日記

2003年10月31日

2声インベンション8番追加。見た感じ残りの8曲に難しいものはない。 とにかく15曲をざっと体験して、その後しばらくはそれを練ることにしよう。 それにしても3声はケタ違いに難しそうに見える。 12指でトリルをしながら345指で別のメロディを弾くような 無茶がそこかしこに出てくるのだ。よほど手が出来上がっていなければ 到底無理である。これまでの上達の速度から考えて、 12が固定された状態で4を自由に動かせるようになるにはまだ 相当時間がかかるだろう。これから1年間ハノンを弾き続けても まだ満足な水準には至るまい。この半年の上達はけっこうなものだと思うが、 しかしこの先の道のりを思うとまるで喜べない。

パンの生地を昨日の4倍ほど仕込んでみた。 でもたぶんあっという間になくなる。

16.0%。すでに標準的な値まで減ったわけだが、目標はまだまだだ。 問題は数値ではない。

WEBで調べながら一日中アセンブラ。 関数を呼ぶということがどういうことなのかがようやくわかった。 スタックに入れてる様をきちんと追ってみると そんなにややこしいものでもない。 インラインアセンブラは少々ややこしいが、 書いたコードとできたコードを比べてやると何がどうなっているのかが だんだんわかってくる。 そういうわけでデバッガで表示されるアセンブラの列を見てもなんとも思わなくなった。 もっと前にしっかりと勉強しておくべきだったのだが、 あの時はなんとなく動いていたのでつい放置してしまったのである。 最適化したら狂うとか、インライン化したら狂うとか、 そういう事態を防ぐためにも今ここでしっかりと勉強しておかねば。

引数がどこに入っていて返り値がどこに入っている、 というような約束事がわからないとアセンブラを使いこなせない。 コンパイルされたコードを眺めているとなんとなくわかるが、 なんとなくはマズいだろう。 関数を呼ぶ前にどのレジスタをバックアップしないといけないのかとか、 関数の中で使っていいレジスタはどれなのかとか、いろいろとわからないことがある。 たぶんどこかのマニュアルに書いてあるのだろうから今度探す。

それにしても知識をWEBで公開してくれる人がいて助かった。 技術力に優れた人のWEB日記は本当にありがたいものだ。 メールでお礼を言うべきかと思うくらいありがたい。

マリみて「ロサ・カニーナ」。 海老名がいるなら蟹名もいていい、という理屈には衝撃を受けた。 こんなふうに論理展開に驚かされることがたまにあって、それが楽しい。 ところで、ここまで読んできてわかったことがある。 この作品は盛り上がらない。盛り上がると思っても必ずすかしてくる。 後半の話などはそれが顕著で、 あれだけいかにもドタバタになりそうなお膳立てをしておいて、 全く盛り上がらない。むしろすごいとすら思う。ありえない。 前半も選挙といういかにもバトルな雰囲気でありながら 全く盛り上がる場所がない。にも関わらず、読んでいて楽しい。 笑いこそしないが、微笑みっぱなしである。 最近は白薔薇さまがいい感じ。 そういえばいばらの森は令さまの引きずられっぷりが楽しかった。

しかし平日にも関わらず一日一冊読めるというのはすごいな。 来週中には片づいてしまうのではなかろうか。

明日も練習は1時半から。1時には現場に到着してマリ見てを読んでいる予定。 1時45分くらいには移動します。

2003年10月30日

マリみて、黄薔薇革命。きちんと読ませるようにできている。 そしてぜんぜん疲れない。流行るのもわかる気がする。

小麦粉を買ってきてこねておいた。 全粒粉4体積に対して水1体積、塩少々にオリーブオイル。

朝。生地をのばして焼いたが、今食いたい。我慢。

夢を見た。宴会をするとかで井の頭公園へ向かうのだが、 駅の建造物が凄まじく複雑になっていて全く辿りつけない。 たまに外に出るが明らかに公園などない。 登ったり降りたりを繰り返すうちに周囲はどんどん駅でない何かになっていく。 異常に複雑な旅館のような感じの建物だ。 たまに見える風景はすでに東京でないどこかになっていた。 温泉観光地っぽい街並で、箱根とか長野のどこかとかが 混ざっているものと思われる。しかもいつの間にか土砂降り。 観念してそのあたりの人に「公園ってどっちですか」と聞いてみると、 「辿り着こうと思わなければ辿り着けるだろう」 と言われ、不思議と納得がいった。その後雨に打たれてたたずんでいたら目が醒めた。 最初の駅に吉祥寺と書いてあったこと以外は全て間違っている。 夢の中ですでに「しろー駄作劇場」を思い浮かべていたあたり、 おぼろげながら支離滅裂さに気づいていたようだ。

マリみて、いばらの森。話そのものはいまひとつ。そんなオチか。 しかし白薔薇さまがかっこいいので帳消し。

脂肪1kgは1.2リットル程度だそうだ。 あと2リットルくらい減ったら見た目に違ってくるはずだが、 一体いつになるのだろう。 さっさとバカにされない体になりたいものだ。

自作パンはやっぱりおいしかった。重量の割に腹にたまる。 大量生産しよう。

腹の脂肪はなかなか減らない。 しかし、全体の量が減る速度が一定であれば いつか必ず腹の脂肪が減る日が来ることは保証されている。焦る必要はない。 むしろ理論上は脂肪の燃焼速度は上がる一方である。 筋肉が増えれば基礎代謝が増大し、強い筋肉はさらなる運動量を可能にするからだ。 食う量が変化しなければ自然と脂肪が減るという寸法である。 理屈通り行くかどうか楽しみだ。

2003年10月29日

タイ産の袋ラーメンをもらったのだが、すごすぎる。 辛すぎだ。涙と鼻水が止まらない。 こういうすっぱ辛いスープは嫌いではないのだが、 あまりに辛すぎた。前食った韓国産袋ラーメンも ここまで辛くはなかったと思う。 ただ、食った後の感覚は悪くない。 おいしいカレーを食った後のようなさわやかさがある。 あまり後をひかない辛さなのがいい。

仕事中ラプソディ。 Power of the Dragonflame。 BGMにしていただけなので音楽観賞とは言えないし、 どの曲がどうかもわからないが、とにかくいい。 気分がどんどん高まってくる。やる気満々。体が揺れる。 力があふれる。 ところで、ある後輩はラプソディ を聞いているとつい笑ってしまうらしい。 やる気満々なのがおかしいのだそうだ。 本気だけは伝わってくるがショボい、というものならば そういう白けた感覚もわからなくもないが、 本気が伝わってくる上にモノの質も素晴らしいとなれば 非の打ちどころはないだろう。 私はそう思うが、たぶんそういう問題ではない。

停滞気味。 たいがいのことは何をどうすればできるかわかるので手を動かすのが面倒くさい。 そうでないことは考えても容易に手が浮かばないので進まない。 それにしても最近ゲームを作っている気がしない。なんでだろう。

2003年10月28日

浅田寅ヲ「すべてがFになる」。森博嗣の小説を漫画化したもの。 シャープな絵柄とコマ割りの力配分が特徴的で、 私が原作を読んで想像していたのとはまるでかけ離れた世界になっていた。 犀川先生はかっこよすぎるし、萌絵はかわいくないし、世津子さんはケバい。 一歩間違ったらジョジョ系と言われかねないようなポーズも強烈だ。 犀川先生覚醒シーンなどはもう圧巻である。 ただ、センス爆発系だけに読みにくい。 わずか250ページで原作を表現するというかなりの無茶をしているせいもあるだろう。

にしても、漫画にするとトリックの無茶さが目立つ。絵的に無理がないか。 原作はそのへんをうまく処理していたかもしれないが、 よく思い出せない。

腹を減らして帰ってくるが、食った直後に練習はできないので 先に練習し、結果フラフラになって食う気が失せる。 寝る前に食わないのはいいことだが、栄養が足りてない気がする。 夜までもつ食料を会社に持ってゆくのが一番いいのはわかっているが、 炊いた米を十数時間後に食うのは危険度が高い。やはりパンか。 なお、夕飯を食いにいくとか買いにいくとかいうのは却下だ。 一番はかどる時間帯に仕事場を離れるなど論外である。

2003年10月27日

プラネテス2話。あまりに教科書通りなので驚きはないが、熱いのは好きだ。 悪くない。

生卵はおいしい。しかし、卵が呼吸するためか、 冷蔵庫に入れておくとすぐに変な匂いがついて台無しになってしまう。 買ってきた直後に食う卵はこんなにおいしいのに。

物を観賞しても反芻する時間がない。時間を有効に使おうという 意識が過剰すぎるのだろうか。 今日はCROSS†CHANNELをやりなおしながらいろいろ考えてみようと思っていたのだが、 今日もやはり10時帰りで、二種類練習したらもう日が変わる。

