だだもれ

2008年6月30日

ノクターン1。とりあえず50回くらい弾けば何か見えてくるだろうと思って、 何も考えずに弾いている。二週間あるから50回は弾ける。 シンフォニア1はとにかく自動で弾けるようにしつつ、 少しづつ意思を介入させていく。この脳が焼きつきそうな感じが快感。 15曲を制覇する頃に3パートの並列処理を楽勝でやれるようになっているのだろうか。 にわかには信じられない。そのへんの子供が弾くのを聞きたいな。 どれくらい弾けているものなのか。

他人はわかれるが、自分はわかれない。他人は信用できるが、 自分は信用できない。そういう変なねじれがある。 例えば秋葉原の事件の犯人は異常者扱いされているが、 自分があれをやらない保証はどこにもない。 そういう状況、そういう環境に置かれた時に自分がどういう思考をするかなんて わかりはしないのだ。 なのに、何故か良く知っている周りの人達があれをやらかすとは 何をどうやっても考えられないのである。 そういう感覚を持っているのは私だけではないだろう。不思議なことだと思う。

あれは徒然草だったか。「こっそり練習して超うまくなってから見せびらかすぜ」 みたいなのはイカンと言ってたのは。下手でもバリバリ人に見せるくらい でないとうまくならん、とかなんとか。 まあそれはそれとしてだ。録音できる状態にはしよう。

なんか専用ソフト作りたいよな。2時間とか録音しっぱなしにしておいて、 後で必要なところだけ切り出してエンコードして保存、 みたいなソフト。自分の用途に特化した最低限のインターフェイス。

音って差分取ってハフマン、というくらいで半分くらいになったりするんだろうか。 やっぱり一回は試してみないとなあ。あといつでも使えるハフマンクラスは 作っておくべきだ。

ヘッドホンの性能差はどれくらいあるのだろう。 ピアノにつないでいる1980円のヘッドホンは高周波がすごいことになっている。 もしもう少し金を出せばマシな音になるというなら是非そうしたいわけだが、 その保証がないなら金は出せない。 まあ、後だ。

余ったワインが古くなってきたので飲んでしまったのだが、 ふと思いついてピアノを弾いた。異常なほど楽しい。 要するに異常である。そしてショパンは案外弾けるが、バッハはまるで弾けなくなる。 脳のクロックが落ちたことで、より低周波な成分、 つまり曲のおおまかなフレージングが強く感じられるからだろう。 バッハがダメなのは高速なスイッチングが必要だからだ。 拳法の用語で言えば、バッハを弾いている最中の精神状態は見切りに似ている。

ヘッドホン買ってきた。あー違うんだな、と思った。嫌な高周波がない。 これは楽しい。

録音用にケーブル買ってきた。しかし、ノートPCにはマイク端子しかなく、 音割れまくり。相当ボリュームを小さくしないとガビガビになる。 しかし、一応録音が可能なことはわかった。

ペペロンチーニ。ただしかつおぶしと納豆がけ。これ、食えるな。 というか、これにんにくいらないんじゃなかろうか。かつおぶしだけで すでに食える代物になっているような気がする。 にんにくは好きだが、臭いがつくのが困る。 あの臭いは血管を通って全身から噴き出すのだ。

「である」を削るのは本の話。基本的に「である」は好きなのだ。 でも昔に比べればだいぶ減った気がする。それだけ適当になったということだろう。

いろんなことを保留したい今日この頃。

2008年6月29日

あれ?何か、すげえことになってね?

14章の校正途中で力尽きて帰ってきた。明日朝やる。

ノクターン2終わり。チェルニー30は21と22が終わり。今週はまあ順調。 先生がノクターン1をさっさと片づけたがっているのがありありとわかるので、 ちょっと真面目にやる。たぶんこの曲の最大のポイントは、 「どこまで左手を弱くできるか」だ。それをやらないことには 何をどうやっても聞ける代物にはならない。 あと、シンフォニア1は「平均律をやる時に役立つから、 しっかり分析しておこう」とか言われた。そこまで行かせる気らしい。 そりゃ平均律制覇は夢だが、到底可能だとは思えない。 なんといっても96曲だ。今のペースのままやれたと 仮定しても8年かかる計算である。 というか、そもそも平均律を制覇するような奴がピアノ学習者の 何割いるというのだろう。

次の時に「今日のおやつは」を持っていくことにした。反応が楽しみ。 しかし、現状持っていく手段がない。mp3プレイヤーをそのために買うのもなあ。

「理科系の作文技術」を読んだ。なるほどと思うところもあり、 そこまでやるのかと思うところもある。 しかし、8割方は賛成。「いらんこと書くな」「文は短く」「誤解できない文章を」 というあたりはこれから気をつけよう。 いらないことを書くのは好きだし、長い文も好きなのだが、 ダメな理由は理解できる。理解した以上従わねばならない。 一番面白かったのは、「であろう」「と思う」等のあいまいな表現を 削れという主張。断言したいと思っているなら断言しろということだ。 明日から気をつける。

「である」はできるだけ使わないらしい。 確かに「である」は口語としては死んでいるし、 文語としてもゴツすぎる印象がある。しかし、そうすると文末の バリエーションを他の何かで補わねばならず大変だ。 しかしまあ、ちょっと試みてみよう。 あと、漢字で書くかどうかは周辺の黒さ(=漢字率)で決める、という著者のやり方が 紹介されていた。ひらがなが多ければ漢字に、漢字が多ければひらがなにして バランスを取るのだと言う。 私も元々はそうしていたわけだし、やっぱりそうしよう。

ファインマン物理学を買いに行ったが、一巻がなかった。 書名がわかっているならアマゾンで買え、ということだ。 ところでちょろっと立ち読みして思ったのだが、 どう考えても版を改めるべきだろこれ。版の擦り切れ具合が怖すぎる。 名著名著言うなら、それくらいしてほしいものだ。 確かに擦り切れてた方が名著っぽいのだが、読みにくいし、 普通は怖がる。

にしても、2万かよ...あと、翻訳がヤバそう。 これは英語で買った方がいいかもしれん。 つうか、いい加減英語は苦もなく読めるはずなのだ。 ビビってる場合じゃないだろう。 考えたら私はcellを英語で読んだわけで、読めんはずがない。 ここ数年ロクに読んでなかったから感覚を忘れているだけだ。 買ってしまえばたぶん思い出す。

英語版も2万だった。ただしハードカバー。2005年に改訂されており、 「definitive」とか書いてある。たぶん決定版って意味だろう。 来年正月明けにペーパーバック版が 発売されるようだが、それほどの名著ならハードカバーで買う価値があろう。 でもまあ、今買ってもおもちゃになるし、 原稿を渡すまでは我慢する。たぶん現実逃避のネタにしかならん。

調べて知ったのだが、ファインマン物理学って本人が書いた本じゃないのな。 講義の録音から誰かが起こしたものらしい。 なるほど、本なんて書く人じゃなかったわけだ。 本を書くのは「もう終わった人」だけ、というイメージは私にもある。

「乃木坂春香の秘密」を読んだ。なんでこんなもんを読んでるのかと言えば、 メシ時にに能登が主役でアニメ化、という話を聞いていて、 朝電車に乗る前に寄ったbook offで目に留まったからである。 で、中身だが、なんつうか、ギャルゲー。 ここまでのものは久しぶりで、ある意味新鮮だった。いくらなんでも直球すぎるだろ。 ところで、ラノベって家から西日暮里までの時間で読めるんだな。

ペルソナの最終回を見た。 まあ一言で言えばだ。わけがわからん。 無理をすればわかることはできるが、 わかったのかわかったことにしたのかが自分でもわからなくなるに違いない。 だからそんなことはしない。 鍵ゲーは大体この範疇に入っており、何年も思考停止したまま放置されている。

何を言っているのかはわからんが何を言いたいかはなんとなくわかる、 という類のものが世の中にはある。そういうものは嫌いではない。 嫌いではないが、自分が作る物がそういうものになるのは嫌だ。

過去の自分の心理を今の知識で説明するのはあんまり好きではないが、 そういう説明をしてしまう今の心理状態を描く手段としては好きだ。 とらドラ!の話である。まあそれに限らないし、 リアルにもよくあることだが。

きっと子供の頃も自分の体は今と同じ大きさに感じられたのだろう。 しかし、それを思い出すことはできないし、想像することもむつかしい。 過去の自分がどう感じたのかに関してわかることは、 曖昧な画像記憶と、書かれた文章だけだ。 過去の自分がこれほどまでに他人であるとは思わなかった。 なんてことを一人でふとんの中で丸まりながら思う。

起きて本書かなきゃ。

14章校正対応、18章先回り。進まんなあ。

wikipediaによると、カンガルーの袋はムチャクチャ臭いらしい。

久しぶりにミューズリ。はさまるが耐えられないこともない。 そういえばそろそろ定期診察の時期か。

矯正は金の問題さえ無視するなら、やっておいて損はない気がする。 歯を抜くほどのレベルになるとまた難しいんだろうとは思うが。

2008年6月27日

普通預金が一定以下になるようにしたら、減ったのがわかりやすすぎて怖い。 この状態を保とう。

校正祭再開。明日は14の校正対応と、時間があれば18の先回り修正。 日曜は22か23まで先回り修正を済ませたい。 校正項目の8割までは、長い節の分割と長い文の分割の問題なので、 そこだけ先回りして片づけてしまう。

ルルーシュはここまで話が進んでもなお学園物にし続ける節操のなさが すごいと思う。

サランを読み終えた。九割九分までは地味な短編だったが、 オチがひどかった。この人、本当にやりたい放題だ。 それにしても、これが地味に見えるんだから、私も相当ダメだな。 明智光秀が朝鮮に渡っていた、とか言われても、 もはや「ふーん」という程度にしか思わない。 図書館がドンパチやってるのと同程度に慣れた。

部屋の表面積を減らさないとダメだ。ごっそり捨てないと。 本が終わったら、掃除するぞ。

シンフォニアが楽しすぎてノクターンを弾く気にならないが、それは まずいのでがんばってやる。明日で2が終わればいいが。

2008年6月26日

雨なので本屋には行かなかった。というか、本が優先。 今日は15,16章の先回り修正。 明日はコードレビュー対応と、17,18あたりか。

荒山先生は、朝鮮が好きすぎて、汚してしまわずにはいられないんだろうなあ。

2008年6月25日

不可逆な選択が迫ってきたぞ?

