だだもれ

2011年08月31日

文章を増やしていたら。80ページを超えた。 長いので、最後に要点をまとめた章を足す。

結婚て何だろう。

結婚は、二人が幸せにならないと成立しない。 一人でいる時より幸せにならない限り意味がない。 そして人は自分を不幸にする権利は持っているが、 他人を不幸にする権利は持っていない。 だから、結婚によって相手が不幸になればそれは罪であり、 よって相手を幸せにする義務を負う。 片方でもその義務を怠れば、結婚は終わる。 実際に終わるかどうかは様々な状況によって違ってくるにしても、 少なくとも心の中では終わる。

この人のために何かをしてあげたい、という動機で結婚するべきで、 この人に何かをしてもらおう、という動機で結婚すれば、たぶん 結構な確率で失敗するんだろう。 「何のために結婚したと思ってるんだ」なんていう思いが出てきたら、 それはもう心の中では結婚が終わっていることの証になる。 損得で結婚する人は損得で別れるはずで、両方がそうなら問題はない。 しかし、片方だけが損得で結婚していたり、 自分が損得で結婚していたことに気づいていなかったりすることが不幸の原因になる。

もっとも、この人のために何かをしてあげたい、と思えなくなるのは、 すでに相手が裏切っているからなのだとひつじこは良く言う。 好きだったはずの人が好きでなくなるのは、好きだったはずの人に 裏切られる経験が重なったからであることが多いのだろう。 そうでもないのに好きでなくなるのは、 たぶん元々好きではなかっただけなのかもしれない。 単に顔が気に入ったとか、相手と一緒にいることで得られるものが魅力的だった、 とかいうのは、好きとは少々違う。 いろんな好きの形がある、という意見もあるだろうが、 そうであれば、「結婚には向かないタイプの好き」と言えばいいだろうか。

私は未だに好きという言葉の意味はよくわからんが、 ひつじこが幸せにならなければ私がここにいる意味がないのは確かである。 がんばって長生きせねばな。 今日は急に夕飯がなくなってしまったので、スーパーで買い物したついでに 安売りしていたドーナツを買ってしまった。懺悔する。体に悪いものを食うのはダメだ。 残った奴は捨てよう。というか、マズすぎて食えん。

オタマすごいな。家から公園まで歩いたか。

自分が移動したい時、というのは少々穏やかな表現で、 「その状況を逃れたい時」の方が実際に近い気がする。

引越し準備中に頭を打って死んだ少女漫画家がいた。 そんなわけで、ひつじこが心配で仕方ない。 ぶつけた箇所と角度、ぶつけた物からいって大丈夫だとは思うが。

SSDに換えたら速くなって電池のもちも良くなるんだろうか。X201s。 今見たら使用容量が43GBだった。64GBでは少々不安だから、128GBになるが、 2万くらいする。もうちょっと我慢するべきか。 と思ったら、いらん動画が結構占めてて、捨てたら36GBだった。 64GBでも大丈夫と言えば大丈夫か。 どうせデカいものはサーバに置くわけだし。1万円か。悩み所である。 また1から環境構築せねばならんしな。まあ入れたものはメモってあるので 大した手間ではないが。

2011年08月30日

文字数をごっそり削って、時間があふれそうな分をおまけに回した。 こんなもんかなあ。

トイレに「イノベーションと企業家精神」を置いているが、 この本おもろすぎだ。どこをめくっても使える。

さて、オタマがんばれ。というか、がんばらなくてもいいが。 しかし、無駄な抵抗を10分も20分もし続ける体力は素晴らしい。

眼科とか歯科の看護師はギャルにしか勤まらないのだろうか。 私が矯正で通った歯医者も、たまたまオタマを連れて行った病院も、 看護師はかなりギャルっぽかった。一体どういう目的でああいう化粧をしているのか。 そこに気合を入れても患者のためにはならんだろ。 しかし一方、ひつじこが前から通っている眼科も、 今日オタマの手術に連れて行った眼科も看護師は地味だった。 看護師が地味な病院は印象が良い。 そもそも、ギャルな看護師は若いわけで、若いのしかいないと スキルに不安を感じてしまう。

つうか、矯正歯科のあれはたぶん看護師じゃなくて医者だよな。衛生の人とか。 口を開いて何かされている間、ヒマなので化粧を見ていた。 マスクをしているので目の周りだけだが。 うまい下手もわかるし、おおむね意図もわかる。 以前の仕事でシェーダをやった時に そのへんの人の顔を観察するクセができてしまい、それがまだ続いているのだ。 「あー、ジオメトリがこうだからテクスチャでこう見せたいのな」みたいな。 「おいおい、ライトこっちにあったら矛盾しちまうぞ?もうちょっとバランス取れよ」 みたいな感想を抱くことも多い。斜めから見ると凹凸と陰影が矛盾する人もよく見る。 鏡だと正面しか見えないからそうなりがちなんだろう。 ケバく見える人というのは、化粧の濃度以上にそこが間違っているから であることが多いような気がする。

ひつじこは全くしない人だが、私は身近な人にそんなことは求めていないし、 むしろされてもうっとうしいだけなので実にありがたい。 良く生きるのに必要でないことはしなくてよろしい。 健康にも悪い。日常的に化粧している人の皮膚は大抵ひどいことになっている。 まぶたの皮膚の痛み具合などはもう見ていられない。 うまい人はそのへんもうまく処理しているようだが、 大抵の人はそこまでうまくはないし、 しない方がマシな人もかなり見かける。 そこに資源を割くのを思いきってやめた方がいい。 まして、それに楽しさを感じていない人はなおさらやめた方がいい。 楽しくないことは上達しない。上達しないことはやっても良い結果をもたらさない。 ひつじこもかなりヘタクソだ。

でも紫外線の防御くらいはしてほしいんだけどな。あと、顔くらい洗おうぜ。

オタマは20分泣き続けたが、無事管が開通した。 今回はうちらは部屋の外でオタマの声を聞くだけだったので、 何をしていたのかはわからない。ただオタマの声だけが響いていた。 終わってしばらくは泣きまくりで、白衣の人を見ると激しく吠えかかる 状態だったが、病院を出てしばらくすると落ちついて 弁当に持っていったイモを食べまくった。

白衣は敵であることを学習したようだ。今日は白衣を見た瞬間に吠えた。 あの20分を経て、その確信はますます深まったようである。

ともかくも、これで目薬をささずに済む。2日に開通を確認できればおしまいだ。

ちょっと会社に行ったが、いきなり寝た。起きたら夕方だったので帰ってきた。 資料の直しは明日だな。疲れてるんだろう。

モンドセレクション銀賞とか書いてあるパイナップルがあって 450円と高くはなかった。色は全体に黄色く、大丈夫そうな気はする。 というわけで買ってみたのだが、ちゃんとうまかった。 三人で一個食った。 仮に450円のうち50円がモンドセレクションのコストだとしても、 それで品質の保証がされるなら高くはない。298円は危険か。

2日に病院に行くが、どうも台風らしい。まあ気合で行くしかないな。

原発で急性白血病で死亡とか。仮に放射線のせいじゃなかったとしても 誰も信じないだろう。しかも東京電力は 「放射線のせいじゃないから調べない」 なんて言ってしまっている。隠してますと言わんばかりである。 しかし実際問題相当な線量を浴びない限り一週間で死ぬような状況には 至らないし、死ぬにしても白血病では死なない。 教科書の知識の範囲での話だが、大量の放射線を浴びた死に方には見えない。 ただ、多くの人はそんなことは知らないわけで、 東京電力は自分の立場を良くする努力をする方が身のために思える。 長年の独占で腐った企業というのは、そういう当たり前に思えることを できなくなってしまうのだろうか。 まったくもって独占は企業自身のためにもならないのだな。

うさぎドロップ8話。なんか大きくなってる。いい話。

2011年08月29日

26日はオタマの涙の管が鼻につながってない疑惑をはっきりさせるために 千葉の病院まで行ってきた。ひつじこが昔お世話になって信頼できるという ことだったからだ。で、タオルでぐるぐる巻きにしてマウントポジション という体勢で押えつけつつ目を開いて管に水を入れて鼻から出てくるか調べてみた ところ、通ってないことがはっきりした。 30日に別の病院へ行って開ける手術をしてもらってくる。 手術といっても一瞬で終わる類のものだが、 また同じようにマウントポジションで押えつけるのだろう。 もう少し小さいうちにやっておけば簡単だったのだが、 ほとんどはマッサージしていればそのうち開通するという話を真に受けて 放置してきてしまったのである。 時間が経つとどういう問題があるのかを調べて、 放置する期限を前もって決めておくべきだった。 問題は放置すると何が置こるのか、いつまで放置しても害がないのか、 放置せず解決する際のコストはどうか、ということを検討するのは基本だよな。 ぬかった。ともかくも、30日に手術で、2日に結果確認。 会社は休む。CEDECの準備がいきなり2日減ったので、 今日と明々後日で完全に片づけないといけない。

元々、オタマとひつじこは30日まで松戸にいる予定だったのだが、 いろいろありすぎて結局帰ってきた。 オタマがあまりに落ちつかない、というのが最大の原因。それだけではないが。 本当、ひつじこはよく30年も生きてこられたもんだ。

うさぎドロップを7話まで見た。本当、良く出来てるな。 7話のハルコの旦那が車で時計見てたりするあたり、 よほど怨念がこもってないとそういうのは書けないのではなかろうか。 1話でも構図で人間関係をほのめかしてたりして素敵だった。 原作のコマ割りなのか、アニメの絵コンテなのかはわからないが。 ともかく、ひつじこに怨念がたまらないようにがんばろう。 ちなみに、他の夫婦に一定以上の差をつけておこう、 というのは当初から思っていた。 とりあえず買い物と料理は私の仕事である。 単純に私ができる状況にあって、かつ私の方が上手だからなのだが。

ソードアートオンライン8。なんか読んだ話だなと思ったら、 この最初の話はwebで読んだわ。

にんにくと一緒にりんごジュースを箱で買った。 ストレート100%。味が極上品なのは前回で確認済み。 1Lを6本。2900円。誰か買うだろうと思って多めに買ったが、 まあ誰も買ってくれなくてもかまわない。飲むし。

2011年08月25日

ゲートの2巻を読んだ。待ち時間に読み始めて、 気がついたら読み終わっていた。さすがにまずいが、まあ仕方ないな。 なるほど、自衛隊が圧倒的、という前提でもこういうゆうに話を進めれば 面白くなるのか。 そして恐ろしく細かい自衛隊描写。さすが元軍人が書いているだけはある。

それにしても、萌え要素的な記号がこれだけ沢山、 それもあからさまに入っているのに、 これほどまでにそれがどうでもいいというのがすごい。 主人公の周りの美少女キャラ共が本当にどうでもいい。 主人公を行動させるための道具以上の価値を感じない。 特に金髪エルフ。長門もどきも長門並に便利キャラだし、 強いていえば不死身ゴスロリが一番か。 無理なキャラ立てのためにしゃべりがウザすぎて辛いというハンデを背負っているにも 関わらず一番おもろく魅力的だ。

CEDECの資料と講義をもう一段練り上げねばならんわけだが、 本業がそこそこ忙しい。 しかし読みを誤った過去の自分のせいだ。仕方ない。 まだまだ処理不能なレベルではないが、 ピアノが犠牲になるレベルになはっている。 11時までに帰れなければピアノは無理だ。 まあ今日はゲートのせいで仕事のせいではなく、どうしようもなく自業自得なのだが。

久しぶりに自分の本のアマゾンレビューを見たら増えてた。 そして、12人中一人だけ3をつけていた。 ドラッカー的には意見の相異があることはチャンスだ。 何か違う現実を見ている人がいる。 でも「DirectXとwindowsで作る本で、AndroidとOpenGLでは使えない」 というようなことが書いていて、読んでないだけっぽかった。 どっちでもねえよ。何なら今すぐOpenGL+Android版を作ってやろうか。 というか、内部実装をOpenGLにするだけなら三日あればできる。 つうか、2010対応が放置状態なわけだが、 もし今からやるなら中身ごっそり書き直すよな。 少なくともモジュール単位には割らない。無駄すぎる。

ヤマト運輸が自動車を買ってきて輸送に使うように、 ゲーム会社もライブラリだかゲームエンジンだかを買ってきて使える 時代になっているんだろうか。 間違いなく言えるのは、そうした方がいいゲームの割合は増える一方である ということだ。CPUを作れる会社だけがコンピュータを作れた時代は 確かにあったが、過去のことである。 エンジンを作れないと車が作れない時代ももうすぐ終わる。 エンジンはなるほど複雑だが、モーターになってしまえば インターフェイスは恐ろしく単純化し、規格化される。 現在有象無象のPCメーカーがいるのと同じように、 有象無象の車メーカーが乱立して値下げチキンレースを演じるのだろう。 買ってきて入れるには、その部品が規格化されていなくてはならない。 規格化できるくらいにインターフェイスが単純化されていなくてはならない。 ゲームエンジンのインターフェイスはいかにして規格化されるだろうか。

ゲームエンジンを作るのに土地も資源も資本も必要ない。 優秀な奴が5人いればそれなりな機能をもったものを作れる。 Intelに対抗して今からCPUを作ろうと思うのに比べれば、 Unityに対抗して今からゲームエンジンを作ろうと思うのはそれほど無茶ではない ように見える。 しかし、人材ほど貴重な資源もない。土地も資源も金も自発的に何かを 生み出すわけではないが、優秀な人材は土地や資源や金を生み出すことができる。 「優秀な奴が5人いれば」は「1億円あれば」と同じくらいに無茶な望みなのかもしれない。

この話題はおもろいな。

誰が見てもコケそうなデカいプロジェクトがしばしば現れる。 不思議だ。コケれば損をする。何故損をするようなことをするのかと思う。 やってみたら売れなかった、というならまだしも、 10人中8人が「ないわー」と言うようなものが世の中にはいくらでもある。 これを説明する理屈が、ドラッカーを見ていてわかった。 そのデカいプロジェクトが二つの団体の共同で行われるとする。 そして、片方が何かを発注し、片方が受注するとする。 受注した側がもらう報酬が、成功失敗に関係ない、あるいは関係が薄い 契約になっていれば、受注する側は成功するか失敗するかを気にする必要がない。 なので、このプロジェクトに関して早くも半分の人間が成功失敗に興味がない 状態に陥る。そして、発注側も中は二つに分かれていて、 片方が発注側、片方が受注側だとする。一つの会社でも細かく見ればこう分けられる。 例えば社長が最終的な金の責任を持つ発注側で、プロジェクトのプロデューサの 人が受注側だ。プロデューサの給料に成功失敗で大きな影響がないとすれば、 プロデューサはあんまり成功失敗を気にしなくなる。 というわけで、3/4が成功失敗に興味がなくなる。 これをくりかえせば、ほぼ全員が成功失敗に興味がなくなることになる。 いやそんなわけないだろ、と思うかもしれない。 まず、受注側が成功失敗に関心を持つ必要がない状況なんてありえんだろ、と普通は思う。 しかし、これがそうでもない。 例えば受注側が特別なスキルを持った集団で、そのスキルを買われて受注するとする。 受注側はスキルの対価として金をもらうのであって、 プロジェクトの成功に対して金をもらうのではない、という場合はありうる。 たぶん受注側は買われたスキルの限りを尽して物を作るだろう。 しかし、それでもうかるかどうかは二の次になる。 例えばすごいCGを作ることを期待されれば、すごいCGを作るだろう。 しかしそれで売れるかどうかは別問題だ。 物作りはいろんなスキルを持った人や集団が協力して行うわけで、 それぞれの人や集団はそのスキルを買われて仕事を受け負う。 そのスキルに関する部分には責任を持つが、 彼等全員が自分のスキルに責任を持っていいものを作ったとしても 売れるかどうかは定かではなく、また、 彼等は自分の責任を果たすことには熱心であっても、 売れるかどうかはあまり気にしない。

これを防ぐには、関わる全員を、もうかれば得をし、もうからなければ損をする 状況に置かねばならない。 でなければ各人のモラルに期待して祈る以外のことができなくなる。 組織が大きくなるほどこの問題は大きくなる。 何か手を考えておかねばならない。祈る以外の手をだ。

マネジメント下巻。多角化の話。技術を他の市場に応用する。 いつもの市場に違う技術を投入する。 多角化にはどちらかしかないが、大抵の人は前者しか考えない。 後者は技術が社内にないので買ってきたり提携したりせねばならず、 結構な大事になるからだ。しかし、 お手軽でしかも堅く見える前者もそうそう簡単には成功しない。 新しく参入する市場にいる客が何を求めているのかは簡単にはわからないからだ。 安くて丈夫な服を作るメーカーはなるほど服を作る技術を持っているが、 デザインを求める市場で成功するのは難しい。 「あとはデザインを足すだけじゃん」と思うが、 客はデザイン以外を見ておらず、安いかどうかも、丈夫かどうかもどうでもいい。 かくして、元々持っている技術が根本的に役に立たず、 技術も市場も未知ということになる。当然失敗する。

既存のゲーム会社は今この問題に対してどうするかを問われている。 据置きで豪華なゲームを作ってきた会社が、使う技術は同じだろと 思って携帯機に参入したら、携帯機の客は豪華さなんて求めてなかった、 という事はすでに一通り起こった。 ソーシャルやら携帯電話なりでも同じことが起こっている。 まさにこれから問題になる。 また、多角化にはもう一つ重要な要素がある。 「新しく参入しようとするものに本気になれるか」という問題だ。 ソーシャルゲームに本気になれる人間を確保しなくては 当たり前のことだが成功することはない。 現場はうまく分業を生かせば全員が本気でなくても どうにかなるかもしれないが、少なくともトップは本気でなければ成功はおぼつかない。 過去の成功体験が大きければ大きいほど、本気になるには時間がかかる。 悪くすれば過去の成功体験を持つ人間が全員退職した後になることすらありうる。 もちろん、市場はそれまで待ってはくれない。 しかしこの問題は、参入を別会社かそれに近いものに分離して行うことで かなりの部分解決できる。本気になれる人間だけを集めればいいだけのことだ。 そこのトップに権限と資金を与えることをケチらなければいい。

たまたまもうかる技術を開発してしまったが、その技術が対象とする市場が未知 だったり、その技術を市場に届けるノウハウがなかったりする場合、 合弁するなり、技術を売るなりした方がいい。 自力でやれば失敗する。

例えばたまたまプログラミングの教育方法を確立して金になるとわかったとしても、 教育に本気になれるとも思えないし、既存の事業とも調和はしない。 とするならば、そういう技術は売り払うなり、それに本気になれる人間だけを 分離するなり、教育にノウハウを持つ会社と組むなりしろ、ということだな。 私の本は最後のパターンだと言えないこともない。 出版社と合弁したわけだ。

例えばライブラリを作ったとする。 これで多角化する場合、ゲーム会社にライブラリを売るという事業になるだろう。 技術はあるが市場が未知、というパターンだ。 市場をよく見る必要がある。 本業の一環でやるには馴染まない場合や、 独立させて好きにさせた方がうまく行きそうな場合は、 ライブラリ部分を分離独立させる手がある。 もう一つは合弁する手がある。 どこかゲーム会社を市場として持つ企業と共同でやる。 相手のノウハウが確かで、 一緒にやっていくことにリスクがなければ、分離よりもダメになるリスクは低い。 ただし、一緒にやっていけないくらい文化の違いがあったり、 相手が持っているノウハウが実は役立たずだったりすると面倒である。 利害がこじれて面倒になる可能性も高い。分離してしくじれば再吸収するだけだが、 合弁で失敗するとそれすら面倒になる。 あるいは売り払う。うまく行こうが行くまいが知らん、 というような重要性の低いものであればこれがベストである。 もう社内ライブラリは使わないでUnity買うからいいよ、というようなケースだろう。

今持っている市場に別の技術を投入したい場合は買収するか、 自力で開発する必要がある。大抵の企業はどっちかしかできないらしい。 両方得意な会社はまずないそうだ。 googleはどっちなんだろうな。買収しまくってるように見えるが、 自力開発できない会社には見えない。 googleに買収された会社の社員はどういう運命を辿っているのだろうか。 買収した会社の社員がそのままいてくれるかどうかもわからない。 IT業界の類だとなおさらそうだ。 三洋電気の家電部門にいる人達はいったいどうなってしまうのだろう。 lenovoに売られたPC部門の人達は今も変わらない誇りを持って 働けているのだろうか。 とりあえず、X201sは辛いし、X220も満足のいくレベルではない。 どちらも一応高級機種のはずだ。もう5万積めば不満を削ってくれるというなら 喜んで出す、という客が多数いる市場の製品のはずである。 にも関わらずこれだ。

タブレットPCと、 それを斜めに立てるための部分がついたキーボードがあればいいのかもしれんなあ。 キーボードを必要とする人がどんどん減っているので、 ノートPCの市場は縮小せざるを得ない。 本気の高級品を出し続ける会社が一つくらいあってもいいと思うんだが、 難しいのか。 さて、次のオタマひつじこ用PCはモニタの大きさの問題さえなければ キーボードのないタブレット型で問題ないな。asusのEeePadとかでいい気がする。 2,3年後であれば性能上の問題もないだろう。

自転車が一台しかないため、ひつじこが乗る時に一緒に行く場合は 私は走ることになる。今日は1kmほど先の眼科まで走って行った。 私の自転車はあるにはあるが、 あまりに放置しすぎて乗れる状態にはない。 クロスバイクなので買い物等には不便であり、今となっては直す気にもならない。 横浜や秋葉原まで自転車で行く時間はもはや取れないからな。 ママチャリをもう一台買っておいた方がいいかもしれんなあ。 オタマを乗せずに移動するのであれば、私もひつじこも使える。

アルベルトロイヤルエイトという機種がどうも一番高いママチャリらしい。 8万とかアホかと思うが、私と違ってひつじこは物を大事にするので、 値段分ちゃんと働いてくれるかもしれない。 ベルトでステンレスなのは良さそうだけどな。錆びないだろうし。

「娘を嫁に出す時には、良い夫になる人間を探すより、 誰の良い妻になれるかを考えろ」という古いことわざがあるらしい。 会社の一部を売却する時にはそういう考え方をしないとダメなんだそうだ。 結局そういう相手が一番高く買ってくれるからである。

質的合弁と量的合弁。前者は両方が違うものを出して足すことで事業を成立させる。 後者はシェアが低くていつ消えるかわからなかったり、 規模によるコストダウン効果や資金が不足する場合に取る。 合併でも同じだな。 よくゲーム会社が合併やら買収やらをしてるが、 どういう思惑でやって、どういう結果になっているんだろう。

2011年08月24日

原発推進派に票を入れたくないという気分はあるが、 悪人と馬鹿のどちらを支持するかと言われれば悪人と言わざるを得ない。 また、なんぼ悪人が原発を推進したところで、 退役する数と同数の原発を新造することは到底できないように思える。 ここ20年くらい原発はほとんど作っていないため、 2020年か2030年には大量に退役してしまう。 それを補うほど新造するのはどう考えたって無理だ。 地震がなくても無理だったはずだし、地震があった以上余計に無理である。 しかも時間が経てば経つほど原発にロマンを感じる世代が消えていくため、 なおさら原発は作られなくなる。 政権を取るのが推進派だろうが反対派だろうが、 大差なく30年後には原発の大半がなくなっていることだろう。 というわけで、私は票を入れるのに原発賛成派か反対派かは あんまり重視しないことにする。 そいつの言うことがまともかどうか、人間として信頼できるのか、 ということを見よう。見てもわからんのだが。 できるだけマシそうなのに入れるのは国民の義務なのでやるだけはやるが、 そんなことに時間を使うくらいならもっと社会に貢献する時間の使い方が あるような気がしてくる。

たぶん今は1980年までに確立したものが崩壊している最中なのだろう。 原発にせよ、年金にせよ、農業にせよ、街の電器屋にせよ、 放っておけば人と一緒に古いものは消えていく。 人が消えれば組織や仕組みもそのままではいられない。その自然な変化を待てるだけ社会に余裕があれば、 何もしないで放っておくのが一番社会を混乱させずに済む。 もちろん余裕があれば、であり、余裕があるのかどうかは私にはわからない。

先輩に経営者の条件を貸した。読んでくれるといいなあ。

あの路線では勝てんなあ。ちゃんと役に立つものを作ろう。 その場で面白がらせることをいくら重視しても私は芸人ではないから限度がある。

2011年08月23日

50分、短いな。感覚的には100分の半分じゃない。1/3くらいしかない印象だ。 とりあえず質問タイムはなしにしよう。時間効率向上とログを残す意味で、 twitterを使う。全部レスする、と最初に明言しておけばいいだろう。 バリバリ講義中に書きこんでもらってかまわない。メモ代わりに。 いっそ、書きこまれているものが講義中にモニタの端にでも出るといいんだが、 PDFをフルスクリーンにしながらそれができるようにするのはちと面倒だし無理。 私は移動しながらtwitterに書きこむ手段を持たないのでレスは家に帰ってからになる のが現代人としてダメすぎるな。 会場で無線LANつながるようなら次の講義までの空き時間にレスできるだけしておこう。

重要でないものを終わりページの後ろにおまけとして20ページほど移動し、 各ページの文字数を極限まで削り、 なお文字が多いページは分割。そこまでやればほぼこのままの分量で行ける。

配布資料はCEDECが始まる前にwebに置いておこう。 講義の最初に「ここにあるんで」と言える。 携帯端末持ってる人はその場で取ってこられるだろうし。 twitterにURLの短縮サービス使ってリンク貼っておけばいいのか。

なんつうか、最近の技術というか通信手段というかに疎いのは問題だな。 でも、iphoneとかにするのは経済的にしんどいしなあ。 そのうち通信料に比例して金を取られるようになるんだろうし。

あまりに使わないのでmixiは退会してもいい気がしてきた。どう見ても終わってる。

CEDECの飲み会は最終日か。誰かに感想聞けるかもしれんというのもあるし、 どこかには行きたい。しかし、なんかいろいろあるなあ。

ニコ動で流れたりしたらひつじこに見せられてうれしいが、 今ちょっと見たらまだ去年のが見られる状態で置いてあってちょっとビビった。 でもまあ、人気のある奴だけだよなきっと。

帰ってくる時、空を見たら星があった。 ひつじことどっかに寝そべって星を眺める時間が欲しい。 でもまあ、ないのは時間的余裕じゃないんだろうけどな。 時間だけの問題ならこの前一週間休んだ時になんぼでもできた。 北海道のだだっぴろい所で何時間か寝転びたい。 松戸に行くのすら一苦労な今の状態ではどうしようもないのだが。 でも、もし二人目ができるとか言うならゲロを吐く前に行かねば その後はまたどんどん動けなくなるぞ。

twitterは積極的に使うべきなのだろうが、 他人のタイムラインに割りこませるなら何か内容がないとマズいんじゃないか という気がして気が乗らない。 たぶん私は何年も前から皆がtwitterに書くような感覚でここに書いてきている。

2011年08月22日

とりあえずパワポが形になった。99枚。 これで明日のリハーサルはとりあえず乗り切れる。 元々texから直接pdfにするつもりだったが、 無理なことがわかったのでやめた。 スライドに関して言えば、見た目を見ながら作らないと無理。 見た目の印象を丸々無視できるほど私は自分のしゃべりに自信は持てない。

照明の関係で字の色を変えても見にくい、とあったが、 赤い字って読みにくいんだろうか。 ちょっと黒っぽくしておこう。

にんにくを注文しようと思ったが、 どうも繁盛しすぎて注文処理が大変っぽい。 自力で勉強してサイト作ったりしてるみたいだし、 急に有名になると大変かも。ちょっと待った方がいいか。 2kg買う予定だが、共同購入する人がいないか明日会社で聞いておこう。 あと明日ひつじこの友達が来るようだし、その人にも聞くか。 場合によっては3kg買う。

ネット通販を始める時って、どんな業者に何を任せて どういう作業をすればいいんだろうな。 楽天の店の大半は自力でサイト作ってるわけじゃないだろうし。 私何か手伝えないだろか。

生産者から直接買うって面白い。

北海道のbibi's farmからとうもろこしが届いた。おいしすぎておかしかった。 真面目に作ったものを穫れたてで食べるとあんなに甘いのか。 常温で置いておくこと自体がダメなんだな。とうもろこしって。 というわけで追加注文しようと思ったが、すでに売り切れ。 来年はたくさん頼もうと思うが、 今年ですらすでに収量が少なくて予約した人でも全員は買えない 状態だったっぽい。 作付量は簡単には増やせないだろうし、難しいかもしれんなあ。 私みたいなのが何人もこうやって宣伝すればあっというまに 規模の限界を超えてしまうだろう。 いくら北海道とは言え日本の農家だし、 労働力の面でも効率化の面でも改善は難しそうだ。 農作物の類は質を落とさずに大規模化するのはかなり難しい。 日本酒もそうだし。

日本の農家ってどうしたらいいんだろう。

送料が劇的に安くなるようなイノベーションって何か考えられるだろうか。 コンビニまで取りに行くシステムは画期的だが、 農作物みたいに重いとコンビニと家の間の距離ですら辛い。 コンビニ店員が配達できるわけもないしな。 輸送のコストの内訳ってどうなってるんだろうかと思うが、 大半が人件費なら改善は難しい。 送料が下がれば生産者から直接買いやすくなるのだが。 あとは、生産者側が一人一人はちょっとしか買わない消費者の注文を どうやってさばくか、という問題だよな。 生産者はあくまで生産者で、そういう作業を得意としているわけではない。 毎日何時間も出荷やら決済の処理に費すようでは 生産者としての本分が果たせなくなる。 何か新しい形の仲介業者が出てくるんだろうか。 とりあえず決済と受注はITでどうにかなるが、 でも出荷はなあ。 業者まで合計量をまとめて送って、そこで小分けして出荷、 とかできればいいのかもしれんが、わからん。

フジテレビの社員がフジ批判派にツイッターで喧嘩を売ったために、 自宅の住所や電話番号まで晒され、ブログやツイッターの アカウントを消して逃亡する状況に。 マスコミの力に対抗するには鬼女板くらいの外道さが必要なのかもしれんし、 自業自得な面もあるので、まあ仕方ないわな。 こうして眺めている分には面白いだけで済むが、 自分がこうならないようによくよく自重せねばならん。 私も相当迂闊なタイプだからな。 それにしても、30代で家賃20万の家に住めるなんて、 テレビ局ってのはずいぶんともうかってるものなんだな。 単純に考えて私の倍もらってないと耐えられないと思う。

子供なあ。 念のため1,2,3人のケースで試算だけはしておくか。 老後の蓄えとかは無視して、 全員が独立した時点で貯金がマイナスでなければいい、 と考えれば3人でも余裕はあると思うんだが、 一応計算くらいはしておかないと。 しかしそんなことより問題は、手間。 ひつじこが大丈夫かだ。 私ももちろん協力するが、仕事を減らすにも限度がある。

あと、高齢出産のリスク。 障害がある場合のことも考えないといけない。 オタマの時はうちら二人の問題だったが、 次はオタマも絡んでくる。障害がある兄弟がいることによって オタマは確実に大変な思いをする。それも考えねばならない。 それに、私はオタマが産まれる時にひつじこが命を落とす可能性すら考えていた。 その危険は初産ではないのでいくらか低くなるが、ゼロではない。 今すぐ受精したとすれば、二人目は37歳で産むことになる。 食ってるもの、生活習慣、運動能力、などの面で 有利なので危険度は低いとは思うが、 また私はクラナドを思い出しながらガクブルする日々を過ごすことになる。 まあオタマの時ほどではないがな。 今ならクラナドのアニメ21話を見られそうな気がする。 実はずっと録画を消さずにとってあるのだ。

考えるべきことは多い。この土地に住んでていいのか?とか。 札幌とかに移住した方がひつじことオタマにとってはいいんだが、 仕事無理そう。東京有利すぎる。 長期的に見れば大気汚染や家賃、保育園の不足等々の 問題も解決していくだろうが、今後5年くらいの範囲で 変化はなさそうだしなあ。

札幌の人口は190万超。他からの移住が止まらないので、たぶんまだ増える。 名古屋レベルにはなりそうな予感。 この仕事で貢献することに限界を感じたら早めにそっちに移住するのもアリかもな。 家賃2万くらい下がるなあ。札幌。でも給料はそれ以上下がるだろう。 しかも、あそこは車がないと暮らせる気がしない。

2011年08月21日

朝4時。CEDECの文章はおおむね書いたが、所詮第一稿。 でも一回ここで終わりにして、スライドを作らないといけない。 第二稿はリハーサルの後だ。 寝て起きたらまた会社だ。二日でスライドに落としこまないといけない。 技術的な詳細は全部文章の方に書いて配るので、 当日の発表で技術的な詳細を話す必然性はない気がする。 しかし、来る人がそれを期待しているなら それを省くわけにも行かない。バランスをどうしたものか。 とりあえず、開始と同時に詳しいことは全部pdfに書いたので、 今日はその概要説明と一番面白くて重要なテーマに絞る、 ということを言うのがいいんだろう。 50分はそんなに長くない。

文章は列挙に近い状態でも良く、構成なんてそれほど気にしなくてもいいのだが、 講義はそうも行かん。まずコンセプトをはっきりさせないと。

パイナップルのせいで口の中が痛い。 今回で学んだ。全体が黄色になって、下半分が赤っぽくなるまでは食べない。 最低でも葉っぱが枯れてくるまでは待て、だそうだ。 また、置いておく時には葉っぱを下にするのが良いらしい。 そうでないと甘いのが下に溜まってしまって味が偏るのだそうだ。 よし。明日もパイナップルを買ってくる。298円だったらだが。

月曜に北海道からとうもろこしが届く。これは届いた瞬間にゆでるくらいの覚悟がいる。

高分子とはデカい分子のこと。ポリマーとは、元々小さかったのがくっつきまくって デカくなった分子のこと。ポリマーは全て高分子なので、 高分子ポリマーという言い方には意味がない。 だが、高分子ポリマーで検索すると結構出てくる。 誰かそういう言葉を商売のために作ったんだな。

パイナップルは追熟しないらしい。ダメじゃん。 蓚酸減ったりしないのかなあ。 黄色くなったものだけ買ってこいってことだな。

2011年08月20日

マジで韓国だった。CMの半分以上が韓国。いや、さすがに異常だろ。 総本山のフジは一体どんなことになっているんだろうか。 もうかりそうだから集まってきた、ということで説明がつくレベルではない 気がする。