「完全フルボイス、ただし主人公は除く」。 完全とフルの意味は一体何なのか。

2003年10月26日

クロスチャンネル。ちょっとすごいことになってきたが眠いので中断。 確かにそれ以上はネタバレで言えない。

そういえば何故か後輩と評判のラーメン屋に行くことになって行ってきた。 大岡山のしま坂。魚系のスープに柑橘系の香りが漂うハイレベルな ラーメンである。会社のラーメン部の人々の間の評判はすこぶる良く、 今日一緒に行った彼も非常に高く評価していた。私もおいしさは理解できる。 が、それゆえに良くわかった。私にはあんな高度な味はわからないのだ。 料理から受けた刺激情報を「おいしい」という言葉と関連づけることは できるが、その程度の話にすぎない。 もういいかげん凝りてもいいころだろう。 私の舌はああいう技巧を凝らしたものを味わうにはお粗末すぎるし、 そもそもおいしいものを食うことに大して価値など感じてはいないのだ。 欲しいのは結局のところ話のネタであって、 それは普段嫌っているはずの「人と話す場としての食事」なのである。

その彼と音楽に関する考え方や感じ方について話していたのだが、 これがなかなかに新鮮だった。そして、少しブルーになった。 私は音楽について自分で思っているほど知っているわけではない。

クロスチャンネル完結。 おそらくもう一度この作品に触れることになるだろう。 そうしなければならないと思った初めての作品だ。 ジャンルを問わず、私が同じ何かを二度見ることは滅多にない。 いや、もしかしたら過去にもそう思ったことはあったかもしれないが、 覚えてはいない。きっと寝て起きたらそんなことはさっぱり忘れて 普通に会社に行って普通に仕事をするのだろう。 私はそれを知っているので今のこの気持ちが特別なものだと 信じることはできない。 しかしそれでも、今の私はこれを特別な作品だと思っている。 それが今の私からののメッセージだ。

せっかくだから気づいたこと。 文章を読んでいて思ったのだが、ノベルゲーは私にとって詩を読むことができる 唯一の手段である。文章のほとんどが一行づつ表示されるこの形式は 私にとっては小説というよりは詩に近い。 数行前の文章はもう彼方に流れ去っており、 私の意識が把握するのは今まさに表示されているその一文のみである。 だからその一文をきちんと読むことができる。 普通本で詩を読むと1ページに詩の全体が入っているので、 その全体を眺めて読んだ気になってしまう。言葉が音として入ってこない。 私は数行まとめて文章を把握するクセがあり、 この読み方をする時には文章は音に変換されず文字のまま認識され理解される。 一文が長く論理的に把握せねばならない情報が多い書物を読むには 甚だ便利ではあるが、これは本来感情の込もった文章を読む態度ではないだろう。 しかし、このように一行だけが目に入る時、私はそれを音に変換し、 擬似的に聴覚神経に流して受け取ろうとする。 だから刺さるべき言葉がきちんと刺さる。 私が小説よりもギャルゲーで感動することが多いのは たまたまギャルゲーがそのような読み方で 読まれやすい形式だったからなのかもしれない。思いつきなので実証はしていないが、 音楽の効果が50%、絵の効果が10%、そして残りの40%がその形式による効果、 といったところだろう。 今中原中也の詩を脳内でこの形式で再生してみたが、 なるほど刺さる。私はおそらく機械的に文章を読むことに慣れすぎたのだ。

今回は刺さりっぱなしだった。刺さる言葉が多すぎて、 波は平坦になってしまった。自分が感動しているのかどうかもよくわからない。 現象としては、ただけだるい。何もする気が起きない。 言語化して考えようとしても、圧倒的なけだるさが割って入って思考を 止めてしまう。たまに物理モードの思考が割って入って 「ここの演出どうよ」とか言う問いを発するようだが、黙殺する。 どういう感想文書こうかとか、何かおもしろい指摘はできないかとか、 まあそういうロクでもないことも考えないでもないが、 ただでも最近そういうことに割く気力が乏しい上に 今回はそういう気分にはなれない。

私が脳内で印象を再生する頻度が高い人には是非この物語に触れてもらいたいと思う。

一つ実験をしてみよう。 練習をして帰ってきた後でこの心理状態は継続しているか否か。

そうそう。昨日の練習には一人来た。新しい人だ。 驚くべきことに、どうも間に二人挟まるくらいの関係らしい。 いくら同じ大学とは言え 理学部から工学部に行ってあまつさえセガに行ったバカがいる、 などという噂を聞けるほど私が有名なはずもないので、 おそらく私がいた集団のどれかに関係しているのだろう。 縁というのは不思議なものだ。では一言。 馬歩は足を平行にして尻が出ないように注意しましょう。

実験結果。やっぱり相当薄まってる。汗だくになってハァハァしてるような状態では、 意識して思い出そうとしない限り表層意識にそういう感覚は登ってこない。 残るのは言葉だけだ。だから言葉をもっと大切にしなくてはいけないのだ、 とおぼろげながらにわかった。

CROSS†CHANNEL。「†」の出し方がわかった。skkでは「きごう」を変換すると 記号がまとめて出てくる。あとは「ダガー」にでも関連づければいいだけだ。 そんなことも知らずに今まで使っていたのである。

2003年10月25日

森博嗣「有限と微小のパン」。 四季博士最高。最後の最後まで驚かせてくれる。 トリックにもすっかりダマされたが、 トリックがどうとかいう次元の話ではない。やっぱ科学だ。 身体性なんてクソくらえと言わんばかりに知性万歳。 この世界観が大好きだ。 ところで、最後の最後でヒロインが交代してしまった。かわいそうな萌絵。

軍艦に乗ってきた。ミサイル撃ってた。大砲撃ってた。 飛行機が飛んでた。潜水艦がザブーンと出てきた。もう最高。 沈黙の艦隊みたいな漫画でしか知らない世界が目の前に。 そういえば大砲の発射音はすごかった。 スピーカーが壊れたんじゃないかと思うような突飛な音で、 リアルってのは現実味がないんだなあとしみじみ思った。 それにしても現実味がない。あれで戦争とかするわけだが、 もはや想像の範囲外だ。とりあえず自衛隊はえらくかっこよかった。

なお、なんでそんな経験ができたかと言うと、 会社の人がどこからともなく自衛隊の観艦式予行の チケットを手に入れてきたからだ。10人ほどで行ってきた。 みんな目を輝かせて「うおーこんなの作りこみてー!」 とか言ってはしゃいでいた。たいがいデザイナだったのでなるほどと思う。 自衛隊が大活躍するゲームを作りたいとか言っていたが、 たぶん実現はしないだろう。

明日は2時まで新宿スポーツセンターで待ってみる予定。

2003年10月23日

森博嗣「数寄にして模型」。ロジックばかりでは飽きるだろう と考えてのことかどうかわからんが、今回はかなりムチャ。 オタクなネタも多く少々新鮮だ。異常な人描写も奮っている。 そういうわけで話としてはかなりおもしろかった。 ところで、ここのところ萌絵が調子に乗っているのが目につく。 今回は本気で腹が立った。 おまえは助けても助けてもさらわれるどこかの姫かと言いたくなる。 ここのところ犀川先生が萌絵に完全にイカれてしまっているので、 誰も止める人間がいない。萌絵の暴走はひどくなるばかりである。 それがこの作品のおもしろさなのでそれでいいといえばいいのだが、 きっと萌絵が近くにいたらムカつくだろうなとは思う。 もちろんムカつきつつも目が離せないしあこがれるわけだが。

森博嗣を読んでると元気になってくるのだが、この元気は曲者だ。 「オレはオレだ。人に無理して合わせてなんになる」。 という考えがだんだん大きくなってくるのである。 しかし、ここのところ自分の目標以外のことに使うエネルギーが 大きすぎていたような気はするのでちょうどいいのかもしれない。

16.3%を記録。年内に14%台を見ることができるかもしれない。 外見上の変化は見られないが、この腹についている脂肪は 全身についた脂肪のほんの一部なのだと信じるしかあるまい。 しかしそれでは一体どこの脂肪が落ちたと言うのか。 単なる測定誤差という可能性も否定できない。

メシに誘われて、気がついたら男女関係の話になっていた。 といっても、今日は三人で私以外の二人が私を緩衝材として ちょっと真面目な話をする、という感じだったので、 一人だけ疎外感を味わったというわけではない。 むしろ興味深い。しかし、それで私がどうなるわけでもないというのがいつも問題だ。

