だし、 たぶん有害だろう。

確信はないが、たぶんいいと思うけどな夫婦別姓。 まず名字変更に伴うコストがなくなることは単純にプラスだ。 結婚の面倒くささが減じるので、おそらく子供が産まれやすくなる。 この国では結婚しないで子を産むことがかなり難しいからだ。 子供が増えることが良いかどうかは確証はないが、 出生率が2を切る状態が長く続けば国が消滅するのは確かなことだ。 「不幸な子が増えるくらいなら国なんて滅んでしまえばいい」 と言う意見もあっていいと思うが、私が政治家ならそのようなことは言えない。 人口はダイレクトに市場規模に結びつき、企業活動のパイを左右する。 人口が多いほど良いと単純には言えないにしても、良い公算が高いとは言える。 人が減って栄えた試しは私の知る限りない。 また、人口の変化は緩やかな方が良く、減るにしてもゆっくり減る方がいい。 社会は世代交代でしか変わらないので、世代交代を待っていられるだけの 余裕があった方がうまく行く。 ダイエーやヨドバシが許されたのは世代交代のためであって、 人の考え方が変わったからではないと 私は思う。古い制度に恩恵を受ける人が死んで減っただけのことだろう。

つまり、夫婦別姓を認めることによって、コストが減じ、 人口にもプラスの影響があるだろうという感じはする。 他のデメリットは知る限り仮説であり、統計で実証されていない。 名字が一緒じゃないと愛情が薄くなる、というエビデンスはない。 しかし、予期しないマイナスが生じる危険を取ってまで変えるべきかは難しいところで、 何か悪いことが起こるかもしれないので変えない、というのは理性的な判断である。 しかし、それは世代交代を待てば結果が出るだろう。 オタマが成人するまでに改正されるかはわからないが、 改正される公算は大きいのではなかろうか。 今は、人が皆農家だった時代や、専業主婦が多かった時代とは違う。 離婚はもはや当たり前のように行われるのであって、 離婚率を下げるよりも、離婚のダメージを緩和する方が理にかなうと思う。 男女の収入の差を減らすようにすべきだ。 結婚というものが重すぎて時代に合っていないのではないのか。

結婚という制度が法的に存在する必要すらないんじゃないかと私は思ってるんだけどな。 勝手に二人で「オレら夫婦」って言えばいいじゃん。 別に結婚が消滅すべき、と言うわけではなく、 結婚式も行われるだろう。ただ、役所に届け出る必要がなくなるだけだ。 もちろん、今のシステムからは距離が遠すぎるので、今そうなるべきだとか、 今そうしろとか言う話ではない。世帯という単位は便利であり、 それが結婚と結びついていることもまた便利だろう。 しかし、技術が進歩したり、世代交代が進んだりした結果、 5世代もしたら結婚が法の範疇になくなったりすることもあるんじゃないかなあ、 と思うだけだ。 3人以上で結婚することが悪かどうかは統計的に確認されていない。 その時代のその社会において、一夫多妻や重婚が社会的に不都合だから 禁止されている、というだけのことで、未来においてもそうかはわからない。 時とともに夫婦の相手が変化する社会もあっただろうし、 複数の相手を持つことが普通の社会もあっただろうし、 そもそも定まった相手を持たないことが普通の社会もあっただろう。 子を集団で育て誰が親かを気にしない社会もあっただろう。 たまたま今の地球はこうなっているが、 未来においてそれを規制として用意すべきかはわからないし、 今ですらそれが必要な規制なのかはわからない。 フランスで出生率が回復したのは、嫡出子を有利にする法をやめたのが大きい、 という説もある。子供の半分以上が婚外子ってのはどうなのよ、と思いはするが、 それで「フランスの連中はおかしい」と勝手に言うことは 「犬食うのおかしい」と言うのと同じで 倫理的に許されないし、理性的でもない。嫡出子であることが正しいと考えるのは、 単なる「ある世界観」でしかないからだ。

