だだもれ

2012年02月29日

ひつじこに「一週間って、7日もあるんだぞ」と言ったら、 そこで初めて事の重大さに気づいた。 大丈夫大丈夫とか言ってたんだが、そう簡単ではないことに今更気づいたっぽい。 やっぱGDCとか無理だ。でも今年は今更どうにもならない。 できるだけの準備をしてから行かなくてはいけない。

葬式中の読書。「ヒトデはクモよりなぜ強い?」。 トップダウン組織は遅いしトップがやられると死ぬので、 分散型の組織の方が強い、というお話。 もちろん二つは両極端であって、 場合によってその間のどこがちょうどいいのかは違う。 例えば、音楽業界はトップダウンの巨大組織の連合体だが、 分散型の最たるものであるP2Pネットワークの前には無力だ。 しかしそんな中iTuneはその間のいい場所をうまく見つけてもうけられている。 と、こういうストーリーである。

企業は企業の文化あるいは価値観と、全体の戦略が隅々まで行き渡っているのであれば、 細かい個々の活動は分散的である方が強い。 何をやるにも上の階層の裁可を仰がねばならないようでは速度が出ない。 このご時世、速度が出ないことは致命傷になりうる。 でも、文化、価値観、戦略のようなものが行き渡っていない状態で分散型、 というのはやっぱりダメだろう。それはただの烏合の衆だ。 何かをやる時に、「これはうちの会社っぽい」「これはうちの会社っぽくない」 という判断がある程度皆の間で共有できていないとうまくはいくまい。 会社が小さくて勢いがあるうちはこういうのも共有されやすいんだが、 大きくなってきて間接部門が増えてくるとだんだん薄れてくる。 でも、トップがどうこうするというわけにも行かないんだよな。 そういう文化は会社小さかった頃にボトムアップで出来上がったものが定着して できているものだろう。もともと誰かが「うちの会社はこれだ」 と宣言したわけでもあるまい。 後から文化や会社のあり方をどうこうするにはよほどのリーダーシップが必要になる。 でも、リーダーシップなんて都市伝説みたいなものだからな。私は見たことがない。

「コークの味は国ごとに違うべきか」。話が細かいので斜め読み状態。 つまるところ「グローバルグローバル言うが、地域ごとの特色はそうそう無視できんよ」 という話だろう。 よく欧米、日本、アジア、みたいなくくり方をするが、 アメリカ人とフランス人とドイツ人は別の生き物であり、そう簡単にくくれるものでもない。 市場のグローバル化よりも、生産のグローバル化を考える方が先だ、というのが具体的な主張だろうか。 「グローバル市場」なるものがひとつ存在し、そこに商品を出せばオーケーという考え方は罠にはまるが、 世界各地の特色を生かして生産を分散配置することは絶対に必要になる。 円高な時に日本でゲームを作っていいのは、日本で作ることに円高のデメリットを超える価値がある時だけだ。 理想的には、日本人が作らなくてもいい部分をしっかり分けて、海外に投げた方が安くできる。 考えてみれば、西友はウォルマートになっていたが、イマイチ流行っていない印象がある。 アメリカと同じことを日本でやって成功するとは限らないといういい例ではなかろうか。 車の所持率とか、専業主婦率とか、そういう変数で説明がつくことであれば まだ対応もできるが、文化的なものであればそう簡単には変わらない。

文化、制度、経済、あたりをよく見て地域ごとにカスタマイズして物を売ろう。 また、そういったカスタマイズを可能な限り安いコストでできるように品物を設計しよう。 生産はグローバル化を進めて世界各地の強みを最大限に利用しよう。 そういうことだな。

「数覚とは何か?」。 まだ途中。人間が数を把握する仕組みの話。ここに書かれていることが本当かを、 オタマを観察しながら確認していこう。 人間は遺伝子的に1,2,3までは認識できるらしい。 さまざまな言語において1,2,3に相当する文字は線が1,2,3本あるものであり、 4本以上線を並べた言語は滅多にない。 3までは一瞬で把握できるが、4からは怪しくなる、というのが文化に依存しない 人間の性質だということだ。 また、感覚が対数的であることも実験で確認されているらしく、 1と3の違いが100と102の違いより大きく見えることには遺伝子レベルでの根拠がある。

であればこそ、103000円と102000円の差が、2000円と1000円の差と同じであることは よくよく肝に命じておかねばなるまい。両者の節約は等価値だ。 PCに5000円のオプションをつけるかどうかは、 普段198円の牛乳を178円の時にしか買わないことを250回繰り返すだけの重みがある。 もっとも、その手のものでケチると長期にわたって後悔するので、 そう考えたからといってケチることはまずないのだが。

脳科学的に人間がどう数を認識しているのかを知っておけば、 数学その他を理解するために効率のいい方法を見つける助けになるだろう。 プログラミングに関しても同じように脳科学の知見が役に立つかもしれない。

iPad3は3/7らしい。予約しても当分は来ないんだろうな。

2012年02月28日

葬式から帰ってきた。じいちゃんがいなくなった。

27日の朝にスーパーひたちで行った。バスの方が安かったが、 バスで本を読むと吐くので、時間を有効活用する意味では電車の方がいい。 こんな時なので読書してないといらんことを考えて気分が沈むという事情もある。

着いたらカレーを食べた。久しぶりの日本カレーだった。

27日14時、納棺。早くも葬儀屋のプロっぽさに不快感を覚える。 遺体はずいぶんと厚化粧だった。 末期の水、とやらを模した儀式やら、納棺の前にいろいろと着せたりと、 何かしらてんこもりだ。それらが元々は心のこもった何かとして始まった であろうことは疑いなく、 また、今回も心をこめてそういうことをできる人もいただろう。 しかし、私は心をこめる云々以前の状態だった。言われた段取り通りにやって、 周囲の人から浮かないようにすることで頭がいっぱいになってしまう。 私とじいちゃんの間の関係よりも、 じいちゃんをネタにした私と周囲の人の関係が大きく見えてしまう。 順番に2人やら3人やらづつ葬儀屋の指示通りにわらじをはかせたり なんなりしていく様を見て、 遺体はディズニーランドのアトラクションではないだろうにと思った。

夕方から通夜。家族は早めに会場に入り、焼香してくれる人が来たら 立っておじぎ、というのを1時間ほど続けた。 220人くらい参加してくれたらしい。 祭壇のセンスはこの際我慢するとしても、 できれば祭壇のじいちゃんの写真を眺めてぼーっとしたかった。 しかし、そんな暇はなく、おじぎマシーンである。 もちろん理屈はわかるのだ。日本的な「内と外」の論理から言えば、 うちら家族は故人の身内だ。外の人がわざわざ焼香しに来てくれたことに 感謝を表す、というのはわかるし、杖をついた老人がこの寒い日に わざわざ来てくれたというのは実際ありがたいと思う。 一番しんどいばあちゃんやうちの母親が次から次へと訪れる客の対応に 忙殺されるというのは少々納得がいかないが、 理屈としては成立するし、実際問題そうやって忙しくしていないと 感情がふくらんで大変だという事情もあるだろう。

通夜。坊さんは曹洞宗の人だった。浄土宗じゃなかったかうち。 葬式には諸々の形式があり、当事者たるばあちゃんやうちの母親の 意思とは関係なく、田舎コミュニティにおいてはそれを守らねばならない 圧力がかかる。「ちゃんとした葬式」でなくてはならない。 しかし、すでにその「ちゃんとした葬式」を自力でやるには 伝承が失われかけており、また、ぶっちゃけ手間がかかりすぎる。 業者に任せるのはやむを得ない選択だし、合理的だとも言える。 坊さんの手配もそこでやったのだろう。 坊さんもいかにもプロっぽかった。 お経の前のちょっとしたスピーチも手慣れたものだ。 しかし、2500年前の仏陀の入滅について説明されても 遺族はそれどころではないし、北枕や棺桶に白い花を敷きつめるのが 仏陀の伝承を元にしていることもどうでも良かろう。

通夜で一番不快だったのは「思い出ビデオ」だ。 それっぽい音楽に乗せて写真を出しながら、 それっぽいナレーションやそれっぽいキャプションがつく。 写真だけ渡して業者が作ったことは明らかで、 しかもそのセンスがテンプレートすぎて不快だ。 「あなたに会えて良かった」とかいうキャプションがでーんと出るのが不快だ。 「悲しみが雪のように降りつもります」とか言うな。 あのあたりは雪なんて降らないから実感なんて持てないだろうし、 そういう事を何も知らない他人に言われてもムカつくだけだろう。 司会のナレーションも不快だ。 変に盛り上げようとなんてしなくていい。淡々とやればいいのに、 いちいち演出しようとする。そもそもしゃべり方が芝居がかっていて不快だ。

夕方、食事が用意されていたので食べた。 そこで、何故かIT企業の社長をしている人と話をした。 じいちゃんの弟の息子だか、たぶんそんな感じの関係にある人だ。 調べてみたらレンタルサーバ会社っぽい。 うちの会社ともサターンの頃につきあいがあったようだ。 不思議なこともあるものである。 名刺をもらって「あとはfacebookで」と言って別れたので、 さっきfacebookで友達申請をしてみた。

夜。うちの家族5人だけが泊まった。 いとこ二人もしばらくはいたのだが、女性はいろいろ大変らしく帰った。 私はじいちゃんがどういう仕事をして、どういう関係を持って 生きていたのか全然知らない。 そういうことを知る人の話を聞ける最初で最後の機会だろうと思っていたのだが、 ついにそういう機会はなかったわけである。 本人に聞くチャンスもあったのかもしれないが、 耳が遠くなって会話が困難になる前となると20年は前だ。 なお、一応しきたりとして線香を絶やさないというのがあるので、 それなりに起きているつもりだったが、 余計なことに「蚊取り線香のようにうずまき状で長時間燃え続ける線香」 なるものが用意されていて、気力が若干萎えた。 一応うちの家族としては、「それはそれとして普通の線香をちゃんと炊こう」 ということにはなったのだが、私は日が変わる頃には寝てしまっていた。 夜中ふと起きたら母が線香を供えていたりもしたし、 弟も結構起きていたようだ。

28日朝、メシが出たので食った。 うちの家族しか泊まらなかったため、 かなりの量のメシが無駄になって申しわけなかった。 実際に泊まった人数に合わせて作ってくれれば良かったのにと思うが、 材料が用意してあるとなれば仕方ないのだろう。 どこかに行ってごはんが出たが大量に余る、 という経験は学校の修学旅行などで何度かある。 毎度本当に申しわけない。