研究室の夢を見た。4年生の時のと院生の時のが絶妙に混ざって異常なリアルさだ。 自分は研究者になれるのか、なりたいのか、などと悩むあたりまでリアルだ。 ただし、研究材料らしいトマトを求めて八百屋を回っていたのが謎である。 それにしても思い返してみると、院の時の研究室は女性が多かった。 などと考えてしまうのはあんな話をされた後だからか。 恋愛なんてフィクションだ。 しかしもしそれがリアルになる日が来るならば、 できるだけ早く来てほしいものである。

2003年10月22日

森博嗣「今はもうない」。最後までダマされていた。 かなり最初から何か変だとは思っていたが、 ついにそれ以上考えることなくダマされ続けた。 今までのものとは毛色の違う作品で新鮮だ。 これで萌絵シリーズもあと二冊。

体重は減っていないが、体脂肪率は減っている。 ということは、筋肉がついているということだ。 放っておいても消費するエネルギーが大きくなるわけで、 毒の沼地を歩くように脂肪が減ることになるだろう。

2003年10月21日

プラネテス1話。なるほどよく出来ているという評判はわかる。 しかしあまりにもパターン通りの展開で一回も驚かなかった。 見てて楽しくない。なにより主人公が嫌だ。 しかし、せっかくだから3話まで見てから判断を下そう。 人物が見えてきたら面白くなってくるかもしれない。

ちょっとづつ足が上がるようになってきて、ちょっとづつパンチがマシになってきた。 そして、これからちょっとづつ腰背と脚が強くなる予定。

2003年10月20日

今年もギャルゲー歌採点企画に参加している。 ここんところ仕事中のBGMはそれ。 だいたい掴めたので次の日曜あたり採点します。

skkinputを新しくしたついでにマニュアルを読んでみたところ、 「くれないわかば→紅若葉」という妙な匂いのする例が説明に使われていた。 調べたらエタメロのキャラだった。どうやらダメな人が作ったソフトらしい。 他にも「ちょっぴりどじでとろいけど、とっても心優しい娘なんですよ」 とかいう例文があって危険な匂いがする。

2003年10月19日

学校を出よう3。5文字で感想を述べよと言われれば「茉衣子萌え」以外は ありえない。前振りとなる事件と本題の事件の量的なバランスや移行の仕方等に 問題があるように感じられるが、 茉衣子大好きである私にとっては些細なことである。 コミカルな中に、他人の見た自分とは何か、 というような問題意識を表現しているあたりも好きだ。 あまりにあっけなく盛り上がりに欠ける結末もそのあっけなさゆえに良い。 2巻と違って完全に1巻を読んだ人間以外お断りな状態なのも潔くていい。 ともかく、特におもしろいとは思わないが、好きだ。 しかしそうは言うものの、もう少しテンポや構成には気を使ってほしいとは思う。 蛇足の感が拭えないエピローグや、序盤のキャラ描写というには 冗長な漫才会話などはもう少しどうにかしようがあったのではないかと思う。

茉衣子くんや犀川先生のように強く正しく生きていきたいと思います。本気で。

三田二郎に行った。そして負けた。小ぶた(普通に言えば並チャーシュー麺) を食べきれなかったのだ。しかも麺でなく肉をひときれ残してしまった。 屈辱である。しかし、あのときそのひときれを食べることができなかった、 ということには絶対の自信がある。 その肉を口元に運んだだけで全てをリバースするということを私は知っていたのだ。 だから後悔はしていない。ただ悔しいだけである。 思えばここ数年においてそこまで追い込まれた事はなかった。 吉祥寺の二郎で大ダブルを食べた時ですらここまでは追い込まれなかったと思う。 私の食が細くなっているということはあるだろうが、 それでも三田の小が吉祥寺の大に匹敵することは間違いあるまい。 なお、味はおいしかった。ような気がする。 実際半分くらいまでは本当にモリモリと食べていたのだ。 ただ、そのおいしさは大量に食うにはあまりに主張が強すぎたし、 そもそもその量が尋常ではなかった。 550円であんな目に逢えるなんて普通に考えたら絶対にありえない。 ところで、夕方くらいまでは当分行かないだろうなと思っていたが、 今はすぐにでも再戦を申しこみたい気分だ。 ただの小にして油なしにしてもらえば十分に勝負できるだろう。 ただ、腹がこなれるまでに5時間以上かかったことを考えると、 運動前にあんなものを食うのは絶対に間違いである。 平日に休みでもしない限り食えないかもしれない。

ゆめりあの漫画をみかけたので買ってきたが、すまん、読めん。 漫画になってない、と言ってしまうのは了見が狭すぎるだろうか。 なんぼ原作やった人間以外お断わりとはいえひどすぎるし、 そもそもコマ割りからしてヤバさを感じる。漫画家としてのセンスを感じない。 全てが断片化されていてまるで予告ムービーだ。月姫のアニメみたいである。 もしかしてこういう断片化されたのが流行りなのか。 なお、絵はかわいい。それはいい。 しかし、なぜこうも人から表現を借りてくるのか。 せっかく魅力的な絵なんだから自前でなんとかすればいいのに。

キャラクターを属性の集合として表現するのと同様に 漫画も定型化された形式の集合として表現する時代なのだろうか。 もしそうだとすれば借り物の表現で埋めつくされた漫画が 悪いという価値観は通用しないことになる。 むしろ流行り要素を入れた分だけ高度である、ということにすらなるだろう。 まあなんにせよそういうものは私にとって 観察対象にはなり得ても観賞対象にはなり得ない。 まだ私はそこまでニュータイプにはなれん。

しっぽ漫画は陳腐ながらもちゃんと漫画になっていたがなあ。 そんなに漫画にするというのはむつかしいのだろうか。 絵がかけるんだったら、後は構成やらコンテの作法やらを勉強 すれば少なくとも漫画にはなると思うのだが、それは素人考えなのだろうか。 私にはわからん。

森博嗣「まどろみ消去」。ちょっとおもしろい話がいっぱい詰まった短篇集。 以外に叙情的な文章もあって驚いたりもした。 最後の「キシマ先生の静かな生活」などは 「真の研究者」へのあこがれがひしひしと伝わってくる。 森博嗣の作品がこんなに気になるのは 私が大学院を逃げ出した人間だからだろう。

森博嗣「眩惑の死と使途」。そんなんアリかと思ったが、 別に脱出せんでもええやんとは思ったので、私の推理小説スキルは 少しは上がっているらしい。しかし相変わらずまともに 考える気力は沸かない。流水の小説で「結論を出さずにぼんやり考えているのと きちんと答えを出すのでは全然違う」と書かれていたが、まったくその通りである。 まあ例によって本題は二人であって話やトリックは二の次なのでいい。

森博嗣「夏のレプリカ」。 パズルとしての事件そのものは面白くないので全然推理する気がしなかった。 しかしそれでも何故か面白い。つまるところ、筋とか題材とかとは 違うレベルでの面白さがきちんとしているからだろう。 人物の魅力があってこその面白さだ。 そういえば森作品には何かと詩が出てくる。 理系っぽさがウリの作家ではあるが、そのあたりの意外性も好きだ。 ところで、こんな言葉があった。

若者は皆、好きなものを求めるのと同じだけのエネルギィを使って、 嫌いなものを一生懸命探している。そうすることで、自分が明確になると 信じている。

それを若さの定義とするならば、私は若さを失ったことになる。 実害のあること以外を嫌いと言える機会は滅多にない。 「信用できない」というくらいがせいぜいだ。 フィクションの作者に対してこの言葉を使っていられるのも もしかしたらそう長いことではないのかもしれない。

ニャから借りたディム・ボガー「Death Cult Armagedon」。 デスなのだが、ちゃんと普通にかっこいい。 声もホラー映画かと思うような恐い声で実にいい。 しかし、何分森博嗣を読みながら聞いていたので、 もう一度きちんと聞くまでちゃんとした感想は保留しておく。 ただ旋律は多少型にはまっているように感じられる。 展開の動から静への転じ方がたまに面白いが、 大方としての印象は「この手の音楽」である。ただしレベルは大層高い。 そういえば途中でオーケスオラが入るのが印象的だった。 電子楽器音楽は生楽器音楽とは相反する物というイメージがあるが、 一緒に鳴らしてみると存外違和感などないものである。 ただし、どうしても電子楽器が主で生楽器が従になるのは避けられないので 対等の関係にはならない。また、この作品に関して言えば オケだけの状態から電子楽器バリバリの状態に移行するその際が いまひとつである。変化には予感が欲しい。 できれば事が起こるまではその予感に気づけないくらい些細なものがいい。 要するに、変化が起こった後で起こる前が伏線であったことに気づけるような 作りになっているのがいいのである。