しかしまあ、結婚という制度を消す方向には行かないか。 それよりも結婚のメリットがなくなる方向になるだろう。 結婚していなくても同等の権利を、ということだ。 「その二人が法的に結婚状態にあるか否か」が生活していて問題にならなくなれば、 それが普通になるだろう。 残念ながら今の社会はそうなっていない。周りもそれを良しとしない。 法的に結婚することが多数派の状態で敢えてそうしないことは、面倒を招くだろう。 だがこれも世代交代が解決するに違いない。

ひつじこが名字を変えることになったことを、私は嫌だと思う。 私も名字を変えるなんて面倒くさいし嫌だった。 名字や名字由来のあだ名で呼ばれる人の方が多いだろう。 その慣れたものを変えろと言うことがどれだけの合理性を持っているのだろう。 いろいろあって、ひつじこが変えることになったが、 変えなくて済むならその方が楽だった。 そして、いかに話し合った上でのことだなどと言ったところで、 私の名字が残ったことは私にとって負い目であり続ける。 私が変えていれば、今度はひつじこがそれを負い目に感じることになるだろう。 名字に愛着がある人なら、相手も名字に愛着があるかもしれない、 と当然のように想像する。「名字にこだわりはないので変えます」 と言っていても、それが本心でない可能性は当然のように想像するだろう。 私なら想像する。バスタオルを家に置くか置かないか、 みたいなところから始まって、 ただでも結婚というのは多数の合意と妥協が必要になるのだ。 余計なネタを増やすことはないだろうにと私は思う。

2015年11月20日

弟、右脇腹に痛みがあるような気がすると言っている。 全ての病巣が腫瘍マーカーを吐くとは限らないわけで、 CT撮った方がいいと言っていたんだが、 もう何ヶ月撮ってないのかわからない。 主治医的には全身病で局所の腫瘍をどうにかしても意味はない、 と考えているのでCTは撮らないという方針なのだが、 真っ先に死因となりうるものが突出してそこにあるのであれば、 焼くことは検討されてもいいのではないのか。

痛い気がする、ということであれば、おそらく来週はCTは撮るだろう。 その時には一緒にいた方がいい気がする。

「統計学が最強の学問である」を読んだ。 統計学は世界を変えた技術だ。 理屈がわからなくても予測ができたり、さらには制御ができたりする。 なぜかはわからなくても、統計を取れば煙草が体に悪いことがわかる。 繰り返し試行可能なこと、つまり打率さえ上がればいいことには、統計学は滅法強い。 一定以上の数で実験できることや、多数のデータがあって 時間とともに集合の性質が変わらないと考えられることにも強い。 例えば、会社でやることなんて取り返しがつかないことはあまりなく、 特定の製品が死んだだけで会社が丸ごと死ぬような状態は そもそも経営が間違っているし、 一つの製品であっても段階を割って実験したり、 実験的な製品の投入コストを下げることで安全性を確保できる。 個人の健康みたいな話であっても、 「風邪の時に葛根湯飲んだ時と飲まない時で解熱までの時間の統計を取ってみる」 というような実験はでき、厳密性やサンプル数が足りない問題はあれ、 何の実験もしないよりははるかに良い。 というわけで、統計学を知っておくとほとんど何にでも応用が効く。

問題は、中途半端なことができず、一発勝負で取り返しがつかないことに 統計を使うことの効果だ。 癌で手術するかどうか、みたいなのはその典型である。 また、「サプリは私に効くか」みたいに、効果が弱くて観測しにくい上に サンプルが自分だけ、みたいな状況でも無力になる。 「この抗癌剤を使うと数百人の中間値で2ヶ月くらい延命。 でも中間値なんで半年で死ぬ人もたくさんいるよ。あと副作用はキツいです」 なんてことを言われて治療に賭けられる人が果たしてどれくらいいるだろうか。 もし自分に膵臓癌が発覚して手術不能あるいは再発となったら、 標準治療は受けないと思う。

データがない時や、データ上ほとんど差がない時には 「理屈上それらしい」選択肢に賭けたくなるのだが、 開発される薬の99%以上が開発段階で消えていくことからもわかるように、 生物に関しては理屈がほとんど助けにならない。 湿潤治療や糖質制限のように短期的に目にわかる変化があれば まだマシな部類だが、 癌代替療法のほとんど全てはそういう変化すらない。

