日記

2003年1月28日

アクセス解析が死にました。ツッコミを察知できません。

2003年1月27日

恐い夢を見た。炊飯器を開け、炊きたてのごはんを釜ごと取りだし、 そしてそれを便器に捨てるのである。 水のたまっている洋式の便器だ。恐い。

CVSについて何も知らないのはヤバい気がしてきた。少しは知ろう。

2003年1月26日

w3m-m17n導入。絵表示つき。UTF-8も読める。

知の創成5章まで。ニューラルネットワークというのが何なのかが なんとなくわかった。たぶん何かに使える。

運指が大切なものだということにいまさらながら気づいた。 昔はなまじ指が動いたので適当な運指でもどうにかなったのだが、 なまり切った今となってはそういうわけには行かない。 もう一つ衝撃だったのは曲を忘れていることだ。 身体に任せて弾いていると急に引っかかって進めなくなる。 頭では覚えていないので途中からのトレースも容易ではない。 そして最初からやり直してもやはりそこで止まる。 来週は楽譜を持っていくことになるだろう。もう久しく見てもいないのに。 思えば私の場合ずっとスキルが感覚や知識を上回っていた。 今になってそれが逆転したおかげで見えてきたものがあるように思う。 せっかくなのでどうにかしたい。

2003年1月25日

必要以上に寝たのでまた夢を見た。 夏休みに何人かで旅行をしているらしいのだが、 行く先々でそのへんの中学やら高校に侵入しては その施設を使って遊びまくるのである。 人に見つかると「OBなんだよ、懐しくてさー」 などと言いながらそそくさと逃げる。 そして慌てるあまり毎度毎度何かを忘れてくるのだ。 「あー、オレのサンダルがねえ!」「忘れろ」という感じで。 メンバーに女も混ざっていたが、 また例によってストーリーとして見ていたようなので不思議ではない。 ちなみにアニ同の誰かさんが混ざっていたりした。 風景には去年の夏旅行の記憶をかなり流用していたものと思われる。

w3m-img導入。前コンパイルしようとした時はSSL関係で止まっていたので 放置していたのだが、今回どうにかして通してみた。 かなり変だ。何か無理をしてておもしろい。 ターミナルに無理矢理絵が出るのである。 ともかくこれで絵も見られるようになった。 カウンタも回します。

しかしやっぱりUTF-8という文字コードは読めなかった。 そのためにバージョン上げてみようと思ったのだ。 lynxは好きではないし、マウス必須のブラウザは 生活スタイル上論外だし、とりあえず放置。

つみばつ、おわり。ダメな人のダメさをここまで書くあたりが文学なのだろう。 とにかく何事につけても迫力がありすぎる。 完全にまともな人というのは一人もいなくて、 だいたい二人いればどちらかがダメでどちらかがまともなのだが、 組み合わせが変わればそれは逆転するものなのである。 妹とかヒロインも最後あたりは相当にまともだが 最初のうちはかなり近づきたくなくない奴等だった。 ところで、この主人公のダメさはどこかで見たことがあるタイプのダメさだ。

ヒロインとか妹とかいう言葉を使った瞬間に 何か世界がダメになった気がする。

とか言った瞬間にこれをエロゲにしたらどんな感じになるかなんて考えてしまった。 絵まで想像してしまった。けっこうまともにエロゲになる気がする。不謹慎か。

2003年1月24日

さし迫った仕事がないと刻一刻と自分の価値が下落していくような 気がして落ちつかない。立派な社畜だ。

起きたらキーボードが逆さになっててktermが一個消えてた。 で、その隙間からしっぽ壁紙が見えてて、ああ、と思った。 この絵、やっぱかわいいわ。ずいぶん久しぶりに見た気がする。 普段は4つのktermに覆われていて見えないのだ。

しっぽで思い出した。何故あの時一緒についていかなかったのか。 つまらぬ責任感のために自慢できるネタをみすみす逃してしまった。

明日中にデータ入れとくから、と言われたら明後日行かざるを得ないだろう。 元々ヴァイオリンを弾くために日曜はたいがい会社に行くので 仕事をしてしまったところで大して変わらないのだが。

八雲立つはおもしろいなあ、と唐突に思い出した。 久しぶりにカップやきそばってどんな味だったっけかと猛烈に気になって 買って食っている途中に正月に最後まで読んだ八雲立つのことを思い出したのである。 樹なつみの作品はどれもそこそこ以上におもしろく、 そのいくつかの作品はそれこそのけぞるほどおもしろい。 八雲立つはのけぞる部類だ。 しかし一番好きなのはいまだに「花咲ける青少年」である。 高校の時読んだのだが、花鹿がかわいくて仕方がなかった。 今なら「萌え」だとかなんだとか言うのだろう。 もしかしたら男口調女の子萌えなのはあれが原因かもしれない。 それに周りもいい男まみれで素晴らしい。 いちいちセリフがキザったらしくて身もだえしながら読んでいた。 うろ覚えだが、宮殿のテラスでハンサム二人が
「この酒の名前を知っているかね」
「いえ」
「囚われの月、と言うんだそうだ」
「意味深ですね」
「そうかね」
みたいな感じのうさんくさい会話をしょっちゅう繰り広げる漫画だった気がする。

つみばつ。ついにバラしやがりましたこの男。 ルージンの卑劣な作戦をあっと言う間に完膚なきまでに叩き潰して やったと思った直後のこの落差。これが歴史に残るほどおもしろいということなのか。