荒山先生のサランが文庫になっていたので買ってきた。 明日電車で読もう。なお、明日は英語の帰りにそのまま 八重洲ブックセンターに行って、勧められた本をまとめて買ってくる。 あとファインマン物理学を一気に全巻買ってくる予定。

今日wikipediaの相対性理論のページを見ていて、 「これ理解できたら格好良くね?」とか思った。 大学生がたかだか5年かそこらで理解することを考えれば、 私が今から勉強を始めて悪い道理もない。 そして、その過程で得た数学と物理の力は より低レベルの仕事にも確実に役に立つ。 そして、現状その手のゴツい物理や数学がチンプンカンプン状態の私が いかにそれを理解できるところまで行ったか、という 経路をうまく文章にできれば、それは人の役に立つはずだ。

しかし、それをどういう環境で勉強するかが問題だ。

2リットルくらいのビーカー欲しいな。電子レンジでお湯を湧かすために。

2008年6月24日

今日の化学実験。シンプルに行こうと思って、 ワインにチーズ溶かしただけの状態でどんな味になるか調べてみた。 ダメだった。味が足りない。 まあ最大の失敗はエタノールが蒸発しきってなかったことなのだが。体が熱い。

他人の文章を分析しないとダメかもしれんな。 あと、他人の文章を読んでいる時の自分をもっと観察しないとダメなんだろう。 多少アレな文章でも全然気にならずに読めるということは、 自分の文章がアレでも気づかない、ということだ。 にしても、何か参考になる文章を見つけないとダメだな。 幸田露伴は好きだが参考にはならん。あのノリで技術書書いたらおもろいけどな。

掃除したい。奴等がいる。

13章まで校正対応。12章の大幅変更が13章にも影響を及ぼしている。 この2章で豪快にページ数が減った。現在793ページ。

会社辞めないのも不可逆ではあるんですが、変化速度が違いますから。 でも、このままだとゆでられたカエル状態になってしまいそうなので なにかしら考えます。

自分の文章がどれくらいダメなのかがよくわからない。 真面目に考えたことがなかったということだ。 小説でも書くような覚悟で文章の勉強をすべきなのかもしれん。 今やってるような作業でも場数は踏めるだろうが、 根本原則のようなものがわからない状態では抜本的な改善は見込めない。 とりあえず、誰に聞いても「こいつは文章うめえ」というような作家を 何人かみつくろって、何冊かづつ読んでみることにしよう。

物理と数学を誰かに習えないだろうか。どう考えても独学は非効率だ。 しかし、とりあえずは自力でやってみないことには問題点がわからない。 たぶん文章を書き始めればいいんだろう。わかってないことは書けないので、 書けなくなったところがわかっていない所だとすぐわかる。

文章の書き方も人に習えたらちっとはマシになるだろうか。

お湯を湧かす時間が惜しい。電子レンジを活用すべきだ。 丁度いい容器を買ってこよう。

2008年6月23日

アンサイクロペディアの神郷洵の項を見て、 ペルソナの見方を間違っていたことを悟った。 この解説、バカっぽく書かれてはいるが、なかなかどうして深い。

12章はほぼ完全に書き直すことにした。 サンプルコードも全部修正。 画像を切り取って画面に貼りつける話がわからないという話を 何度も聞くうちにだんだん嫌になってきて 「もうこのまま強行するぞ」という気分になりつつあったのだが、 今日ミーティング中に一つひらめいたのである。

画像の回転に関して、 「画像側の画素が画面のどこへ行くか」という話の進め方を採用すれば、 二重のループで素直にコードが書ける。 もちろんそのこと自体には前から気づいていたが、 画像から画面への写像では画面側の画素を全て塗る保証がない。 画面側のある画素を複数回塗ってしまったり、 あるいは一回も塗られなかったりということが起こる。 これを重く見てこの路線での説明はやめておいたのだ。 しかし、どうせ使い物にならないことでは以前取った方法も同じであり、 むしろスカスカになって見た目にダメそうなことがわかる分 こちらの方が良いし、変換の式や概念自体は本式のものとほぼ一致する。 そう考えて論理を立ててみると、驚くほどすっきりした。 ラスタライズの紹介は依然として必要だが、 その目的が「画面側の全ての画素が一回だけ塗られることを保証するため」 と明確になるので説明もしやすい。 というわけで、今書き直している途中。明日中に上げます。

あと、複数の人から「加法定理の証明なんていらんだろ」という声を受け、 いいかげん嫌になってきたので、おまけに回すことにした。 ただ、少々の小言は残しておく。 「私はこれが必要だと確信しているが、君に確信させるのは無理だと判断した。 もし君が本気ならここで一旦おまけに飛んで証明を読んでみてほしい」 という具合である。もう少しやわらかだが、意図はそういうことだ。 まあ頭が冷えたらもう少しやわらかくするだろう。

借りた「ご冗談でしょうファインマンさん」を読んでいる。 最初はそう面白いとも思わなかったが、途中からたまらなくなってきた。 物理勉強しよう。プログラミングスキルでも物理の知識でも 一流には遠く及ばないが、両方を合わせた応用能力であれば 私にもまだ戦いようはある。 次に書く本は物理にすべきかプログラミングにすべきかと悩んでいたが、 物理にしようと今日は思った。 そして、今週の土曜にはファインマン物理学を全巻買ってこようと、 今日のところは誓った。

私は決断するのが嫌いだ。しかし、決断するのが嫌いな自分も嫌いだ。 さて多くの場合、決断が意味するのは何かを やるかやらないかである。そして大抵の場合、やらないという決断は 決断のうちには入らない。何故なら、その次の日に同じ決断を 繰り返すことができる程度の猶予はあるからだ。 つまり、ほとんどの場合決断と呼べるのは、何かをやることだけである。 従って、決断するのが嫌いな自分を嫌う気持ちが強い時には、 何かをやる決断をせねばならないのだ。 そして、この決断は不可逆である。そうでなくては決断とは言えない。 つまり、決断するのが嫌いな自分を嫌う私の性質は、 どこかでその決断が正しいか間違っているかに関わらず、 不可逆な行動を起こしてしまうという危険が含まれている。

そういえば、会社を辞める、という決断は不可逆である。可逆である可能性もあると 思っていたが、どうやら不可逆であるらしい。 きっと結婚というのも不可逆だろう。

などと思いつつ、ファインマン先生の本を読んでいると、 不可逆であることがそれほど怖くなくなってくるのが怖い。 卓越してしまえば職なんていくらでも見つかるのだ、 とか思えてしまう。 卓越することを目標にできる奴が少ないという事実は、 私が卓越することを容易にするはずである。 他人を変えるのは無理でも、自分くらいはどうにでもできると思わないと 生きている甲斐がない。

と今日のところは思った。ピアノを弾いて寝る。

シンフォニア1が楽しすぎていけない。ショパンなんていい曲なだけじゃないか、 なんて思ってしまう。まあ今週でノクターン2は片づけて1に入らねばならないので それなりに練習はしているが、なんかいまいち遊び所がない。 ロマン派こそ好き放題やってナンボと言われるが、 「ショパンってこうだよね」というイメージが邪魔をして それほど好き放題できないのだ。 なんぼゆらしても「ロマン派はテンポをゆらしてナンボ」という枠から出られない。 その点バッハは違う。歴代の巨匠が率先して 「そりゃねーだろ」という演奏をしまくっているので、 素人であればなおさらやりたい放題できる。

シューベルトの方が好きかもしれん。ところどころノリで書いてて つながりが変なところがあるのがかえっていい。 あと、ショパンほど定番でないのでイメージがあんまりなく、 好き放題しやすいのもある。 そう考えていくと、ドビュッシーとかラヴェルみたいに曲そのもに個性がありすぎる 音楽はいじりようがなさそうだ。いざ弾いてみたらそんなに楽しくないのかもしれない。 まあ一回は弾いてみたいが。

今日の化学実験。今日のは本当に実験と呼ぶに値する混合だ。自信がある。 今日の配合は、 豆乳、にんにく、パルミジャーノ、かつおぶし、納豆。全部混ぜて加熱して、 パスタにかけて食った。匂いはほぼかつおぶしに支配されている。 そして味だが、覚悟した割に普通に食えた。むしろうまいかもしれん。 少なくともまずくはない。アミノ酸はいくら多くても困らないわけで、 濃厚すぎるダシと適度な塩分が合わされば、そのダシの源が何であれ そうそうマズくはならないのである。納豆も匂いはほぼ消え、 汁にトロミを加えるのに一役買っている。 案外食えるものだな。絶対に人には出さないが。 しかし、もしここに酸味源、例えばトマトやワインを入れたら話は変わっていただろう。 たぶんこの味に酸味は合わない。それも致命的にだ。

2008年6月22日

拳法。京都から先生が来られた。 ダメなところがわかった。直す。しかしこれを直すには 下半身の筋力を強化せねばならない。 肉体的にしんどい練習を避けられないということだ。 まあ、やる他ないな。まあ帰る途中にある駐車場でちらっとやってから帰る ようにしよう。 これから数ヶ月は脚を強化だ。