そのオケ部分を聞いていて思いついたのだが、 現代音楽の多くは一つの旋律を使い回ししすぎるように思う。 もちろん旋律というのはそうそう思いつくものではなく、 一つ思いついたらそれをできるだけ有効利用しようとするのは 当然のことではある。変奏曲もつまるところそういう目的のものだろうし、 極端な例であるベートーベンの5番などは全てが「ジャジャジャジャーン」 でしかない。しかし、それはあの独創的な工夫があってこそ成り立つのであって 3回も4回も同じものを繰り返すのは反則である。 昨日のライブでもループの短いゲーム音楽 をまんまやってしまったためにそういった単調さに陥ってしまったバンドがあった。 プロの作品ですらこのように平気で繰り返しをしてしまうのだから、 素人となればなおさらだろう。 それにしても、ディム・ボガー。これでは映画音楽にしかなるまい。 単体で聞かせるためにはあまりに単調すぎるし、 展開もどこかで聞いたようなもので独創性が感じられない。 メタルの演奏形態だからこそ成立する作曲手法、というものはやはりあるのでは なかろうか。普通の楽器では単調にしかならない構成でも、 あの激しい音色とドラムのスピード感があれば全く別の興奮を生み出してくれる。 楽器や演奏形態の特性は無視して良いものではない。

ところで、プロのメタルを聞いてみて やっと昨日のライブの演奏のレベルがなんとなく認識できた。 まず、プロは音が抜けない。昨日は抜けてるように聞こえるだけだろうとか、 きっと抜けてもいいジャンルの音楽なんだろうなどと勝手に解釈して 納得していたが、やっぱりそんなわけはない。 必要な音が鳴らないのは論外なのである。 また、音のキレ、とでも言うのだろうか。鳴っている状態と鳴っていない状態の メリハリが実にきちんとしている。こちらの言葉で言えばフレージングに当たる だろう。昨日の演奏の大半と比べるとこの点は歴然としている。 これはギターのみでなくドラムにも言えることである。 音楽が音楽になるためには非常に重要なことと言えるだろう。 それと、和音の厚みだ。これは作曲、あるいは編曲能力の差だろう。 昨日の演奏はたいがいにおいて何か音が足りなかった。 編成のせいだろうかと思っていたが、別に人数はプロでもあんなものである。 それに仮に一人しかいなかったとしてもキーボードは鍵盤楽器なのだから 和音の厚みが足りなくなるようなことは絶対に起こり得ない。 要するに薄くなるような編曲をしてしまったから薄かったというだけのことである。

そういえば思ったのだが、昨日キーボードを弾いていた人々は ピアノは弾けるのだろうか。 あるいはキーボードでピアノの曲を弾くことはできるのだろうか。

2003年10月18日

宴会そしてカラオケ。流行歌ばかりの人々でどうしていいかわからなかったので、 アニソンの中でもメジャーなものだけを選んで普通に歌った。 誉めてもらえるのはありがたいが、何か珍獣を見るような目で見られている 気がしてならない。考えすぎなのだが。

土曜日は拳法。1時に新宿スポーツセンターにいます。 誰か来るといいなあ。

森博嗣「詩的私的ジャック」。 話そのものはけっこうどうでもいい。 このそつないうまさは作家として軌道に乗ってきたことを示しているのだろうか。 そういうわけで私内部ではだんだん萌絵の恋心がメインになってきた。 そして犀川先生の生き方や考え方にはますます魅かれている。

フロに入ってなおタバコの匂いがする。 肺から鼻にかけての経路に煙の成分が付着しているからだ。 カラオケは煙から最も逃れにくい場でもある。 あれがないだけでずいぶん楽になるものだが、 そうなったところでやはり皆の歌う歌がわからないことによる疎外感は 厳然として存在している。今日も最初の一時間半くらいは がんばってついて行こうと努力した甲斐あってきちんと楽しかったのだが、 ふと気を抜いた瞬間に場が風景と化した。 大きなものが地平線ギリギリでゴウンゴウン回っているのを見ているような感覚。 そして明らかに最低でも一人には「ノリの悪い奴」と思われた。 執拗に「もっと盛り上がれよ」と言われたが、 一旦風景と化したものは容易には元に戻らない。 周りが服を抜いだり踊ったり叫んだりで常軌を逸した盛り上がり方をしていたのも かえって引く要因となった。その彼が後輩であったのが唯一の救いか。

空気が悪いところで喉を酷使するのは間違っていると私は思うが、 カラオケは別に演奏会ではないのだから演奏の質を高める努力を する必要などない。よって、条件が云々言うのは間違っている。 それがわかっていつつ納得できないのは、 基本的に私がカラオケに向いていない、というだけのことだろう。

こういう感覚があるから犀川先生のようなキャラを好きになるのだろうか。 ただし彼は喫煙者で、そこだけは気に食わない。

森博嗣「封印再度」。こんなトリック解けません。 しかしこれはこれで面白いので全然問題ない。 そして何よりも注目すべきは二人の仲が急接近したことだ。 犀川先生かっこいい。萌絵はやりすぎ。 結局謎解きのおもしろさがどうこう言えたのは二作目だけで、 それ以降はどんどん恋愛小説になってきている。

拳法。今日もゼロ。

JAGが出てるライブに行ってきた。前より耳が肥えていたせいか 前4つのバンドはアラが目立って仕方がなかったのだが、 最後のJAGがいるバンドはまるでアラがなかった。 たぶんきちんと上手なのだと思う。そしてエンターテインメント。 口上もおもしろいし、場を盛り上げる小ネタもハイレベルだ。 なるほど芸はこうでなければいけない。

細かい感想を書くべきだろうか。しかし書いて価値があると 思うことを書くならば8割は気になったところの指摘になるし、 このように規模の小さなものであれば本人が見える場所に書くべきだろう。 なお、前述のようにJAGがいるバンドに関しては私に指摘できることなど一つもない。 世辞ではなく、本当にない。楽しませて頂いた。

2003年10月17日

ほぼ毎日ハノン20曲を弾くようになって一月くらいは経っただろうか。 なんとなくマシになってきた。トリルがちょっとトリルっぽい。 左は相変わらず無惨なまでに音が崩れていて嫌になるが、 すぐにどうにかなる問題でもないので今は気にしないことにしよう。 そういうわけで、昨日から2声インベンションの6,7番の練習を始めている。 2番や5番ほど難しくはないため、 曲っぽくするだけならさほど時間はかからないだろう。 当初の目標は年内に15曲を曲っぽくすることだった。 今からでも1週間あたり1曲づつ追加していければ間にあう計算になる。 あくまで計算上の話だが。

ところで、ハノン20曲を240のテンポで弾けば5分で終わる。 今の私にとってはあり得ない速度だが、 それくらいやってのけなければやりたいことができない。 ミドルが実用になるためにはハイが十分に 蹴れなければならない、というのと同じ理屈だ。 まあそれは遠い未来の目標として、 年が明けるまで今の調子で続けよう。 気がついたらそれくらい速くなっているかもしれない。

ついに体脂肪率が減り始めた。初の16%台である。 この分だと今年中に15%台の数値を見ることもできるだろう。 最終目標は10%である。 かえって不健康なのでそんな状態を維持するつもりはないが、 一度くらいはそんな肉体を味わっておきたい。

2003年10月16日

おねツイ12。あまりに順当で、かつ盛り上がらない。 とは言うものの、この地味さはおそらくそういうコンセプトだからだろう。 おねティがなにかと過剰だったのとは対照的な作りである。 ただ、結局私はとにかく火に油を注ぎ続けるような話が好きらしく、 あまり積極的に面白いとは言えない。 細かいところではいろいろと楽しいし、キャラもかわいいので 楽しく見られたのは確かなのだが。黙秘とか。

森博嗣「笑わない数学者」。 随所に現れるちょっと変わった倫理観には相変わらず納得させられる。 話はちょっと普通気味だったが、博士の強烈な人柄と それをある意味では上回る犀川先生の変人っぷりと、そして何よりも そんな犀川先生に全力で惚れる萌絵のかわいさで全体としてはプラス。 そしてやっぱり推理しなかった。ちょっとはしようとしたのだが、 休み休み読んでいる状態では無理だということに気づいて普通に 読んでしまった。休日に一気読みするような場合でないと きちんと推理するのは無理だと思う。