2003年1月23日

やけにおかしい夢を見ることがある。まただ。 今日のは一言で言えばボケ気味のノワール風味。 主人公は美少女殺し屋で、まあいろいろあって とある普通の女の子が住んでるアパートに住みつくのだが、 まあいろいろあって追っ手がたくさん来るわけだ。 そういうわけで神経質になっているのだが、 「ちわー、クリーニングです」とか言う時にまでビクビクしてて、 家主に「あんた過剰に反応しすぎ。あたしが出るから引っこんでなさい」 とか言われてションボリしてると、実際クリーニング屋も追っ手。 まあいろいろアクションの末にニセクリーニング屋も殺してしまって、 とりあえずフロ場に死体を置いておくと。で、そんなことが重なって フロ場にたくさん死体が。腐るだろ、というツッコミは夢なのでとりあえず 置いておくが、「どうしようか」とか言いながら茶を飲む二人。 家主の弟が出てきて主人公にホレたり、殺せと命令された人間が美少年で 「う、もったいない」とかいって躊躇した瞬間に逃げられたりとか、 まあいろんなシーンがあった。もちろんそいつはレギュラーキャラ化。 何かが混ざりすぎていてさっぱり意味不明だ。 自分の視点も主人公だったり他のキャラだったりといろいろ。 夢の中で「視点がコロコロ変わって話がわかりにくい」と文句を言っていた気もする。 最初のシーンは家主の弟の卒業式だったなあ。 ファントム的に話が進むなら主人公はこいつでアブない世界に巻きこまれるもの なのだが、ちょっと何かがズレていたせいで脇役になってしまった。

調子が悪くて11時間も寝てたせいだろう。眠りが浅かったのだ。 こういうのはおもろいので歓迎なのだが、 しかしどうも起きた時に疲れが残る。 それにしてもだんだんこの手の「ストーリー夢」が おもしろくなってきている気がする。うまいことつないだら漫画くらい描けんかな。 絵がついていかんが。

熱力学的な考え方がゲームに使えることがわかった。

中途半端に剛体力学を使ってみたが、それでも望んだ現象が再現された。 望む現象が起こるギリギリまで単純なモデルを考えるというのは ずいぶんと面白い作業である。

2003年1月22日

このバター本気でうまいわ。これ混ぜてパン焼こう。

元気が足りない日はアセンブラをいじれない。

カゼ大流行。そしてうつされた。

そこそこ毎日顔を合わせてて半年やそこら経った上で 互いに嫌いにならずむしろ親しいようであれば まあ条件は揃っていると言えるかもしれない。 私はそれくらい確証がないととてもじゃないがどうこうしようなんて思えない。 相手が好いてくれるかどうかも怖いだろうが、 それ以上に自分が相手をどうでもいいと思う方がもっと怖い。 考えてみればそういう条件が揃ったことは今まで何度かあったが 何もしないままだった。結局どうでもいいということか。

というか、明らかにそれどころじゃねえ。

物理万歳。こんなにうまく行くとは。もっと物理にしよう。

2003年1月21日

この期に及んでフロシキを広げにかかり、案の定厄介事が増えた。

2003年1月20日

例のデカい本を買ってきた。 さすがに高いので前書きだけ読んでから買ったが、なにやらおもしろそうである。 隣にはさらに高くて厚い本が置いてあったが、 そっちもおもしろそうなので、これがおもしろければ続けて買うだろう。

話に聞いたカルピスの高級バターを買ってきてみた。 450gで1200円。べらぼーに高い。しかし、確かにおいしい。 安物の鶏肉をこれで焼いただけでえらくおいしかった。 しかしどう使えばいいのやら。スパゲッティを常備しておいて こいつでてきとうなタレを作って食うか。 トマトと醤油とこしょうとバターと、まあそれくらいあれば食えるものはできる。 そういえば前の場所にもうザーサイはなかった。

川崎のイトーヨーカドーがかなり使えることがわかったが、 悲しいかな距離がありすぎる。15分程度で行けるので行くだけならいいのだが、 あそこからキロ単位の荷物を自転車で運んで帰るのはかなり無茶だ。

罪と罰が下巻に突入。次から次へと精神的にヤバい人が出てくるのだが、 ちょっと笑えない。特に主人公のダメさ加減は見ていて辛い。 妹の結婚相手なんてもう他人とは思えない。なんでこんなにダメな人を描くのが うまいのだろう。そしてそいつらがそこそこ以上に理性的なのが余計に イヤだ。理性的であることと人間性がダメなことは共存できるのだということを これ以上なくしつこく見せてくれる。 なお、それ以外にも普通に話としておもしろい。テンポもいいし、 盛り上げ方もうまい。警察の人と主人公の会話のスリルといったらもう。

寝る前に娘3。知らんイベントはあまり発生しなかった。 さすがにこれくらいになると明確に方針を持ってやらないと 回収できないらしい。しかしまあいいや。 それにしてもテレビのニュースの声がかすかに聞こえている演出は好きだ。 あれ一発で庶民な雰囲気が炸裂する。

ストレートのポンジュースがおいしい。

2003年1月19日

3次元にすることにどれだけうまみがあるかと考えると ギャルゲーの場合はあまりない。 省力化になるわけでもないし、ゲーム性が変わるわけでもない。 微妙な仕草等々の表現と言うが、それができる3Dデザイナーがどれだけいるか。 今のところ目新しいというのが最大の利点だろう。 確実に他と差別化できる。 もちろんDOAX(デッドオアアライブのビーチバレー) くらいやれば意味も出てくるわけだが、 さすがにあそこまでできる集団はそうそういないと思う。