今進行している出来事は、もしかすると突然妹が12人現れるのと 同レベルなのかもしれぬ。

少々早くついて練習まで時間が少しあったので、 小田原城を見てきた。土砂降りの中、一体私は何をやっているんだろうと思う。 そして見て思ったが、さっぱり面白味がない。見る目がないからか、 それとも、所詮複製だからか。まあ、見に行くという行為そのものが 面白いので問題ないが。

ミク(つうかvocaloid)は音程が悪い。 たぶんちゃんとやるなら全部いじらないといけない。 声が純正律でない状態には凄まじく違和感がある。 ミク曲を作る際に機械的に行える作業としては以下のものがある。

これらを全部やるなら最低丸一日はかけないといけないが、 音楽としてとりあえず聞ける水準にはなると思う。 やったことないけど。 しかし、ウケるかどうかはそのはるか前で決まっているので、 この手の作業が割に合うとは思えない。 シンフォニアなんて受けるわけないからな。

ペルソナ3の猛烈にくどい脚本は、これはこれで味なのかもしれない。

2008年6月21日

有意義な飲み会。 とりあえず、本が終わったら、なんて言わずに今から考えるべきな気はしてきた。 あと、誉められると調子に乗る。

会社の中にいる異性を異性として見てしまえばもはや冷静ではいられまい、 と私などは思うわけだが、 みんな結構いろいろ考えているのだな。 くっつく別れるについてあれだけ情報が行き交っていたこと自体が 驚きだし、そういうことが興味の対象としてさまざまな場所で会話のネタになって いるのだ、ということも驚きである。 にしても、男女の仲というのはそんなに流動的なものなのか。 話を聞けば聞くほど面倒くさそうにしか思えなくなるのは 私がもうどうしようもなく負け組だからだろうか。

シンフォニアを弾いてると、根本的にピアノというハードウェアが足りてないという 印象を受ける。2段鍵盤は欲しかろう。 しかし、ピアノを進化させる方向に作曲をしていたのは初期だけで、 すぐにピアノに合わせた作曲をするようになってしまった。 費用対効果の問題なのだろうな。ハードウェアの価格、 熟練にかかるコスト、聞いた人間が感じる差違の大きさ。 全てを勘案すると今の形態が丁度いいということなのだろう。

バッハの「フーガの技法」を聞いた。このわかりにくさはすごい。 勝手に流れている分には雰囲気があっていいわけだが、 いざ集中してわかろうとすると脳が焼けつきそうになる。 まったくもって、なぜこうもバッハという奴は玄人以外おことわりなのだろうか。

隠の王11話の超展開に驚いた。何これ。

野村證券から資料が送られてきた。不思議だ。 一生関係を持つこともないと思っていた会社からこうして案内が届くというのは なんとも不思議なことである。まあ内容はスルーだが。

結婚と金について考えてみるのは気が滅入って面白い。 ここで仮に給料がまあ少々楽観的に550万までは上がるとして考えてみよう。 ボーナスをならせば手取りは月40万くらいだ。 さて、これで私が育ってきた水準の家庭なるものが成立するかと考えてみると、 どう考えても不可能である。4人とか暮らせないだろこれ。 加えて、退職金というシステムがほぼ存在しないこの手の会社において 老後なるものを考えると、状況はさらに悪くなる。 退職までに数千万の貯金をせねばならないわけだが、 例えば4000万と仮定すればそれは月16万もの貯金を必要とする。 そんなの独身の今ですら困難だ。 運用で軽減はできるだろうが、まあ半分にはなるまい。 そしてこんな算段は、会社がなくなるとか、クビになるとか、 そういう十二分にありうる未来の可能性を全て切り捨てたものであり、 信憑性のかけらもないのである。それだけ楽観視してなおこれだけ 面白味のない結果が出るということについて、 今まであまり真面目に考えたことはなかった。

根本的に、結婚した後で私だけが働いた場合には 私が「普通」と思っていた生活は不可能だということは明白である。 なるほど、結婚する率が下がってきているのは当然だ。 男女共に働いているのが前提という状況で子育てをしようと思うには 相当な覚悟が必要であり、子育てをしようという意思がないならば 状況の流動性の点から結婚という選択は不利になる。 これで私が特にダメな部類に入るのであればまあそんなもんかとも思うが、 私の給料は相当マシな部類だ。これで不満を言ったら 天罰が下る、とまで言われたくらいである。 すでに、嫁を専業主婦にする、という行為が選ばれた人間にしか許されない ものになっているということだろう。 そもそも、相手の人が普通に仕事したい人だった場合、 子供を産むという選択自体が魅力的でないケースも多いはずだ。

ここで、子育て休暇は給料を出す、みたいな法律を整えたとしても たぶんそれほど事態は好転しない。 女性を雇うことが統計的に損になるような法律が存在すれば、 いずれ女性の雇用は減る運命にある。すでに就職した人にとってはお得でも これから就職したい人は損をするわけで、たぶん思ったほどには事態は好転しない。 男女区別なく子育て休暇みたいなシステムがあれば女性が割を食うことは なくなるが、長い目で見ればその分だけの損失を埋め合わせるように 採用が減ったり賃金が減ったりするだろう。 といっても、そういう優遇策を何もしないのもマズいわけだが。

人間が減る前提で事を進めるしかないんだろう。根本的に。 スウェーデンなんて何百万人しかいないのにあの存在感なわけで、 日本も「人数の割には目立つ奴等」になれればそれでいい。 世界に占める人口比率で勝負しても仕方あるまい。 発明とか新技術とか製品とか、 そういうのは教育その他で人間の数の不利を補えるはずなのだから。 ただ、その対策をする時間稼ぎのためにも、出生率を上げる 施策はいくらかはやらねばならんのだろうなとは思う。

で、そういうデカい話はまあいいとして、自分のことだ。 なるほど結婚するメリットがまるで見えん。 子供というファクターを度外視すれば、 住宅等の設備を共用することによる効率化メリットは得られるが、 そんな身も蓋もない理由で結婚なんかせんだろ普通。 一緒に住むに留めて制度上の結婚まではしない、というケースが 増えているというが、なるほど道理である。 なるほど「合コンの社会学」に書かれていた、 「どう考えても結婚て得じゃないけど、まあそれをする気になるくらい 劇的なイベントが起これば考えてもいいよね」 という考え方がここで出てくるわけだ。 「突然妹が12人現れたら人生を棒に振っても仕方ないな」 というのと同じことである。

いかん。また自分のことでなくなった。 なんつうか、非現実的すぎて、自分のこととして考えられん。 まあ、まんま全体の傾向が当てはまるので特に私に特殊化した話なんて できないわけだが。 つうか、大抵の問題に金がからんでくるのが本当にいまいましいな。

うん。この話は考えないことにしよう。 ただ金はケチった方がいい。最近ゆるんでいるので締め直す。 そのための第一弾として、いつも使う口座が100万を越えないようにする、 というルールを作った。金が増えたり減ったりする様が良く見える状態を 保つ必要がある。50万くらいでもいいかもしれんな。

2008年6月20日

シンフォニア。 主題がわかりやすいように歌詞をつけた。もっと凝りたいが、 こんな馬鹿なことに時間かけてられん。 まあともかく、これでいつどこのパートが主題をやってるかがわかりやすくなった。 シンフォニアは全部これやろう。7番が楽しみだ。

くそう。バナナのパンケーキ食いたい。 最初は「今日のごはんはカレーにハンバーグ」だったが、メシを食って食欲が 満たされたらパンケーキにすりかわった。 1ヶ月後あたりにやるであろう2番はどんな歌詞になるだろう。

2008年6月19日

ちょっと時間が空くとたちまち不安になる。

mallocってどうなってるんだろう、と思って、 まず数時間自力でどうすれば良いものが作れるかを考えた後で、 webで情報を集めて答え合わせをしてみた。 いい線行ってたが、さすがに勝てんな。 ヘッダを4バイトまで減らせるとは思わなかった。 というわけで、自作しても仕方がないのだが、 独自のデバグ機能を足したりすること、 使い方のモデルがかなり明確にイメージできることの二つを考えると、 自作するメリットはあるのかもしれんな、とは思った。 仮に完成度において及ばなくても、 基本的な考え方さえ合っていればそれほど劣るものにはならないし、 カスタマイズしてあることも利点にはなりうる。 が、まあそこまでするほどギリギリを目指す必要もないよなあ、とは思う。 根本的にnewの回数を減らす方が先だろう。 コンテナを自作する方が先だという結論。

「回転行列がなんでああなのかなんて知る必要あるのか?」。 反論できん。必要なのは「回転行列がなんでああなのかを理解しようと 思える意思と、理解できるだけの数学力」なのであって、 それそのものが必要かと言われれば、ぶっちゃけいらん。 この本はそういう類のもので満ち満ちており、 削ろうと思えばごっそり削ることができる。 しかし、そうすると「必要なものを削ったわけでもないのに、結果としては 必要なものが足りてない状態」になってしまう。 世の中には「触れておいて損はないこと」がなんとなく寄り集まってできる おぼろげなスキル、みたいなものがあるのだ。 しかしそれを説明するのは不可能だ。

一体ゲームを作るには何を知っていればいいのだろうか? と考えると、技術的背景などどうでも良く、 最低限行列クラスと描画インスタンスクラスのいくつかの関数の使い方を 理解して、それを与えられたものとしてゲームの中身を作る方が よほど重要なのである。 よしんばその手のライブラリを自作する羽目になったとしても、 webでさらってきた公式をまんまぶちこめば動くのだ。 仮に動かなかったとしたらそれは単なる書き間違いであり、 理解の不足によるものではない。

あれ?それに対する反論がまるで出てこないぞ? 行列の乗算すら自力で書けないような状態でもゲームを作るのに 何の不自由もない、という現実に私は今まで目を背けてきたのか?

