日記0106

2001年6月30日

リリちゃ。

ついでに藤井大丸に寄ったが、 おいしいピザ屋を見つけたくらいでドリアンはみつからなかった。 だが、ドリアンを通販する店が当然ある。2〜3Kg一つで3000円程度。 参加するものは申し出よ。

アニメOP&ED集6時間。先輩がいろいろと註釈を付けてくれるので非常に勉強になった。 いろいろおもしろかったが、強いて一つ挙げるとすれば モスピーダの金田パース爆発か。

リリちゃミニシナリオ。キャラ出まくり。 涙が出るほど幸せだが、それは幸せだから幸せなのではない。 こいつらは幸せになろうとするから幸せなのだ。 それにしても、士郎かっこよすぎ。なんかこれ下手したら今までのとらハで 一番出来がいいんではないだろうか。なんで「魔法少女リリカルなのは」 なんていうフザけたコンセプトでこんないい話になってしまうのだろう。 ネタにして云々、ということがまるでできないお人のようだ。素晴らしい。

初通販申しこみ!!なんかえらくなった気分!!即座に発送しました。 これが最後でないことを祈ります。

何かを主張することは多く何かを傷つける。それでも主張したい時はあるけれども、 そういう時はんぜ主張したいのかを考えると多くの場合自分の黒い感情にいきつく ので、主張する気が失せて万万歳となる。いつもそうやって自分の中を見つめるクセ がつけば、そのうちそれが当たり前になってやさしい人間になれるはずだ。 もちろん、それでも敢えてするべき主張であれば、それはやっていいに違いない。

りりチャでハイになった上に道場で調子が良くて余計にハイ。 準備運動がわりに4キロほど走ってしまったが、まるで疲れてない。 明日が怖いというのはあるが、たぶん大丈夫だろう。 やはり走って通学しよう。膝もまだ痛いがそれほどでもない。 ああ、もう何でもできそうな予感。 これで漫画のネタが降りてくれば言うことはないのだが。

2001年6月29日

「ラストエンペラー」。最初の2時間が最後の1分のための伏線というあたりの 漢らしさがいい。出来は総合的に良く、長いわりには退屈しなかった。 そして特筆すべきは異様なエロさ。乳母の乳に手を這わせるフギLV3のエロさ といったらもうそりゃすごいのである。加えて足の指をなめる描写に 数十秒使ってたりするあたりもかなりエロい。

「生きない」。圧倒的に動かない。圧倒的にしゃべらない。 しゃべっても棒読み。だが、それがいい。異様に平板な一点透視構図と 無表情が作り出す空気の中では、演技が下手なこともかえって雰囲気を強化 するだけでまるでショボさにつながらないのだ。 あの空気の中では「生きていればいいことがある」などという言葉は ただそらぞらしいばかりなのである。また、テーマ曲も衝撃的に良い。 きれいでもあり、さみしくもある。そしてせきたてるようなテンポが心をかき乱す。 ところで関係ないが、ダンカンの顔は実に怖い。

2001年6月28日

こーへーからマウス借りたらちゃんと動いた。 マウスって壊れるのか。買いにいかねば。

やぶうち優「水色時代1」。漫画がおもしろいかどうかはよくわからないが、 あーオレあんな時代あったっけかなーと漠然と思って心地良さと淋しさが 同時に来た。たぶんいい漫画なんだろう。妙な説得力があることは確かで、 それは作者の頭の中がタイムスリップしているからであるような気がする。

あまずっぱいという言葉の意味がなんとなくわかる。確かにあまいが、 しかしすっぱいのである。

中学校編第1話サブタイトルが「BU・KA・TSU」。 後で気づいたが、負けだこりゃ。バカにする感情が半分、素直に感嘆する感情が半分。 頭の中が暖かい人はけっこうたくさんいるらしい。

とらハ本は片づいたが、千鶴本が待っている。痕か、なにもかもみななつかしい。 つうか浮かばねえよネタ。いまさら料理なんぞでは描けんし、数ページで いい話など書けん。いくらダラダラした漫画を書くにしてもとっかかりは必要だ。 そのとっかかりになりそうなものがあのキャラにはまるでみつからないのである。 シナリオ補完物はもうイヤと言うほど書かれているに違いないし、 if物も多かろう。もはや逃げる先は二重ネタ(バキ等他の作品とミクス)しかないが それを主軸として描くことを良しとしない美学がオレにはある。

コリン・ウィルソン「右脳の冒険−内宇宙への道」。 元の題名が「Access to Inner Worlds」なので、右脳の冒険は訳者が勝手につけた ものだと思われる。いきなり内宇宙ではオカルトすぎるという判断だろうか。 なお、中身は良い。テーマそのものは「右脳を使え」であり新鮮味はないが、 前から漠然と思っていたこともこれだけ丁寧に説得力のある言葉 にしてくれていると迫力が違う。多くの文学作品や哲学者の著作を例にしているのも 知的で刺激的だ。ぶっちゃけて言えばやる気がないのをどう克服するかという本 だと言えるわけで、やる気がない人におすすめの一冊と言えよう。オレとか。

大学の教養の授業で、歴史上最も重要な哲学者は プラトンとカントだと言った教授がいた。コリン・ウィルソンもそこまでは言わなく ともかなりそれに近いことを言っているように思える。 こういう人はそうレアではないようで、 プラトン以降の哲学はプラトン哲学の脚注にすぎないとまで言った学者もいたようだ。 考えてみればプラトンは哲学としては珍しく、 読む人のレベルがいかなものであってもそこそこ読めてしまう。 読む人のレベルに応じてそれなりなものを提供してくれるのがプラトンだ。 たまにプラトンの著作を読み返してみると その度に新しい発見があったりしそうな予感がする。 話が進んでから前の町に戻ると町人が違うことを言うような、 そんなおもしろさがありそうなのである。

2001年6月27日

時計だけ動いてて入力を受けつけなくなる。 落として再起動すれば、マウス大暴走。 "/kernel: psmintr: out of sync (0080 != 0000)." とかいうエラーが連発したりもする。 さしあたってFreeBSDのメーリングリストで検索をかけて解決策を探ったが、 どれも効果がない。だいたい今まで動いていたのだから、 ソフト的におかしいことはなかろう。機械がイったのか。

雁屋哲・由起賢二「野望の王国」。コンビニで衝動買い。 東大法学部をトップで卒業した二人が野望のために立ちあがる話。 今見れば 熱すぎるバイオレンス漫画だが、当時はこのくらいは珍しくなかったような 気もする。野望のために兄を殺した主人公に相棒がかけた台詞が 「十分間だけやる。十分たったら立ち直れ。そして今後二度と動揺するな」。 熱いセリフが目白押し。

とらハ本、執筆者には発送しました。この際送料が1冊で180円、2冊で310円。 というわけで、そのうち会った時に覚えていたらそれプラス400円払ってください。

てなわけで通販。1冊なら550円、2冊なら1100円、3冊なら1500円。 欲しい人はメールください。即日発送します。後でモノが届いた後に定額小為替 を送ってくれればいいです。いきなりウチ (〒606-8243:京都府京都市左京区田中東高原町49-2大槻アパート3号:平山尚) まで定額小為替を送って頂いてもかまいません。 なお、とらハ本特設ページにも そのことを書いておきます。

アニ同で話していてDVDドライブを買うことを決意する。

2001年6月26日

学校から帰ってみると、立ちあげた覚えのないネットスケープのウインドウ が画面に大量に出ていて、おまけにそのままハングしていた。 再起動してみるとマウスが動かない。 GENERICカーネルにしてもダメ。そもそもdmesgでpsm0自体が見つかってない。 マウスが動かなくても日記くらいは書けるしWEBも見られるが、 文字列のカットアンドペーストはできないし、キャプチャーソフトが使えないから ビデオは見られないし、当然ネットスケープのような画像丸出しのソフトは使い物に ならない。

隣にビデオデッキを運んで映画観賞。黒澤明監督「隠し砦の三悪人」。 超娯楽。実にキャッチーな作りで驚いた。カーチェイスならぬ馬チェイスに、 対決シーンやズッコケシーン、さらには微妙なお色気やらお約束も散りばめて まさに娯楽。漫画みたいだとはこーへーの評だが、この時代には漫画などロクに なかったのだということを考えればなるほどと思える。

W.Richard Stevens著「詳解UNIXプログラミング」。UNIXってのがなんなのかが なんとなくわかる。それにしても、open、close、read、write。 自分で何もかも制御できる気になるこいつらはかなり楽しそうだ。 perlでもそういう低レベルなマネはできるのだが、 結局Cのそれらを呼んでいるだけなので勉強することは一緒なのである。 だとするならばハナっから漢らしくCで何もかも自分で制御して書きたい。 いずれそれに慣れてしまって面倒なだけだと感じるようになったらC++なりperl なりの抽象度が高い言語を使えばいいだろう。やはり何もかも自分で 制御してやる経験が必要な気がする。それにオレはやっぱりアルゴリズムとか そういう細かい方が好みらしい。

マウス直らず。USBマウスしかない。動くのか。

とらハ本到着。 さて、通販でもしたら少しは売れるだろうか。 というわけで、欲しい方は メールを頂ければ発送します。 明日送料を調べてきますが、たぶん元値400円+送料で600円弱くらいでしょう。 たぶん面倒くさいので500円にすると思いますが明日まで決定は保留。 しかし、こういう時って何で支払いしてもらうもんなんですかね。 小為替って奴でしょうか。そのへんのお作法がまるでわからないのですが。

気がつかないうちに一冊売れてました。まさひろありがとう。 というか、オレが帰ってきたら印刷屋の箱がすでに開封されて置いてあり、 そばに「一冊頂いていく」という言葉とともに400円が置かれていたのである。 ああそうそう。参加者にはとりあえず明日問答無用で送ります。 よかったらそのうち会った時に送料+本代払ってください。ゲストなど いないというこの本のコンセプトからして「描いてくれたんだから一冊あげる」 みたいな思想はないのです。私はどうにもゲストという響きがなんかよそよそしくて 好きでないのでそんなことでこだわってみたりします。

実験の待ち時間にWEB巡りをして見つけた、 小春亭。この人の文章はおもしろい。 雄度が高いし、文章のつかみもうまい。いい人で頭がいい人なのだと 勝手に思う。あと関係ないけどたぶん年一緒だし、それの経験ないのも 一緒だし、いろいろ共感できてしまう。

生まれてから恋人というのがいた時間は全部でゼロ秒である。 それだけに普段やってるゲームで頻発するあんなのも経験はない。 みんなけっこうあるもんなんだろうか。近くにいる奴がそういう話を全くしないので 実態がまるでわからないのである。 経験のない人が同じ年代で50%であろうと10% であろうとさしたる問題ではなく どうでもいいといえばどうでもいいのだが、 なんか気になるあたりどうでもよくないといえばどうでもよくない。 ギャルゲーなんてやってるから気になるのか、 気になるからギャルゲーなんてやってるのか。たぶん両方だ。

マウス唐突に直った。一体何が起こっているのかは知らないが、ともかく これで大丈夫。しかし、またいつ熱暴走するか知れない状態なのは変わらない事実だ。

バンチ7。いつも通り。なお、これを買う時にサンデーGなんとかというのを見かけた のだが、それの巻頭が韓国漫画だった。しかし、バンチのアレなどとは比べものに ならないほどまともな漫画で、ごめんなさい韓国。しかし一体だとしたらバンチは 何故あんなものを。ちゃんと読んだら実はおもしろいのか。

2001年6月25日

漫研の修羅場でダラダラしていた。

2001年6月24日

抽象度の高いものを理解できる人があらゆる方面で切れるとは限らない。 増して人格的な成熟とはまるで別だ。代数論と人間的洞察が同列に扱わ れれば必然的に両方が伴って成長するはずだが、 そうならないケースが圧倒的に多いからである。 一体どうしたらあらゆる知識を分け隔てなく頭にゴチャ混ぜに 配置することができるのだろう。 だが、オレはそれをかなりハイレベルで実現してしまった人を知っているので、 それが可能であることを疑う必要はない。その人は天然だが、天然でできることは 効率こそ落ちるものの自覚的にも可能なはずである。 死ぬまでに到達できればめっけもんだ。 一生鍛え続けるというのは死んだら終わりな世界観からすれば苦行だが、 インド的な輪廻転生観を前提にすればそれを喜びやら生きがいにすることは可能だ。 オレは輪廻転生を信じるわけではないが、 魂のランクを上げようという思想は好きである。 ちなみに、こういう思想をオレが持つに至った最初の原因は 富士見ファンタジア文庫の雷の娘シェクティ(嵩峰龍二)だ。 オレはギャルゲーに限らず世間的に言うロクでも ないものからばかりいろいろ受けとるタチらしい。

シスプリ声優アイドル化計画。 ご冗談を。しかし12人そろって顔がまともだというのは大したものだ。 この写真ではよくわからんが。

O157防止ポスター。大丈夫か埼玉県。即刻保存。

アクセス解析のブラウザ名(UA)に 「UA を上手く使えば管理人がゲストブックを 用意する必要は無いのではないだろうか」とか「萌え、か…フッ」 とか言うのが入ってた。netscape/4.08とかに混ざってなぜこんなものが。 どこからそれが来たのかを特定してみよう。

なんかヒマになったのでアクセス解析0.7作成中。今まで保存するデータは 参照元URL、ブラウザ、ホストの3つだったが、これにファイル名を追加する。 つまり、javascriptさえ仕込めばなんの手続きもなしに複数ファイルの 解析ができるようにする。 この場合構造上どのファイルにアクセスしても総合カウンタが増えてしまうため、 カウンタの加算ルールを「指定された範囲のURLの外から来た場合のみ加算」 に変更する。また、いくつかあった致命的なバグを修正しておこう。

今日は暑いなあと思ったら熱暴走した。 クロックを300に落として応急処置。 もっとゴツいCPUファンじゃないと冷やしきれないか。

29日にはアレ が出る。千鶴本を片づけておこう。

急に起動しなくなった。GENERICカーネルに差し換えたら起動したので、 カーネル再構築。心臓に悪いことこの上ない。しかし300MHzは遅いのう。

代数論

  今まで見たもののなかで代数論ほど抽象度の高いものはなかった。 あらゆる知識で最も抽象度が高い部類に入るだろう。 数学的思考を数以上の世界に適用できる特典がついてくるという 実においしい学問である。 だがそれだけにむつかしい。 記号化された状態というのは究極的に抽象化された状態であって、 いきなりそれを頭に叩きこんでも間の抽象度のものがないために下のレベルと 分離してしまって知識が結合せず、つまり身につかない。 記号を通して記号以上の世界を感じられなければ到底理解できるものではなく、 中間的な抽象度を持つ知識を自分で補ってギャップを埋めてやらねばならないわけだ。 オレが大学一年の時にまるでわからなかったのは、ギャップを埋めながら 勉強しなければならないということを知らなかったからである。 ただ式や公理や定理を覚えて練習問題を解いているだけではわかろうはずがない。 これは代数論ほどのレベルの話でなくとも言えることで、 知らん概念を知ろうとする時にはいつもこのことがつきまとう。 天才と言うのは運良くギャップを埋めるような 中間的抽象度の知識を自分で補う必要もなくもっていた奴のことなのではないか。 小さい時分にできるだけ抽象度の高い知識を植えつけることは 将来あらゆることを理解するのを楽にする。親が自覚的に、そして計画的に 知識を植えつけていけば天才は容易に作れるのではないだろうか。 誰か実験してください。オレは結婚そのものができそうにない。

  ということはともかくとして、体、環、群、束。 拳法の秘伝4文字みたいだ。助けて。 どうにか卒業までに大方は理解せねば。 ところで、これをやろうと思ったきっかけの2割から3割くらいはSense Offである。 ギャルゲーもそうバカにできたものではない。

2001年6月23日

黒澤明「七人の侍」。メチャクチャかっこいい。おもしろい。 全く退屈しないし、キャラは立ってるし、話はいいし、 コンセプトはしっかりしてるし、演出もカメラもかっこいい。 まさに非のうちどころがない。見ないと人生損している。

北野武「HANA-BI」。おもしろいとかいうのを超越して、 来る。何かが来る。 こーへーと二人で無言で微動だにせず100分を過ごしてしまった。 一瞬たりとも目を放せなかった。 時間の8割は画面が何も動かないし、 セリフはほとんどないし、あっても棒読みだし、表情もない。 しかし、猛烈に感情が来る。猛烈に空気が匂う。なるほどこれが芸術か と思うほどだ。なお、見た後にダンカン監督・主演の映画の予告編が入っていて それもかなりおもしろそうだった。題名が「生きない」。もう、負けだ。