ザーサイが尽きた。川崎まで補充しに行こう。

ハロワやヴェドの歌がカラオケに入るそうだ。 しかし次カラオケに行くのはいつになるのだろう。 下手したら京都に行く時までない。 あとはプロジェクトの打ち上げがありうるが、 そこでハロワを歌うのは微妙すぎる。 ところで、ハロワの「青い記憶」よりヴェドの「White Night」の方が ずっと音が高い。男なのにミが出せるなんて。

12時間寢てしまった。

RGBそれぞれの二次元マップが視覚を決定するので、 視界全体を一意に決定するには数値が3×X×Y個必要。 つまり、3×X×Y次元。3次元空間内で点の場所を決めるには3つ 数値がいるので3次元。これを拡張して 3次元空間内で点の場所を2つ決めるには6つ数値がいるので 6次元、というような感じでイメージしていくと、3次元空間内で X×Y個の点を決めるには3×Y×X個の数字がいるので3×X×Y次元。 もはや次元という言葉の普通の使い方を逸脱している気もするが。 普通は点の次元とデータ数の次元を分ける。 視覚においては「あるX,Yにおいて測定できるものはRGBの3つ」 という意味で点は3次元で、データ数はXとYが変化するので2次元。 聴覚の場合「ある周波数において測定できるのは振幅だけ」 なので点は1次元で、それが周波数で変化するのでデータ数は1次元。 しかし周波数に話を揃えて言えば、 視覚は3つしか拾えないが聴覚は連続に拾えるので「次元が高い」 というイメージが出てくるわけだ。話の順序が逆になった。 元々周波数の話だったので。

2003年1月18日

一時。

罪と罰にはまともな人間が出てこないのだろうか。 それともロシア的には普通なのだろうか。とりあえずすごい。

メモリに書きこまれてねえ、とえんえん悩んだ末、 キャッシュを通しているのが原因と知れた。 もっと中身を知らなければこれ以上先へは進めない。

数学が足りない。物理も足りない。もちろん情報学も足りない。 ぜんぶ絶望的に足りない。ゲームには必ずしもそのレベルは必要ではないのだが、 そのレベルのものをゲームに使った例はほとんどないのであって、 使った時にどういうものができるかは極めて興味深い問題だろう。

以下調べもせずに勝手に書いているので、たぶんウソが混ざっています。

音は色と違ってセンサーが数種類しかないわけではない。 20Hzの音も400Hzの音も、それ単体として測定できることから考えて それは明らかであろう。 その意味では色よりもはるかに次元数が多いと言うことができる。 それが可能なのは光の波長に比べて音の波長が著しく長く、 器官レベルのスケールでセンサーを作れるからである。 色の場合波長は分子レベルであり、異なる波長に対応するセンサーを作る ためには異なる分子が必要となるが、 音の場合は器官形状でそれをまかなうことができる。 耳の奥には蝸牛といううずまき状の管があり、 その中に毛のような聴覚神経がびっしりと植えられている。 音は管内の空気をを振動させ、 波動の重ね合わせによって周波数に対応した領域の細胞が刺激される。 結果色と違ってアナログ的に多段階で周波数の分布を測定できるのである。 色は3本の棒グラフであり、音は一つのX-Y関数曲線と考えれば良い。

なお、ここで言う次元は「ある性質を測定するのに何種類のセンサーが必要か」 という質的な次元である。「ある座標を表現するのにいくつの 数値が必要か」と置き換えても良い。 視覚はRGBで3種類であるが、音の場合測定する周波数が 連続であるため次元は極めて大きな数であると言うことができる。 また次元と言う時にはこれとは別に量的なものを意味する場合もある。 視覚は平面的であり、X×Yとデータ量を表すことができる。 RGBで×3であるが、XもYも大きな数なので 3は定数として扱え、つまり二次元である。 音の場合は周波数範囲をFとすれば左右で2つあるため2×Fとなる。 もちろんFは大きな数なので2は定数として扱え、すなわち一次元である。 視覚と聴覚の実際のデータ量は知らないが、 このように1次元違っていることから考えるに視覚の方が大きな データ量を持っているのではないかと推測できるだろう。

会社では仕事もできるし本も読めるしヴァイオリンも弾ける。 やろうと思えばときメモだってできる。 家でないとできないのはギャルゲーくらいのものだ。 というわけでとりあえずやることを決めずに会社に行くことにする。 たぶん仕事するが。

普通に10時間ほど働いて有意義すぎる休日を過してしまった。 たぶん明日もこうなる。 それにしても一体いつ冬休みや夏休みを取るのだろう。 振替休日もずいぶん溜まっている。 考えてみれば入社してからまだ一日も有休を使っていないのである。 それでも売れてくれれば文句はない。