CEDECの準備がまだまだ終わらない。

2011年08月19日

うちで仕事するのは無理くさいなあ。 とりあえず椅子がないとダメだ。 床に寝ころんでやると長くはもたない。 あとX201sのバッテリーのでっぱりが邪魔。そして熱い。

オタマはたまに高橋名人に似ている。

30万出して椅子と机を買わないとまともに家で仕事できる状態にはならないのだろう。 しかしそんなものをどこに置くというのか。 数年のうちに奥の部屋はオタマに譲り渡さねばならなくなるだろうし、 余計に場所がなくなる。根本的に家で仕事をすること自体をあきらめればいい、 としかいいようがないが、家でも不可能でないことは家でできた方が 家族で一緒にいられるわけで、作業効率だけ重視して会社に行ってしまうのも 良くない気はする。エルシオという椅子は良さそうだが、椅子だけでも それなりには場所を食うからな。畳めるわけでもないだろうし。

2011年08月18日

だいぶ進んでないが、CEDEC。

だいたい書いたので、また最初から直しつつ順番も見直そう。 案外少なかった。50KBくらいにしかなってない。

2011年08月17日

PS3値下げしとる。やっと2.5万か。ずいぶんかかったな。 次のマシンが出ない限りここからは落ちないだろうと考えると、 もし買うなら買い時だということになる。 でも、むしろ買うなら360の方か。シュタゲあるし。

鶏肉食ったら、腹の調子悪い。せっかく5時ちょいに起きたのに、 ピアノどころじゃないぞ。陸上動物の脂肪を受け入れられない体になってしまったようだ。

ゲームエンジンを買ってきてゲームを作る、というやり方をしてないのが 日本の敗因だと良く言われる。何分見たこともないのでよくわからんのだが、 どうせ持ってきても使いこなせないんじゃないかという気もする。 明治維新の時に日本人は西洋から技術は取り入れたが、 民主主義やら何やらの社会システムや思想をそのままは持ってこなかった、 と良く言われる。 そしてゲームエンジンは単純に技術ではないので、持ってくるのはたぶん難しい。 新幹線はシステムであり思想、というのと似ているだろう。 車両だけ輸出してもどうせ使いこなせない。 うまいこと技術だけ使って、運用や使い方にアレンジを加えれば使えるとは 思うが、でかい一つのパッケージになってしまっていていじれないようだと 仕事の仕方を合わせるのが苦痛すぎて結局投げ出す結果に終わるような気がする。

なんでゲームエンジンみたいなものが作られて会社間で共有される 状態になっていないのか、と考えるに、 技術がどうとかでなく、文化の問題としか思えない。 技術は道具であり、道具で劣っているのをどうにかするのは簡単である。 例えば、明治にやったように、外人に金を積んで連れてくればいい。 ドイツから軍人を雇ったりイギリスから鉄道技師を雇ったりしていたずだ。 軍艦だって海外から買っていた。 昭和の高度成長期だって、技術そのものはパクリまくりだった。 日本人の性質がそうであり、 同じことをやれば済むのであれば、とっくにそうなっているはずだ。 何かそうできない理由があるのだろう。 雇用形態がどうか、みたいなことまで関係してしまっているような気がする。

雇用の流動性を日本でどう確保するかは大問題だ。 さしあたってドラッカーが言うように退職金が大きな邪魔になる。 退職金で給料を払うことが有利になるような税制をさっさとやめるべきなのだろう。

給料を下げていけない法律はないっぽいのだが、何故こんなに下がらないのか。 会社がもうかってない時は下げればいいのに。 どうせ労働組合なんてもう死んでるわけで、 誰かの首を切らねばならない、なんて状況ならみんなでちょっとずつ 給料を削った方がいいだろうに。もうかってないのは全員の責任で、 それを一部の人を首にすることでどうにかしようとするのは道徳にも反する。 しかし、いらない人がいるのは事実ではあるのだよな。残念なことに。 自分がいらない人になるかもしれない、という恐怖はある程度は 必要な気もするわけで、難しい。

独立に成果を測れる単位をできるだけ小さくしないといけないというのはわかったが、 チームがそもそも100人いるような状況ではチームの中も割りたい所だ。 金で成果を測るのは無理だが、やりようはある。 グラフィクス担当とか、ゲームバランス担当とかのグループを 管理の実体として設定し、それらに責任を持たせればいいのではなかろうか。 絵に関わるアーティストとプログラマでグループを作って責任者を設け、 「絵がショボいのはこの人が悪い」ということを明確にする。 絵にはプログラマが強く関与するので、 アーティストのチーフだからといって絵がショボいことの責任は取らせられない。 アーティストだけでは絵は出せないのだから、 そこにチーフがいるということには大した意味はない。 仮にプログラマに問題があったとすればアーティストのチーフは責任を取れない。 成果物の構造から組織の構造を考えるべきだ。 一人が複数のグループに属することは出てくるだろうが、それほど問題ではない。 成果物のどこに対して責任を持つのかを明確にすべきだ。 「全員がゲームの出来に責任を持つ」とか言ってると、結局誰も責任を負わなくなる。

大企業って何だろう、という疑問が晴れた。 マネジメントの規模であって社員の人数じゃない。 山崎パンのバイトみたいな感じであれば、何人いてもマネジメントの規模は小さいが、 ゲーム会社のようにほぼ全員が専門家で数人から数十人で独立した 製品を作るような会社の場合はかなりマネジメントの規模が大きくなる。 ドラッカーはコンサルティング会社は全員がマネジメントであり、 マネジメントが200人いれば大企業だ、と書いている。 1000人のゲーム会社があれば、マネジメント的な色彩を帯びる人数は 100人くらいにはなる。なるほどすでに大企業ということだ。

スタッフを最小化しろと言う。スタッフというのは、物を作ることに責任を負って ない人、と解すればいいだろうか。 事務の人とか、ライブラリ作ってる人とか、人事とかそういうのだろう。 そういう人が、独立してもうけなければならない小さい組織の中に ちょこんとある分には害は少ないが、デカい会社の中央にドンと座っていると 害になりやすいらしい。昇進とか給料とか、そういうのも部門ごとに 部門ごとの事情でやった方がいいんだろうな。できれば採用も。 会社全体で給料のシステムが一つドンとある、みたいなのは危険なんだろう。 硬直化する危険がある。正しいやり方は一つじゃない。

最近googleの検索が妙だ。 例えば「在韓米軍 撤退」で検索すると 全然関係ないものが山と出てくる。アフガンに用はないって。 ちょっと気を効かせすぎているように思える。 というわけで、試しにBingにしてみた。しばらく様子を見よう。

人事って何やってるんだろ。考えてみたらよくわからない。 ドラッカーは人事部に批判的だ。今までの文脈からしてそれは当然で、 直接金を稼げず、かといって高度に専門知識を持つというわけでもないのに、 人の昇進を左右しかねず権力を持つ危険がある。 直接金を稼げない人が権力を持ってはいけない、というのがドラッカーの考えなので、 これはもっともである。 思い起こしてみれば、どんな人を採用すべきかはどんな仕事をするのか をわかっている「金を稼ぐ部門」や社長が決めることで、 人事部の仕事ではない。 どんな人を昇進させるかも同様だ。細々とした事務はあるにしても決定権は 金を稼ぐ部門や、ひいてはその長である社長にある。 研修の類にしても、基本は何を学ばせたいか決めるのは稼ぐ部門か社長で、 「まあこれくらいは共通でいいだろ」と各部門や社長が思えば それについてこまごまとしたことをする人は必要にはなるが、 それだけのことだ。あれ?一つの「人事部」なる結構デカそうな組織がある意味は どこにあるんだ?社長に「こうしたらいいんじゃね?」と提案する専門家は いてもいいかもしれないが、それが権力者の側近みたいな印象を与えると 害悪になるとドラッカーは言っている。その意味では専門家は社内にいるべきではなく、 社長が社外の人に相談する方がいい。 福利厚生の類はぶっちゃけそれが必要なのか、ということまで含めて考えるべきだし、 どこまで行っても雑事の集合体にすぎないように思える。 椅子をいい奴にしてくれ、とか、コンピュータには金をかけてくれ、 とかいうのは意味があることだが、一部の人しか使わない保養所とか、 どうせ商品券を買って換金されるだけのポイント制度とかに コストをかける意味がまったくわからん。 たぶん節税対策なんだろうが。

人事については「マネジメント」の方に詳しく書かれてることだろう。 楽しみにしておく。

本当、税金っていろんなものを歪めてるよな。 税制が複雑であればあるほど歪みが大きくなる。 消費税を30%にしてそれ以外何もなくなったとしたら、 どれくらいまずいことになるんだろう。正直よくわからない。 酒税みたいに社会にとって望ましくない行動に懲罰的にかける税金はまだわかるんだが、 それにしたってある消費行動が他の消費行動に比べて望ましくない、 ということを言うためにはかなりの根拠がいるので、 そういった税金の種類はかなり少なくなるはずだ。 例えばエロ本にかけることが容認されるかどうかは、 エロ本と酒のどっちが有害か、というような話になっておそらく揉める。

文字が読めない人はたくさんいる。何が難しいんだろうと思ってしまうが、 考えてみれば、文字一個一個の名前を覚えても、それがつながったものを 一つの塊として認識するには飛躍がいる。 ショパンの楽譜を読むのは私でも大変なわけで、そういうことだろう。 あれが音楽に見えてくるまでには最低10回は苦労して音を出しながら読まねばならない。

まだ4番は音楽に見えてないな。だいたいショパンを弾き始めるあたりで オタマが起きる。

仕事を要素に分解し、要素ごとに最適化を行った後、 一人が適切に行える範囲で再構成する。 仕事の最適化の根本はこういうことであるようだが、 さてプログラミングに応用するにはどうすればいいだろう。 定型的な部分はどこにある?反復的な仕事はどこにある? マニュアル化できる部分はどこにある?

麦茶を入れる時に、試しにビタミンCをわずかに入れてみた。 驚くほど味がまろやかになった。塩素を中和することがこれほど重要とはな。 しばらく沸騰させてもいいのだろうが、エネルギーと時間の無駄だ。 これからこうしよう。うちにはオフロ用のビタミンCが山ほどある。 もしかして、汁系の料理にも何にでも使えるんじゃないだろうか。 なお、1リットルあたり1gの計量スプーンの1/20くらいの量。

ビタミンCの塩素中和能力は折り紙つきである。 フロにビタミンCを入れ忘れた時、翌日のフロ場は猛烈に塩素臭く、 フロ桶の水は透明だった。しかし、ビタミンCを入れると塩素くささはほぼなくなり、 フロの水はほぼ間違いなく濁る。バリバリ菌が繁殖している証拠だ。 とはいえ、それが皮膚の健康にどれほどの効果があるのかは未知数なわけだが。

満足と不満。自分が貢献できているので満足。無難に過ごせるので満足。 単に気に食わないので不満。自分が貢献する上で邪魔になるものが多いことが不満。 いろいろあって、満足か不満かだけでは何もわからない。

会社は社員に満足してもらう必要はないのかもしれんな。 ただ、会社は社員に貢献を要求すればいいんだろう。 そうすれば、貢献するために必要な要求を逆に返してくる。 それに応えることを忘れなければ会社はたぶん大きくなるし、 結果的に満足の行く会社にもなるんだろう。 福利厚生の類は、辞めたくないという気持ちは起こさせても、 もっとがんばろうという気持ちを起こさせるとは思えない。

どこの会社も似たような問題を抱えているのだとすれば、 どこの会社も大きく業績を伸ばすチャンスを持っていることになる。

会社がもうかるほど自分がもうかること。 そして、会社がもうからないと自分の仕事はないということを いいかげん皆が理解してもいいと思うのだが、 労働組合の類はいまだにそこをわかってないように見える。 しかしそれはともかくとして、会社の上の方の給料があんまり高いと 不満は出易いだろうな。下々の人間との格差が何倍くらいまでなら 適正なんだろう。ドラッカーの言うように、 社長に超人であることを求めること自体が組織の脆弱さを表しているのだとすれば、 社長にすごい給料を払う会社は自分の弱さを告白していることになる。 そして、本来会社が組織としてまともなのであれば、 社長が突出していい給料をもらう根拠はない。 社長業そのものが実質チームで行われているはずで、 そうであれば社長の回りの人達も同レベルの給料をもらっているはずだからだ。 そうでなければ後継者が育たないとドラッカーは言っている。 ナンバー1とナンバー2の給料が離れてる会社は業績も悪い、 という話が出てきた。

でもまあ、貢献度合と関係なく権力によって給料を決めてるケースは多いだろうけどな。 創業者が最大株主を兼ねていたりすると市場以外にはその権力を抑える存在がない。

専門職をどう扱うか。1954年の本なので、この当時は専門職はかなり新しい 存在だった。そういう時代の分析としてはすごいとしか言いようがない。 専門家は専門家でなくてはいけない。 専門家は事業に貢献しなくてはいけない。 専門家は専門家として昇進できなくてはならない。 専門家は会社外でも一流でなくてはいけない。 ゲーム会社においては、当時レアだった専門家が社員のほとんどを占めている。 まあ実際専門家と呼べるレベルかどうかはともかくとして、一応はそういう ことになっている。実際専門家としての目標と事業としての目標を どうすりあわせるかは常に問題になる。 プログラマはしばしばプログラミング技術のことしか考えず、 アーティストは絵を綺麗にすることしか考えない。 これをどうもうけにつなげるかは常に難しい問題だ。 が、幸いなことに現実はそんなに難しくない。 本気で専門職の人はそんなにいないからだ。 プログラマであってもゲームを面白くすることにしか興味がなく、 プログラミングを道具としか思ってない人は結構いる。 アーティストも同様だ。 そのため、本当に専門家として扱うべき人の数はそう多くはない。 ただ、多くはないにしても、それなりな数はいるし、 見掛け上は「プログラマ」やら「アーティスト」なので、 一人一人人柄を見ないとどちらなのかがわからない。 その意味では、工場労働者と研究者、みたいな区分がわかりやすかった時代よりも 難しいわけだ。

専門家体質の人にマネジメントのことを考えさせようとしても、 たぶんうまく行かない。会社全体の中での自分の仕事の位置づけを 理解させることは絶対に必要で、そのために多少の時間は割いてもらう 必要はあるにしても、それが限度を超えれば嫌になって出ていく。 そういう人は経営に敬意を払わず、会社がもうかるかどうかすらどうでもいいと 思っていてもおかしくない。単に自分にとって価値ある技術を追求するのに都合がいいから そこにいるだけ、ということすらある。というか、それくらい極端でない人であれば、 プログラマであろうがアーティストであろうが専門家として扱う必要は必ずしもない。 普通に昇進して管理職になっていく道筋で足りると思われる。

私はてっきり自分が専門家だと思っていたが、どうもそうでもない気がしてきた。

そういえば、どうも話を聞いているに、私の父は相当にできる管理職だったようで、 カビの生えた300人の情報処理部署をつぶした経歴を持っている。 さすがに自分も辞めざるを得なかったようだが、 ちゃっかりしこたま退職金をせしめているあたりがやり手だ。

最近は「学生時代を思い出す」とか言って 競馬場の警備員なんかをしていたが、 地震で競馬どころでなくなって仕事がなくなった。 しかし一向に困っている感じはない。 そういえば祖父母がやっている店の収支を分析していた。 まともに帳簿をつけていなかったからなあの店。 赤字か黒字かすら把握していなかったようだし。

評価の問題。評価を部下を支配するために使ってはいけない。 マイナスの評価であれプラスの評価であれ、 本人に伝えずに上司に渡してはならない。 肝に銘じておこう。もしそういう立場になったらだが、それだけはすまい。 その時には父にいろいろ相談しよう。

経営管理者に必要な資質。「人間としての真摯さ」。 人付きあいがいいかとか、カリスマがあるかとか、そういうのはいいから、 人間として真面目でないとダメという話。 圧倒的にとある人の顔が浮かぶな。あの人は圧倒的に向いてる。

「経営管理者」は今ならマネージャーと横文字のまま訳しても大丈夫だろうな。 しかし、経営管理者の方が誤解は少ないか。 必ずしも給料が高い必要はないんだな。確かにそうだ。

読んでて唐突に思った。 嫌なことをせずに済んだ時にはほぼ罠がある。 本来せねばならないことから逃げている可能性が高い。 どんなに立派な理屈があっても、その可能性に目を背けたら致命傷になりかねん。 戒めねば。

常に複数の解決策を考える。そして、記録しておく。 そうすれば、しくじった時に次善の策を取れるし、また、どうして しくじったのかを分析できる。まったくもってその通りだ。

リスク、経済性、タイミング、人材制約。これらで複数の案を比較して決める。 決める過程も書き留めておく。これは今すぐにでも仕事に使える。

オタマがぬいぐるみの口にごはんが乗ったスプーンを持っていった。 すごい進歩だ。なお、最近公園の外も歩く。 すごい進歩だ。しかし、言語能力に関してはまだまだ。 早くしゃべってくれると楽でいいんだが、それはオタマが決めることだ。 まだ歌と会話の区別がついてない気がする。ひつじこと私だけしかいないので、 言葉を教えるのはどうしても不利だ。しかし、その分運動能力の発達は圧倒的である。

人間そのものは2000年前から変わっておらず、 知恵の最高峰は未だにソクラテスであると言い切る。 しかし、経営者に必要とされる能力は高まる一方である。 これにどう対抗するかと言えば、仕事の単純化しかない。 少数の原則をわきまえた上で、 知恵を仕事に適用して分類、分析、パターン化して対処する。 それ以外にはない。 超人を探してきて億単位の金を払えばいいというものではないということか。 真摯さ以外の能力は後から学べるとドラッカーは言っている。 それが本当で、私に真摯さがあるのであれば、 私のような人間すら経営者になれるということだ。 経営者になる予定も管理職になる予定もないが、 このことは覚えておこう。ドラッカー的には、 現代の会社、特にゲーム会社のような知識産業においては 平社員に至るまでマネジメントだ。

大学で教えている科目のうち、経営管理者になるのに最も有効な教育は 詩と短編小説を書くことだと言う。 自分の考えを表現する方法、そして言葉とその意味を学ぶことが重要だと言う。 「若干誇張して言うならば」と言うただし書きがついているが、 これは経営は大学で学べるような代物ではないという意味も含んでいるのだろう。 経営管理者になってみないと学びようがないことというのはいくらでもあるはずだ。 しかし、そういうものになるつもりで日々生きていれば準備はいくらでもできる、 ということでもあるように思える。

若いうちに学ぶべきもの。論理、分析、数学的手法、歴史、政治学、経済。 せっかくの学校教育なのだから、それを活用して学んでおくのは役に立つ。 「使える一般教養」とでも言うべきものがあるということだな。 大学行きたいな。授業が役立つとは微塵も思えんが、 少なくとも専門家がどう考えているのかを知ることはできる。 あーでも本読めばいいか。経済はそこそこ読んだ。 歴史は微妙だが、ちらほらは読んでいる。 政治学がわからんな。何か定番の本ってあるんだろうか。

読み終えた。偉大すぎる。なにこれ。こんなもんが60年も前に存在していたのに 社会はこんななわけか。まあ社会がこうなのは人間の業なので仕方ないとしても、 会社というものがこんななのはなかなかにがっかりする事実である。 まあこれも人間の業なので仕方ないといえば仕方ないのだが。 とりあえず、「経営者の条件」は短いので、 読みたそうな人がいたら貸そう。経営者の条件、イノベーションと企業家精神、 マネジメント、の3作品は買って家に置いてある。

個人ブログで宣伝をやることについて考えてみると面白い。 なにせ個人の場合多少やんちゃしても訴えられない。 企業が個人を訴えるなんて「大人げない」からな。 今回みたいな記事が出ても、「企業が個人に何熱くなってんの?」 という逃げ方ができるし、「企業=強者、個人=弱者」「弱者=正義」 というイメージを助けにして支持されやすい。 この利点を活かしてこっそりと特定の企業を応援し、 裏で見返りを受けることは比較的容易いと思われる。 そして個人ブログの場合、「けなす」という禁じ手が使えるのが決定的に有利だ。 企業は他社製品をけなすことによって宣伝することはできない。 ペプシみたいなマネは日本では下品とされているし、 長期的にいい結果をもたらさないことは火を見るより明らかだ。 企業イメージを下げる。 しかし、個人なら不自然でなくこれをやれる。 むしろ、個人の場合は不自然に誉めちぎればさすがに怪しくなるわけで、 けなすことこそが自然だ。買ったゲームがつまらない、 と言うのは誰もが持っている権利である。 企業と個人が手を結ぶのはバレた時のことを考えないならばなるほどいい手だ。 というわけで、なるほど言われてみればそういうことが起こり得る状況になっている。 面白いな。これを機会と考えるにはどうしたらいいだろう。 企業が社会に対する責任を果たしつつ、つまり悪いことをしないで この状況を利益に変えるにはどうしたらいいか。 みんなしてるなら僕も、なんてマネは厳に慎まねばならん。 長期的には不利益になる。社内から情報が漏れてバレる危険もあるし、 仮にバレなくても、自分の会社が悪事を犯している疑いがある、 と思うだけで社員の士気は下がる。マイナスだ。効果的な規制が設計できるなら それをもちかけるのも手だが、この件に関してはそれは難しいし、 支持は得られない。そもそも遅すぎる。やはり、このままの状況をどう利用するか、 少なくとも受ける害をどう軽減するか、という方向で考えるべきだろう。

個人が好き放題webで感想を書けるのはすごくいいことだと思うんだよな。 それはクソゲーを作ることのリスクを大きくし、 ゲーム会社に品質を高める圧力をかけることになる。 クソゲーを作った会社はなんとしても罰しなければならない。 ただ、十分に多様な意見があって、それらが探せばすぐに見つかる状態にないと その効果はかなり薄れてしまう。 検索で上位に来るサイトが酷評すれば、下の方にあるサイトで誉めていても 印象は悪くなりがちだ。アマゾンのレビューも同様に強い力を持ち、 しかも検索以上に順序を操作しやすそうに見える。 確かに、長い時間が経ってwebを使う人々に 情報の信頼性を判断するスキルがついてくれば この問題は自然に軽減されていくだろう。 しかし、どこまで行ってもゼロにはならないし、 年少者を対象にした商品ではとりわけダメージが大きくなる。

面白い。禁じられていた「けなす」方向の宣伝が 知らないうちに解禁されていたわけだ。今まで気づかなかったのはちと恥ずかしい。 「誉める」宣伝を個人と結託してやる試みはおおむねつぶれたと思うが、 「けなす」方向はまだだ。 これからそういう事例が発覚してくることを期待して待とう。

つうか、ゲーム機は勝ち負けじゃないっての。 そもそも複数勢力が拮抗しててくれる方が助かる。 競争がない市場ほど厄介なものはない。 価格は高止まりし、品質は低下し、進化が止まる。 複数の勢力が一進一退の戦いを続けてこそ健全な市場というものだ。 作る方は面倒だろうが。 もっとも、すでにゲーム機間の勢力争いを云々していられる状況ではなく、 「余った時間をつぶす何か」という 巨大な土俵で勝負せねばならない時代がとっくに来ている。 金と時間を多数のメディアが奪い合う相当スリリングな時代だ。 しかもドラッカー的にはこの手の業界は成長産業ではありえない。 労働時間はこれ以上そんなに減らない。人口は減る。 したがって、余暇の合計は増えない。 成長するには単位時間あたりの金の消費量を大きくする必要がある。 つまり、短い時間でも高い金を払うものを提供する必要があるのだが、 普通値段は下がる方向へ行くわけで、新しいものが現れればわからないにしても、 既存のものがそうなることはありそうもない。

ドラッカーは確か教育は伸びると言っていた。 おもろいことに教育は「余った時間をつぶす何か」と競合する。 そして、教育というものの性質上時間あたりの価格が高くても受け入れられる。 むしろ、効果が高ければ高いほど単位時間あたりの価格は高くなる。 実際にそうかはわからないが、 理屈の上では塾に行かせる親が増えればゲームへの支出は減るし、 ゲームをする時間そののも減るように思える。 もし、塾が本人にとってもゲーム以上におもろいものになったらどうだろう。 「うお、勉強おもしれえ」と思わせる塾が現れれば、 ゲームやテレビにとっては恐ろしい敵になるだろう。 同様に、ドラッカーが言うように大人も継続して何かを学ぶのが 当たり前になるのだとすれば、大人の時間と金も奪うことができる。 しかも、それは勉強だ。社会の支持も得られる。 「本人にとって娯楽以上に面白い勉強を提供する商売」は実に魅力的だ。

でも人口はまだしばらくは増えるんだよな。たぶん100億くらいまでは増える。 その増えた人口にどれくらい経済的余裕があるかはわからんが、 うまくやればそれなりにもうかる可能性はある。 既存の娯楽にしても、そのへんを相手にする方法を考えるのは分のいい賭けかもしれん。 細かく見ていけば富裕層が育っている場所は結構あるわけだし。 もっとも、市場が大きくなれば当然企業も増える。 将来現れる企業よりも先に地位を築いておかないともうけは得られないだろう。 どこも種を蒔くのに必死なんだろうな。

小学生とでも本気で議論しそうな性格、とかwebで書かれてるのを見つけた。 誉められたと思っておこう。オタマと議論するのが楽しみだ。 きっといろいろ教わることがある。 なにせこいつは2010年に生まれた。10歳になる頃には、 2010年から2020年までの世界の経験だけを持った人間になる。 1977年から2020年までの経験を持った人間とは世界が全く違う。 これからの10年、オタマは私の目には映っていても 私の脳には入ってこない世界をたくさん見て育つだろう。 私とオタマでは同じ世界の同じ10年がどれほど違って見えるのか、 本当にワクワクする。教えるつもりでいたことの中には、 理屈によらず当たり前のように知っていることもあるはずだ。 もちろん逆のこともあるだろう。 フロでオタマを見ていて、この1年ちょいの間にこいつから 教わったことの莫大さにびっくりした。 親になることは人間として成長するのにとても効果的であるように思う。 別に成長するために親になったわけではないが、 成長したい人は親になってみるのもいいかもしれない。 まあその前に夫やら妻やらにならねばならんわけで、そこが一番難しいのだが。

結婚はかなり難しいと思う。ほとんど毎日そう思う。 今私が幸せでいるのは奇跡としか思えない。 しかし、その奇跡はある程度は自分で引き寄せたものだとも思う。 私は最初から結婚をイベントではなく生活だとみなしていた。 ひつじこもそうだった。だからサバ寿司で揉めたりはするものの、 おおよそうまく行っている気がする。 結婚は一緒にいるための手段の一つであって、必ずしも選ぶべき手段とは限らない。 片方が死ぬその日のことを想像しなくてはいけない。 病気になったり、職を失ったりと、 いろいろなことが起こることを想像しなくてはならない。 それで別れることが想像できるなら、その時点で難しい。 まあどこかで思い切らねばならないのは事実で思考停止も必要だったりはするのだが、 一回くらいはそういうことを考えて戦慄を覚えておく必要はある。 うちらは結婚に先立ってラベル先生と話をすることで、そうした準備をすることができた。 そういう幸運に恵まれなかった人は結婚してからそこを確認することになるかもしれんが、 それでも遅すぎるということはない。 それに、結婚は制度にすぎず、実体を持たない。結婚がどのようなものかは 二人で決めるものだ。おぼろげなイメージはあるだろうが、 そのまんまになるわけがない。だいたい、一番強いイメージは 自分の親の結婚なわけで、30年前とは社会の状況が全く違うし、 二人の両親も全然違う形をしている。 自分の両親のあり方をあてはめようとすれば、必ず摩擦の原因になる。 必ず一から構築しなければならない。 強い方の文化が強制されて表面上うまく行っているように見えるケースは多かろうが、 何十年にわたって不満が蓄積されて、最後には呪いと化すだろう。 強制するのが女である場合は比較的マシだが、男が強制する場合に どうなるかは発言小町を見ればわかる。 そして一番大切な前提として、結婚した時点での夫婦は他人に毛が生えた 程度の関係でしかない、ということをわきまえないとダメだ。 親兄弟に劣るのはもちろんのこと、かなりの確率で友達にも劣る。 相手をわかった気になってはいけないし、相手に期待してもいけない。

なんとなくいろんな人から教わったことをまとめておいた。 努力をやめた時に結婚が腐る。その意味では企業と何もかわらん。 不断の努力だけが幸せを作る。 合唱にいた60過ぎのおばさんの「最近やっと夫婦になった気がする」 という言葉は本当に深いと思う。今にして思えば、だが。

次つわりになったら成城石井でおいしいサバ寿司を買ってくるか、 あるいは自分で作ることにする。サバ寿司はケチってはならない。 これが今のところ一番大切な教訓だ。

ひつじこが「車とか時計が好きな男の人は浮気しそう」とか言ってた。おもしろい。

確かに人間っぽいな、最近。

2011年08月16日

現代の経営。

とんとんならいいだろと思っていたが、 明日何が起こるかわからないのが会社であり、 そのための保険としての利益は必要だ。 なので、明日のための投資としての事業を除けば、 ある程度もうけなければいけない。 なるほど、利益が必要なことがわかった。 そして、投入した人材に関する機会費用まで考えないと 必要とされる利益は計算できない。

利益の最大化ではなく、必要最小限の利益を確保する方向で考える。 必要最小限の利益が何かはいまいちわからんが、 借りた金を金利を払い、株の配当を払い、 持っている資産を全部売ってその金を誰かに貸した時の金利よりも高くなければ やる意味がない。たぶんだが、相当高いんじゃないかと思う。 しかしそれが相当高いとしても、利益を最大化するように作戦を立てる、 と言うよりは、最小限の利益を超えるように作戦を立てる方が具体的だ。 少なくともどこでいくら上げるべきかを決められる。

全ての手続きや報告書について5年に一回はなくてもいいか検討すべきだと言っている。 まったくもってそう思う。 役に立ったことがあるかどうかではなく、 普段犠牲にしているものに釣り合うかどうかで考えるべきだろう。 仮に月一回半日かかる程度であっても、人件費の2%以上にはなる。 結構な出費になるはずだ。

これを読んでいると、部長とか課長とか社長とかそういうのが何を仕事としているのか がおぼろげにわかってくる。10年も働いているのに本を読むまでさっぱり 想像もできなかったというのは働き方として問題があったということだよな。

腹を減らしたひつじこが空腹を訴えて吠えるので、 ゴーヤと舞茸とにんにくのゴマ油炒めを作り、 大正金時を蒸し、じゃがいもも焼いた。 食べたら機嫌が良くなった。 オタマが昼寝中だったので、起きるまで昼飯は待つかと思ったが、 そこまでひつじこの忍耐がもたなかったようである。 食べ終わったら機嫌が良くなったが、 今度は私が読書してるのに耐えられなくなったようだ。

家を買うことの是非を議論するスレがあったので読んだが、 つまるところ家が欲しいかという問題であって、 得かどうかではないということだ。私はいらん。 荷物は軽いほどいい。

昇進と昇給が別だといいんだけどな。 マネジメントの能力がない奴はいくら貢献しても昇進はさせてはいけないが、 昇給はさせないとまずい。もっとも、現代の会社は階層が少ないので、 階級名が実際の階層と関係なくただの給料ランクを表しているだけ だったりはする。階級が高くても部下がいるとは限らない。

ドラッカーを読んでいると、マネジメントについて考えることをせずに 成果を上げることは不可能に思えてくる。 どんなに技術力があろうが、それを何に使うのかというところに 頭を回さないと、売れないゲームに超絶技巧を盛り込むだけの結果に終わる。 いや、それならまだ形になるだけマシだが、 デバグに使われる超絶技巧ほど悲しいものはない。 上司がよほどそいつをうまく使えば話は別だが、 そこに期待するということは、自分が成果を出せるかどうかを他人に委ねることになる。 自分の仕事がどう会社の業績につながるのかは常に意識しておくべきだろう。 逆に、技術力のある奴に好き放題業績につながらない仕事をさせておく会社は マネジメントに問題があることになる。 私は結構好き放題勉強してるが、それは一応会社のためになるはずだとは思っている。 しかし、もし私がこれを将来の転職の際の手土産としか思わずにやっていれば 会社としては困るだろう。

ひつじこが唐揚げを食べたがるので鶏肉を買ってきたが、 唐揚げは難しい。ヘルシオで作れるが、唐揚げ単体として売り物に迫るのは難しい。 ナスとエリンギと一緒に炒める方がおいしくなりそうなのでそうすることにした。

うさぎドロップの5話を見てひつじこが怒っている。 でも、あのレベルの母親はなんぼでもいると思うぞ。むしろマシな部類だろう。 普通に一緒に暮らしていてもなおあれよりひどい部類はなんぼでもいると思われる。 そして、その後は泣いている。いい話だからな。 そして最後のシーンで、ものすごく渋い顔をしている。うーん、気になるよなあ。 それにしても、大吉年下ですよ?時間の流れってすごいな。 背広着て会社で働いてビールとか飲むような生き物より年上なのか。 あ、歌の後にシーンがあって、そこでひつじこが泣いた。

オタマ、何歳で包丁いじるかなあ。6歳でいじれるかなあ。 その時には軽くて事故ってもダメージが少ない奴を買ってやろう。

オタマは結構足が臭い。ひつじこは全く臭くない。 オタマは足が臭い遺伝子を私から引き継いだようだ。 そして、「まさか女は足が臭くならないのか?」 という密かな疑問はめでたく解決した。女も足は臭くなる。 しかし、臭くならない人と、臭くなる人の比率がどれくらいかはわからない。

フジテレビの話はおもろいな。 韓国作品がべらぼうに安ければなるほど元は取れる。 まして、金をもらって放送するような状態ならなおさらだ。 疑問なのはそれで韓国がもうかるのかどうかだな。 韓国側が金を払っているなら、それに見合う利益がないと 長くは続かないはずだ。楽しく見守っていこう。

成果を上げられない者は動かせ。ただし、辞めさせるには慎重でなければならない。 まあそうかもしれんが、動かすのは難しいこともあるよな。 プログラミングできないプログラマをどこで使えばいいのかという問題がある。 「人事の最優先事項は真摯さ」というのが前提条件になるんだろう。 技術はどうにかなるが、真剣さは後から教えられない。 みんなそれなりに真剣な人だという前提があれば、 確かに別の職種をやらせてみるのはアリだろう。 どうせ大学までの専門なんて大した意味はないわけだから。 私がいい例だし、大抵の人は大学でやったこととかなりズレたことをしているはずだ。