自分の本のウリは量そのものだと思っている。 勉強はその結果を覚えるためだけにあるのではなく、 勉強したという経験自体がなんとなく脳のどこかに沈殿 してくることが重要だと私は思うからだ。 「webで調べられることを書かなくてもいいだろ」という意見に耳を貸さずに 来たのは、一回自分で通ること自体に意味があると思うからである。 しかし、そんなこと、説明できねえ。 そのものとして必要でないことをどんどん「おまけ」扱いにしていくと、 「おまけだしいらないんだろ?削ればいいじゃん」 という話になって、一瞬で本が半分以下になる。

「言葉にできないものってのは、そもそも存在してないんだよ」 といつだったか誰かに言われた。 私もそういう考え方には憧れるし、そうあろうと思ってもいる。 相手に理があって自分が反論できないなら、 なにか釈然としなかったとしても従うべきだ、という考え方は身につけたかった はずなのだ。感覚など化学物質の濃度の問題にすぎず、 信頼に値しない、という素敵な考え方を信奉していたはずなのに。

とりあえず、「いらないんじゃね?」と言われている内容のうち 主なものについてよく考えてみよう。

2008年6月18日

行列による頂点変換というのは、 果たして初めての人に本を流し読みしただけで理解させることができるほど 簡単な代物なのだろうか? しかし、その問いは逃げだ。 やれるだけのことをやる以外にどうしようもない。

数学的な手続きを重視しすぎている気は確かにしなくもない。 「行列というものがあって、かけ算はこうです。これで頂点が回ります」 という説明の方が使えるようになるのは早いし、読むのも辛くない。 それではダメだと思ってあれだけ長いものを書いたが、 本当にダメなのか? あるいは、最初はそれで済ませておいて後から中身を説明するという 順番はありえないのか? しかし、私はハードウェアやコンピュータ言語と数学を同一視したくないのである。 CPUの中身を知らなくていいように、行列の中身を知らなくてもいい、 という考え方は嫌だ。 ハードウェアや言語はあまりに多くの段階を踏んで進化したがゆえに、 「たまたまこうなっている」としか言いようがない部分があるが、 数学はそうではない。ベクタと行列程度であれば、 それこそ中学生でもわかる程度の段階を踏むだけで到達できる場所だ。 あらゆるものは中身を知っていた方がうまく使えるのであって、 そのための労力が割に合いさえすれば中身は知るべきなのである。 問題は数学において中身を知ることが割に合うかどうかだが、 私は合うと思う。しかし、たぶんそれは少数派だ。 Model.draw()で絵が出て何が悪い、と思う人は多く、 中身がわからないために改良もデバグもできないという欠点が無視できるような 使い方しかしないという選択はありうるのである。

バッハって、何が弾けてもピアノがうまそうには聞こえないよな。

本。今日は進んでない。いろいろあったのだ。

今日はずいぶんと勉強になった。 これを覚えている限りは他人にもう少し優しくなれそうな気がする。

本当にリンレンは作りが適当だな...ミクの優秀なことといったらない。 更新に期待しよう。 16音の主題になんか歌詞つけたいな。そうすると主題がわかりやすくなる。 16文字の何か。

2008年6月17日

シンフォニア1。3人で3パート。 音符ぶちこんだだけで何もしてないのに1時間かかった。まだまだ修行が足りん。 ところで、これ、えらい勉強になる。 どこがどのパートなのかが、これ以上なくはっきりわかる。 抜き出し練習してもいまひとつピンと来ないのだ。 にしても、これをさくっと作曲してのけるバッハって もしかしてすごいんじゃなかろうか。

バッハが音楽の理系と言われる理由がいまさらながらにわかってきた気がする。 この構成の絶妙さは頭おかしいだろ。しかしそのややこしさの割には 音は少なく、実際弾けるのである。

せっかくだし、後でそれなりに仕上げとくか。 音量と歌詞、あとアーティキュレーション入れて、テンポゆらして、 最後にエフェクト、というくらいか。 うん、2時間はかかるな。そんなヒマはない。

13章まで。google docsにpdfをアプロードできることがわかったので、 これからはそっちにて最新を公開。まあいつもの場所にも置きますが。

グーグルって一体何でもうかってるんだろうなあ。これ、タダじゃん。 しかも広告出てた気がしないぞ。

12章がむつかしいむつかしいと言われているが、 これをこれ以上どうすればいいのかまるでわからない。 筋道を邪魔するものを後回しにすればいいんだろうか。 添字と座標の差違の問題を後回しにすることを考えてみよう。 しかし、それでガツンと変わるかと言われると微妙だ。 三角関数の説明を前倒しにして邪魔をしないようにしてもいいが、 それも本質的とは思えない。やはり説明の質に問題があるのだろうか。

2008年6月16日

シンフォニア1。いまいち構造がわからん。 ここはミクに歌わせてみるしか。このくらいなら30分で打てそう。 明日やろう。

ノクターン2の練習法がわかった。すごく速度を上げる。 脳のクロックを上げ、指を早め早めに目標位置へ動かす。 跳躍が激しい曲はこの練習をしないとダメだ。 音楽性は勝手についてくるだろ。とにかく速度だ。

11章まで校正。1章には16進数の話を足した。 何の断わりもなく0xffとか書いてたからだ。 つうか、プログラミングってどれだけ難しいのよ。

texの用紙サイズがA4のままだったことに今日気づいた。 そしてB5設定にしたら900ページを超えていた。 見なかったことにしよう。 どうしても一冊にならないようなら分冊すればいいわけで、 無理に内容をどうこうしても駄目だろう。 少なくとも向こうのレイアウト案が来るまでは 何ページ減らせばいいのかもわからないわけで、やりようがないのだ。 削ってどうにかなる分量じゃないかもしれんしな。 でもまあ、無駄なところはないように一応は気をつけてみる。 脚注で十分な内容は脚注に飛ばせば面積も減るしな。

プログラミングに重点を置けば 一冊で必要な部分全域をカヴァーできる本ができるだろうと 思っていたのだが、案外難しいかもしれない。

2008年6月15日

ピアノ。 今週は練習時間が少なかったし、人差し指の先端に豆ができて痛いので 気が散るし、先生のピアノの調律が狂ってて気になるしで、 まあさんざんだった。しかし一番辛いのは インベンション15が終わったことになったこと。明らかにできてない。 家では弾けてるつもりだが、今日先生の前でやったのは全然ダメだった。 この情けは辛い。くそう。再来週「もっかい弾かせてください」 と言うか。どうにも気が晴れない。 そして、他は何一つ進まない。それなりにできてると思ってた チェルニー30-21もまだ不足らしい。 さらに、ノクターン2は先生のピアノだと何故か音を外す。 ペダルの感じが違いすぎて戸惑ってしまうのがたぶん最大の要因。

つうか、やっぱり調律気になるわ。1/3半音以上はずれてたぞ。あのド。 オクターブがあんだけうなってたら相当マズいと思うんだが。 あと、音によって反応性がまるで違う気がするのも相当気になる。 そのへん直してくれたらグランドだけにたまらないんだがなあ。

例の指地獄はチェルニーOp802。題名を訳せば、 「実践的な指の練習」というところか。 先生が音大に行ってた頃はみんな使っていたらしいが、 今では日本語版の楽譜もなく、ググっても数件「試しに買ってみた」 とか書いてある記事が見つかる程度。使えると評している人もいるが、 明らかに本気度が高い人で、単なる趣味人には見えない。 なにせ、ハノンすら裸足で逃げ出すくらい機械的な上に、 繰り返し回数が任意という作りなので よほど意思が強くないとちゃんとした練習にならない。 自分が何を求めているのかがよほどはっきりしていないと絶対に耐えられないだろう。 しかし、ある意味、 これを真面目に練習できてしまう方が人間としてはダメな気もする。 目的のためとは言えつまらないことを反復できてしまうのは、多くの場合 意思が強いからではなく、単純反復に対する嫌悪が弱いからなのではなかろうか。 少なくとも私に関してはそうだ。 私のこの性質は私に学歴とスキルを与えたが、 他のいろんなものを奪っていった気がする。 そして、残りの人生においては奪われる分の方が多いのではなかろうか。

「世界でもっとも美しい10の科学実験」。 科学いいなあ。勉強したい。しかし、勉強意欲は湧いたものの、 この本そのものはそんなに面白くないという気はする。 内容は面白いが、文章が面白くないというかなんというか。 そういえばそんなことを言われて貸された気もするな。 といっても、ラノベばっかり読んでバカになった頭には 大変良い刺激で、貪るように読んでしまった。 もちろん電車の移動中ですよ?