少ない情報量から計算でたくさんのものを引き出す手法をもっと 知らねばならない。補間とか圧縮とか。

2003年1月17日

3時じゃないか。寝ないと死んでしまう。でもフロくらいは入ろう。

人間の神経細胞の持つ性質として側方抑制というものがあり、 これがコントラストを上げる機能の実体なのだが、 これについてはまた今度。

ああ、何を置いてもついて行くべきだった。本気で後悔している。 そんな顔ぶれだったなんて。 こんな機会は一生に一度もないかもしれないというのに。

2003年1月16日

今日も日が変わった。一時の忙しさを取り戻しつつある。

主なカロリー源は牛乳。

罪と罰がおもしろくて仕方ないが少しづつしか読めない。 ドキドキしっぱなし。普通におもしろい。

2003年1月15日

普通に働いて日が変わった。気がついたら日が変わっている、 というのは気力が充実していることの現れと言える。

年賀状の返事がいつになるかわからない状況。ごめんなさい。 印刷機がないので絵の一枚でも描いてメールで送りつけようと思いますが、 今佳境なので少々お待ちください。

2003年1月13日

30GBのディスクが普通になったら、きっとゲームの容量も30GBになるんだろう。 どんなゲームやねん。

普通に会社に行って誰もいなくて休日だと知ったが、 帰らずダラダラ仕事をしてしまって11時。

第二段階レンズマン。レンズマン完。 こんなにスケールがデカくてアイディアの固まりで しかも展開が速いものは今まで見たことがない。

ニーチェのツァラトゥストラをちょっとだけ読んだ。 あまりにかっこよすぎてどう反応していいかわからない。 「おれを畜群にしてくれ」のあたりで一生どこへでもついていきたくなった。

う、高いですね。 でもそれで何かおもしろいことを知れるなら安いものかもしれません。 とりあえずどんな本か見てきます。

2003年1月12日

世界ノ全テremind of you終了。 世界ノ全テの智子シナリオをいい感じに編集しつつ 後日談を加えたもの。しかしその後日談が激しくいい。 激しく青春。そして、美しい。完成されている。

激しくいろんなものが増えていた。CGやら曲やら声やら。 ただ、イベントCGを増やす前に立ち絵を増やせといいたい。

音楽がよく出来ている。ただ、悲しいかな色がない。 良く出来ているが、何かが足りない。 技巧的だし美しいが、曲が一つになっていない。 相当音楽に深い人なのだとは思うが、何かちぐはぐで、のっぺりしている。 なお、未完成の城だけはそんなことはなく良く出来ているように思う。

ハロワのテーマ曲の完全バージョンを聞いた。 あー、やっぱすげえわ。ダメ。格が違う。 確かに多少いらん工夫をして間延びしていたりするが、 そのいらん工夫のレベルがすでに違っている。 そもそもいらん工夫すらが色の内だ。 そして何より曲が素直なのである。 そこで妙なねじれが入るとのっぺりやちぐはぐの原因になる。 拳法で腕に力が入るようなものだ。 ついでにヴェドのテーマの別アレンジも聞いてみたが、なるほどこれもすごい。 そもそも始まった瞬間に極彩色。間奏もすごい。 目の前で聞きたい。 しかしこのニセ弦楽が本物の弦楽だったらなあと思う。 合成で弦楽などできるはずがない。むしろやられてたまるか。

ニトロのサントラ買うべきか。しかしCDを買うというのは私の 行動パターンの中にないので迷う。 しかしギャルゲーを買うのだってそうだったのだからやってできないことはない。 幸い明日は秋葉原に用事がある。

ところで、虚淵版君望というものがあるらしいのだが、 そのうち売り物になってはくれんだろうか。 ちよれんのイベントで配布されたものにそんなものが入っていたらしい。 そしてそのイベントでは小野正利が出てきて歌ったらしい。 チケットは30分で売り切れたと聞く。 行こうと思っても行けるものではなかったろうが、しかし悔しい。

二回言うな。声がつくと余計にそう思う。 というわけで、秋桜のCDドラマを聞いた。ダメすぎる。 出来が悪いとかそういうことではない。 元が声つけていいようにできてない。くしゅーはダメだろ。 くすすはもっとダメだった。 しかし、すずねえの声がえらくきれいで良い。桑島万歳。いい声だ。若干無理矢理だが。 なお、ストーリー的に 立てこんできそうなあたりから先は聞いていない。 あのショボい話にこんなまともな声がつくのはたぶん聞いてて辛いだろう。 すでに最初の独白のあたりで辛かった。後にする。 あの手の恥かしいものは文章ならまだいいが時間を操れない形式になると辛い。 そう考えるとONEアニメがまんまでなかったのは間違いではなかったのだろう。

「この輝く時を、私は忘れない、扉の向こう嘆きに満ちてても」。 さほど聞こうとしなくても、そして歌詞を知らなくても、 きちんと意味を持った言葉として聞こえてくる。 歌はこうでなくてはと思う。

十分に空腹なはずなのに牛丼並で腹一杯になって、しかも若干食いすぎか とすら思えるというのは衝撃的なことだ。これくらい胃が小さくて良いのだろう。

後輩がOB訪問とやらで話を聞きに来た。で、イヤになるくらい調子に乗って しゃべった。それで隣にいた人の気分を害してしまった。 好き勝手作るのが楽しくて仕方ないだとか、言われたものを作るのは辛いだとか、 そんなことをいつもの調子でしゃべっていたので 「てめえ一回設計やってみろそんな甘いもんじゃねえ」 と怒られた。 突然話しかけられて混乱してしまい謝ることすらできなかった。 もうこの手の失敗は何度目になるだろう。 私の精神はいつも一つの対象にしか向かわない。 なぜこうも視野角が狭いのか。