28日の昼から告別式。おじぎマシーンと、 不快な思い出ビデオと、坊さんのお経と、焼香、 というあたりは前日とほぼ同じ。 会社の手続を早くすれば弔電を送れたりもしたのだろうが、面倒だった。 弔電は衆議院議員2人と参議院議員2人、国の役人と県の役人と市長、 といったあたりからも届いていたが、これはそういうものなのだろうか。 何か事務のシステムによって本人が知ることもないままに送られてきているのだろうな。 「こういう人と関係がありました」というハッタリとしか思えないが、 それを重要に思う人もいるだろう。 それを喜ぶ人がいるなら手続きをしておいても良かったかと後になって思い直したが、 うちの会社の社名が権威として作用するとも思えないわけで、まあいいか。

出棺。火葬。いわき市の焼き場はずいぶんと豪華だった。 役所系のデザインではなく、博物館とか美術館系のデザインだ。 最近作ったのだろう。電気炉と思しきものが10個くらい並んでいる。 館内地図を見るといかにもゼルダで、 「ここボス部屋だよな」 「この部屋は入ったら扉が閉まって敵を倒さないと出られないだろう」 なんてことを弟と話していた。1時間半。 待ち時間は茶と菓子が出たが、部屋の大きさに比して人多すぎ。 あの部屋が葬式の参加者の人数の統計を鑑みて作られているとすれば、 やはり今回の葬式は結構たくさんの人が来てくれたということになるが、 そのあたりはわからない。

収骨。のどぼとけの骨の説明はいい。父方の祖父の火葬の時も 業者がそんなことを言っていた。 なかなか奇麗に骨が残る人はいない、という台詞はその時にも聞いた。 皆に言うのだろう。そして、この時に、はっきりとじいちゃんがいなくなった。 これは遺族に「いなくなった」ことを納得させる儀式なのだろうか。

普通はしばらく骨を家に置くらしいが、いろいろあって 即日墓に埋めた。骨の壺ごと墓に納める場合もあるようだが、 今回は壺から出して墓の下の地面に撒いた。そういう流派らしい。 先祖と一緒になって土に帰るというのは悪くない。 うちの母は「海に撒いてくれ」と言っている。 「こういう葬式はやらなくていい」と言っているあたり、 口には出さないが私と似たような不快感を持っているのかもしれない。 聞いてみたわけではないのでわからないが。

葬式会場に戻って、精進落としという名前の食事会。 ばあちゃんと母とおばさんはビールを持って各机をまわる。 最後まで落ちつく暇がない。 なお、会場の入口には「踏み塩」と書かれた踏み台があった。 塩らしきものが入った金属の薄い箱の上にアクリルか何かで透明なふたがしてある。 塩、踏んでないじゃん。なるほど散って掃除するのが面倒だろうから合理的だが、 踏まなくても塩の上を通過しさえすればいいのか?

ひつじこの両親からの香典に対する香典返しを持って帰ってきた。 中に会葬礼状というのが入っていて、これがまた実にテンプレートだった。 変に印刷が奇麗なので余計にそう思う。 ばあちゃんが書いた文章という体裁になっているが、これ絶対業者だ。 不意打ちで不快になった。

この気分の悪さは私に信仰心がなく、心がこもっていないからなのかもしれない。 信仰心があって真剣であれば、ああいう儀式も心をこめてやれるのかもしれないし、 ああいうナレーションでもちゃんとぐっと来るのかもしれない。 単に葬式が面倒くさいから文句を言っているだけなのかもしれない。 心に神殿がある人はどう感じるのだろうか。 もしひつじこを連れて行っていたとしたら、どう感じただろうか。

あらゆる儀式は、最初は本気で行われ、意味もあったはずだ。 それがだんだん形式だけになってくる。 例えば通夜の線香に関して言えば、 うずまき線香を使って絶やさずに済ますくらいなら、 絶やしてしまって気まずい思いをした方がずっといい。 「あ、寝てた。ごめんじいちゃん」とちょっとでも思うなら、その方が ずっとじいちゃんが心に占める割合が大きくなる。

本当誰だよ。あんな線香を商品化したのは。 そして嬉々としてそれを配備していい気になっている業者は一体何なんだ。 しかし、おそらくはそういう業者のサービスを喜ぶ客が多数いるのだろう。 客が喜ぶように努力した末がああなのだとすれば、 業者に対して文句を言っても仕方ない。 それに、彼等は間違いなく真面目にやっている。 今回みたいに大往生ならともかく、不慮の死に方をして家族の悲しみが ハンパない時だってあるはずだ。 そういう感情の渦を相手に仕事をするというのは生半可なことではない。 そこに関しては素直にすごいと思う。

いやでも、そういう家族に対して「あなたに会えてよかった」なんてビデオを 作ろうものならブチ切れると思うんだけどな。

石鹸を使わなくなって一週間。脂が引いてきた。 このレベルなら行ける。 あと、裸でもそんなに寒くない気がするのは気のせいか。

2012年02月24日

石鹸を使うのをやめて三日目。 一日目から脂ベッタリ状態である。 オタマが入る関係上お湯もぬるいし、 大した時間もかけられないので、脂はさして落ちていない。 ただし、心配していた痒みはない。 また、臭いもない。というわけで、問題ない。 皮膚の細胞が入れ替わる周期が1ヶ月とのことなので、 それくらいは続けてみればいいだろう。

2012年02月23日

日本は毎年3万人自殺していて、 他の国の戦争による死者と比べても少ないとは言えない数だ。 その意味で日本は安全ではない、と言うことはできるかもしれない。 しかし、戦争その他で安全に問題がある国の人に対してそう言えば、 自殺していられるくらい安全なのだ、と言い返されるだろう。

ソフトウェアのテストの話を聞いた。 正直よくわからない。テスト駆動開発とか、ユニットテストとか、 なんかいろいろと技術的な用語や手法があるようだが、 個人的にはそれが必要な状況に陥ったことがない。 ずっと一人で書いてる上に、規模がせいぜい数万行、 というのが大きいのだろう。 あとは、なんだかんだいってなんとなくコードの性質に応じて テストドリブンとそうでないものの間を微妙に使い分けている気もする。 先にインターフェイスだけ決めて中身が空のまま 使用側のコードを用意して実行できる状態にし、 実行できることを維持しながら中身を詰めていく、 ということはよくあるが、それは思想的にはテストドリブンだろう。 確実に動いてくれないと不安な部分については 個別のテストを作って通してから先に行くことも多い。 パターンの話と一緒で、「名前あったんだ、それ」という程度にしか 感じない。 しかし、名前があるかないかは大きな違いだということは 理屈としてはわかる。事が大規模になって関わる人間が増えれば、 各人が気分と勘でやっていることを共有せねばならなくなるからだ。 そのためには名前がついていることは欠かせない。

たぶんああいう話は、多い人数、多いコード、 複雑な動作、信用できないスキル、 といったものが複合的に積み重なった結果、 コーディング作業を少しでも規格化、あるいは標準化しないと 耐えられない、という結論にいたって出てきたものなのだろう。 私はおおよそ一人で作っている上に、 複雑さはほぼアルゴリズム的なものに限られていて 入力と出力の対応が複雑なわけではない。 そういう思想を必要としないままここまで来たのも当然だ。 そして、そういう話を聞いたからといって私のやり方が 今すぐ変わるかと言えば、変わらない。 見る範囲が大きくなって自分でコードを書かなくなればそういう 方向に行くのは間違いないが、少なくともそれは今ではないし、 近い将来でもあるまい。

そういうわけで、カタギのプログラミングが務まる気は全くしない。 少なくとも半年くらいはゴリゴリ数学をやっていれば良さそうだし、 それ以外に選択肢もない。

そういえば、パターンの名前はおおよそ忘れたな。 毎回原則から積み上げる方が楽なので、 半完成品を棚から出してきて使うような思想を受け入れられないのだろう。 それは単純に記憶力が悪いこととも深い関係があるように思われる。 思い出すコストが相対的に考えるコストよりも高くつくのだ。 今の計算機のアーキテクチャに似ている。 分岐や割り込みが入った時の効率の悪さもそっくりだ。 パイプライン化とIOの最小化によってどうにか 成果をあげられる状態を維持しているのだと思う。 そして、こういう脳の構造は甚だ子育てや日常会話には向いていない。 要するに、結婚に向いてない人間だということだ。 ひつじこがいてくれて良かったとしかいいようがない。

ネトゲの類で、さんざん金を払ってアイテムを買った後に いきなりサービス終了、というケースがあるとしたら、 これは結構嫌な気分になりそうだ。 とはいえ、サービスが終わるくらい人が少ないゲームであれば アイテムに金をつぎこむ人もそうはいないはずで、 したがって害は少ないだろうということは言える。 しかし、それはそういう個人が一人もいないことを保障するわけではない。 そういう可能性があることを納得して金を払う文化はもう定着しているのだろうか。

母方の祖父が亡くなった。ここ数日は祖母が体調を崩していたために 施設で過していたのだが、急速に容態が悪くなったので私の実家に 連れ帰ってきたらしい。 そういうわけで、 最後の時は私の実家でおおよその親族に見守られながら過ごすことになった。 劇的にガクッと逝ったわけではなく、 良く見てみたら息をしていなかった、という感じらしい ので正確な時間はわからないが、 ともかくも医者を呼んで22時10分ということにしたそうだ。 葬式スケジュール等はまだ何も決まっていないとのことだが、 たぶん明日か明後日は福島に行くことになるのだろう。 それにしても母は大丈夫だろうか。 半ば一緒に暮らしているようなものだったから覚悟はしていただろうが、 なんといっても父親だ。

sea gaia。 バブル末期の第三セクターの中でも最大級。 赤字を出し続けて2001年に倒産。 その後外資に買われ、今も営業はしているが、 中核施設であった巨大屋内プールは閉鎖、 一部のホテルやゴルフ場を韓国企業に売却するなどして規模は縮小している。