口だけなのが説得力がないのは、本人がしていないことをなぜオレがせねばならんのか という思いのためだけではない。その言葉が何を意味しているかを 本人が示していないがために、実行の指針がないからである。 自然を大切にとだけ言われても、それが具体的にどのようなものなのかはわかるまい。 多様な価値観を認めようとだけ言われても、 それが具体的にどの程度どうすればいいのかはわかるまい。 人が言葉のみによって動かされないのは、 言葉の持つ情報量だけでは動くに足りないからである。 言葉、ことに論理式としての言葉は極めて情報量が少なく 人に何かを伝えるにははなはだ頼りないものなのだ。 文章で何かを語るならば、論理式としての言葉には足りないその情報量を 論理式以上のものとしての言葉で補わなければならない。 本来言葉は論理式と等価ではない。それ以上のものなのだ。 そうだからこそ文章の説得力というものが存在し得るのである。 つまり何を言いたいかと言うと、説教臭いのはもうたくさんだということだ。

さあ、就職も片づいたし、原稿も一段落したし、4回生も独立させたし、 そろそろ遊ぶ時期だ。研究はほどほどにして、アニ同の人々と交流を深めよう。 やっと毎週例会に行ける。 会社の人事の人からも「会社に行く前に思い残すことがないようにね」 と言われたことだし、やれることは全部やっておかねば。

流しで頭を洗ったことがある人はどれくらいいるのだろう。 オレはフロに行けない時にはよくやる。

ラブひなのアニメを借りるのを心待ちにできるほどに成長した今のオレならば、 とらハ1の感想も以前と全く違ったものになるだろう。萌え尽き 妬け死ねること必至である。 我ながらなんと著しい成長を遂げたことであろうか。 だが未だオレはガンガンや電撃を読むことはできない。 それはオレがガンガン漫画をおもしろく読むのに必要なスキルが ラブひなをおもしろく読むのに必要なスキルに比べてはるかに高いからである。 そのためにも一流の映画や漫画やその他を数多く見て見識を広め、 寛容な心とたくさんの評価軸を持てるようにしたい。 その結果ガンガンが余計につまらなく感じられるようになったなら、 まあそりゃ仕方なかろう。

「ネタ」という言葉が世界を席巻している。ネタとして、ネタ的に、その他云々用法は 多い。だが、それが意味するところはオレにとっては 本来「教養を深めるために」であった。 まさに漫画のネタと同義であって、知識や教養、見識のことである。 オレにとって「ネタとして見る」は 一見おもしろそうには見えないし趣味でもないがそれでも教養のために 観賞する、という意味だ。教養という言葉が恥ずかしいまでに大袈裟なので ネタという軽い言葉を使っているにすぎない。だから、ネタとして見ておかねば 「ならんだろう」、と「ねばならない」がつくのである。 しかし、オレももはやその意味では使っていないかもしれない。

2001年6月22日

Wayneさんによる ゴミ消しプログラムを とりあえず試してみた。おお、消えた、消えた。使える。確かに 細い線のカスレが消されてしまうということはあるが、閾値面積をうまく設定すれば ノイズになる変な黒点だけ消すということができるだろう。 どうもありがとうございます。今回の原稿に使えばよかった。 たった1ドットやそこらでもプリンタは見逃さず黒い点を打ってくれるので、 そういうのがたくさんあると妙に画面がゴミっぽく感じになるのだ。 一つ一つが気にならなくても、数あるとけっこう印象に影響を与えるのである。 それに範囲選択の時に困ったりもする。

百万遍北のゲーム屋でトバルを280円で発見。妙に動きがリアルだが ゲーム的にダメでクソゲーという男っぷりが良い。やりたい人は連絡せよ。

TOEICが710点だった。何かの間違いだ。 オレは自分がまるで聞きとれないししゃべれないことをよく知っているわけで、 とすればこのテストは英語意志疎通能力の指標としてはまるで役立たずである。

アルゴリズム本

  Sara Baase著「アルゴリズム入門−設計と解析−」。 わかりやすいがむつかしい。だがおもしろい。 これ一冊を完全に理解しただけでもかなりの使い手になれそうな気がする。 とりあえず計算量解析理論は感動した。平均計算量オーダと最大計算量オーダは 常に頭に置くようにしよう。あとNP完全萌え。

  ついでに大矢雅則著「情報数理入門」と寺田文行他著「情報数学の基礎」。 似たような本だが、同じことを二通りで説明されればいくらか理解の助けになるだろう と思って両方借りてきた。これも使える。使えるというか、これくらい知らないと 達人にはなれないだろう。ただ、この手の本は二週間やそこら 借りて読んだところで理解できそうな気がしない。買わなアカンな。 就職する前に情報理論・数学・物理の概念くらいは ある程度理解しておきたいものだ。

人工知能本

  ヒューバート・ドレイファス著「コンピュータには何ができないか」。 最初の80ページでもういいやという気になった。発見がないのだ。 ただ、70年代までの人工知能研究があまりに無茶なものだったのだ ということはよくわかった。もちろんこの本に書いてあることがまんま本当で あればの話である。80年代以降の話はまるでないので最近どうかはわからない。 別の本が必要だ。

  規則を一つづつ植えつけて行く方法で意味を理解させるなど到底 不可能なのだということはあまりに自明に思える。自然言語 を解するコンピュータはコンピュータが単なるコンピュータである限りは 不可能なのではないか。 知性とは人間の行動決定機構のことである。だが、人間は所詮生物であり、 生物はほぼ共通のハードウェアを持っている。 アリとヒトの神経系の違いは所詮数だけであり、 その意味ではアリにはアリなりの知性があると言ってよい。 まずアリの知性を作り、その数を増やして入出力形式を等しくすれば人になる はずだという仮定は、全部の知識をインプットすれば人になるはずだという仮定より よほど現実的であろう。

  知性の見た目は入出力形式に依存する。であれば、コンピュータにはコンピュータ 特有の見た目をもった知性があるはずだ。それは犬の知性と人間の知性の差と 本質的には変わらない。 ただ犬と人間の距離よりは人間とコンピュータの距離の方がよほど遠いので、 人間にはコンピュータの知性など知性に見えないだろう。 しかしここで問題なのは、いかにして生物の神経系と同じ 原理で動くものをコンピュータで表現するかということ、そしてそれができたとして 果たして何に使えば役に立ちそうかということである。

  しかし、話を聞くとそういう無目的な人工知能はあまり主流ではないそうだ。 基本的に人工知能と言えば何らかの限定された局面でうまくふるまわせる ための研究であるらしい。

2001年6月21日

ただでもブルー気分なのに、コンロの横に置いてあった計量カップが 熱で溶けてたのを見て余計にブルー。

こーへーお薦めのサライ6冊。好き放題。戦闘メイドってなんです か一体。 そんななのに一応大筋では世界がどうとか言ってるあたりがイカしている。

覚悟完了せず

  リンクに関する議論を見ていると、 もはや自分の考えなんてどうでもよくなってくる。 人は絶望的に多様だ。 仮に「リンクしないで批判するなんざ卑怯者のすることだし、 リンクされて怒るのも筋違いである」と言ったところで、 「でも、人間はそう強くはなれないんだよ」と言われればそれ以上強く言えない。 言えば自分が冷血な人間であると評価されて損をする。 ひどい場合には「正論吐いてんじゃねえよ」と逆ギレされる。 正論と言ってるからには正しいと認めてるんだろう。 そして正しいと認めるならそれに従うように努力すればいい。するべきだ。 だが、やっぱり人間はそう強くはなれないのである。

  「物事はそう単純じゃない」と言うのは簡単で、加えて反論がしにくい 便利な言葉だ。しかし、それが実に良く世の中を表していることは事実であり 余計に腹が立つ。そして、自分もまた正しいと思うことに従わずに 「仕方ないんだよ弱いんだし」などと 言っていることがどうしようもなく気に食わない。 しかし、やはり仕方がないのである。人はそう強くはなれないのだ。 やさしさが大事というふうに言い換えればそれも悪くはない気がしてくる。

理解されたいです

  何かを言うということは、少なくともオレの場合は理解されることを 期待した行為である。建前としては反論を頂いて見識を深めたいとか、 純粋な表現欲求だとか言うのだが、本音は所詮理解してほしいだけだ。 だから誤解されれば腹が立つ。実に単純だ。 もちろん社会生活を営む上ではそういう単純さを複雑な理性と 建前で覆い隠して、かつ自分でも気づかないようにして生きているのだが、 しかしよーく自分の頭を覗いてみればやっぱりそんなもんなのである。 だから誤解を防ぐべく努力もする。が、まだまだ不十分なようだ。 主張することそのものに問題があることもあろうが、 多くのケースでは相手が誤解したことによって問題が発生する。 どうすればオレの感情の表現と正当な議論の手続きを両立できるのかは ずっと追求していかねばならない課題だろう。 おそらく厳密な議論だけを追求すればもっと妥当な文章になるのだろうが、 そんなのはおもしろくないに決まっている。自分でおもしろくないものを 書くのは表現者として間違っているだろう。

名指し賛成

  明示的には書いてないけどたぶんオレの文章読んで書いてるよなこれ、 というものを見つけるといつも辛い。 自意識過剰と言えばそうだが、そうとしか考えられないタイミングというのは あるのであって、そう思い込むのも仕方あるまい。 名指しでリンク張って堂々と勝負してくれればわかりやすくて助かるのだが、 そもそもそういうことをする人は名指しは不躾だという感覚を持っている 常識人であることが多いように見うけられるので、そう言っても通じまい。

  しかし、思えば自分でもそういうマネ をよくやった。そしてその原因は明らかに臆病だった。 反論を食らいたくないから名指しにしなかっただけなのである。 それになにやらもったいぶった理屈をつけていただけだ。 先方がそうかは知らないが、まあそれはこの際問題ではない。 動機はともかく誰のことを言ってるのかわからんのはイヤだなあと思うのである。 なお、そう思う文章に対してここでオレもリンクしてないのだから 同罪だろうと思われるかもしれないが、本当に相手がオレのを読んで書いたのか どうかが100%確かではないのでこれは仕方ないだろう。

  ちなみに、そういう文章を仮にオレのことだと仮定した場合、相手は オレの文章の意図をわかってくれてないとしか思えないことが多い。 ますますオレには文章力がないのかとブルーになる。 人を責めたいが責めても何も解決しないわけで、 であれば結局自分の至らなさをえんえん反省するしかない。

  これが 内田先生 の言う「とほほ感覚」か。何を言っても身に覚えがありまくり。 「こっちが善、おまえ悪」とは言えず、「オレも悪だが、おまえもうちょっと悪?」 くらいしか言えないわけだ。

2001年6月20日

できたぞー!!とらハ本!!入稿だ!!
てなわけで とらハ本宣伝ページ に表紙、裏表紙、目次をアップしておきました。

久しぶりに日記が丸一日空いた。健康度アップ。

バンチ6。獣医漫画でド肝を抜く設定が明らかに。というかなんというか、 いいわこれ。幸せで。そして他はいつも通り。

3台のwindowsマシン及びMACのIEで見てみましたが、 その現象は確認できませんでした。おそらくIMGのかわりに OBJECTを使ったことによるものと思われます。 altにTABLEを入れたかったので使ったのですが、そういうことがあるなら 強行するのもイヤなのでIMGに差し換えておきます。

物を評価する時には「これを誉めるのはかっこいいことだ」とか 「この人と同じ評価をするのはダメだ」とかいうような不純なベクトルが少なからず 入ってしまうものである。ラブひなをけなすのが良いと思っていた時期が オレにもあった。そして今も所詮ラブひなを誉めるのが良いと思っているだけ かもしれない。

大谷大のイラスト展示会に行った時に世代間ギャップの話が出た。 教育体勢の整った(=布教屋の多い)サークルほどこの問題が起きにくくはなるものの、 どこも次第にギャップが覆い難い状態になりつつあるようである。

自分の考えを長い文章の形にしていいことがあった試しがない。 オレの書き方が悪いことに原因があるのは確かだが、 仮にもっと厳密に親切に記述したとしても 大して誤解率は変わらないような気がする。 そして、たぶんそうやってがんばって誤解率を下げるよりも、 「です・ます」体にして「と思います」をつけて回った方 がずっと効果が高いのだろう。 そう思うと余計に文体を変える気にならない。 オレは独善的とか傲慢とか偏向的とか冷血とか不道徳とか 言われて辛くないほど無神経ではないのだが、では一体どうすればいいのだろうか。

2001年6月18日

オッサン。 下書き状態の奴をちょっとトップに置いてみたりする。

セガ。何故か実際にこうなってみると、 うれしいのかなんなのかよくわからん。 観測するまでは不定 だったのに観測して決めちゃった量子力学チックな気分である。

2001年6月17日

痛みがぜんぜん引かんのだが、どういうことだろう。 むしろ増えてきた気が。 ダメージが皮膚だけじゃないということか。 今日練習試合なんだけど、これで出れるのかおい。

和式便所。創意工夫に満ちたポーズによってクリア。

寝て起きたらさらに悪化。

もっと素直に文章を描かねばならんな。理屈をこねても その理屈を動員しようとしたのは所詮感情なのであって、 その意味ではオレの日記やら感想文も感情が出ていないことも ないと自分では思うのだが、やはり理屈を出すと 主観が見えにくくなるのは事実である。 理屈=客観=真理、という三段連想が働くことで オレが何か大層な真実を主張しているように感じてしまい それに共感できない人が猛反発、というのは今まで何度となく 起きてきたことだ。「勝手な主観を宇宙の真理であるかのように 語るなこのえらそうに」ということである。 何をどう書こうが所詮他人の主観なのであって 共感できないからと言って怒る必要はないと今は冷静なので 思うのだが、オレも他人のを読んで同じように思うので人 のことは言えない。 であれば素直に書くべきだ。おそらく感想文としてもったいぶって 書いたものよりも日記でダラダラと感想を書いた奴の方が ずっと出来が良いのだろう。もっとも感想文に納まり切らずに 日記にまで感想がはみ出してしまったギャルゲーは 今までにAirくらいしかない。

今から過去にやられたギャルゲーを全部やり直して感想文を 書いたら、どんだけ違うものができるのだろう。 そして二つ並べて置いておくわけだ。 たぶん文章の書き方について考えるいい契機になると思う。 ただ、たぶん過去にやられたにも関わらず今やったら別に大したこと なく思えてしまったりすることが多発するので、 それが恐くもある。

他人と一緒に何かを作るということが致命的にできない。 そもそも他人といい感じに折り合っていくことが致命的にできない。 就職なんて無理なような気がしてきた。めっちゃブルー。 誰かを本当に大切に思うことがないとダメなのかもしれない。

自分へ。他人のあらゆるセリフには「と思う」が省略 されていると思え。そう思えば「彼はそう思っているのだな、 押しつける意図はないのだな」と思えるので怒ったりせずに済む。 そして同時にもう一つ。自分のあらゆるセリフからは「と思う」が 削られて読まれると思え。そう思えば他人がオレのを読んで 押しつけと思う可能性について考慮できるから、 そんなにムチャなことを書かずに済む。

犯罪らしい

  小学生殺傷事件で大臣インタビュー。 安全やらなにやらの細かいことばかり聞かれて大臣も大変だろう。 てきとうに響きのいい言葉を並べて逃げているが、 基本的にこんな事件どうしようもねえよくそ、と思ってるのが ありありとわかる。大臣も大変だなこりゃ。

  そもそも学校なんざ簡単に侵入できるし、子供を殺すなど たやすいことだ。やろうと思う奴が出さえすれば10年前だろうと 20年前だろうと起こったであろう事件なのである。 それがなぜ今起こり、 前は起こらなかったのかが大切なポイントであろう。 警備員をつけるとか監視カメラをつけるとかいうのは 応急処置にすぎない。仮につけてもしばらく経てばダレてきて 警備もいいかげんになり、結果また起きるのである。事実2年前にも 似たようなことが起きていたのだが、2年を経てダレていたのであろう。