ところで、このシリーズには一つ気に入らないところがあるのだが、 あまりにどうでもいいことなので書かない。

2003年10月15日

森博嗣「冷たい密室と博士たち」おしまい。 なんて良く出来た売り物だろう。 前作に比べると何もかもが地味だが、その完成度の高さは素晴らしい。 何よりも問題の解説のわかりやすさに関しては 今まで見たものの中で最高だった。 こうも素晴らしくわかりやすい解答を読んでいると 簡単に解ける問題だったような気がしてくる。 ありえない可能性を消去して仮説を立て、 仮説が成立するための条件を列挙して仮説の妥当性を評価し、 必要とあらば仮説を修正する。 つまるところこの繰り返し。 デバグの時なんかはこういう手続きをごく当たり前にやっているわけで、 能力的に私にできないということはないだろう。 また、こういう問題の場合は純粋な数学の問題と違って 本文中に散りばめられた情報が 仮説の補強に使えるかを検討することで 仮説の信憑性を評価することもできる。 ちょうど国語の問題を解く時に行う手続きと同じだ。 まさに大学受験が得意な奴ならきちんと解けるはずの問題である。 前作が到底思いつきそうもないトリックだったので 今回もロクに考えないまま読んでしまったのだが、 ちと惜しかったかもしれない。 推理小説を推理しながら読むという新しい挑戦 をするにはいい機会だったのだが。

公園で練習していたら中学生と思われるガキンチョ二人が見ていた。 しばらくはそっぽを向いて興味なさそうに話をしていたが、 だんだん近寄ってきてついに話しかけてきた。 何をやっているのかと聞くから拳法だと答えた。 その次の質問が傑作で「それに何か意味があるんですか」。 これだ。ガキってのはこうでないといけない。そしてこういうガキは嫌いだ。 あまりにかわいらしいので、社会人になると運動不足になるからね、 と真面目に答えてやった。気分が乗れば「意味ってなんだい?」 などと逆質問してやっていたかもしれないが、 ガキ相手に大人気ないし何より面倒だ。 どうも私をバカにしたくて仕方ないらしく、 わざとらしくバカっぽい動きでマネしたりしていたが、微笑みをたたえつつ無視。 まっとうな大人に育てよと思いつつ練習をしていたが、 奴等がタバコを吸い出したのでいささか嫌な気分になった。 ちなみにこれは今日のことではない。もう何日か前のことなのだが、 何故か今思い出したのである。

引き続き森博嗣で行こう。少しは推理する読み方もしてみようかななどと思う。 ところで、先に推理する習慣がついてしまった人が流水とか佐藤友哉を読んだら、 そりゃ激怒するだろう。世の中の推理小説愛好者が どれくらいちゃんと推理をしているのかが知りたいものだが。

肝に銘じておこう。戦いの技術を学んでいることを忘れてはやる意味がない。 まあ昨日のガキンチョは本当にガキンチョだったので 大丈夫だとは思うのだが。

働いて、運動して、音楽。余った時間は読書。なんて健全なんだろう。 何か全てがブチ壊しになる出来事でも起こらんものか。 ただしおもしろいものに限って歓迎。 一番現実的にありうるのは結婚だろうが、たぶんありえない。

森博嗣中。そんな学者見てみたい。むしろなりたいのだが、 なりたいとか言ってる奴は永遠になれないだろう。 それにしても、この読みやすさは異常だ。全く疲れない。

2003年10月14日

森博嗣「冷たい密室と博士たち」の途中。 森博嗣の作品はまだ二冊目だが、どう考えても本職の理系 としか思えないネタが新鮮で楽しい。 まあ本当に本職の理系なので それもうなづける話だが、兼業で小説家というのはすごすぎる。 仮に修士の時お世話になった助教授がこうやって小説を書いて いることを想像すると、それはもう超人だ。

研究者ネタのものを読んだり研究関係の人と話をすると、 いまだに修士で逃げ出したのは間違いではなかったかと考えてしまう。 しかし実務経験という意味では絶対に無駄ではない。 最低でもあと一年はいるのだからここらで気合いを入れ直して 鍛練を再開せねばなるまい。あまりにフヌけすぎていた。 何のために生きているのかなどと考えてしまうのはフヌケている証拠に 他ならない。

森博嗣の作品に出てくる理系キャラは非理系の人々には 「人間が描けていない」と思われるくらい奇異なものに映るらしい。 しかし国枝助手みたいなのは実際にありふれた存在だ。 ボロボロのTシャツ、ジーパンに白衣、頭も半年放置したスポーツ刈りみたいな 状態の妙齢の女性が談笑しながらマウスの首を次々と折っていても さしたる違和感を感じないような世界なのである。 いや、あの人はさすがに特殊だったかもしれんが。

今日の疑問。感情は本当に複雑か。 脳内の化学物質状態を気分と定義する時、 感情は気分だけで記述できるか。あるいは気分だけでは足りないのか。 足りないとすれば、 気分を外部から操作しても感情を操作することにはならないことになる。 また、気分を記述するのに必要な情報量はいかほどかということも問題だろう。 感情の定義から考えねばならない問題なのでこれ以上は言葉遊びにしかならないが、 一度鬱になる薬でも飲んでみればいい実験になるかもしれないと思う。 ところで本筋とは関係ないが、 複雑な感情と言う時はだいたい二種類しか混ざっていない。 AだけどB、という程度だろう。 確かに一種類よりは複雑だろうが、 たかが二種類で複雑と言うのもどうかという気がする。

2003年10月13日

カーニバル・デイ。すげえ。声も出ない。というか叫びまくり。 どう言っていいのかわからんが、凄まじくおもしろい。 到底ネタなどという言葉で済ませられるようなものではない。 ジャンプ漫画も真っ青なふくらみっぷりは作者の過剰なサービス精神 の賜物なのだろうか。何度「ふざけんな!」と叫んだか知れないが、 そう叫ぶ私の顔はたぶん人に見せられないくらい楽しそうだっただろう。 ファウストのインタビューでこれを書いた後何を書いていいかわからなくなった と言っていたが、なるほどと思う。

感想を探すと酷評ばっかり。そりゃそうか。 到底論理的ではなく推理小説とは呼べないし、 出てくるネタは荒唐無稽すぎてどうしようもない上に、 個々のネタは昔からよくあるものでそれ単体で驚けるものではない。 解決篇がまるで解決篇になっていないのは私にとってもマイナス点だし、 若干最後で失速している感もある。 無駄に長いという評価もわからんでもない。前に出てきたところを 別の視点から整理し直す個所がかなり多く、確かに冗長さは感じた。 最後のネタ解説編に至っては50ページ以上にわたって蘊蓄が語られており、 さすがにやりすぎだろうと思う。 しかしまあ、総じて私は次から次へと繰り出される荒唐無稽の嵐に翻弄されて そんなことはまるでどうでも良くなっていた。 私はミステリ文化の人間ではなく論理がどうとか説得力がどうとか いう考え方とは無縁だったのが良かったのだろう。 そういうところを気にせず展開やハッタリや登場人物を楽しむことができた。 皆が気にするハートマークや「♪」も大して気にならない。 それに、私はこういう荒唐無稽ストーリーは元々大好きなのだ。 ましてキャラが活き活きしていればなおさらである。

ふと思ったが、ペルソナ2罪が好きな人には薦められる。これもネタバレ気味だが。

好きなキャラは由比賀独尊。調べたらファンクラブがあった。

いろいろ思い出すと全然解決してない問題が山ほどあるな。 しかしコズミックやジョーカーもそうだったので今更言っても仕方ない。 ジョーカーでは「説明がつかないけど、まあとりあえず置いておきましょう」 などというセリフをキャラが吐いたまま最後まで放置された事すらあったのだ。 これは週間連載だったものと思って読むべきだろう。 そうでないといろんなことが気になりすぎる。 もちろん連載でない以上全編を通して筋が通るようにするのが理想だし そうすべきだが、なんだろう。弁護する言葉が見つからない。 言葉を使えば使うほど誉めようがない。欠点ばかりが目につく。 絵が下手なギャルゲーみたいなもんだと思うと私は納得できるのだが、 他の人に納得させる自信はまるでない。

リアルタイムに読んでればもっとおもろかっただろうにと思うと悔しい。

なんかで訴えられてどうしようもない額の損害賠償払わされる時って、 どんななんだろう。例えば今そういう目にあったとして、 毎月入る給料から10万づつ引かれていったりするのだろうか。 「食費削れ」とか「ギャルゲー買うな」とか言われるんだろうか。 足りないと親兄弟からも取ったりするんだろうか。 ともかく一生そんなことには関わらないで過ごしたい。 取られるのも取るのも嫌だ。