将来性や潜在能力、人柄で人間を評価するな。絶対当たらない。 まして、それらが科学的な色彩を帯びていればなおさら当たらないらしい。 変な心理学とか、変な試験とかを使うと、専門家にしか理解できない 基準で評価が行われることになって、誰も納得しない上に、 その手のものは大抵外れる。実績としての成果、以外に考慮すべき ものはないと言う。 そして、弱点に基いて評価してはいけないとも言う。 弱点は組織によって無効化すべきで、改善の努力を期待しても 時間の無駄だ。できることを、もっとできるようにするべきだ、ということである。

いやでも、私はもうちょっと人の話を聞くべきだよな。 それに、私が貢献している能力をこれ以上強めようとしても、少々しんどい。 いらんことをしすぎる点を改善すれば生産性は簡単に倍くらいにはなるだろうが、 たかだか倍だし、たぶんそうすると疲れる。 本当にやらないといけないことだけをバンバン片づける仕事の仕方は何かと疲れるのだ。 「長期的に見てやっといてもいいよな」という程度の優先度のものも 休憩代わりに入れないとどうにも疲れる。 でもこんなこと言ってるのも甘えか。 幸い10月くらいまではそんな余裕が全くないことだし、 ちょっくら「優先度が低いことは一切やらない」という働き方を試してみよう。

括弧の内側にスペース入れる作法やめようかなあ。 それで見易くならないのなら不要なことだ。 1行に入る情報量減るしな。カンマもそれ自体が「白い」文字で、 カンマやセミコロンの右を空ける効果は薄い。 一回どっかのタイミングで「どこのスペースには意味があるか」 を考え直してみるか。

独立して利益を出さねばならない部門に分けるべきだということ。 そうすることで、リーダーの育成と、もうけようという文化の確立を 促進できる。ただし、重複による効率低下というコストは払わなくてはならない。 同じ仕事してる部をまとめて一個にしよう、みたいなのは危険な誘惑だ。 10人の組織二つをくっつけて倍のことができるかは怪しい。 組織はデカいほど責任感が薄れて腐りやすくなるからだ。 なるほどなと思うが、「縦割りの壁をなくすことで人材の交流が活発になって 業績が良くなる」みたいに思ってでかい組織を作る人は多い気がする。 それはそれで一理あるが、デカいほど腐りやすいという効果はよくよく 鑑みる必要があるのだろう。

もし市場とか顧客を中心に考えるのであれば、 スキルによって部門を分けるのは馬鹿馬鹿しい。 プログラマ部とか、アーティスト部とか、 そんなものを作ってもそれぞれは何もできやしないからだ。 逆に携帯ゲーム機部と据置きゲーム機部で必要とされるスキルその他が ほとんど同じだったとしても、市場や顧客が違うならそれでいいことになる。 どちらにいるプログラマもほとんど同じ作業をするが、 最終的に見据えている客の姿は異なるわけで、それが仕事に影響してくるはずだからだ。 それに、そうやって機能別に作った部は、部単位での業績を測定できない。 いくら稼いだかがわからない。このためにフィードバックによる 方向修正ができなくなり、非営利組織と同じ問題を抱えこむことになる。

もうけているかどうか、というチェックが働くように組織を構成する、 というのはちゃちな効率の問題なんて吹き飛ばすくらい重要だということだな。 同感だ。採算を取らねばならない単位が小さくなるほど、 赤字事業を続けたり、不採算な間接部門をかばったりはしにくくなる。 ちゃんともうかることをしないといけない状況になる。 もちろん、明日のために種を撒くだけの余裕を持てる大きさはなければならないし、 効率化に必要な間接部門を持てるだけの余裕も必要ではあるだろう。 しかし、それを超えて大きくなるとダメっぽい。 そして何よりでかい利点は、それだけ事業全体のことを考える人が増えて、 リーダーが育ちやすく、リーダーにならない人にしても 自分がどういう商売でどういう役割を持っているのかを 考えやすくなることだろう。

可能な限り「独立して稼ぐ単位」に分解すべきだ、ということになるならば、 会社内の間接部門も金を取ればいいということになる。 例えば社内ライブラリであっても、他部門に売ればいい。 もちろん、買わない自由が必要である。 そうすれば、使ってもらえるものを必死で作ろうとするだろう。 買う側にしても、機能追加やサポートで金を取られるとすれば、 そこそこ考えるようになる。 さすがに事務とか経理をそういうふうにするのは無理だろうが、 こう考えると案外適用範囲は広いのかもしれない。 ただ、その壁を超える手段はちゃんと持っておかないと一つの会社であることの 利点がなくなってしまうので、どこまでの権限を個別に持つかは よくよく考えるべきなんだろう。勝手に採用をやれとか言われると さすがに無茶だ。

2011年08月15日

ひよこ豆が大量に余っているので、甘納豆的なものを作って無理矢理消費 しようとしてみた。おおよそ見えたが、失敗。 煮ちゃだめ。味が全部抜ける。次は蒸す。 あと、それなりな量砂糖をまぶしてもあっという間に中から湿気が 出てくるので、そこそこ乾燥させてからまぶす。

オタマがトマトごはんに飽きてきたので、ペペロンチーノじゃこごはんを試行。 ちょっと辛いんだが、案外食う。

昨日は試しに、ペペロンチーノ的なスパゲティを作るにあたって、 にんにくと油を大盛にしてみた。で作ってみた。 スパゲティ333gに対して、にんにく丸一個、油60ml。 しつこいかと思ったが、普通にうまかった。店で食うのってこれくらいギトギト な気がする。最近ひつじこの体重が落ちていかんので、 多少無理をしてでもカロリーを多めにしようと思っているのである。 48キロまでは増やさんとなあ。

オタマが乳をかむ。ひつじこ負傷。だが乳を出さないと泣く、怒る。 しかも、片乳では満足せず、両乳を出さないと泣く。 飲んでない方を手でいじりながら飲むのがオタマ流なのである。実に厄介だ。 いかにして、乳以外からカロリーを取らせるかがにわかに重要な問題になった。 そこそこ食うし、大きくもなっているのでその点に問題はないのだが、 ひつじこの身がもたん。 ひつじこはオタマを泣きっぱなしにすることに耐えられない子なので余計に大変だ。

大豆10kg注文。小豆はひよこ豆と大正金時を消費するまで買わない。 大正金時はとにかく煮崩れるのでごはんには入れられない。 ひよこ豆はアクがきつすぎて下茹でしないとごはんには入れられない。 ごはんに入れられない豆は使いにくい。じゃまなのでとにかく食べきろう。 大正金時はサラダだな。

大槻ケンヂが歌う「天使たちのシーン」が鬼気迫りすぎてすごい。 ひつじこはこれを聞くと号泣する。

教え方は、時間割り、分野分け、授業という形式、時間、設備、 その他を全部まとめて設計し直すべき段階に来ている。 どれか一つだけ変えてもたぶんダメだ。 しかし、実際問題それは不可能であり、そもそも新しいことは 必ず小規模でテストせねばならない。 やるとすれば塾などの私的なもので実験すべきだ。 既存の場所でやれば失敗のダメージが大きすぎるし、 そもそも既存の場所はそういった試みは許されない。必ずつぶされる。 ただし、設備だけに関して言えば、実用になる機能を持ち、 それが一見既存設備と大差ないものに見え、 しかも値段に問題がなければ、置き換えは可能と思われる。

黒板サイズのタッチパネルモニターを用意する。消去、色替え、 選択、レイアウト変更、すでに作った資料の表示、保存、 などの機能を統合的に持たせる。 四角い枠を手で指定すると、その中にwebブラウザを表示する、とかいうこともできていい。 文章では説明が難しいが、すでにこういう感じ機能を持つソフトはバラバラながら 存在はしている。 あとは、それを組み合わせて一つのソフトとしつつ、 黒板サイズのタッチパネルがあればいい。 これなら最悪でも従来の黒板と同じ使い方はできるので、 そこに関する抵抗は少ない。PCとプロジェクタを黒板と併用するのは、 黒板だけよりはマシだが、黒板に書く手間を省くためだけに使われて 授業のテンポが速くなりすぎるなどの害が生じることもあるらしく、 工夫は必要になる。工夫が必要になる段階で、全面的な採用は難しい。 また、黒板とは別の機械であるために、使う人と使わない人の間に断絶が生まれて 摩擦の原因になる。ひつじこは家庭科の上司からPCとプロジェクタを 使わないように言われたそうだ。

にしても、黒板サイズのタッチパネルモニターっていくらで作れるんだろ。 生徒の暴力行為に対する耐久性も必要なので、 バットで殴ったくらいでは壊れないだけの強さが必要だ。 ソフトは後から改良できるが、ハードウェアは一旦導入すると難しいので、 最初からそこそこ出来ていないといけない。 まあ最初は大人教育用に作るべきだろうな。そうすれば破壊耐性はなくていい。 サイズも数人の授業で良ければ小さくできる。 というか、すでに誰かやってるだろ。 一旦機械が導入されてしまえば、それを使って工夫してくる奴はいるはずだ。 それが積もり積もって10年も経ったら授業のやり方が変わってた、 というのが理想的な流れである。 まあ、それでも塾とかだろうな。既存の学校にそれを期待するのは無理だ。 なんか手伝えないかな。

調べたら黒板サイズのタッチパネルとプロジェクタを組み合わせた製品はすでにあった。 しかし、書いたものをスキャンして印刷するだけの ホワイトボードが電子黒板という名前で売られていることから考えて、 黒板サイズのタッチパネルモニターというのはずいぶんと遠い未来に思われる。 3.6x1.2mの黒板が15万円だから、これと競争力を持つ値段にするのは 相当大変だ。別の方向から攻めないとダメかもしれん。

2011年08月14日

断絶の時代を読み終えた。教育は本当にどうにかならんかな。 教師の仕事は教えることだが、教えることは本来一対一であることが最も効率が良い。 学ぶことと教わることを分離して考えるべきで、 学ぶことは一人ででき、教科書なり教材なりの質に問題がなければ本来教師は必要ない。 必要なのは監督だ。教師ではない。

とりあえず、黒板を抹殺することから始めるべきだろう。パワポの類に その場で書きこめ、書いたことを消せれば、 一度作ったものを使い回せる。授業時間という貴重なものを 浪費してはいけない。その上で、生徒が学ぶ部分については極力教師が 労力を使わなくても済むようにする何かを考える。 宿題の提出チェックや採点にはコンピュータが使える。 採点は作文の類でない限り自動化すべきだ。無駄な労力である。 そうすれば教師は本来の仕事である教えることに専念できる。 とりあえず、教育として扱われている仕事のうちで コンピュータで効率化できる部分はないかを徹底的に洗い出す必要がある。 そしてまた、教科書や教材の類は今必要とされる能力を学ぶことに最適かを 吟味しなおさねばならない。 考えてみれば教科書は学ぶための道具であって教えるための道具ではないはずなので、 授業中に教科書を使うこと自体がすでにおかしいとすら言える。 どこかで実験できんかなと思うが、さて。 どっかの高校で放課後にプログラミングの授業させてくれたりしないかなあ。 部活感覚で。

プログラミングの教科書を教材込みで考えてみたい。 ずっとそう思っているのだが、時間が取れん。 しかし、それが本当に大事なのであれば、まず何かを捨てないとな。 ドラッカーの教えに従って。

落ちこぼれの数は教育の品質を測る上で結構いい指標な気がする。 落ちこぼれの定義は問題になるだろうが。

2011年08月13日

アシモが原発作業というのを想像して、ひつじこがバカウケしている。 「未来に生きてる」だそうだ。 あの小学生みたいなアシモがworld orderみたいな感じで原発の中で動いてるのを 想像すると確かにおかしい。

そうか、尻がつったのは生理のせいか。栄養不足とかではなさそうで良かった。 ひつじこの栄養状態が悪くなったら私の責任だ。恥じねばならない。

文章あんまり進んでない。明日から家でバリバリ書く。予定。

断絶の時代を読み始めたが、メモしながら読む時間はないので、 読んだ後でパラパラめくりながら重要なところだけ書きとめておく。

1970年よりも前に、情報はエネルギーのようなものであり、 コンピュータが発電所のようなものだ、と言ったのは信じられないほどすごい。 情報そのものが重要になり、コンピュータそのものは必要ではあるが重要 ではなくなる、と言っている。もっとも、これを1969年に言うのは1980年に 言うよりもむしろ簡単かもしれない。 パソコンはまだ存在しておらず、巨大なコンピュータが計算機センターに 鎮座していた頃であれば、発電所に例えることは理にかなう。 発電所はまず工場などにバラバラに設置され、 次に大規模な発電所にインフラとして集約され、 そして今各家庭に分散しつつある。 コンピュータは大規模施設への集約と分散が重なって起こり、 数年ごとにそのバランスが揺れている状況にあるが、さて未来はどうなるんだろう。

プログラマーは工場における肉体労働者のようなもので、半熟練労働者である、 と言っている。状況は変わったか。 私にはプログラマーはそれ以上のものになっているように思えるが、 それは私が目にするプログラマが、世間的にはプログラマの範疇に入っていない という事情があるのかもしれない。たぶんSEの方が近いのだろう。 そう考えれば、狭い意味でのプログラマは確かに肉体労働者のようなものだ。

鉄道の効率と自動車の自由度を持つ輸送システムが都市に求められている、 と言うが、まだ現れてないな。

グローバル化と経済学。既存の経済学はイノベーションや生産性、技術、 人材などを組み込めていない。 これらの影響がデカすぎるため、こいつら抜きで作った理論はおおよそ 現実に当てはまらないのだそうだ。そうかもしれんなあ。

貧乏人を豊かにする、という考え方はダメ。貧乏人の生産性を上げなくてはいけない。 金を持っていることが重要なのではなく、金を生み出す能力を持っていることが重要。 援助は援助への依存を生み出す。株やら何やらの形で途上国に金が流れこんでいるが、 先進国の人間の気まぐれでそれが引き上げられた瞬間に大混乱になる。

それにしても、どの本を読んでもだいたい同じことが書いてある。 ただ、何を軸にそれらを構成するかが違うだけだ。 しかし、それだけでも価値がある。 それは同じ事件を違う登場人物の視点から眺めるマルチシナリオなノベルゲーに似ている。 素材がかなりの部分重なっていても、受け手の体験が異なれば、それは違うものだ。 とはいえ、さすがに同じエピソードが出てきすぎな気はするけどな。

CEDEC準備中。あんまり進んでないが、文章だけでB5レイアウト45ページ。 最終的に100ページくらいになって、図表とコードを入れてレイアウトを調整して 150ページ、というところか。 そこまでやったらパワポが作れる。 ところでパワポを嫌う人は多いが、私はそうでもない。 テーマとか変なイラストとかアニメーションとかは一切使わない。 矢印でつなぐ作図機能と表と色替えとフォントの大きさ調整ができればそれで良く、 それができる範囲でより良いソフトを探すのも面倒である。 pdfにさえできれば、発表するPCにパワポがインストールされていなくても問題ないし。

夜になったのでトイレで断絶の時代。 民営化について書いている。1969年にだ。 しかしもしこれがスティグリッツが批判する「考えなしな民営化」のきっかけになったのだ としたら皮肉だな。ドラッカーの民営化の意図は、 「サービスの提供相手によって評価され、いらなくなれば消滅させられる」 という性質を政府の各種機能にも持たせるところにある。 そこが満たされなければ、株を公開しようが、法的な扱いがどうなろうが意味がない。 実際東京電力は民間企業であることの利点がまるでない状態にあるように見える。 東京電力にもJR同様に競争相手がいれば良かったのだがな。 しかし電力会社の独占問題も時間が解決してくれるだろう。 太陽電池やガス燃料電池が流行れば発電が分散する。省エネが進めば依存度が減る。 原発が思うように動かなければ電気代が上がるので、分散発電と省エネがさらに進む。 さらに家庭用蓄電池が商売になれば猛烈な勢いで進化して、 太陽電池などの利用価値が上がり、また夜間に充電することで平滑化がなされる。 結果大規模発電所の数が減っても良くなる。 地震と津波と放射能、それに民主党に東京電力と、 まさに踏んだり蹴ったりの状態だが、 この状況がプラスに働くことが一つくらいはあってもいいし、そうなってほしい。 そして、そうしていくべきだ。

人間は企業を移れないといけない。そのために、退職金などのように 会社に留まる動機を与える制度は害だ。税制も含めて変えないといけないという。 退職金は人質として働いているが、これがこんなに普及しているのは 退職金として給料の一部をプールすることが税制的に有利だからだ。 そういえば、会社が金を溜めこむことを助長するような税制は良くないと も書いていた。 安い金利で誰かが貸してくれる確信があればそんなに溜めこまないわけで、 すぐに投資なり配当なりに回す方が経済の回転が速くなる。 これも税制がそれを邪魔しているらしい。

プログラマの生産性を上げるにはどうしたらいいだろう。 何が時間を食ってるかと考えれば、 まず第一に客を幸せにしない機能を作ること。 何を作るかをよく考えることが一番効率を上げる。 第二にバグを直すこと。 バグを探して直す作業にはえらい時間がかかり、 しかも前もって見積りすることが難しい。 だから、バグがそもそも出てこないような作り方を心がけるべきだし、 また、教育も重要になる。 一つ目はドラッカーの言うマーケティングの問題で、 根本的ながらもプログラマ個人個人ではどうにもしがたい。 とりあえず二つ目が私にできることだ。 しかし、開発手法みたいなものは正直好かんし、 そういうものは何を誰が作るかが決まってから考えれば済むことである。 規模や人材に依存せず常に最適な手法があるならいいが、そんなわけがない。 10人の時と100人の時では用いるべき手法は違うはずで、 それは何を作るかが決まってから考えればいい。 普段しておくことはいろんな手法について知ったり考えたりしておくことで、 これはむしろ教育の問題になる。 というわけで、結局教育だ。成果がわかりにくく、時間がかかり、 必ず後回しにされる。誰もやりたがらないわけだから、 私にとってはチャンスだ。

しかし、年内は何もできんなあ。仕事の密度が異常だ。 例によって「やらない優先順位」を定めるしかないのだろうな。 かなり細かい単位でどれくらい気合を入れてやるかを コントロールしないとあふれる。 「得られる成果/かけた労力」の比が最大になるようにしていこう。

トラックポイントに慣れてきた。キーボードも届いた。

2011年08月12日

そういえばBLOOD-Cを見たが、何も引っかからなかった。 地蔵と向かい合って真剣を構えてる絵は笑うところなのか。

オフログッズを注文。重曹5kg、クエン酸3kg、ビタミンCを250g。 それと、体調に不安がある時のためのマルチビタミン。

HHKB Lite2は二つ持っている。 二つで時期が違うのだが、新しい方は明らかにペコペコしている。 HHKBなんて買うなら2万出せということだろう。 それにしても今回出た静かな奴は高すぎる。 最初高値で買ってくれる層が買い終わった後に値下げするつもりなんだろうが。

ひつじこがいてくれて良かった。

2011年08月11日

No.6を4話まで見た。話は普通に面白くなりそうだが、なんというかホモ。 ここまであからさまだとその筋の人は飛びつくのか疑問だが。

シュタゲ17まで。フェイリスの話はかなり削られていたが、 これで十分な気がする。まだ多すぎるくらいだ。 もっと削って、その分クリスのメールを出した方がいい。

資産総額が毎日何十万と変化しておもしろい。 さすがに売り過ぎたと思ったのか、もう回復してきた。

今日はだいぶ勉強した。将来役に立つだろう。

Thinkpad X201sの欠点は発熱とバッテリーもちの悪さ。 6セルだとでっぱるので4セルにしたいが、6セルでないと時間が足りない。 熱もでっぱりも膝の上に置いて使う際にかなり問題になる。 X121eがもっと早く出ていればなあと思うが言っても仕方ない。 それにあれはあれでやけに重いという欠点を抱えている。

Thinkpad風キーボードを買おう。トラックポイントでも行けそうな気がしてきたし、 とにかくHHKB Lite2はうるさいのでなんとかしたい。 昔からこんなにうるさかったのか、それとも経年劣化してきたのか。

アマゾンで買えるのな。というわけで、注文。一緒にドラッカー。 マネジメントと経営者の条件とイノベーションと企業家精神。 キーボードに関しては別に必要な事情が出来たこともあって、 躊躇せず買った。ドラッカーも勇気を出して買った。 マネジメントは原書も一緒に。原書は訳書の1/3の値段しかしないので、 試しに買うくらいの覚悟でも買える。 他の本も1000円ちょいで買えるので、 英語を日本語並の速度で読めるようになったら英語で揃えたくなるかもしれない。 そんな日が来ればいいが。

私は理系に分類されるようだが、理系というには日本語に愛着がありすぎる気がする。

2011年08月10日

ドラッカーの本は基本的には社長が読むものに見える。 書いてあることをそのまま試せるのは社長級だったりこれから企業を作る人だ。 しかし、ここに書かれていることは下っ端にとっても面白いし、使える。 仕事に意義を見出せるようになる。 問題は、どうアレンジすれば下っ端向きになるかだ。

顧客志向とイノベーション。大事なのはこの二点だ。 前者は制約はあるものの簡単だ。いつも客のことを考えればいい。 今やってる仕事の客が誰なのかを考えるクセをつければいい。 組織がどうあれ、仕事がどうあれ、自分一人の頭の中は自分一人でどうにかできる。 イノベーションも同じだろう。一番大切なのはゴミを捨てることだ。 自分の頭を占めているものや、持っている仕事は定期的に チェックして、いらないものは捨てなくてはいけない。 もちろん、上から命令されてやっている仕事については勝手に捨てることは 許されない。しかし、それにかける労力を調整することはできる。

ライブラリを作る仕事であれば、直接の客は使用者だ。 ライブラリはその設計によって製品の作り方にも影響があるため、 間接的にはチーム全体に影響が出る。場合によってはそれが会社全体に広がる こともあるだろう。そうすれば、その影響まで考えなくてはいけない。 チーム全体が顧客で、会社全体が顧客だ。 もちろんこれでは曖昧すぎるので優先順位をつけるわけだが、 たぶん正しい優先順位は金を払う人を一番に置くことだ。 金を払う人にとってプラスになるライブラリを作ることが最優先。 これも曖昧すぎるので、順次より近くにいる顧客に目を移していく。 チームの開発が効率化するように作るのが次に来る目標だ。 上位の目標に沿った範囲で、より具体的な目標を立てていく。 直接使う人の要求に応えることは重要で、日常の作業としては これがメインにはなるものの、理屈の上での優先順位は低い。 足してと言われた機能でも、それがチームの開発に害をなすなら拒否せねばならない。 もしライブラリを会社全体で長く使うのであれば、 会社全体の開発に害をなすならいかに使用者の求めがあっても拒否せねばならない。 その判断を誰がどうやるか、という問題は別に残るが、原則はそうだ。 あとはどうやって独善に陥らずに済ますかを考えればいい。 使いたくないと言われれば全てはそれまでだし、 そもそも使う人の評判が高くないと厄介事の元になる。 なるほど社内サービスをやる人間は非営利団体に近い特性を持つわけだな。 目的を見据えつつも、拒否権を持つ関係者全員をそれなりに満足させなくてはならない。

捨てていい仕事、手を抜いていい仕事は何だろう。 そして、その分力を投入すべき仕事はなんだろう。 最終的に客の満足につながらない仕事は何か、客の満足につながる仕事は何か。 上が決めてくれれば楽だし、前はそうしてくれるものでそうしてくれるべきだと 思っていたが、ドラッカーを読んで考えが変わった。 結局私がやっている仕事に関しては私以上に知る人はいない。

下っ端であるうちはドラッカーを自分自身のマネジメントのために使っていこう。 しかし、考えてみれば今までもそこそこやっていたことなのだよな。 そのことに名前をつけていなかっただけで。 「いや、割に合わんだろ」と私はずっと前から言いまくってきたわけだが、 これに理屈と名前がついたことになる。

何がしたいかという問いはそれこそ大学に入った頃から問題になってきたわけだが、 34という立派なオッサンになってみてよくわかった。 私にはしたいことなんてない。 いや、あるにはあるのだが、大抵短期的で一瞬で終わり、人生をかけたいと 思うようなものではない。今のドラッカー祭がいい例だ。 一方、したくないことは明確にある。 よって、したくないこと以外で、一番人の役に立つことをすればいい。 嫌いなことでない限り、始めればどうせ面白くなる。 シェーダを書き始めるまでは絵に興味なんてなかった。 まあ長続きはしないのだが、 それでも技術と知識は残り、他のことに興味を持った時にもそれが生きる。

ショパンエチュードの4番をようやくおおむね覚えてきた。 これを12月末までに人に見せられるレベルにせねばならないというのはなかなか大変だ。 本当に発表会なんて出る余裕があるのか?

赤ん坊に玄米を食わせるのは良くないと言われているようだが、 とりあえずオタマは大丈夫だった。恐ろしく元気に育っている。 すでに玄米で生活している家庭は気にせず玄米をあげればいいのではなかろうか。 ただ、やわらかくするのはそれなりに面倒くさい。

今日は文章を40KBくらい書いた。明日はもっと書く。 ドラッカーは地味に役立っていて、何を軸にして書くべきかが だいぶ見えてきた。文体が上田っぽいのは副作用だが。 21日まで書いて、できたところまでで面白いところをうまく編集してパワポ化する。 パワポってPDFにできんのかな。できるならパワポが入ってないうちのPCでも プレゼンできるんだが。

文章を書きまくっているさなか、ふと気づいた。 キーボードがうるさい。私が使っているHHKB Liteというキーボードは 配置や大きさは気にいっているものの、キータッチと音はダメダメなのである。 まあそんなことは前から知っていて、周りの人には微妙に申しわけない気分でいたのだが、 こう一日に大量に打つとなるとさすがに気が引ける。 ちょっと調べたところ、金に糸目をつけないなら HHKB type-Sというものがあることがわかった。3万出す覚悟があれば、 もっと静かでキーの具合もいい感じのものが手に入る。 10年も20年も使うんだからいいものを、というお決まりの文句があるが、 本当にそれだけの価値があるのかは甚だ怪しい。 これを買うくらいなら、いいかげん躊躇してないでドラッカーを一式買うべきだろ。

カーソルキーは使わない。ファンクションキーは使用頻度的にfnキーつきでも 困らない。insertとかdeleteとかhomeとかはさっぱり使わない。 pageUp,pageDownは使用頻度的にfnつきでもかまわない。 caps lockは邪魔。そう考えると私はすっかりHHKBの配列に慣れてしまっている。 1万円ケチってリアルフォースにするのはイマイチだ。

それともう一つ選択肢がある。私がトラックポイントに慣れられるのであれば、 lenovoのThinkpad風キーボードを買えばマウスがいらなくなる。机も広くなる。 うちと会社が同じ配列になるのはいいかもしれない。 とりあえずしばらく家ではタッチパッド禁止にしてみよう。

そういえばX220のタッチパッドがクソすぎるせいで、ひつじこは 徐々にトラックポイントに移りつつある。慣れたら戻ってこられないと良く言うし、 私もトラックポイントに行くか。エディタで範囲選択するのには マウスを使っているのだが、 トラックポイントに慣れれば同じくらい素早くできるようになるんだろう。 開発環境がさまざますぎて特定のエディタのショートカットキー を覚える気にならないため、私はマウスの使用頻度が結構高い。

タッチパッドを無効にしてみた。これでしばらく過ごしてみる。

案外行けるな、トラックポイント。しかし、webだけ見ててキーボードを 使っていない時にはあんまりうれしくない。

現代の経営の上下巻と断絶の時代を予約。でもいつ読むんだろうな。 今はそれどころじゃないぞ。

2011年08月09日

児童館にご意見することはリスクを伴う。意見が受け入れられるかどうかは賭けで、 それなりな確率でひつじこが職員に嫌われる結果に終わる。 でも、それでも私は応援する。やれる限りのことをしよう。 なお、もし少しづつ穏当にやっていきたいならば、 何か一つだけ些細なことの改良をおねがいすることから始めるといいかもしれない。 例えば「なんで3時までですか」とか「小学生と触れ合う機会はあっていいと思います」 とか。それなら相手の価値観を否定しない。 ただし、劇的な効果も望めないし、単に「ダメです」で終わる可能性も高い。 しかし職員の中でも意見が割れていることを期待するならば、 そういうジャブを打つのもいいかもしれない。 もし、去年から継続している職員がいて、その人達の姿勢は去年から変わっていない、 というのであればこれは分の悪い賭けではない。ミーティングで議題になったりすれば 多少の変化は期待できる。 しかし、そうでないならば、いきなりストレートをブチこんでもいいのかもしれない。 また、職員にサービスを提供するという気持ちが根本的にない場合には 直接のご意見では効果が望めないので、 役所に投げて上から変えてもらう以外に手はないだろう。

ようやくSSDがギガ150円を切ってきた。 HDDならギガ3.3円とかなのでまるで話にならんわけだが、 一番高いHDDでも1万円付近ということは、HDDという事業はもう末期状態なんだろう。 差別化商品だったはずのノート用ですらギガ8円で、1万円を超える値段がつかない。 もし来年PCを買うならSSDにしよう。きっとすごく快適になる。

作業中一箇所だけどうしても自動化できず面倒くさいままの場所があれば、 そこをどうにかすることで状況が良くなる。当たり前だ。 ゲームで何かないかな。パッと見回した感じ見つからないが、 たぶん仕事を客観的に見なおすと いろいろ出てくるんだろう。 料理で言えば、15分煮る、というような工程がある場合に、コンロにタイマーがついてて 勝手に消えてくれると恐ろしく助かる、というようなものだな。 そういうコンロが現れるまでそこに大きな問題があることに私自身も気づけなかった。 自分がやっていることをもっと詳しく真剣に調べていかないと こういうものは見つからないのだろう。毎日が大切だ。

労働力ニーズ。この工程だけは人海戦術でやってて効率が悪い、というような時に それをどうにかする手を考えつくとうれしい。 ゲームならデバグだろうな。バイトを大量に雇ってひたすらゲームをさせるというのは どうにも馬鹿馬鹿しいわけだが、それ以外にいい手が浮かばないのも事実である。 根本的にバグが出にくい状態になったとしても、 最終チェックをゼロにするわけには行かないだろう。 何かありそうな気はするのだが。

ある工程の中で「ここがどうにかなればなあ」と 思う点が場合に起こせるイノベーションについての前提と条件。 すでに確立した工程であること。 「ここがどうにかなればなあ」の「ここ」が一箇所であること。 目的が明確であること。目的達成に必要なものが明確で、 そのための技術や知識がすでにどこかにはあること。 「もっといい方法があるよなあ」とみんなが思っており、 見つかったやり方が抵抗感を感じさせるものでないこと。 ずいぶん厳しい条件だ。 要するに「いつ誰が思いついてもおかしくない」 という所まで来ていないとダメだということだ。 問題がはっきりしていても、 解決する技術がなければそれはリスクのある技術開発が必要になる。 解決策を思いついても、みんなが嫌がればそれまでだ。 ゲームで言えば、絵づくりに関して 「ここにこだわってもしゃーないし、コンピュータに自動でやらせようぜ」 とか言っても、絵描きが納得しなければそれまだ、ということだろう。 絵描きみんなが「この作業面倒くさい割に効果薄いよな。 どうにかなんねーかなー」とずっと思ってきたような ことでないと難しいということだ。 まあここに関してはゲームの場合数人納得させればいいだけなので簡単だが、 会社全体とか、産業全体とか、 国全体みたいなことになると容易には決まらないだろうという想像はできる。 弁護士向け判例検索サービスはかなり長いこともうからなかったらしいが、 それは弁護士が「俺らの強みは記憶力で、 それが無用になるようなものは困る」と反発したためらしい。

産業構造の変化。数年以上安定していると人は慣れてしまう。 なるほど任天堂がプレステにやられるとは思わなかっただろう。 しかしプレステはほんの1年か2年で状況をガラリと変えてしまった。そういうわけで、 産業構造はあっさり変わる。これに乗り遅れないでいられるか、ということだ。 しかし、みんなここで足踏みして失敗するわけで、 これがチャンスだと言われてもなかなか難しい。 でも、そこはドラッカー。こういう時にはそれが起こる、 ということを分類してくれている。

市場がすごい勢いで成長する時。確実に業界地図が書き換わる。 なんか急にもうかるようになったなあ、 と思って喜んでいると、気がつかないうちに既存企業がもうけている以上に もうけている中小企業がいることに気づき、眺めているうちに抜かれることになる。 市場規模が倍になる前にはそれが起こるという。

関係なさそうな技術がくっついた時。 ネットワークとゲームがくっついた時にガラリと変わったのがいい例だろうか。 何か技術が出てきた時にはよくよく見ておかねばならないのだろう。 ARがそうなるのかどうかはわからないが、 無視していいものではないわけだ。 あとは、クラウドとかもゲームとくっつくのかもしれない。 莫大な記憶容量と結合のゆるさを 生かしたゲームザインはありうるだろう。自分のマシンにセーブしなくていいのは楽だし。

仕事の仕方が変わった時。 医者が個人事業主から従業員へと変わり始めた時にいろんな商売が出来たという。 ゲームも過去に数人で作るものから数十人数百人で 作るものに変わった時に分業特化が進んでいろんな商売ができた。 ミドルウェア屋とか。プログラマの仕事の仕方って変わらないんだろうか。 見当もつかないが考えてみて損はない。

大企業が仕切っている市場ほど、この変化で得られる旨みが大きい。 大企業はふんぞり返っており、 床下でにょきにょき生えているタケノコになんてまず気づかない。 よって、独占が激しい分野ほどお得であるという。

人口構造の変化。今年生まれた赤ん坊の数がわかれば、 5年後に5歳の子が何人いるかはほぼ確実にわかる。 6年後にランドセルを買う可能性のある子供の数もわかる。 15年後に高校入試をする子供の数もわかる。 60年後に定年する人の上限までわかる。 こんなに確実なものはない。何故利用しないか、という話になる。 しかも、これを利用できる人がすくないために、さらに価値が高まる。 たいていの人は過去しか見ない。今までそうだったものが変わるとは思わない。 さらに、人間は激しく近視なので、5年先のことなんてそうそう考えられない。 制度がそれを助長することもある。一年単位で決算して予算を決めている組織だと 再来年のことなんて考えなくなる。 そういうわけで、これに気づけた企業はかなりの期間邪魔されずにおいしい思いをできる。 教育業界は特にこのへんは気をつけるべきだよな。ひつじこが働いていた学校は、 少子化に備えて広範囲にスクールバスを出すことで生徒を確保する戦略に出たそうだ。 田舎に分散して似たような位置づけの高校がいくつかある時にはなるほど有効に思える。 関係ないが、ひつじこはその学校をかなり高く評価している。 また働かせてやりたいものだが、それには私が会社をやめねばならん。 自営業でもやらないと辛いよなあ。