オタマはありがとうを上手に言うようになった。

断乳を始めてから、オタマは水を吐き出さなくなった。 前はブーッと出すのが楽しくて仕方がなかったのだが、 そんな余裕はもうないらしい。

コミュニケーションにおいて重要なのは違いが何かを知ることだろう。 そういうこともあって、 私は「君と僕とは実は同じことを言っているんだ」的な発言を信用しない。 確かに、本当に違う所を知るために、 実は同じであることを確認していくことも必要になることはある。 しかし、「実は同じなんだ」は少なくとも私の周りでは そういうまっとうな使われ方はしていない印象がある。 対立をごまかそうとすることもあるし、 反対意見をつぶす手段として使われることもある。 「実は同じであることに気づかない君は馬鹿だ」的な含みが入るので、 相手はかなり不利になる。 単に「いや違う」と言うだけでは周りにはダダをこねているようにしか 見えなくなるので、かなりの説得力をもった反論をせねばならなくなるからだ。 本当は何が同じなのかを説明する義務は同じだと言った側にあるのだが、 それに関する説明はまずなされない。

同じに見えて違うことの方が違って見えて同じであることよりずっと多く、 しかもより問題につながりやすい。 また、結論が同じであっても、そこに至る過程が異なれば、同じとは言えない。 平行でない二つの線がたまたま交わっただけのことだ。 また離れていくに違いないのである。 したがって、重要なのは結論が出てくる過程だ。 何を見て、何に気づいて、何を大事にしたからそう思ったのかだ。 そこを理解していれば妥協のしようもあるし、予測も立ちやすい。 それがコミュニケーションというものだろう。 しかしこういうコミュニケーションには手間がかかるものだ。 コミュニケーションをするコストよりも大きな見返りがなければやる意味がない。 目的を達するために必要な所で合意が得られるのであれば、 その合意がどうやってもたらされるかが問題でないということはありうる。 さらにもっと根本的なところの問題として、 コミュニケーションを取ろうとする動機が個人にあるかどうかという問題がある。 誰と誰はコミュニケーションを取るべきだ、ということを組織として 決めることは簡単だが、決めた通りに実行させるのは難しい。 構成員がそれを望んでいなければそれまでのことである。

2012年02月22日

いきなり断乳が始まった。こんなにもおっぱいに依存していたんだなあ。 泣く。叫ぶ。

というわけで、昨日はほとんど寝てない。ひつじこはさらに寝てない。 断乳が完了するまで数日は仕事にならんな。

牛乳を3連続一気飲みしたりと、食事に危機感が出てきた気がする。 今までは食べたいものがないなら乳でいいや、という態度だったように思う。

数学を含めた基礎ばかりやっていて、さっぱり形にならない日々。 充実しているが、ちとまずいな。 理屈はおおよそわかったのであとは実装なのだが、 断乳が終わらんと無理かもしれん。眠すぎてコードを書くのがきつい。

好きな分布で乱数をばらまく理屈がようやくわかってきた。 例えば球の表面に点を一様にばらまくのに、方位角と仰角をそれぞれ サイコロを振って決めるのではダメだ。 地球を考えてみればわかる。赤道付近と極では経度1度あたりの面積が 全然違う。結果、そうやってバラまくと極にたくさんの点がある一方、 赤道上にはあまり点がない状態になる。 ここを調整しなくてはいけない。 球体の中にバラまく場合も同じことが言える。 さらに面倒なのは、「極に近いほど高い確率で点が打たれる」 というように分布にムラがある場合だ。 確率が極との角度のコサインの何乗かに比例するようにしたいことはあるが、 このためにどうすればいいのかがわからなかった。 真面目に考えてみたことがなかっただけで、 真面目に考えてみたらできたわけだが、時間はそれなりにかかっている。 どこで調べれば見つかるんだろうな。 要点は定積分と逆関数なわけだが。

加えてもう一つ、バラまいた点がそこそこお互いの距離を保って バラまかれていることを保障したいケースが多い。 これをやる方法も結局自分で考えた。 どこで調べれば見つかるのかわからん。 正方形の中に100点バラまく、とか言うなら10x10に区切って その真ん中に点を置けば均等になるのだが、 正方形でも99点バラまけと言われるとそういうマネはできない。 まして、球面上やら球体中となると何点でも無理だ。 適当に何点かバラまいてみて、すでにある点からいい具合に離れた奴だけを選ぶ、 ということをやる。何点から選ぶかはかけられる時間から決めればいい。 完璧な結果は得られないが、それなりに悪くない結果にはなる。 物理シミュレーションを応用する手もありそうだが、 パラメータをしくじるとムチャクチャになりそうで、扱いが面倒だ。 また、「極に近いほどたくさん点を置きたい」というようなケースで これをやるにはもうひと工夫が必要だ。 たくさん点があってほしい場所ほど空間が伸びるように歪ませておいて、 そこで均等にバラまき、その後で空間を元に戻せばいい。 具体的にどう歪ませるかは場合による。

こういう要望ってあんまりないんだろうか。 普通にやってりゃ当然必要になるように思うんだがなあ。 あるいは自明すぎていちいち書かないだけか。 numerical recipesにしても、physically based renderingにしても、 そのものズバリな答えは書いてない。 やっぱり、自明なんだろうな。数学が苦手な奴がそんなことが必要になる分野を やるわけがないから当然か。 球体の中に均等にバラまく方法を考えるだけでも私は結構時間がかかったんだが。

x86は浮動小数点演算で極端に小さな値になるとべらぼうに遅くなる(デノーマル)。 powf()で第二引数に1000とかを与えると容易にそういう状態に陥るので、 pow(a,b)=exp(b*ln(a))の変形を使ってexpの中身があんまり 小さくなったら答えを0にして逃げる手がある。 こんなマネをしたくなることはレアだけどな。 速度が問題になるようなものはGPUでやればいいからな。 コードを書くのが面倒でデバグが面倒という欠点はあるが。

2012年02月21日

湿疹が悪化してきたので、オタマを病院に連れていった。 強力なステロイド剤であるマイザーと、そこそこ強力なリンデロンVGをもらってきた。 金曜にまた来いと言われたのは、強力なステロイド剤を長く続けるのはマズイからだろう。 3日で改善すれば弱い薬に移すということと思われる。

当然激しく泣いたが、病院はまだ絵本と積み木があったので 診察が始まるまでは耐えられた。一番厄介だったのは薬局。 何をされるわけでもないのだが、気を散らすものもないままに時間ばかりがかかる。 説明も丁寧でいい薬局だとは思うのだが、時間がかかるのは辛い。

ひつじこが慢性的な寝不足。 オタマが夜中に起きるせいだ。 起きる原因は痒みだろうが、 ひつじこが眠れない最大の原因は、 体を起こした状態で乳をあげないと寝ないという 習慣が定着したことだろう。 オタマが求めるようにしようというひつじこの姿勢は 大したものだと思うが、それは健康を損なわない範囲でないとダメだ。 もたない。 とにかく卒乳すべきではなかろうか。 少なくとも乳なしで寝られるようにならないとどうにもならない。 しかし、それはひつじこが決めることだろう。

皮膚が炎症を起こすのは、皮膚が破壊されているからだ。 破壊の原因は爪でひっかいたといったことから、界面活性剤などいろいろある。 そういうわけでともかく界面活性剤の使用を抑えることにしたわけだが、 それだけでは改善が見られない。 残る界面活性剤は食器洗剤くらいだが、この影響はほとんどないだろう。 ステロイド剤で対症療法を繰り返すのを避けたいとなれば、 あとは保湿と保護を強化するくらいしかない。 今は風呂上がりにプロペトを全身に塗っているが、 これを一日二回にしてみようか。 摩擦への防護にもなるだろう。

皮膚炎の類は基本的に現代病だと思われる。 体を洗うという贅沢な習慣はここ数十年のもので、 現代でもそれができているのは地球のごく一部だ。 したがって、体は洗わなくてもいいはずなのだ。 そういうこともあってオタマには石鹸を使っていないわけだが、 これが問題の原因である、ということはありうるか。 そういうこともあって一週間に一回だけ石鹸を使うようにしてみたが、 状況は改善していない。

とりあえず、今日から私が自分を使って人体実験をしてみよう。 石鹸の使用をやめてみる。 数日は痒くなったが、その後元よりずっと良くなったという 記述が良く見つかる。本当か試してみよう。 二週間くらいは続けないとわからないだろうな。

2012年02月19日

大量の農作物が玄関を占拠している。笑えてくるなこの光景。

だが、りんご10kg注文した。今日でなくなったのである。 こんどはシナノゴールド。 もう季節が終わりつつあるので、どこも直販は完売。やむを得ず楽天。

そろそろ魚を注文しないと。20枚買ったほっけがもう4枚しかない。 鮭も2匹買ったが、もう1匹の半分もない。 なので、注文。

2012年02月16日

八朔10kg、清見オレンジ10kg、たまねぎ10kg、ベニアズマ20kgを注文した。 農作物を一気に50kg買うって、我ながらすごいな。

数学勉強中。昔量子力学の授業を受けた時に出てきたものがまた出てきた。 当時は全く何のことだかわからなかったが、今ならわかる。 といっても、ストーリーだけだ。 根本的に特殊関数の知識がないので、 このキッタナイ式がどういう必然で球面に関する対称性をもった 素敵な関数になっているのかというところの理解と感覚がない。 私に数学の素養がないことが残念でならないが、 どうもそれは私だけではないらしい。 わからずに使っているっぽい人が多すぎて、 ちょっと調べたくらいではまともな情報が出てこないのだ。

某所に置いてあった10年も前の講義資料を読んで大まかなストーリーを理解した。 少なくともこの話に関して私は彼らに10年以上遅れをとっているわけだ。 大したものだなあと思う。 最小二乗法から入って逆行列を除くために直交基底に至る、 という順番は大層わかりやすい。 長島なんとかの物理の本を思い出す。

技術の最先端で自分で開拓するのには憧れるが、 他人が踏み固めた道を歩く方が楽だしそれでいい。 他にもやることは山ほどある。 枯れた技術をどう組み合わせるかを考える方がよほど割がいい。 前人未到はかっこいいが、 大抵は後からやってきた人間においしいところを持って行かれるものである。 つうか、能力的に無理。私は新しい何かを考えるタイプの人間ではない、 ということはもう骨身に染みている。独創性の発揮は誰か他の人にやってもらおう。