かわいい女の子という生物

  漫画には二種類の人類が描かれている。かわいい女の子とそれ以外だ。 同じ文法で描くこともできるが、多くの場合かわいい女の子は そのかわいさを失い、ただの女の子と化す。 つまり、オッサンの顔はなぜこんなにも 簡単なのにかわいい女の子の顔はなぜこんなにもむつかしいのか ということである。個性つけようといろいろ変えても オッサンはオッサンだが、かわいい女の子は ちょっとでも線がズレようものならもはやかわいい女の子 ではなくなってしまうし、顔の個性を出すのもむつかしい。 ところで普通はオッサンの方がむつかしいものらしいが、 それはギャルゲー同人的社会においての普通であって、 漫画の普遍の真理としての普通ではあるまい。 男塾などあまりに女が描けなかったのか 単行本の2巻以降にはほとんど女が出てこなくなるのである。 と正当化してみても、オレがギャルゲー同人的社会のなかに いてしまっていることは事実であり、 そうであれば描けねばならんのであって、どうしようもない。 助けてくれ。

  ところで、フリートーク用に描いたオッサン (とらハ3の晶の空手の先生である巻島十蔵の想像図) がけっこういい感じに描けたので、 本が出た後でそこだけ切りとってトップ絵にしておこう。 とかやってるからダメなんだうぐぅ。

漫画地獄

  自分の下手糞さ加減にイヤ気がさして 漫画はもうアカンわと何度も思ったが、 描いていると気分はそう悪くない。 不思議である。なんと言うか、辛い一方で 「これうまくなったらかなり楽しいんじゃねえの?」 という期待感がたまらないのである。2年前に比べて 漫画を描くことの辛さが数倍にパワーアップしている今でさえ この期待感だ。結局のところ、オレは絵さえどうにかなれば そこそこ読めるものが描けると未だに信じているのだろう。

  思えばオレが漫画を描く時の障害は全部絵である。 とにかく思いついたシーンを思いついたように描けない。 オレにとって漫画といえばまず何冊もある長編なのだが、 長い話が浮かんでも絵が描けず苦しい からとても最後まで描き遂げられそうにない。 その結果数ページで済むものを描こうとして ネタ出しに苦しんだり、 無理に縮めて意味不明にしてしまったりする。 いい感じな構図が浮かんでも絵が描けないから逃げざるを得ず、 つまらない画面になる。 つまり、オレの感覚としては オレはまだ漫画を描けていないのである。

  さて、絵が辛いというが、その内訳はデッサン7割に ペン入れ3割といったところだ。デッサンができないので 立体を回せない。イメージができない。イメージを紙の上に写せない。 顔だけでは漫画にはならないわけで、 どうしても全身を描けねばならないのだが、 それができないのである。なんでいつも見てる人間が こんなに描けないのかとイライラして耐えられなくなる。 ヒョロっとそこそこ正しく見えるっぽいものを描ければ、 グっと漫画の幅が広がるし、 描いてて楽しくなるので続くし長いのも描けるだろう。 そしてペン入れ。これがまともにできないのでせっかく描いても 画面が汚ない。細かいものを描く時にズレるから仮に下書きの 段階でデッサンがそう間違ってなくても人外になってしまう。 加えてペン入れが下手だと楽しくないので長いのを 描こうとしても保たない。 この二つがもう少しマシになりさえすればどんなにか漫画を描くのが 楽しくなることだろう。

  考えた話を描いてみて、それで評価が低いならあきらめもつく。 だが頭の中にある話を描くこともできない状態で漫画をあきらめるのは シャクだ。小説でもいいのだろうが、オレは漫画を描きたいのである。 ああ、結局オレ漫画好きなんだなクソ。 なんべん「やめてやる〜〜」と思ったか知れないと言うのに。 なんと言っても一人で売り物を 作れる範囲で一番複合度が高いメディアなのだから、 そりゃ挑戦したくもなるさ。

  考えてみたら、ノベルゲーの類ってのは漫画よりも複合度が高い が、ギリギリ一人で作れないこともなさそうな気がするくらいの 位置にある。そりゃ規模はどうしても小さくなるし、絵やら音やら 単体の完成度は下がるだろうが、総体としてなかなか おもしろいものを作ることは可能なのではないだろうか。 これがギャルゲーとなると少なくともオレには無理だということに なるのだが。

2001年6月16日

ジャンヌ・ダルク。電波女映画。こんな奴は関わりたくない。 演出とかはかなりいい感じでおもろかった。 キリシタン坊主どもがいい味を出している。 にしても火刑はイヤだ。キリスト教こわい。

バンチ連載「ガウガウわー太」。タイトル横に「超アニマル人情系」という称号 がつけられているが、誰の仕業だ。普通はハートフルとか横文字にしそうな ところを「人情」と書いてしまうのはなかなかである。しかし、さっぱりわからん。

やっぱりSCE落ちた。木曜までにセガからの連絡がなければおしまいだ。 そして連絡はおそらくないだろう。

道場に行く途中、コケた。コーナリングで傾けすぎてペダルが地面に引っかかったのだ。 平坦なところで地面についたくらいなら多少ガクンと来る程度で大丈夫だが、 運悪く歩道の段差に引っかかったためにまんま転倒してヒザ強打。膝から下全体 がじんじん痛い。日記に書くネタをこういう形で提供してくれる神を呪う。

絵さえ描ければ。絵さえ描ければ。そう念じる前に描かねばうまくならんのである。 つい効率のいい上達の方法はないかと考えてしまうのがうまくならない理由だ。 受験はそれのおかげでうまいこと行ったが、絵や拳法はまったく別なのである。 おそらく絵を描いている感蝕が気持ち良いという状態になることが大切なのだろう。 メシを食うのと同じように単純に気持ち良ければいいのだ。 拳法も「あ、これ」という感覚を主軸にして、要所要所で 理性の力を加えることで上達していく。 絵も同じはずだ。もっと感覚で描かねばならない。 そして、感覚の訓練の基本は反復なのである。

2001年6月15日

さらば宇宙戦艦ヤマト上映会。すげえ。やっぱすげえ。 あれだけ説教臭いことを言っても気にならないのは、 奴等がそれを言っていいだけのことをしているからだ。

総理大臣メルマガバックナンバー。 なんかきさくなオッサン達に見えてくる。 小泉氏はテレビで見てもええ人としか思えないので好きだ。

2001年6月14日

ゴミ消しの話ですが、 解像度が低い場合には必要なものまで消してしまいます。 しかし生身書きの原稿を十分な解像度で 取りこんだ直後に小さなゴミを消すという用途であれば、 スクリーントーンの点がひっかからない程度に閾値を 設定すれば人間が意図を持って書いたものはまず 引っかからないと思います。 もちろんデカいゴミもひっかかりませんが、 それは目で見てすぐ消せますので。 が、やはり「孤立した」の条件、つまり他の点からの距離の 閾値を変えられるようにしないと 繊細な筆とか丸ペンの線とかがヤバそうなのは確かです。 そういうことを考えてると、そんなこと考える前に ゴミののらないきれいな原稿を描けという気もしてきます。 あるいは自分の手で消して回る手間ぐらい惜しむなという気も。

こんなこといってるから絵うまくならんのだオレ。

HTML関係の文書を抹殺決定。思想的に今のオレと相容れない。 単なるギャルゲー感想文日記サイトになってしまう。 と思ったが、もうしばらく延期。 ヒマになって書き直す気力が出るかもしれない。

情報なんたら試験合格。ありがたみのない証書が一枚。 まあこんなもんだろう。ネタで受けたが、ネタにもならん。 勉強する理由として受けたが、勉強せんで受かってしまってはその意味もない。 もっとも、落ちても勉強せんかったことに変わりはなく、今度は金が無駄に なるだけなのだが。

とらハ3。レンクリアした状態で桃子・なのはゲームオーバーすると、 レンが普通と違うセリフをしゃべります。

晶シナリオなんつうあまあまじゃー。気づかんかった。 やはり偏見があったからか。そして熱い展開。 やっぱり3もすごい。

致命的に似ない。絵だけではない。人柄すら似ない。これはダメだ。 元が超人の作品だけにパロディは辛い。 元が優秀な常人の作品ならばどうにかなろうものを。 確認にやったりするんじゃなかったー。

とらハ。緩んだ顔しながら「きさまらっ、きさまらっ、きさまらっ」 と連呼するのは私だけではないはずです。 到底人前ではできません。 ちなみにらぶひなはここまではすごくない。が、顔が緩むのは一緒。

新教育指導要領 及び、 現行教育指導要領。内容はともかく、このHTMLなんとかならんのか。 なお、円周率3のウワサはウソで、 「円周率としては3.14を用いるが、目的に応じて3を用いて処理できるよう配慮する」 というところの後半だけを見て言っていただけらしい。

よし。これで行こう。締切りの前の日にこんなこと言ってますが、 許さなくてもいいですが、その、ええと、ごめんなさい。 てなわけでコンテ終了。

2001年6月13日

手遅れかもしれませんが、 「名→姓には惰性以外の理由はないし」 が考えなしなセリフだったことをお詫びします。 そのセリフのせいで論理としては人に私の考えを強いる ものになっていたことと思いますが、気持ちとしてはその意図は ありませんでした。気持ちと論理を一致させるためにも、 そのセリフが過ちであったことを認めます。 また、「これと同じ程度に」は「これと同じ程度には」、 あるいはもっと言えば「少なくともこれと同じ程度以上には」と 書かれるべきものであったこともここに付け加えます。 なお、自分が姓→名を支持する理由をあのような形で主観 丸出しのズサンな意見として書いたのはワザとです。 自分の意見に人に押しつけるほどの理由がないことを強調して、 それをもって押しつける意図はないのだということを伝えるための ものだったのですが、冒頭でお詫びした例のセリフのせいもあって 逆効果になったようです。これもまたすみませんとしか言えません。 私の書いたことが私の言いたいことを表していないという 状況を作り出したことをお詫びします。 > 野嵜さんへ(6/12)

もりりん氏による情報提供で、 テスラ。どこまでマジですか。 ところで、これ銃夢のトンデモ科学描写にあったのと酷似してます。

マテマテマテマテマテマテマテマテマ、テ、マティ、カ! 一回聞いただけでこの洗脳力。止めて。曲そのものは普通なのに。 この歌詞がイメージと一緒になって入ってきたために大変なことに。 テレビは私には刺激が強すぎます。一日中テレビみてたら 日記を50KBくらいは書けるでしょう。精神毒物。

20ナノメートル…。 原子間距離がだいたい0.1ナノメートルのスケールだ。 何が20ナノメートルなのかは知らないが、 その幅では100個も原子が並ばない。すごい話だ。 5年後にはみんな何十メガヘルツのCPUを使っているのだろう。 しかし、それは一体何に使うのだろうか。 5年後に出るOSはやっぱり何十メガヘルツないと 重いOSになるのだろうか。メモリは数ギガないと動かないのだろうか。 ハードディスクはあたりまえのように数百ギガ必要なのだろうか。 そもそもそのOSは一体何をしているのだろうか。

天下のSCEを見物してきます。言われた通り普段着で。 もっともこのための特別な普段着だ。 オレは普段着の範囲に納まるような普段着はまったくもって いないので、昨日改めて普通の服を買ってきたのである。

SCE。普通。10分くらいで終わったような気がする。 「で、今君は何ができるの」みたいなことを聞かれて終わった。 それ以外の質問は事実上なし。さらに、 オレが応募した職種はつまるところSEで、 ゲームを実際に作る連中のサポート業務であることがわかった。 それ以上でも以下でもない。よって何かを作る仕事では全くない。 やめだやめだ。セガ受かったらそっち行こう。 それに、どうも感蝕としては受かっている気がしない。 一緒になった奴は「より綺麗なCG」とか言ってる段階で オレ以上にしんどそうだったが、オレもバイオやってた奴が 使える根拠を示せなかったのでどっこいどっこいだろう。 所詮欲しいのはすぐ使える奴だけなようだ。

ところで、SCEは赤坂だか青山だか言うどこの馬の骨とも知れない 土地にあり、ここがまた異様に東京臭くない。あんなえらそうな 靴屋が通りに面して存在している段階で何かおかしい。

バンチ5。もう惰性だ。獣医漫画いいのう。

最近知的という言葉が縁遠い。かわいいとか丸いとか いい奴とか、そんなこと言ってれば幸せだ。つまりそれ萌え。 辛いと予想していたらぶひなアニメを何も苦もなくどころか えらい楽しんで見ていた事実からして、もうオレはダメなのだろう。 理屈もクソもなくいわれなく萌え。言い訳はもうしない。 どう言われても「だって、いい奴じゃないか」の一言で事足りる。

宇宙論

  もりりん氏に借りた 二間瀬敏史著「なっとくする宇宙論(講談社)」を電車の中で流し読み。 だいたい宇宙論がどんなもんなのかはわかったが、圧倒的に 基礎が足りないのでちゃんと読んだところで 全てをちゃんとわかれる気がしない。 宇宙論をやるのに必要なのは、古典物理、電磁気学、相対論、量子 力学、統計力学、素粒子論、そしてそれらに必要な数学だ。 こいつらを全部ある程度以上のレベルでわからねば まともに話が理解できない。というわけで、雰囲気はわかった ので宇宙論は後回しにしよう。だいたい「空間が膨張すると 波長も伸びる」なんて言われても、さっぱりピンと来ない。 宇宙の膨張によって銀河間距離は広がるが、恒星間距離は広がらない。 これは重力の違いによるらしいのだが、それでは 重力があると空間が伸びても距離が増えないのか、それとも 重力があると空間が伸びにくいのか。 前者なら空間が伸びても距離が一定になるような力が働いている ことになってなんかようわからんし、後者だと場所によって 空間の伸び方が違うことになってやはりようわからない。 だいたい空間って何よ。距離って何よ。だから 真空のエネルギーとか言われてもわからないのである。 とにかく今のままじゃダメだ。 もっと基本をやってからでないとロクでもない理解をしてしまう。

2001年6月12日

北斗の拳劇場版とバオー来訪者。北斗は圧倒的な作画、声、音楽が あるにもかかわらずストーリーのショボさで帳消しになりかねない アンバランスな一品。ネタとして楽しめる方にのみおすすめ。 一方バオーは荒木くさくないが普通にいい。 ただ、ところどころ無難になっていたのが残念である。 たとえば最初に列車にいた女が三陸に浮かばないとか、 育郎の親がドレスに殺されないでハナっから 絶望的だったりするあたりとか。

教育テレビ「マテマティカ」。 ピーターフランクルの語りが微妙に怖い。 外人の日本語はたいがいどことなく親しみがわくものだが、 なぜかこの人のは怖い。 なお内容はえんえん対称性の話。とにかく対称なものを 半分に折って重なるということを えんえんと繰り返して頭に対称性のイメージを 植えつけようというもの。 微妙に少しづつ手がこんできて抽象度が上がって ゆくあたり実にうまい。 同時に「対称のものは美しい」という美意識までも植えつけてゆく。 かなり洗脳チックだ。 ところで音楽とか効果音とかがかなりイカれている。 画面は万華鏡を写しているのだが、 そこでイカしたリズムの音楽が流れ、 その裏で絶妙な音量の子供の笑い声が何重にも響いている。 「アハハハハハ…」。 このセンスどういうことよ。

ゴミ消しツール、 本当に作ってくださるならありがたすぎます。 しかし、実はあんまり簡単な問題じゃないんですねこれ。 どのピクセルが何番目の黒い領域に属しているかを 全部保存しちゃえば楽なんですけど 馬鹿正直にやるとピクセル数×4バイトとかかかります。ダメすぎ。 なにかしら頭を使わないとダメみたいです。