人口統計を見てみた。 今年生まれた子は、私と同い年の人間の半分ちょいしかいない。 学校の数が変わらなければ、クラスが半分になる。 給食は規模が減れば効率が落ちるので、 給食は割高になる。何かイノベーションが起こる予感がある。 学校の数が変わらないわけはないので、学校は減り、 平均通学距離は増える。なるほど、バスを出すというのは理にかなう。 一人当たりの教育費は増えるはずで、どっかり金をかけるタイプの教育産業が伸びる。 逆に薄く広いタイプの教育産業は衰えるだろう。 月2000円取って算数の初歩を教える、みたいな業者は辛いはずだ。 子供服が教育同様高級化するかどうかはわからないが、その可能性は高い。 実際UVカット子供服のメーカーがあるが、 けっこうもうかってそうな雰囲気がある。数千円以上とべらぼうに高いが、 うちみたいな家族は平気で買うのである。 いずれにせよ、安いだけの子供服の需要は落ちるだろう。 遊びであるゲームであっても、教育効果が認められれば売れるかもしれない。 任天堂はDSを教室で使う試みに 熱心に見える。ちなみに、子供が劇的に減り始めたのはもう20年も前のことで、 そこに目をつけた企業はとっくに相当もうけているはずである。 今更気づいても遅いといえば遅い。 しかし、もう少し経つと、その減った子供が親になる時代が来る。 30から40あたりの年齢の人間は1800万人づついるが、 これが1000万人づつに減る時代がすぐに来る。 そうなると子供の数はさらに2/3になる。 20-30歳は激しく人数が変化しており、 0-5才児の数にあまり変化がないのは何かが補っているためだろう。 5年も経たないうちに子供の 数はさらにガツンと減る。 すでに30代の未婚率がえらいことになっていることもあり、予想以上に減るかもしれない。 統計を数分見ればそれくらいのことはわかる。なるほどなあと思った。

認識の変化。社会の雰囲気。 コップに半分水が入っていると見る雰囲気から、半分空だと見る雰囲気への移行。 アメリカでは平均寿命が伸びて健康状態が良くなるにつれて、 健康ノイローゼに陥る人が増えた。半分空だ、という認識になったわけだ。 そこにチャンスがある。このパターンは多い。アメリカの黒人の地位は昔に比べると 大幅に改善しているようだが、それだけに未だ改善していない人々が目立つ。 日本でも、世界的水準で考えれば貧乏な人は稀だが、 稀なだけに貧乏な人は目立つ。貧乏が当たり前だった世界が今の世界に 変化する時にはきっと大きなチャンスがあったのだろう。 ただ、行けると思ったら外す危険もあるわけで、 小さく具体的に始める方がいい、とのこと。 アタリショックのことが書かれている。

技術のイノベーション。イノベーションといえば技術というくらいに花形なのだが、 ドラッカーによれば一番期待できないのがこれらしい。 まず、出てきた技術がまともに使える状態になるには25年から35年かかる。 今はそんなことはないだろうと思うが、ドラッカーによればまるで変わってないらしい。 メガネは何百年も前の発明だが、30年で普及した。 コンピュータも1920ごろには必要な技術が揃っていたのに、 まともなものが作られたのは1946年だったらしい。 遺伝子工学なんかも確かにそうで、実は今なお大きな産業とは言えない状態になる。 ネットワークも学者向けだったり軍事向けだったりしたものが 商売に使えるようになるにはかなりの時間がかかった。 そういうわけで、「いっちょ新技術で大物になってやる」と思っても難しいのである。 それに加えて、社会的な状況というものも重要になる。どんなにいいものを作っても、 客が買わなくては意味がない。買える値段で、商売になる量を生産できねばならない。 科学者がしばしば失敗するのは、そこまで考えていないからだそうだ。 科学者の失敗後に戦略を持った素人がその成果をもらって繁栄するパターンが多い。

考えてみればうちらの言う新技術導入というのは、他人がすでに使える状態にしたものを 他の人が考えなかった用途に応用することだよな。 技術力がある、とは、他人の技術を持ってくる能力のことで、 自分で技術を編み出す能力ではない。

戦略も重要。何か発明して商売に失敗すれば、 その発明はあっという間に真似されて他の人がもうけることになる。 成功したとしても、すごい勢いで他人が寄ってきて市場を奪っていく。 というわけで、ハナっから完璧に製品に仕上げて他人を寄せ付けないようにするとか、 他人が真似できないコアに関して集中して他人が追ってこられないようにするとか、 そういう戦略を 前もって考えておかないといけない。

アイデイアによるイノベーション。曖昧すぎてまるで信用できず、めったに儲からないが、 イノベーションの大半はこれらしい。 というわけで、偶然思いついたならいいが、 これを目当てに人材や金を突っ込むのはやめておけと ドラッカーは言っている。ただしそれはそれとして、そういうものに熱意を燃やす人に 冷水をぶっかけたり、邪魔したりすると社会の勢いがなくなる。

すごい。「イノベーションの原理」とぶち上げた。 こんな大風呂敷を広げられる人はそうそういないだろう。

一つ目。機会を分析しろ。日常的に探すクセをつけ、 また、探す手順をシステム化しないといけない。 二つ目。知覚を軽視するな。外に出て見ろ、聞け。 顧客を見ろ。三つ目。単純化しろ。焦点を絞れ。 何か一つ改善すれば大きく全体が変わるような何かに集中しろ。 「何故自分には思いつかなかったか」と思うものが最高のイノベーション。 「オレも思いついてたんだけどな」とか言い出すバカが たくさん出るほどいいイノベーションである。 四つ目。小さく始める。 五つ目。トップを狙え。 そのイノベーションが作り出す市場を支配しなくてはいけない。 市場が大きいか小さいかは ともかくとして、ともかくも一番になる気合がないとうまく行かない。 すぐに他社にやられる。

レールを走りながら電気を供給される、という発想が電車を生み出した。 そう考えるとバカみたいに単純だ。 でもなかなか思いつかなかったわけだよな。それが。 電車を思いついた奴がいるから電車があるのだ、 という簡単なことも、よく考えてみると面白い。

やってはいけないこと。一つ目。 普通の人が扱えないものを作る。 作る側にしても使う側にしても、普通の人が扱えないとダメ。 二つ目。多角化してはダメ。市場で絞ってもいい。「誰に売る」と決めると集中できる。 三つ目。未来のためにやっちゃダメ。そのうち成果が出るさ、 とか言うとダメ。絶対やり遂げられない。 よって、完成すれば今成果が出ることをすべき。 もちろん、未来にもっともうかるようになる、というならかまわない。

三つの条件。ドラッカーって何かと繰り返すよな。 しかし、繰り返し違う言葉で語られるとイメージがだんだん鮮明になって くるわけで、変に要約されても困る。 で、一つ目。集中しろ。これはもう言った。 二つ目。得意なことでやれ。好きなことでやれ。 自分の会社とか担当する人材の個性を見てやらないとダメ。 三つ目。社会を変えてこそイノベーションである。 市場に投入して成果をあげてこそのイノベーション。要するに、儲けろということだな。 危ない橋を渡る人がイノベーションに向いてるというのは誤解で、 どこまで冒険できるかを線引きした上で、 最小の危険で済むやり方を考える人ほど成功するらしい。 危険を本当の意味で怖がるからこそ、徹底的に考える。 あとは何もしない事の危険を正統に評価しろということだが、 たいていの人は「何もしないこと」は危険ではないと思い込む。これは私もそうだ。

今はすでに企業が主体の社会なので、人材も金も企業が持っている。 ベンチャーがそれに対抗するのは難しい。 大企業は成功した分野があるせいでどうしても頑固になってしまうのが問題なのだが、 それさえどうにかすれば大企業の方がイノベーションしやすいはずだ、という。 実際、規模はあまり問題ではないらしい。

すでに成功している事業は、それで金を稼いでいるので問題が 起こったらすぐにどうにかしないとマズイ。 そういうわけで、新事業は後回しになる。 大企業がイノベーションできないのはこれのせいだ。 イノベーションが個人のひらめきによるものでそれを組織が抑えつける、 という見方は間違いで、 組織力でイノベーションする、という方向で考えればうまく行く。

また箇条書き。一つ目。変化を怖がらず機会だと思う組織でないといけない。 そして、イノベーションを仕事の一つだと 思わないといけない。二つ目。成果を測定、評価しないといけない。 三つ目。組織、人事、報酬をイノベーション込みで 考えないといけない。 四つ目。やってはいけないことを知らないといけない。これは前に出てきた奴だな。 これは大変だろう。現にもうかってる仕事から 優秀な人を引っこ抜いて、もうかるかさっぱりわからん仕事に つけねばならない。抵抗は凄まじいだろう。そして、そんなものの評価は難しい。 最初からもうかるはずもなく、 「もうかってないからやめよう」と言いたくなるに決まっている。 そして、もうかっていない部門にいる人に高い給料をあげる気にもならないだろう。 しかしあげないと本人は嫌になる。 あげれば周りの人が「穀潰しに金やるのかよ」と文句を言う。 文化ごと変えないと無理だ。結局大半の会社では、 たまたま誰かが思いつくのを待つことになるわけだ。 それでも、思いついて成功した後にそれをフォローする会社ならまだマシで、 思いついて成功してもスルーする会社の方が多そうな気がする。

イノベーションを日常化し、イノベーションする人はえらい、 という価値観が組織に満ちていないといけない。 どうしたらそうなるか。ここで出てくるのがいつもの「廃棄」だ。ダメなものは捨てろ。 今から始めるとしてもやる価値があるものか。 そうでないなら捨てる。どうしても捨てられない場合も、 それ以上資源をつっこまずに済むようにし、できれば資源を他へ移し始める。 3年ごとにあらゆることについて検討し、続ける特段の理由がなければ捨てろと言う。 捨ててもよければ捨てろではなく、続ける理由がなければ捨てろだ。 要するに3年で捨てるのが当然、という雰囲気を つくれということなのだろう。確かにそう言われればがんばるだろう。 死体が速やかに埋葬されるとわかっていれば、 死体のことはほうっておいて別のことをする。

そのイノベーションに最適な人材を空けておかないといけない。そのためには、 いい人材が過去の事業に貼り付かないように、 とにかくいらんものを捨てることを習慣化しないといけない。 そして、いい人材ほど新しい事業に投入される、 ということが当然のこととされないといけない。 メイン事業でないよくわからん新事業に投入されることが 名誉であるような空気が必要なわけか。 そこまでできれば後はほうっておいても回るようになるのだろう。 ライフサイクルを意識しろとかいろいろ書いてるが、 とにかく捨てないことには始まらない。 どの分野でいつまでにやるか、というのも、 捨てることが習慣化すれば必死で考えるだろう。

「捨てるに値するというなら、代わりにやることがこれよりも価値があることを証明しろ」 と捨てる事業に愛着を持つ人は言うよな。普通に考えて。 捨てても、何もしなければ人が余るだけのことだからだ。 そして、どんなに計画を練っても、 「そんなの絵に描いた餅じゃん」と言われればその通りだ。 これに関してはトップの強い意志がない限りどうにもならない気がする。 少なくとも、ある程度の規模の部門で、その長がバーンと決断を下す必要がある。 でないと、結局できることは個人のひらめきに期待することだけになる。 最初は小さく始めるにしても、最高の人材は平均的な人材10人分以上の 価値を持っていてもおかしくないわけで、 10人突っ込む以上の負担になる。 それに、10人でやってた事業を捨てて優秀な人3人で何かを始めれば、 そんなに優秀でない人が7人余る。これをどこに使えばいいのかという問題もある。 しかしまあ、こういう問題が山ほどあるにしても、 結局未来のために何かをしないと会社全体が死ぬわけで、 ある程度の地位にある人はどこかで決断せねばならないわけだ。 実際の面倒はその後の事になる。

トップが若手と定期的な会合をもち、トップが若手の話を聞くのがいいらしい。 下から上へのコミュニケーションが全くないと腐るし、 下の人間が会社全体を見る機会になる。 そして、「うちの会社はみんなが主役だ」的なことをアピールすることにもなる。 ドラッカーの話はドラッカーがコンサルしてる会社で実際にあった事なので、 実際にこういうことをやってうまくいっている会社があるということだ。 が、そんなことを言われても私はトップではないからな。なんとも言えん。 さて、仮に社長なり部長なりに「この会社のチャンスや問題は何か。 新事業、新技術、会社の方針などについて、意見を言ってくれ」 と言われたとして、どうしたものか。 しかも、ドラッカーによれば、それで発言した内容には責任を持たねば ならないという。「これが足りないからこうすべき」と言うならば、 自分でやって、しばらく後に報告しろとのこと。 あーでも、もし本当にそういう話になったらたしかに燃えるわ。 ちょっとがんばる気にもなる。 もっとも、ここで言う若手はたぶん課長とかのレベルのことだと思う。

新事業は別部署にすること。P&G、ジョンソン&ジョンソン、 3M、といった会社はそうしているらしい。 ということは、捨てた事業で空いた人材はそういう部署に動かせということだな。 同じ場所に机がある状態でやってはいけないということだ。 給料の計算方法まで変えるべきだと言う。 しかしそうなると大事だ。同じ机で別のことをさせておく程度で 済むならそうしたいと思ってしまいそうである。 しかしそれだと結局ダメになるんだろうな。 前の仕事に煩わされたりもするだろうし。 「あれどうなってたっけ」とか聞かれるだけでもかなり効率は落ちる。

天才的なスキルとか、天から降ってきたひらめきとかがなくても、 毎日の地道な努力と仕組みづくりでいい仕事ができるのであれば、 そんなに素晴らしいことはない。 どうすればプログラマという集団がいい仕事を できるのかを考えることを私の課題とするのは 悪くない選択かもしれない。自分で学問を勉強したところで、 結局他人が作った技術を実装して組み込むことくらいだ。 しかし、そうやって作れるのは比較的基本的なもので、 本当に最先端な込み入ったものは理解すらおぼつかない。 そういうものは得てしてブラックボックス化してもあまり問題がないケースが多く、 買ってきて終わりにした方が早い。 まあ私は皆が買った方がいいという物でも作った方がいいと思うタチだが、 それにしたって音声認識や画像認識を自前で書けるとは思えない。 それに逆説的だが、教育その他がうまくいって 皆がいろんなものを作れるスキルを手に入れれば、 かえってより多くのものを買って済ますようになるだろう。 スキルが低いほど買ってきたものを使うことにも問題が出やすい。 たいてい売り物は高機能で使いこなすのも難しいからだ。 逆に、買ってきたものが多少クソでも、 問題を指摘したり推測したりするスキルがあればどうにかなる。 こちらにスキルがなければ買ってきたものがクソだった時に手の打ちようがないのだ。 そういうわけで、スキルに合った低機能なものを 自作した方が教育上も安全上も有利なケースがある。

公的機関は何故イノベーションを行えないか。また丁度いい話題になったものである。 何故児童館はああなのか。なお、ひつじこによれば、 大田区は児童館職員の非正規化を進めている。 さらに、給料が月給から日給になりつつある。要するにバイトだ。片手間だ。 それで児童館の目的は何かなんて考えもしないだろうし、 利用者が少なければ少ないほど良いと考えるのも当然だ。 ひつじこによれば、4月になってから大田区萩中おおたっ子ひろば において他の親子と会った回数はゼロだと言う。 3月までは「今日は何才児と会った」みたいなことをしょっちゅう聞かされたが、 確かに言われて見れば 最近は全く聞かなくなった。何度か私も行ったが、乳幼児を見たことはない。 そこまで劇的に状況が悪化しているのに何の手も打っていないということは、 ほぼやる気がないと見ていいだろう。 去年から継続している人もいるようだが、去年感じが悪かった人だけが残っているそうだ。 感じが良い人は全員いなくなったという。こうなると、おそらく上を通すしかあるまい。 それにしても、非営利組織はどうすればモラルを保てるのだろう。 どうすれば工夫してより良くしようという気になるのだろう。 ドラッカーは何かを言っているだろうか。

利益によって評価されない組織は、すでにやっていることをやめることができない。 どんどん大きくなろうとする。大きくなることが成果だと考える。 予算が大きいほど評価が高いことになり、 予算が大きくなるのはやることが増えた時である。 結果、どんどんやることを増やして大きくなろうとする。 このへんは会社の中の直接客に売るものを作らない部門も事情は同じだが、 会社そのものは客に物を売っているため、トップがやばいと思えば間接部門にも手が入る。 しかし、公的組織はそれすら起こらない。 さらに、会社は客が絶対で、株主や従業員よりも客の優先度が高い。 しかし公的組織ではそれがなく、関係者全員がほとんど平等に影響力を持つ。 誰か一人が文句を言えば、それでもう進まない。 さらに、公的機関は善を追求する。なので、 会社はうまくいかなければやめるが、 公的機関はうまくいかなければさらに努力を増やして対処する。 じゃあ、どうすればいいか。

まず、目的をはっきりさせないといけない。最終的な目的は何なのか。 すべての活動はその手段となる。 次に、達成可能な目標を決める。達成できれば次を考えるし、 達成できない時には目標が無茶だったことを認めて 考えなおす。そして、会社と同じに、 機会を見つけて活かそうとする努力が日常化している必要がある。 変化を怖がったり敵視したりしてはいけない。

なるほどそういうふうに最初から組織を作っておけば、 あるいは絶対的な力を持つトップがそういうふうに 改革をすれば、そうなるだろう。そしてうまく行くかもしれない。 しかし、現にああなってしまった児童館をそういう方向に持っていく 手段はあるのだろうか。 もろもろの手段を通じて実態を広く知らせ、 徒党を組んで意見をぶつけ続ける努力をする、というよく見るやり方は、 ほぼ確実に目的と手段がすりかわるだろう。 そんな殺伐とした世界にひつじこが入っていくのは忍びない。向いてなさすぎる。 というわけで、意見箱に手紙を入れてくることはするにしても、それ以上は難しいだろう。 そういえば去年までの責任者は相当できた人っぽいわけで、 うまいことその人に現状を伝えることができれば その人のツテで伝わって少しは効果があるかもしれない。

児童館の持つ機能は企業でやれないものか。 額とサービスによるが、うちらは金を払う意思がある。 他の人もそう思うような何かを達成できれば商売になるのではないか。 ただそこで邪魔をするのが既存の児童館と補助金漬けの保育園幼稚園だ。 民営で可能なものは民営化すべきだが、補助金で有利になっている公営が横にあっては 民営で採算を取るのは不可能になる。 このまま公営がどんどん劣化してタダでも使いたくないと思う水準まで 落ちればありうるが、そこまで行くにはさすがに時間がかかるだろう。 まあすでに児童館はそうなっているのだが、 必要性が高い施設ではないだけに、企業が参入してくるほどの魅力はない。 とりあえず、行政は児童館のスタッフを民間に委託すべきだろうな。 もちろんちゃんと競争させることで、 コストと品質を両立させる。 もちろんその時には測定できる成果の基準を設けることが必要だ。 もしかすると、最終的にそうするための過渡期なのかもしれない、 という気もしなくもないが、 あれでは困る。

ベンチャーはどうやってアイディアや技術をもうけにつなげて会社を確立できるか。 まず市場に焦点をあわせること。やりたいことをやってるだけじゃダメだ。 次に、キャッシュフローと資金。給料を払い続けられねばならず、 借りた金は返せなくてはならない。金勘定と管理ができる人材を軽視してはいけない。 最近知り合いがベンチャー会社の経理をやめたことを思い出した。 そしてマネジメントのチーム。そして、創業者は自分の向き不向きを考えて、 会社の中での位置を決めておくこと。どれも大事だが、最初のは面白い。 なるほど市場に焦点を合わせていれば、 人向けの薬が犬に使われたからと言って怒ったりはしない。よろこんで売るだろう。

市場調査は助けにならない。新しいものは市場がないので、調査する対象がない。 調べるには、調べる対象を決めねばならず、その時点で偏見が入り込む。 予期しない使い方をされている場合は数値には出てこないだろう。 なるほどその通りに思える。 というわけで、何か変なことが起きたら即座に外に出て 何が起こっているか見に行く仕組みを作っておく必要がある。 「客はこういう理由でこれを買っている」という思い込みがヤバイ。 絵が綺麗なことがウリだったゲームが、5年たってもそうだとは限らないのである。

ベンチャーの創業者がどう他人の力を借り、 さらには他人に任せて自分の身を引いていくか、 というのは無縁だが面白い。任天堂の山内氏の話を思い出す。 子会社の社長を引きぬいて後を継がせるというのは相当なものだ。

だんだん、大きなことをやれるかどうかは能力の問題である以上に、 意思と努力の問題であるような気がしてきた。 基本的な姿勢はドラッカーを始めとする経営の名著にいくらでも書いてある。 あとは、実際にどれだけ本気で取り組むかの問題なのかもしれない。 私ももうちょっと大きな仕事をすることを目標としてもいいのだろうか。 とは言え、「絶対やれます。任せてください」なんてセリフは言えないし、 言うべきだとも思えない。 しかし、そう言わないと任せてもらえなかったりもするのが難しい。

戦略の話を読んでいて、多機能はダメだよなと納得する。多機能はダメなんだよ。 10人の人々がそれぞれ2つの機能を使うとする。 ある機能Aについては全員が使うとすれば、機能は11個必要になる。 この場合、10人全員にとって11個の機能のうち9個は邪魔だ。 したがって、彼ら全員にとってこの製品はいい製品ではない。 10人の人から特に重要な3人を選んで必要十分な機能を持つ3種類の製品を作る方が、 その3人の満足は大きい。 確かに全員には売れないが、すでにそういう多機能製品が存在しているならば、その 客を奪うことは確実にできる。そういう客がいるとわかっているわけだから。 ライブラリでもなんでもそうだと思うんだよな。どんどん機能を追加して、 それがウリになると思うのは 大きな間違いだ。よく構成されていたとしても、いらない機能は邪魔なだけである。 客にとってみれば自分にとってどうでもいいものに 労力が割かれていることはいい印象を与えないし、 実際一つ一つの機能の完成度が劣っているケースが多いので客にとっても不利益になる。 ゲームも同じだと思うのだが。

新しいものを開発して市場を独占した時は、最初からギリギリの安値で売って、 さらには自発的にそれを陳腐化させるように イノベーションを起こすべきである。 もうけようと値段を高く設定すると、敵につけいる隙を与える。 改良が止まるのも同じようにダメだ。 とは言え、長い開発期間にかけた金を回収するためには ある程度はもうけないといけないし、 そうでなければ価値がないとも言えるのが難しいところだな。 しかし、目的をもうけることではなく、 もうけ続けることに置くならば、自然とすべきことは明らかになるように思う。

「イノベーションの機会は暴風雨のようではなくそよ風のように来て去る」。 しびれるな、この言葉。

「イノベーションと企業家精神」を読み終えた。「経営者の条件」は働く人全てだが、 この本は特に科学や技術の開発に携わる人におすすめする。 もちろん経営寄りの人やベンチャーをやってる人が 読んでも得るものは大きいだろうが、 たぶん科学や技術に関わる人は私と近い感じ方をすると思うので特に読んでほしい。 何人かの顔が思い浮かぶ。

やっぱり買って人に貸せるようにしよう。そしてトイレに常備しよう。 マネジメントなかなか図書館から来ないし。明日。

鮭と大根の煮物は成功した。昆布ダシがメインと考えれば、 鮭ダシが薄くてもかまわない。そして、実際には十分な鮭ダシが出ている。 うまい。単純に鮭がうまいのだと思う。 しかし二日目にしてすでに酸化して味が落ちている。 鮭を入れたものは二日目が限度で、理想的には一度で食べ切るべきである。 なお、残った汁には米を入れてオタマの粥を作ることにした。

2011年08月08日

リズム感の話。8拍子あるうち、3つあるいは5つ選んで手を叩く。 奇数番目と偶数番目が混ざるようにするといい。また1番目は叩かないようにすると おもしろい。例えば236とか。できてきたら、そのうちのどれか 一つだけを強く叩く。そうすると流れが出来てくる。 慣れたら他の組み合わせを試す。ひつじこに提案したのはそんな練習。 これができるようになったら、16拍子あるうち、7あるいは9個選んで手を叩く。

ドンスカパンパン応援団は楽譜はハ長調っぽいはずだが、 音階はドレミファソラシドではない。不思議だ。 すぐ転調するし。

児童館は客が喜ぶほど職員が得をするしくみを作れないとダメだろう。 そのためには、客が喜んでいる度合を何か数字にできるもので測らないといけない。 児童館の場合は客の数がおおまかには指標として使える。 ただ、どうしてもそういう数字は本来の目的からズレてくるもので、 変なキャンペーンとかをして無理矢理数を増やそうとするバカが出る。 そこは「こういう方向はナシで」という規制をうまく作ることで対処する必要があるし、 もちろん、「最大の目的は客を喜ばせることで、そこから外れたらダメだから」 ということをしつこく言い聞かせないといけない。

ゲーム屋でもそうだよな。客が喜ぶとうちらの給料が増えるような人事を 作り出せなければ長くない。利益はいい指標だが、 人間は近視なので、長期利益と短期利益のバランスがどうしても短期に偏りやすい。 そこは折にふれて根本原則を言い聞かせると同時に、 「これはナシな」という規制というかルールというかを設ける必要がある。

理屈の上では効率は中央集権的な組織の場合に最高になる。 つまり、同じことをする人が組織の中に一人もおらず、 人はもっとも得意なことだけをひたすらやり続ける、 というのが最良だ。しかし、これが過ぎると、 それぞれの仕事をする人が一人しかいないために 人がいなくなると大変なことになるし、 また、人材も育たない。さらに、各人が全体を見ないで仕事をするため、 製品としての質が保たれにくくなる。 また、ある部門の生産物が他の部門にとっての材料になる場合、 所詮会社の中なので馴れ合いになりやすい。 それぞれが会社っぽい扱いになって、それぞれが黒字でなければならないと いう制約をはめることで緊張感が出るし、 それぞれの部門でリーダーが育つ。 デカい会社を小さな会社に分けてそれぞれで採算を取ることを求めるのは その意味では理にかなう。ゲームのような産業の場合、 比較的小規模な部門でも客に直接売れるものを作れるため、 こういう分割はやりやすい。何百人もいる部門が材料だけを作っている 会社ではなかなかやりにくいのだ。 そういう意味で、全体の戦略の範囲内で各部署が独自に商売をするのは 悪くない。部署同士が競争することで緊張感も保たれる。 GMでは、社内で作っている部品であっても、他社から買った方が良いなら そうしていいことになっていたそうだ。実際にそういうことが 行われていたのであれば、部品を作る部署だって馴れ合ってはいられなくなる。

昇進のシステム。末端の者まで納得できる昇進システムとは何か。 昇進の基準が皆に納得されていないと、 そこから外れた人が自分がないがしろにされていると感じてしまう。 そう思う人が多ければ多いほど、年功序列にして組織を窒息させる危険が増す。 年功序列は頑張った人が報われないので機会の平等をもたらさないが、 理由がわからない選別よりは年功序列の方がマシだと思われてしまう。

学歴重視の問題。学歴は生まれた家のお金の量とある程度比例する。 金がなくても学歴を得られるようにする 工夫は必要だが、それだけでなく、 学歴によって人間を選抜する習慣を改めなくてはいけない。 これは1948年の話で、今のアメリカではだいぶ改善されてるんだろうと思うが、 日本はどうだろう。ゲーム会社は相当マシな部類だろうと思うし、 他の職種でも相当学歴の魅力は薄れていることだろうとは思うが、 実際どうなのかはわからない。

能力を試される場がない。大企業になるほど専門化が激しくなる。 同じことをずっとやっていれば確かに効率は 最大になるだろうが、成長がない。 また、その人がどのような素質を持っているかがわからない。 末端社員が会社全体のことを考える必要もないし、そもそも経営幹部に会えることもない。 お互いがお互いのことを学ばない。これは今でも同じように問題だろう。 昔の日本企業は人をクビにできないがゆえに嫌でも人間を育てねばならず、 教育やキャリア設計に会社がかなりの手間をかけていたと聞く。 しかし、新しい業界、例えばゲーム業界においてはそういう 姿勢はあまり見られないのではなかろうか。 人がすぐ会社を移ってしまうのであれば教育する気にならないだろうし、 自発的に学べる奴しか取っていないと思いこめばやはり教育する気にならない。 しかし、今となってはそうは行かない。 もちろんそれぞれの管理職ごとに考えは違うはずで、 ちゃんと教育まで考える人もいるだろうが、 会社として制度なり何なりで教育についての考え方を示さない限りは 結局配属された場所で未来が決まるような状態になってしまう。

仕事の意義を感じられるようにしなくてはいけない。 でないとダメになる。仕事が単調であることは良くないが、 効率と安心のためにはある程度の単調さは必要で、 いつも予測できないことが押し寄せてくるのはやはりストレスになる。 人が疲れ、いやになるのは、仕事の単調さそのものよりも、 仕事に意義を感じないからだと言う。 女性が単調作業に強いという調査結果があるが、 それは女性が「結婚までの一時的なものだ」「これは人生そのものではない」 と思っているからで、 女性であってもそれが人生そのものになれば同じように 単調作業を嫌がるようになるだろうと言う。 戦時中の話だが、ある工場にその工場で作った部品を使った爆撃機を運び込んで、 それがどう使われるのかを説明した所、劇的に士気が高まったらしい。 ナチも戦争が仕事の目的であることを明確に示すことによって、 戦時下のドイツ人の士気を恐ろしく高めた。 実におもしろい。 さて、問題はこれを平時においてどう実現するかだ。 まず製品が出て、それで客が喜んでいる様を見る必要がある。 これがないと一番重要なフィードバック機構が働かなくなって、腐る。 成果と仕事の間には何かつながりが必要だ。 社員が「勉強できて給料もらえるんだし、品質が悪くてもいいか」 とか思ったら終わりだろう。 あと、これに加えて、社員の家族にもその成果が見えるようにすることが大切だと思った。 ひつじこには私が作ったものを見せたい。 あるいは、それで遊んでいる客がいることを示したい。 それなしに、私が毎日ひつじことオタマを家に残して長時間いなくなることを 納得させることができるとは到底思えない。 これは、私以上に家にいない時間が長い家庭ではさらに深刻な問題になると思う。 抽象的な数字にすぎない給料だけでなく、何か社会的に意義があることをしていることを 家族に対して示すにはどうしたらいいか。

本書きたいな。あれはすごく良かった。 なんといっても、webをちょっと探せばたくさんの書評が出てきて、 ああだこうだ言われているのがすぐ見えたのである。

この本の内容を真に受けるならば、 アメリカは第二次大戦によってずいぶんと多くのものを得たのだなと思う。 アメリカではフォード風のベルトコンベア工場が支配的に なって人間性が無視されていたが、 それは決まったものを大量生産するシステムだ。 戦争によって多くの工場はそれまでとは全然違う製品を短期間に大量生産せねば ならなくなれば、システムを変えざるを得ない。 まして徴兵によって人手も足りず、特に熟練労働者は足りない。 そういう中で、それぞれの人のスキルとテンポを尊重しつつも生産性を上げるという 工夫をせねばならなかった。 それぞれの仕事が全体の中でどういう位置づけなのかを理解させることが 士気を高める上で重要だということが強調されている。 鉄砲の工場では、作業員にできのいい部品を 使ったものと悪い部品を使ったものを両方撃たせて、 部品の質がどう大切なのかを教えたのだという。 ついには、伝統的なベルトコンベア工場の生産性を上回るまでになり、 戦争が終わってもそのやり方を続けられたそうだ。

金は一定以上あると数字にすぎなくなる。 結局金だけでは社員の士気を保つことはできない。 仕事の意義を与える必要がある。 そんなものはそれぞれの社員が自発的に見出すものだ、と言って済まされる業界は幸せで、 確かに産業の黎明期にはそれで良かったりもするのだが、 ある程度成熟してくるとそうは行かなくなってくる。 人が増えて分業が進むために自分の仕事に何の意味があるのかわかりにくくなり、 また、仕事が狭い範囲に固定化されやすくなる。 ゲーム業界はいい加減そのへんを考えるべき時期に来ているのだろう。

金は言葉みたいなものなのかもしれない。 人の好みはバラバラで、ほうっておけば協力なんてしない。 生存のために協力が必要だった過去ならともかく、 生存そのものがこうも簡単になってしまった以上、 人と協力するには皆がある程度共通して価値を置くものが 何か必要になる。綺麗な絵が出せればそれでいい絵かきと、 新技術を勉強できればそれでいいプログラマと、 自分が面白いと思うゲームが作れればそれでいい ゲームデザイナが協力してゲームを作るには、 「ゲームが売れる」という目的が必要だ。それぞれの理想とするゲームは異なっており、 それぞれの望みは他人の望みを犠牲にしない限り完全には達成できない。 これではチームは成り立たない。チームを成り立たせるためには共通の目的が必要で、 そのために金とか利益とかいうものを使おう、ということである。 幸い、もうかるものは人に評価されるものとおおむね一致し、 人に評価されることを喜ばない人はあまりいない。 また、もうかって金がもらえることを喜ばない人もあまりいない。 なるほど金というものは便利なものなわけだ。 金の便利さを最大限に発揮させるような社会や組織の仕組みを 考えようということだ。 どうにかして、他人に良い事をすることが金を経由して自分の得になるように いろんなことを設計できればいいのだろう。 児童館にせよ役所にせよ原発にせよ、同じことが言える。

「政治において問題になるのは、何が理想的かではない。 可能な答えのうちもっともよいものはどれかである。」 政治に限らない。ほとんどあらゆる場所でそのとおりだ。

不況と完全雇用についてのくだりは今から見ると何かおかしいように思えるが、 よく理解できていないかもしれない。不況から抜け出すには生産しろ、というのは、 消費もされないものを生産しても仕方ないだろ、という今の考え方からは変に見える。 しかし、1948年当時、道路の整備も鉄道の整備もそれほど整っているわけではなかった。 必要な公共工事はいくらでもあった。なので、少なくとも当時は、 金をばらまいてたくさん使ってもらうよりは、バンバンゼネコンに突っ込んで インフラを確立し、未来への準備をする方が良かった。 消費を刺激しても、即座に雇用が増えるとは限らない。すでに十分な生産力があれば、 工場の稼働率を上げるだけで対処できるため、雇用は増えないのである。しかし、 インフラに突っ込めばインフラを作るための雇用は即座に生まれる。 たぶん、これが効き過ぎたんだな。1970年代くらいまではこれでよかったし、 これが猛烈に効いたのだろう。 しかし、最近は道路も鉄道もすでに十分にあり、作っても効果が薄くなった。 さらに、不況対策だったはずの公共工事が慢性化してそれが当たり前になったために、 それに頼ってしまう人が出てきてしまった。 本来不況が終わったら別の職業で他のものを作るべき人が、 ゼネコンに貼りついてしまった。 当然ゼネコンの政治力も増すので、なおさら戻れなくなる。 さて、では今の状況において、不況になったら何をすべきなのか。

読み進めたらそのことについてもドラッカーは触れていた。 公共事業は常に緊急の臨時措置でなければならない、 と1948年に言っていたわけだ。 とにかく、景気対策で公共事業をやってはダメだと言っている。 え、じゃあどうすればいいんだ?