球面調和関数って複素関数じゃん。ということに気づいてから 随分長いことさまよっていたのだが、 量子力学っぽいサイトにまで手を広げたら見えてきた。 CG系の人々は大抵中身を知らんで使っているらしく、 「実部しかいらないので虚部は捨てる」とか適当なことを言っている。 そんなことしたらエネルギーが漏れるだろ。 だがなんのことはない。複素関数の線形結合をでっちあげて実関数に直したものを 使っているだけだ。Y(1,1)とY(1,-1)を足したり引いたりした上で 適当に複素平面上で回してやると(=iをかけると)いい具合に実関数に化ける。 これには私も気づいたが、そうしてもいい、という確証がなかった。 結局今でも確証はないのだが、 しかし思ったとおりの手段で実関数を作って使う、 ということについて書いたサイトがいくつかみつかったので、 なぜ許されるのかはわからんがそれでいいらしい、ということはわかった。 たぶん、XYZ軸のZを放置したままXとY軸を45度回しても 全体としての直交性は保たれる、みたいな話だろう。 なんかその手の証明を大学の線形代数演習でやった気がするが、 当然全くできなかったし覚えてもいない。 関数の直交性という概念は当時の私には無茶すぎた。

大抵のサイトでは実関数化した球面調和関数と、 もともとの複素球面調和関数の区別が曖昧か、そもそもない。 そのせいでwikipediaに乗ってたり量子力学で出てきたりする標準的なものと、 CG系の解説サイトの説明で式が食い違って何がなんだかわからなくなった。 その道の元祖になった論文を読んでもそのあたりの数学の理屈は何も書かれていない。 学者が書いたものだけにそんなことは前提条件だということなのだろうし、 実際問題何も考えずに書いてある式をぶっこめばそれで動くんだろうが、 それでは応用ができないのである。

球面調和関数のデカルト座標表示についても、 低次の式の例はいくらでも出てくるが、どうやって自動で生成するかに ついてはあんまり出てこない。たまたま一個出てきて、 どうもそれは量子力学系の数学本が元ネタらしいが、 そのために買うのもやりすぎだ。そして絶対読めない。 というわけで、その式をありがたく実装してみることにしたいが、 それだけでも結構面倒くさい。

いろいろ勉強しても、結局は結果だけ使わせていただこう、 という感じになってしまうんだよな。しかし、どんな道があってどう 結果につながっているのかがわかった上であれば大丈夫だ。 道を歩く必要が出てくれば歩けば済む、と思える状態にはした。 結果だけもらったとしても、理屈の大枠がわかっているので正しく 実装できたかを確認する手段がある。 例えば球面調和関数がおかしいかどうかは適当に数値積分して 正規直交性があるかどうか確認すればわかる。 プログラムの中で作ったものは浮動小数点数の固まりで、3/8π みたいに意味がありそうな形では見えないので、 確認にはそれなりに手をかける必要がある。 視覚化するプログラムを用意すれば、よく見るあの図と同じものが 手元で出るかどうかも確認できるだろう。 実装したものが正しいかどうかの確認を怠ると、 後々何かが変だということになった時に土台すべてを疑う羽目になるわけで、 それは未来に時間負担を押し付けているだけだ。真の省力化ではない。 やはり中身がわからんものは使わないのが理想だろう。 最低でも正しく実装できていることを確認する手段を理解するまでは使うべきでない。 このルールを徹底しないと、結局は高くつくことになる。

多変数多項式用のホーナー法みたいなのってあるのかなあ、と思って調べたら グレブナー基底とかいうのが出てきた。 即座に「馬鹿正直にやれってことだな」と思って閉じた。無理。 ホーナー法でも、いくつかの次数で0の場合に高速化したいとか思うと 手で式変形して別々にコードを書くか、 分岐まみれの汎用コードを書くかのどっちかになる。 多変数ならなおさらそうだ。疎行列向けのプログラムが中途半端な疎具合だとかえって 遅くなったりするのと同じ問題だろう。

それにしても球面調和関数とかフーリエ変換とかはいいな。 1秒から1日までスケーラブルな計算技法がほしい、 と考えた場合に、時間が足りないとザラザラするサンプリング系の手法は使いにくい。 時間に応じて高周波が増えていくような手法があれば、 最低限の時間でも全体的な傾向はつかめる。大きく把握してから細部へ至る、 という順番は 大抵逆よりもいいものだ。 もっとも、下手に高周波まで足すと破滅的なくらいリプルしそうな 気もするので、そこをごまかすために後からガウシアンブラー、 みたいなことになったりもするのかもしれんが。 そういえば、スクリーンスペース系の技術は正反対の高周波特化手法なので、 うまいこと併用するといい具合に補いあうのかもしれんな。

CG担当のプログラマの大半は私よりも数学がマシにできるはずだが、どうなんだろうな。 線形代数も微積も単位落とすようなレベルの人間がこんなこと やってるのは相当レアだと思うんだが。 それくらい数学が苦手だからこそ、ああいう本を書くわけだし。 それにしても、あれが評価されたということは、 同様にCGについて文章を書いても評価されるのかもしれんな。 優れた解説書やサイトは多々あるが、 私くらい数学ができない人間向けには書かれていない印象がある。 「第一章:数学」みたいな本はもうその時点で私を拒絶している。 何に使うかもわからないうちからそんなもん読まねえよと言いたい。 だいぶ苦労したおかげでクォータニオンや 球面調和関数を理解して使うために何をどういう順番で 理解せねばならないのかの道筋がなんとなく見えてきた。 ブラックボックスにしておいても支障がないことと、 少なくとも概念がわかっていないとまずいことと、 手になじませておかないとまずいことの区別ができてきた。 呼吸をするように数学がわかる人や、 理解しないで結果だけ使って不安にならない人には 何の役にも立たないだろうが、そうでない人には役立つだろう。 暇になったらサイトにでも書こう。暇になったらな。

自分で生産する仕事から、生産手段を生産する仕事に少しづつ移りたい。 格段に優れたものを生産できる能力があるなら自分で生産し続けるのも良かろうが、 腕力が背筋より衰えやすいのと同様に、 自分で生産するスキルは、生産手段を生産するためのスキルよりも ずっと衰えやすい。 記憶力や思考の速度が衰えることがそのまま生産物の質に直結するような状態では 70まで働けない。60までだってきついだろうし、正直40までですら自信がない。 管理職に行くというのはひとつのあり方なのだろうが、 その道は誰にでも開かれているわけではない。 むしろ、専門職であっても仕事の内容を少しづつ 広げていけるように自分を設計せねばならない。 最近は仕事がてんこ盛りなので特にそう思う。

2012年02月15日

日本の医療保険制度はギッチギチである。 ギッチギチ、と言うのは、医者や看護師の給料や出す薬、やる検査などの 医療にかけていいコストが厳しく制限されているということだ。 そのせいで、アメリカに比べると医療費が安い。 安い代わりに、コストのかかる先端医療があまり使われず、結果、進歩もしない。 実際高度な医療機器の大半は海外製である。 さてこれが今後どうなるか。

アメリカ基準で行くならば、こういう制限は撤廃する方向へ行く。 そうすれば、当然医療は高くなる。 高くなる医療に対処するために、自前で民間の保険を買わなくてはならない。 そこをケチったり余裕がない人はまともな医療が受けられなくなる。 これはアメリカで起こっていることだ。 医療は今ある治療のコストを下げる方向ではなく、 今はない治療を創りだす方向に進歩するため、医療費はどんどん上がっていく。 民間の保険会社もそれに対処するために保険料を上げる。 時間が経てば古い薬は特許が切れて安くなるため、 何十年も経てば先端医療以外のコストは下がってくることもあり得るが、 医者に何も聞かずに薬を買うような人はあまりいないわけで、 医者に安い医療を提供しようという意思がなければそれまでだ。 保険会社と医者と患者の力関係、それに医療の進歩の度合いなどが加わって どれくらいの医療費になるかが決まることになる。

医療費は事故と同様に保険のしくみが有効に働く分野だ。 医療費の大半はごく一部の人が使っているが、 そのごく一部の人がそれを払えるほど金を持っているわけではない。 みんなで金を出して助けてあげるという構図が必要で、それが医療保険である。 これが国家の管轄でなくなるとどうなるかというと、 健康な人は保険に入りたがらなくなる。 自分が健康であることを知っていて、 保険の恩恵を受けにくいとわかっているのだから当然だ。 逆に健康でない人は保険に入りたがる。当然である。 また、民間の保険会社は保険金を払う羽目に なりそうな人となりそうにない人を当然区別する。 そういうわけで、健康に問題がある人は高い保険料を払わされることになる。 生活習慣に問題がある人は自業自得と言えるが、 先天的に健康に問題がある人にとっては甚だ生きにくい世界だ。 医療保険を国家でやらない、という選択は、弱者切り捨ての色彩を帯びざるを得ない。 じゃあ国でやればいいかと言えば、それはそれで問題がある。 全員が一律で保険料を払うとなれば、健康でいることの利益が薄れる。 病気になったら誰かが金を払ってくれるとなれば、 必死で健康に気をつけようとは思わない。 これが民間の保険で、例えば「酒を飲むと保険料が上がる」 「毎日ジョギングしてないと保険料が上がる」 というような所まで話が行くのであれば、 保険料を抑えるために健康に気をつけようという気になる。 これが結果的に国民全体の健康レベルを押し上げる原因になり、保険会社も得をする。 体に有害な食品を売る会社は保険会社と消費者の敵になるため、 軌道修正されやすくもなる。 どうしようもない不利を持った人をどうにかする方法を別に作れるのであれば、 こっちの方が社会全体としての幸せの量は多くなるとも言える。 しかし、先端医療の進化が医療費を押し上げる影響も大きくなるため、 必ずしも医療費が下がるとは限らない。

さて、どうなるか。どこの国も財政は悪化する方向にしか行かず、 とりわけ日本はそうだ。 これをどうにかするには、医療のコストを下げるためにさらにギッチギチにするか、 保険料を増やすか、自己負担を増やすか、 医療の負担を国政から叩き出して民間に回すか、 というあたりを組み合わせることになる。 タダでも医者になる人が少なくて困っている現状で、 これ以上ギッチギチにするのは難しい。 保険料を増やすのもつまるところ増税で経済力を削ぐため限度があるし、 国全体がこれから困窮してくれば税率を上げても税収は減っていくため効果が薄い。 自己負担を増やす方向と、民間に回す方向で行くのはおそらく間違いあるまい。 したがって、うちらは自分の健康により一層気をつけるべきだということになる。 むろん、医療保険制度に関係なく健康な方がいいに決まっている。 ひつじこと一緒に楽しく長生きすることが最優先課題であり、 国の制度など知ったことではない。 ただし、これから医療費が増えるという前提に基づいて金を用意しておかねばならない、 ということはよく認識しておくべきだ。 そしてまた、特許が切れた安い薬があるということを知り、 むやみに医者にかからないで済むだけの 医学知識を身につける努力も必要になる。