そんなことがあって改めて認識したのだが、私は微塵も辛さを感じない あまりに幸せな職場にいる。むろん私以外の人間が同じ場所にいたとして 同じように思うかどうかは知る術もないが、 ともかくも私は全く、これっぽっちもここに来たことを後悔していない。 そんな状態で今の状態しか見えないものだから、 他の仕事がおもしろいということを想像することも、 他の仕事が辛いということを想像することも、同様に容易ではない。 よしんば想像したところで、あのように視野が狭まっている時に そのことを脳の片隅にでも置いておくことは到底できない。 就職前に「おまえ就職して社会を知れ」と何人かに言われたが、 就職は今のところあまりその目的では役に立っていない。 もし一生こうだったらルソーのようにマヨイガに行くしか手がないじゃないか。

廣松を読んでて、なるほどと思うことがあった。個々の物を見て抽象概念を 引き出すとよく言うがそれは本当か、という話である。 犬個体を何匹も見るうちに犬概念が形成される、という時、 犬以外のものも混ざったこの現実空間の中でその犬個体を選択する機構は どのようなものか、というツッコミである。 犬概念を作るためには犬個体を集めねばならないが、 犬個体を集めるためには犬でないものを除外せねばならず、 それは概念を作る前に犬概念を知ってないと不可能ではないか、ということである。 おもしろい理屈だと思った。 しかし何かインチキくさい。

モノを見ると多次元の空間にマッピングされる。色だとか形だとか、 もっとなんとも言えないいろんな性質でマッピングされる。 実際は連想上の距離でまともな多次元空間ではない気がするが、 まあ今はそうしておこう。 そして空間内の距離が近いほどそれらは連想で結合する確率が高くなるとする。 あるモノを認識した時それが座標Aに振られたとしよう。 その時「それは犬だ」と誰かに言われたとすると、 その座標には犬という名前がつけられる。 その後またモノを認識して、それが座標Bに振られたとする。 それがもしAに十分に近いと、連想によってAと結合し、 結果Bにも犬という名前がつけられる。 いや、犬という名前もまたモノであって、 きっと座標がある。個々の物と概念を二分するのは あまりに粗すぎる近似だろう。 なんかそんなイメージだがうまく説明できない。

時間が変われば同じ犬も厳密には違う犬になるのであって、 そもそも犬個体なる実体の存在すら怪しいのではないか、 みたいなことも書いてあった。 しかし、人間にとって問題なのは認識空間におけるモノ同士の距離であって、 1秒前のポチと現在のポチはあまりに小さな距離を持つがゆえに同一視される、 と考えるべきではないだろうか。認識する精神自体が時間によって変化する以上、 同一視というものの内容も問題になるが、それも距離の問題であるように思われる。 同じも違うも距離としてまとめてしまうと なんかきれいなイメージになるのだが、たぶんダメなんだろう。 そもそも、現実空間のモノが認識空間に写像される、という考え方からして 批判されていた気がする。それすら疑っていくともはやどうしていいかわからない。

哲学はむつかしすぎる。面倒くさいので誰か和樹たんを作ってくれ。 「たぶんこんなではないか」と想像したやり方で実際に作ってみて もし人間と似たようなものができたら、人間もたぶんそんなやり方で動いてるん だろうという推測もしやすくなる。モノがない状態でああだこうだ言うのは あまりに大変だ。

2003年1月11日

きのうよりもさらに細かく忙しかった。 広げた風呂敷を畳む作業とも言える。 しかし、まだ広げ足りない。

実はここ数日あまり食べてないのだが、不思議と調子がいい。 少々腹が減っているくらいの状態で過ごすのが一番いいのかもしれない。 今まで食いすぎていたのだ。

説得力というのには二種類あると思う。 「オレの後をついてこい」的な説得力と、 理屈がちゃんとしているという類の説得力だ。 前者は説得力というより迫力と言った方が妥当だが、 人間はえてして「まずてめえがやれよ」と思うものなので、これなしでは 人は納得しないことが多い。そしてもちろん、理屈がちゃんとしていないと 説得にならないので説得力も何もない。 なお、両方が揃っていても「こいつの言うことは聞きたくねえ」 と思われれば全てパアなのであって、 最初に考えるべきはそこのところなのではないかと最近思うようになった。 手遅れ。

つまるところムカツクという以外の理由で人に意見することなんて まずないのだ。あるのはそのムカツキにどれだけもっともらしい 理由をつけられるか、という違いだけである。 たとえば「そんなんじゃ売れねえよ」というのは比較的もっともらしい ムカツキの理由だろう。

うちにはPS2がないのでときメモ3ができない。 だったら会社でやればいいじゃないか。休日にやろう。 しかし、今は会社に行くと仕事してしまうのでときメモはできない。 むしろやらない。

モノの生成と消滅を管理する機構、モノを動かす機構、 モノを表示する機構、そしてモノとモノが相互作用(衝突等)する機構。 これがどれだけ綺麗にできているかでたいがいのことが決まる。 このあたりはどんなゲームでも変わるまい。

世界ノ全テDVD版の最中。ライブがどんなものなのかを知ったせいか 感慨も深い。CDやら何やらで聴いただけで ライブというものを想像するのはおよそ不可能なことだ。 録音と演奏会の距離もずいぶんと離れているとは思うが、 録音とライブの距離はそれ以上のものがある。 先日行ったあれは私にとってはずいぶんと衝撃的な事件だった。 そして改めて思うのだが、 私が知っている音楽とあのライブというものの距離は 本当はそれほど離れてはいないのだ。 音楽は体でやるもので、頭でやるものではない。 頭でやると誤解されがちなクラシックですらもちろんそんなことはなくて、 私が弾くのではなく私の体が弾くのである。 むしろ、頭は体の一部にすぎない、と言う方が感覚には合っている。 バッハの無伴奏を弾く時のあの感覚は今にして思えばライブで 一緒になって体を揺っている時の感覚とどこか似ている。 しかし、あれは自分から音が出ないことがひどくもどかしいのだ。