NHK。大宇陀町に移り住んだ二人の外国人。と紹介しておいて 一人が何故か坊主。アメリカ出身の臨済宗僧侶らしい。 いるのだなあそういう人が。

らぶひな巻き戻している間に見てしまうNHK。 演歌歌手ってメチャクチャ歌うまいなおい。 歌のトドメが「冷たい嘘の、つける人」 すげえ歌詞。

らぶひなアニメリアルタイム感想文

  説明は一切しないので意味不明だが、許せ。

  5話。なんか妙にかわいい。 6話。おかしい。素子こんな顔しとったか4話か3話かで…。 というか、妙に動くんだが。7話。テンポいいぞ。1話がウソのようだ。 それにしても、この話はどういう意図なのだろう。 8話…。誰だよこれ脚本書いた奴。ヤバいんじゃないのかこのガメラ。 良いこの素子っぷりが。もう半ば意味不明だが。 それとらハ2。キツネさん。カオラさん。 あなた達の関西弁をレンに分けてあげなさい。 にしても、受験関係の小道具が妙にリアルだ。 ところで、いつからだ。外人は関西弁になったのは。 カオラようしゃべる。ああ王道。今まで気づかなかったが エンディングの絵なんだこりゃ。910話。 今まで気づかなかったが オープニングの曲なんだこりゃ加えてなんか変な音が鳴ってて とても気持ち悪い。何!インド人じゃなかったのか。 というかそれ以前に人間じゃなかったか。もう原作覚えてねえのは 確かだが、こんなんじゃなかっただろたぶん。 いや、こんなんだったかもしれん。 ところで、デカくなると関西弁が消えるのか。 おお、やっぱり久川綾。1011話。 なんだあこりゃあ。 夢オチじゃないのかこんなの。歌いはじめやがった!! 堀江由衣…歌がまともだ…。作曲もそれっぽい。 なんじゃあこのフロBGMは。1112話。 素子明らかにかわいい。が、 なんだこのバカなくせにいい話は。何故なんでもかんでも いい話にまとまってしまうのだろう。どうすればこんなおめでたい 頭になるのだろうか。あれ?なんで4話づつ入ってるはずなのに 11話でビデオが終わる?ああ、キツネが目を開けた!!激レア!! ドリル…。と、やっぱり13話じゃん。どこでズレた?後で確認しよう。 おーおー中学生の黒い感情爆発。にしても今回は絵が妙にTo Heart。 それにしてもだ。そんなのは本当に無縁です。中学生? 本当に無縁だったよ。たぶん作者もな。メカ傀儡…なんて言葉だ。 ぐわあやっぱりいい話に!!すげえ!!そして風呂!! 14話。これ、蛍太郎じゃなくて上田裕司。おおマイナーですな ジークンドー。最後のこの声、本人?そういや漫画家の修羅場 が妙に生々しかった。15話。おまえら軽々しく屋根登るなあ。 ああ、変なCG。素子の人声が裏返るのがいいなあ。 おまえ、それ発掘じゃないだろ。この猛烈な音楽なんだよ。 16話。さすが上田裕司すっげえハイレベルな棒読み。 伏線張れよ。本当にな。 それかなり発掘しすぎ。すでにドラゴンボール。よく動く。 やっぱりいい話に。そしてこの音楽。そんな伏線が!! 抜かしてたのは9話だったのか。しかし、抜けてたのは感想だけで 見てた。ツッコミ所がなかったらしい。

  人が読むこと考えてねえ。

ゴミ消し

  考えてみよう。考えてみた。斜め隣は接してないとする。

  基本方針。 まずリニアーに見ていって、黒い点が見つかったらそこから 上下左右に広げていく。広げ終わって面積が一定以下なら 消去。最初に始まった点に戻ってまたリニアー。 これの繰り返し。 最初に確保する領域は、ピクセルを表す二次元配列、 それに対応したスキャン済みフラグ配列、 閾値となるピクセル個分だけの 座標保持配列。 また、閾値達成フラグをグローバルに置き、 それを見て消すべき座標を記録するかを決める。 必要メモリ量は元画像容量の2倍プラスいくらかとなる。 白黒だと8ドットで1バイト なのでそのへんが面倒くさそう。

  1. 現在座標(X,Y)をフラグチェック。立ってないなら そのピクセルのフラグを立てた後黒いかをチェック。 黒かったら以下に述べる関数を呼ぶ。 フラグが立ってるならXを+1してまたチェック。 右端までいったらXを0にしてYを+1。
  2. その関数の中身。閾値達成フラグが立っていなければ 座標を座標保持配列に保存。 その結果要素数が閾値面積になったら、 閾値達成フラグを立て、座標保持配列を空にする。 さて、ここからは4方向のピクセルを順に調べていく。 それぞれの方向で行う手順は以下の通り。 まずフラグチェック。立ってなければそのピクセルの フラグをたて、次に黒いかをチェック。黒ければ現在座標を (X+1,Y)としてこの関数 を再帰的に呼び出す。 関数を呼んで戻ってきた場合は現在座標を元に戻す。 4方向繰り返して、元の方向に戻ったら 関数終わり。この関数に返り値はなし。
  3. その関数から完全に戻ってきたら領域が閉じたことを意味する。 そこで座標保持配列中にあるピクセルを全部白くし、 座標保持配列を空にする。 面積が閾値を超えた場合は保持配列が空になっているので 何も消さないが、閾値達成フラグを元に戻す。 この後は1のステップを続ける。
  4. 最後のピクセルまで進んだら終わり。

  う、関数がとんでもない入れ子になってしまう。 再帰を使わない論理構造にせねば。あと、たぶん遅い。

2001年6月11日

相手をこき下ろしてとっとと逃げるというのは言われてみてそうかもと思いました。 素人が素人であることを盾にするのもいけませんね。 「私にとっては」を省略するのもマズいのでしょう。 日記という段階でそういうもんだと私は思いこんでましたが、 考えてみればそう簡単には行きませんものね。 やはりいろんな物を読んで、いろんな人の話を聞いて勉強して 素人じゃなくなってから言うべきだということでしょう。 勉強したくない分野についてはハナっから何も言うべきではないのです。 勉強する気もないのに感想を、 しかも感想に見えないような形で書いてしまったのが間違いでした。 >野嵜さんへ(6/10)

わかりにくい書き方してしまってすみません。「AはBに文句を言う権利はない」と 「Bに文句を言っていいとAが思うのはよくない」は違うんです。 前者は外から見た時の話でなんか一般性ありそうな感じですが、後者はAの主観っていう 要は心構えの話にすぎないわけで。 えらそうに書いてるもんだから一般的な正義を言っているように読めてしまいます。 > piroさんへ(6/10)

もりりん氏 の掲示板への書きこみを全文引用します。

[534] 日記間のすれ違い投稿者:もりりん投稿日:2001/06/11(Mon) 03:07   [返信]

    >煙草云々
    ひらしょーが言っているのは、
    「喫煙者に対して嫌煙者が文句を言う権利がない、と喫煙者が思うのはよくない」
    「嫌煙者に対して喫煙者が文句を言う権利がない、と嫌煙者が思うのはよくない」
    ということで、
    piroさんが言っているのは、
    「喫煙者は嫌煙者から文句を言われる筋合いはない、という議論はおかしい」
    ということだから、
    お互いの言っていることは矛盾していないと思う。
    ていうか、言ってること同じでは?
    しいて言えばpiroさんがひらしょーの意見を誤解したということか。
   
    >「姓→名」「名→姓」云々
    ひらしょーが言っているのは、多分
    「名→姓にも姓→名にも根拠はある。世の中にはどちらも支持がある」
    「オレは姓→名の方が好きだ」
    ということだと思う。
    それ以外に言っていることは付属だと思う(推論)。
    この2つにはツッコミを入れる隙はないと思う。
    つまり野嵜さんのツッコミはもう「姓→名」「名→姓」に対してではなくて
    ひらしょーの文章の書き方に対してだと思う。
    だからひらしょーの「言い訳」もなんか的を得ていない。
    一方、野嵜さんの論法も何かおかしい。
    「”AだからBである”という文章は”CだからDである”と言い換えができる。
    後者は明らかに間違いだから前者も間違いである」
    という論法を多用しているような気がするのだが、
    これは同じく野嵜さんの意見
    「”私にとっては”という語を省略することで一般論のように話を進める、という
    のは好きじゃない」
    で言うところの「好きじゃない」文章の書き方では?
  
    日記巡りをしてる人って掲示板まで見ないかも。
    というわけでこの書き込みを日記内に引用しても可。>ひらしょー
 

結局私の書き方が原因という気がします。

イタリックの元ネタ(20010404) まきかずひこ氏による情報提供。イタリアン…。

日記スクリプト激バグです。アンカーが機能してません。 応急処置済み。2バイト文字マッチは怖いです。 応急処置なのでまた起こるかもしれません。

2001年6月10日

噂の新明解国語辞典で恋愛を引くとすごいことになる。都築先生も真っ青であろう。

みやざきゆうき氏のうちでダラダラ。

いたるくさいことを表す形容詞として まきかずひこ氏が「いたりっく」を提唱。

サンデープロジェクト聞いて思ったのだが、わからん。 わかろうという気がないのが悪いのも確かだが、 わからせる気のない方にも問題があろう。

小沢一郎。すっげえわかりやすい。 やっぱりわかりやすい奴がいいよ。 こいつを総理大臣にしよう。顔怖いし、いけるって。 今まで何回かこの人の話聞いたが、全てわかりやすかった。 何より、どう見ても悪党。

音ページに下の弟(15歳)から送られてきたMIDI2曲を掲載。 ドラクエIIフィールドスーファミ版と思われるものと、 FF4でなんか悲しい時にかかってた奴。 ちなみに弟の許可はとってない。なんかいい出来なので兄の暴虐発動。 さすがに3歳からバイオリンやってると絶対音感がつく。 ところで関係ないけど、弟サフィズムやったそうです。

高校一年にしてTo Heartどころではないこの状況ではあまりにエリートすぎる。 オレの弟という特殊事情があるにせよ、 好き好き大好きを中学生がやってしまう時代なのである。 しかし、たぶん奴が高校を出る前に ギャルゲー(及びそれ系な周辺メディア)は衰退してるだろう。 P.E.T.Sのような核燃料(シスプリ)の萌えカスみたいなものが 出てくる現状からして、すでに質的には十分衰退している。 あとは人口が減り始めるのがいつかという問題に過ぎまい。

うに曰く、

人が理をこねるのは問題がある時である。 理をこねれば必ず問題があるわけではないが。

繁栄・安定すれば問題が少なくなるだろう。 ならば理をこねる技能が減るのも頷けはしないか。

そらもっともだ。問題が減って理をこねるのが下手くそになったところで、 それによって問題が多発して今みたいなことになっていると。

プライベートライアン。すごかった。ストーリーがどうかと言われるとなんとなく どうでもいいのだが、圧倒的な存在感と空しさ。

もう一回

  野嵜氏へ( 6/10日)。

両方同じ

  「両方同じくらい根拠があるならば、(どちらが正しいと主張することの説得力においては) 両方に(根拠が)全くなくても同じだということになります」
のように、括弧内が省略されていたということでどうでしょう。 一応私だって考えてます。ただ、いろんな理由を考えてみても いまひとつ弱いのが現状です。 しかし、さし迫って結論を出さねばならない問題だとするならば姓→名を採用するでしょう。 その理由は以下の通りです。 まず第一に他のアジアな国の連中が姓→名のままであること。第二に音として自分は 姓→名という名前であるように育っていること。第三に、特に理由がない場合には より労力の少ない場合が善であるという私の感覚からして、ひっくり返すことに相当な 根拠がないならば「敢えて」ひっくり返さない方が善であろうということ。第四に、 そもそも「ひっくり返す」という発想が生まれなければ今日の 混乱はなかったであろうということ。 第五に名前をひっくり返すことが相手の文化を尊重する行為とは思えないこと。 第六に西洋人は中国人などの例で姓→名の順の名前があることをすでに知っており、 そこで日本人だけがひっくり返すのは無用な混乱を増やすだけではないかと思うこと。 第七にどうせ最初にやった奴は西洋かぶれの考えなしだったんじゃねえの とオレが思っていること。以上の理由から姓→名を支持します。が、 名→姓派の人もこれと同じ程度に確からしい理由を考えているでしょうから、 私は対外的に「こちらが正しい」と主張する気はありません。 そういう意味での逃げです。考えてないというわけではありません。 だって、このネタで議論しても別に得しないんですもの。

タバコ

  元々「謙虚でいろや。相手のことも考えろ」という主張でして、これを間違っているとは 誰も言わんでしょう。たまたまこれを極端な場合に適用してみると一見間違っているように 思える場合があったということにすぎません。人殺しに人権はない、という社会通念がある時に 人殺しのことも考えろと言われれば、確かにおかしいかのように感じるでしょう。 しかし、私が言っているのは「考えろ」であって、 その結果相手に譲歩するかどうかは別のことです。 ですから、人殺しのことをも考えてあげるべきではありますが、でも人殺しは所詮人殺しだよね、 ということになります。人殺しを喫煙者に置き換えてみれば十分に理解してもらえるでしょう。 元々私は大したことなんて言っていないのです。対立点がないわけで、 議論になるべき理由などありません。煽られても困ります。 piro氏ももし読んでいれば私の意図を理解してくれたものと思います。 が、まあタバコについて私がどう思っているかを整理しておくのも悪くはないでしょう。 下で述べます。

タバコ(たぶん二回目)

  私はアレが嫌いです。タバコと発音したり文字を打つことすら嫌悪感があるほど嫌いです。 嫌いな理由はこの際問題ではないので置きますが、嫌いです。 ここから生じた私の理屈は私にとっては全世界の真理でありますが、 私以外にとっては個人的感情を正当化するためのものにすぎないでしょう。 このことを私が理解していることをまずご承知ください。

  まず単純に整理しましょう。 前提として、あれを愛好する人はあれによって快楽を得ています。つまり主観的には得をします。 また、同時にそれを愛好することが愛好しない人に苦痛を与えます。 つまり主観的には損をします。 さて、行為をするある者をAとし、行為をしないある者をBとします。 Aは行為Xによって得をし、 この時に同時にBは損をする、と抽象化してみましょう。 さて、この時問題は「Aは得をするための行為Xによって Bに損をさせる権利があるか否か」となります。 このままでは解決できないので、一般に受け入れられているであろうある 原則を導入しましょう。すなわち「人に迷惑をかけるのは悪である」です。 これは「人に損をさせるのは悪である」、という意味ですから、 これを導入すれば問答無用に喫煙は悪になります。 つまり、「他人を犠牲にして自分の利益を図る行為は禁止される」わけです。 ここが出発点です。言うならば私の主張たる0という地点となります。 私としてはこの段階で反論する人はいないような気がするのですが、 具体性が高くなると途端にいろいろ出てくるのが現実というものです。 では、相手の主張たる1という地点はどのようなものでしょうか。

  1という地点は0の反対意見なわけで、「Aは得をするための行為Xによって Bを損させていい」ということであるか、あるいは「Xという行為はBに損をさせない」 ということになります。論理的にどちらかしかありません。 前者は自分の快楽を得るために他人を困らせて良い、となり直感的に偽です。 この論法で喫煙権を主張する人は未だ見たことがありません。 また、後者はタバコはあらゆる場合において誰にも迷惑をかけないという意味であり、 経験的に偽です。これもさすがに見たことがありません。 つまり、1という地点はこの場合あり得ません。 そこで、1がないなら0.9あたりにしてみましょう。たとえば 「AはBに損をさせないならXを行うことができる」 というようなものです。これは愛好者の一般的な主張で、「迷惑かけなきゃいいんだろ」 は非常によく聞く言葉でしょう。ここを出発点とするのが良さそうです。

  これで両方の最も極端な主張が出揃いました。後は両方の主張を推定して議論を させていきます。まずは0側から1側への反論です。
「おまえらが迷惑かけてないって言ってても迷惑かかってんだよタコが」
これは「人に損させないでXを行うことは不可能である」という意味ですが、 これに対するストレートな反論は論理的には困難です。 1側から言えば「その場に嫌いな人がいなけりゃ問題ないだろ」とか言いたくなりますが、 「吸いガラ汚ねえし、国として健康な人が減るし、害ばっかりじゃねえか」とか言われると それに対して返す言葉はありません。もうおわかりかと思いますが、 1側はどう転んでも加害者であり、 その目的が自分の快楽を得ることであるというゆるぎない前提がありますから、 論理的な反論はもはや不可能なのです。 よって、ここからは単純に論理的な議論でなく「社会的妥当性」とか 「情状酌量」といったものが入ってくる複雑な議論にならざるを得ません。 ところで、実はこの議論は快楽を得るあらゆるものに該当します。 「ギャルゲーは有害だ」「ゴルフは環境を破壊する間違ったスポーツだ」 等々、全てこの論法で議論を行うことができ、結果は全て行為する側の負けです。 それも避けられず負けです。結局全て社会的妥当性やら情状酌量の話になってしまうのです。