ああでも、印象が悪いのはたぶん、 「実験の美しさとは何か、そんなものがありうるのか」 みたいな話がえんえん続いたからだろう。 私にとっては学問をする行為が美しいのは自明のことなので、 何をいまさら、という感じが強かったのだと思う。 しかし、一般の人にそういう感覚が希薄なのであれば、 あの説明にはずいぶんな価値があるような気がする。

10章まで。だいぶ追いついた。 明日は11を片づけて、次が来れば次、来なければ0,1章を もう一度直す。直し方が確立していなかったからな。

平均律を聞きっぱなしだった。しかし集中しないで聞くと みんな「うーんバッハ」で終わりである。 バッハは基本的に弾く人しか面白くないものなのだ。 ごく少数のメロディがわかりやすい曲だけが普通の観賞に耐えるのだと思う。

ミクはバッハと相性がいいと感じる。音楽の捧げ物といえば わけのわからん曲として有名だが、ミクで聞くと案外すっきりと聞ける。 パート分けがわかりやすいからだ。 6声のリチェルカーレがあれだけ聞きやすいというのは驚異的である。 youtubeに上がっていた奴は調教が甘い上に表情のつけ方がイマイチだったが、 それでもあれだけ聞けるということは、 真面目に作ればかなりいけるということだ。 挑戦したいものである。 ちなみに、ミクでいけるということは、うまい奴が生身で歌えばもっと いいはずだという話にもなるが、そうは問屋がおろさない。 人間の声では音域が足りないのだ。 そのためのミクである。しかし、ミクは低音には向かない。 レンはなんぼかマシだが、やはり足りない。 たぶんベストなのは、最低音部は私が自分でやる、というのだろう。

ピアノ、ヴァイオリン、バス、テナー、オレ。ソプラノ、アルト、ミク、 みたいなの作りてえ。くそう。音楽がこんなに楽しそうに見えたのは 生まれて初めてかもしれん。ピアノを弾く目的が少し明確になった気がする。

小学生でチェルニー40終了とかいう文章見てると怖くなる。 つうか、現代日本の小学生が一日3時間以上ピアノ弾くってのは、 どう考えても異常だろ。 学校から帰ってきたらそれしかしてないということで、 さすがにその育て方はどうかと思う。 正常な生育してないと思うんだがなあ。

ゴーダが緑色に染まった。カビの種類が不明なので削ぎ落とし、 これ以上の保存は不可能と判断して、豆乳を溶媒として液状とした。 おおよそ400g前後。1kgのゴーダは食べ切れない、という結論である。 やるなら冷凍すべきだろう。 とりあえず手始めにパスタにかけて食ったが、アミノ酸が足りない。 やはりゴーダはダシ源としてはダメか。 トマトを追加して米をぶっこむのが良さそうな気がする。

2008年6月14日

物理と数学勉強したい。あと、プログラミングを基礎から考え直したい。

鏡音リンレンがバージョンアップする。間に合うなら これでデータ作り直そう。 つうか、今回の本には最低一曲はそれなりに真面目に作曲したものを 入れたいのだ。今は考える余裕すらないが、校正が終わって レイアウト待ちになれば丸一日くらいは取れるだろう。

7章まで終わり。明日は8,9をやる。 にしてもすげえ勢いで注釈が増えてる気がする。

金の事を勉強しだしてからもう半年が経った。 あまり変化はない。 予定の額をリスク資産に変換し終わるまでには あと2年ほどかかるので、まあ話はそこからだろう。 つうか、2年で変換が終了するようではダメなんだがな。 それは貯金が増えないという前提なわけだから。

普通預金にたくさん入ってると金の感覚がおかしくなるので、 一旦MMFか何かに移そう。そう思って、MMFが過去どんな感じだったのか 見てみたわけだが、すごいな平成不況。利子0.01%って一体何だ。 今はそれなりに復活しているようだが。

借金が増えるからといって国債の利子を小さくしたり 税金を増やしたりすると、みんなの元気がなくなる。 元気がなくなると、稼げなくなる。稼げないから税金もあんまり払わない。終了。 だから、元気になって税金をたくさん払ってくれるなら、 減税したり国債の利子をでかくしたりしてもいい。 しかし、あくまでも「元気になってくれるなら」だ。 税金が減ったところで、「なんか不安だから貯金しとくわ」と 皆が思えば結局元気にはならない。ここで言う元気は バンバン金を使うことだからだ。

無駄に金使うのやめればいいんじゃね?という意見はもっともだが、 例えば道を作るのが本当に無駄かどうかは結構わからない。 建設技術の類は継続的にやらないとなまる。 自衛隊の訓練にかかる金と同じくらい、 建設業がなまらないように何かしら作らせることはたぶん重要なことだ。 どうせなら役に立つものを作ってほしいが、 地域的な問題もあるわけで、田舎の建設業者に訓練をさせようと思えば 田舎に何かを作るしかない。 しかし、もう十分作ったしなまってもいいんじゃね?という考え方もあるし、 国から仕事をやらないとなまるようなヘタレはいらない、 という考え方もある。

とか考えていくと、何が正しいのかはさっぱりわからないな。 平成不況は消費税等々の借金を減らそうとする試みのせいで あんなにひどいことになった、 という文章をしょっちゅう目にするが、 じゃあ借金を減らす努力はしなくていいのか?と言われると さっぱりわからない。借金は皆が返してくれることを信じられるうちは 害でもなんでもないのだが、「もしかして、これ返ってこないんじゃね?」 と不安になる人が増えるとすごいことになる。 日本の国債は世界的には評価が低いらしいが、 少なからぬ人が「あれは返ってこないかもしれない」と思っているからだろう。 国債はいろんなものの根底にあり、それがダメになると それこそすごいことになる。だから借金を減らそうと考えるのは 全然悪いことじゃない。

経済はわからんなあ。 とりあえず「競争がないとダメ」というのは大抵のところで通用する事らしいので、 とりあえずはそこをよく理解しておけばいいか。 競争がないとダメになるいい例を私は良く知っているわけで。

みんなで同じライブラリを使おう、というのはそれだけでは競争がなくなるので 良くないことになる。出来がクソでも、使うということが決まっていれば 使わざるを得ないわけで、作ってる人達がよほど真面目な人でないと いつか堕落するだろう。出来がクソな時に作った人が損をするような しくみを作ればいいが、それはなかなか難しい。 しかし、そこで「ライブラリを作るチームを2つ作って、 採用された回数に応じてチームの給料を決めます」みたいな 競争原理を取り入れるのがいいかどうかはまた微妙だ。 だいたい2チーム作る段階で2倍金がかかる。 品質が上がることの効果と、その2倍金がかかることが釣り合うかどうかという 話になるわけだ。 あとは使われた回数で給料を決めます、 みたいなことはたぶん不可能だという事情もあるし、 そもそもどちらを使うかを決める基準が品質だけになるという保証もない。 近くに作ってる人がいる方を使う、みたいな事にもなってくるだろうし、 人情の問題もある。

そういえば給料の査定というものがすでにして競争なわけだが、 もし皆が真面目であれば、そんな競争に無駄なエネルギーを使わずに 全力で仕事をして会社をもうけさせて、みんなで給料が上がる、という幸せな未来を 目指すはずなのだよな。しかし、現に査定というものが存在するのは、 そんなに皆が真面目だと信じられないからだろう。

むつかしいな。何もかもがむつかしい。 しかし物事を単純にすることは不可能ではないのだ。 みんなが真面目になればいい。そして真面目になるためには、 会社をもうけさせるためにがんばることが、 ダイレクトに自分の利益になるような状況になれば良く、 さらには会社のためにがんばることが楽しかったり誇らしかったりすればいい。

そういえば、この本が会社にどれくらいの利益を与えるかは 私にはとんとわからない。 もし、この本のレベルを理解した人しか入社してこない、 なんてことになれば、 本に払った10人月がゴミに見えるくらいデカい利益になるが、 まあさすがにそれは期待しすぎか。 でもちょっとでもそういう効果があるといいなあとは思う。 これに刺激されてもっとマシな本を書く人が現れれば より人類のためになるしな。

今度実家帰ったら父に保険のこと聞いてこよう。何せプロだからな。 保険を金融商品として見る見方がいまいちピンと来ない。

2008年6月13日

7章すら終わらなかった。明日やります。 会社の全員参加イベントのせい。

確実に言えることは、本を作るということをナメていたということだ。 一旦本以外の事を全て遮断すべきなのかもしれない。 しかし、残念ながらそうも行かないし、 今やらねばマズい類のことは他にもある。 力が分散してしまうのはやむを得ないが、 相互に気分転換になって全ての事の効率が上がるように 精神を持っていくことで少しでもいい方向に持っていきたい。 「これが終わるまでそっちは何もしない」というやり方は もう許されないし、継続的にやらねば意味がないことに関しては 中断という選択肢はコストがかかりすぎるのだ。 私はそろそろ並列でやるという事を学ばねばならないのである。

とは言え、それにもやはり限度はある。 申しわけないが、合唱は本が終わるまでストップだ。 校正祭に関しては私が律速なわけで、 遅れれば遅れるだけ何もかもが遅れる。 最悪なのは7月8月までのびのびになってしまうことで、 そうなれば本番前になって練習に行けないなんて事態にもなりかねない。 あと、ピアノと英語はペースを落とそう。退化は困るが、 退化しないギリギリのところを保つことはできるはずだ。

ヒマな時に手を広げすぎた感はある。 ピアノとか弾いてる場合じゃないだろもはや、みたいな。 英語も海外出張なんて予定もないわけで、実用になるわけではないのだ。 でも、両方やりたいんだから仕方ない。 やらないということを考えることが苦痛なのは、たぶんやりたいということだろう。

あと、予定によればもうひとつ面倒が増える。こっちは生物学的事情により 今やらんかったら一生やらんという類のものなので、これも保留はできん。 正直面倒くさいが、敢えてやる。 単に時間と金をロスしただけという結果に終わるとしても、それはそれでかまわん。 というか、正直な話そうなることを望んでいる気すらする。 そうなればいらん幻想を全部捨てて それ以外の生き方に集中できるだろう。 一人で生きるだけ生きて死ぬ、ということに納得さえできれば、 きっといろんなことが楽になるに違いないのだ。

ここ数ヶ月、何もかもを放り出して逃走したくなる事が何回かあった。 それは漠然と何もかもがエンドレスに見えたからだ。 しかし今はだいぶ気が楽になっている。 最大のストレス源だった本は、なんぼのびても2ヶ月以内には終わる。 英語も時間制限が年末までで、そこまでには絶対に終わる。 ピアノはもう少し期間が長いが、上達が止まったなと判定すれば終わるわけで、 それが二年以上先になるとは思えない。 さんざんのびのびになって迷惑をかけているあっちの件も、 始まってしまえば止まれないわけで、そうなれば考える余裕はない。 いろいろと当初の目論見からは外れているが、 とにかく、やれば終わるのだという認識は心を楽にしてくれる。