まず、雇用を確保するために消費を刺激してもダメ。 将来の生産力を上げる方向で雇用が増えるべき。これが原則。 そして、その雇用を増やす主体は企業であるべき。 いやでも不況で金がないから人をクビにするわけで、そういう状況で投資しないだろ、 という話になる。ドラッカーも決定的な解決策をあげてはいないが、 少なくとも企業がそうしたくなるような税制を整えろとは言っている。 法人税の計算期間を1年でなく10年とか15年にすれば、不況の年でも投資できるようになる。 ベンチャーは10年は無税にして起業を促進すべきだとも言っている。

日本が金持ちになったのは、政府が金をつっこむ分野として 軍事が封じられていたからなのかもしれない。 普通の国は雇用を増やすために軍事に金を突っ込む傾向がある。 国防がどうでもいいという人は少ないし、 国防に「これだけあれば十分」というラインは見つけにくく、 いくらでも突っ込めてしまうからだ。そのために、国民が実際に豊かになるための準備には 全く金が使われず、未来が奪われていくことになる。 政府主導というドラッカー的にはイマイチな方法ではあっても、その大半が 実際に役に経つインフラに突っ込まれたことが 今の日本の繁栄をもたらしたのかもしれない。 そもそも、1940年代のアメリカはそれなりに民主主義国家だった。同じ頃の日本で 企業がリーダーシップを取って云々とか言っても無理だったろう。 そう考えると、政府が大きな力を持って金の使い方を 指図することが唯一可能な手段だったのかもしれない。 しかし、それが目的を達した今となっては、ずいぶんとひどいことになっている。 90年代に路線変更できていればよかったんだろうが、ついにそのまま20年経ってしまった。 このままだとさらに10年20年経ってしまうだろう。

イノベーションと企業家精神。 イノベーションがマーケティングと並んで会社の仕事の大きな柱である、 とドラッカーは言うが、今まで働いてきてそう言う人を見たことはない。 マーケティングは宣伝のことだし、イノベーションは予測できず、 誰かがある日突然もたらしてくれる何かとしか思われていない。 イノベーションは体系化できる、というドラッカーの言葉は大変な救いだ。 しかし、簡単なことではなさそうである。

イノベーションの機会には7つある。 予期しないこと。現実と予測あるいは理想のギャップ。ニーズ。 産業構造の変化。人口構造の変化。人々の認識の変化。技術の進化。 後になるほど成功率が低いと言う。つまり、一番確実なイノベーションは、 日頃働いていて「あれ?」と思うことに気づいた時に起こるという。 こんなに救いになることはない。ただし、「新技術に投資をすればオーケー」 というような単純なものではなく、皆がちゃんとアンテナを立てて仕事をする態度が必要だ ということはある意味難しいとは言える。

予期しないこと。思ってなかったものが妙に売れる時には、理由がある。 婦人服メインのデパートで家電が売れまくった時、「うちは婦人服の店だから」 と言って目を背ければ死あるのみだ。メイシーはそれで低迷したらしい。 たいてい会社の偉い人はメインになっている部門から上がってきており、 自分の古巣以外の部門の成績が良くなるのを喜ばないという。 そして、予測しなかった失敗は問題として大きく取り上げられる一方で、 予測しなかった成功は何かの間違いだと思われてスルーされる。 これでダメになった会社はたくさんあるそうだ。

予期しない成功をきちんと見つける仕組みがいる。 会議は問題の検討よりも先に、予期しない成功について検討すべきだ。 そして、それが意味するものが今までの仕事の仕方を変えることを要求するならば、 得られるものと天秤にかけて決断しなくてはならない。でもこれは怖いだろうな。

予期しない失敗。たいていの失敗はそもそもアホだったせいで、 あまり学ぶべきところはない。 しかし、よくよく考えてやったことなのに予想外に失敗するケースがある。 ここからはかなりのことを学べる。 思い描いていた客の姿が現実からかけ離れているとすれば、 その先の商売を修正するチャンスになる。そして、それには会社のトップが自ら 外に出て何が起こっているかを知らなくてはいけない。 たしかに、「良く調べとけ」とか部下に投げておしまいにすると、 何も変わらないことが容易に想像できる。

ギャップ。まずは、需要が伸びてるのにもうからない場合。鉄とか紙とかの場合、 需要がちょっと増えたからといって、生産量をちょっと増やすというわけには行かない。 設備がでかすぎて投資がえらい規模になってしまうので、 よほど需要が増え、しかも安定しているとみなされない限りは 増やせない。ここにギャップがある。 多少生産コストが高くても、設備投資にかかる金が安く、 生産量を細かく調整できる技術の方が都合がいいかもしれないわけだ。ただし、 既存の技術と人材でそれをやれないなら、 無理に飛びついてはいけない。技術開発が必要だったり ノウハウがなかったりするとリスクが跳ね上がる。

認識ギャップ。間違った思い込みにはまっている場合、それを抜け出すともうかる。 例えば、プログラミングにおける最大のコストはデバグだ、ということで、 バグを探したり、バグを自動で直したりするすごい技術をバリバリ導入したとする。 確かに効果はあるが、劇的とまでは言えない。 そこで、誰かがそもそもバグを入れないようなプログラミングの方法を教育することを 試したらすごくうまく行った。というようなことがあれば、そういう例になる。 ちなみに私は実際これがうまく行くと信じているが、試したことはないし、 試すには条件が不足している。

バグはプログラミングのややこしさと量に比例する。 なので、ややこしいプログラミングをしないことと、 量をできるだけ減らすことでまず母数がグッと減る。 そしてさらに、バグを出す率が高い人と低い人の間には10倍では済まない激しい差がある。 つまり、ここにはスキルの問題がある。 したがって何かいい教育方法があれば猛烈に効く可能性がある。 その教育の内容はわからんが、 いくつかの習慣を見につけることでかなりのバグの発生を抑えられることは 知られている。最低限それを全員に身につけさせることで、 たぶんバグの数は半分くらいにはなる。 そこから先が本当の教育だが、これにはバグを減らす以上の価値があるので、 その難しさにもかかわらず 取り組む価値があると私は思う。何をしたらいいのかはまだわからない。

価値観ギャップ。昔日本でテレビが売られ始めた頃、 農民はそんなものを買えるほど裕福ではないと思われて、 農村での営業は行われなかった。 しかし、松下は「それでも農民は欲しがる」と踏んで、農村で成果を上げた。 売る側が客だと思ってない人が実は客だった、あるいは、 売る側がウリだと思っていた部分が、客にとってはウリに思えなかった、 というようなものが価値観ギャップである。 これに気づくには、先入観を捨てて客を良く見ればいいわけだが、まあ難しいわな。 女性や年配の人にゲームを売ろうというならこのへんは良く考える必要があるんだろう。 客とみなさず無視するのも一つのやり方で、 それによって集中力が保たれるという面はあるのだが、発展はしにくい。 なんで客になってないんだろう、と疑問を抱くことから始まる商売もあるのだろうな。

gmailでこの日記を書いているのだが、横に広告が出ていて、ことごとくが転職関連である。 一体何を見てこういう広告を出しているのだろうな。 いずれにせよ、この手の広告がどれくらい効果があるのかが私にはよくわからない。 私は一切見ないタチだ。今気づいたのはたまたまである。 PC Watchとかのサイトでも、誰かのブログでも、横にある広告はまるで目に入っていない。 ああいう広告は本当に効果があるのか。 広告の効果は一体どのようにして測定されているのだろう。 ロクに測定もしないままでやらないと不安だから という理由で広告を出している企業はいないのか。 ファミ通の広告の効果はどうやって測定されているのか。 テレビCMの効果はどうやって測定されているのか。 ドラッカーを読んでたらマーケティングの仕事が面白そうに思えてきた。 本当、どうやって測定してるんだろう。

アマゾンのアフィリエイトって何がどういいんだろうか。 その商品について紹介している記事にはられているものならわかるが、 全然関係なさそうなアフィリエイトを大量に見かける。 あれ見て衝動買いする人ってどれくらいいるんだろう。 もともと買う予定だった人が、 アフィリエイトを貼ってる人を応援するためにそこから買う、 というならわかるが、その場合アマゾンに利益はあるのか? とか書きつつ、ふと思った。あれは情報収集も兼ねているのかもしれない。 どういうサイトを見てる人が何を買う、 みたいな情報を集めて何らかの分析に役立てているのではなかろうか。 うまく分類して統計する方法があれば使えるデータが取れるのかもしれないな。

しめじはうまい。ぶなしめじではない。しめじだ。 ゴーヤとにんにくごま油で炒めて、 オイスターソースと胡椒で調味したら、ひつじこがほとんど食った。 なお、ゴーヤはスライスした後少量の塩を まぶしてから炒めると味が締まるような気がする。 今度やったのとやらないので比較してみよう。

北海道から届いたほっけがうますぎて別物。 なお、イカソーメンの切れ端は解凍とゆでに失敗して味のないゴム状の物体に なってしまった。袋のままぬるま湯に入れて解凍し、 ゆでずに使うべきだった。あれだけ細かく切られているわけで、 水に直接触れれば味が全部抜けてしまう。次回はうまくやる。

明日は鮭のアラで大根を煮る。 この料理の問題は塩抜きの過程で味が抜けることなんだよな。 魚は切ったら水の使用を最小に抑えねばならないというのが鉄則である。 しかし塩鮭のアラは激しく塩を吸っており、塩抜きしないと汁が 辛くなりすぎる。塩分濃度を下げようと水を入れれば、今度はダシが足りなくなる。 資源の有効活用という観点からは、別のダシグッズを入れて補うのが 最良なのだが、どれだけのダシグッズを足せばいいのかが見当もつかないし、 昆布で足りるのかどうかというところがすでにわからない。 しかし、大根しか煮ないのであれば、昆布ダシだけで大根を煮てもおいしいことは すでにわかっており、それに薄くても鮭ダシが加われば十分おいしかろう。 そう思うと、昆布単体でおいしいくらいの昆布ダシに鮭を入れる、 という考えの方がうまく行く気がする。今回はそれで試してみよう。 塩抜きという工程が必要なくなれば、省力化の観点からも資源の有効活用の観点からも 有利だ。多少しょっぱくても煮物と考えれば食えるしな。よし、挑戦だ。

2011年08月07日

メモリそんなに欲しいかなあ。 超絶圧縮技術と超高速展開技術がない限り、なんぼテクスチャを置けて 絵が綺麗になったとしても、ロード時間がえらいことになって死ぬ。 そもそも、ミップマップというものがあるわけで、 なんぼデカいテクスチャがあっても使われるのはそのミップマップだ。 ギガ量のテクスチャがあっても無駄にデカい部分は使われもしない。 頂点データはなんぼメモリがあっても処理が間に合わなければ使えない。 今の機械は十分調和してると思うけどな。 そりゃタダ同然なら積んでもいいが、実装面積とか消費電力とかの かねあいもあるし、速いメモリは高いので無理して量を増やすと 値段か速度が割を食う。 まあそのへんに興味がないアーティスト軍団にはまた別の意見があるのだろうが。

テクスチャを全部jpeg2000とかで激しく圧縮してロードしてから展開するなら メモリが多いのはうれしいかもしれんが、実際には実機用の圧縮形式に 直さねばならんわけで、結局展開プラス再圧縮を素早くやれるだけの 処理速度がないとゴミになる。やってる所もあるんだろうが。

2011年08月06日

借りた「ゲート」の1巻を読んでしまった。明日電車で読むつもりだったが、 止まらなかった。最近のネット小説はすごいな。 戦国自衛隊ファンタジー版かと思ったが、なるほど今時の流行りにのっとって、 戦術レベルだけでなく戦略レベル、そして政治経済を同時に扱いつつ、 キャラ要素を存分に散りばめている。 わけのわからん奴がセンスのゴリ押しでデビューしては消えていく、 というラノベの時代はもう終わったのだろうな。 これだけ書けることが当たり前とみなされるようになっているとすれば。

創造する経営者の最後の方が猛烈に眠くて、内容が頭に入ってない。 明日電車でもう一回読もう。内容が眠かったのではなく、 単に私が眠かっただけという可能性もある。

一番大切なメッセージは、顧客を見ろ。次が、ダメなものは捨てろ、だ。 この二つだけ受け取れただけでも人生が変わり得る。 「経営者の条件」は本当に勧めたい。 他の本はその根本に肉付けするためのものだ。 今までの経験を思い起こしながら読むと、 どう具体的な行動にしていけばいいのかの指針が見えてくる。 大したものだ。本当に大したものである。

自転車を買ったが、泣くなあ。置き物になってしまうならそれも 仕方ないという覚悟はしているのだが、まあがんばってみよう。

ひつじこがんばってる。本当がんばってる。 その一方で私は連日好き放題読書だ。申しわけない。 でも、たぶん今は重要な時期だと思う。 この先10年何を指針にして生きていくかが今年決まるのだと思っている。 いや、今年決める、という決意と言った方がいいか。

せめて食事の準備くらいはやる。ずっと私のごはんを食べてもらおう。

ホタテうめえ。みんな食べに来てね。

イカソウメンの切れ端の固まり1kgを700円で買ったが、 立方体。味が落ちるのを覚悟で一旦全部解凍してから再冷凍するしかないよな。 こんなに分厚いと割るのも無理だ。 客が来た時にイカスパゲティを大量に作る、 とかいうのが一番いいだろうな。とにかく一回でドーンと食べてしまうのが 重要だろう。

やっぱりドラッカーをまとめて買ってトイレに置くくらいは してもいいよな。具体的なテクニックについてはより新しいビジネス書が いくらでもあるが、入口になってくれるのはドラッカーだろう。 ジムコリンズとかは気になった時に図書館でいいしな。 ドラッカーにしても、 あんまり古い奴や伝記の類、あと社会分析主体の奴は図書館で借りて読めば 十分なので、手元に置きたいのは5冊かそこらだ。2万もしない。 買わないと貸せないからな。借りたい人がいるかはわからんが。

それにしても昔は25までに量子力学に必要な数学をおおむねできるようにしようとか 思ってたんだよな。もう10年経ってしまう。 結局それとは全然違う分野を勉強しながら生きてきた。後悔はしてないが、 思った通りには行かないものである。 ファインマンも結局20章ちょいしか読んでない。いずれ読む日が来ると信じたいところだ。 基礎教養としての物理学や数学は馬鹿にできるものではない。 プログラミングをドラッカーの組織論の理解に生かせるように、 数学や物理学であっても基礎的な考え方は何かに応用できる。 その予期しない応用が面白いわけで、勉強の醍醐味だ。

企業とは何か、を借りたが、これはいいかなという気がしてきた。 マネジメントを読み終えて時間があったらでいい。 なんぼなんでも古すぎる。なにせ1946年の著作だ。 しかし、1946年と2011年でどれくらい状況が 変わっているのかがわかる、と考えたらものすごく面白そうに思えてきた。

少し迷ったが、やっぱり記録はしておく。 今日、やろうと思っていたことをできなかった。いや、やらなかったと言っておこう。 未来を作るのは明日ではなく今日だ。 その今日始めたかった人間が未来を作れるはずがない。 この後悔を文章の形にすることで、少しは変われるだろうか。

誰を向いて仕事をしているか。これだけでいい。この問いだけでいいから、 一日として忘れることなく問いかけられる習慣をつけたい。 そうでなくては、 何のために人生のかなりの部分を割いているのかわからなくなる。 オタマやひつじこと一緒にいる時間を削るに値するものにせねばならない。

自分で言うのもなんだが、変な宗教にハマったみたいだな。 ちょっと前の自分がこれ読んだら相当気持ち悪いぞ。 でもまあ、これが宗教だとしても、有用な宗教ならいいだろ。

企業とは何かが予想外に面白くて困る。 これより新しい本を何冊か読んだわけで、古い本の内容はおおむね含まれているだろうと 思ったが、そうでもない。この本は最初かさ最後までGMという具体例を扱っているのが 面白いのだろう。そして、今は死にかけの恐竜にしか見えないGM がかつで偉大な企業だったということ自体が面白い。

事業部制。デカすぎる組織は腐りやすい。小さい組織が複数あると重複や 利害の衝突が問題になる。その両方のいい所を取るための構造だ。 それぞれの事業部はかなりの権限をもっており、半ば社長なのだが、 しかし全体の戦略や、その事業部の位置付け、法律関連や資金調達などは 本社が担当する。また、本社が事業部間の情報の運び屋の役割をし、 ある事業部で起こったことを他に伝える。 なるほどと思う。 しかし、いいところ取りというのは一歩間違うと両方失う危険がある。 事業部がわがままを言いすぎれば分解する。本社が力を持ちすぎれば 独自性が失われて腐る。GMはこの時点ではそこをうまくやれていたようだ。 いろんな会社が子会社に分割したりして似たようなことをしてきたが、 長くもった例はあまりないような印象がある。

組織の構造をどうするかは難しい問題だ。 製品AとBを作っている部門があるとして、それらがどれくらい相互に関係を 持つべきかはなんとも言えない。共通の部分を大きくするほど、 コストは下がり、人材の交流や情報交換もしやすくなる。 その一方で、AとBに求められる作業工程や人材、文化の違いを無視して それぞれの強みを発揮させにくくする可能性がある。 ゲームで言えば、ある部署は「ライブラリ?何それおいしいの?」 的なノリで全プロジェクトで土台から毎回作り直すやり方で力を発揮するが、 また別のある部署は「技術的なことは得意な人がやってよ」 ということでライブラリやらサポートやらを少数の専門家にまかせて 他の人間はその手の知識は一切持たずにやっているかもしれない。 必要とされる人材も異なるし、評価も違うだろう。

重複や競合の問題もある。部署ごとにバラバラのライブラリを持っているのは 効率の面からは無駄だし、 気がついたら複数部署がほとんど同時に似たようなものを投入しようとしていた、 とかいうのもマズい。 しかし、重複も競合も、保険、教育、競争による革新、などで長所があり、 必ずしも悪いことではなかったりもする。

組織間でコストの押しつけが行われる問題がある。 GMの場合は部署間は大丈夫だったようだが、 直接の顧客である車の販売業者との関係が難しかったようだ。 GMの車を買うには免許のようなものが必要で、その免許は売ったり渡したり できない契約になっている。 つまり、これに関してGMが免許を取り上げれば、その販売業者は失業する。 圧倒的にGMが強いわけだ。 これをタテにGMが販売業者に不利な条件を強いる可能性がある。 GMとしては長期的に考えて販売業者を追い込むのは得策ではないので、 GMという会社としてはそんなつもりはない。しかし、 GMの個々の営業担当者が成績を上げるためにそういう誘惑にかられない保証はない。 そういうわけで、GMと販売業者の間には緊張関係ができることになる。 このへんは、販売業者側が安心して商売できるような制度を整えることで どうにかしたようだ。 たぶん東芝とか松下とか書かれた小さな電器屋の類も同じような ことが行われたんだろう。そして、50年前はうまく働いていたんだろう。

GMと強い絆を築いていた販売業者達は今はどうなっているのだろうか。 そもそもGMの車を売っていいのはGMと契約した販売業者だけ、 なんて状況は保たれているのだろうか。 一方日本の車屋はどうなっているのだろう。 トヨタの車ってヨドバシの車版みたいな店で買えるのか? とりあえずちょろっと調べてみた範囲では、 直営店っぽいものの他に、複数の会社の商品を扱う店がなんぼか見つかった。 競合他社の車を売るなら卸さない、みたいなことはないようだ。

車は中古が重要であり、中古を抹殺すれば新車も死ぬ。 値段が高いので、下取りがなければ買える人は少ない。 おあつらえ向けに、10年も20年も動いてくれる。 実のところ、新車の価格が劇的に下がれば、 中古という商売がなくなってもかまわない。 例えば50万くらいで買えるものなのであれば、中古が存在しなくてもかまわない。 しかし、10年でも20年でも動いてしまうものであるがゆえに 中古は存在してしまう。中古が存在してしまうのに新車が安ければ 商売にならない。そしてそもそも車を製造するコストが50万で売るようなことを許さない。 というわけで、例のインドの車のように、劇的に安く作れるように ならない限り、あまり状況は変わらないものと思われる。

ゲームも状況は似ている。似ていた、と言うべきだろう。 値段が高いので、中古で売れないと辛い人は多い。 そして、ゲームは中古が成立するくらいに耐久性がある。なにせデータである。 そういうわけで、中古市場は結構重要な位置を占めていたと思われる。 しかし、原理的には新品の値段が十分に安くなれば、 中古市場がなくても新品の売上が落ちることはなくなる。 車と違うのはここからだ。新品の値段を落とすことが可能になるような イノベーションがあった。Simpleシリーズが劇的に値段を下げた。 ダウンロード販売が流通コストを削って値段を下げた。 さらにはアイテム課金などのシステムが、見掛け上の価格をゼロ付近まで下げた。 そもそもコストがかかるデカイゲームを客が求めるとは限らなくなった。 さらには非プロでもそれなりなものを作れる状況になったため、 採算度外視のゲームが増えつつある。 というわけで、車と違ってゲームはそもそもタダ同然で販売することが 可能になってしまったのである。 こうなると、新品価格の平均値は限りなく下落していくことになる。 10年後のゲームの平均価格がどうなっているかは相当に楽しみだ。 というか、すでに今ですら相当な下落が起こっているはずである。 売り上げ本数で重みづけしたゲームの平均価格って統計ないかな。 できれば定価でなく販売価格で。

スーファミの頃って、中古前提であの値段だったんだろうな。今考えてみれば。 プレステで値段が下がったが、その前後でゲーム屋の経済状況はどう変わったのだろう。 メーカーはそういうことも考えて事業をやっていくべきなのだろうな。 考えた上で販売業者に害をなす決定をすることはありうるが、 販売業者が受ける影響を考えずに決定したとしたらそれはダメだろう。

2011年08月05日

もしかして、経営って面白いのか? 責任が嫌いな私には最も縁遠い仕事だとは思うが、 しかしこうやって外野で考えている分には大層面白い。 ちょっとづつこういう視点をリアル仕事に生かせるようにしていこう。 さしあたってミーティングの類に対する姿勢を変えてみようか。

ひつじこはすごく教師に向いている。うまくやれる、というスキルの問題もあるが、 教師という仕事にエネルギーを惜しげなく投入できるという性格が大きい。 しかしそれだけに、消耗が激しいのが心配だ。 ところで、ひつじこが先生時代のことを話してくれると大抵おもしろい。 そろそろ時効だろうし、日記にでも書いて共有できるとうれしい。 きっといろんな人にとって新鮮で、かついろんなことを考えるきっかけになるだろう。

それにしても、ひつじこはシャーマンだな。 最近シャーマン度が下がってるらしく、不本意らしい。 何をどうするのかは知らないが、がんばってシャーマン度を上げてくれ。

ほたて5kg、ほっけ干物20枚、イカソーメン1kg、塩鮭4kg、イカソーメンの切れ端1kg、 昆布3kgが届いた。ほたてはおいしい焼き方を確立せねば。 しくじって焼きすぎてもなおあれだけおいしいのだから、 うまくやれば絶品だろう。それにしても、昆布3kgはさすがに多すぎたな。 段ボール一杯に昆布が詰まっている光景なんてなかなか見られない。 何か保存の方法を考えないと。

歌のおねえさんがバカっぽいとひつじこがガッカリしている。 普通に子供に話しかけてるところがテレビに映ったそうだ。 ギャルっぽかったらしい。まあこの人、あんまり歌うまくないしな。 スプーの人は本気ですごいので、比べると辛い。

第六章。事業は顧客からはじめよう。当たり前すぎるのだが、 当たり前にならない。そして、これが当たり前にならないのは人間の性質上自然で、 やむを得ないことだと感じる。無理だ。 何をどうしたらいいのかが全くわからない。 人は変化を嫌う。人は自分を正当化する。人は流される。 近くのものしか見ない。これだけの悪条件がそろっているのが人間で、 それが多数集まって組織を作れば、一部に良い考えを持つ人がいても 人間の本性の平均値に収束する。 なるほど、組織をうまく作れば、一部の人が持つ良い考えが 大きな影響力を持つようにもできるだろう。しかし、 なかなかそうはならない。

ドラッカーの予測が当たるならば、 現在は変革の時代の総仕上げの時期にあたる。 2000年以降に生まれた人間には1980年以前に生まれた人間の 送ってきた生活や世界の見方が想像もできない、 そんな変革の時代だ。その変化の激しさに期待しよう。

顧客が誰で、何をし、いかに買い、いかに使い、何を期待し、何に価値を見出すのか。 すべてはそれを知ることから出発する。 時には顧客に背を向けることも合理的だ、ということは良く言われるが、 言い訳にしか聞こえない。客に直接それを言えるか、客の目を見て言えるか、 ということは常に自問したい。でなければ自分を許せなくなる。

客は満足を買う。製品を買わない。しかし、企業は製品しか作れない。 その間のギャップを減らすためには、客を知らなくてはいけない。 売りたいものを売ろうとしてはいけない。「これが売りだ」と言ってはいけない。

競争相手は同業他社とは限らない。ゲームの競争相手は、暇な時間を使う物すべてだ。 客が同じ種類の満足だと思う製品はすべて競争相手になる。

質を決めるのは企業ではない。客が価値をおかない品質は、品質ではない。 客の満足を高めない品質は品質ではない。ただのコストだ。 作るのが困難であることが宣伝になると考える人は多いが、 それを喜んでくれる人が多数いるかどうかは前もってよく見ておく必要がある。 すごい新技術を山ほど入れたり、ものすごいお金をかけて作ったゲームが 必ずしも支持されるという保証はない。 ゲームの場合はそれが支持されてきた歴史があるので、 なおさらそのことを理解するのは難しいという事情がある。 しかし、コンピュータゲームというジャンルそのものが新鮮だった時代と 今を一緒にしてはいけない。今25歳未満の人々は物心ついた時から普通にゲームが存在していた。 ゲームを新しいなんて誰も思わない。まして20歳未満の人々は物心ついたころから ゲームが3Dになっていた。もはや多数の人にとって綺麗な絵は差別化要因ではない。 よく言っても必要条件であり、必要条件は利益を産まない。コストにすぎない。

顧客は合理的。「なんでこんなにいいのに売れないんだよ!」と怒るのは、無能。 客にとっての良さが何なのかを見誤っただけのことで、客のせいにするのは筋違い。 場合によっては、伝わっていないだけという可能性もあるが、 客にどう伝えるかと、どういうものを作るかはセットで考えるべきことであり、 片方がダメというのはつまるところ根本的にダメなことの表れとみなした方がいいように思う。

客にとっては企業なんてどうでもいい。満足を与えてくれるなら、どこの企業でもいい。 ブランドに対する忠誠心は確かにあるが、それはたまたまブランドが価値を持つような 状況になったからで、その状況が変わればあっさり捨てられる。 洗剤の例がわかりやすかった。 「驚きの白さ!」とか言ってる宣伝が多いが、考えてみればたいていの人にとって 洗剤で白くなるのは当たり前であり、しかも既存のもので十分その必要条件は満たされている。 つまり、白くなるからと言って買うわけではない。白くなることは差別化要因ではない。 つまり、白くなることを売り文句にしている企業は客を見ていない。

顧客とは誰かを考える際には、金を払う人が誰か以上に買うことを決めるのが誰かを考える 必要があることもある。金を払うのが父ちゃんでも、買うと決めるのが母ちゃんであることは多い。 また、製品を選ぶのも買うのも父ちゃんだが、母ちゃんがダメと言えば買えないケースもある。 よって拒否権を持っている人もまた顧客として考える必要がある。 例えばゲーム機は母ちゃんが拒否権を持っており、任天堂はWiiにおいてこのことを 重視した設計をした。それが最終的に正解かどうかはわからんが、 ともかくもそういう戦略を立てたということは大したものだと思う。 さらに、最終的に買うことを決める人以外にも、 流通経路上にいる人も重要になる。店が並べてくれないと物は売れない。 しかし、どっちがどれくらい大切かは場合による。

googleは流通経路だ。検索して上位に出てきた農家でにんにくを買う、という時、 googleはスーパーと同様、生産者と消費者を結びつける流通経路の役割を果たしている。 しかしgoogleを顧客とみなしたところで、自動化されたプログラム相手に できることなんて高が知れているわけで、 結局は最終的な客の満足を増やす努力をするほかないように思われる。 検索に引っかかりやすくなる努力なんて、みんなが同じくらいやれば結局差がなくなってしまう。 こういう時代になってくると、流通経路を顧客とみなすことの重要性は減ってくるのだろう。

鉄鋼メーカーの顧客は誰か。わからない。こういう場合もある。 そういう時は市場や用途から考える。 例えば、鉄鋼の何%がどこの業界で使われている、ということがわかれば、 どこの誰を重視すべきかがわかる。接着剤の場合は、何と何をくっつけたい用途が多いのか、 というところから分析ができる。 ゲームの場合はこういう苦労はないな。買う人の姿ははっきり見えていて、 感想をwebに書いてくれたりする。ある意味恵まれているわけで、 顧客の姿をはっきりと見据えた商売をしやすい。 にもかかわらず顧客を軽視するとすれば、それは単純にダメだ。

誰が買うかだけでなく、どこで買うか、何のために買うか、も見ないといけない。 ゲームの場合それらは明らかに思えたが、それは過去のことだ。 ゲーム屋以外でもゲームは買える。アマゾンで売れているゲームと街のゲーム屋で売れているゲームには 差異があるかもしれない。メッセサンオーで売れているゲームとツタヤで売れているゲームには差異があるかもしれない。 そこに顧客のヒントがある。また、何のために買うかも重要だ。 暇つぶしのためなのか、友達と話のネタにするためなのか、 作品を鑑賞するためなのか。それぞれに違う顧客の姿が見えてくる。

ひつじこと話しているとそういうことを実感として学ぶことができる。結婚してる人 は会社の中しか見えなくなる危険から身を守りやすいわけだ。ありがたいことである。

顧客はつねに会社の外にいる。外のことを知らなければ顧客はわからず、商売はできない。 人間は近いところが大きく見えるから、社外よりも社内が大きく見えがちだ。 しかし、社内に顧客の情報はない。外を見なくてはダメだ。 任天堂の宮本さんはそのへんの事務の人にいきなりゲームをやらせてどんな反応をするか眺めると言っていた。 事務の人は物理的には社内にいるが、今問題にしているゲーム作りに関して言えば、実質的には社外にいる。 秘密保持契約を結んで社外の人にテストプレイを させる手間を考えれば、タダみたいな手間で社外の情報が得られるわけだ。 こんなことはどこの会社でもでき、当たり前のように行われていてもおかしくない。

顧客になっていてもおかしくないのに顧客でない人がいる。なぜか。超重要。 売り方に問題があるのか。作る物に問題があるのか。 昔、デパートは若い女性を顧客としていなかった。若い女性が買い得るものが デパートにあったにもかかわらず、営業時間が若い女性の仕事時間と重なっていたせいで 売れなかったのだという。それに気づかず、デパートは若い女性は顧客ではない、と決めつけた。 そして、気がついたらあんなことになっていた。 ゲームでもいくらでもありそうなことだ。

客は金と時間をどう使っているのか。これは言う間もでなく大切だ。 しかしここでこれに加えて、客がどんな他社製品を買って、そこからどんな満足を得ているかも考える必要がある。 何割を自社製品に割いてくれているかばかり気にしては駄目だ。 これも当然だわな。ドラクエを売ろうという人は、FFを買っている客がFFに何を求めているのかを知ろうとするだろう。 また、FFでは満たされないものがあるはずで、それをドラクエで提供できないか考えるだろう。

自社が提供できる物のうち、本当に重要な満足を与えられるものは何か。 この問いは厳しい。ドラッカーが出してきた例は素敵だ。 ソフトドリンクのメーカーが、市場が飽和してきた時に考えた。 「50年前ソフトドリンクが与えていた満足に近いものを現在において与えるものは何か」。 答えはペーパーバックの本だったらしい。 商品化、大量流通、大量陳列、返品処理などが、ソフトドリンクと同じ構造であることを見てとって、 ペーパーバックの商売に手をつけたのだという。これはすごいな。

思えばエロゲが与えていた満足のかなりの部分がラノベによって代替されたように見える。 値段が高い、PCが必要、市民権がない、流通経路が限られる、 といった問題点を解決しつつも存分にキャラに萌えることができる。 生産側の人材がかぶっているのも当然だ。 システムや音楽、絵の枚数は色の有無は客にとってはそれほどの価値ではなかったのだろう。 顧客はエロに価値を見出している、という生産側の思い込みがPS版ToHeartやクラナドの登場を遅らせたかもしれない。

いかなる状況がその商品なしでも済むようにしてしまうか。 社会、技術、経済といったものがどう変化するとその商品の地位が脅かされるのか。 あるいは、そう変化するとその商品の強みが際立つのか。 webにつなげる携帯電話の通話料金が下がれば携帯ゲームの地位は奪われるだろう、みたいなことか。 世界がこう変化すればうちらが有利だ、みたいなことって何かあるかな。

商品群。食器洗い器を売るために、すでに売れている洗濯機に似せること で抵抗感なく買えるようにした。しかし値段が洗濯機の倍だったために それが裏目に出た。「洗濯機の分際でなんでこんな高いんだ」 と思われたそうだ。というわけで、どういうカテゴリとして売るかは結構重要になる。 ゲームで言えば、ロープレとして売るのかどうか、みたいな話だろう。 新しいジャンルとして売るのか、新しいところのあるロープレとして売るのか。 なるほどな。 ただ、どういうカテゴリとして売るか、というのは作り手の都合にすぎず、 客がどういうカテゴリのものとして受け取るかは客にしかわからない。 うたわれをギャルゲーとして受け取るか、シミュレーションとして受け取るかは 客によるというわけだ。予期せぬ受け取られ方をした時には、 そこにチャンスがあることも忘れてはいけない。

書道番組に声優が生身で出ていて、辛い。いや、普通にしゃべれよ。 しかし、普通にしゃべると声優である意味がなくなる。 そもそも、何故声優を使った?高校生向けの書道をネタとする教育番組を 作る時に、こんな流行りの声優を使うことが効果的なのか?