高税率の福祉国家路線が破綻することはすでにわかっている。 グローバル経済に馴染む形の社会にならざるを得ないし、 日本もゆっくりではあるがそちらの方向へ向かってきた。 民主党による揺り戻しがありはしたが、弊害は誰の目にも明らかなわけで、 これからのグローバル化順応の速度をかえって早めることになるだろう。 小さな政府、と言うと何かと叩かれるが、 財政という一要素だけ見てもそれ以外に手はない。 高税率は確実に経済を停滞させて企業の国外脱出を招くため、 結果的に税収は減るのである。 みんなが助けあう社会、と言えば聞こえはいいが、 所得の再配分を国家でやって効果的なのは国が閉じている間だけだ。 それにそもそも、再配分を国がやることで、 かえって国民のレベルでは助け合いを実感しにくくなっているという 皮肉もある。兄弟がニートになった時に支援するのは家族であるべきで、 国であるべきではない。 もはや考えるべきはグローバル化の是非ではない。 現在の状態からグローバル化に順応する際の混乱と痛みをどう抑えるかだ。

私みたいな考えの人間がどこに投票すればいいのかがよくわからんなあ。 少なくとも共産党と公明党と民主党ではないが。

オタマは大変な時代に成人するな。私はギリギリ従来路線で間に合ったと言えるが、 その私にしても今後40年継続的に収入を得て 生きていくためにはそれなりな戦略と勇気を必要とする。 オタマはそういう戦略と勇気を最初から持たねばならない。 うちらはそういうことを教えられるだろうか。

2012年02月14日

誰かがベーシックインカムとか言い始めたらしい。

医療費がかかる人に補助を、失業した人に補助を、 というように具体的な状況に応じて補助を出すのは、 理にはかなうが運用に金と手間がかかる。不正じゃないか調べるのも手間だ。 この手の個別の補助が山ほどある限り公務員の数を減らせない。 そこでベーシックインカムという考え方が出てくる。 どうするかと言えば、全国民に一律で金を配ってそれで終わりにする。 激しい病気になってとんでもない金がかかっても、 いきなり失業しても、別段の助けはなくなるが、 とりあえず毎月ギリギリのお金はもらえる、という制度だ。 この制度にすると、役所がごっそり減るので無駄な金がかからなくなるし、 悪いこともできなくなる。 もちろん問題もあって、アホな人はもらった金を貯めておかずに バンバン使ってしまい、いざという時にどうしようもない状況に陥る。 また、それではまかないきれないレベルに金がかかる状況に陥った場合には 手に負えない。地域や親族の助け合い、ボランティア組織、民間の保険、 みたいなものが複合的に育ってこないと社会不安の種になりそうだ。 加えて、国民の大半は何ももらわなくても生きていけるはずなので、 大半の額は無駄な支給になるという側面がある。

なお、実現のためには大量の公務員をクビにせねばならず、 一撃でドーンとやるのは政治的には不可能である。 そういう意味で思考実験の域を出ていない。 もっとも過去の日本は激しい外圧が加わると180度の方向転換をする 性質があった。その意味でいきなり極端な方向にふれることがないとは言えない。 今民主党が居座っているのもそれに近い出来事ではある。 踊らされやすい国民性をうまく利用すればそういう制度の実現もありうるのだろう。

私は社会保障の理想について語る上でのモデルとしては便利な考え方だと思う。 まず、運用コストが大きい制度は悪だ。そんなことに人と金を使うべきじゃない。 そんな余裕はもうないからだ。 そして、例えば月6万円くらいであれば、到底満足の行く生活は送れない。 それで良い人はそれでいいが、それで不満な大半の人は働くことになるから 労働意欲を萎えさせることもない。 個別の状況に応じた補助だと、補助する必要がなくなれば補助が消えるため、 補助してもらうために敢えて問題を解決しないという選択ができてしまう。 一律支給であればこの問題が発生しない。 もっとも、この手の問題は「いくら以下の収入ならいくらあげます」という制度を、 「収入が10万円を下回る分の50%をあげます」というように、 働いただけ得をする制度に変えるだけでいいはずなのだが、 なぜかそういうことが行われない。 おそらく何らかの既得権益があるか、非効率すぎる事務コストのために そういう計算ができない状況にあるかのいずれかだろう。

なお、役所仕事が減ったくらいで本当に採算が合うのかどうかは結構怪しい。 支給額を月5万とすれば、1.2億人に支給すれば60兆かかる。 これは今の社会保障予算28兆の倍以上だ。 年金を足せば60兆くらいになるのかもしれないが、 ともかくそれで本当にコストが下がるのかはよくわからない。 やっぱり、理屈の話と考えるべきだろう。 不正受給や運用コストが低く、必要な人間にのみ渡り、 かつ支給が必要な状況を脱する動機が確保されたシステムに向けて 改善を積み重ねていく方が理にかなう気がする。 単純に事務処理の効率化を徹底するだけでコストが大幅に減る気はするし、 支給額の計算式を工夫すれば生活保護漬けになる人間の数も大幅に減らせるはずだ。 役所のIT化の遅れは半端ないからな。 e-taxのUIのゴミさ加減を見れば窺い知れようというものだ。 一般向けに公開するものでもああなわけだからな。

人が減るので一人あたりの働きを良くしないと経済がもたないという議論がある一方、 なんぼ働いて物を作っても買う奴がいないと仕方ねえよ、という議論がある。 前者が供給側の経済学、後者が需要側の経済学だ。 この二つは何かと対立する。 人が減るので定年をなくして高齢者も働くようにしようと言うと、 そもそも若者も就職できなくて困ってるのに何言ってるんだという話になるが、 これは企業が作るものが売れないので働いても無駄という状況があるからである。 また、みんなが貯金をするとその貯金を銀行が企業に貸し出して、 企業はそれで設備投資をしてもっとうまく物を作れるようになる。 そういう意味で貯金は経済を発展させる。 しかし、皆が貯金しまくって物を買わなければ、 やっぱり企業は物を作れなくなるのである。 昔の日本では皆が貯金をしまくってもかまわなかった。 なぜなら、買うのは外人だからである。 うちらは作ることだけ考えれば良く、自分で買う必要はなかったのだ。 当然作ることにかけては凄まじく熟練し、80年代の日本黄金時代が実現したわけである。 が、売るだけ売って買わないということは現実にはできない。 財政黒字が溜まってくると巡り巡って円高になって外国に物が売れなくなる。 こうなると自分で買わないといけない。 政府はなんとか皆に物を買わせようとして金をばらまくが、まるで効果が出ない。 そうしてばらまいているうちに借金がえらいことになってしまった。 もともと皆の貯金が政府によってばらまかれているだけなので、 もう少し貧乏になって皆が金をおろし始めれば国が破産することになる。 たぶんそう遠くない。 現実には破産はせず、国債と円が下落してインフレになり、 国の借金が帳消しにされることになる。 極端に言えばアイス一個1万円になれば、 100万円の借金もたかだかアイス100個分の額になる、ということだ。 そんな極端なことはないにしても、 円安になると燃料費が高くなるので、 原発に未来がない日本としてはなかなかに痛い状況になる。 エネルギーが高くなるとほとんどすべてのものが値上がりして、 じわじわと人を苦しめることになるのである。

結局何が問題か、ということについても意見がわかれている。 供給側から考える人は、 企業が買いたくなるものを作れていないのが問題だと言うだろうし、 需要側から考える人は、人に金を使うだけの余裕がないのが問題だと言うだろう。 どちらも間違っているわけではなく両方あるのだが、 どうもどちらかだけに偏っている人が多い印象がある。 また、需要側を考える人はとかく金をばらまく方向に持って行きがちで、 結果財政赤字が増して余計に人を不安にしてしまう。

うちらにできることは何か。まず供給側としては、 ちゃんと人が欲しがるものを考えて作るように 働くべきである。ちょっと前まで私は好き放題勉強して金 がもらえてればそれでいいやと思っていた。 もちろん良い物は作りたいが、 自分が良いと思うものを作ることがどうしても優先してしまっていた。 これではいかん。 ドラッカーは供給側として社会に貢献するための基本を教えてくれている。 そして需要側としてはどうするか。 これは、良い物をちゃんと買う、ということに他ならない。 買い物は企業への投票だ。これをきちんとやる。 良いサービスにも金を払うべきで、安いというだけで店を選ぶのはやめるべきだ。 使う金の総量が問題で何に使われてもいいのだと言う人もいるが、 私はそういう考え方は好きじゃない。浪費は浪費だ。 なお、変に国産のものを買うのもダメで、国産が良い時に限って国産を買うべきである。 ダメなものを甘やかすと結局ダメになる。国の補助金の真似をしてはいけない。

というわけで、私はたけひこオレンジ農園からみかんを買っているわけである。 デコポンと八朔がうまい。ひつじこによれば八朔の概念がくつがえったそうだ。 来るまでは「八朔なんて甘くなくてパサパサして変に苦すっぱくてダメ。いらない」 とか言ってたんだが、来たら普通においしいと言って食べている。 日本の農作物はすごいと思うんだがな。 是非海外に売って欲しいが、こう円高では仕方ない。 うちらが買おう。もっとも、うちらが買うまでもなくすごい勢いで品切れになるので 応援する必要などないのだが。青森の種子さんのにんにくも同様。

2012年02月13日

「2020-10年後の世界新秩序を予測する」という本を読んでいる。 世の中には面白い本がいくらでもあるな。

現代の最も大きな変化二つが、人口構成の変化と、グローバル化だ。 この対処を誤ると国家が衰退するが、 うまくやっても無傷というわけには行かない。

人口構成の変化は避けられない。技術によって平均寿命が延び、 女性が社会進出すれば、高齢化率が上がり、人口が減り始める。 高齢化率が上がれば、高齢者の生活を支えるために若者の 力が削がれ、経済が停滞する。 人口が減れば、長期的には経済が縮小する。 まず高齢化率が上がることへの対処は、 働く高齢者を増やすことと、高齢者への保障を削ることだ。 要するに、定年を上げるなり廃止するなりすることと、年金の額を削ることだ。 でなければ財政が終わる。 しかし、定年を上げれば若年層の雇用が奪われるため、 企業がより自由に人を削れるようにする規制緩和とセットでなければならない。 定年とは「これを超えたらクビにしてもいい」ということであって、 「これを超えたら雇ってはいけない」ではないのである。 また、年金の額を削ると言われてだまっている高齢者は少ないだろうし、 高齢者ほど投票率が高いので政治的には容易ではない。 加えて、将来もらえる年金が減るとなれば、人はそれに備えて貯蓄を増やす。 つまり金を使わなくなる。結果、これまた経済が停滞するわけである。