2008年6月12日

6章まで。たった2章でいっぱいいっぱい。明日は良くて1章しか進まない。 なにやら会社の行事があるのだ。背広を来て行かねばならないという話で、 全く面倒くさい。ゲーム屋ごときが世間体を気にしても仕方ないと 思うんだが、まあ上としては普通の会社にしたいんだろう。

ピアノ弾く時間ない。仕方ないのでチェルニーとインベンションに集中する。 ノクターン2は運が良ければ、という程度で良しとし、 シンフォニア1とノクターン1はもう完全に触らない。

新しい指地獄が効果的すぎて困る。 ハノンのように音が動けばどうしても集中力が薄れるが、 「同じ4拍を10回繰り返せ」と言われればさすがに集中できる。 そして脳が焼き切れそうなほど集中してやると、指先が鍵盤に触れる感覚とか、 各関節の角度とかの情報が大量に流れこんでくる。 そうなって初めて「あ、角度ダメだ」とか「あ、今レガート切れた」 みたいなことがちゃんとわかるのである。 これだけつまらないことを平然とやっていられる自分が信じられない。

でも、そりゃ廃れるよなこれ。こんなの子供にやらせられるわけがない。 それにしても、これがチェルニーのどれなのかがわからない。 本物が来ればわかることとは思うが。

2008年6月11日

「京大入るより結婚する方が難易度が低い」。なんて意味のない比較なんだ。 感動した。

4章まで。でも持って帰るの忘れました。なんてこった! 明日こそ6章までは進めたい。

つうか、この作業、生半可じゃない。ほぼ全部の文が再構成の対象になるので どえらい時間がかかる。 ところで、気のせいかもしれんが、なんかギャルゲの文章みたいになってきた。 すごく3行っぽい。文節数が増えないように文を分割したり、 いつもなら点を打たないような所に点を打っているせいだ。 これ、本当に読みやすいのか?もう自分では全然わからない。 とりあえず自分のテンポとはまるで違うものになっているのは確かである。 短い文と長い文のバランスでリズムを取っている感じが私にはあるのだが、 全部の文が短いのでなんか眠くなる。すげえ不安になってきた。 あと、ページ数が増えてる。100ページあたり20ページ増えた。 この比率で増えると900ページになるんだが、いいんだろうか。

うーん。まあいい。とりあえずこのまま最後まで行くしかない。

今日進まなかったのは、部長の誕生日を祝うイベントの準備に参加していたからだ。 ああいうしょーもない事を真面目にやるあたり、いい部署だと思う。 音楽の部署の人に混じって誕生日の定番の歌のゴスペル風アレンジを歌った。 もしかして、歌ったの1ヶ月ぶりくらいじゃなかろうか。いや、もっとか。 そしてこのままなら今週も無理。 やばい。歌もヤバいが、あっちもヤバい。 完全に校正をナメていた。 どうにか20日までに今の作業を片づけて、 待ち状態に入らないと確実に無理になる。

そうか。こうやって普通に文章を書いていて気づいたのだが、 点を打つって面倒くさいんだ。だから普段は可能な限り点を打たずに 読める文章を書くように体が最適化されているのだろう。 なんて一文も本に書くなら全然違う形に直してしまうはずだ。 うまく収まらない場合は修飾的な文節を省いてしまったりするので 内容そのものは同じでもかなり印象が変わってくる。 確かに無駄が削ぎ落とされるので論理的にはなるし、 短くもなるし、多少読む力がなくても誤解はしにくいだろう。

良し。27章とあとがきだけは普通に書こう。あと、 脱線的な内容がページ規模で入る個所がいくつかあるが、 そこも普通に書こう。それ以外はこの調子でギャルゲ文体で行く。 あれはあれでリズムが取れるようになるかもしれん。 新しい地平が見えてくればそれはそれでアリだ。 文章の長さの振れ幅を小さくしても、うまく設計すればリズム感は出せるはずである。 自分の文章の書き方を見直す良い機会として利用しよう。

2008年6月10日

3章までしか進まなかった。しかしコツをつかんだので次からは速いはず。 要するに点を追加された時にすることはそれを受け入れるか拒否するかを 悩むことではなく、 その文を二つに割ってしまうことなのだ。 節の分割については周辺の構造を丸ごと見直せば一応の落とし所が 見つかることがほとんどである。 それで対処できないところはまた改めて考えればいい。 というわけで3章はそこら中が豪快に再構成された。

でもまあ、こういう再構成は当然時間がかかるし、 変更が大きいのでもう一回校正をせねばならない。 でも仕方ないわな。この路線でバンバンやる他ない。

今日の進みが遅かったのは、ミーティングがあったのと、 入力モジュールを改造した影響でバグが出ていてそれを直すのに手間取ったのと、 ボンバーマンもどきの絵素材が上がってきたのでそれを入れこんで スクリーンショットを更新する作業に時間を食ったことによる。 明日はそういうのはないはずだが、明日は明日で 別件があるのでやはり時間は取られそうな気がする。 でも一日1章では話にならんわけで、明日は最低3章は進めたい。

「10行に一回は見出し」という校正の基本コンセプトは 今はまだ可能だが、後半はほとんど不可能になるのが目に見えている。 数学が入ってくるともう絶対に無理だ。1ページに一回、 という制限ですら辛い気がする。まあそこまで行ったら改めて考えるが。

早く本を片づけて掃除したい。あの生き物がいる。そこにいる。

2008年6月9日

シンフォニア。これは脳の改革がいる。楽譜通り指を動かすことは いずれできるだろうが、それを待っていては効率が悪すぎる。 脳を3声にするのが先だ。 しかし真面目にやるのはインベンションが片づいてからにしよう。

ハノンのかわりに始まった新しい指地獄だが、どうもチェルニーによるものらしい。 最初のうちは2小節ごとに繰り返し指定があり、 本当にどうしようもなく指トレーニングな代物である。 調べてもさっぱり出てこないし、すでに日本では売られていないものだそうだ。 先生が学生の時にはメジャーだったというが、廃れるのもわかる。 この地獄っぷりはハンパではない。だが、 単調であるということは、弾けて当然ということでもある。 これができたからといって音楽になるとは思えないが、 こんなものもできないようでは音楽にはならないだろう。 だから真面目にやってみる。

相互リンクの申し込みがあった。すでにこのサイトは死んでいるし、 そもそもリンク集などないのでお断わりしたが、なんというか懐しい響きである。

校正祭。だが、今日はあまり進まなかった。 節を割るべきか割らぬべきかでえんえん悩み続けているからだ。 とりあえず2章までやったものを上げたが、 読み直してないので今日のは仮。明日は4章まで片づける。

考えるのが面倒くさくなったので、「づつ」は全部「ずつ」に置換した。 この置換は一方向性なので、逆変換はできない。

2008年6月8日

ピアノ。念願のシンフォニア突入。でもインベンション15が終わったわけではない。 チェルニーは進まなかった。

サイモン・シン「暗号解読」。大層面白かった。 私はフェルマーの方が好きだが、本の出来はこっちの方が上だろう。 私がフェルマーの方がいいと思うのは、 私が純粋数学にどうしようもない憧れを持っているせいで、 出来の良し悪しによるものではない。 普通は暗号の方が面白く思えるだろう。 政治や軍事が絡んできて話が大きくなるし、問題が身近だということもある。 しかし、純粋数学は役に立ちそうもないからこそ面白いのだ。 役に立たないものにのめりこむ人間の生き様に憧れる。

全く違うものを作るなら続編と言わなければいいのに、 と思うが、続編として作らざるを得ない事情はあるし、 全く違うと言ってみても本当に全く違うわけではない。世の中難しい。

続編商売が支配的になる理由がアイディアの枯渇だと考えるのは 負けた気分だ。もしそれを認めたら全ては終わる。 もう少し楽観的に考えて、アイディアを形にする勇気が出ないからだとするならば 必要な勇気を減らしてやれば良く問題ははっきりしている。必要な勇気を減らすには、 形にするのに必要な時間と人を減らしてやればいい。 しかしこの考えは根本から目を逸らすのに利用されやすい。 安く作れるようになった時に本当に面白いものが現れるかなんて 誰にもわからないのだ。たぶん、金がかかるからできないは言いわけで、 やっぱりアイディアが足りないのだと思う。 でもそれはそれとして金がかかりすぎているのは確かなわけで、 まずはそれをどうにかしたい。

しいたけ、悪くない。

かつおぶし、うまい。

今日は校正対応祭。一箇所一箇所レスを書きつつ直してたら、たった60ページちょい 分で丸一日かかってしまった。しかし逆に言えば、 これを10回やれば終わるということでもある。 にしても、何回直しても直せるところはいくらでも出てくるな。 一回ループが回る度に修正個所が半分になっていって収束する、 というくらいのイメージでいたが、理想と現実は違う。

私の文章は点が少ないようだ。しかし文が長いまま点を増やすことは どうやってもできない。 私の印象では点は文を構成する一番大きなブロックの境界にしか置けないように思う。 例えば丸までが二つのブロックに分かれているとすれば、点は一個しか置けない。 そのブロック内部がいかに細かく分かれていたとしても、 深さ1のノードの区切として点を使うならば 深さ2のノードの区切としては点はもう使えないのである。 ((ab)(cd))という文においては((ab)、(cd))と点は打てるが、 ((a、b)、(c、d))と打つと階層構造が壊れる気がして打てない。 だからそういう時は文を分割して((a、b)。(c、d)。)とするしかない。 というわけで、今日はかなりの数の文を途中で割った。 こんなに真面目に点や丸について考えたのは初めてかもしれない。

これは段落や章、節の割り方にも同じことが言える。 私が章や節を割る基準は内容が一つながりかどうかで、 元々長さとはあまり関係がなかった。 しかしそのために1ページ丸々文章という場所がどうしても出てくる。 コードを挟んだり図を挟んだりしてゴマかしはしたが、 長いのは確かだ。しかしそこで下手に割ると伝えたい意味がズレてくる。 10行ごとに見出しが入るくらいが良い、とのことだが、 私はどうもそういう本を読んだことがないらしく、 自分でやろうとするとどうにも感覚がつかめない。 これは大変だ。