競争相手になっていないのは誰か。何故か。 いずれ競争相手になる相手を前もって知るためにはこの問いが必要だ。 印刷機業界はコピー機が敵になると推測できずひどい目にあったらしい。 そして逆に、うちが競争相手になってない市場はどこか、何故か。 これも重要。ゲーム屋が自動車教習所向けシミュレータを作ったりするのはこれだろう。

顧客が不合理に見える行動は何か。客のやってることがわからないということは、 客にしか見えてない事情が何かあるということで、そこにはチャンスがある。 具体例が浮かばないな。「なんで客はこれを買わないんだろ」という疑問は 大抵ただの独善だからな。

得意なことは何か。他の会社が失敗するのにうちが成功することは何か。 逆に他が成功するのにうちが失敗することは何か。何故か。 今まで何で成功して何で失敗してきたか。 同じことに対して他社はどういう結果を出してきたか。そしてそれは何故か。 何がどう得意かは会社によってバラバラで、一見奇妙に見えたりする。 ドラッカーによれば、時間に余裕がない時しか成功しない企業すらあったらしい。 いつもカツカツなのを改善しようとして余裕を作れたプロジェクトは 大抵失敗したそうだ。なるほどありそうなことである。

人は、あまりに当たり前で、誰でもできるに違いない、と思っているようなことが 得意である。これは面白い。言われてみればそうだ。 私がずっとはまり続けてきた罠はそれで、 「オレにできるんだからおまえもできるだろ」という奴である。 そういうことは、つまり私が得意としていることなのだ。 同じようなことがチーム単位、部署単位、会社単位でも存在しているということだな。

得意なことはほぼ知識である。ノウハウだ。知識はあっというまに古くなり、 劣化する。何が会社特有の知識なのかを考えて、 そこに集中して伸ばし続けなくてはならない。 なるほどとは思うが、大半の会社は何が得意なのかなんてよくわからないまま 経営されているのだろう。外から眺めるならともかく、 内側にいる人間にとっては「会社」という概念は大きくて曖昧だ。 会社の中にはいろんな人がいるわけで、それら全体としてこの知識に優れている、 なんて言うのはなかなか難しい。 地位が上がるほど会社を外から眺めるスキルが必要になるのだろう。

持っている資源から最大の成果を得るための理想的な形を考える。 次に機会を最大化する。さらに人材の利用を最大化する。 これはちょっと話がでかすぎて私の手には余る話だな。

機会を最大化するには廃棄が最重要。昨日の主力商品は、 まだ利益が出ていたとしても、明日の主力商品を作る上で障害になるので 捨ててしまった方がいいという。 かかった金が倍になって帰ってこない事業は捨てろ、とまで言う。 さすがに言いすぎだろうと思ったが、案外そうでもないのかもしれない。

人材の価値を最大化するには、もうかる所に投入しなくてはいけない。 必要と言われる所に投入してはいけない。 まして、できる人間を分散させてはいけない。最ももうかる場所に集中して 投入しなければならない。 さて、この理想は現実に可能か。 会社に製品が10個ある時、最低10人はリーダーが必要だ。 リーダーがアホだと、その製品は完成しない。あるいは完成してもゴミになる。 その有能なリーダーを全員一つの製品に集中させれば、 他の9個は全てゴミになる。それが正当化されるほどその一つには見込みがあるのか、 ということだ。というわけで、現実には限度があるはずである。 しかし、ジムコリンズの言うように、問題なのは誰がバスに乗るかだ。 人材の割り当てが終わった段階でその帰結はほぼ決まっている。 本当に明日の主力商品を作る気なのであれば、そこでケチることは許されない ということになる。

まず事業を重要な順に並べる。次に有能な人リストを作る。 そして、重要な事業から順に、必要なだけ有能な人を割り当てる。 もし一番重要な事業が有能な人全員を必要とするならば、 二番目に重要な事業には一切有能な人が回ってこない。 これは相当厳しいやり方だ。

事業を邪魔しているものは何か。産業や企業が持つ制約は何か。 もし取り除ければ大きな利益が見込めるような制約は何か。 これもチャンスだ。ゲームを作る時で何かそういうものがあるだろうか。 無理矢理思いつこうとすれば、例えばデバグの問題がある。 デバグにはどえらい手間がかかる。これを何とかして劇的に 手間を削れる方法はないか。地道な方法は結構あるし、 最新技術を活用するような派手な方法もある。 しかし、総合してデバグのコストが劇的に下がる特効薬のようなものは 思いつかない。デバグしなくても商品の価値が落ちないような方法は存在するのだろうか。 プログラミングを追放したとしても、ゲームにロジックがある限り、 ゲームにデータがある限り、間違いは入りうる。 そして入りうる間違いはチェックして直さねばならない。 客にデバグしてもらうという荒技もあってよく行われているのだが、 あれをイノベーションとは呼びたくない。

アンバランス。もうけられる規模の割に無駄にデカい間接部門があるとか、 そもそもその産業において生き残るために必要な規模に足りてない、 あるいはデカすぎる場合。 無駄にデカい部門がある場合には、そこを独立した会社にして 他社にもサービスを提供する手がある。 それが無理なら削ればいい。 規模に足りていない場合にはがんばって飛躍するか、 合併するかという話になるが、どちらも安易にやると恐ろしい結果になる。 規模がデカすぎる場合には削るしかないのだが、 これを日本でやるのは大変だ。雇用を切り捨てたと非難を浴びることは必至である。

新しく現われた脅威。ゲームの場合はよく言われてるように電話とソーシャルだろうが、 実際のところ、低コストで手軽に人とコミュニケートできたり、 時間をつぶせたりする手段は全部脅威と考えられる。 電子書籍が普及段階に入ればこれも強力なライバルになるだろう。 しかし、脅威だ脅威だと言っても仕方がないわけで、 考えるべきはそれをどうチャンスに変えるかだ。 無視したり、あるいは妨害したりしたところで何の解決にもならない。 そもそも、脅威と感じるのはゲームの定義が狭すぎることに原因がある。 ノベルゲーがゲームなのであれば、電子書籍は立派なゲームだろう。 Akinatorなんて誰がどう言おうと立派なゲームだ。 そう考えると脅威でもなんでもない。定義を広げるための状況が揃ったということで、 喜ぶべき理由はあっても悲しむべき理由は何もない。 が、まあそれは建前というか理想だ。 現実には、「これがゲームだ」というイメージがこびりついた人材が 山ほどいれば、その範囲から出るのは容易ではなくなる。 どこも苦労してるだろうな。

2011年08月04日

休みにしたのだが、直さないと売れないバグがあるので調べてきた。

マネジメントの上巻は読み終えた。 中巻がまだ来ないので、創造する経営者を読み始める。 これは流し読みでいいかもな。事業戦略のこととなると 下っ端にできることは多くない。原理原則は知るべきだが、 それなら経営者の条件に書かれていること程度で足りる。 一番読みたいのはイノベーションの話なのだが、これもまだ届かない。

買ってもいいよなあこの本。このシリーズまとめて3万円。安いと言っていい。 しかし、買うなら誰かに貸して広めたいところであり、 読んでくれそうな人が見当たらない状況で買うのは勇気がいる。 そもそも、本は邪魔になる。

未来は明日作るものではなく今日作るもの。かっこいい。

成果は問題の解決ではなく、機会の開拓によって得られる。 バグを直してもゲームは面白くならない。全く問題がない状態で0点だ。 その意味で、バグを直すことに資源が大量に割かれるとしたら、 それは何かが間違っている。

成果と労力は比例しない。90%の成果を10%の部門が上げたとしても、 90%のコストは90%の部門から発生する。 ようするに、もうかる場所に資源を集中しろということだ。特に人材。 優秀な人材はもうけにつながる場所に置くべきで、 作業が多い場所に置くべきではない。 これ、恐ろしく当たり前なのに、全く守られていない。 できる人はたくさんの作業をこなすので、たくさんの作業がある場所に配置される。 しかし、できる人が単にたくさんの作業をこなせるだけであることは稀で、 大抵は質も高い。量がもうけにつながる仕事ならそれでいいが、 質が重要なのであれば量を基準に配置してはいけない。

社内技術サポート部門みたいなのに優秀なのがたくさんいることが正当化されるのは、 そのサポートを必要とする部門が大いにもうけている場合だ。 そこがもうけていないなら、そのサポートがなくてももうけに大差はない。 要するに、そのサポートは無用で、その人材を別の場所に回せということになる。 この時、そのサポートが製品を完成させるのに必要かどうかは関係ない。 サポートがどれだけ製品の完成に貢献しているかも関係ない。 完成させることに意味があるのはもうかる製品で、 もうからない製品は完成しなくても良く、そもそも作らなくて良い。 あれ?ものすごく当たり前だぞ?しかし、この当たり前さを 身体で感じられないあたり、私も何かがおかしくなっている。 「だって、あの人がいないと完成しないよ」と言われたら、 「じゃあ必要か」と思いそうになる。問題はそこじゃない。 それがもうかるかどうかだ。それが成果を上げる事業かどうかだ。

製品がたくさんあっても、もうけを産むのはその一部だ。 であれば、もうかる製品に人間を集中するのは理にかなう。 しかし現実はそうなってはいない。 確かに、伝統的なゲームの場合、完成するまで売れない。 そして完成までに全コストが投入されている。 だから、売れるものに集中することは厳密にはできない。 売れるかどうかわからないなら小さく作ってみればいいのに、 というのが素直な考えだが、一定以上の規模で作らないと 売れないという事情があれば、売れるかどうかわからないものにも 一定以上のコストを投入せざるを得ないことになる。 また、そもそも、売れる製品だからといって人間を大量につっこめば よりもうかるかと言えば、そんなこともない。 人間を余らせることは士気の上から問題なので、 やはりまんべんなく人間を投入せざるを得ない。 というのが言い訳なわけだが、何かがおかしい。 そもそも何故そんな状況になっている?

前もって売れるかどうかを知ることはできるか。 完全にはできないが、不完全で良ければわかる方法はある。 少なくとも完成する前にそのゲームがおもろいかどうかを知る方法はある。 外の人間に聞くのが一番いいが、中の人間に正直に答えさせる方法があれば 中の人間だけでもかなりのことはわかる。 よって、売れそうなものに資源を集中することは不可能とは言えない。 また、資源イコール人間の数と考えると確かに余るのは問題だが、 資源イコール人間の数×質と考えれば、数だけでなく、質にも配慮して 配置することができるはずで、なんぼかは売れそうな製品に力を集中すること ができる。質の差ほどに賃金の差は大きくないので、帳簿の上では集中しているようには 見えなかったりもするが、そのへんは現場にいる管理職ならわきまえているはずだ。

でもまあ、ゲームのジャンルやシリーズ名その他から もうけが推測され、物の出来が問題にされないような状態になりがちなのが 問題の根本だろう。まして、買うまでおもろいかわからないんだから おもしろさは売上に影響しない、なんていうトンデモ理論が力を持てば そうなるに決まっている。 まあそれも体験版が当たり前になることで劇的に変わってくるだろう。 というか、とっくに変わっているわけだが。

だいぶ内容が眠い。話が具体的だからだ。ぶっちゃけ私の仕事ではない。 しかし、所詮「まだ今は」だ。 本当はこういうことの基礎くらいは社員全員が知っておく べきなのだろう。

ある製品にはコストがどれだけかかっているか。 小売における100円のガムと、100円のスナック菓子のコストはどうか。 利益は仕入れ値と売り値の差額なのでわかりやすいが、 コストは必要な棚面積や、並べるのにかかる手間、 商品の回転率、などが効いてくる。 小売の商品ごとのコストなんて簡単そうに思えるが、そう簡単でもないということだ。 そして物を作る側の話になるとさらに厄介になる。 コストの大半が人件費であるようなケースでは、 数字で比べることが間違いになるケースもある。 普通、2倍できる人の人件費は2倍よりは小さい。 2倍程度の差しかないならいいが、知的労働においては10倍100倍の差すら 珍しくなく、それでも人件費の差は2倍程度だったりする。 なので、人件費で人間コストを見積るのはとんでもないどんぶり勘定であり、 例えば100倍できるスーパー社員がいる部署を人件費で見積ると、 そこにかかっているコストを恐ろしく過小評価していることになる。 「客観的な数字で判断しよう」と良く言うが、 すでにしてその台詞が判断と分析から逃げるための台詞であることが 多いのではなかろうか。現状把握はすでにして判断で、 複数の意見を統合しながら行わねばならない作業なのだろう。

製品の分類。今日の主力。主力になる過程で相当な資源をつっこんでいるので、 すでにかなり高コストになっている一方改善の余地も少なく、成長の見込みも低い。 うまいこと資源の引き上げを行う必要がある。下手な引き上げ方をして 競争力を失うのは惜しいが、引き上げが遅れて利益率が悪化する愚も避けねばならない。 ゲームなら例えば続編だわな。すでに確立した魅力がある分だけ、より少ない資源で 同等のものは作れるはずである。進歩はもちろん必要だが、 それは投入資源を増やすことではなく、資源単位あたりの生産性の向上で 行うべきだろう。似たようなものを二度作るなら、当然もっとうまく作れるようになる。 PS3でゲームを作るのが二回目なら同じ時間でもずっと性能を引き出せるだろうし、 バグも出にくいだろう。 もちろん、続編でも攻めに転じられる条件が揃っていたり、 技術修得のような副次的な目的があるケースでは話が違うかもしれないが、 おおまかにはそういうこといなる。

明日の主力。新しくやってみたら結構もうかってる、というレベルのものが 結構これにあたる。もっとドーンと資源を投入することで主力に育てられる かもしれない。

明日の主力商品が投資をケチったために消える例は多い。 種だけ撒いて育てずに撤退し、他社が収穫するパターンはよく見かける。 これが良く起こる企業ってのは、要するに上のマネジメントがアホだってことだろう。 それでもなおそういうことが起き続けているなら それは現場レベルではイノベーションが止まっていないということなのでまだいいが、 あんまり続けば現場も新しいものを作る意欲を失って腐っていく。 イノベーションをどう日常化するかは本当に重大な課題だが、 原理はドラッカーが言うように簡単だろう。捨てればいい。 それができないわけだが。

ごく狭い特殊な市場に向けた商品。他社が挑戦するほどの魅力はないので 結構安泰。値段も比較的自由に決められるのでもうけも大きい。 こういう製品をいくつか持てると強いよな。 ただ、主力になるほどのものではなく、 こういうものにあまり資源を突っ込むのは考えものだ。

開発商品。市場に投入してはみたが、まだまだ、という製品。 ここには最高の人材を少数投入すべき、とのこと。 人が多いとダメになる。また、利益が上がらなくても焦ってはいけない。

失敗商品。失敗なので、捨てればいい。失敗なのが明らかなのであれば、 バカな会社でもちゃんと捨てられる。その意味ではあまり問題にならない。 でも、きっとそう明らかではないのが問題になるのだろうな。

昨日の主力商品。やばい。これが一番やばい。 売上は大きいが、利益は小さい。つまり、市場がでかいし、過去にそれでもうけてきたが、 延命のためのコストはうなぎのぼりである。値下げ、妙なキャンペーン、 おまけ的な機能追加の絨毯爆撃、などなどによって無理やり生き残っているだけだ。 どんなに売上がでかくても、利益がゼロならその事業はゴミである。 捨てなくてはいけない。でも、たぶんここの意見は分かれるのだと思う。 利益と売上のどちらを日常良く聞くかといえば、売上だ。 売上が大きいことは、その会社が社会の中で大きな地位を占めていることを意味する。 意味するように思われている。利益があろうがなかろうが、売上がでかいということは、 デカい会社であることを意味する。 そして、そのデカい会社であること、有名な会社であることを利益以上に 大切なことだと思う人はおそらくたくさんいる。 だから容易には捨てられない。 うまくやればまだ行けるよ、と思ってしまう。 死体が腐らないようにするのと同種の仕事であることに気づかない。 怖い。これが本当に怖い。

手直しで売れるようになる商品。どこか一箇所だけ大きな間違いがあって、 そこさえ直せばバカ売れする、というような商品。 例えば、売る相手を間違えていた、流通のさせ方を間違えていた、 何を売りとして伝えるかを間違えていた、というような欠点があって、 それを直せばいいというなら直してみる価値はある。 しかし、直してみてダメだったとしたらそれは「一箇所だけ間違いがあった」 という仮定が間違っていたわけで、さっさと捨てるべきである。 また、直すのにあまり手間がかかる場合は、 それは要するに根本的に間違っていたということになり、やはり捨てるべきである。 というわけで、現実にはこのカテゴリに入るものはあまりない。 まあそうだろうな。ダウンロード販売にしたらバカ売れ、とか、 キャラデザを変えたらバカ売れ、とかそういうことだろう? しかしそれは、最初からそういうものとして企画されるべきだったわけで、 後からいじってどうこうなるなんて虫のいい話はそうそうあるとも思えない。

特殊でなくてもいい特殊商品。いろんな市場向けにバラバラに作ってみたが、 よく考えてみたら一種類で全部の市場に売れたとか、 今の技術で作りなおしてみたら一種類で済むようになったとか、そういうものだ。 これは検討する価値があるように思える。 例えば私の仕事で言うならば、 性能ギリギリ系のゲーム向けライブラリと、 アイディア重視の軽いゲーム向けライブラリを別に作っていたが、 ゲーム機の性能が上がって性能を使い切る必要性が減ったので一つで済むようになった、 というようなものだろう。これは実際起こっている。 もっとも、実際問題据え置きの進化が止まったと思ったら 今度は携帯機に据え置きの技術を持っていかねばならなくなり、 しかし携帯機は据え置きほどは性能がない。 そういうわけで性能がどうでもいいなんて言える状況には まだなっていないわけだが。 あと、原理的には一つでいいとしても、 独占すると腐るので敢えて統一しないというような判断もある。

いらない特殊商品。高級志向の客向けに見た目が豪華なモデルを出してみたが、 そんな客はいなかった、みたいな奴だな。 ハードディスクが多いだけでやけに高いゲーム機とか。 これは同じものを複数の値段で売ることで利益を増やすテクニックの一つだが、 失敗の原因になることは多い。そもそも種類を増やす事自体がコストだ、 ということがしばしば忘れられる。 ゲーム機で言えば、上位版と下位版があることによって、 箱のデザイン、箱の生産、在庫の管理、 そして売った先の店の手間、等々のコストが確実に増える。 プリンターやPCがランク別に何機種もあるのもそれだな。 誰が買うのかわからん最上位機種は確かによく見る。 これに関してはゲーム機が何色もあるのも似た問題を発生させる。 それで拾える市場の大きさと、増えるコストを 天秤にかけないといけない。ポケモンは成功例なんだろうが。

うちのヘルシオは最上位機種だ。あれを買ったのが成功だったかどうかを知るには、 一段下の機種も買って比べてみるしかない。しかしそれは不可能だ。 それに、最上位機種は利幅も大きかろうが、 コストもかけているだろうという推測は成り立つ。 コストパフォーマンスは悪くても、 絶対的な物の良さを重視するなら最上位機種を買うのは間違いではない。 というわけで、買う側にとってはまあ問題はない。好みの問題だ。 しかし、あのクソ高い最上位機種を用意することが本当にシャープの得に なっているのかは確かに疑問だ。 「あれに比べれば安いし」と言って下位機種を買う客がいるので上位機種は必要、 という意見も確かにあるだろうが、 その効果は本当に上位機種を作って運んで売って修理するコストに見合うのか。 シャープがヘルシオを本気で普及させるためには、 モデル数を絞って量産効果で故障率とコストを下げるべきであるような気がする。 逆にいつまで経っても高級品でいいのであれば、下位機種はいらんだろ。 あんなに壊れやすい複雑な機械なのは生産数が少なくて 経験が足りてないからじゃないのか。 そして、部品点数が減って故障率とコストが下がってくれば、 同じ大きさでも容量が増えたりと改善点が増えて、 かえって性能が高まってうちらもうれしいのではないのか。 まあシャープの人に聞かないと実際のところはわからんけどな。所詮素人の推測にすぎん。

独善的商品。売れてないのに「これは売れる!」と思いこんで、 いつまでも資源を投入する。むしろ、売れなくなればなるほど余計に資源を投入する。 最悪だ。いわゆるコンコルド錯誤効果もあって、人間がこれを克服するのはかなり難しい。 「今まで10億つっこんだし、ここでやめたら全部無駄になっちゃう!」という奴だ。 社内にも「いや、これもうダメっしょ」と思っている人は 多数いる状態になるはずなのだが、 それを口にして村八分にされる危険を冒そうとはなかなか思うまい。 結果的に、誰も不満を口にしないまま全体が腐っていくことになる。

統計の話。そこそこ当たる新製品は20%。激しく当たる新製品は1%。 よって、売ってみてダメだったとしても驚かないこと。 売れると思って作るのは当然で、そうあるべきだが、 売った後にもその確信を持ち続けるのはダメ人間のすることだ。 即座に根本的なところから考え直すべきである。 でもまあ、その商品の責任者が自力でそれをできるとは限らないのだよな。 たいてい下の人間は「ダメだったかあ。まあ言われて見ればそうかもな」 と納得できていると思うのだが、 それを上司に言うかどうかは別問題だ。 結果、誰も不満を言わないままそのダメな商品の改良に さらなる資源が突っ込まれることになる。

困ったことに、即座にわかるほど激しく失敗するわけでもないが、 生き残れるほど成功もしない、 という製品が60%あるのだという。こいつらをどれだけ早く捨てられるかに 会社の命運がかかっている。 まして、「昨日の主力商品」がその60%に入った時に捨てられるかどうかは 本当に大きい。確かに、捨てるのが早すぎてもマズイのは事実で、 次の枝を使う前に今掴んでいる枝を離す猿は地面に落ちる。バランスが難しい。 そんな決断をする立場になった人は本当に大変だと思う。

思えばちょっと前まで私は 「作りたいもの作ってトントンならそれでいいんじゃね?」と思っていた。 しかし、トントンにしかならないものに資源を投入することは、 明日のための取り組みを犠牲にすることを正当化できない。 現行商品ちょっと改良した程度の商品は、必ずそれなりな利益をあげなくてはいけない。 このことがドラッカーを読んでよくよく理解できた。

「一度で成功しなければ、一度だけやりなおせ。その後は別のことをしろ」 覚えておく。何度でも挑戦していいのは個人の趣味の範囲だけだ。 組織を巻き込んでやることじゃない。

シンデレラ商品。すごい潜在能力を占めているにもかかわらず、 資源を投入していないために成功していない。 そして悲しいことに、資源を投入しないのは、 現在の主力商品と喰い合うという理由であることが多い。 この理由で保留していると、そのうち他社がやってきて根こそぎさらっていくことになる。 トランジスタは真空管の市場を食うということで放置されていたが、 そこにやってきたソニーが根こそぎさらっていたのだそうだ。

以上の分類はそのものはあんまり役にたたない。問題なのは、 いつこの分類が変化するかだ。明日の主力商品が今日の主力商品になるのはいつか。 さらには昨日のものになるのはいつか。開発商品が独善的商品に変化するのはいつか。 予測が当たらなかった時には、それがヒントになる。 また、製品にはライフサイクルがあり、 今そのどこにあるのかを見ればおおよその予想はつく。 二回山があることはまずないわけで、今が下り坂なら撤退が正しい。 ただ、撤退を素早くやるかゆっくりやるかは 性質による。ジムコリンズにもあったな。ダメになる市場でも、 最後まで居座ることで利益を得ることはある。 ただ、そこに資源を投入しすぎるとダメで、 「大した努力をしないわりにはもうかる」という状態を保たないといけないわけだ。

期待は書き留めておく。人間の記憶は簡単に捏造されるので、 大失敗に終わった後に「いや、オレはダメだと思ってたよ」 とか言い出すバカが後を絶たない。 なので、どういうふうな理由で行けると思ったのかをちゃんと書いておき、 結果が出た後にそれを読み返して検討する必要がある。 が、こんなことをしている例を私は知らない。 つうか、企画書には売れると思う理由が当然書いてあるわけで、 それをもっともだと思った人がいるからその 企画は通ったわけだよな。であれば、失敗した後に企画書を読めば検討ができるはずだ。 書き留めておかなかったのでできない、というわけではなく、 見るのも嫌なので見ない、というだけのことなんだろう。 これをやれば、どの分類に入ると思って始め、 実際にはどの分類になったのか、ということがわかる。 それは貴重な経験のはずだ。

ダメになるときは急速にダメになる。 なので、投入コストあたりの利益の増加が減り始めたら、 もうアウトだと思った方がいい。撤退するには早いとしても、 それ以上投入コストを増やしてはいけない。 しかし、増加コストあたりの利益増加が減り始めるのは、絶頂期だ。 絶頂期にある時に、「この先は衰退だ。撤退の準備を影で進めておこう」 と思える奴はそうそういない。 せめて「これ以上はいいだろ。現状維持を心がけて新しい事業の準備をする」 と言えればいいが、 たいていは「よし、倍プッシュだ」となる。 そして、投入コストと利益増加が等しくなるような 状況になるともう手遅れで、あたふたしている間に死んでしまうわけだ。 これは人間の性質上、どうにもならんといえばどうにもならん問題である気がする。 よほどの精神力がある人間でも罠にはまる。そもそも精神力に期待するのは危険すぎる。 これをどうにかしようと思えば、システムの力を借りるほかあるまい。 ルールでは弱い。それが当たり前になるようなノリの組織を作ってしまうしかない。 人間は周りがそういうノリなら一人では無理なことも平然とやってのける生き物だ。 でなかったら戦争で殺し合いなんてできるはずがない。逆に言えば、 殺し合いをやらせるほどの力が「集団のノリ」にはある。 これをどう創り上げるかということだろう。 もっともジムコリンズを読む限り、 それに成功してもそのノリをずっと保てるわけではないようではあるが、 少なくともそういうノリが根付かない限り会社は成功はしないわけだ。 ジムコリンズがgoodでなくgreatと表現したような企業は そういうノリを身につけられた企業なのだろう。

広告は投入資源に対して利益がどれくらい増加したかを測りやすく、 こういった考え方を実践する上で入り口になる。 が、テレビCMのコストを上回って利益が増えたことが数字で示されたことはない、 とドラッカーは言い切っている。 さすがに言い過ぎだろと思うが、 思われているほどにはテレビCMに価値がない可能性は高い。 まず、テレビCMのコストが正確に測定されていないのではないかという疑念があり、 また、利益の増加が正確に測定されていないのではないかという疑念がある。 利益が増えたかどうかは、CMなしの利益とCMありの利益を比べねばならない。しかし たいていそんなことは行われていない。 コストの方はさらに厄介だ。CMを「枠」という形で会社単位で買ってくる場合、 そのコストをそれぞれの商品のコストとして計上するとは限らない。 「会社として2億分買ってて、今余ってるからこの商品やっとけ」 みたいなことになった時に、 余ったからやっただけのCMでその商品のコストが1億とか増えると、 その商品は赤字ということになってしまう。 だから、その商品のコストとしてはたぶん計上されていない。 「うちの部の商品のコストとして扱うならCMなんていらねえ」と皆が言えば、枠が余る。 商品単位でCMを買ってくればいいが、 そうできるとも限らないのだろう。このへんは全部想像だが。 他にも、タイアップその他でコストを複数の組織で分担したりすると、 つまるところいくら使ったのかが よくわからなくなる。 そしてこれも想像だが、テレビCMが流れてるとメジャーになった気分になってうれしい 人が多いんじゃなかろうか。 「すげー、オレが作ったものがテレビで宣伝されてるよ」的な。 さらに、会社のイメージを広めるためだけにCMをやるケースもあるだろうし、 東京電力のように「これ、実質テレビ業界に払ってる賄賂だろ」というケースまである。 もはやテレビCMは割に合うか? なんて問いを真面目に検証できる状況にはないのではないか。 私には一般的な使われ方としてのマーケティングの知識はゼロなので、 そういう人たちが何をどう意思決定してるのかは完全に想像でしかないのだが。

今度はコストの話だ。ワクワクする。 いや、専門外で無関係だと思ってたが、この本それでもおもろいわ。 こんな下っ端が読んでもワクワクする。最初のところはちょっと眠かったが。 何読んでもおもろいというのは信じられんな。図書館で借りて読むのは惜しい。 全巻買ってトイレに並べておいて、大便の度にペラリとめくるくらいの使い方はしたい。 たぶんそれを実践するとかなり生活に張りが出る。 トイレ用本棚とドラッカー全集全巻買っていいかなあ。 まあひつじこがダメと言うことはそうそうないのだが、念のため聞いておく。 聞くという行為が私自身のチェックにもなるし。

コスト管理の最良で最重要の方法は、もうからないことはしないこと。 もうかる所に集中して資源を入れること。 当たり前すぎる。プログラミングと全く同じだ。 がんばって作ることに意味があることをがんばるべきである。 客が絵の綺麗さを重視していないなら、 絵を綺麗にするのに億単位の金を入れても意味が無い。

コスト削減の原則。一番デカいところからやれ。 10%削るための手間は元の大きさがなんぼであれ大差ない。 これもプログラミングと一緒だ。一番遅いところから最適化する。 コストにも種類があるので、種類別に削減作業をやるべき。 一番いいのは丸々やめること。やめられないか常に考えろ。 これもプログラミングと一緒だな。 次に、全体として削れ。他の部門に押し付けて削った気になるな。 これは当たり前すぎる。プログラミングではそんな バカな真似をする奴はまずいないのだが、会社だとこれがしょっちゅう起こる。 単純に、会社全体を良くすることに情熱を持てない人が多いんだろう。 人間は時間的にも空間的にも近いものが大きく見えるので、 自分の部署で出た成果は他の部署で出た成果より大きく見えるし、 すぐに手に入る100円は未来に手に入る100円より大きく見える。 もっとも、会社が遠い世界の話に見えている段階で、何かがおかしいはずなのだが。

節電も同じだよな。自分ちでクーラーつけるのはもったいないので会社で過ごす、 というのが有効かどうかは、 同じことをやる奴が何人いるかとか、会社の消費電力がどうかとかによって変わってくる。 必ずしもそれが節電になるとは限らない。 ゲームだと、他社のツールを買うのをやめたが、 結局自作するのにコストがかかって台なし、みたいなこともあるな。 これも人間の精神が近視であることによるものだろう。

最後が、コストを企業の中だけで考えるな、というもので、これは難しい。 例えば、品質を落として安く作ると、それによって消費者が不利益を受ける。 つまり、品質低下によって、企業内部のコストは減っても、 社会全体のコストが減ったとは限らない。 企業にそんなことを考える責任があるのか?という問いはもっともだが、 この例であれば客に悪い感情を与えるのは長期的には会社のためにはならないわけで、 安易にこういう選択をしてはいけないということにはなる。

これのいい例がアマゾンだろう。 アマゾンは箱の大きさの種類を減らすことで、アマゾン自身の梱包コストを 劇的に下げたという話だ。 しかし、これが社会全体としてコスト削減になっているかは怪しい。 配送業者は無駄に大きなものを運ばされている。 消費者は無駄にデカいゴミを捨てねばならない。 もちろん、デカい箱であることによって、アマゾンが余計に送料を払っていれば、 配送業者はそう損はしていないだろうということは言える。 しかし、アマゾンは大企業であり、配送業者の方が立場が弱ければ、 そのへんでゴリ押ししている可能性はある。 そう考えると、アマゾンのあのやり方を「発想の転換だ!すごい!」と 手放しで褒めていいかは微妙だということになる。 まあ、アマゾンの存在が社会にとって利益かどうか、 なんてことは誰にも判定できないわけで、 言っても仕方ないことなんだが。アマゾンを繁栄させているのはうちらなのだし。 それに、段ボールの種類が少ないことによる全体のコスト 削減効果もバカにならないかもしれないわけで、 あれによって社会全体のコストが減っているか 増えているかは測定してみないとわからない。

ドラッカーはアマゾン以外で買おうかな、とか思ったが、あの便利さを捨てるのは難しい。 まして洋書を買うとなると選択肢がない。マネジメントの原書は持っておきたいからな。 トイレにおいておいて、たまにペラリとめくる程度になってしまうにしても。

「コストを顧客が支払うものとして定義する」。ああ、こう言えば一言で言えるのか。 ドラッカーってすごいな。莫大な内容を一言でまとめてくれる。 アマゾンが仮に配送業者にコスト増を押し付けたとしても、巡り巡って最終的には 消費者がそのコストを負担することになる。 国民全員に薄まってわからなくなっているかもしれないが、 しかし原理としてはそうだ。そのことを企業は自覚しておけ、ということである。 でもまあ、そのへんは社会的責任の話と一緒で、なんとも難しいだろう。 社内の他の部署にコストを押し付ける奴がいる状況で、 他の会社にコストを押し付けないでいられるとは到底思えない。

私には関係のない話だが、会社が金をどうやって持ってくるかも重要なポイントだ。 銀行から借りた方がいいのか、株でまかなうのか、みたいなことである。 たいていはここが間違っていることによって無駄な金利を払わされているらしい。 この本が出てから何十年も経っているので、このへんが今でもそうかはわからないが。 あとは、輸送と在庫も疑うべきだという。会社内の輸送や倉庫の出し入れなどが 積もり積もってデカいコストになっているケースがままあるそうだ。 うちはデータが売り物なのでそれほどこの問題は大きくないだろう。 それにしても、物を作るという所以外にも意外なコストが潜んでいるものである。 面白い。

コスト間の関係を理解しろ。他に影響を与えずに削減できることはあまり多くない。 ゲームで言えば、すごいツールを作ってデザインデータの監理をするようにしたが、 地味にツール開発と保守に金がかかってた、みたいなことだな。 確かに気を付けねばならない。

物を作るのにかかるコストは、むしろ投入する資源なので、 コスト削減の対象とするよりは、 もっと上の次元で考えた方がいい。 要するに、投入する資源に見合う成果があるか、ということだ。 何に投入するかを考えなおす方が重要になる。 一方、物の生産に直接かかわらないコストは、割に合う範囲でだけ存在が許される。 あるのが当たり前に思える部署でも、 「丸々なくなったときに、削れたコスト以上に損害が出るか」 と考えて、出ないなら捨てていい。 例えば技術サポート部署が丸々消滅した時に出る損害は、そこにいる人間の価値と 天秤にかけられなければならない。事務にしても掃除にしてもそうだ。 まあうちらが掃除した方がいい、ということにはならないだろうが。 しかし、うちらが自前でPCを調達した方がいい可能性はなくもない。 昔に比べればPC類の保守や選定は難しい作業ではなくなっているし、 それを専門にする会社もなんぼでもある。PCやネットワークの管理、調達を そのへんにいるプログラマに兼務させた方が安くなる可能性がないとは言えないし、 丸々外注に投げた方がいい可能性もある。検討そのものはされていい。 ただもちろん、それはそのコストがデカい場合に限るのだが。 どうでもいいコストを削る努力はそれ自体無駄なわけで。