グローバル化とは、活動をする場所を企業が好きに選べるようになることである。 人件費が安い場所で作るとか、電気代が安い場所で作るとか、そういうことだ。 条件が不利な場所からは出ていく自由がある。 したがって、法人税が上がったり、教育レベルが下がったり、治安が悪化したり、 電気代が上がったりといった悪い方向への変化は、 その国から企業が出ていくことを促進する。 法人税を下げて企業が居心地良くいられる国にしよう、 というと弱者切捨てだと叩かれるわけだが、 グローバル企業が出ていくような国は経済的には悲惨な状況に陥る。 現代のようにグローバル企業が力を持ってしまうと、 実質的には国はその意向には逆らえない。別に企業が国に命令するわけではなく、 単に「出ていくぞ」とほのめかすだけでいい。 そして小さな企業でも海外子会社を持っていたりするわけで、 すでに大企業だけがグローバル企業というわけでもないのだ。 したがって、国の形は世界中どこでもある程度同じであることが求められる。 そこから外れた国は企業にとって魅力的ではなくなるので 経済的に困窮することになるからだ。 結果、法人税や電気代、法律などは世界標準に収束せざるをえない。 政治がやれることはどんどん減ってくる。

すっきりした解決策はないが、日本は比較的保障が手厚い部類の国だ。 保障を削る方向に行くのが一番素直だろう。 放置すれば借金が増えまくってどかんと円安になり、結果インフレになり、 円建ての貯金は価値を減らすことになる。 貯金があるような金持ちが打撃を受けるのは結構だと思う人もいるが、 そういう金持ちはとっくにかなりの割合を外貨で持っているはずで、 打撃を受けるのは中間層だ。貯金がないとしても、借金があれば同じことである。 住宅ローンの金利が上がれば、払えなくなって家を手放す羽目になる人も出てくる。 このままのペースで借金が増えればその日はいつか来る。 借金が増えるペースが経済成長率以下なら耐えられるが、今はそうではない。 「GDP比何%」というあの数字が増えているうちは爆弾の導火線に火がついたままである。 戦後の記憶をもった世代がいなくなれば抵抗勢力がいなくなるので、 種々の規制緩和と保障の削減が行われるだろうが、 それまで円の信用が保たれる保障もない。

この本によれば、アメリカと中国は望みがあるという。まず高齢化は進むものの、 まだ労働人口は増え続ける。そしてどちらも社会保障コストが安いので、 弱者救済に力を削がれない。 そこで暮らすことが幸せかどうかはともかくとして、 国際的な競争力が高いのは間違いないし、 国力も強くなる。日本と関係なく勝手にやってる分にはいいが、 今はグローバル化の時代であり、 日本の優秀な人間がそういう「がんばれば報われる国」に流れていけば 日本の国力が衰える。弱者救済のためのコストは強者が払うのであって、 強者から順番に国を出ていくとなれば弱者の状況も悪化する。 企業や人間の移動を妨げる要素は次第に弱くなっているわけで、 例えばオタマの世代はうちらの世代よりも英語への抵抗は弱かろう。 私が海外で働く気になれない最大の要因は英語だが、 オタマにとってはそれはないかもしれない。 ヨーロッパや日本は保守的で反グローバリズム的な色が濃いが、 それでも次第にグローバル化に沿った方向に行かざるをえない。

もちろん反論はある。案外国を出ていく人や企業は少ない、というのが一つあるし、 規制を緩和しすぎて不安定性が増したリーマンショックのようなものもある。 貧困による社会不安の害が結構大きくて、結局経済の足を引っ張るということもある。 TPPみたいなものにこの時点で参加すべきかどうかも、 いろいろな思惑や罠の存在を考えると必ずしも明らかではない。 しかし、おおまかな方向としては世界はグローバル化せざるを得ないのだろう。 うちらはそういう世界の方向を鑑みた上で、 どんなスキルを学んでいくかとか、オタマにどういう教育をするかとか、 金をどういう形で持つかとかを考える必要がある。

円建て資産の率はこれ以上増やしたくない。 ここ数年円は値上がりしているが、いつか終わりそうな気がする。 終わる瞬間を掴んで対処できる自信はないので、 元から分散しておく方がマシな気がする。 確かに、「ビッグマックがいくらで買えるか」みたいなところや、 外貨のインフレ率などを見ていれば円高方向へ行くこと自体は何もおかしくないのだが、 市場は気分で動くため、何がきっかけになって何が起こるかまったくわからない。 ドル110円を超えていた時代もデフレと不況はずっと進行していたわけで、 為替レートに理屈は通用しないという感覚がある。 後から振り返れば理屈はいくらでもつけられるが、 前もってわかるという自信は私にはない。 できることは分散しておくことだけだ。 結果杞憂に終わって10%かそこら損したとしても、大した問題ではない。 世界の金のうち9割以上は円ではない、と考えれば、 資産の9割以上を円以外の形で持っていてもおかしくはない。 結局住んでいるのは日本なわけで最終的には円が必要なのだが、 通貨の変換コストはすでに十分に安い。 使う寸前まで外貨にしておいてもそれほど目減りするわけではないのだ。 そんなことより、一つの通貨に集中して持っておく方が怖い。

親戚で金をどういう形で置いておくのがいいかわからないと言う人がいる。 しかし、私には何も言えない。何かを言って良いほど知識があるわけでもないし、 何かを言えば嫌でも責任が生じる。 「うちはこうしてる」と言うことすら危険だ。 もし同じことをしていれば損害が出ているわけで、そんな気まずくなる危険は冒せない。 フィナンシャルプランナーの類であっても、自分の親戚には何も言うまい。 それに前の段落のことを言っておいてなんだが、 何もしないで定期預金にしておいてもそれほどひどい事にはならない気はする。 借金をして何かを買うようなマネを厳に戒め、 堅実に低コストな生活をする努力をする方がよほど重要だ。 溜まっている額よりも、 稼ぐ能力と使わない生活スタイルの方がずっと大切だからである。

でもまあ、うちがそう低コストな生活をできているわけでもないんだよな。 結構嗜好品は買ってくるし、設備投資は明らかに過剰だし。 そういえば、この前買ったアルミ鍋は実に具合がいい。 蓋まで含めて加工精度も高く、アルミとは思えないほど頑丈だ。 湯が沸く時間も明らかに違う。

そういえば500L級の冷蔵庫が欲しくてたまらない。 それがあれば野菜の保管の不安がなくなる。 今回のじゃがいもも結局芽が出てしまった。 15万払えば幅が変わらず容積が70L大きいものが買えるが、その程度では大差ない。 もっと金持ちそうな家に住まない限りここの改善は不可能だろうが、 一旦そんな家に住めば経済環境が悪化した時に 元に戻すのが難しくなる。 海外移住でもしない限り、生涯2DKより大きな家には住まなくていい。

英語足りねえ。しかし、ここから先は実地でないと無理だ。 それをしようとするなら海外子会社に飛ばしてもらうのが一番低リスクだよなあ。 いきなり英語がないと仕事にならない会社に転職とか言うのは、 本当に仕事にならなくなって終わる危険が無視できなくなる。 とりあえずは海外出張の機会はできるだけ見逃さず、 日本語と英語の両方で手に入る情報は極力英語で読むようにする、 ということくらいか。技術書の類は日本語ではまず買わない。 そもそも高すぎるし翻訳がカスすぎる。 正直海外出張は憂鬱なんだけどな。また意思疎通に苦労するあの時間を 過ごさねばならんのかと思うと。そりゃ知的な意味では面白いが、 私は基本怠惰だし、新鮮な体験が大好きというわけでもないのである。

というわけで、GDCは行くことになった。

2012年02月12日

安納芋を20kg買った。普通の芋と違いすぎて扱いが難しい。 最初ウォーターオーブン110度で加熱したらベチョベチョになった。 元々水が多すぎる。次に半分に切ってからオーブン150度で60分加熱したら、 水の蒸発が早すぎてデンプンがアルファ化しないままに固まった。 これはこれでシャリシャリして食べやすいが、本来の味ではない。 それで今日は切らずにオーブン170度で90分加熱したところ、 今まででは一番マシな仕上りになった。 とはいえまだ水分が多いので、半分に切って干している。 とにかく水分が多いので、ウォーターオーブンは使えない。 ほどほどに蒸発してほしいのだが、切ってしまうと普通のオーブンでは 蒸発が速すぎてアルファ化できない。 切っても温度を低めにすればアルファ化する時間が稼げそうだし、 あるいはある程度切らずに加熱した後で切って追加加熱して蒸発させてもいいだろう。 とにかく、あんまりネッチョリしていると味も薄まるし、食べにくい。 なるほど甘味は強いが、水分をある程度抜かないと甘味だけが突出して おいしくない。つまり、扱いにくい。 ただ、オタマは結構食べる。次はまたベニアズマを買うだろうが。

うちでは蒸しサツマイモを輪切りにしたものをビスケットもしくはクッキーと呼ぶ。 ミッフィーのアニメでビスケットが出てくるのだが、 あの絵柄なので単なる黄色い丸だ。オタマがビスケットビスケット言うので、 ちょうどそこにあったイモをビスケットと呼んでみたところ、良く食べたのである。 真相を知るのはいつになるかな。 オタマに砂糖の入ったものを食べさせたことは片手の指に足りないくらいしかない。 なお、安納芋はカロテンが多くて黄色いので、その意味ではビスケットには向いている。

原発を最初から作らない方が良かったかどうかについては何とも言えない。 そして、同じく爆発するならエネルギー資源が高くなるであろう10年後よりは 今の方がいい。 しかしそれはそれとして、悲惨だ。

町長さんはすね毛が抜けたとか鼻血が出るとか言っていたらしい。 それが本当なら、0.5シーベルトとかのとんでもない量の被曝をしたか、 あるいはもっと低くてもそういう症状が出ることがあるのかの どちらかということになる。 燃料ごと吹き飛んだとすれば、それくらいの線量を出す塵が降ってくることは ありえそうに思えるが、わからない。

現代社会は政治というものの適用範囲を超えてるんだろう。 経済的な統合によって世界どこでもある程度は同じ基準が要求される時代なのだから、 その分だけ政治の規模は小さくした方がいい。 自然原発みたいにデカいものは作れなくなる。 福島第一は過去に強い中央政府が存在したことの象徴になるのかもしれない。 100年くらいは今のまま放置されるのだろうし。