文章を読むこと自体が苦痛、という人に私の本を読ませるのは現状のままでは 極めて困難だ。そういう人にとっては説明の質や内容以前に 「長い」という事自体が障壁になる。 そういう人が短いエレガントな説明を理解する力を持っているならば 単に私の本でなく他の本で勉強すれば済むだけの話なので問題ないのだが、 もしその力がないのだとすれば、そういう人は私の本の対象として 考えるべきだろう。しかし、それ、可能なのか? 段落の長さが障壁になるような人に対する本を用意するのに、 私という人選は根本的に間違っているのではないのか? でもできるだけのことはしてみよう。

会社でアニメを見るのはもうかなり無理っぽい。 今まで黙認されていたこと自体奇跡のようなものだったので、 まあ仕方ない。昼休みは一回帰ってくるというのもアリだな。 走れば4分で着くわけで、1話見て20分ピアノを弾くくらいの余裕はある。 ただ、夏の昼間に外に出るのは嫌だし、 仕事時間が減るのも困る。 アニメを見ているとは言っても、 あまり真面目に見る必要のないものを画面の端に小さく映しながら 仕事しっぱなし、というのが常で、 昼休みを休憩だとはまるで思っていなかった。 と考えると、もう面倒くさいから昼休みなんてなかったことにして そのまま働いた方がマシな気がする。

帰ってきていろんなことを考え始めると途端に世界が灰色になる。

文章を読む時、私は脳内で音読している。点や丸の位置、段落割りは その音読のリズムで決まる。 だから、純粋に視覚的な見地から点の場所や言葉の選択をすることができないのだろう。 書き言葉は話し言葉とは違うのだから、 見てわかりやすいならば聞いてわかりにくい言葉であっても問題なく使っていい はずだ。音読みの熟語をバンバン入れても書いた文章なら問題ないし、 変にひらがながつながるよりずっと読みやすいに違いない。 しかしどうも私はそうは思えないようなのである。 これはもしかしたら大変な欠点なのかもしれない。

表記ゆれの問題についても考える。 例えばある場所で「読み込む」と書いたとして、別のまたある場所で「読みこむ」 と書くのはたぶんまずいこととされている。 それはたぶん、その数文字を一つの記号として束ねて読むことを阻害するからだ。 「読み込む」という画像に対して反応して「読み込む」の意味を 出してくるように脳を慣らした後で、急に「読みこむ」が出てくると 対応が遅れてしまうのだろう。私はローカルな周辺の文字分布 だけで決めていたために、全体を通した統一をまるで考えていなかった。 漢字率を調整するためだけに平気で表記を変えていたような気がする。 しかし、本当に統一せねばならないものなのかどうかは未だによくわからない。 「難しい」と書くか「むつかしい」と書くかは文脈依存ではダメなのだろうか。 何か文章の書き方についての本を読んだ方がいいのかもしれない。 一人で考えても全然わからない。

かなづかいの問題もある。「づつ」と「ずつ」は今まで 3人以上に指摘されているが、なにか納得できなくて現状「づつ」で通している。 「ずつが正しいです」とどこぞのURLつきで指摘してきた人もいるが、 それでも納得できない。大抵「正しい」以上のことが書かれていないからだ。 しかし、世界の大半が「ずつ」が良いと思っているならば そうすべきだ、という考え方はあっていい。 この本は世界への奉仕なのであって、私の自己表現ではないのだ、 という前提に立つのは大切なことである気もする。 しかし、やっぱり今のところ納得が行かない。 これも後で調べよう。これについて論点が整理されている資料はないものか。

2008年6月6日

安ワインは料理に使うなら十分だが、たまに飲むとやはり妙だな。 飲めなくはないのだけれども。 それにしても何故720mlのものを400円で売れるのかがわからん。

やっとインベンション15が面白くなってきた。面白くなるのに時間がかかる 曲ほど最終的により面白くなるのでうれしい。 まあなんにせよ今週終わることはないな。シンフォニア突入は来週までおあずけだ。

バッハはインベンションとシンフォニア各15曲に加えて平均律48曲を制覇して やっと本格的な曲に入れるというものらしいのだが、 さすがにそこまでは行かんよなあ。 まあweb見て回ってると 「うちの子は小学校で平均律を終わらせて云々」 みたいな自慢ママの文章が山ほど出てきてへこむわけだが。 どうせ弾けてないに違いない。指だけ動きゃいいってもんじゃないんだこれは。 指すら動かない状態ではどうしようもないのだが。

サウンドのストリーミング対応を済ませた。ここまで来ればOgg対応も容易だが、 本には他人のライブラリは入れられないのでやらない。 ちなみにファイルローダがじわじわ読むのに対応していないので ディスクからのストリーミングはできない。 あくまでサウンドバッファがストリーミング対応しているだけ。 しかし、ファイルからチビチビ読むと他のロードが遅くなるし いろいろ面倒もあるので、結局圧縮したものを丸ごと読んでから チビチビ展開する事になる。であればなくてもいいだろう。

FFTやるかと思ったが、組めるけどわかってない状態であることに気づいた。 このままじゃダメだ。普通にフーリエ変換を書いていろいろやって理解した上で 高速化するにはどうすればいいかを一旦自分でそれなりに考えて、 それで初めてFFTのやり方を理解できる。

これでとりあえずコードとしてはだいたい揃ったのか。 校正が来たのに対応しつつ「あわよくばやりたかったこと」を ちらほらやるくらいだな。

2008年6月5日

つい釣られて野菜を買ってしまった。明日の朝は何か作らねばならぬ。

つうか、今日夕飯食ってねえって。そういやどっかで食って帰る予定だったんだよな。 さっぱり忘れてた。またパスタか。きのことほうれんそうがあるので ちょっと料理っぽくはなる。 でも食わないで寝てもいい気もするな正直。

スパゲッティのことをパスタと言うのは間違いだが、 スパゲッティはパスタなわけで、スパゲッティと書いてあるところで パスタと言ってもほとんど間違いではない。 それに、スパゲッティと書くのはかなり面倒くさいのである。

知ってる人に読まれてると言われると、妙に恥かしい。 言われようが言われまいが読まれている事実に変わりはないというのに。

k-d treeは毎フレーム作っても行ける。 1000個の球を2msで判定できるなら十分だ。 ちょっと本文書き直そう。 動的なものに使う方がプログラムも簡単でメモリも食わず、 しかもちょっといじればスレッドを分けて並列化もできる。 まあリニアーというわけには行かないが、4並列化くらいは簡単にできるだろう。 というわけで、採用。せっかくなので大規模な地形と、 大規模な数のオブジェクトがどうこうするゲームっぽい何かを 作ってサンプルとして入れてやろう。 丁度別件の実験にもなる。やっとどうにかなる目処がついてきた。

音声圧縮入れないとマズいよなあ。 音声ファイルがデカすぎだ。 サンプルのwavがガッツリ容量を食っているし、 これでゲーム作って配ろうとしたらここが 絶対ネックになる。ストリーミング対応だけしとくか。

贅沢言えばテクスチャの非可逆圧縮も欲しいんだがな。 画像容量食いすぎだ。

音にしろ絵にしろ、素人考えでDCTハフマンしたくらいで 1/4くらいまで減らないものかな。 ちょっと試してみるか。 確かFFTは昔やったし、ハフマンも作ろうと思えばすぐ作れるだろ。 そこまでなら特許もないに違いない。

今日は料理になる下限を探ってみることにした。 パスタゆでる。刻んだチーズをかける。以上。 うん、これは料理ではないな。案外食えるけど。 これに納豆と醤油をかけたらもうそれでオッケーな気分になるかもしれん。

干ししいたけと昆布をパスタに使う方法はないものか。余ってるんだよな。

2008年6月4日

空気読み力テストとやらでまあすげえことになっていたわけだが、 設問があからさますぎて自己申告だと誤差が大きくなりそうなので 気にしない。 私は自分を空気が読めない人間であると思っていることが 必要以上に評価を引き下げているようにも思う。 私は12点だが、容赦なく最低評価をつけていたからだろう。 普通の人は何かにつけて「中の下」を選ぶので、 統計が30点あたりのところにピークが出来るのも道理である。

まあ、私が空気読めないことに違いはないのだがな。

メシ屋でガッテンを見ていた。今は豚肉をレアで食ってもいいらしい。 寄生虫が云々は昔の話なのだそうだ。 ただし表面は細菌が繁殖しているので焼けとのこと。

本業はとりあえず片づけた。今日の更新はほとんど24章。 あと指摘された部分の修正。

桁落ちのことが少しづつわかってきた。やはりあれは体で覚えねば全然ダメだな。 しかし実際にコードでどう書けばいいかは結構難しい問題で、 何もしない方がマシに動くことも珍しくない。

明日は動く方をやろうかと思ったが、ずっと果たせずにいるアレを片づけよう。 そう時間はかからないはずだ。たぶんだが。

基本的にはもう本はレビュー待ち状態だが、 24章の議論の歯切れの悪さはもう少しどうにかしたい。 「こうやればだいたいオッケー」と言いたくても言えない状態にあるのが もどかしいのだ。 しかしそれをどうにかするには私がもっと経験を積む必要がある。

ピアノ、先が長すぎて気が遠くなる。そんなに同じことをしていられるのだろうか。 しかし今の感じだとやめる理由は何もない。 チェルニー30が終わったあたりで一回考えようと思っていたが、 たぶん何事もなくチェルニー40に突入するだろうし、 それくらいできないと最大の目標である「適当にピアノを弾けるようになる」 は到底果たせないことがはっきりしてきている。