弟が糖尿で世話になってる先生に「ビタミンCとかどう?」と言われたらしく、 若干引いたのだが、よく聞いてみると 「自分のクリニックで自費でやれ」という話ではなく、 今かかっている病院で保険でやってもらえという話らしい。それも月一くらいで。 代替療法としてメジャーな超大用量ビタミンC点滴の場合、 週2,3回1万とか2万とかする点滴を自費でやれ、という話になるのが普通だし、 金をもうけたいなら当然自分のところでやれと言うはずだ。 先生が暗黒面に落ちたのかと思って心配してしまったが、ちょっと安心した。 まあビタミンCの注射にエビデンスがなく、 高確率で効果がなかろうということはわかっているわけで、 そういうことを勧めるのはいかがなものか、という話にもなるのだが、 一般にエビデンスがないことを平気で勧める先生なのは前からわかっているし、 別にいい。 害にならず安くて手間がかからないことは何でもやっていいのだ。 どうせビタミンCは不足気味だろうし。 元々栄養やら健康やらに気をつけるタイプじゃないからなうちの両親も弟も。

そう長生きはできんだろうと思っていたが、 まさか真っ先に危機に陥るのが親でなく弟で、 しかも30代で癌になるとは思わなかった。 70で死ぬ、とかとは次元が違う。 絶対母がヤバいと思ってたんだけどな。 そしてこうなってくると、両親のことも気になってくるわけで、 せめて80代までは生きてもらいたい。 孫3人成人するくらいまでは生きててほしいもんだ。 そのためには弟だけでなく親もまとめて生活習慣を健康側に持っていかないといけない。 そういや下の弟も健康そうには見えんな。 太ってはいないのだが、逆に痩せすぎだ。 さすがにこんなことになっているので多少は 気にするようになったんじゃないかと思うけど。

胃癌肺転移って調べれば調べるほど致命傷だな。 肝転移ですら98%無理という話なのに、 肺転移は肝転移以上に悪いらしい。 肝臓は食道や胃、小腸、大腸から血が集まる所だが、心臓に戻る前にある器官なので、 そこで癌細胞が引っかかっているのであれば全身に散っていない可能性がある。 しかし肺に達してしまえば、その先は心臓を経て全身だ。 脳や骨などに散る可能性が高くなる。 肺転移まで行った前科がある以上、脳転移も心配しなければならないということだ。 脳に行くと使える抗癌剤がかなり限られて厄介なので、 初期で見つけて放射線で焼くべきだ、ということになる。

ただ、消化器癌で脳転移は珍しいらしい。それは、脳転移に至るまで保たないからだ。 普通は肺転移があると手術はしない。標準的な化学療法をやることになる。 そう長くは保たない。そのため、脳転移まで至るケースはあまりないのだという。 もちろん、こっちとしてはそんなことは知ったことではない。 たまに見てもらうとしよう。

テトリス本がamazonで1000位とかだ。 誰か影響力のある人が紹介してくれたりしたんだろうか。

フォルダのドラッグアンドドロップでモデルを読めるようにしたら、時間かかった。 インターフェイス上の文字コードがutf8なので、 いちいちunicodeと相互変換しないといけない。 ユーザにはunicodeなインターフェイスは露出させてないし、 16bit2つで1文字、みたいなのは面倒くさいからな。 もちろんsjisの文字列は存在しない仕様でやっている。 リテラルで日本語書くな、ということだ。 日本語フォルダ名が入ったパスをコードに直書きするケースもあるので、 真面目にやるならsjisっぽいものは自動判定してutf8化すべきなんだが、 レイトレ実験の本筋に関係ないのでそこは現状放置。 そもそも、リテラルの文字コードがsjisである保証すらないからな。 一応マルチプラットフォーム化を考えた作りなわけだし。 L付きで書いてからutf8にして渡せ、ということになる。 その簡便なやり方を提供すれば良かろ。

2015年11月15日

鉄血が大層面白い。これは死なないはずだと理性が囁きつつも、 死ぬの?死ぬの?とハラハラするこの感じ。

discrepancyの概念がなんとなくわかった。出てくる数列もなんとなくわかった。 しかし今の用途にはこのままでは使いにくい。乱数で散らしたいし、 スレごとに相関のない違う系列が出てきてほしい。