確定申告しようとしたら税額が増えたのでやめた。 予防接種しまくった割には医療費の総額が10万に満たない。 寄付控除を足してもなお微妙にマイナスだ。 確定申告しないといけない条件を満たしていないので、スルーしても適法である。 それにしても思うが、個人的なレベルでは脱税って容易なんじゃなかろうか。 仮に私に別のところで100万かそこらの収入があったとしても、 確定申告しなければそれまでだ。 役所は何らかの手段でそのことを知らねばならないが、 よほどの額でない限り役所にとっても割が合わないように思われる。

家計簿に記録。

土曜にヨドバシでDMC-FT3を見てきたが、結構FT1と形が変わっていた。 鼻水吸い機は見当たらなかった。

タコの刺身は醤油と酢とネギに浸してみた。 オタマの世話ですぐ食べられる保証がない時にはこの方がおいしさが 長持ちする。

医療費控除に関してたぶんうちくらいの額だと書類の提出は求められない。 裏を取っているとも思えず、微妙なインチキは簡単にできてしまう。 いいのかなあこの運用で。 もっと避け得ない方法で税金を取るべきではないのか。 その意味で消費税の方が良いように思われるが、 国の歳出は削るべきだと思うのでもし意思を示す機会があるなら増税に賛成はしない。

公園に2リットルのペットボトルを持っていったら、 オタマはそれを持って走りまくった。 100メートルでは済まない。 何が楽しいのかわからないが、それで疲れて良く寝てくれるならそれでいい。 家でもよくやる。私がペットボトルを持って走って玄関に置くと、 オタマがそれを回収しに来る。私は部屋に戻って待っている。 受け取ったらまた玄関に走る。これが数十回繰り返される。 疲れてくるとペットボトルのかわりにもっと軽い傘やほうきを持ってくる。

今日はそんなことを家でも公園でもやりまくった割に、21時を過ぎても 寝る気配がない。今はひつじことワールドオーダーごっこをしている。 ペットボトル運びは短期的には疲れて寝るが、 長期的に見れば体力がついて容易には寝なくなるという諸刃の剣である。 今日でようやくほぼ風邪が治ったわけだが、 体力が半端ない。2kgのペットボトルを持って合計200mやそこらは 楽に走っている。うちらにとっての2kgとはケタが違う負荷なはずなのだが。

部屋から玄関の端まで8mくらいはありそうだ。 これを20回走れば160mだ。公園の場合は1回で20m以上あって、 10回では済まない回数走った。ということは、少なく見積っても400m くらいは走っていることになる。その倍くらいあってもおかしくない。 こいつの身体能力は同世代の子供と比べるとケタ違いであるように思えるが、 それはおそらくうちらがこういう遊びをするように仕向けているせいだろう。 英才教育というのはこういうことを言うのだろうか。

体重は13.6kg。そこそこ順調だが太りすぎというわけでもない。 実際、見た目には前よりも細くなってきている。身長の伸びも速いのだろう。 そろそろ90cmくらいあるのではなかろうか。

googleのロゴの色を順番に言った。

「これなあに」と言うことを覚えた。

ペットボトルの重さを増やすか。2kg程度ではもう疲れない。 砂糖水だと3kgくらいにはなるが、 猛烈に衝撃が加わるので穴が空いた時のことも考えねばならない。 重心がガタつかない範囲で何かしらの固体を入れた方がいいのだが、 何かないかな。

オタマが大きくなった頃の日本はいい国であってほしい。 もし今一時的にうちらが苦労することでそうなる公算が高くなるなら その方がいい。 とりあえず財政赤字くらいはどうにかならんかなあ。 財政赤字によるクラウディングアウト (企業に回るべき金を政府が使ってしまうために成長が止まる現象) は起こっていないので問題ない、 という意見は多数見たし、そうなのかもしれんとは思うが、 この規模の赤字を出す状況が持続可能であるはずもなく、 どこかで辻褄を合わせねばならないということだけははっきりしている。 少なくとも国民貯蓄を上回る借金はできないのだ。 加えて急速に貯蓄は減っている。 今は国内消費率が高いとか言っているが、10年と経たずして 海外が持つ率が跳ね上がるのは目に見えている。 イタリアみたいに助けてくれるドイツはないので自力でどうにかするしかない。

2012年02月10日

オタマ動画を見ていて、やっぱりもうちょっと暗いところでも撮れるカメラ がいいなあと思った。 ノイズが半分になれば、シャッタースピードを半分にでき、ブレが半分になる。 CCDの受光効率って上がってるんだろうか。 選べる範囲を考えるとサイズは1/2.3インチから動かないだろうし。 裏面照射CMOSはいいと聞くが、webのレビュー記事に貼ってある写真を見る限り あんまり絵がいい印象は受けない。

ある画素は赤だけ、ある画素は緑だけ、みたいな感じで光を受け取っているので、 その画素に関しては赤以外、あるいは緑以外の光は全部捨てている。 そういうものか。

鼻水吸引器の効果が薄い。ないよりずっといいが、 ちょっと詰まった状態になるともう無理だ。 「ママ鼻水トッテ」は良く出来てはいるんだが、何分吸引力には限度がある。 電動のすごいのはさすがにやりすぎだよなあと思いつつ、 調べてみると6000円くらいの手頃な奴もある。 それ以外は2万超えでデカい。 鼻水タンクが500mlとかあるが、そんなに溜めないだろ一般家庭。 冬が終わればいらないわけで、買うにしてもその6000円のが限度だろう。

にしても、電池2本で動くモーター程度で、口で吸うより強い力が出るのだろうか。

2012年02月09日

朝、口の中が苦い。なんか寒い。

参考になるかもしれないのでうちの電気使用量を書いてみる。
123456789101112
2010--154126121105172205243169137153
2011220307230160150137177196249170160164
2012267

150で3400円、200で4300円、260で6000円、というあたり。 今月は6700円もかかっている。 オタマが起きて遊んでいる間はそれなりに暖房しているのでやむをえない。

2012年02月08日

我ながら仕事が速いな。途中一回もビルドせずにシステム 全体のAPIをまるごと乗り換えて、 ビルドが通るところまで直して、動くようにする、 みたいな真似が二日ちょいでできるようになったわけだ。 一つづつ着実に進んでいくのが良いと言われるが、 実装とテストが交互に繰り返されると 脳の切り替えオーバーヘッドがかさんで無駄になるので、 私の場合は実装が可能な限り実装してからテストに移る。 その結果数千行書くまで一度もビルドしないなんてことはザラだ。 あまり人に勧められるやり方ではないし、 全体の複雑性が高かったり、 テストする時に実装時の記憶が強く残ってないと効率が悪い時には 途中でテストを挟むこともある。 しかしそのへんの塩梅は完全に気分だ。やっぱり私は向いてるんだろう。

ゴミを出しそこねたらひつじこがすごく不機嫌になって参った。 いいじゃん一回くらい。 すでにたたんで玄関に置いてある段ボールを捨て損ねたからといって さして困るわけでもないのだから。 仮に段ボールが邪魔であったとしても、 毎週一回しか出せないこととうちの通販頻度を考えれば、 平均的には1から2個の段ボールが捨てられずに家にある状態で、 今日それがゼロになってもすぐにまた新しい段ボールは来るのだ。 が、まあ問題はそういう実際上のものではなく、 「ゴミとして出す予定のものを出せずに家にある」ということ自体、 あるいは「果たすべき仕事を果たしていないこと」 に対する不快感かもしれない。 私は段ボールが多少溜まってもなんとも思わない性分だし、 段ボールを捨てることをそう重要な仕事とも思っておらず、 果たすも果たさないも比較的どうでもいい。 要するに、単に性分が違うというだけのことである。 しかし、そのへんの理不尽さが人間なわけで、 まあ仕方ない。ずいぶん真面目に育ったんだんだなあと毎度感心してしまう。

つうか、捨てて欲しければ言ってほしい。 どうでもいいと思っている以上、自発的に気づいて捨てられる確率はそう高くない。 ひつじこがそういう性分であることは前から知っているので 気がつけば捨てるようにはしているが、今日の場合は水曜日であることすら 気づかなかったのである。そういうことはいくらでも起こる。 そもそも、ゴミ捨てが私の仕事と決まっているわけではなく、 私がやる率が高いというだけのことなのだし。

共感が問題なんだよな。よく男女の違いと言われることが、 これに関してはよく当てはまる。 私は共感なるものを求めていないんだろう。 「段ボールが残ってると嫌だよね」と言われても、特にそう思わない以上、 私を納得させるには実害があることを示すしかない。 しかし、根本的な問題が気分や性分にある以上、 無理をして実害を探そうとしても単なる脱線にすぎず、余計に事態が悪くなる。 私が「なんで?」と聞いた時に、明らかな実害があるわけでもないことであれば、 「嫌だから」と言ってくれればそれが一番いい。嫌なものは仕方ないからだ。 あとは思いやりの問題である。ひつじこが嫌なのは嫌なので、 気づく範囲ではどうにかしたいと私も思う。 ただ、それはひつじこのためを思うからであって、 段ボールが家にあるのが嫌だからではない。 行動までに1クッションあるわけで、意識が届かないことはある。 確率の問題と思ってもらうしかない。 私が「段ボールが残ってると嫌だよね」と言われて 「オレもそう思う」と答えることは、たぶんない。

我ながらどうかとは思うが、たぶん変わらないだろう。

それにしてもオタマの相手は大変だ。それは間違いない。 そして、私の仕事が大変かどうかはひつじこには見えないが、 オタマの相手が大変なことは私にも見える。 前も書いたが、この非対称性があることはよくよく認識しておかないといけない。 私がいかに会社で精神をすり減らしたとしても、 それをひつじこが実感をもって理解することは難しい。 もし私が家にいてひつじこが外で働いていれば逆だっただろう。 そして、仮に共働きになったとしても完全には解消しない。 同じ職場で働いている夫婦はこのへんが簡単なのかもしれないが、 きっとそれはそれで苦労があるんだろう。 周りに何組かいるが、どうなんだろうな。

ちなみに、結婚する前は缶が一個しかないような時には出さなかった。 缶一個でも袋に入れて出すわけだが、 ゴミ収集の人はいちいち袋から出して分別している。 したがって、少量で出すほどゴミ収集の人の手間を増やすことになる。 私にとっては家にゴミが置きっぱなしになることの不快さよりも 誰かの仕事を増やしているという感覚の不快の方が大きい。 昔はカビたり腐ったりしない缶や瓶はそれなりにたまるまで放置していた。 今はもちろん出しているが、捨て場にある他の袋に合流させたりはする。