ピアノの即興演奏の難易度はヴァイオリンの比ではない気 がするが、考えてみればヴァイオリンの即興演奏も十分難しい気がしてきた。 ヴァイオリンで難なく弾けるものをそのまま ピアノで弾けるか、と考えてみると到底無理なわけで、 単に私のピアノが下手なだけと考えていい気がする。 ヴァイオリンはパガニーニのカプリースまでやっていたわけで、 それはピアノで言えばショパンエチュードくらいにあたるはずだ。 とすれば、ショパンエチュードを始めるくらいにならないとダメだろうという ことである。どう短く見積っても2年以上先の話で、そんな未来のことなど 考えても仕方ないのだが、しかし2年という年月は私が生きていれば 確実に来るものなのである。

オリンピックなんてやったことのないところを優先すればいいのにと思う。 設備やら何やらでいろいろあるとは思うけれども、 あれはいろんなところでやることに意味があるものなのではなかろうか。 やってない国はいくらでもあるのだし。

2008年6月3日

昨日のスパゲッティをゴーダでなくパルミジャーノで作ってみた。 チーズの量はだいぶ少なくしたがこちらの方がうまい。 質の問題もあるが、単純に単位量あたりのアミノ酸量がそれだけ多いからだろう。 そして、ソースを作っていてふとわかった。 かき混ぜるから変性したタンパク質がからまってゴム状の塊になるのだ。 かきまぜずにアミノ酸が液相に移るのを待った方がいい。 そうすれば小さな固まりのままで終わってくれる。 ゴーダも理論上十分小さく切れば同じことができるはずだが、 やらわかすぎてそれは面倒だ。

フェルマーの最終定理、という本を読んだ。 nが3以上の時x^n+y^n=z^nとなるxyzはない、というものだが、 300年以上証明されずに来てつい10年ほど前に証明されたのである。 そのへんの話をほとんど数式を用いずに人間ドラマと織り混ぜて説明した 大変いい本だ。数学を勉強したくなってくる。 もちろん私の脳は純粋数学をやるには粗雑すぎるわけで、 やるにしてもすぐ使える道具としてしか扱わないだろうが。

大学の時、数学科に進んだ友達がいた。 そいつは「私の研究が社会の役に立つなんて絶対嫌」と言っていた。 当時はさすが数学を志す奴はモノが違うなと関心したが、 そんな台詞は言ってみるだけなら誰でも言えるよなあと今は思う。 単にいきがっていただけなのか、自らの感覚に基づいて 素直な言葉を出しただけなのかは今となっては知る術もない。 しかしそれはそれとして、変な奴だった。

彼、彼女という言葉は大変不便だ。彼が男女を含めて使える言葉だったら どんなにかいいだろうか。確か明治まではそうだったはずで、 sheの訳語として彼女という言葉が出てきてからおかしくなったのだろう。

昨日はいろいろあってあまり進まなかった。 今日も本業を片づけねばならないし、 この前作ったk-d treeに何か強烈なバグがあるので直さねばならない。

数学的に証明された事は絶対だが、証明が正しいかを確認する作業は絶対ではない。 これからの数学はそのあたりはどうしていくのだろう。 数ページの分量でエレガントに証明されるような事柄はもう数学にはあまり 残されておらず、どんどん証明の正しさを判断するのが困難になるのではなかろうか。

これはプログラムも似たようなもので、 そのプログラムが正しいかどうかを確認する作業は極めて困難である。 プログラムの場合はそれが不可能であっても現実的にプログラムが有用 でありさえすればいいので問題は少ないが、 しかし今回のようなバグが出る度にいつも思う。

バグのチェックは理論上「全ての場合分けについてチェックする」 ことだけでなく「全ての入力についてチェックする」ことが必要になる。 「AならばB、CならばD」というプログラムにおいては前半と後半の両方を テストせねばならないが、実際にはAもCもなんらかの集合であり、 AやCの要素全てについてもテストせねばならない。 Aが「全ての整数」だったりすればもうお手あげだ。 今回のk-d treeはそれに比べればはるかに小さな場合の数しか持たないが、 「全てのfloatで表せる数n個を三角形をなすように並べた順列 全ての集合」であり、有限ではあるが実質無限である。前半だけで 2の32n乗あるわけで、宇宙が終わってもテストは終わらない。 入力となる要素をグループに分けて全てのグループの代表要素について 正しく動くことを確認すれば普通は良しとされるが、 グループ分けをしくじる可能性は否定できないし、 グループ分けをして大丈夫かどうかはまた別の問題だ。 例えばfloatの場合特殊な物を除けば全て実数であることに変わりはなく 特にグループ分けをする必要はないはずだが、 一種類の入力で動いたからといって大丈夫だとは誰も言えないだろう。 この場合は計算誤差の問題が大きい。0.1+0.1が0.2にならないコンピュータの 性質のために式変形だけでの証明が不可能なのだ。

やればやるほど思う。doubleが十分速いならそれでいいじゃないかと。 誤差由来で起こるバグの発生率はdoubleにすることで ほとんどゼロ同然にまで下がる。==や!=を使う愚さえ犯さなければ まず問題は出ない。

せっかく早起きしたのにこんなものに時間をかけていては意味がない。出よう。

丸一日誤差について考えて、「もうゴールしていいよね?」 という腑抜けた結論に至りかけたところで、おそろしく根本的な所で 間違っていることに気づいた。誤差とかいう問題じゃない。明日やる。 それにしても場合分けの数が多すぎて死にそうだ。 空間分割の類は動かない図形に適用するのは簡単なのだが、 移動する図形に対して十分な性能を出そうと思うととんでもなく面倒くさくなる。 移動の始点に近い領域から順に判定にかけていくようにノードの辿り方を 工夫せねばならないからだ。とりわけ長い線分の判定を耐えられる速度で やるにはそこをかなり賢くしないとまるで実用にならない。

mixiになんだかわからないメッセージが来た。 女性からのメッセージで、たどってみると 似たような名前で似たような作りで似たような顔写真が貼られた ページがたくさんつながっていた。仮にこれが何らかの商業行為だったとして、 一体どういうしくみで何をしているのだろう。

そういえば前にも脈絡なく女性から メッセージが来たことがあった。 そちらは辿ってみるといかにも普通の人につながっていたし、 日記等々もそれなりに生活臭があった。 spamではあるまいと思って普通に丁重かつ無難な返事をしたのだが、返答はない。 あれは何だったのだろう。mixiというのはそういうものなのだろうか。

mixiの足跡を見てみた。一段辿ると知り合いっぽい人がつながっていた。 ということは、この人も知り合いなんだろう。 にしてもmixiは本当に放置に近い状態だというのに 定期的に人が見に来ているのが解せない。 というか、無駄なクリックをさせているかと思うと申しわけない。 だがあっちの日記には何かを書こうという気がまるで起きないのだ。 なんというか、mixiの日記はここよりももう一段しょーもないことを書く ためにある気がする。あそこに長文を書くのは 空気が読めてない人と思われそうで怖い。 もちろん長文をガシガシ書きこんでいる人もいるのだが、 そういう人はちゃんと人に読ませることを意識していたり、 それを期待している人の存在を認識した上でやっているように見える。 私だってたまには「日記にコメント欲しいなあ」などと思うわけだが、 残念ながら思うだけでどうにかしようとまでは思えない。 というか、たぶんコメントが欲しいなんて思うのは一時の気の迷いで、 もしそういうことを毎日考えるようになったらすぐ疲れてしまうのだろう。

こうして一人でいる時に横に人がいたらいいのにと思うことは最近多い。 しかし、これが「コメントが欲しい」というのと同じく 単なる一時の気の迷いでないという保障はどこにもない。それが怖すぎる。

いかん。フロ入ってピアノ弾いて寝なくては。

2008年6月2日

白ワイン、にんにく、ゴーダチーズで作ったスパゲッティ汁。 味はいいがチーズのダシガラがゴムのようになって食感が悪すぎる。 もったいないのでがんばって食ったが、人に出すならこの ダシガラは捨てねばならないだろう。 このゴム状の物体をうまく液体に分散させる方法はないのだろうか。 かき混ぜればかき混ぜるほど大きな固まりになる。 変性したタンパク質がからまっているからだろう。 であれば水分が多くてもあまり事態は変わらない。 やっぱりゴーダはそのまま食うか焼くかのどちらかということか。 パルミジャーノのように粉になるなら常温で疎水性の溶媒(クリーム等)に溶かすことも できてカルボナーラのソースのようにもできるのだが、 ゴーダは粉にはならない。

昨日は地形との衝突検出モジュールを作った。動いてはいるが、 バグがない保障はない。そしてその時に得られた知識を22,24章に反映させた。 今日はたぶんいろいろあって進まないが、 動くもの用の衝突検出モジュールを作る予定。

モーツァルトは綺麗すぎてあまり好きではないのだが、 昨日丸一日聞いていたら脳内でモーツァルト以外が鳴らなくなってしまった。

夜PCに触れないのは不可能。メールの返事を書くのだけは なんとしてもその晩のうちに終わらせねばならないからだ。 そこはレイテンシを最小化せねば効率が悪すぎる。 しかし、フロに入った後は不可としよう。 というわけで今日は終わり。

2008年6月1日

チェルニー30は20まで終わり。今週は21,22。 ノクターンは1もやってこいとのこと。指は変わらず。

関数内でstaticなしのconst float PI=3;とか 書いたらスタックに積まれてておどろいた。 配列でも一個づつ積んでいやがる。 最適化を有効にすればも削られるが、しかしデバグ版で遅いのは気持ち悪い。 staticと書けば積まれなくなるのでそうしよう。

ペペロンチーノごはん。味が足りないし、重すぎる。

禁を破って夜PC。データ更新しました。zip、pdf単体共に上げてあります。


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