MIDIの類はショボいな。音質がどうとか言うのではない。 音楽が生きていない。電子楽器はダメだという偏見は ほぼあれで払拭されたが、むしろそれによって余計に そのへんのMIDI的なものが余計にショボく見えるようになった。 ドラムの類もなるほどショボい。誰だったかがどこかの音楽を ドラムがショボイからダメだと言っていた気がするが、 確かにわかる気がする。

2003年1月10日

細かく忙しい。この細かさは終わりに近い証拠だ。

さっきフロ場でクロックとゲーム画面がつながった。 300MHzは3億クロック。秒間60フレームなら1フレームあたり500万クロック。 まあその10分の1くらい何かに使っていいとすれば、 処理あたり50クロックなら1万個、500クロックなら1000個やれる。 何ができて何ができないのか、それをやるためにはあと何倍速くしないと いけないのか。そのへんが感覚的につながった。勝負はまだまだこれからだ。

2003年1月9日

ああ。水夏。 なるほど。それが直接の要因に違いありません。あったなあそんなシーン。

2003年1月8日

とても貴重な機会を逃した。やることがあるんだから仕方ないが、 悔しい。

M系列なのです。備えつけの。 一回M系列命令を出すごとにもらえる値が1ビットづつズレていくようです。 一度に複数ビット使うわけですから、 十分に前のを叩き出してから次のを取らないといけなかったわけです。 M系列が何者なのか今日やっと知りました。

弁当がないと昼休みになっても休む理由がないので、続行。 食いに行くのも買いに行くのも面倒なので却下。もちろん夜も同じ。 案外耐えられる。

ふと、気がついた。今日ミューズリーが底をついたのだが、店はあと3分で閉まる。 もうだめだ。

怖いことを考えないようにすることよりも、怖いことを怖くないように考える方が やさしい。ガキの頃に比べればそれがうまくできるようになったのだろう。 しかし、準備無しで足を突っこんでしまった時の怖さは昔と変わらない。 危うく寝られなくなるところだった。

やっぱりメシごときに1時間半もかけてはいけないと思った。 その後帰るならいいんだが。

ふと太陽系の惑星についてのサイトを見ていた。ロマンだ。 ところで、コンピュータは1980年くらいからずいぶんと進化したはずで、 今調査したら昔よりもずっといろいろわかるのではないだろうか。 もっとバリバリに宇宙な時代が来ないものだろうか。 今レンズマンを読んでるので余計にそう思う。

で、レンズマン三冊目。なんかこいつら惑星を兵器にしてます。 ソーラーレイも出てきました。 ものすごい速度で兵器の規模がとんでもないことになって行くんだが、 いいのかこんなので。最高の学者を結集、と言えば何を開発してもいいと 思ってるだろ。それにしてもロボットアニメの類の超兵器が たいがいこれに出てきているのには驚くばかりである。 しかしコンピュータは出てこない。計算は熟練した計算屋 によって行われ、計算結果が書かれたルーズリーフが飛び交う。 計算をする機械という記述もあった気がするが、 今のコンピュータみたいなものではないだろう。 なにせ原作は1937年。作者の頭の中はどんなイメージだったのだろうか。

2003年1月7日

今月の弁当を頼みそこねていた。今月は昼飯がない。 せっかくだからと今日は夕飯も食っていないので、けっこうひもじい。 しかし外は寒いので寝ることにする。

乱数が乱れてくれない。こんなところで引っかかるとは。

フロの中で唐突に理由がわかった。n-1番目からn番目を 作ってるんだから、隣合ってる値が相関を示すのは当たり前だ。

我々の年で妹と言ったらたいがいすでに成人なのだが、 それが妙に新鮮な発見であるかのように感じるのは何故か。

なんとなく買った渉の「哲学入門一歩前」という本をちらちら読んでいるのだが、 よくわからない。ひどく単純なことを言おうとしているようにも思えるが、 なにぶん文面がややこしいので、理解しきれず単純に 思えるだけかもしれないとも思う。入門とか言う割に どうも大学の教養を哲学中心に取ってそこそこ真面目にやったくらいの人 以上を対象にしているっぽいので用語がさっぱりわからない。 見たこともない二字熟語がバンバン出るのだが、 それこそ見たこともないのでどうしようもない。構制ってなんだ。 協働ってなんだ。想像しかできないのでひどく危うい理解になる。 これはこれでおもしろいのだが、やはり疲れる。

ところで、廣松渉の名前を最初に知ったのは 漫研部員が描いた漫画のオチだった。 確かにネタになるくらい独特な文章である。 世界の共同主観的存在構造、なんて名前の文章を書くだけあってハンパではない。

2003年1月5日

「寝ながら学べる構造主義(内田樹:文春新書)」。 あんたら頭いいな、本気で。それ以上何を言えばいいのだろう。 いろいろ違和感はあるが、こうも頭が切れる人がドカドカ出てくると 圧倒されるしかない。とにかくいろいろひっくり返る。 実のところ構造主義が何かというのはよくわからないのだが、 それが知りたくて買ったわけでもないし置いておこう。 たぶんそれほど大切なことではない。 そんなことよりいろいろと早合点していたことが修正されてうれしい。 かなりいろいろ恥ずかしいが。