仕事の難しさが技術的なものだけだったらどれだけ楽だろうと思うが、 そうなったらそうなったで一人で何もかもせねばならない圧力で大変なのだろう。 本の時は結構しんどかった。 せっかくなので、人と協力して何かを作っていくということについて もっと真剣に取り組んでみたい。 「組織で成果を出す」という奴だ。 しかしそれはそれとして、末端の技術者としてはその専門に集中してこそ 成果が出るわけで、具体的に何をどうするかと言われると結構困る。

昨日今日と37.8度くらいある。腰まで寝袋に入って仕事していた。 明日には下がるといいんだが。

2012年02月07日

37.8度。でも午後から働く。そういや確定申告せねば。日曜だな。

私の本が裁断器のパワーを人に説明するのに使われていて面白い。 「Unity本なら一撃、セガ本でも2回で行ける」みたいな。

アンパンマンの教育ビデオの類が山ほどあるが、 これ、やなせはノータッチだろ。 苦々しく思っているのか、無関心なのかは知らないが。

宮崎から原木干ししいたけ1.5kgを9000円で買った。 これは当たりだ。

人間力ってのがあるんだなあと思う。 人と相互作用する仕事ほどそれが重要になり、かつ鍛えられる。

2012年02月06日

オタマ機嫌悪いなあ。外に行ければいいんだろうけどなあ。

テルマエ・ロマエはひどく蛙男だった。なんでみんな前向いてるんだよ、 と突っ込みたくなる素敵な構図。 でも背景とかはプロなわけで、 そんなに金がかかってないわけでもないんだろうな。たぶん。

風邪はマシになってきた気がしていたが、 こうして23時を超えてくるとさすがに目の奥が熱い。 のどもまだダメだ。 今日はさっさと帰れば良かったと思うが、 仕事がゴツすぎてそうも行かない。 さてどうやって仕事量を削ったものかな。 とりあえずは全体像が見えてくるまでは このままやらざるを得ない。 全体像が見えてくれば心理的には楽になる。 どうにか今月中にそうならないだろうか。 とりあえず今やってる単純作業さえ片付けば 多少は楽になるはずなのだが。

単位時間あたりの仕事量を増やす、 ということに関して言えば望みは薄い。 ほとんどすべてにおいて勉強と並行しているため、 変に手を抜くと土台が揺らぐ。 理屈を納得してからじゃないと先には進めない。 今までさんざん犯してきた愚をまた繰り返すわけにはゆかない。 労働時間を増やす、ということに関しても望みは薄い。 ひつじことオタマがいるし、これ以上は体力的に持たない。 どうにかせんとなあ。

他人が作ったライブラリの使い方を調べて覚えて試して組み立てて、 という作業はまったくもって単純作業だな。 数年前は単純作業とは感じなかったわけで、それがここ数年の修行の成果ということだろう。

そういえば、そろそろOpenGLやらDirectXやらの知識を更新しておくのは 悪い選択ではないんだろうな。なにせDirectX9で止まっていたわけだから。 今のバージョンに慣れておけば、また10年くらいは変わるまい。 次に変わる時は全部がソフトウェアレンダラーになってるといいな。 そうすればまた少々面白い勉強ができる。 とにかく、他人が作ったハードの仕組みにあわせて他人が作ったライブラリの使い方を調べながら 仕事するのはいいかげん飽きてきた。 まあ飽きるほどやったおかげで仕事は速いんだが。

2012年02月05日

誰もやったことがないもの、誰かがやったことはあるが 実戦投入された実績がないもの、すでに誰かが実戦投入したことがあるもの、 本その他で当たり前に説明されるくらい枯れているもの、 そもそも買ってくれば良く自分でやる必要すらないもの。 どのレベルの技術を投入すべきかは、 その分野がどれくらい重要かで異なる。 そして重要だと思っている分野は、その組織が得意とする分野であるはずである。 であれば自然に前の方の選択肢を取るのが合理的になる。 逆に、重要だと思っていない分野ほど組織としては苦手なはずなので、 後者の技術を投入するのが合理的になる。 問題は今まで重要だと思っていなかったが急に重要になったものと、 今まで重要だと思っていたがもはや重要ではなくなったものだ。 急に重要になっても誰もできない。時間と金をかけてそれを 得意にする算段をせねばならないが、 得意でないことで勝負するほど馬鹿なことはない。その選択はたぶん間違っている。 どこまで安いやり方で合格点を取れるかと考えるべきだ。 受験で満点を取っても意味がない。受かるギリギリを取ればそれでいいのである。 急に重要でなくなった場合も悲惨だ。「君のスキルはいらない」ということになる。 今まで評価されてきたものが評価されなくなる。 しかし、その転換を行えないままズルズル行くよりはマシだろう。 はっきりと「もういらないんだ」と言った方がいい。 そして実はもっと問題なケースがある。 重要で得意だと思っているが実は得意でないケースだ。 得意でないので、そこでがんばるのは無理がある。 にも関わらず重要だということ余計にがんばりを期待される。 なんだかんだ言って組織は所詮人の集まりなので、 重要かどうかを判断する人と得意かどうかを判断する人が食い違うことは多い。

組織としての得意さ、ということかどういうことかが最近わかってきた。 それは客観的に評価できる。かけている金の割に結果を出していることが、 得意なことだ。同じ水準の結果を出している企業が二つあった時、 より安くできている方が得意な企業だ。 「なんで他の会社ができないのかわからない」と思うようなことが 得意なことだとドラッカーは言っていた。 それは間違いなくかかる金の安さとして現れる。 多量の金をつぎこんですごい結果を出している企業と、 大した金をかけずにそれなりな結果を出している企業の どちらが「得意」かは必ずしもわからない。

合格点を取ればそれでいい分野と、 可能な限り上を目指す分野は分けた方がいい。 そして、楽に合格点を取ることに長けた人間と、 ひたすらに上を目指すことに長けた人間は大抵異なる。

いや、だからwebゲーなんてやってるヒマないって。 これだけ無視してるのに何故お誘いが来るのか。 システムが勝手に出してるのか。

全く動けないというレベルの風邪でもなく、 「可能な限り動きたくない」というだけのことだ。 明日が雨なら洗濯はせねばならないだろうし、 料理も必要なだけはせねばならない。 それを犠牲にしてまで寝かせろと言えるほどの 重症ではないので、とてもそうは言えない。 寝てたからといって早く治るというものでもないだろうし。

加えて、寝るとは言っても、完全に睡眠というわけには行かないわけで、 本を読んだりネットを見たり文章を書いたりという状態になる。 それは普段元気な時に遊んでいるのと区別がつかない。 その脇でひつじこが洗濯したり掃除したりオタマと遊んだりするとなれば、 私だって申し訳ないし、 ひつじこだって「手伝えよ!」と思わざるをえないだろう。 そういう意味でも、やはり寝かせろとは言えないし、無理だ。 隣の部屋に布団を敷いて解決するものでもない。

根本的にひつじこは働き者で、「一日中本当何もしないでゴロゴロしている」 ということができない。私はそれができる。 働く時の集中度はそこそこ自信があるが、 それは働かない日の徹底的なダラダラとセットであり、 「軽作業が絶え間なく続く」状態に耐性がない。 自営業の娘と、サラリーマンの息子の差か。 ここ数年はたかだか一日10時間程度しか働いていないので 休日に昔のような休み方ができなくてもどうにかなるが、 体調が悪いと少々きつい。 ただ、きついとは言え、全く無理なわけでもないのが逆に面倒だ。 さっさと治すためにも休んだ方がいいんじゃないかと思いつつ、 休めば治るという保証もないわけで、 単に今ダラダラするための方便とも言えなくはない。 いっそ熱が39度くらい出て立ってられなくなるくらいの方が わかりやすいんだが、たぶんこの感じだと37度半がせいぜいだろう。 これくらいなら動けるし、実際今日も 玉ねぎとにんにくを炒めてレンズ豆とじゃがいもを入れたスープを 作ったりした。

というわけで、おおよその家事が終わって、 オタマが眠くなりそうな感じになってから会社。 つい働いてしまうが、少なくとも体は微塵も動かさずに済む。 指先だけ動かしている程度なら気功の真似事もできるし。

シュークリーム買って帰った。

2012年02月04日

今日も炎症の痛みはピークのままだ。

仕事の課題が山積みすぎて眩暈がする。 全くできそうもないことは一つもないが、とにかく数が多い。

他の誰かがすでにやっていることだからといってすぐできるとは限らないのだがな。 確かに思いつく必要がないだけで格段に楽ではあるが、 しかし理解して再現するだけでも結構な手間になる。

2012年02月03日

夜中オタマはゲロ吐いたり泣いたりでさんざんだったが、 今起きたら元気にしゃべって遊んでいる。 一方私は風邪が猛威をふるっている。 炎症がピークだ。いつも通り推移するなら、 この後炎症がのどに広がって咳とたんが出るようになる一方、 痛みの強さそのものは引いていく。

会計ってなんぼでもやりようがあるよな。 会社を評価する基準としてバランスシートなどの会計上の数値 は使いものにならない、という主張を読んだことがあるが、当然だろうと思う。

しんどいなあ。かといって会社休んだところで何が変わるわけでもないしな。 消耗度合は家にいる方がむしろ大きかったりもするし。 熱が上がらない以上インフルエンザではありえないし、 咳もくしゃみも出ない。

2012年02月02日

家電と化しているPCを修理に出している間、 いつも私が使っている奴が家電になっている。 そのため、日記がなかなか書けない。

私にも風邪が来た。鼻と口の連結部分が炎症を起こすいつものパターンだ。 たぶんすでに熱は出ている。 これ、うがいが習慣化していればかなり防げるんだろうけどなあ。 これから年を取るほど風邪のダメージは大きくなる。 今のうちにそういう習慣をつけておくのは悪くない。よし、やろう。 紙にうがいと書いて台所に貼っておく。

政治的なセンス、つまり ある発言や決定に誰がどのような利益不利益を受けるのかを把握し、 さらには、そういった発言や決定に対して誰がどのような印象を持つのかを予測 する能力が絶対的に必要だ。その能力が欲しい。 日本はとりわけそうだと言われるが、程度の差こそあれ世界中どこでも同じだろう。

結局権力が必要なんだなあということが今更ながらにわかってきた。 いや、権力というよりはむしろ権威か。


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