このへんはプログラミングをやっていればよくわかるようになりそうなものだが。 普段自分の中ではやっているはずのことで、それを組織に応用するだけのことである。 あるいは、逆なのかもしれんな。組織についてそういうことを考えられる人が、 まともなプログラマをやっていられるのかもしれん。

監視のコスト。これも、なくした時の損害を見積もる必要があり、 ないと困るとわかったなら、 今のやり方でいいのかを考える。ゲームのバグチェックは必要か。 必要だとすれば、どこで誰がどうやるか。 考えるに値する問題だろう。 でもまあ、実際になくしてみないとどれくらい損害が出るかわからない ケースが大半なわけで、 なくしてみた時にどうか、なんてことは考えようもない。 そうすると、結局はそういう機能を置くという前提で やり方を改善していくことに落ち着くのだろう。 いきなりバグチェック部署がなくなったことを想像してみても、 何が起こるのかさっぱりわからん。 案外その分注意深くなって問題ないかもしれないが、発売日にバグ取りが間に合わなくて 大損害になる可能性もある。

「何もせず、いかなる成果もあげずに、時間や資金や人間をつかっているのはどこか」。 これ、調べりゃいっぱい出てくるんだよな。きっと。 ただ、そこにいる人間をどうするか、 という問題があまりに不愉快なために放置されがちになるんだろう。

「みんなで何%削ろう」的なキャンペーンは有害。これは間違いない。 今日本中でやってる節電キャンペーンは有害だと私は思う。 しかし、本当に全体として有害だと断言はできないのが難しい。 これをきっかけにみんなが節電する癖がつけば、それは将来利益を生む可能性がある。 私は電気代を上げて市場原理主義的な解決をすればいいと本気で思っているが、 それが日本人の文化に傷をつける可能性がないとは言わない。 「みんなで苦しみに耐えよう!」的なスローガンは私は嫌いだが、 それが無意味だと証明することは私にはできない。

でも、本当に節電をさせたいなら電気代上げればいいんだよと思う。 それが致命傷になる企業に手当をする、という条件は必要で、 その度合をどう判断するかが難しいという問題はあるにしても。 電気代が主要なコストになっている企業はそれほど多くないように思う。 まして家計にとっての電気代なんてそれこそ重要じゃない。 確かに手取り300万の世帯でも、年間の電気代は3万円を超えるだろう。 しかし、6万円を超えていればそれはたぶん浪費だ。電気代が倍になっても、 たかだか2%未満が4%未満になるだけで、しかもそうなれば確実に節電するので ダメージは減る。家庭の消費電力なんて半分くらいは浪費だろうよ。 もっとも、そもそも節電しないと死んじゃうというのが嘘っぽいようだが、 それはそれとして原発が止まれば火力の燃料費がかさみ、CO2の問題も大きくなる。 この国が全体として省エネの方向に行きたいのであれば、 電気やガスにかける税金をでかくした方がいいのではないか。 もちろん、電気代が高いことで企業が海外に逃げていくとかいうなら別で、 そういう話も良く聞くが、 実際に電気代がどれくらい重要なのかという数字は見たことがない。

2011年08月03日

今日もドラッカー。

生産方法。個別生産。固定的大量生産。適応的大量生産。プロセス生産。 仕事の工程のどこがどの方式に合うかを考えよう。 個別生産は材料は規格化されているが、それ以外は個別に作る。 固定的大量生産は、一種類のものを、規格化された部品から作る。 適応型大量生産は、複数種類のものを、規格化された部品から作る。 プロセス生産は、設備に原料を入れれば自動で製品が出てくるところまで機械化する。 ゲーム作りはどこまで行っても個別生産だが、部分的に大量生産っぽい やり方を混ぜることはできる。 混ぜすぎると危険だが、思っているよりも混ぜていい場合もあるし、 思っているよりも混ぜない方がいい場合もある。 例えばアメリカで人気の鉄砲で人を殺すゲームはだいぶ似かよって見えるが、 ストーリーやキャラクター、面のデザインなどが違っていれば、 「広いところを好き勝手移動しつつ、乗りものにのったり人を殺したりする」 というところは同じでいいとみなされている。 そのために必要な部品はかなり規格化できる。 彼等がいつまでも飽きない保証はないが、今のところ彼等は変わらず 殺し合いをしたいように見える。 もっとも、もっとも規格化されたゲームジャンルと言えばギャルゲーだろう。 個別にプログラムを書く必要がないというレベルまで規格化が進んでいる。 そのために袋小路にはまっているようにも見えるのだが。

ゲームの一部を部品として規格化することは可能で、すでに行われている。 ただ、よほど短時間で次から次へとゲームを作るのでない限り、 一切規格化せずに毎回一から作り直したとしてもそれほど無駄なわけではない。 個別生産的な部分が5割を占めていれば、残りを規格化してもコストは 半分にしかならない。そしてゲームにおいて個別生産的な部分を5割以下にできるとは 私は思えない。もしそれが可能だとすれば、それは焼き直しで物を作っているはずで、 一瞬で飽きられる。別の市場、別の流通経路を対象をするならいいが、 同じ市場に同じ流通経路でそんな焼き直しを投入すれば結果は見えている。 とは言え、規格化しやすい部分を作るのに必要な人材と、 個別にしかやりようがない部分を作るのに必要な人材は異なる。 経験上、前者の方がレアだ。 人材の面から言えば、規格化できる部分は規格化して使い回さないと辛い。 ただ、前も書いたように、常に規格化が可能であるとは限らない。 部品に合わせて本来作ろうとしたものがねじ曲がるのは本末転倒だ。 また、規格化できる部分を作れる人材が少なすぎると、 規格化できる部分を増やしすぎることで彼等がパンクしてかえってヤバいことに なる可能性もある。つうか、私の仕事がこれ以上増えるとちょっとヤバい。

管理の話。方向性、質、生産量、保守と安全、効率。このへんについて チェック機構が必要だ。しかしチェックは割に合う範囲でやるべきで、 できるだけ邪魔にならないことが望ましい。 通販の代金を封筒に硬貨を入れて払っていた時代、 とある企業はその硬貨を数えず、封筒の重さしか見ていなかったらしい。 なるほど、重さしかはからないことで生じる損害よりも、 数えるための人件費の方が大きいのであれば、数えるのは無駄だ。 また、チェックに引っかかった例外をどうするかも問題で、 例外に仕事が邪魔されないように設計する必要がある。

ゲームで言えば、絵素材をゲームに出してみたら容量がデカすぎてハングした、 みたいなことはよくある。 まず、どれくらいがデカすぎるのか、という基準の設計がいる。 そして、どこでチェックするかという問題がある。 小さなゲームならたその絵素材を使う場面まで行けばわかる、 というので十分かもしれない。 あるいは絵素材を決まった場所に置いておくと毎晩チェックするプログラムが 自動で走るような体制も考えられる。 次に、チェックで引っかかったらどうするかだ。 めったに引っかからないなら、その都度直してもいいが、 しょっちゅう引っかかるようなら、そんな例外が起きても 開発の邪魔にならないようにする必要がある。 例えば自動で問題が起こる前のデータに戻しておいたり、 プログラムが自動で応急処置したりといった工夫がいるかもしれない (たぶん中の画像データを勝手に縮小してしのぐのだろう)。 もちろん、凝ったチェックほど作るのに時間がかかるので、 その手間も含めて割に合うか考える必要がある。

ゲームの場合、一番重要なチェックは「できたものがおもろいか」だろう。 フリーズしないかとか、絵がショボくないかとか、金がかかりすぎていないかとか、 そういうチェックは比較的機械的にやれるが、 おもろいかどうかは一段違う次元でやらないといけない。

ツール。必要な機能を果たす範囲で、 最小の労力、複雑さ、エネルギーしか使わないのが良いツール。 この原則は納得できるが、現実には面倒な問題がある。 激しく労力をつぎこみ、恐ろしく複雑で、毎晩コンピュータがガリガリ実行して エネルギーを消費するようなツールであっても、 すでに買うなり作るなりしてしまった場合はそれを使う方がいいか。 場合によっては、 ツールを使うために本来の工程がねじまげられることも覚悟せねばならない。 あるいは、何をどう作るべきか、と問うている最中からこのツールを使うことを 想定せねばならないこともある。私は正直そういうのは嫌いだ。 とは言え、好きか嫌いかで決める問題ではない。 でも嫌いだ。

ツールを作る際の注意。人を機械に組みこむような設計はダメ。 人は機械としてはお粗末すぎる。こういう設計は十分に技術があれば 全部を機械化できるはずで、人を組みこむのを避けるに越したことはない。 次に、人と人のコミュニケーションをおかしくするのもダメ。 長い目で見た時におかしくなる。これは具体的な例は書かれてないが、 どんなことがあるだろう。やりとりにはコストがかかるので やりとりを減らせるように仕事を設計してツールを作るのは理にはかなう。 例えば電子メールは顔を合わせなくてもやりとりができるようになるので やりとりのコストを下げる。しかし、これによって本来生身で話さねばならないことにも メールを使ってしまって人間関係や信頼がおかしくなることはある。よくある。 私もよくやる。バグ報告システムの類も同様だろう。 もともと人間関係が希薄なままでいいのならいいが、 立ち上がれば顔が見える程度の距離にいる人々がこれでしかやりとりをしないとなると やっぱり何かがおかしくなりそうで怖い。 根本的にコミュニケーションに自信がない私みたいなタイプは そういうツールがあるとつい濫用してしまうので、 こうしたツールはその害を抑える工夫と一緒に導入すべきだと思われる。 私がダメなだけかもしれんが。

X理論。人間は放っておけばなまけるので、アメとムチで働かせる必要がある。 Y理論。人間は責任と自己実現を仕事に求めるので、仕事がそれを提供できれば 人はバンバン働く。 どっちも極端だが、どちらも真実に思える。 ただ、人の役に立つことをうれしく思わない人はあんまりいないのは事実であり、 そうでない人が人と協力して何かをなすのは難しい。 その意味ではY理論気味な考え方が妥当なんだろうとは思う。 少なくとも、X理論寄りで会社経営をすると中の人は楽しく仕事ができない。 楽しくなければ成果が上がらない、と決めつけていいのかは微妙だが、 ドラッカーはその立場に立っている。

ちょっと前まで、結局会社が社員にできることは金で報いることだけだろうと私は 思っていた。しかし、その時の「会社」はちと意味が狭すぎた。 会社は自分を含む人の集まった何かであり、その何かは友達だったり居場所だったり といった金以外のものを確実にくれる。 さて、金で報いるという考え方は、よほど調子がいい時にしかできない。 会社が顧客のめにあるのだと考えるならば、本来必要な利益を削ってまで 社員にバラまくのは目的に反する。 そりゃ給料は欲しいが、そのために会社がヤバくなったり、 そこまでは行かなくても設備がショボいままで不便だったり、 ワクワクする冒険的なことをしなくなったりすることは大抵の人は望まない。 と思う。 そもそも、今の社会では300万も収入があれば3人家族がさほどの不自由もなく生きられる。 結局、今の裕福な社会において、金は相対的な問題だ。 自分の点数の表現としての金が問題であるにすぎない。 だいたい100万余計にもらったからといって100万円分余計に成果を出すとは限らない。 というか、ほぼ確実にそんなことは起こらない。

成果が比例するものがあるとすれば、与えられた責任だろう。 私は責任が嫌いで、 「できるかどうかわからないけど、いいこと思いついた。でも、できなくても文句言うな」 的にチキンな姿勢で仕事をしていた時期が長かった。今でもあまり変わってない。 しかし、そうは言っても、しくじれば迷惑がかかり、 明に責められなくても申しわけない気持ちで辛くなる。 何年か前も妙な新技術の研究が結局使いものにならず時間を無駄にしたことがあった。 あれは大変勉強になったしいろいろおもろかったが、 それはそれとして無駄にした時間は帰ってこない。 そういうわけで、文句を言われるか言われないか、 つまり明示的に責任があるかないかは、心理的にはあまり問題ではない。 そのことに最近気づき、ドラッカーを読みつつ再確認した。 実質的な責任の大きさ、つまり成功や失敗の与える影響の大きさこそが問題だ。 そう考えると、最初から「これは君の責任だ。がんばれ」と言われた方が マシな気もしてくる。そして、成功した時の報酬として何が欲しいかと言われれば、 少々のお金と、よりデカい責任ということになる。 でも、それはそれとして、責任は怖いから嫌いだ。 夫や父親をやっているということすらたまに怖くて仕方なくなる。

フィードバック。体重を毎日測っている人は、太りすぎたり痩せすぎたりしにくい、 という話か。成果を何らかの形で測定し、それが常に本人の目につくところにあれば、 どうやって成果を高めるかをいちいち指示しなくても勝手に成果を高める、 という話。そうかもしれない。しかし、どうやって測定するかが問題だ。 量が存在する仕事ならいいが、うちらの仕事は量が存在しないことが多い。 アクションゲームでボスのAIを何体書いた、みたいに量っぽいものが存在したとしても、 重要なのは質の方だし、あるボスと別のボスではかかる労力が全然違い、 同じく一体と数える意味がないこともある。

継続学習。社員の技術が古くなるのは会社のマネジメントがダメなせいで、 これ以上ない恥だ、と書かれている。 古くなった頃には新しいのが入ってきて古い人は辞めていくので問題ない、 とちょっと前までは言えただろうが、今は無理だ。 私の周りにいる人の大半は私より年上である。私ももう34だ。 たぶん古くからいる人はゲーム会社がこんな状態になるなんて 考えもしなかったに違いない。しかし、現実にそうなってしまった。 とすれば、とにかく今からでも社員が勉強し続ける状況を作り出さねば未来はない。 しかし、どうしたらそうなるのか、とんと見当がつかん。 新人は自分が吹けば飛ぶような存在であることを知っているので、 その弱みにつけこんで勉強を強いることができる。 3年くらいまではそのノリで行ける。だが、5年も経てば 自分がそこで仕事をして生きていけると考えるのが自然だし、 そう簡単にクビにならず、またそう簡単に会社がなくなりもしない、 という確信を抱くようになる。こうなった後で勉強を強いるのは不可能に近い。 というか、すでにして私もロクに勉強してないわけで、人のことは言えない。 私は何を勉強すると貢献を大きくできるんだろうかと思うが、 とりあえずはドラッカーだな。今まであまりに一人で仕事をしすぎた。 使える台詞は紙に印刷してどっかに貼っておこう。

とにかく教える機会を作ることだろうな。CEDECみたいなのはいい傾向だろうが、 あんなゴッツイのばかりでは機会も少ないし大変なので、 もっと日常的に人に教える機会を作るべきだろう。 人に教えることほど自分の不足を思い知ることはない。

「そういう技術を持った奴はいないし、 そういう技術を想定した採用はやってないから、 そういう技術は使えない」という台詞は、ヤバいよな。 現実的にそれが妥当であったとしても、 会社に入った後で学ぶという可能性を完全に排除するのはまずい。 少なくとも問題であることは認識して、何かしら手は打つ必要はある。

ひつじこが「赤いピンクの部分がたくさんあって...」とか言ったのがおもろくて、 不意に吹いた。言い間違いとかでなく、これがひつじこの語彙なのである。 素敵だ。なお、降雨量の図を見ていての話らしい。

生産的なやり方を模索させ、フィードバックを与え、継続 学習をうながす。しかしこれを会社のえらい人がシステムを作ってやらせるような ことをするとうまく行かないのだと言う。 それらは自然に行われねばならず、そのためにはどうやってそれらをやるか を決める所から当事者が参加していかねばならない。 しかし、それをどうやって始めるのかはやはり見当がつかない。

権限は明確であるべきだ、とのこと。それぞれが責任を持つ範囲が明確 でなくてはいけない。このことは結構満たされてる気がするんだが、 その範囲に入らない物が残ってしまうことが良く起こる。 単純に割ったのではどうしても境界付近に曖昧なところが残るからだ。 たぶん階層上に範囲を重ね合わせるべきなのだろう。 全体に責任を持つ人が一人は必要で、 下位のより専門家した範囲で処理しきれなかった部分はそこで確実に処理 せねばならない。「バグもなく、期限通り完成したが、そもそもこれオモロイの?」 みたいな状況になるとすれば、それは全体の質に責任を持つ人がいない せいかもしれない。あるいは。そもそも「面白さ」に関する目標が明確に 立てられていないのかもしれない。

職場コミュニティ。 昔の会社にはサークル活動のようなものがあったと聞くし、 どうもうちにもあるっぽいのだが、さっぱり無縁だ。 労働組合もあるらしいが、全く縁がない。つうか、関わりたくない。 どうにもここの内容はピンと来ない。

労働組合ってのはどうにもわからん。なんであいつら原発に反対してるんだ? 労働組合ってつまるところ組合員の給料を上げるために会社に文句を言う団体だろ? 原発関係ないじゃん。ドラッカーを読んでるとちらほら労働組合の話が出てきて、 どうも昔は重要な役割を果たしていたっぽいことはわかる。 知的労働がメジャーになった後でも、知的っぽくない労働をしている人が 尊厳をもって社会に貢献するためにはその手の組織があった方がいいと ドラッカーは言っているが、一方で知的労働がメジャーになればどうやっても 労働組合は弱体化するとも言っている。 つまり、どうにもならんということか。 この本が出てから40年も立っているわけで、もうゾンビみたいなものなんだろう。 何か代わる物は現れたんだろうか。

雇用と収入が安定しないと成果を出せないと言っている。 昔はそれらを失うことが命の危険を意味したが、 今はそれらを失っても死にはしない。 しかし、ドラッカーによれば、それゆえに昔以上に今は雇用や収入の安定が 重要で、それらを失うダメージはデカいのだと言う。 人は他人と比べて自分の位置を知る。 昔は雇用や収入はあっけなく失うもので、そう珍しくもなかったが、 今はあるのが当たり前だ。当たり前のものをもってないことは、辛い。 これらが保証されていないと責任を負う勇気が出ない。 責任を負えないと、成果は出ない。 まあそうだよな。しかしその一方で、職を変えるのがあんまりしんどいのも 非効率だ。向いてない仕事はやめた方がいい。 日本はクビになる危険はあまりないが、非効率の原因になっている。 そして、余裕がなくなってそもそも正社員にできなくなってきた結果、 非効率にプラスして不安定にもなっている。相当ヤバい。 運良く正社員になれた人が運悪くなれなかった人に何もかもを押しつけている 今の状況は社会としていびつすぎる。 でもまあそれはそれとして、とにかくある程度の安定がないと 成果が出せない、というドラッカーの主張はよくわかった。 数式だけで見る古典的な経済学では出てこない主張だ。 どこまでも人間を見ているのだなと思う。

イノベーションが抵抗を受けるのは、それが雇用と収入の安定の敵になると 思われるからだ。であれば、問題を解決するには、 イノベーションがすでにそこにいる人々によって普通に行われる ようになればいい。 新入社員の持つスキルによってイノベーションが起きたり、 他の企業の技術によってイノベーションが起きたりするから問題になる。 自分達で当たり前のようにイノベーションし続けていれば問題にはならない。 そのためにも、継続学習は絶対に必要だ。 これがないとイノベーションがレアなものになってしまい、 抵抗されやすくなる。 また、再就職しやすいしくみがあればイノベーションへの恐怖は緩和できる。 会社が再就職の面倒を見る、と言って、実際に実行することは有効らしい。 その姿勢を見せることで、人は安心する。 安心によってイノベーションが邪魔されなくなり、人がのびのび仕事すれば、 そもそも再就職を必要とする人の数が減るのでコストは大してかからなくなる。 でもまあ、そうなると期待して始めるのは怖いだろうし、難しいよな。

会社あるいは上司が部下に対して常に問いかけるべき問い。

  1. 会社や私はあなたの仕事の助けになることとして、何を行っているか。
  2. 会社や私はあなたの仕事の邪魔になることとして、何を行っているか。
  3. 私が上司として会社に最善の貢献をするために、あなたには何ができるか。

明に聞かれたことはないし、この先聞かれるとも思わないが、 いつでも答えられるようにしておこう。特に3番目は大切に見える。しかし一番難しい。 そして、もし部下ができるようなことがあれば、こういう問いかけをしてみよう。 恥ずかしいので明にはやれないかもしれないが。

新入社員の選び方には意味がないと言い切っている。ランダムな方がマシだとすら 言う。いや、さすがに言いすぎだろと思うが、 自分のことを考えてみて、そうかもしれんと思い直した。 私はC言語は未経験だった。C++は内定をもらった後、 修論に必要だったので始めた。会社のために学んだわけでもなかった。 内定前にはperlしか知らなかった。就職した後も、forループのカウンタにcharを使って バグるくらいに無知だった。だから、もしプログラミングの作品提出や試験が あれば確実に落ちていたはずである。 大学で何を学ぼうが、入社して5年も経てば全ての技術は陳腐化している。 学ぶ習慣を持っているかどうかなんて試験ではわからないし、 学び方も一様ではない。仕事をさせてみなければわからないということだ。 継続学習の文化さえできていれば、確かに採用はあまり凝る必要はない。 変に凝って偏る方が怖いとすら言える。

あーでもまあ、私はちょっと別だな。うぬぼれでもなんでもなく、 他の奴等と比べれば目立っていたはずだ。 「3DCGはやったことがありますか」と問われて、 「やったことはありませんが、法線をアフィン変換したりする奴でしょう? やればできると思います」と答えた段階で「これから勉強します」 とか言ってる奴とは印象が違ったはずだ。 アフィン変換が数学的に何を意味しているかを当時の私は知らなかったのだがな。 「仕事に必要なものを、友情、努力、勝利みたいな感じで三つ挙げてください」 という問いには、「技術、技術、技術です。その後必要になるものは、その時に学びます」 と答えた。我ながらいきがった答えである。私が担当者ならムカついて 落としていても不思議はない。しかし目立っていたのは確かだ。

なんか、私の文章までリズムが上田になってる。 そういうリズムというか臭いというかがあるという段階で、有賀訳とは比べられん。

できない奴は、仕事が合ってないだけだ、と言い切る。 いやさすがにドラッカーも100%そうだとは言うまい。 この断言には姿勢というか信念というかが反映されていると思っていいだろうか。 しかし、本当にそうなのかもしれないと思わなくもない。 何か別の仕事をすれば輝けたのかもしれないとは思う。 あるいは、「うちの会社のどこにも君に向いた仕事はないが、他の会社にはあるのかも」 と言っていいのであれば、まあそうだよなという話になる。 まあこの場合はドラッカーの言葉にはあまり意味がなくなってしまうのだが。

企業に社会的責任はあるか。あるとして、どれくらいあるか。 何をせねばならないか。 私は理念が好きだが、理念を信じてはいない。 「企業は社会に貢献すべきだ」とか言っても、そうすることが得にならない限り 誰もやるまいと思っている。ドラッカーによれば自発的にやった人も たくさんいたようですごいと思うが、 これに関しては血も涙もない古典経済学の方が実情に合っている気がしてならない。 何の規制もなければ水俣病は起きる。 実際原発が爆発して、私の家族は日々被曝している。 かといって、政府も役に立たないことは明らかだ。 何か違うしくみを作らない限り社会は良くならないのではないか。 あるいは、すでに社会は十分良く、これ以上良くすることは 人間の生物学的限界を超えているのではなかろうか。

社会的責任を重視して、無理して向いてない場所に工場を作った企業は、 利益が上がらないために設備の更新もできず、 結局公害を垂れ流して叩かれることになったという。 善意や責任感も、利益を上げるという企業が存続するための条件を満たせない 行動を取らせるなら害になる。 人種差別を撤廃するために黒人を高い地位につけようとしたらストライキを食らって なかったことにせざるを得なかった企業もある。 その企業は何年か後に人種差別をなくす努力をしなかったことを叩かれたそうだ。 どうすりゃええんじゃ、という感じである。 社会的責任というのは恐ろしく厄介なのだな。しかし無視しては通れない。 その義務があるかどうかではなく、その義務があると思われているかどうかが 問題であり、事実そう思われているということか。

その会社があることによる問題と、その会社がなくてもある問題。 公害を出せば、それは会社のせいだ。 しかし、ド田舎で雇用がない場所である、というのはその会社のせいではない。 その意味で、そこで人を何人雇うかは会社の自由であるはずだが、 たくさん雇わないと責任を果たしていないと叩かれる。 この二つをどう扱うべきか、という話。この人は本当に何でも分類する。素敵だ。

その会社が本業以外で与える影響は、最小に抑えなくてはいけない。 少なくとも最小に抑えようとする姿勢を見せないといけない。 会社がデカいだけでもすでに影響があると思わなくてはいけない、 とまで言う。なるほど出勤で起こる路駐や渋滞も立派な影響だし、 そこの従業員目当ての店が出来ることも良いか悪いかは必ずしも判断できない。 できる範囲で影響を与えないのがいいのだろう。 雇用を提供するのは大事なことだろうが、会社の第一の目的ではなく手段 であることを考えれば変に重視してはいけないことになる。 さらに、何か技術を開発したとして、 その技術が世界にプラスの影響を与えるとは限らない、 というのも難しい。 科学技術がどういう影響を与えるかは予測できないと見るべきだと言う。 「うちらがしていることに対して顧客や地域は対価を払っているか」 と問いかけて、答えがノーなら、それは抑えるべき影響ということになる。 新製品のための技術を論文にして発表したとして、 新製品には客が金を払うが、論文には誰も金を払わない。 その論文が何を起こすかはわからないわけで、 原則から言えばこの論文も歓迎できるものとは限らないということになる。 厳しいな。しかし、科学技術が常に善だ、という楽観的な世界観は いいかげん終わりにすべきなのだろうし、これくらい厳しい姿勢でいるべきなのだろう。 企業はタダでもデカい存在なわけだし。

影響の除去。例えば公害なら、公害を削る技術を開発して、それを売れると 一石二鳥となる。うちらならなんだろうな。 ゲームで与えた悪影響を除く何かを売ると。なんかそう考えるとすごく悪っぽいぞ。 毒と解毒剤を両方売る、みたいな。 ゲームが面白くて人を幸せにする、という前提があっての話なら問題ないか。 あとは、積極的に規制を作るように働きかけるのもいいらしい。 企業は規制されたくない側だと思っていたが、 自分だけが公害軽減の取り組みをすると損をするので、規制によって ライバルも同じ条件にする、と考えれば合理的だ。 何もしなければいつか問題になって叩かれる。 ゲーセンに子供がたむろしないよう、 ゲーセン業界側から規制することを働きかける、というようなものだろう。 あるいは、血みどろゲームやエロゲを隔離する規制を提案するとかか。 エロ漫画業界は自発的にそうしていればあんなことにはならなかったということか。 そもそも自発的にやった例があるのかどうかは知らないのだが、 ドラッカーによれば電話会社のAT&Tはそれをやったおかげで 国営化されずに済んだらしい。

40くらいで仕事に飽きて活力がなくなる社員がいるが、これも会社の影響と考えて 対処すべきだと言う。そして、対処がうまいこと見つかれば、 これは大きな利益となる。 そうかもしれない。出世コースに乗った人はもう少しもつだろうが、 「この上はないわ」と思った人や、新技術を学ぶ気力がなくなった人はヤバい。 これは確かにマネジメントの問題だ。

2011年08月02日

帰り際に上司に「明日休む」とメールしてみた。 とはいえ、工程に害を与えない範囲でしか休む気はないので、 何か私がいた方がいいことが起こったら容赦なく呼んでくれるようには 頼んでおいた。私が休んだせいで一日遅れる、なんてことになると 私が後で困ることになる。

「非営利組織の経営」を読み終えた。学校で先生とかやってる人は読むと 新しい世界が広がるかもしれない。読ませて感想を聞きたい人の顔が 何人か浮かぶ。

「経営者の条件」も読み始めた。具体的で使える。 「自分はどうやって仕事をしていくか、どうやって自分の価値を高めて貢献するか」 ということを考えるための枠組みが示されている。 たぶんこれをさらに詳しくしたのがマネジメントなんだろう。

マネジメントの最初の部分は上田訳と有賀訳を両方借りてきた。 前書きのところだけ読んだ限り、好みなのは上田訳だ。 なんかかっこいいし、すでに上田訳で何冊も読んでいるので慣れている。 しかし、今のところそれだけだ。有賀訳の方がわかりやすいという評価は 何箇所かで見たし、 そもそも上田訳は予約が詰まっていて借りられないので、 今回は有賀訳で読む。上田訳はさっさと返そう。他の人が待っているはずだ。

フジテレビ騒動が面白い。twitterは馬鹿発見ツールとしての役割を 存分に果たしている。

日本はすでに高齢者が2割を超え、 こうなるまでにかかった時間は欧米よりはるかに短い。 社会が慣れるヒマがなかったために急速な財政赤字その他の問題が えらいことになっている。 が、恐しいことに周りの国々の高齢化の進展速度は日本より速い。 特に中国がすごい。40年前5以上あったら出生率が15年前には2を切った。 今40歳前後の人がものすごい数いて経済の発展のエンジンとなっているわけだが、 20年後には彼等の引退が始まる。これは恐怖だろう。 そして韓国の出生率の落ち方は中国以上に凄まじい。 未来を予測するのは難しいが、人口に関してはほぼ確定事項だ。

googleが統計をやっていることに気づいた。 そしてたまたま知ったのだが、韓国の一人あたりの消費エネルギーって 日本より大きいのな。普通の先進国がここ数年で大きく下げている一方、 韓国はバリバリ消費を伸ばしている。 エネルギーの消費量が先進国の指標と考えるなら、 もう韓国は大抵の国を追い抜いたことになる。 また、一人あたりCO2排出量では、日本は結構上位だ。 エネルギー消費量の割にCO2が多いのは、 日本人がヨーロッパ人に比べると物を燃やしているということだろう。

すでにあるマンションの各部屋に取りつけられるくらい 小型低価格のガス発電給湯器を作る、というのは難しいんだろうか。 できたらやってるだろうから、きっと難しいんだろう。 お湯タンクが小さいほど熱が逃げやすくて効率が落ちるし、 現状発電機は相当デカいようだ。 そもそも発電しても、それを普通の電気系統とつなげられないと不便すぎるし、 後付けは難しそうに思える。 新しく建てるマンションの共用部に据えつけるのが今は現実的なんだろう。

人間を評価する時に考える事として「その人の下に自分の子供をつけたいか」 と問えという。この考え方は便利だ。 その視点で周りの人及び自分を見てみると面白い。 なお、この視点で見るのが重要なのは、その人を他人に影響を与える 立場に起用する場合だ。チームリーダーとかはまさにそれだろう。

ある人を他の部署が欲しがった時に、その人がいる部署の上司が 「この人がいないと困る」と言う時には、問答無用で抜くべきだと言う。 「いないと困る」というのが単に高く評価しているという意味ならいいが、 本当に困るとすれば、それは「実はそいつが無能でかばわれている」 「上司が無能なのをそいつが補っている」「何かヤバい問題があってそれを どうにかするためにそいつを使っている」の三つのどれかだと言う。 いずれにしても問題なので、動かして問題が明るみに出るようにしてやるべき、 ということらしい。 また、いずれの場合にしても、そいつをそのままにしておくと、そいつがダメになる。 無能がかばわれていればダメになる。上司の尻拭いをさせておくとダメになる。 根本的な治療をすべき問題の応急処置なんかに使うのは損失だし、本人もいつか嫌になる。 さて、せっかくなので具体的に考えてみよう。 あの部署のあいつをうちの部署が欲しがり、 またその異動がグローバルに見て妥当と判断されたとする。 あいつがいる部署は間違いなく困る。何故困るか。 おお、明らかに第三の問題だ。問題をどうにかするためにあいつが使われているからだ。 あの問題はより上層から手を入れるべき問題だが、 ああいう有能な奴が現場にいて延命させているのでそこまで行っていない。 その意味であいつを抜いて問題を発覚させるのは理にかなう。 なるほどなあ。この考え方は使える。常にこうできるとは限らないが、 原則としては便利である。そして、その通りにできない場合には何故できないのかを 考えねばならない。

組織は弱点を意味のないものにして強みを引きだすための道具だ。 例の男のことを思い出す。どう使えばあいつの強みを引き出せたんだろう。 もっといいやり方はなかっただろうか。

できない奴は異動させないといけない。仕事に向いてないとすれば、 別の仕事をした方が本人のためになるわけで、そいつにとっても良くない。 それにできない奴がそこにいると他の奴まで腐る。 代わりをどうするかは後で考えればいい、とドラッカーは言い切る。 確かにそうかもしれんな。いなくなったらいなくなったで案外どうにかなるものだし。

成果を上げるには上司の強みを生かさなくてはいけない。 上司が成果を上げ、昇進することこそが、自分が成果を上げるための早道であると言う。 「上司が成果を上げるには私から何を得なければならないか」を考えよう。 何を大切だと思っているのかがわかれば、報告を何から始め、 どのように配分すべきかもわかる。 ゲーム作りのように全員が何かしらの専門家になっている仕事については、 同格の人間同士の意思疎通は恐ろしく重要だ。

そもそも、上司と部下の関係は字面から想像されるようなものではない、 というのはよく覚えておかないといけないな。 それぞれが専門家なわけで、部下の専門分野に関しては上司は部下ほどの知識は持たない。 そういう分野では部下が決定を下すのが妥当であり、 その意味において上下関係はない。 考えてみれば、私はかなりのことを勝手に判断して勝手にやっている。 にしてお、もうちょっとニーズを考えるか。 私の顧客は究極的にはゲームを買う客で、そのことは忘れてはいけないのだが、 それはそれとして私が直接提供する相手は隣や向かいの席にいる。一応彼等も顧客だ。