  さて、それを承知した上で、 1側が持ち出す「社会的妥当性」をいくつかに挙げて分類してみましょう。 まず第一に他の行為をひき合いに出して非喫煙者側を共犯にしようというものがあります。
「なんだって人に迷惑かけるもんだろう?タバコだけうるさく言うんじゃねえよ」
のようなものが代表的でしょう。つまり、 「人に損をさせる行為はXだけでない。よって、 Xだけを禁止するのはおかしい」というわけです。 上で述べたように他にも人に迷惑をかける快楽追求行為はたくさんあり、 極端な話気持ちいいことは全部そうだと言い張ることができます。 しかし、「よって」のあたりの接続が論理的でないのはおわかりでしょうか。 単純に言えば、「他にあるならいいのか」と言うツッコミがどうしても出ます。 しかし現実問題このセリフは非常に説得力があるので彼等はこの種の論法を多用するようです。 二つ目として情に訴えるものがあります。「それくらい我慢してくれよ」という奴です。 我々としてはこれに対して論理的には生殺与奪の権利を握ったことになりますから、 「知らんな」と言うか「許してやろう。ありがたく思え」と言うかは我々非喫煙者の自由です。 また、「オレも被害者なんだ」と言うのもこれに当たるでしょう。 しかしながらこれらの情に訴える主張は全て逆の立場からも 演出次第では同等のものが可能ですから、 イメージ戦略以外の意味はあまりありません。「煙が本当に辛いんだ」 と涙ながらに訴えるのは我々の側の常套手段でもあります。 さて、三つ目として数の正義を頼むものがあります。「喫煙者は多数いるんだから正しい」 という奴です。これに対して「数が正義ではない」と言い返すのは無益ですので、 我々の対応はあらゆる手を尽して喫煙者を減らすことになります。もう議論はおしまいです。 最後に話を経済などのスケールに移して「税金払ってるんだから貢献してるんだ」等々の 主張をする場合がありますが、これに対しては「それによって肺ガンになる人の治療コスト や町の掃除コスト等々を考えればマイナスだ」などのような反論をすることになります。 この場合事実上結着のつかない数字合戦になりますので、 これはある種不毛な議論だということになるでしょう。 他の反論もいくらでも浮かびますが、面倒なので書きません。 己惚れるようで恐縮ですが、私の想像を超える反論などいまだかつてありませんでした。

  結論として、我々は論理的には負け得ません。が、現実に論理的に結着がつくことはないもので、 結局数と力の勝負となります。議論は話を聞かない方の勝ちなのです。 となれば、我々としては実力行使あるのみでしょう。ハナっから互いに話をする気などないのだ とすれば、我々としてもタバコが有害であるかどうかなどの事実などどうでも良く、 ただ有害であるというイメージを広めて敵の勢力を削ごうとします。 国際的に遅れることが悪であることを証明もせずに「国際的に考えれば日本は遅れているぞ」と 言ってイメージを悪化させるなどは一例でしょう。 内容が正しいかどうかなどどうでもいいのであって、問題は効果だけです。 ある時は辛さを涙ながらに訴え、ある時は正論で打ち崩して支持を得、 ある時は強引に法律化を進める。こうやってじわじわと敵の勢力を削いでいきます。 喫煙派に大義名分となるような主張がない以上、論理的には圧倒的に我々が有利です。 喫煙の権利などないことは自明ですから、あとは敵が数において勝るこの現状を切り崩すために 広告の禁止、パッケージ警告の過激化などの法的攻撃を第一歩とするでしょう。 これらのものは喫煙の権利を犯すものではなく、ただ広まるのを防ぐ役割しかありませんから 論理的には彼等は反対する理由がなく通りやすいからです。 これが成れば、効果的に敵の勢力を削ぐことができるでしょう。 そしてそれが十分に進んだ段階で公的空間からの完全追放を行い、 もし可能ならば最終的には違法化となります。 が、同時にそこまでは行くまいというのが正直なところです。 現時点での敵の勢力の大きさを思えば、仮に到達できるにしても相当な時間がかかるでしょう。 敵勢力が落ちる前にあまり過激なことをすると逆ギレしたバカが社会を混乱させる可能性が高く かえって逆効果になります。ある程度以上勢力が弱まれば逆ギレは 自滅の原因となりますが、それまでは「ほら、規制するのなんて無理なんだよ」ということに なるからです。禁酒法の二の舞になったのでは我々としても意味がありません。

  さて、問題はこのように明瞭で、世界的流れからしてこのように動くのはもう間違いはない ところなのですが、事が個人的レベルになると多少違ってきます。 まず、友達にだって愛好者はいます。そういう人はいい人なので、そういう時にはわざわざ 離れてくれます。いい奴です。それを思うと、それ以上を彼に望むことが果たして 許されるのだろうかと思ってしまいます。実はこれは喫煙が許されるかどうかとは 次元の違う問題ではあるのですが、個人レベルではこれが十分な重みをもって迫ってくるのです。 その重みがわからない人はおそらく人づきあいなどできないでしょう。正義は 時として単純な感情に勝てません。 私は韓国人の前で教科書問題なんてとても口に出せないのです。 それに、あれがやめたくてやめられるような生やさしい ものではないということも聞きますから、言わば被害者である彼等にそこまで強く言って いいものかとも思います。また、金は人を狂わせますが、金より薬の方が直接的に狂わせます。 中古をやめさせようとしたエニックス側は敗訴の際「相手の主張を理解できない」という コメントを残していますが、彼等は金に目がくらんで脳に局所的な障害を来したようなものです。 2chで喫煙者が嫌煙者を電波よばわりしているという話を聞きますが、 彼等は同様に薬によって我々を理解するための回路が失われた哀れな人々なのであり、 そんな言うならば脳に障害を来した人々にどうこう言うのはかわいそうでもありますし、 端的に言って無駄でもあります。現実問題このような複雑な事情があるため、 私はグローバルな場では喫煙者勢力を削ぐことに協力を惜しみませんが、 個人的つきあいというローカルな場ではあまり強く言うことはしませんし、 相手を尊重して我慢もする、という二面性を見せることになるわけです。 私はこの一貫しない姿勢もまっとうなものだと思いますが、 他の方はそう思ってはくれないのでしょうか。

2001年6月9日

久しぶりに走った。あっと言う間に疲れてしまってダメなのだが、 疲れて頭が上下する感覚がなくなったあたりが心地良い。

走って帰ってきたらいっぺいが電気を消して寝ていた。 場所もないし起きる気配もないので仕方なくこーへーのところで 朝までダベっていた。意見が合う人間と話していると楽しい。

いいかげんにしなさい。 P.E.T.Sの話である。昔接した動物が女の子になって12人、というまではいい。 安易で救いようがないだけだ。しかし、この凶悪なキャラ紹介はなんだ。 キャラがまるで物のようにショーケースに陳列されている。 ちょっとしたエピソードやら文章で紹介するならともかく、 箇条書とは何事か。そしてその項目がまた下品である。 人を人とも思わぬこのセンスがどうしようもなく腹立たしい。 「だからギャルゲーはダメなのだ」と言っても無理はないと思わないか。

猫。ああーとか思う。フラフラと引かれていく。名雪状態。 ふかふかして丸いものはかわいいに決まっている。異論があったら言ってみろ。 いいか、丸は究極の図形なんだ。受け売りだけど。 にしても学会でたまたま陳列してあった ぬいぐるみを見てフラフラと引かれていくあいつはオレより上である。 ぬいぐるみであっても恐る恐る触るあたりが、上である。 ゆりチックでの名雪チックでもマルチチックでもなんでもいいが、あれはいかん。 なぜそんなに萌えキャラなのか。なぜそんなにキャラが立ちすぎなのか。

ああ。恥ずかしいのくれ。恥ずかしいの。わかるだろう。 誰か首筋に電波が走るくらいの萌えなものを薦めてくれないだろうか。 知的におもしろいのとか、ネタなのは今はいらない。 ダメにしてくれ。

発作的にビデオレンタル。期限は一週間。見れ。

とらハ3レンシナリオwithout Eシーン。すげえ。
「たぶんそうなのだろうけど、でも声にして言ってほしいこと」(うろ覚え)
それだよ。それ。それだ。本当にええ子や。こんなできた中学一年いやせんだろうが、 なんでおまえはこうまでも。とらハのすごいのはあまあまがどうとか、 シナリオがどうとか、そんなことじゃない。この善良さだ。この人間観だ。 道徳という言葉が浮かばないまでに道徳的で、 人間らしさという言葉が受かばないほどに人間的。 そしてストレートすぎてどうにもならないほどの友情ドラマ。 熱い。こんなクソショボイものを平気で。平気で。だが良し。良いのだ。 とりあえず例会には走って行くことにする。これから学校へは走って通おう。

with Eシーン。あ、そんなにヒドくないかも。とらハ2のようなすごみはないが、 悪くない。ただ、この子が12か13歳じゃなかったらの話だ。 体弱くてダブル、いやトリプルってると考えれば15歳くらいで、 まあそれなら精神年齢も含めてまあいいかという気にもなるのだが、 それは反則だろう。とりあえず、年という属性を忘れればさして気にならない。 十分キャラ描写だ。

タイトル画面の曲、ずっと聞いてるとすごい変です。和音が砕けてます。 確か現代音楽ではコード進行と言うんでしょうが、すごいです。 まともに聞いていなかったのでまるで気づきませんでしたが。

釈明みたいなの

  野嵜氏へ( 6/9日)。

1.ローマ字名前表記の話

  名→姓にも根拠はあるでしょうし、姓→名にも根拠はあるでしょう。 しかし、 今現在私にはどちらがより正しいという判断を 説得力のある形で下すことはできません。 よって、両方に同じくらい根拠があるなら、両方に全くなくても 同じだということになります。 どうせ多数決でしか決まらないタイプの問題ですから、 わざわざ根拠をあみ出すのも面倒でしょう。 ただ根拠なく好みで私は姓→名にしようと思うだけです。 もちろん好みでといいつつも自分が信じる根拠は当然なにかしらあるわけですが、 それが名→姓派の根拠よりも高等である自信はないので、それを「根拠ない好み」 と言うことで議論を打ち切っているわけですね。つまり、逃げです。

2.誤解を晴らす云々

  元々piro氏がご自分の掲示板から私の文章にリンクを張られて、 それに対して「だったら喫煙者に文句言うのは間違ってるのか」みたいな コメントをつけておられたので、それに対する説明でした。 掲示板だったのでリンクを張りませんでしたが、それが議論になっているかのように 誤解してしまう原因になったのかもしれません。 そこでの先方の口調がちょっと激しい様子だったので、 こちらもイヤミな感じになったわけです。 元々こちらの文章は喫煙者の問題に特化した話ではなかったのですが、piro氏は 喫煙問題に感心が強いので、具体的に結びついてそういう発言をされたのだと 思います。なお、野嵜氏が挙げられたpiro氏の文章は私は読んでいませんでした。 私はあの文章は感情的にまっとうだと思います。私もだいたい同じ気持ちです。

  さて、私の意図は、結局のところ「第一近似としては相手を正しいと仮定してみよう」 というところにあります。 Aが0を、Bが1を主張するなら、Aは1が正しい可能性はないか、 Bは0が正しい可能性はないかについて思い 巡らせた方が美しいし得なのではないか、という提案です。 また、AもBも社会で生きている以上は他人の目、つまりは第三者の視点を考慮する 必要が多くの場合はあるわけで、大多数である第三者の平均が 0と1のどのあたりにあるのかくらいは漠然とイメージしておいた方がいいのではないか ということもあります。所詮平均値などあやふやなもので、Aはそれを0.7と見て、 Bは0.2と見るかもしれません。しかし何も考えないよりはましです。 社会的に妥当でない意見を主張することは多くの場合損をしますから。 しかし、常にその感じとった第三者の平均値に従わねばならない というものでもありません。所詮他人で第三者ですから、 絶対的に正しいなんてことはなく、やっぱり圧倒的に譲れないことはあります。 下手に0.5で結着したために両方ともに怨念が溜るということもあるでしょう。 それに、あからさまに相手よりもレベルが上であることはあるもので、 そんなバカに妥協してやる気は当然しません。

  ただ、ハナっから譲れないと言ったのではあまりに不毛すぎます。 自分が社会のなかでどのへんにいるのか、そして相手が自分と何が違い、 何を根拠に主張しているのかを考えるステップを踏むくらいはしようか、 ということにすぎません。その後で「こいつダメだ」と思ってクソミソに叩き伏せる のはアリでしょう。それに、相手の立場に一回立たないと効果的な反論も浮かびま せんから、敵を知るための作戦の一環でもあります。 「自分が間違っているという可能性をチェックすることで 自分を防御すること」と言ってもいいでしょう。

  まあ、私のは単なるいい子ちゃんの主張です。私は到底いい子ちゃんではないので、 これみよがしに書いておかないと自分で気づけないのです。 また、正直言ってWEBには私など遠く及ばないくらい あまりに他人がどう思っているかを考えていない人が多すぎるので。 そういう人が一人でも読んで考えるきっかけになればいいなあという期待もあるには あります。もちろん読んでもわからんだろうなバカだし、という優越感もありますが。 ちなみに、野嵜氏のように2chで叩かれるのに実は少々あこがれてたりもします。 私は基本的にいけない子ですので。

2001年6月8日

イルカはかわいいけど、牛だってかわいいし羊だってかわいいので、 動物愛護団体は嫌いだ。どうせ奴等何かがバックについてるに決まっている。 グリーンピースの後ろにはどうせアメリカの畜産業者がついていて、 日本人が鯨を食えないようにして牛肉の消費を伸ばそうとしているのだ。 加えて鯨は魚を食いまくるので最近生態系が壊れ、そのせいで漁獲量が落ちている とも聞く。アメリカ人の狙い通りだくそう。 同じようにCO2がどうのうるさい連中の後ろには原発関係者がついていて コストの高い火力を減らして原発に乗り換える口実にしようとしているに違いない。 そしてどうせ原発反対運動の後ろには石油企業がついているのだ。 こんなのは全部憶測で偏見で被害妄想で、 加えてオレのオリジナルですらない受けうりだが、 運動というものは規模に比例して汚れるものであることを考えれば あれだけデカいものが純粋であるはずがなくもっともだと思う。 末端の戦闘員は純粋かもしれないが、それはバカと同義だ。 中核派の連中とか見ていると異様に楽しそうで微妙にうらやましかったりもするが、 ハタから見た時のバカバカしさを思えば到底ああいう楽しさを欲しいとは思わない。

京大には差別撤廃とかなんだかんだで巨大な看板がたくさんある。 最近見たのによれば、差別落書きを発見したので大学側の管理責任を問うそうだ。 そんなこと言われたって大学側も困るだろう。 だって、そんなことはどうでもいいことだ。 民族学校出の人が京大を受けられない現状をどうにかしよう、などというのは もっともであってまあかまわないが、しかしやはりどうでもいいのである。 都知事石原粉砕、とか言うのもどうでもいいのである。 彼等は自分がやっていることが大多数の人間にとってどうでもいいことを知らない。 いや、知っているのかもしれないが、それが絶望につながらない。 おそらくは自分達が他の何も考えてない奴等よりも優れているという感覚が たまらないのだと思うが、当然彼等はそれを否定するだろうし、 実際自分では気付いていまい。マジメでかわいい連中である。

一定面積以下の黒い点を消去するプラグインってないもんだろうか。 白黒2階調で読みこんだ時に出るゴミを消したいのだ。 つながった点の数を調べるだけだから、速度はともかく原理は簡単だ。

どうでもいいと思ってないことをかっこつけてどうでもいいと言うのは、 キャラ的にはかわいげがあっていいと思うが、 文章だとかわいげなんて伝わらないのでやめよう。 あらゆる作品は作者のキャラ描写であるというオレの考え方はたぶんあまりメジャー ではないので、あまり自分のキャラを立てようとしてあざといことをやると 誤解されて大変な目にあいそうだ。 というわけで。オレはhirayama takasiだ!!takasi hirayamaじゃねえ!! 絶対ひっくり返さないからな!!くそ!! これはこれでキャラ立ちしているかもしれん。

オレが「みゅー」とか言って似合う可愛い女の子だったなら かわいげ云々しても説得力があったのかもしれない。 ああ、そういうふうに生まれつきたかった。 なぜこんな23歳のむさいオッサンなのか。世の中は不条理である。

siと書いてもshiと書いても「し」の発音にはならないわけで、 だったらひらがなと対応するように書いた方が誠実なような気がしてきた。 つまり「si」だ。「si」は「し」と発音するという決まりにしてしまうのである。 「s」と「i」に分解できるものではない。だいたい inoueなんてアルファベット人種のほとんどは正しく発音できないのだ。 考えてみれば中国語のピンインは他の言語のアルファベット発音規則なんざ 完全に無視しており、到底英語的発想では読めないものになっている。 だったらローマ字もそれでいいんではないだろうか。 ただ、現実問題英語人はやけに多いので、英語人に比較的正しく読んでもらえる 表記法というのも役には立つ。だから、理屈はともあれ現実問題としては 「sho」とか「oh」とか言うのも根拠がないわけではない。ただそれなら熱田神宮を 「Azta gingoo」と書くくらいの覚悟はほしいわけで、 英語の時とフランス語の時で綴りを変えねばならんことになる。 やっぱりどうせ向こうの発音なんてわからんならひらがな対応形式のローマ字 でいいのではないだろか。