おねツイ11話。順当な結果が出たが、解決篇がまだ残っている。 見届けねばなるまい。

清涼院流水「19ボックス」。JDC物のように弾け飛んではいないが、 なかなかにおもしろい。こういう趣向も悪くないものだ。 気軽に読める割にちょっと読み返して みたくなる仕掛けが凝らされていて気持ちいい。 この過剰なサービス精神と我の強さがえらく気にいってしまった。 明らかに何かを敵視しているのがありありとわかるのがいい。 何分このジャンルには馴染みがないので 「トリックばかり重視して話がつまらない作品」と言われても 例が浮かばないのだが、少なくともそういうものを仮想敵として いることだけはありありと伝わってくる。なぜこんなに自信満々なのか さっぱりわからないが、とりあえず見ていて楽しいので良い。 ところで、実は一度島田荘司の「星占術殺人事件」を読み始めたのだが、 早々に推理オーラが漂ってきたので辛くなって中断してしまった。 推理しながら読まないと真の面白さがわかりそうにない作品 なのがありありと伝わってくるので少々気が重いのである。 とは言うものの冒頭の変態芸術論のはじけっぷりはかなりのもので ああいう異常なノリが全編に満ち満ちているなら あまり推理に気を使わなくても楽しめそうな気はする。

「どんなに無茶でも登場人物にとってはリアル」 というのも流水作品で良く見かけるメッセージだ。 読者の方から作品の中へ入っていかねばならず、 作品世界を読者の世界に引っぱってこよう とするのは間違いだ、ということだろう。 しかし、物には限度というものがあって、 どうやって入っていいかわからないような世界が提示されれば 入りようがないし、ショボイとしか思えなければ入る気力も失せる。 読者は努力はすべきだろうがそれはあくまで自発的に行われるべきものであって、 作者が読者に努力を強いるわけには行くまい。 佐藤友哉も流水もそのことを作品でモロに語ってしまっているのだが、 前者が完全にアウトなのに比べて後者はまだギリギリセーフであるという感はある。 何もかもがネタだと思えば気にならないからだ。

そういえば、殺人事件ドラマを昔しょっちゅう見かけたが、 ああいうのの原作は一つたりとも読んだことがない。 ああやってドラマ化されるようなものがメジャーなのだとすると、 ここのところ最近私が読んでいるようなものは全然メジャーではないことになる。 もっとも、最近読んだものを考えてみるとどれもドラマ化は無理だ。 流水は他のメディアには絶対に移せない。 西尾維新もアニメ化は可能だろうが、 あの戯言をきちんと入れるのは至難だろうし、公共の電波で流せる気はしない。 もう少しお堅いように見える笠井潔も、少なくともカケル物は無理そうだ。

流水の感想文をひたすら漁っていたのだが、一つとして誉めているのが 見つからない。これだけ大量に書評が見つかるにも関わらず誰も誉めていないのだ。 何故それで作家を続けていられるのか、不思議でならない。 そして2chのスレが吐くほどおもしろい。 みんな本が出る度に買っては壁に投げつけるという間違ったサイクルを 心の底から楽しんでいる。ゲームにおいて「地雷」と呼ばれるものが 小説においては「壁本」と言われるのだそうだ。 私は普通に楽しんでいるつもりだったが、 どうやら私が普通と言っていたのは普通でなかったらしい。 講談社ノベルズをジャンプと同様の面白がり方をするのは 普通とは呼べないのだそうだ。

文章のうまい下手がさっぱりわからなくなった。 流水を普通に読めてしまうのはヤバいのか。 そういえばギャルゲーで途中で芸風が変わっても大抵気づかない。 観賞者としてのレベルがどんどん下落しているのか。 危険な状態なのかもしれない。

一度ミステリ愛好者の話を聞いてみたいものだ。 どういうふうに語るのか興味がある。

2003年10月12日

カーニバル終わり。ヤバいくらいおもしろい。 ジャンプも真っ青のインフレーション。 この風呂敷は果たして畳まれるのか。 ネタバレしたくないので何も書けない。 ともかく、そりゃ流行るわこんなおもろいもの。 評価はまっぷたつに割れているようだが、 評価の数そのものは甚だ多い。 それだけ読まれているということだろう。 その手の文化の人々の間では 好き嫌いはともかく基本教養とみなされているに違いない。

ニャと月姫アニメを同時に見て文句を言いまくるというアホなことをしていた。 結局のところ「つまらねえ」。 なんか画面がボンヤリ光ってて、シーンの断片ばっかり提示されるような構成で、 感情の起伏に乏しくて、話も動かない。そしてキャラに萌えない。 そのくせ雰囲気が出ててかっこいいかと言えば到底そうでもない。 自動販売機を壊すシエル先輩のポーズのかっこ悪さとか、 凍りついたように静止する背景の人々とか、 電柱の上に立ってるシエル先輩とか、どれを取っても 即座にギャグ漫画に移行できるくらいバカっぽい。 月姫ファンの方々の評価はどうなのだろうか。

カーニバル・デイの裏表紙にはすごそうな言葉がたくさん書いてある。 「人類最終兵器コズミック・ボム」「100パーセント人類絶滅」 「洗脳ベッド」「K2に雪女出現」などなど。 こんなおもしろそうなもの読まねばウソだ。結局私はネタ好きらしい。

2003年10月11日

気がつかないうちにバイトの人が一人いなくなっていた。恐ろしい。

前いたチームの解散宴会。そしてカラオケ。歌う歌は例外なくアニメ特撮歌。 バイトの人は去っていき、社員もバラバラになった。 いつかもう一回あのゲームを作りたいものだが、おそらくもうあるまい。

徒労という言葉が実にしっくり来る一日だった。 帰ってくる途中はできるだけ面白く書いてやろうなどと意気込んでいたものだが、 だんだんどうでも良くなってきて家に着いたらすぐに寝てしまった。 要するに、拳法の練習には誰も来なかったのである。 もしかしたら今日は金曜日あるいは日曜日なのではないかと疑い、 携帯を見て確認してからも携帯が狂っているのではないかと疑い、 もしかしたら時間を間違っているのではないかと疑い、 結局1時集合にも関わらず3時まで待ってしまった。 仕方ないので二郎でも行くかと思ってわざわざ田町まで行ったが、 麺が尽きたらしく店はもう終わっていた。 仕方なく帰路についたが、品川で降りそこねて蒲田まで行ってしまい、 せっかくだからと評判のラーメン屋に寄れば準備中で、 京急蒲田から電車に乗れば気がついたら羽田空港。 疲れた。

カーニバル・イブ終わり。これはこれで完結した一つの作品だと作者は言い張って いるが、ラストは少年漫画もしくはレインボーマンの引きのような状態で どう考えても無理がある。内容はまさに嵐の前の靜けさで これそのものがおもしろいというわけではないが、 流水らしい仕掛けに富んでいてそこはかなり楽しめた。

カーニバル半分くらい。もう完全に推理小説ではなくなった。 悪の秘密結社が世界を恐怖のドン底に叩きこむ。 それにしても、さすがにこんなものを400ページもブッ続けで読むと疲れる。

2003年10月10日

考えてみると、ピアノがうまい人の指の速度は平気で16連打とかになる。 音楽速度で言えば240だ。 プロの演奏を聞いているとトリルの速度はそれくらいあって当たり前 という感じなのだ。ハノンを20番まで弾いて5分で終わる計算になる。 確かにそう言われると「全部1弾いても1時間」という歌い文句も あながちウソではないような気がしてくる。 ピアニストという人種は実はムチャクチャな筋力をしているのではないか。 あるいは力を用いず鍵盤を叩く方法があるのかもしれないが、 現状そんなものは発見できていない。

2003年10月9日

クロマティ。普通にやってもダメだということを認識しているらしく 涙ぐましいまでの工夫に満ち満ちている。 オープニングの歌から次回予告に至るまで隙がない。 しかし、モノがモノだけにどうしようもないだろうこれは。

カーニバル・イブ中。バカバカしさがますますパワーアップ。 今はまだ笑っていられるが、どこかでこれが怒りに転化するだろう。 果たしてカーニバル・デイまで耐えられるだろうか。

2003年10月8日

コズミック終わり。いまいち。何故だろう。 ハッタリレベルはジョーカー以上なのだが、 ちとやりすぎた感がある。 ネタすぎて迫力が感じられないのだ。 最後の最後なんかはもう「勝手に言ってろ」という感じだった。 ジョーカーを経てこのノリに慣れてしまったということもあるだろうが、 やはりこれはやりすぎだ。 細かいところはいろいろと面白いし、途中で読むのが辛くなることは 全くないのだが、やはり真相のガッカリ度合と 過剰にバカバカしいオチが気になる。