と思ったが、そんなことはない。使える。

2015年11月14日

弟の体重データを見ていた。太ってきてる。 体脂肪20%を確実に超えてきている。 伴って体温も下がってきた。 真っ先に疑われるのは糖質摂取。 食べやすいものを食べようとすると糖質が増えるのが悲しいところで、 副作用で胃腸が悪いとどうしてもそっちに傾く。 HbA1cが低くても、それは薬で下がってるだけかもしれないわけで あまり当てにならない。 そしてもう一つ確実にありそうなのが、活動量の低下。 なにせ副作用があったから仕方ないといえば仕方ないのだが、 仕方ないと言って動かなければ筋肉はどんどん落ちる。

とりあえず"体重データの送付は毎週催促しよう。 だんだん送ってくる頻度が減ってきて、今回みたいに 一月分溜まると変化に気づけない。 前は毎日聞いてたわけで、 本当はその方がいいんだが。

BVHやるか。いやその前に、改良したはずのkd-treeがまともに動いてないのを調べるか。

2015年11月09日

朝はひつじこの健診に同行。 医師の健診は早く終わったのだが、 助産師の順番がなかなか回ってこず、 会社の健康診断に間に合わなくなった。 といっても午前の部に間に合わなかっただけで、午後に無事受けられたので問題ない。

今回の健康診断では敢えて糖質を食べてから採血してみた。 空腹時血糖なんて90から100の間にあることはわかり切っており、 せっかく検査をするのにそんな意味のない情報が出てきてはもったいない。 そこで、糖質を食べた時にどれくらい上がるのかを調べることにした。 これによって見掛けの耐糖能がどれくらい落ちているかがわかる。 100gくらいの糖質を食べたので、 もし私が糖尿で膵臓が壊れていれば血糖値が400くらいまで上がることになる。 もちろんそんなに上がりはしないが、以前二郎を食べた直後の血糖が180くらい だったので、そのくらいまでは上がる可能性がある。 「直前に食べちゃいました」と申告したとはいえ、 食後であっても140を超えれば糖尿病の疑いありという診断になる。 確実に再検査だ。まあ再検査でもいいと思ってやってみたわけだが。

弟の腫瘍マーカーが止まってくれた。Dupan-2が550。 直前のサイラムザ標準量が効いたのか、 その前の1/5量サイラムザ+パクリタキセルが効いたのかはわからない。 もう一度標準量でやってみて、 引き続き下がるようであれば減量を検討することになるだろう。 止まればいいのだ。 もちろん気分的には下げられるものなら下げたいのだが、 下げるために薬を多く使えば耐性が早くつくのではないかという懸念がある。 抗癌剤は抗生物質のように中途半端に使うと耐性がつきやすい、 という類のものではないようだからだ。 単純に、効くタイプの細胞を殺し尽してはいけないのではないかという印象がある。 現在の所耐性がつくメカニズムも不明なら、 用量と耐性の関係も不明であり、 「減らして使うと耐性がつくか?」という疑問に答えられる医師はたぶんいない。

弟は結構筋トレをがんばっているらしい。 それが生き延びるのに役立つかはわからんにしても、 体力を回復させて悪いことは何もない。 二度の手術とそれに続く化学療法のダメージで体が弱っているわけだが、 休んでいれば治るという類のものではないのである。 血糖を下げ、中性脂肪を下げ、体温を上げる、 という効果は確実にあるし、充実感もあるっぽいのでいいだろう。 活動しないでいるとどんどん気が滅入るからな。

2015年11月08日

ひつじこを休ませるために、オタマとシノンを連れてひつじこ実家。 いとこもいて、いい具合に遊んだ。新築中の家もいい感じに進んでいた。 ずいぶんと柱が多い。多数の細い柱で支える作りのように見える。 規格化できていいのだろう。