自分が変な人であるという認識を持つのはいいが、それをあまり公言して回ると、 自分より変な人にバカにされることになる。この変は「濃い」に 置き換えても同じであろう。これらは結局のところある価値観における 善、あるいは正義、あるいは優越を表しているわけで、 たとえばここで言う「変」は「変であることが善である価値観における変」 であってつまりはある種の「優越」である。つまり、「オレスゴイよね」 と根本的には同じなのだ。もちろん「変」にはマイナスな意味もつくため まんま「すごい」の意味にはならないが、「変であることが善である」という 価値観が共有されている限りにおいてはマイナスの意味合いが薄くなり、 結果「すごい」に近くなる。 「ボクちょっと変かな?エヘッ」みたいなのは気持ち悪いのである。 変な人はそんなに変ではないし、普通な人はそんなに普通ではない。 濃い人はそんなに濃くはないし、薄い人もそんなに薄くない。 あまり自分に自信を持たぬことだ。上には上がいるのである。 まったくもって自分に捧げる言葉。

言葉って奴は、つまりはポインタだ。デカい領域についた名前だ。 そして言語というしくみは 別に脳の外側で定義されているわけでなく、脳の中の他のデータと同等に 存在している。おもしろいじゃないか。脳という装置は自分の持つ莫大な データを効果的に処理するのに自分でポインタという概念をも生み出して しまったのだ。与えられたのではなく自発的にである。 ただ不幸ななのは、ポインタ演算ばかりして参照をまるでしないまま満足してしまう という奇行が発生してしまったことだろう。哲学者の一部やディベート好きが そういう例だ。また、とんでもない場所をポインタで差してしまって、 間違ったメモリ参照をすることも起こるようになった。 たとえばメガネというポインタで感じ入ってしまうのはまさにそれであるし、 バカと聞いていきなり怒り出すのもそれである。セグメンテーションフォルトで 止まらないのでタチが悪い。まったくポインタはむつかしいものだ。うまく使えば いろいろできるが、下手に使うとない方がいいというくらい悲惨なことにもなる。

数学、物理、そしてそれを表現して具体化するプログラミングは頭の抽象耐性を 育てる上で三種の神器だ。必修だと思う。遅ればせながら今からやることにしよう。 25になる前にそいつらがなんとなくわかるようになっておけば、それからの人生が けっこう豊かになりそうな予感がする。もっともあと1年しかないが。 オレを数学物理嫌いにした環境を呪うぞ。頼むから誰か教育を改革してくれ。

幸いにして子供を持つことになったならばせいぜい詰めこんでやろう。 力の限り。子供にとっては迷惑かもしれんが、 そんなことを思う前に詰めこんでやれば迷惑もなにもない。 ところで、恋愛とか結婚とかしてみたいなあ。あくまで「してみたい」であって、 そのままの状態を保つ自信はまったくないのだが。

みなさんご承知の通り私はイヤな奴なので、売られたケンカは買います。 でも、これで誤解が解けたなら仲直りしたいです。といっても知らない人ですが。 というかどっかて見た絵だと思ったら、前リンクはった人でした。(下参照)

数学萌え

  もりりん氏から借りた富永裕久著「図解雑学フェルマーの最終定理(ナツメ社)」。 とても読みやすい数学の歴史の本だ。むつかしいことは書いていないが、 数がどのように拡張されてきたかということから始まっておりとてもおもしろい。 題名の割にはフェルマーの最終定理についてはあまり書いてないのが またおもしろいところで、カバーがかかっていたために読み終わってカバーを 外して見るまでこれがフェルマー本であることに気づかなかったくらいだ。 で、これを読んでいて思ったのは、数学がまともにできる奴は 本当に頭がいい奴であり、当然他のこともできるのだなということ。 抽象度の高い知識を高レベルであるとするならば 数学と哲学は双璧であるが、数学は哲学に比べた時に「できるフリ」をするのが 極めてむつかしいという特徴を持っている。ということは、 数学をまともにできる人間というのは間違いなく頭がいいのである。 もちろん、「まともにできる」ということについては十分に 議論する必要があるだろうが、それはここでは置くことにしよう。 なお、この本はSense Off愛好者におすすめである。

  抽象性の高い知識は、それよりも抽象性の低い知識を結びつけることで理解される。 たとえばみかん10個とりんご10個から10という概念が導かれるようなものだ。 そしてその概念というものが一度理解されれば その抽象性の高い知識はそれそのものとして実体を持つ ようになり、より抽象性の低い知識をいちいち動員することなく用いることが できるようになる。通常現代人は10という数値を見た時にいちいちりんごやら みかんが10個ある絵を思いうかべたりしないわけで、つまりそういうことだ。 また、これは仮定だが、人は抽象性の高い知識を一度得たならば、 それと同程度以下の抽象性をもった知識については、すでに持っている知識と 全く関係がないものであってもさしたる労力を必要とせずに理解できると 考えられる。 なぜなら、具体から抽象へ至るプロセスそのもの、つまりは抽象化の方法を すでに学んでいるからだ。これはかなり怪しい仮定だが、 仮にこれが正しいとすれば数学以上に人の知的レベルを上げることができる ものはないことになろう。 というわけで、ガキに数学教えろやもっと。オレがガキのころにそうしてほしかった。

  ところで、具体的なものから抽象的なものを生み出して理解し、 そしてそれをあたかも具体的なもののように扱えるという機能は、当然ながら 脳の性能に依存している。 人間には聴覚野とか視覚野とかいう部分 ができてくることが知られているが、赤ん坊の時をまるで言語を聞かずに 過ごしてしまうと言語野ができないという事実から、 そういった〜〜野は遺伝的にそなわっているわけではなく、 後天的に脳の基本性能と外界の入力によってできあがるもので あることがわかる。ということは、言語、視覚、聴覚といったものと同程度に 重要で、かつ統合性の強い入力があれば、それに対して〜〜野が出来るだろう ということが言えるのである。また、解剖学的に〜〜野と区別できないまでも 〜〜野に近いものが階層構造をもって存在しているであろうことは間違いない。 ちょうどファイルシステムみたいなもので、数学野や物理野もたぶん どこかのディレクトリと同じような形であるのである。 ただファイルシステムと違うのは先にファイルがあって、 パスの先端から根本に向かって枝が 統合されていくようにシステムが構築されていくことだ。 そして、死ぬまでルートに行きつくことはない。

  抽象度を数値で表してみよう。たとえばりんごが10個ある状態と みかんが10個ある状態を抽象度0とする。そしてそこから得られる10という概念を 抽象度1とする。そしてさらにそれらの数から生まれる「数」という概念を 抽象度2とする。と、このように行く時、それぞれの抽象度に対応する〜〜野 ができているはずであろう。「りんご10個野」と「みかん10個野」から 「10という数野」が派生し、「10という数野」と「9という数野」と…から 「数というもの野」が派生して云々、である。 そして、あんまり抽象度が高くなってくると解剖学的に区別できるくらいの 大きさを占めるものになり、それを〜〜野と呼んでいるのではないだろうか。 おそらく最も抽象度の高い知とは 脳ミソ全体が〜〜野と呼べる代物になってしまうようなその〜〜野のことであり、 それが人間に到達できる究極の知であるということになろう。 それ以上の知には人類は到達できないし、おそらくそこまでの知にすら 到達できまい。であれば、到達できるものを作ってみたいというのが人情である。 そういう性質をもった素子をそういう性質を持つような結合形式でつないだものを 論理的に表現できれば、それはもう人工知能だ。あとは数やら速度の問題であって、 いずれ解決されるはずだ。ああ、どうにかそういう階層構造を自動的に形作るような データ構造が思いつかないものだろうか。

  数学本の話から完全に逸れてしまっているが、こんなことを考えた。 たぶんその道の学者から見ればとうの昔に通過した場所なのだろうが、 こうやって人の話を聞かず勝手に考えている時が一番楽しいのでいいや。 頭の良い人がそこら中にいるこの現状を考えればオレに考えつく程度のことは とっくに試されているはずだし、未だに人工知能がロクにできていないという ことは、それではダメだということであろう。人工知能が どのへんまで進んでいるのかを確かめておかねばなるまい。 いいかげんすでに誰かが知っていることを得意気に語るのが恥ずかしくなってきた。

誤解

  ああ。やっぱり誤解された。 もっとも、それを「誤解」と言うことは、 オレの意図を完全に理解した上で「おかしい」と言っている 可能性を否定しているので傲慢だ。しかし敢えて補足する。 これによってそちらをこちらがアクセス情報を参照して 見てしまったことが明るみに出るであろうが、 CSSなどに深い造詣のある方であるようだから、アクセス解析の存在くらいは 知っておられるものと仮定させて頂く。 わざわざリンクを張られた上で感想を述べられた以上、説明は義務であろう。 もし閉じた場所で人に知られていないことを 前提とする場所であったならばお詫びする。

  まず、「ヤバいことを書いた作者に文句を言う権利は 読者にはない、という認識は作者が持つべきものではない」というのは、 「Aに文句を言う権利はBにはない、とAが思うのは良くない」と表せる。 より簡単に言えば、「オレは文句を言われる筋合はない」と思うのはダメだ、 ということである。 そちらの例で言えば、「喫煙者(A)に対して嫌煙者(B)が文句を言う権利がない、 と喫煙者(A)が思うのはよくない」というふうに置き換えられる。 逆の場合「嫌煙者(A)に対して喫煙者(B)が文句を言う権利がない、 と嫌煙者(A)が思うのはよくない」というふうになる。 言葉を入れ換えただけだから論理的に等価であることはおわかりだろう。 先の例で言えばここで糾弾されているのはAたる喫煙者であり、 後の例で言えばAたる嫌煙者である。 氏は後の例のみを想像してそのような感想を持たれたのだろうが、 私が先の例と後の例を等価に扱っていることに注目して頂きたかった。 一方を正しいと断じた覚えは全くない。 互いに自分を無条件に正しいとしない態度が望ましい、ということを言っているだけ であって、普遍的真理や正義について述べたものではない。 それが「悪くない近似」の意味である。「すべて」あるいは「正しい」 という言葉を使われる時点で、そこを誤解されたものと判断した。

  世の中の物事はAとBの正義の間のどこかに第三者から見た正義の平均値が位置 しているものであり、たとえば喫煙者と嫌煙者の例であれば 社会的にも嫌煙者に近い側にその正義の平均値があることは広く認識されていよう。 Aにとっての正義も、Bにとっての正義も、所詮は一人だけの正義であり、 不確実性が高いのである。ちなみに私も嫌煙者であり、 また、喫煙権など存在しないと思う比較的過激な部類の嫌煙者だ。 そちらと意見を同じくする者であると思う。 >piro氏

ブラウザ統計

581MSIE/5.5
296MSIE/5.01
257MSIE/5.0
120MSIE/4.01
48Mozilla/4.75
44MSIE/6.0b
32MSIE/4.0
23Mozilla/4.76C-ja
20Mozilla/4.76
20Mozilla/5.0
16Mozilla/4.7
13Mozilla/4.73
12Mozilla/4.5
9Mozilla/4.6
7Mozilla/4.61
7sharp pda browser/5.0
6Mozilla/4.0
5Mozilla/4.77
5Mozilla/4.08
3Mozilla/3.04Gold
2Mozilla/4.72C-ja
1MSIE/6.0b/Donut-R
1MSIE/4.5
1Mozilla/3.0N AVE-Front/2.5

  総計1529。約一週間の記録。IE:1343(88%)、netscape:180(12%)、 sharp PDA browser:7(0%)。スタイルシートで致命的なエラーを起こす IE3はゼロという結果になった。また、なんだかんだ言うてまだまだnetscape が多いのもわかる。ただし、うちの日記を読む人のunix人の数を思えば、 一般的にはもうちょい少なかろう。それにしてもおそらく一人だとは思うが、 PDAで毎日見てくれている人がいる。いろいろあるんだなあ。

2001年6月7日

自分がしたことを当然のこととして言うと「オレとお前は違うんだ」 と言われて嫌われる。かといって自分のしてないことを当然のこととして言うと、 「自分がやってないことを偉そうに」と言われて嫌われる。 結局のところ自分がしたかしてないかはこの際問題ではなく、 その言葉が相手にとって心地良いか心地悪いかの問題であるにすぎない。 確かに前者の方が説得力があるが、その分相手の怨念も深いものになろう。 後者ならば相手は自分が従わなくていい理由を得られるが、 前者ではそれが得られないからである。

となりのこーへーとダサい漫画の話で盛り上がる。 そこにあった電撃大王とGファンタジーをネタに、 一つづつ見ていきながら「ダセー」を繰り返すという非常に意地の悪いことをした。 「うわ、今どきこれか?」「見ろ見ろ!!このコマダセーぞ!!」 「あーあーこんなセリフ描いちゃって恥かしくないのかねー」等々、 勝手な読者の意見を広げまくったので非常に楽しかった。 で二人の共通見解は「教養がない奴はダメだ」ということ。 Gファンタジーにしろ電撃大王にしろ漫画家に教養が感じられない。 漫画しか読んでない奴が漫画を描いていてはダメなのだ。なにやら大手同人屋も 混ざっていたが、到底商業誌で勝負できる器ではない。 2誌合わせてもおもしろそうなオーラが出ている漫画が2、3個しかなく、 どうにか読めそうな気になるというレベルですら5個もないのだ。 いくつかの漫画で絵がエロいという長所を見出だしはしたが、 それだけでは読む動機にはならない。 教養がないなら、ズバ抜けた何かがなくてはならないが、 少々頭が悪い程度とか、少々絵のセンスがいい程度では話にならんのである。 そうしてひとしきりバカにした後、バンチ。 ダメだダメだ言っているバンチですら、こいつらに比べればはるかに天上界だ。 蒼天の拳はダメだが、少なくとも個性が爆発しているし、インパクトがある。 そして「ガウガウわー太」はいいという見解で一致した。 話はふつーだが、かわいいのだ。画面もキャラも何もかもがかわいい。 作者の頭の中がかわいい。作者の顔すらかわいいのではないかと思いたくなる。 頭がわいているとしか思えない。 これも立派なズバ抜け方であり、つまり良いのである。

それにしても同人臭い漫画家はなんでこうもおもしろそうなオーラが出ないのだろう。 むろん同人が悪いと言うのではない。 同人臭いのと同人であることが別のことであることはわかって頂けるだろうか。 同人臭いというのは、例えば すでに2000年前に通過していることに気づかず繰り返すことがどれほどダサイ ことであるかを知らないことである。 ダサさに気づく教養もないのにプロをしていられる ということだけとっても漫画の裾野がいかに広がったかがわかろうものだ。

なお、こういうのが「自分のできないことをえらそうに語る」例である。 あまり誉められたことではない。

セガ行き。東京。

ローマ字表記は名が先か、姓が先か。どっちでもいいが、 どっちでもいいとすると向こうの人が混乱するので、どっちかにした方がいい。 そう考えれば数の多い名→姓が勝ちだということにもなるが、 気分としては音通りの順序である姓→名を押したい。 発音は「え」だけど表記は「へ」、みたいなもんだと言われればそうだが、 声に出して言われるとやっぱり違和感があるのでオレはひっくり返すのは 嫌いなのである。それに、どちらにも同じ程度に根拠があるのであれば、 ひっくり返すという動作が伴う分だけエネルギーが余分に必要なわけで、 つまりひっくり返さない方が勝ちである。 よって国語審議会の決定は歓迎。しかしこんなことで議論をする気にはならない。 名→姓には惰性以外の理由がないし、かといっていまさら姓→名に切り換えろ というのもムチャな話だ。

セガ最終面接。このサイトを見られていたことがわかって驚愕した。 そりゃ書類に書いたので不思議はないのだが、まさかわざわざ見るとは思わなかった のである。「ギャルゲー好きだそうだね」などといきなり言われた日には さすがに動揺せざるを得ない。で、 それ以外は無難かどうかはともかくとしていつも通り ベラベラしゃべっていた。これ以上ないくらい正直にしゃべったので、 心証は悪いか良いかのどちらかだろう。いろいろ「あ、マズいかも」 と思うことも言ったが、事実は事実であって隠しても仕方ないし、 下手に入ってから発覚して先方を不幸にするよりはよほど良かろうと思う。 なんだかんだ言って博士という道が残っているもんだから 真面目に就職活動ができないのだ。この期に及んでまだ何にでもなれると 思っているところが度し難い。