この探偵供には何か見覚えがあると思っていたのだが、やっとわかった。 聖闘士星矢だ。次から次へとそれっぽい技を繰り出すが、 その実体はさっぱりわからない。 あるいはスタンド使いと言ってもいいだろう。 いっそ男塾でもかまわない。 とにかく、「何々の使い手」が次から次へと出てきて、 その「何々」についての説明はほとんどない。これは少年漫画だ。 「神通理気」は必要なデータが揃うと勝手に真相が わかってしまうという特殊能力であり、 「迷推理」は推理を「必ず」外す特殊能力である。 他にも90時間徹夜すると頭の回転が激しくなって真相がわかってしまう奴や、 歩いていると不意に真相がわかってしまう奴もいる。 もちろんそれらにはたいがい四字熟語の名前がついているのだ。 そんな感じの探偵が10人も20人も出てくるというのは正気の沙汰ではない。 そんな事を思いついたというだけですごいと思う。

次は誰を読もうか。ここらでマリみてをはさむのも一興だろう。

せっかくなのでカーニバル・イブ、カーニバル、 カーニバル・デイと一気に行こう。 今を逃したら読めなくなるかもしれない。

2003年10月7日

昨日アホに激しく自慢されたが、同じ所に行っても ああも楽しめるとは到底思えないのでうらやましがらない。 他はションボリする話。 夢を追うにはそれだけの努力をせねばならず、 さらに努力の方法も正しくなければらない。 やらないと話にならないが、やればいいというものでもない。 ああ大変だね、という話だ。 折れた私には関係のない話だが、 そういう人に負けたくないという思いもまだ少しはある。

今、君が望む永遠のアニメを見ているのだがやっぱりこれ嫌いだ。 主人公含めて全員に腹が立つ。 恋愛経験がある人は楽しめるという説があるが、その真偽は永遠にわからない。 自分が主人公の立場だったらどうだろうと考えると楽しめるという話も聞くが、 それでは考えれば考えるだけ余計に嫌な気分になった私はなんなのだろう。 あれだけ絶賛されているのに何故嫌いなのか、 ということを言語化するのはおそらく相当面倒なので 気が向かない限りやらない。最近言葉を発するのが面倒で仕方ないのだ。 それに、たぶん言葉にするとけっこう不愉快なものになるだろう。

D.C.。どうしようもない生ぬるさに癒される。 おもしろいとは絶対に言わないし、実際つまらないのだが。

涼宮ハルヒの溜息。 特におもしろいとも思わず淡々と読んでいるつもりだったのだが、 読んでる間ずっと顔がニヤけていたことに 読み終わる寸前になって気づいた。 どうやら幸せだったらしい。 話は盛り上がらないし、ハルヒはやりすぎだし、 一体何が楽しかったんだろうと不思議だったのだが、 今木さんの感想を読んでなるほどと思った。

2003年10月5日

二郎三田本店に行ってみたいが、日曜は休みなので 土曜に行かなくてはならない。が、土曜はこれから毎週拳法である。 運動をする前にあんなものを食うのは自殺行為だし、 終わったころには店が閉まっている。 しかしさすがに3時間前に小を食うくらいなら大丈夫かもしれない。 来週開店直後を狙ってみよう。

高田馬場周辺を歩き回ってみた。 ついでに水道橋周辺も歩き回ってみたが、何故か飯田橋に出てしまって そのまま秋葉原まで歩いてきた。あのへんの駅の間隔は相当狭いようだ。 本屋に寄ってハルヒとドグラ・マグラとサリンジャー3冊と中国語会話の本を 仕入れて今日は終わり。 移動中はずっと本を読んでいたので時間も無駄ではない。

サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」。さっぱりわからない。 元のノリがこうなのか訳のせいなのかはわからないが、ともかくわからない。 何やら都会風な人が洗練された会話をしているような雰囲気だが、 どうも会話になっている気がしない。 約一名あからさまに頭のヤバいキャラがいてそいつの言うことが意味不明なのは いいのだが、そうでないはずのキャラの会話も何かおかしい。 ところで、そのヤバいキャラが エレベータで偶然乗り合わせた女性に向かっていきなり 「あなた、ぼくの足を見ていらっしゃいますね」 と話しかけるシーンは圧倒的だった。とりあえずすごいことはわかる。

清涼院流水「ジョーカー」終わり。こんな変なものは初めて見た。 作品世界の外を作品の中に入れてしまう(メタというらしい) ものは前にいくつか見たが、こんなにやりすぎなものは初めてだ。 推理としてはどうかと思うが、そもそもこんなコンセプトだけでものすごいし、 キャラは立っているし、そのコンセプトを表現するためにかけた 尋常ではない執念がビリビリと伝わってくる。 先輩が「最初読んだ時は天才じゃないかと思った」と言っていたのは なるほどよくわかる。コンセプトの突飛さとそのために積み上げた執念に 関して言えばちょっと前に「メタだメタだ」と言って喜んでいたever17など 足元にも及ぶまい。「ふざけんな!」と「なんじゃそりゃ!」 を何回叫んだか知れないが、それでも止まらなかった。 むしろやられればやられるだけ続きが読みたくなる。 無理は多くの場合欠点だが、ここまでやられれば爽快だ。 さて、ではコズミックに戻るとしよう。

2003年10月4日

コズミックを半分読み終わったので、指示通りにジョーカーへ移行。 こっちもムチャクチャおもしれえ。ヤバいわ。すまん弟(大)。ネタどころじゃねえ。 話によると読み終わってガッカリする人が多いらしいのだが、 確かにこれだけ期待させられて納得の行くラストじゃなかったら 怒りも相当なものになるだろう。まあまずは読んでからだ。

うちの会社で休日出勤及び深夜労働禁止令が出た。 お上の命令で残業代その他を払わねばならなくなったために できるだけ社員が会社にいる時間を減らさないといけなくなったわけだ。 私は別に金が欲しくて会社に長くいるわけではないので、 行っても行ったことにしなければ(タイムカードを切らなければ) 問題はないはずなのだが、 いろいろと大人の事情があって事はそう簡単ではないらしい。 理不尽だ。会社は働くだけの場所ではない。 夏は涼しく冬は暖かい会社で読書をし、 はたまた資料と称して置いてあるDVDを見たりゲームをしたり、 防音室でヴァイオリンを弾いたり、 とにかくいろいろやれることはある。 そんな場所を仕事にしか使うなというのは絶対に間違いだ。 しかし、どうせ切羽つまってくればそんなことは全部忘れて 会社に居続けることになるに決まっているのであって、 こんなことを気にせねばならないのもそう長いことではないと思う。 思いたい。

なんじゃーこの推理はー。 ジョーカーがだんだんわけのわからないことになってきた。 ものすごく嫌な予感がする。しかし、きっと 真相を引き立てるために挟まれたバカ推理なのだろう。 そうに違いない。もうすぐ半分。

そのうち四大ミステリとやらも読まねばという気になって気づいた。 読書は読書を呼び寄せる。いけない。この箱の中身を読み切ったら 一度止めよう。生活が読書に占領されてしまう。

吸血鬼ドラキュラ。えらい時間がかかったがようやく読み終わった。 話そのものはおもしろいのだが、 訳のせいなのか構成のせいなのか妙に気分が乗らない。 ラストも盛り上がらなかった。 ところで、吸血鬼をペストを擬人化したものと考えるととてもおもしろい という話を前ウシオに聞いた。 蝙蝠や鼠に変身するのは感染経路だし、 霧になってどこへでも入ってくるというのもどうやってやってくるのか わからない不気味さを表現したものと考えられるのだそうだ。 教養としておもしろかったし、 いろんなものの元ネタがわかったので良しとしよう。 やっとヘルシングという名前の由来がわかった。

道場、というか拳法。道場なんて呼べる固定した場所はない。 ともかくこれから毎週土曜は練習の日ということになった。 しかし本当に人が増えるんだろうか。 ずっと一人だったらどうしよう。それこそそのへんの公園で練習して 秋葉寄って帰るだけ、みたいな淋しいことになりかねない。 何のために新宿まで行くのかさっぱりわからないじゃないか。 などと考えても仕方ないのでとりあえずは自分の練習をしっかりやる。 これはもう逃れようのない強制力なので腹をくくるしかない。 少なくとも会社をやめるとか結婚するとかいう 超絶事件が起こらない限りは逃げようもないほどのレベルの強制力だ。

一応これは匿名個人サイトなので、実団体名を出して宣伝したりはしません。 先生に怒られるし。 東京近辺でちょっと拳法やってみたいなあという人がおられましたらメール下さい、 と言うくらいにしておきます。