食べ物は問題だな。骨付き豚肉の煮込みを作ってもらったのだが、 どうも固かったようでイマイチ食べてもらえてない。あとは臭みも問題か。 たぶん、生姜で消す、みたいなのは下策で、根本的に臭み物質であるスカトールを 減らさないとダメだ。例の55度で保温しつつ細胞外液を抜く手法が一番いいのだろう。 柔らかさを出すには、煮込みまくって筋繊維をバラバラにするか、 70度以下で加熱を留めて筋繊維の収縮を防ぐかのいずれかになるのだろう。 後者の方が有望だが、一般家庭の設備と通常の調理習慣を考えると難しい。 最低限温度計が必要だ。55度に関しては「表面が白くなりそうなくらい」 で止めて数分保温すればいいのでまだやれるのだが。

鉄血見た。間の話なので盛り上がらんが、 こういう盛り上がらん話を 必要だという理由で入れてくる感性なのであれば、信じられる。

ケイオスドラゴン見た。今更見たが、なんだこれ力入ってるじゃないか。 次から次へと友達を犠牲にしていくコンセプトか。ひでえな。少し見よう。

ゲートも見た。嫌いじゃないが、アニメになると若干見辛い。 小説だから耐えられた要素というものあるのだろう。 でもまあ見られるし、あれば見るが。

「実は私は」も見た。これ、どうするんだろう。気になる。

そういえばログホライズンも見るつもりでいたが、中断してるな。

シャーロット見た。久しぶりにマエダだ。もはや懐しい。見よう。 ひどい。これを好みだと言うことは、もはや恥かしいことにも思えるが、 過去にここに書いていたことを思えば何ということもない。

また生薬を注文して、うちの生薬が50種類を超えた。 どこに置くんだよこれ的なことが問題。 お金については十分元が取れるだけの効果があると判断した。 ひつじこの産後にはキュウ帰調血飲を試す。 でも、ある程度元気になったら通導散ベースでいい気がする。

ひつじこは便秘がない。大黄が効きすぎる。 なんで便秘がないんだろう。 私より明らかに熱証で、それなら便秘気味になりそうなものなのだが。 というか逆か。私は熱証っぽくないのに何故便秘気味なのだ?と考えるべきか。

4スタンス理論バイブル、を読んだ。ただし斜め読み。 理論そのものに興味がない私には読みにくく感じられるが、 得るものはあった。

体幹を使うべきだ、という主張は他でもされており、同意する。 また、全ての運動は全身運動であるべきだ、という主張にも同意する。 さらに、個体差を無視して、細かな動作の順番や角度まで指定する教え方は 間違っている、という主張も納得できた。自分がそれに陥らないよう注意しよう。 ただし問題は、どこまでが個体差なのかと、それが何による個体差なのかだ。 足裏の重みがかかる位置が人によって違うのはそうだが、 それがそれまで生きてきた運動の仕方による後天的なものなのか、 そうでないのかが気になるところである。矯正可能で矯正した方がいいものなのか、 矯正不可能で触るべきでないものなのか。

足裏、膝、骨盤、胸、首。この5点のうち3点が安定した位置関係にあれば 安定して力をかけることができるという。 そして、その3点に膝を入れるか骨盤を入れるかが最大の個体差っぽい。 膝を入れれば、隣の骨盤を自由に動かせるから、骨盤を使った動きがしやすく大きな力を出しやすい。 ただし移動の俊敏さは出しにくい。つま先側に重みがかかる。 骨盤を入れて膝を入れないこともでき、そうなると膝を自由に動かせるので 前重心でふくらはぎを使った跳躍が容易になる。ただし骨盤の重心移動を乗せにくく出力が小さく なりやすい。踵側に重みがかかる。

私はどっちかなあ。どっちも使うのでよくわからないが、たぶん前だろう。 本によれば、どっちも使える、というのは最適化されてないということで、 動きの質が高くないからだ、ということらしいのだが。 プロであれば自分の体の性質に合った動きを最大限に追求しているものなのだという。

そういえばニンニンジャーとプリキュア見た。 まあニンニンジャーは元々特撮を見る習慣がないのでいいのだが、 プリキュアはちょっと面白かった。キャラデザすごいな。 プロポーションが。脚長い。あと、なんだろうこのCGっぷりは。 コストを下げるためなのか、CGの方が質として良いという判断なのか、 あるいは実験なのか、よくわからない。好きかと言われたら好きじゃないと答えるが、 嫌かと言われれば嫌というほどではない。