文系の学者ってすげえ。昔はまるで敬意を払っていなかったが、 だんだん尊敬するようになってきた。最近ではむしろ理系よりも 尊敬しているかもしれない。文系の教育にちょっとあこがれる。

疑問を呈する機能が人間の知性において重要な役割を果たしている、 というハロワの主張はずいぶんともっともであるように思える。 ギャルゲーの演出用ハッタリにしておくには惜しい。

唯子って足でかいんだろうな。

そういえばアベノ橋のギャルゲーの回を見た。どうでもいい。 流行ったネタはきちんと見ておかねばなるまいとずっと思ってきたが、 ネタなんて一緒になって盛り上がるためのもので一人で見てもただの無駄だ。 一話見て判断するのもどうかと思って続けて二話ほど見たのだが、 やはり別にいいやという感じだった。

普通に仕事してしまったが、8時間50分で帰ってきてしまったので 振替休日はできない。あと5分だしねばるべきかとも思ったが、 どうせ振替休日なんて期限切れで消える運命にあるのだからいいや。 今日は年末に始めた実験が成功したので、明日からはこの成果を生かして 次々と新機能を実装する予定。アクセス解析どころではない。

2003年1月4日

今「罪と罰」を読んでいる。あまりにも文学の類を読んでいないので せめて有名なものくらい読んでおかないと恥ずかしいと思ったのだ。 とりあえず読みにくいしおもしろいとかいう前にそもそもわかっていない ような気がしてならないのだが、しかし迫力だけは感じる。 主人公の心理描写に迫力がありすぎるのだ。 気分というものが暴力的に人間を左右する様がこれでもかというくらいに 描かれている。なにもそこまでしなくともと言いたくなるくらい 人間のいやらしい面が描かれているのにも圧倒された。 ちょうど主人公の犯した殺人が登場人物達の議論の的になってきたところで、 だんだん面白くなってきた。 しかし疲れるので休み休み読むことにする。

実家で弟がゼルダをやっていて、あろうことかラスボスを倒すところを見てしまった。

上巻を読み終わった。続きをよこせ状態。で下巻に手を伸ばすが、 中表紙に全三巻と書いてあってしょんぼり。 存外八重州ブックセンターは頼りにならない。京大生協は便利だった。 そういえば東大はどうだろう。同じような店があるに違いない。 まあそれに限らずこれという本屋をご存知の方はどうか教えてください。

そういえば「夏への扉」を読んだ。何故買ったのかはよくわからない。 何か名前に見覚えがあったから買ったのは間違いないのだが、 一体どこで見たのだろうか。最近見たものと言えばギャルゲーくらいだが、 果たしてギャルゲーの中でこんなものが出てくるものだろうか。 わからない。 さて中身はなかなかおもしろかったが、 「うまい!」という感じのおもしろさで衝撃を受けるほどではなかった。 冷凍睡眠とタイムマシンを組み合わせて話を作るあたりがおもしろいが、 ウソはできるだけ少ない方がいいという私の感覚からすると 少々反則気味であるように感じる。

アクセス解析を作り直そう。バグりすぎ。ログが乱れまくって 一日に何人来ているのかすらわからなくなった。 昔作ったものだけに仕方ないが、情けないことである。 それにしてもいろんなアンテナから 人が来ているのだが、そのアンテナの主すら私は知らないのだ。 ましてそのアンテナを利用する人は一人残らず私の知らない人だろう。 不思議だ。

好きだと言うまで好きではない、というのも一理あるし、 好きだと言うと好きでなくなる、というのも一理ある。 真実はその間のどこかにあるのだろう。 全ての情報は程度の差こそあれ記号であり、 例えば言葉は記号性が高く、 例えば画像は記号性が低い、というようなことにすぎない。 好きであるという状態を構成する情報はさまざまだろうが、 やはり言葉もまたその中に含まれるだろう。 含まれざるを得ない。 そして時による劣化を免れることができるほど記号性が高い 情報形式は事実上言葉以外にはないのだから、 我々は好きだと言うことなくして好きであることを 覚えていることなどできやしないのである。 しかし、それによって言葉以外の莫大な情報がねじ曲げられるのは やはり望ましくないので、結局のところ使い方の問題ということになる。 ところでその「言葉以外の莫大な情報」などと いうものが本当に存在するかどうかはずいぶんと疑わしいのだが、 さしあたりあるとしておいて不都合はない。萌えが言葉遊びの産物だ、 というのはあまり愉快な説ではないだろう。 人の日記を読むといろいろと無駄に考える。

エミールの後ろについていた「マルゼルブへの手紙」を 読んだ。ルソーが自分がどんな人間なのかを書いたもので、 短いのですぐ読めた。 それで思ったのだが、この人はダメだ。重症。こうなったらおしまいだ。 あまりに共感するところが多すぎて、 それゆえに警戒心がふつふつと湧いてくる。こうなったらダメだ。 しかし、とある一文がそういった警戒心なしに刺さった。

ちがった気質、ちがった性格を自分にあたえることではなく、 自分の性格から利益をひきだして、自分自身にとってよき者となり、 他の人々にたいしてけっして悪い者にならないこと、