オールマンに荒木飛呂彦原作のニコラ・テスラの伝記漫画が載っていたので つい買ってしまった。ジョジョ第一部くささがふんだんに発揮されていて、 メチャクチャおもしろい。今の荒木よりも昔の荒木の方がオレは好きだ。

長月氏の帰ってきたウルトラマン最終回とその前、及びウルトラマンレオの 兄弟対決の回を観賞。二つともに言えることだが、シナリオが意味不明だ。 そして速い。別にズバットが特別速かったのではなく、 あれはこいつらをバカにするためにわざと速いことがわかりやすいように作った のではないだろうかとすら思えてくる。特に帰ってきたウルトラマンの最終回の 速さは超人的なので、是非見て頂きたい。なお、タイトルは「ウルトラ5つの誓い」。 何の脈絡もなくガキが意味不明な5つの誓いを絶叫しながら海辺を走る という感動的なエンディングだ。残念ながらオレの世代のものではないなというのが 正直なところで、あれが自然に受け入れられる世代も歴史的にはあったのだろうな というような冷めた感じである。 ということは、北斗の拳を見ても聖闘士星矢を見てもそういうふうに頭の悪いところし か見えない世代というのは当然生じてくるはずだろう。 世代間の断絶も無理からぬことである。

夏目漱石「文鳥」。「だった」連発で味もそっけもない文章かと思いきや、 異様なテンポの良さと落語的なユーモアがたまらない。 自転車日記に比べるとはるかに文章のレベルが上がっている。 やりすぎで寒く感じるところもなく、自然体だ。 漱石は敢えて娯楽小説を目指したそうだが、あの時代はこれがその娯楽的小説 だったのだなと思うと一種のあこがれを感じる。この現代に娯楽的小説といったら それはもう悲惨な文章のものがそれに該当するわけで、到底100年は残るまい。 やはり娯楽を志す人も文学は読まねばならないのではなかろうか。

正当化

  自分を正当化する理屈は全て間違っているという仮定は悪くない近似である。 「人は理屈じゃ説得されないんだよ」というのは説得する側が持つべき 認識であって、説得される側が持つべき認識ではない。 「読者はモロクソに言う権利がある」というのは作者が持つべき認識であって、 読者が持つべき認識ではない。「読者は作者に要求する権利はない」というのは 読者が持つべき認識であって作者が持つべき認識ではない。 「人は平等である」と言うのは差別する立場にある人間が持つべき認識であって、 差別される立場にある人間が持つべき認識ではない。あらゆる場合において 自分を正当化する理屈は醜く、間違っていることが多いのである。 例外はあろうが、極めて稀だ。 たとえば「人を殺してはならない」と言うのは 人を殺す側が持つべき認識であるが、だからと言って殺される側が持つべき 認識ではないと言えるかといえば、さすがにそれはやりすぎであろう。 差別問題や福祉問題のように事が本当に切迫した時は例外として良い。 だが、逆に言えばそのレベルにならなければ例外とは呼べないのである。

  正義は立場によって逆転するものであり、第三者から見た正義は その二つの正義の間のとこかにある。そして当事者は第三者から見て どのあたりが正義なのかを感じとりつつも、 あくまで自分の立場からの正義を基本にせねばならない。 だから、あらゆる発言は全てその立場というものを考慮して 解釈せねばならないのだ。例えば作者が 「読者は作者にいかなる文句を言っても良い」と発言した時に、 聞いた物はそれが「作者」という立場から発せられたものであることを 察しなければならない。同じ人間が読者としての立場に立った時には 「読者は作者にいかなる要求もできない」と逆のことを言うこともあるだろう。 だが、それは矛盾ではない。二つの言葉は同時に成立し得るのである。 聞いたものはそれらの言明をまんま受け取るのではなく、 話者の真意を量り取る努力をせねばならない。 そしてくどいようだが、同時に話者は読者がまんま言葉を受けとることを 考慮して、あまり極端なことを言わないように気をつけねばならないのである。 これも立場だ。

  最近この手のネタ多すぎ。分別ない奴をWEBであまりに多く見かけるから腹が立つのだ。 オレも理屈でしかわかってないのでよくこういう過ちを犯すが、 彼等は理屈ですらわかっていないようなのである。 自分が間違っているのではないかという 疑問は最終的には自分を利するものだ。恥をかいて社会的地位や信用を失わないための 防御手段だ。だがWEB上で匿名の輩にはその理は通用せず、よって彼らは永久に 愚かなままなのである。

  ところで、「ギャルゲーはダメだ」と言うのは ギャルゲーをけなす人々が持つべき認識ではなく、ギャルゲーを愛好する人々が持つ べき認識なのだと思うが、いかがか。

2001年6月6日

昨日は8時に寝た。思えば15年前はこれくらいの時間に寝ていたのだ。 良い子は8時に寝るものなのである。というわけで私は良い子だった。 しかし考えてみれば15年前は8時に寝ても3時に起きることはなかったわけで、 年というものを感じざるを得ない。何やら家族で云々な夢を見たせいで 妙な喪失感が支配している。一年くらい親元でダラダラしたいと本気で思ったりする が、それはもはや叶わないことだ。

日記書くためにギャルゲーやってる気がするこの状況をどうにかしてくれ。 知識がつくと初めて見たものを〜〜な〜〜(つまらないジョジョ、 デカい痕、等々)みたいな見方をしてしまうので、 新鮮味が薄れてしまう。こういう見方をしないでそれをそれとして見るように すべきなのだが、正直そういう心がけがなくてもそのものズバリに見えてしまう ような強烈なもの以外は触ってもうれしくないのだ。 思えばジョジョにせよバキにせよAirにせよそれはそれそのものだった。 観賞している間気持ちいいことも大切だろうが、 その後の記憶に残るかどうかの方がオレにとっては大切である。

「いいけど嫌い」とか「ダメだけど好き」は許される。むしろ誠実である とすら思うのだが、前者は理屈くせえと言われ、 後者は素直じゃないと言われ、ロクな目に逢わない。 これは「人格は一定しなければならない」という社会的要請と根が同じであり、 人間にできるだけ単純な役割を割り振って予測可能性を上げ、 計算量を減らすためのしくみだ。 社会のしくみだということであれば仕方あるまい。

バンチ4号。北斗の拳2が漫画としてはどうしようもなくダメにも関わらず おもしろくて困る。中坊ノリ+花の慶二の笑顔+北斗の拳のネタ/3という感じだ。 顔違うじゃんフギ。 City Hunter2 はダサさが薄れてきたし、なんといってもやはりうまい。 そして異様におもしろい山下たろー。1ページ平均10コマや そこらはあるのにまるで読みにくくないのが不思議だ。 コマがデカくて進まない漫画が主流の現在にあってはとても新鮮。 眠狂四郎。なかなか良い。しかし破壊力が弱いので、 慣れてきてムチャをするようになるのが待ち遠しい。 リプレイJ。普通。獣医漫画。普通でハートフルだがいい雰囲気。かわいい。 野球漫画。漫画はうまくないが熱い展開。絵はいい。 にわのまこと。ダサイ。辛い。もういい。 変な伝記漫画。ダメ。次原隆二。普通。安定しすぎ。とりあえず読むが。 そして最後の韓国人新連載だが、これがまた殺人的にダサすぎる。 ネタが90年代前半の三流誌でノリが80年代(超偏見)という感じだ。 絵もかけ出し漫画家をてきとうに使って格闘ゲームの漫画化をしたような感じで、 ダサい上に下手だ。 他のはちゃんと読んだが、これは読むことすらできないダサさである。 蝋燭を変なポーズで蹴り飛ばしながら「くせえぇー!!」と言いたくなるほどダサい。 しかもこれだけ読む順番が後ろからであるため、甚だ編集的に無理がある。 おそらく長続きすまい。韓国で売れていると書いてあるが、ウソだろう。 これが250万部売れるなんてのはかなりムチャだ。 もし本当なら…メソ。

韓国のものは何であれけなすのが心苦しいのだが、これはいいだろう。 いくらなんでもこれをおもしろいとはあいつも言うまい。 そう言えばいつぞや衛星でやっていた韓国ロボアニメ(虹のうんたらなんとか?) もまったく同じ種類のダサさを持っていた。「うお!韓国!!」という感じが出ていれば 「そうか」と思って見るのに、どう見ても日本作品の縮小再生産にしか見えないあたり が救いようがない。アフタヌーンでやっていた香港漫画とかはもう少しマシだったし、 微妙に中国チックだったと思う。 頼むから影響を受けるなら一流のものに影響されてくれ。 二流以下のものに影響されて三流以下のものを作るのはあまりにいたたまれない。 スレイヤーズのマネしてファンタジー書くなということだ。

あることを理解できるかどうかは統計的には運の問題であって、本人の責任ではない。 理解できないのはする気がないからであることが多いが、 理解する気がないのも統計的には運の問題であって、本人の責任ではない。 また、あることを主張することも統計的には運の問題であって、本人の責任ではない。 責任とは自由意志を前提とするものだから、責任がないというのは自由意志 がないとみなすことである。控え目に言っても自由意志の存在を仮定しない ということにはなる。マシン相手に腹を立てるのは筋違いなのであって、 人間がマシンなのであれば使い方(接し方)を 間違えた自分に問題があると考えるか仕方ないと あきらめるか二つに一つであろう。どちらにせよ争いは生じず万事丸く収まるわけだ。 だが、それを承知でなおバカに噛みつかれたいという気持ちが拭えない。 噛みついてきたバカを悪と断定して正義の反撃をする快感に溺れたい。 だが、それが余計な不幸を招くことはもう証明済みなのである。

なお、間違いなく言えることだが、日記を書いている時が一番不幸だ。 だが同時に一番生きている気がする。生きているとは周りに影響を与えることだ。 観測できるものは存在し、観測できないものは存在しないと考えれば、 自分の存在は周りから観測されることによって保証される。 日記はオレの行動の中で一番観測されているのである。 だからオレはもっと観測されることをしたい。 たぶん互いに常に観測し合うような人が現れたら広く観測されたいという 欲求も薄れると思うのだが、それは恋愛に幻想を持ちすぎだ。 ギャルゲーのやりすぎで頭が腐っている。もっと腐るギャルゲー教えてください。 できたらあまあまの奴。おっと、らぶひなのビデオ借りたんだった。見ねば。

らぶひなアニメ1から4話。1を見た時はどうなることかと思うくらい辛かったが、 2はそれほどひどくなかったし、3を見るころにはもう慣れた。 耐えようと思う必要すらなく見ていられるようになった自分の順応力が恐ろしい。 ただ、それはもちろん出来がいいと認めることとは違う。絵がかわいくないし、 演出はダサい。しかし、まあいいや。原作がこんなんじゃなかったような気がする 違和感がおもしろいし、動きにメリハリがあって悪くはない。 雪だけ妙になめらかだったりと妙に凝っていて、それがマッチしているかどうかは 別として面白がれる。なお、一番アニメ化で辛いのは たぶん原作の悪いところが増幅されたことだと思う。 アニメは観賞する側が時間を操作できないため、 原作を読む時にフンフンと飛ばしていたようなダサい話やダサい演出が まんま目に入ってくるのである。次に辛かったのは素子の顔がのっぺりしたことか。 ところで、なるが堀江由衣だと知って萌え系だけじゃなかったのかと感動した。 確かに良く聞いてみればあの声である。にしても素子の声はどうか。 あと衝撃だったのは、しのぶ。あんな奴だったっけ。何か印象が違うのだが。

評価次元

  n個の作品を見た状態で評価軸がm次元だったとする。 n+1個目の作品がそのm次元空間上で他の点から 大きく離れていれば印象に残るが、多くの場合はそうではない。 それでもそれを「そのもの」として楽しむためには その作品が区別されるような評価軸を新たに設定する必要があり、 結果m+1次元空間に拡張することになる。 赤と緑の二次元空間にいる犬が青と赤の区別をつけようと思えば、 青という軸を足して三次元である人間に進化する必要があるわけだ。 それに伴って過去のn個の作品もその新しい軸における再評価がなされ、 昔見たものにも新しい発見があるという二重においしい結果となる。

  なお、この働きはものすごすぎるものを見た場合は 勝手に行われる。 既存の軸ではこの違いを説明できないという時には新たなパラメータが勝手に 設定されるわけだ。 例を出せば「ジョジョを見てからジョジョ度というパラメータが導入された」、 というような感じである。その後に見た物には「ジョジョくせえ」 という評価が可能になり、その前に見たものも「けっこうジョジョくさかったかも」 という評価が可能になる。作品がつまらなくてもそのプロセスがおもしろかったり するので、かなりおいしい。そうしてどんどん不純になっていくわけだ。

日記の一生

  どうしようもなく何か書きたいことが出る。勢いにまかせて書く。 ふと反論・誤解が目に浮かぶ。それが起こらないように書き直す。 文章のリズムが狂う。それを直そうとしていじる。 ふと気づくと何を書きたかったのか忘れる。 それでもせっかくだからとどうにかしようとする。 修正不可能なほどリズムが乱れイヤになる。 それでもどうにかする。なんとかそこそこにまとまる。 しかし何を言いたいのかがよくわからない文章になっていることに気付く。 かんしゃくを起こす。消す。空しい。

  このプロセスは健康に悪いし時間を浪費する。ハナっからやらない方がマシだ。 と、ここで「だったらやるなよ」と言うようなツッコミが浮かび、 前の文を消すわけである。悪循環。何か「読者」という幻影に怯えているようだ。

samba日記

  鬱モードに飽きたので、行動。といっても単なる研究だ。しかし試薬が届かないので やろうにもできない。そこで前から放置してあったプリンタの設定をすることにした。 FreeBSDにSAMBAを入れ、そいつのプリンタポートにPSプリンタ(CLW3320PS)をつなぐ。 調べた情報を総合するに後はWindowsクライアント側にドライバを入れるだけで 動くはずだ。すでにファイル共有には成功している。 しかし、何故かうちの研究室にはドライバが見当たらなかった。 聞くとなんでかないのだと言う。 そこで、WEBにドライバを取りにいったのだが、そこにもなかった。 おそらくAdobePSがらみで自分のところに置けない事情があるのだろう。 仕方なくFuji Xeroxに電話してみたが、 「同じ建物の中辻研に同じプリンタがあるので借りてくれ」とのこと。 とりあえず借りられたが、何か釈然としない。 で、インストール。これで動くと思ったが、ダメだった。 妙なヘッダページに続いてpostscriptがタレ流される。 FreeBSD機からlprしても同じなので、これはprintcapのせいに違いないと思って 調べると、shを書き忘れていた。それを足したらFreeBSDからはlprでPSファイルを印刷 できるようになってよかったのだが、windowsからは相変わらずできない。 白紙2枚の間にsyntax errorとか書いた紙が出てくるだけだ。 おかしいと思ってsambaに送られてきたファイルを横取りして調べてみたところ、 ASCIIで送ったはずなのに何故か非ASCIIバイトが微妙に混ざっていた。 そこら中そうならそういうもんかと思うが、わずか4バイトである。怪しい。 FreeBSD上でa2psで作ったファイルを見てみてもそんな変な文字はない。 そっちは印刷できるのだから、この変な文字に原因があると考えるべきだろう。 だがこのファイルを作ったのはドライバであり、口は出せない。 アップデートもちゃんとした。一体何が悪いと言うのだ。 というところで都合悪くトナーが切れ、換えもないので今日は中断。

  さて、本当にその変な文字が悪いのかを確かめるために、 gs及びgimpに食わせてみた。 するとやはりエラー。エラーメッセージにもその変な文字のあたりで見た 文字列が入っており、そこが原因であるとしか考えられない。 これで原因はドライバか、送りつける過程にあることが知れた。 このドライバで印刷できている環境がある以上ドライバということは考えにくいが、 かといってtcp/ipで送りつける時にエラーが入るなんてのも考えにくい。 仲介しているsambaに問題があるとも考えにくいし、送るwindowsに問題があるとも 考えにくい。さしあたってドライバをファイル出力モードにしてみて、 それをFreeBSD機に運んで印刷してみることにしよう。 うまく行けば送るところが悪いし、それでダメならドライバが悪い。 しかし、どちらにせよ解決がむつかしいことになりそうだ。