2003年10月3日

ラプソディ「Symphony of Enchanted Lands」。 最高。これがメタルならメタルというのはなんと懐の広いジャンルなのだろう、 などと無駄な言葉遊びをしたくなるくらいメタルとしてはおかしい。 しかしジャンルをどうこう言うからネタになるのであって、 ただ音楽として聴けば素晴らしいの一言である。 映画音楽的なものを指向しているためか メロディのかっこ良さはある意味俗っぽいとすら言えるほどに わかりやすいが、それでいて非常に技巧が凝らされている。 バロック的な旋律と現代的な旋律がさしたる違和感もなく連続し、 ギターやドラムの音とパイプオルガン風の音が これまたさしたる違和感もなく重なるのは驚くべきことだ。 歌声もますます良い。張りと色気の同居した文句のつけようもない声だ。 前聞いた奴もすごかったが、 今回のは節操のなさが前の比ではない。 「音楽的スケール」と言い換えれば誉め言葉になるが、 ここでは敢えて節操のなさと言おう。 映画音楽的な色彩がより強くなり、 一定のリズムに合わせて頭を振りながら聴くような種類の音楽からは 完全に隔たっている。こうなるともはや物語性と切り離すことはできない。 聞く者には積極的に音楽とその底にある物語の流れに体を同期 させることが求められているように思う。

コズミックがムチャクチャおもろい。 まだ5分の1も読んでいないのだが、期待感だけは激しく高まってくる。 一体これをどうやって収束させるというのか。想像すらできない。

久しぶりに天一。うまいまずいを超越して天一。こんなに疲れる食い物だったか。

2003年10月2日

仕事中ゴルトベルク。洗脳効果大。 弾きたい。絶対弾きたい。 とは言え一曲だけ簡単なのを抜いても負けた気分になるので 今は今すべきことをしよう。 脳が二声に慣れて、想像上だけなら少しづつ三声を混ぜられるようには なってきたが、まだ手は二声にすらなっていない。 ゴルトベルクは最大四声だ。実際に同時に鳴るわけではないが、 イメージは四声でなければならない。遠い境地である。

左右を同時に意識することはできないのだから、 つまるところ意識は常に左右を往復し、 意識がない方は修練によって構築された自動化手順に従って動くことになる。 意識の往復速度が音楽の生命力を決定することになろう。 というような言い回しをすると途端に拳法になる。陰陽だ。 あるいはこう言ってもいい。 CPUは一つであって真に同時に複数の処理は行えない。 だからできるだけ細かく時間を分割して同時に動いているように見せかけるのだ。 左右の手、ひいてはそれぞれの指はプロセス、あるいはスレッドに当たる。 とこのように言えばコンピュータになる。 そのような意味において拳法とコンピュータの原理はよく似ている。 すなわち、人間の動作そのものがコンピュータによく似ているということだ。 コンピュータ科学者や拳法家は下手な生物学者よりもよほどよく脳のことを 知っていたのではないかと思う。

佐藤友哉「クリスマス・テロル」中。普通におもしろそうな導入で わくわくしていたのだが、 突然作者が語り出した。例えば、 「しかし、例えば本格ミステリなんて間違っても得意ではないし、 また書き続けて行きたい世界でもない。愛もなければ興味すらない」 などと言い出す始末である。すげえ。いい悪いを言う前に、すげえ。 これは「遊び心」とでも言うべき プロ的な余裕から生まれたものではあるまい。 ただでも「この人大丈夫か?」と思うような物ばかり書く人だけに 今回は「ついに臨界点か?」と思ってしまう。 薄いのですぐ読めそうだが、時間がヤバいので寝る。 三時過ぎに寝るようなマネをしていいのは七日に二日だけなのである。 まあ明日の昼休みには読み終わるだろう。

クリスマス・テロル終わり。何故これは出版され得たのだろうか。 これは反則だ。反則であることの善し悪しはともかくとして、反則だ。 確かに問題作かもしれないが、そういうかっこいい言葉を使うよりは 「うわ、やっちゃった」と表現した方がしっくりくる。 さて、私自身がこれをどう思っているのかはよくわからない。 終章のアレなどは、痛い人が逆ギレしているようにしか思えず 到底作品として承認できるものではないが、 私も痛い人間なので共感するところはあるし、 中身にはやはり迫力を感じる描写が多い。 しかし、反則が反則であることには意味があるのだし、 どちらか言って私は普通におもしろい事を重視する人間なので 手放しに破壊だ破壊と言って喜ぶわけにもいかない。 それに、破壊にしてもさほど上等な破壊ではないだろう。 ただ、小説に描かれた人物が一人の例外もなくキャラなのだとすれば、 ここに描かれた佐藤友哉は相当に強烈なキャラである。 私は結局のところそこに魅力を感じていて、 好きか嫌いかと言われれば好きと答えると思う。

いずれサリンジャーという人の作品を読んでみようか。

おねツイ10話。親友の出現は本筋に影響が出るほどの事件ではなかった。 あまりの妥当さに眩暈がする。もっと私に期待させてくれ。 次回こそは何かが起こるはずなので期待して待とう。 マイク君のかっこよさに慣れてしまったせいか、 ここ数回はあまり印象に残っていない。

清涼院流水「コズミック」開始。いきなり炸裂する大風呂敷。こりゃ面白そうだ。 弟に聞いた時にはネタとしか思えなかったし、 実際見ているとネタくさいが、 佐藤友哉を読んだ反動なのか脳がネタを求めている。ちょうど良い。

西尾維新のはキャラ萌え小説らしいのだが、 いーちゃんに萌える奴はかなりキワ物好きではなかろうか。 奴に限らずどいつもこいつもそうだ。 ただ、萌えというのは一般に「実際に友達になれたらどんなにいいだろう」 というような現実的な想像力とは関係なく使われる言葉なので、 友達になりたくない奴や、恋人にしたくない奴に萌えることは可能である。 そう考えると確かに萌えないこともない。 じゃあ一体萌えってなんだ、という疑問は当然のように湧いて来るのだが、 私が観察する限り「萌え」と分類される記号を含んでいることそのもの を意味する場合がかなり多く、 観賞者の心理状態を表現した言葉というよりは 対象が属しているジャンルを指す言葉と言った方が適当かもしれない。 「いーちゃんは萌え」は「私はいーちゃんに萌えている」の省略形 ではないということだ。 まあきっとそんなことは今さら言うまでもなく 当たり前のことなのだろうな。

私が萌えという言葉を使いたがらないのは そういうのが気に食わないからだ。 しかし、好きという言葉を吐くには勇気が必要で、 私にはもうその勇気があまり残っていない。 生身で話していて「○○(キャラ名)とかどうよ」 と言われた時に素で「好きだよ」と返したら引かれたことがある。 あれは「萌えだね」と答えるべきだったのだ。 まあその後私のダメさ加減をネタにして話が 弾んだのであれはあれで良かったのだろうが。

2003年10月1日

森博嗣「すべてがFになる」。 なるほどこれがよくできた推理小説か。 途中で止められずにもう3時。 すごい。こんなトリック絶対思いつかない。 実際にやるのはいろいろあって無理だろうが、 お話としてはこれ以上なく刺激的だ。 コンピュータ科学ネタもちゃんと本筋に関係していて 単なる雑談というわけでもない。 キャラもわかりやすすぎるくらいに立っている。 探偵役が真相に辿りつく時の描写は圧巻だった。 まあ一つ気になることがあるとすれば、 人情的な面で若干無理がある気がすることだろうか。

西尾維新のサイコロジカルはこれを踏まえて書かれたのだろうか。 ちょっと設定が似ている。

ところで、こういう「浮世離れした研究所」って奴は実在するのだろうか。 大学の研究室はかなり普通だった。 理研の研究室は大学に比べて未来度は高かったが さすがにこれほどではないし、中の人間も知る限りはそれほど異常ではない。 たぶん私は天才という奴を見たことがないのだろう。 まあ自分が天才でなく天才にお目にかかる機会もない以上、 せいぜい自分の頭を良くすることに努めるしかあるまい。

佐藤友哉「水没ピアノ」。もう完全に推理小説の体裁を捨ててしまった。 相変わらず話としてはムチャクチャだ。 読み終わってみてもよくわからないことが山とある。 つまり何なのかさっぱりわからない。 しかし、これは強烈だ。今までの三冊では一番すごい。 この心理描写のリアルさはなんだ。 この細部の説得力はなんだ。 「脳がいじられた」とか「執事やらメイドのいる屋敷」などと言った荒唐無稽 な設定と対照的なリアルにしみったれた世界。 そして圧倒的なめめしさ。 前二冊に比べるとかなり開き直っているようで、 最後にショボイ謎解きが出てきてガッカリということも さほどなかった。私はおもしろいと思う。 それでは最後の一冊に臨もう。


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