とある。まさに理想だ。しかしルソーがダメなのは、この後 「それがわたしの力でできることでした」と続けてしまうところである。 これが建前としては 「わたしにはせいぜいそれしかできないのです」という意味であることは 明らかだが、読む方はなかなかそうは思わないだろうし、 たぶんこの人は「自分にはそれができた」と本気で思っている。 ここだけではなく、ルソーの文章には 自意識過剰と思われても仕方ない記述が満ち満ちているが、 おそらく実際に自意識過剰なのだろう。 自分がそうであることを理屈としてはわかってはいるのだろうが、 あまりにも自分に自信がありすぎるのでそれを止めることができないのだ。 もう一箇所それはアカンやろという文章を紹介しておく。

わたしはとても人なつこい心をもっているのですが、 その心は自分ひとりだけでも満足していられるのです。 わたしはあまりにも人々を愛していますから、 人をえらぶ必要を感じません。

人づきあいに疲れて田舎に引きこもったオッサンの言葉である。 要するに、人には会いたくない、ということだ。 手紙の宛先の人物はそんなルソーを心配している人らしい。 そういう状況でここまで開き直るようではもはや打つ手なしである。 なんだかんだ言いつつ淋しいからこそ こんな文章を人に書いてしまっているということに 本人も気づいているようだが、気づいているからこそ余計にどうしようもない。

JAGが出ているライブに行ってきた。 演奏会なら何度かあるが、ライブは初めてである。 それらが違うものであることは想像はしていたが、 実際行ってみるとまさに全く違うものだった。 ああいうものもあったのかと思う。 本当におもしろかった。

   ちょっと書く。昔調べたが今確認してはいないのでウソかもしれない。 前ちょろっと書いたことの詳しい奴。

   波長は一次元だが、色は一次元であるとは限らない。 波長は光そのものの性質であり生物は関係ないが、 色は生物が受容してはじめて生じるものであり、両者は等しくない。 単色光が白かったり黒かったりすることはないが、しかし色としては 白や黒が存在するわけで、色と波長が別物であるのは明らかだろう。 実際、人間にとって色は三次元であり、犬にとっては 二次元であり、鳥にとっては四次元である。色の次元数は生物の光受容器の 種類に依存する。人間の色空間は3種の受容体 の反応強度を軸に持ち、よって三次元である。 光はその波長によって3種の受容体をそれぞれ異った程度に刺激し、 それらはそれぞれ一次元のパラメータとして刺激強度を脳に送る。 すなわちこの段階で1次元のパラメータが3次元に展開される。 三色の合成によってあらゆる色を表現できるのは、 そもそも我々人間が三色の合成比率としてしか波長を識別できないことによる。 実際RGBの三原色は四次元の色空間を持つ鳥にとっては不十分であり、 二次元の色空間を持つ犬にとっては冗長となる。 RGBは人間の視覚の特性に依存した色の表現形式なのである。 なお緑が最も見えやすいのは、緑受容体の感度が3つの中で最も高いことによる。

   ところで、波長は一次元と言ったが、これは生物が受けとる光刺激が 一次元であることを意味しない。 そもそも、我々が知りたいのは「その光の波長はなんぼか」 ではない。「その光には波長なんぼの光がなんぼ含まれているか」である。 厳密には単色光など存在しないからだ。 つまりそもそも知りたいパラメータは一次元ではない。 しかも、だからといって単純に二次元というわけでもない。 考えてみればわかることだがこのような場合、 この波長が強度いくつ、この波長が強度いくつ、と列挙していくことでしか このようなものを記述する方法はなく、波長が連続であるならば 空間の次元数は無限となる。 しかし我々はそんなものを扱うことはできないので、 ちょうどデジタルフーリエ変換のように 次元数を有限に落とさなくてはならない。 その際の分解成分として、人間はたまたま赤緑青という三種類を用意したのである。 ちなみに、生物は色の重要度に応じて適当な次元数を設定するように 進化してきたと言う。鳥は色に対して最も進化した種であり四次元の色空間を 持っているが、一方で単純な明度に対する感受性は低下してしまい、 鳥目になってしまった。

   ついでに。蛍光灯は人間に見えやすい数個の波長の光しか出していない。 にも関わらず白く見えるのは、前述の通り人間は三種の受容体の 反応強度バランスでしか波長を認識できないからである。 三種がある一定以上の反応強度を呈した状態を白と呼んでいる、と逆に考えれば良い。 なお、市販の蛍光灯は 受容体の吸収ピーク波長に対応した三波長を出すものが一般的であるが、 高級品になると自然な見栄えにするために二つほど余計に加えていたりもする。

2003年1月3日

東京に戻ってきました。 仙台ではダラダラしていました。 ところで、コミケの帰りに衝動買いした世界ノ全テDVD版と絆箱は 荷物としては大変なものだった。 弟と二人で若本に笑い転げ、ひとしきり笑った後、 私はこれのためだけに7千円もの金を払ったのだろうかと ふと空しくなったが、考えてみれば青葉の声がかわいいので それだけではない、ということで納得することにした。 そういえば、新幹線乗り場で急にそれ散るキャラの名前が 新幹線であることに気づいていい気分になった。 ひかり、こまち、のぞみ、つばさ、こだま。 あおばは知らないが、あるんだろうたぶん。

東京にいる父方のじいちゃんばあちゃん家に寄った。 東京に来てからいくらでも行く機会はあったのだが、 しかし今日まで行かなかったのである。 喜んでくれるのだからもっと行くべきだと思うが、 私は薄情なのでなかなか行こうという気にならない。 一年に数回は行くようにしようと思った。 ところで、今日はちょうど叔父さんと従兄弟がいた。 いろいろと思うところがあった。


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