2015年11月01日

今日はオタマを連れて近くの専門学校の学園祭を見物してきた。 なにせ豪華な建物で、どこで何をやっているのかわからないので、 ゲームを作ってる連中を見に行くことにした。 いろいろ展示してあったのでオタマと一緒に試遊。 あまり学生作品の類を見ないのでレベルがどうかはわからんが、 絵や体裁のまともさと、ゲームの中身の作りの甘さにギャップがありすぎる。

まず問題なのは、どういうゲームかがわかるのに時間がかかることだ。 操作説明を見せればいいというものではないし、 その操作説明もわかりにくすぎる。 また、ゲームの作り込み自体が甘いのに操作が多すぎる、というのもある。 作業時間が限られているのであればゲーム自体をシンプルにせねばならん。 まあ作ってる途中で無理矢理展示してるのかもしれんし、 正直そういう所の練り込みは楽しいものではないから後回しにされるのも 無理からぬことなんだが。

あとは挙動。特にジャンプ中の挙動が甘いのは気になる。 全く慣性がない作品もあれば、地上と同じだけ操作が効いてしまう作品もある。 一切操作不能で慣性だけ、というのでもゲームは成立するが、 慣性がないのも、操作がそのままできるのもまずゲームにならない。 マリオがいかに絶妙か、ということだ。

ロボで移動するアクションゲームは絵は綺麗だったが、 弾に誘導性能がないので、照準を合わせるのが面倒くさい。 さらに、照準とカメラ操作が一体なので、敵が真ん中にくるように動かしてトリガーを 引くゲームになってしまっている。やはりロックオンの概念を入れて 照準操作を緩くするとともに、カメラをある程度自動化せんとゲームにならんだろう。 いや、他の解もあるかもしれないが、とりあえずあのままではダメそう。 これは結構深淵な問題だと思う。

あと、やけに絵が綺麗なのもあった。あれはアンリアルだな。 フレームレートが不自然に低くて、15か20しかないのが残念だ。 PCは高そうだったので、レンダリングの設定が不適切なんだろう。 60フレ出ない絵には見えなかった。

石蹴るゲームは面白かったな。なにせシンプルだ。 練り込めば結構遊べそう。つうか、学生が何人か遊んで ハイスコアを競ってたことが全てを物語っている。 友達が遊んでくれるのであれば、そのゲームはたぶん面白いのだ。

ゲームエンジン時代になって、 とりあえず作り始められるようになったのは良いことだろう。 たぶん。しかし、絵と中身が釣り合わない状態になる。 エンジンがない時代なら両方ショボイ状態になっていたのだから、 それより良かろうと言えばそうなのだが、 おそらくそもそも見せられる状態にすらできなかっただろうから、 このようにして展示されることもなかったのだと思う。 結果未熟な作品が多く人の目に触れるようになったことは確かだ。 それが良いことか悪いことかはまた別の問題として。

まあ、いいことなんだろうよ。完成度が低いものが大量に世に出る害は、 検索やランキングによって淘汰されるので問題にならない。 であれば、より多くの作品が世に出るほど単純に良いということになる。 また、単純に趣味としてゲームを作ることができるのは良いことだろう。 世に出なくても、ゲームを作ること自体が楽しければいいのだ。 人を喜ばせてナンボ、などと心の狭いことを言う必要はない。

エンジン化が必然で、その方向で仕事すべきなんだろうなあと強く思う。 とはいえ、短期的に自分でエンジンを触る気はないのだが。 もうはっきりと認めるべきだと思うので書くが、 私はゲームを作りたいわけではないのだと思う。 いや、作りたくないわけではないのだが、 他人が作ったものを使ってでも作りたい、 と思うほど作りたいわけではないのだ。 それよりも、ゲームに必要な要素全てを自作することで、 それらを理解したいのである。 私にとって、ゲームを完成させて人に提供することよりも、 それを作る過程で得られる理解の方が価値があるのだろう。 だから自作しないと気が済まないのだ。 とはいえ、何らかの強制力で無理矢理にでもエンジン使って ゲーム作り始めたら、それはそれで楽しくなる気もするんだけどな。 やってみたら大抵のことは面白いものだ。 漢方薬や拳法ですらそうなのだから。


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