強みを生かせ。弱みをどうでも良くするようにしろ。一貫したメッセージだ。 さて、私はプログラミングはできた方がいいと考えていたし、今もそう思っている。 プログラマであってもプログラミング言語やソフトウェア工学に疎い人は多いが、 そういう人はプログラミングスキルを高めるべきなのか、 それともその弱点がどうでも良くなるような仕事の仕方をすべきなのか。 プログラミングは手段であり、コードはひどいがおもろいゲームを作れる、 という人は確かにいる。コードの中に散りばめられた意味不明な数字に ゲームバランスの神が宿っている、というような例は今まで何度も見てきた。 しかし、ひどいコードはバグをバラまいて、開発終盤でびっくりするほど しんどい状況を作り出す。性能も引き出せない。メモリもあふれる。 ゲーム作りが得意な人がコードを書かずにゲームを作れる体制にすればいい、 という意見は良く聞かれて、ゲームデザインとコーディングの分離は最近の流行りだ。 しかし、その人が汚ないコードにこそ神を宿せるのだとすれば、 コードを書かずに神を宿せる保証はない。 目的はおもろいゲームを作ることであって、バグの問題や性能、コストなどは 制約条件にすぎない。主目的を取り違えてはダメだ。 神を宿せる状況を保ったままどこまで改善できるか、と考えるべきだろう。 それはそれとして、C#でゲームロジックを書けるようなツールの類も テストはしておかねばならないだろうが。 10年も経てばそれが普通になっている可能性もある。 そうなったら私のようなタイプのプログラマはそういうツールを作る会社に 行くしかなくなるな。

成果を上げるには、一度に一つのことだけをすべきだと言う。 最近は本当にそう思う。欲を言えば私もゲームロジックを書きたいし、 やってみれば案外良くできるような気もするのだが、 しかし私が第一にすべき仕事は私にしかできず、 それがおそろかになることは害だ。私の場合、複数手がけると100%いいかげんになる。 それはさんざん学んだ。 しかしそれはそれとして、最終的な顧客のことを考える時には 一つだけやればいいとも限らないのが難しい。 皆が自分の仕事だけをしているとその境界あたりにある仕事が放置状態になりやすい。 バレーボールで人と人の真ん中にボールが落ちるようなものだ。 多少は自分の仕事をほったらかして本来の仕事でないことに 首をつっこまないといけない。客がよろこぶことが唯一の目的で、 他は全部制約条件だ。バグをなくすことも、性能を引き出すことも、 客がよろこぶことにつながらないならば不要である。 開発コストを下げる努力は、それによって客の喜びが増さない限り正当化されない。 安く作るのは利益のためだが、利益は根本的には客に喜びを与え続けるために 必要なだけで、目的ではない。そこまで言い切ってしまうと、いろいろすっきりする。 なんだ、簡単じゃねえか、と思う。 会社が客に喜びを与えられなくなったなら、その会社はつぶれていいし、つぶれるべきだ。 私は会社を存続させるために働くわけじゃない。 会社を使って客を喜ばせるために会社で働いている、と考えればいい。 たぶんみんながそう考える会社は強くなる。

計画的廃棄。ドラッカーを読んでるとどの本にも必ず出てくる。 今から始めるとしてもやるか。その問いの答えがノーならやめるべきだ、 ということだ。 まあ言うだけなら簡単だが、問題はこれをどう実際にやるかである。 といっても日々の細かいことに応用するのは簡単だ。 会社の場合「定期会議を続けるかどうか」は一番身近でわかりやすいネタだろう。 私個人のことであれば、VisualStudioでコードを書き続けるかどうか、それとも別 エディタに移るべきか、みたいなのもある。 こういうのはコードを書く際にカッコの内側にスペースを入れるのをやめるべきかどうか、 くらいに細かいことまで無数にあり、確かに折にふれて点検すべきだ。 しかし、事業そのものとなると難しい。 例えばドラクエの続編を出すかどうかはどう考えたらいいだろう。 今からドラクエを始めるとしたらどうか、という問い方でいいのだろうか。 たぶんそれでいいんだろう。想定されるもうけと、 それによって犠牲になるもの、特に人材の消費が釣り合うかどうかを ちゃんとチェックしろということだな。 シリーズ物を出せば、その分新作を作る力が失われる。 単に黒字になるかどうかだけではなく、新作を作れないことの機会費用も 考えねばならない。 そう考えると、シリーズ物というものは黒字になるという程度で続けては いけないということになる。往々にしてシリーズ物は前作よりも良いものに しようとして前作以上の資源を投入しがちだ。 結果、それによって新作を作れなくなる影響がどんどんでかくなる。 なお悪いことに、続編において投入した資源に見合うほど売上が伸びることは稀である。 もちろん、安易に成功したものを捨てすぎるのも悪癖なわけで、 バランスは大切なわけだが。 続編の開発にも、開発工程を洗練させたり、人を教育したり、技術的なところで 挑戦を行ったりと、結構使い道がある。しかし、なんにせよきっちり考えて やらねばならないということはよくわかった。

物を捨てるには、優先順位をつけるのでは足りないと言う。 優先順位が低いものも、低いだけで存在している。 「ヒマがあったらやるわ」とか言ってる段階で覚悟が足りない。勇気が足りない。 だいたいそう言ったことはいつまでも気になってしまい、 中途半端に時間を投入して優先順位が高い仕事までダメになる。 むしろ、逆の優先順位、つまり「まずこれは捨てる」と決めることが必要だ。 捨てた分しか新しいことはできないのだから、まず捨てる。 あふれてから捨てるのではなく、あふれる前に捨てる。 これはまったくその通りだと思う。 私は最近一つのことを捨てたが、結局あふれたから捨てることになった。 捨てると決めるまではどうにも気になって仕方がなかった。 もちろん、今でも気にはなっていて、完全に捨てられたとは言い切れない。 しかし、捨てることの正当性を理屈で納得するところまでやったので、 理性的に考える限りゴミ箱から取り出してしまう危険はない。 でもまあ、こういう決断をせねばならない状況にはなりたくないものだと思う。

ひつじこがパフィーを聞いている。べらぼうに下手糞で、 一人で歌うとどうしようもないのだが、二人でユニゾンしてる分には 不思議と聞ける。おそらく、ピアノの弦が一つの音につき3本あるのと似たような ものだろう。これらの弦は完全には同じ周波数で鳴るようにはなっておらず、 そのために若干のうなりを生じる。ピアノはヴァイオリンのように 指をゆらしてゆらぎを与えることはできないが、 複数弦の周波数の差分だけのゆらぎが生じ、 これが音に深みを与える。パフィーの二人も同じことが起きていると思われる。 一人一人の声は一本調子で魅力はないが、二人がずれた音程で歌っていると 不思議と表情が加わる。自覚してやっているとしたら大したものだ。 これが、弱みを意味のないものにし、強みを生かすという奴か。

ちなみに、ヴァイオリンでも2本の弦で同じ音を弾く技法がある。 片方は開放弦なので指でゆらぎを加えることはできないが、 片方の弦は指で押さえているのでゆらぎを加えることができる。 ゆらぎを与えた弦と与えない弦の間の周波数のずれが新たなゆらぎを与え、 音に深みを与える。ヴァイオリン一台でも合唱のような厚みを表現でき、 ここぞというところで使うとたまらない。 まあ下手糞がやるとずれすぎて単に気持ち悪いだけになるのだが。

外から雇った人に新しいことや意思決定を任せてはいけない。 いや、当たり前のことに思えるが、結構みんながこの間違いをやらかす。 そういえばジムコリンズもこれはダメだと言っていた。 しかもジムコリンズの場合は「それをやった企業は大抵ダメになった」 というデータと一緒に言っていたわけで説得力がある。 これは、例えば続編を作る時に主要メンバーをごっそり別のチームから 連れてくる、みたいなのも含まれるんだろうか。 たぶん続編チームにおいては、半分づつ入れ換えるのが理想なんだろう。 2から参加した人が3で主要メンバーになり、3から参加した人が4で主要メンバーになる、 みたいなのがいいと。ずっと同じチームにいると腐るので 入れ換えは必要だが、いきなり頭を入れ換えるのは危険ということか。

問題を解決するための5項目。原則についての決定によって行う。 答えが満たすべき必要条件を明らかにする。 受けいれやすく妥協する前に、必要条件を満たす工夫をする。 決定と同時に実行が始まるように、実行する人間を巻きこんで決定する。 決定が適切かどうか見直しを行う。 何か記憶から具体例を探して試してみよう。 今私がしている仕事が丁度いいな。 原則について決定したかと言えば、そこは自信がある。 元々私は対症療法は好かん。対症療法が妥当な時ですら手術するのは悪いクセだが。 必要条件は明らかだった。対案はその必要条件を満たさなかった。 必要条件を満たす工夫はしたが、それを人に説明することは不十分だったな。 勢いでやりすぎた反省はある。 実行する人間を巻きこんで決定する点については、私一人でやる仕事なので それほど必要でなかったが、とは言えやはり巻きこみが足りなかった。 もう少し理解を得ることに労力を割いても良かったな。 そうすれば今の面倒の何割かはなくなっていたはずだ。 適切かどうかの見直しも甘いな。飽き始めてから検討するようでは遅い。 最初から折りこんでおくべきことを後回しにしたツケが今回ってきている。 この5項目は紙に書いて貼っておきたいくらいに使える。

会社でドラッカーの輪読会したい。 ドラッカーの布教をしたいというよりは、これに書かれた事について 周りの人がどう考えるのかを知りたい。

新しく見える問題の分類。デカい問題の兆候や症状として現れる問題。 これは対症療法ではダメ。原因を探るために視野を広げる必要がある。 当事者にとっては例外的で新しいが、世間では良く見る問題。 例えば会社が合併するとか。 これは会社の外から情報を取り入れて勉強すれば、対処の指針も立てやすい。 本当に例外的な問題。例外的なので、乗り切ってしまえばもう 考えなくてもいい。例えばたまたま工場に隕石が落ちたとか。 でもこんなものは滅多にない。たまたま担当者が自殺した、 みたいなことでも、自殺の原因が会社にある可能性がある。 間違っても「携帯ゲームブームで家庭用ゲームの売り上げが落ちた」 をここに分類してはいけない。 今まではなかったが、これから当たり前になる問題。 社会のや技術の変化によってこれから当たり前になることの症状で、 これはやり方をごっそり変えねばならないシグナルになる。 これを例外を見ると、未来はない。 ドラッカー、頭良すぎだろ。こいつ本当何物だ。 そして、これほど使える本なのに、10年近く働いてて職場の誰も話題にしない というのは一体どういうことだ。使えると思ってるのは私一人なのか?

臨時のものは生き残る。対症療法を行う時には、 それが永続した時の害を考える必要がある。 適当に書いたテストコードはどうしても残る。残っても害の少ない形で入れなくては いけない。同時に、残りにくくするための方法を考えねばならない。 設計が間違っていたことが発覚してインターフェイスごとライブラリを修正する場合、 古いインターフェイスでも動作するようにして移行期間を設ける方法が よく使われる。しかし、移行期間が終わっても古いものが残ってしまう危険はあるし、 古いものも一緒に動くようにするためのコストの問題もある。 うまくやる方法を考えねばならない。 とは言え、そこで日和って修正そのものを行わないという結論になりがちで、 これは大抵最悪の選択肢だ。多少の問題があったとしてもそれよりはマシだろう。

ライブラリの類は使用者が多いほど変更を加えにくくなる。 普通に考えれば変更を加えることを断念するか使用者が増えないようにするかだが、 どちらも害が大きすぎる。 とすれば、変更を吸収できる層を上に設けて、変更のコストを減らすのが 現実的な手段になる。実際なんか知らんうちにそうなっている。 これからは自覚してそうしていくべきだ。

必要条件には二つある。半分のパンは、半分の条件を満たす。 半分の赤ん坊は、ただの死体であり、ないよりもタチが悪い。 妥協は前者については行えるが、後者については行えない。 だから、必要条件について検討することなく妥協してはいけない。 この事を具体例で考えようと思って記憶を掘っていたら、実にいい具体例があった。 書かないが。

プログラマの仕事はこういうことを考えるのにうってつけに思える。 現実の問題の縮図をプログラムという形で作り上げて検証できる。 クラスを人や組織とみなし、メソッド呼びだしをその間のやりとりとみなす。 あとは書いたり直したりする時のコストがそのまま組織のコストに相当する。 人間はずっと複雑なのでコードの構造を組織に応用するのは危険ではあるが、 人間の複雑性を想像しながらコードを書くことはでき、 それによってコードとしても質が上がるということはある。 「こいつの強みはこれだから、こんな仕事をさせちゃダメだ」 はクラスにもあてはまる。それぞれのクラスは強みを持たねばならない。 というか、そうならないようにクラスを作る馬鹿はおらず、 知らんうちにそういうふうに設計するはずだが、 擬人化しながら設計すればそのことにもっと自覚的になれる。 そしてプログラミングで得た見識をリアル組織やリアル人間、 あるいは全く別のスキルに活かすことはそう難しくないように思える。 料理とか。

決定は決定だけでは実行されない。だから実行されているか自分の目で見る必要があるし、 そもそも実行する人間を巻きこんで決定する必要がある。 函館ラサール高校の理事長は毎日寮で生徒と同じ食事を食べている。 「ごはんをおいしくしろ」と言うだけでは実行はされないということを 知っているのだろう。ずいぶんおいしくなったと言ってた。 実際ごちそうになったが私がいた頃よりずいぶんマシになっていた気がする。 もっとも、あのマズいメシが今なお語り草になるわけで、 ネタを提供してくれたという意味では悪くはない。 あれを経験しているので大抵のことには耐えられる、というのもある。

私は結構グルメなわけだが、とは言えマズいもの耐性は相当に強い。 今こんなにグルメな生活をしているのは、自分のためというよりは、 ひつじこやオタマの健康を守りつつ食費を下げるためだ。 また、私自身が健康でなくては家を支えられない。 最近は食費が十分に低い水準にあるので、ケチることよりも いろんなものを食べさせることに力点を置いている。 今度届くホタテは楽しみだな。 カニとタコとイクラはさすがに贅沢が過ぎると思ってやめておいた。

で決断の確認の話だが、私の例で言えば、ライブラリをいじった後には、 それによって手間をかけさせられる人がどう思っているかを直接聞けということだろう。 あんまり不機嫌そうだったり、時間を取られているようなら 決断そのものが失敗だったか、少なくともやり方に問題があったことを意味する。 そこから逃げちゃダメだ。改めよう。改められる範囲でだが。

判断するのには事実が必要なように見えるが、事実は手に入らないということから 出発しなくてはいけない。事実には解釈が含まれている。 「売り上げが落ちた」には、比較対象を選ぶという解釈が含まれている。 前作に比べて落ちた、と言う時には、前作と比べることが妥当かどうかが そもそも問題になり、検討せねばならない。 解釈を含まない事実は、事実ではなく数値だ。 数値は数値自体では意味を持たない。 よって、判断はまず意見から出発せざるを得ず、まずは意見を聞くことから始まる。 主観の入らない判断はありえない。だからこそ逆に基準をどうやって設けるかが 重要になり、その基準をどうするか自体がすでに判断だ。 要するに、人間の判断抜きに「確実で絶対の判断」みたいなものを夢想しては いけないということである。だからこそ、多様な意見を聞いてよくよく 検討しなくてはいけない。基準も複数必要だ。 全ての判断は賭けであるという認識で始めねばならず、 だからこそ安易に「事実」に飛びついてはいけない。 ちと抽象的な話だし、何せ私は下っ端なので経験に当てはめにくいが、 ライブラリの改造の話でも助けにはなる。 どう考えてもあの時は単なる主観で判断したな。 結論が決まっていて、そのために事実を選んで補強するというマネを モロにしてしまっていた。しかしまあ、あの時私は意見の一つを提供する側で 決定権は私にはなかったわけだから、それでも良かったんだろうとは思う。 もし私に決定権があるような事が出てくるならもっと気をつけねばな。

判断には複数の意見が必要だ。全会一致は誰も真面目に考えていない証拠なので、 判断は保留しなくてはいけない。 また、意見が複数ある場合には、それだけで満足せず、 意見が複数ある原因を明らかにしなくてはならない。 それぞれが何を評価基準とした意見なのかがわからなくては、 それぞれの意見の意味がわからない。どれが正しいとか間違ってるとか言うのは、 それが明らかになってからだ。 まったくもってそうだと思う。時間はかかるし大変な仕事だが、 そうするに値する判断はそうすべきだろう。 そこまでしなくていいと思うようなら、たぶんそれは判断そのものが必要ないのだと 考えた方がいい。きっと大した問題じゃなかったんだ、そんなことは。

同じ内容があるならば、短い会議は長い会議より良い。 しかし普通に考えて、内容がある会議はない会議よりは長くなる。 内容がない短い会議が続く時には何か良くないことが起こっているのではなかろうか。 誰も真面目に考えていないのではないか。 考えるべきことがないのならいいが、本当にそうか。

できるボスは、反対意見を引き出すことにたけているそうだ。 意識して不一致を引き出し、問題に対する理解が深まるようにしむける。 とりあえず、私はそんな人を見たことはない。 私にはそんなマネができるだろうか。どうやってやればいいだろうか。 ボスにならなくても貢献することはできるし、 そもそも私は自分がボスに向いているなんて言うつもりもないが、 そういうことについて考えるのはタダだろう。

放っておいても問題が起こらないなら、放っておくべきだ。判断してはいけない。 ついライブラリの欠点は直してしまうが、全てが直されるべき欠点だったかには 疑問が残る。性能を高めすぎた場所もあるな。全体として見れば そんなものの性能が高くても意味はない。意味がないのだから、 最小のコード量で実装して保守性を高める方が重要だ。 が、あの時はやりたかったのでやってしまった。私が何かを やりたがる時というのは、要するにそれをやることで何かを勉強したい場合がほとんどだ。 そういう意味では無駄だったとは言い難いのだが、 せめて終わった後で、元に戻しておくくらいはした方がいい。 高速化した実装はどこか別の場所に参考として置いておけばいいだろう。

「経営者の条件」を読み終えた。こんなに使える本はそうそうない。 原題は「The Effective Executive」で、直訳すれば効果的な経営者。 ドラッカーはexecutiveを経営者という意味では使っておらず、 成果を出す責任を持った人というくらいの意味なので、 うちら全員についてあてはまる。 うちらは成果を出すことによって給料をもらっているのだから当然責任がある。 ドラッカーでとりあえず一冊と言われたら、まずはこれだろう。 さてマネジメントへ行くか。

有賀訳、これ、ダメじゃね? なるほど原文が推測しやすいことは確かだ。 「マネジメントの成果はみな、マネージャーによる成果である」とあり、 元の英語が容易に想像できる。 一方上田訳では「あらゆるマネジメントの成果は人としての マネジメントの成果によるものである」となっている。 マネジメントを行うのは人であるということ、 逆に言えばマネジメントは自動化された機械のようなものではなく 人間の行動によるものであることを表現していることがありありとわかる。 有賀訳ではピンと来ない。 有賀訳と比べると、上田訳がどれだけ元を削り落としているかがよくわかる。 削り落とした分ドラッカーの言葉が劣化しているという考えはありうるし、 実際そういう考えで有賀訳は削らないことを心がけたのだろう。 「完訳」を売りにしていることからもそのへんが伺える。 しかし、アメリカで読まれる時にしか意味がない文章もあるし、 日本で知られておらず説明が必要な事もあるだろう。 謝辞がごっそり削られているのも、謝辞という文化が日本にないことを 考慮してのことだと思う。そういうお約束を知らない日本人にとって謝辞は 邪魔なだけである。 翻訳にそのへんのアレンジを期待するかしないかは人によって考えが違う ことと思うが、しかしこの本を誰が読むのかを考えれば そういうアレンジが求められていると考えていいように思う。 つうか、ドラッカーの言葉が劣化することを恐れるのであれば、 原著を読めば済む。2000円だから翻訳よりずっと安い。 そんなことを気にする奴は英語くらい読めるだろう。私は辛いが。 上田哲学が混入してウザイとか、虎の威を借る狐だとかさんざん言われているが、 何十年も売れてきたことにはやはり理由があるのだなと思った。

どうするかな。とりあえず、一回会社行って様子見てくるか。 買い物もせねばならんし。

有賀訳、無理。つまんない。同じ所でも上田訳だとちゃんとおもろい。 内容そのものにそんなに差があるわけでもないのに、一体どういうことだ。 英語の文章は日本語に訳すと大抵長くなる。 英語なら1語でズバリと表せる内容が日本語だと相当する言葉がなくて 長くなったりするし、主語+動詞の3,4音節で終わるような文でも日本語に訳すと 10文字以上にはなる。結果、そのまま訳すと恐ろしくテンポが悪くなるのだ。 上田氏はそういう場所ではテンポを保つためにバッサリ削ってしまっている。 叩かれることを覚悟した上でのことだろう。 いろいろ意見はあるだろうが、私はこっちの方がいい。 そのうちヒマになったら原書を読んで削れた部分を補完することにしよう。 50過ぎる前にその日が来るとも思えんが。

知的労働者は自分で自分の仕事を設計せねばならず、 新人のことからそのことを実地で学ばねばならないそうだ。 新人教育はどうあるべきか、という話だが、これは難しい。 私は当時プログラミングスキルを重視した。 プログラマとして入った以上それができてないことにはどうしようもないだろうと 思ったが、それが正しいかどうかはよく考えておく必要がある。 むしろ、自分がチームの中で成果を出すために何を学ぶ必要があるのかを自ら 考えるような教育の方がいいのだろうか。 しかし、それってどうしたらいいんだろう。 いきなりチームで物を作らせる研修もあるが、 いきなり物を作れるようにするにはかなりの部分をこちらで用意してやらねば ならない。人と協力することは学ぶだろうが、部品をいかに作るかは学べない。 当分ないだろうが、そういう機会があったらよく考え、また、よく話しあってみたい。

正解は頭の良さやひらめきからは得られない。正しい問いから得られる。 すごいなこの言葉。

企業の機能は顧客の創造にある。よって、顧客から見た企業そのものである マーケティングが企業の中心である。 この台詞はすごいな。まず顧客というのは、企業がサービスを提供する相手だ。 企業が幸せにする人のことだ。幸せにする相手を作り出すには、 何を作れば相手が幸せになるか、というところから出発して物を作らねば ならない。何を作れば相手が幸せになるか、と考えることがマーケティングである ならば、マーケティングはなるほど企業の中心だ。 これなしには何も始まらない。だからマーケティングは企業が 外注に投げられない唯一の機能ということにもなる。 マーケティングを宣伝のことだと思っているとこの言葉は理解できない。 しかし、うちらがマーケティングという言葉を使う時、 それは99%宣伝の事だ。

消費者運動は機会だと言う。何を欲しがっているかを教えてくれている。 2chやtwitterやブログに書かれたゲームの酷評は機会だ。 真に受けすぎてもいけないかもしれないが、目を背けていいものではない。 「これを売りたい」はアウトで、「客は何を買いたいか」から始める。 当たり前だわな。当たり前で、誰一人当たり前であることに異を唱えないにも 関わらず、現実がそうなっているとは限らない。

客は製品を買わず、客にとっての価値を買う。 企業は価値を売らず、製品を売る。 客にとっての価値は何かを考えずに製品を作るのはアウトである。 また、値段は製品につけるのではなく、価値につける。 客が必要とする価値に客がいくら払えるかによって価格が決まる。 ゲーム機で考えると、ゲームができるということが価値である。 ゲーム機は製品であって価値ではない。ゲーム機そのものが価値でない以上、 客がそこに出してもいいと思う値段は企業が考えるよりも低くなりやすいということだ。 その意味で機械を安くしてソフトでもうけるのは理にかなっていた。 機械の製造にいくらかかるかは、少なくとも客にとっては問題ではない。 これも当たり前すぎる。当たり前すぎるのに、何故か守られないケースがちらほらある。 単純に客が出してもいい価格を見誤っただけなら値下げすれば済むので問題ないが、 コストに利益を乗せて価格を決めるようなマネをしていたのであれば ダメだということになる。 客が買う気になる値段にする方策を考えてから製品を作るべきで、 その見込みがないなら根本的に無理だったということになる。

目標は複数必要。何故かと言えば、多様なニーズをバランスさせねばならないからだ。 例えば「超おもろいゲームを作る」だけを目標とすれば、かかるコストを度外視する ことになって会社が死ぬ。目標は、マーケティング、イノベーション、 人的資源、資金、物的資源、生産性、社会的責任、利益、 の8項目全てに必要で、欠けてはいけない。欠けるとそこがないがしろにされて メタメタになる。そして、目標を立てるなら、評価の尺度がいる。 尺度がない目標はないのと同じで、結局放置される。 これも深いな。よく考えよう。

マーケティングというのは、要するに客に何で満足してもらう気なのか、 ということだろう。そりゃ絶対必要だ。こういう満足をしてもらおう、 という目標を立てるというのは、要するにゲームの場合ゲームデザインそのものである。 イノベーションというのは進歩で、進歩がないと他社にマネされて終わるので、 確かに何かしら進歩するという目標は必要だ。しかしこれは具体的にどうするのかは 難しい。必ずしも技術的なものに限らないということも重要だ。 思えばパラッパラッパーはイノベーションだった。 曲に合わせてボタンを押すことがゲームになるなんて誰も思わなかったわけだから。 人的資源というのは、単純に使える範囲の人数でやるという話もあるだろうが、 人を育てることも含むのだろう。誰も育たないプロジェクトはヤバい。 資金というのは、今使っていい範囲の金でやれるかという話だろうか。 物的資源も同様だろう。生産性もわかりやすい。 もっとうまくやる方法を確立しよう、ということだ。確かにこれを無視すると腐る。 社会的責任もないがしろにされがちだが大切だ。 例えばゲームの場合、ウケ狙いであんまり下品なものを作ると叩かれて未来がない。 化学工業なんかなら汚染しないことが最重要だろう。 そして利益だが、これはないと会社が死ぬので絶対に必要である。 ただ、実験プロジェクトの類に利益を義務づけるとイノベーションが死ぬ、 という分析もあったので、例外はあるのだろう。 とは言え、最終的にこうなれば利益が上がる、という見込みはないとマズいだろうが。

マーケティングとイノベーションの目標は別格らしい。 他の目標はこの二つの目標のための手段として設定される。 なるほど、そう考えると少し見通しが良くなる。

マーケティングには集中が必要。誰にどう満足してもらうか、ということだ。 これがよく絞れてないとうまく行かない。 ゲームも明らかにそうだ。どう見ても任天堂は万人向けのゲームなんて作ってない。 確かに広めには見えるだろうが。

独占は有利に見えて実はそうでもない。独占してること自体が嫌がられるし、 競争がないことで市場全体が停滞して結局損をする。 だとすれば、東芝がフラッシュメモリの技術を韓国企業に与えたこと自体は間違い ではなかったのだろう。事実フラッシュメモリの市場はこんなに大きくなった。 東芝がしくじったのはその後のことなんだろうな。ドラッカー的には。

イノベーションの目標。イノベーションには三つある。 製品やサービス、市場、流通。 最初のは簡単だ。AI使ってすげえゲームできましたよ、みたいなものだろう。 次の市場、というのは面白い。私の親世代がやりたくなるようなゲームができました、 というのはまさしく市場のイノベーションだ。 流通のイノベーションはアマゾンやらダウンロード販売やらコンビニまでの配送やら の話だろう。これもなるほど大切で、何を誰に売るかが大きく影響を受ける。 なるほど、こう整理するとなにかとつかみにくいイノベーションも形が はっきりしてくる。市場のイノベーションはとりわけ大事だろうな。 つい製品ばかり見てしまうわけだが。

人材の目標は自分の会社にたくさん優秀な人が来てくれるにはどうすればいいか、 みたいなことも含まれる。プロジェクト単位の話ではないが、 会社がプロジェクトの集まりだとするならば、全く無視していい話でもない。 とはいえ、「こんなゲーム作る会社で働きたいです!」と思わせるような ものを作る、という目標は抽象的にすぎるわけで、 結局のところプロジェクト単位で考えるネタではないのだろうが。 資金にしても、株をどう発行するかとか、銀行からどうやって借りるかみたいな 話はうちらのレベルではどうにもならん。しかし、このへんのことを 誰かが考えているのだということは知っておくべきなんだろう。

利益の目標は、いくら利益が必要かを考えることなしには設定できない。 いくらあれば会社存続をおびやかすリスクに対抗できるのか、 いくらあれば必要な雇用をまかなえるのか、 いくたあればイノベーションのために力を注げるのか、 というようなことから考えることになる。 たくさんあればあるほどいい、というのではダメだし、 いくら見込めそうだ、ということに基づいてもダメだということか。 しかし、これは相当難しい。

「うちの会社の事業は何か」と「うちの会社の事業は何であるべきか」は 別に考えないといけない。そうか。世界が変化する以上、会社も変わる。 そこで、「こう変わる」という意思決定をすることが必要なのか。

成果と利益が連動しない組織は腐りやすい。予算は大抵成果と関係なく決まる。 結果、顧客を見なくなるので腐る。さらに悪いことに、大抵そういう組織は独占だ。 電力会社を選ぶことは事実上できない。また、 社内のサポート部署の類も選べないので事実上独占である。 事務チームの働きが悪いからといって他を探すことはできない。 なおさら腐る。じゃあ予算型の組織ってどうしたらいいんだ? 救いがないように見えるぞ? 非営利組織の経営には何と書いてあったか。 「顧客は誰か。事業は何か」と問いかける力があればこういう問題は起こりにくい だろうが、そもそもそういう問いを発する動機がなければそれも期待できない。 例えば政府の人がこの問いを発するように仕向けるにはどうしたらいいだろう。 また、役所の人がこの問いを発するように仕向けるにはどうしたらいいだろう。 彼等はうちらが叩いたからといって存在が危うくなるわけではないのだ。

独占になってしまうタイプの事業は、国営よりは規制下での民営の方がいい、 と言っている。電力や郵便だ。少なくとももうけようとしてコストを気にはするし、 客の方も無視はしない。ただ、しっかり規制しないと質的なところで不安が 出てくるので気をつける必要がある。 国営だと質がダダ下がりになってどうにもならない。 企業内のサービス部門も自然に独占になってしまう意味で電力と似ているが、 似ているだけに対処も似ている。 規制に相当するものを会社の中で作ればいい。 成果を出さないと叩かれるような仕組みを作ればいいということだ。 成果が出ないならつぶす、ということが当たり前になればいい。 会社の中の話だし電力会社をどうにかするよりは楽だろうが、 それでもなかなか実行は難しそうに見える。

独占にならないようにできるならそれもいい手か。 学校や病院は仮にそれらが全部国営だったとしても競争状態にできる。 社内のサービスについても競争させることは不可能ではない。 例えば社内にライブラリが複数あればそれらは競争状態になる。 選ぶ自由がありさえすればいい。

14章まで読んだ。こうやってPCを横に置いて読まないとちゃんとした勉強にはならない。 明日以降はどうしたものかな。この先読み進むにしても、 まとまった時間がなければ電車の中で読むことしかできず、 ちゃんとした勉強にはならない。 昨日以前に読んだドラッカー全部合わせても、今日読んだ分の価値はなかった。 最低限マネジメントだけでも読み終えたいものだが、それには三日はいる。 土日は使えないし、あと三日どこかで休もう。いっそ今週全部休んでしまうか。 にしてもトイレは疲れる。尻が痛い。暑い。 しかしオタマから2mとかの距離でキーボードをガタガタ言わせるわけにも行かないし、 仕方ないな。

日記がえらいことになっているな。まあメモだしいいだろ。

2011年08月01日

うちはフロにビタミンCを入れている。塩素を中和させるためだ。 しかし、昨日はたまたま入れ忘れた。そして、ビタミンCの効果を再確認した。 単純に出た後気持ち悪いし、朝風呂場に入ったら塩素くさくて驚いた。 ビタミンCは250g900円で買え、一回の使用量は1g程度なので、 コストとしては気にするに値しない。

ちなみに、例の地震の後、トイレを風呂水で流す習慣はまだ続いている。 水を散らさず、少ない量で確実に流すのはなかなかに難しい。 便器メーカーにはすごい技術が蓄積されているのだろう。 最近は6Lで流せるらしい。このバケツが11Lなので半分ちょっとだが、 それで綺麗に流すのはかなり難しい。 もっとも、下手に水量を減らすと、流れたように見えても十分に下水管まで 運べず、見えないところで詰まる恐れがある。バケツ一杯きちんと使うべきである。 1970年代は13L、90年代は8L、とのことだが、 この建物は90年ギリギリなのでまだ13Lである可能性が高い。 13L流れてくる前提で諸々が設計されていると考えれば、 バケツ一杯フルに使うのが無難だろう。

というか、この習慣はいつまで残るんだろうな。水道代が目に見えて減ったので やめる理由はないのだが。

ひつじこによれば皇居はいいらしい。 オタマが手をつないだまま歩いてくれるようになったら行こう。 こいつは今のところ手をつないで歩くのをすごく嫌がる。 好きに歩きたいのだろう。

うち、生活全てがいわゆるカイゼンだよな。考えてみれば。 仕事ではカイゼンを習慣的にやってる人でも、 料理や掃除、果てはトイレの流し方ですらカイゼンを実践している人は 少ないかもしれない。 少しづつのカイゼンでも、積み重なっているうちに元とは 似ても似つかないものになる。うちの料理はまさにそれだ。 この調子でどんどんやろう。 知識を知識に応用してこその21世紀である。

東京電力がまたやらかしたらしい。 発電量を過少に、消費量を過大に出していたそうだ。 といっても、東京電力にそうしたくなる理由があるのはわかりきっており、 そのこと自体は驚くべきことではない。 不思議なのはそれが何故こうも早く発覚してしまうのかだ。 やるならもっと周到に隠蔽しろよ。悪の大組織として恥かしくないのか。 東京電力内部に裏切り者がいるというならまだマシだが、 そもそも発表資料同士が矛盾するような状況ですぐわかってしまう ような状況では話にならない。 ドラッカーが言った通りかもしれんな。 独占を禁止する努力なんてそんなにしなくてもいい。 独占に成功した企業は急速に腐り、また独占に対して新興の企業が団結して 対抗するので、独占はそれほど長くは続かない。 経済学の理屈としては独占は無理矢理つぶさないと永遠に続いてしまうことに なっているのだが、現実はそうでもないのかもしれない。 実際マイクロソフトの独占が始まってから20年くらいは経ったんだろうが、 あと10年続けられるかどうかは甚だ怪しい。 テレビ、新聞、電力、といった戦後ずっと大きな存在だったものが これから急速にバラバラになっていくのだとしたら面白いな。 テレビもフジテレビが現在進行形でやらかしているようだし。

ゲーム機もたぶんなくなるんだろうな。 携帯電話の1機種としてゲーム用のボタンがついたのが出る、 というくらいのことはあるかもしれないが。


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