  トラブルシューティングという奴はパズルみたいな頭の使い方をする。 実は研究もそうなのだが、オレは短気なので一つの実験にああも時間がかかると やる気をなくすのである。言うならば上の例の「sambaの出力を横取りして」 というだけで半日かかるとかいう感じだ。 しかし、やらないとどこが原因かわからない。 でも面倒くさい。そうやって実験に失敗するのである。 オレには無理だ。信頼できる手足がいれば研究者も悪くないのだが、 信頼できる手足がいつも確保できるとは限らないし、 オレは待つのが苦痛なタイプなので結局自分でやることになる。 生命情報工学はそのへんで頭を使う比率が高くておいしいのだが、 今度はプログラミングのスキル と数学が足りないために今の状態では太刀打ちできない。

  そういえばバイオ情報学で有名な金久研は 理学部のバイオ系からは人を取らないそうである。 数年前はまるで実験もせず何をやっているのかわからない研究室として 陰口をたたかれる存在だったが、今や我が世の春といった感じだ。 陰口をたたいていた側はさぞや悔しい思いをしていることだろう。

2001年6月5日

既存のファンタジー的世界観は土台ツッコミに耐えられるものではないのだから、 そのお約束に頼るのならば説明は演出レベルに留めてほしいものだ。 ロープレ的には眠らせる魔法なんて初歩なんだが、 証拠も残らんそんな術もった奴が町を徘徊しているのを許す社会なんてなかろう。 そこを放っておいて現代のうちらの社会システムや価値観を持ちこんで もっともらしく説明しようとしたところで、 砂の上に鉄骨のビルを建てるようなものだ。 土台から作り直さねば論理的説明をキチンとやるのは無理なのである。 その点で言うと月姫は50点といったところだ。 「意味を殺す」とか言うよくわからん話での説明に持ちこんで 現実次元でのツッコミを封じているあたりは良いが、 演出で済ますべき程度のことをウダウダ説明してしまっているために かえってほころびが見える。そもそも長いし言い訳くさい。

最近激情する描写が空々しく見えて仕方ない。特に悪役。 「〜〜なんだからなぁ!!」とか言うセリフを見るとうんざりする。 目見開いて口がニヤリ笑いでなんか微妙に見下ろしてる絵とかも同様にうんざりだ。 感情表現というやつは社会的要請なので、 ハデにやればやるだけウソくさくなると思う。 これも行き過ぎるとMoon.の高槻のように「自分で敢えてニセモノくさくしている」 ような気がしてきてダサく見えなくなるのだが、普通だととにかくダサい。 薄っぺらい。ドリーム職人みたいな淡々とした描写の方がかえって本物臭く感じる。 デジコの長い奴と一緒で、がんばっていろいろやればやるだけ 遠くで大きなものがゴウンゴウン回るのを眺めているような 空しさが増すばかりなのである。 オレが激情する漫画を描かないのはそういう意識のせいだろう。 もちろん激情する漫画を描いてみたいとは思うのだが、 オレの画力では感情を思うように表現できない。 自分のことを棚にあげて読者として言うが、同人の漫画にはそのあたりが圧倒的に 足りない気がする。月姫も漫画ではないが、文章・絵ともにそこが足りない。 作品には匂いがほしい。

絵描けなくて描きたい漫画も描けない人間の言うことではないか。 コマ割りとか構図が浮かんでも画力が足りなくて安易な奴に換えてしまうような 状態の人間には何も言う権利はあるまい。 読者の勝手な意見としても勝手すぎるだろう。

ソニー面接。また自腹で東京。 それにしてもしつこく「普段の服装で」とあるのが怖い。 なんといってもオレは比較的まともな服という奴をまるで持っていないのだ。 色褪せたTシャツとか、自転車に巻きこまれて裾が黒くなったズボンとか、 そんなんばかりである。いまだにB219という寮生番号がついた服が かなり残っており、しかもそれが現役なのだからその程度が知れよう。

クレイジータクシー2とか見ていると、 ゲーム屋というのが超人に見えてくる。到底務まりそうにない。 しかし考えてみれば自分ができないことができる人は全員超人に見える わけで、そんなことを言っていてはどうにもならないのである。 オレはなんと権威に弱いのだろう。

秋葉さん、私のところに妹に来てください。

月姫

  月姫終了。絵が数枚空いているが、まあいいだろう。 まず第一印象として、同人だからどうということは一切感じなかった。 絵の塗りが確かに多少素人くさいかもしれないが、その程度である。 お話の出来だけ言えば節操のない痕よりもよほど上だし、 キャラで言っても十分勝負できる。 正直秋葉の方が千鶴より強いし、梓や初音の弱さを思えば 琥珀やシエルの方が数段強い。では何が悪いのかと考えれば、 結局はくどさだということになる。長いから悪いのではない。 くどいから悪いのだ。論理的と感じるまでに論理的で、 道徳的と感じるまでに道徳的なのがいけないのである。 つまり説明に言葉を使いすぎたのだ。 また、そこをさて置いたとしても実は多少の弱みがある。 それは「これが月姫だ!!」というインパクトが弱いところだ。 確かに同人で作ったにしては卓越しすぎている出来であり、 プロの作品と比べても「作品」としての完成度は上位に位置するだろう。 だが、悲しいかな「そのこと」以外に売りが見当たらない。 すごく出来がいい以外にすごさを感じない。 すごく出来がいいの「すごく」は程度が甚しいという意味の形容詞で、 「すごさ」は感動の種類なのだと思えばこの心情も理解しやすかろう。

  だが、そうは言いつつもやはり話がいい。基本的にオレは自分の行動が 相手の幸せ度を変化させるようなシナリオに弱い。 つまり、主人公が関わらなかったらヒロインが不幸になってしまうような シナリオに弱いのである。そしてその次に、 主人公が関わればヒロインがドカンと幸せになれるようなシナリオに弱い。 この作品は実に全員が全員そういう要素が用意されているので、 当然のように効いたわけだ。そういうわけで、非常にわかりやすい形で 「自分の存在価値」という奴を感じさせてくれる作品である。 自分の行動如何でこんなに状況が変化する、ということだけでも 存在価値というものを感じさせてくれるに十分だ。 これだけ選択肢の質が高いものはそうそうないわけで、 一つの事件が多様に変化する相が見えるのは知的にとてもおもしろいのである。

  ところで月姫の出来事は全部仕組まれている。 それは事件全てが作品内の人物のせいであるということであり、 仕組まれたことは全部明らかになる。 そこはまあ良い。「なにッそうだったのか!!」だらけなのはいいことだ。 オレは先読みをしながら読んだりはしないので、素直に作者の掌の上で 踊って楽しめた。 掌から降りざるを得ないほどショボいところはなかったということだ。 ただ、「なにッそうだったのか」の次に来る感情が 「ああ、でも考えたらそうか」なのがけっこうガッカリなのである。 そうなると結局いい話要素を愛でるしかなく、「おおッ泣ける展開!!」 という状態になる。だがこれもまた問題があって、 主人公が不必要にいい子ちゃんで、加えていい子ちゃんであることを論理的に 説明しすぎているために覚めてしまうのだ。もののけ姫は 「自然を大切に」というお題目が臭くて嫌だったが、それと同じである。 道徳的なのも熱血なのも悪いことではないが、 道徳的あるいは熱血という言葉が頭に浮かぶようではダメなのだ。 言葉で説明するとイメージよりも先に言葉が来てしまう。 「ええ話や」というイメージや感覚よりも前に「ええ話や」という言葉が浮かんだら 興覚めなのだ。ゲームやった直後に「いい話だった」という感想が出せるようでは ダメなのである。そのあたりが少々辛かったかもしれない。

  なお、月姫ベストキャラは秋葉。 アルクェイドは「いい奴賞」で秋葉は「死んじゃう賞(c.もりりん)」なのだが、 やっぱり「死んじゃう」方が強い。 転生吸血鬼ルート行ったら秋葉どうなるんだろと思うところとか、 琥珀シナリオの壊れっぷりとか、秋葉シナリオの救われないっぷりとか。 なんかこういう人は放っておけません。 なお、琥珀は「黒幕賞」。 シエルは「準黒幕賞、兼、死刑囚イズム賞」。翡翠は「おまえが一番まともだ賞」。 ところでおまけシナリオの先生の奴さっぱりわかりません。 いらないんじゃないでしょうか。

  ところで関係ないが、 「死の線を見る」能力というのに元ネタがないなら大したものだと思っていたところ、 ある男が「それはらんま1/2の爆砕点穴だろう」と言った。 本当にそうならかえってそのアレンジ力に敬意を表したいところだが、 それはないだろうおい。

2001年6月4日

月姫アルクェイド及び翡翠。ええ話や。とっとと残りも片づけてしまおう。

五星戦隊ダイレンジャーの最後の4話の上映会。ズバット臭いバカさと、 無理矢理な熱さが良い。良いと言って良いのかはわからんが、まあいいじゃないか。 にしても、このご時世にガキはこの類のものは見ないだろう。 ダイレンジャーはそう新しいものではないが、 考えてみれば最新のものもこれと大して変わっていない。 特撮の映像としての技術力にはさほど変化がないわけで、 高度なCGを見て育ったガキには無慈悲にショボイと片づけられてしまうに違いない。

2001年6月3日

中村日出夫米寿記念演武会というのがあってタダだったので 見に行ってきた。でどうだったかと言うと、破壊。 型の表演とかはまあ元気だなあとかよく動くなあというくらいで 素人目にはすごさがわからないのだが、物を破壊するとなると 文句の言いようがない。杉板に始まって、瓦、ブロック、氷柱、 果ては土管。子供だろうが大人だろうが老人だろうが、 とりあえず割る。 振りかぶらずに掌底で瓦20枚を割ったのなんかはさすがと言う他あるまい。 15枚しか積んでないところを司会者が20枚と言ってしまい、 じゃあ20枚やらなきゃねということで20枚にするという いかにもなパフォーマンスまであった。 一回目失敗して一枚も割れなかったのだが、それで堅さが強調され、 二回目でコナゴナになったことのすごさが余計に強調されてしまった。 まさかわざとではなかろうが、恐ろしい。 ローで直径50センチはある土管を粉砕する演武もあり、同様に人間ではない。 ちなみに、中村日出夫本人は最後にちょこんと角材を切ったのだが、 さすがに年なようでいまひとつ動きが鈍かった。 しかしそれでも実際に角材が切れているわけで、昔は相当ヤバい人だったのだろう。

さて、格闘技としてはどうかと言われると、オレには判断できない。 バット二本をまとめてローで折ったりするわけで、当然蹴られればタダ では済まないわけだが、だからといって試合で足が折られる事故が 多発するというわけでもない。動かないものと動くものの差と言ってしまえば それまでだし、受ける側も同等の技量があるから大丈夫なのだといわれれば そうなんだろうが、やはり素人的に考えればあの威力のものがブチ当たって 無事なのは不思議だし、いくら防御技術があってもたまにはクリーンヒットも するだろう。人間の防御力は攻撃力に比べれば弱いもののような気がするが どうなのだろうか。

固定された物に力を加える際には 力×時間がデカかれば破壊できるが、 固定されていない場合には時間を大きくできないために瞬間的に巨大な 力が必要になる。つまりは速度だ。となれば結局人を壊すためには 速度を上げるのが一番効率がいいということになる。 パンチの速度は鍛練すれば200Km/hくらいにはなるはずで、 200Km/hの速度で500gくらいはありそうな手がブチ当たれば無事で済むはずがない。 加えて速いものはよけにくい。そして手が速く動くなら体全体も速く動くだろうし、 体の動く速度が速ければ自然と頭の動く速度、 つまりは反射神経も良くなるのである。 つまりスピードは全てなのだ。速度は何で出るかと言えば力であり、 力が強いほど速い。だから鍛えればいい。 そして同時に筋肉を使う効率を上げればより良いし、 加えて筋肉の出力を落とすような要因(運動方向と逆方向の筋肉、関節の摩擦) 等を減らせばいい。理屈はわかるし、何をやればいいかもだいたいわかるが、 それを実行するのが一番大変なのである。

2001年6月2日

ギコハハハの由来はなんだろう。響きの不自然さがおもしろい。 マターリとか逝ってよしは嫌いだが、これはなんとなくいい。 2chの連中を隔離して放っておいたらアーブ語くらいすぐにできそうだ。

月姫風、あるいは3x3eyes風、あるいはクライングフリーマン風の夢を見た。 人間外のボスのためにえんえん人を殺しまくる ハデな夢だが、それをする根拠がボスのためという以外にないにも関わらず する以外の選択肢がないというあたりがハードだ。「ボスのためにする=正義」 というところで必死に思考停止を図ろうとして苦しむのである。加えて 3x3eyes風に体がバラバラになっても死ねないアレなので、なんかボロクソだった。 起きてなおブルーな夢は久しぶりである。

256MBメモリが5000円を切ったらしい。 512MBを4本差して2GBとか言ってる人もいるに違いない。 しかし何に使うんだそれ。容量と同じ比率で速度も上がってくれないと どんどん手に負えなくなるというのに。

カスタマイズ可能なものを作るということ、つまりは汎用性を高めるということが いかに面倒なことであるかがだんだんわかってきた。 変数増えすぎ。 2000行を超えたあたりから混乱が目に見えて大きくなってきた。

unpackとpack萌え。なんでもできそうな予感。

ハッシュ萌え。これ構造体じゃん。なんでもできる。

2001年6月1日

知らないのは罪ではないけれども知ろうとしないのは罪だ、 というのは実際の道徳観に即していて妥当なのですが、 それでも敢えて知らないのは迷惑をかけるので罪だと言います。 知ろうとしないのはその罪があり続けることを許しているので余計に罪です。 自分に対して、あるいは抽象的にはそう思うことにしました。 もちろん具体的な個人に対してこういう態度を取るのは 厳しすぎるのでしませんけれども。

SCE(プレステの会社)書類通った。あんまり遅いから落ちたかと思ったんだが。 また事態がややこしく。でもうれしい。

最近またなんでもできそうな気がしてきた。何かの分野で成長が実感できる時は いつもこうなる。今日はそれまで漠然としかわからなかったオブジェクト指向が 実感をもってわかったのでかなりうれしいのだ。しかし、たかがCGIごときには オブジェクト指向の出番はないなというのが正直なところ。 もっとゴツいものを作らねば。そしてそんなものをperlで書く予定はないので、 事実上perlでblessとかを使う機会はないような気がする。

何かを集団の利益という点から言うことは多いのだが、 たいがいそういう時は弱者や善良で無知な人を切り捨てる、 あるいはそういう人にも努力を強いるような意見になる。 集団というものの無情な性質を考えれば別に間違っているとは言えないだろう。 しかし、それが正しいと思っているからといって「弱者を切り捨てていいのか」 と言われると罪悪感が走るのがオレの弱さである。 そしてたいがい言ったことを後悔する。 韓国人とアレな話をした時もそうだった。昨日のアレもそうだった。 例の慰安婦の話など、あったかなかったかは知り得るはずもないし、 仮にあったところでオレには関係ない話なのでどうでもいいのだが、 そう思っていることを言っていいかと言えば事はそう単純ではない。 どちらに正義があるかということ以上に、 どちらが正しく見えるかの方が現実においては重いのだ。 ヒステリックに噛みついてくるなら撃退してやろうという気にもなるが、 悲しそうな顔をされたり「あなたには同調できない」と静かに言われたりするのは とても耐えられない。

自転車日記。結局乗れないあたりがなにかいい。 それにしてもこのやりすぎな文章はなんだろう。 この手のやりすぎな文章は何かと寒くなるものだが、 やりすぎすぎてあまり寒さを感じない。 たぶん、おもしろいからだ。単純に出来事がおもしろいのである。 そしてこんなことをこんなふうに書く夏目漱石もキャラが立ちすぎだ。 これといい坊っちゃんといい、この人ってけっこう勢いでドバっと 文章書いちまうタイプなんじゃないだろうか。他のも読んでみよう。

久しぶりに道場行ってフラフラ。疲れる前の破壊力はさほど落ちていなかったが、 疲れる速度がケタ違いだ。これではどうしようもない。 研究に頭をすり減らしていては勁力が失せてしまう。

なにげなく隣をのぞくとクレイジータクシー。

perlでもオブジェクト指向というのはわかります。 プログラムがデカくなって、オブジェクトとみなせるまとまりがあるならば 迷うことなくそうすべきなんでしょうね。しかし、今作ってるのには 「オブジェクト」と言えるような変数のまとまりがないです。 無理矢理できないこともないですが、おいしさが足りないかも。


もどる