日記0105

2001年5月31日

その日のうちに帰れない日々。そのかわり、数十分単位ではガラガラ時間が空く。 徹底的に忙しいならまだあきらめもつくものを。

漫画描かな。とらハーとらハー。参加者の方で見ている人へ。 今日が申告締切です。オレはもちろんレン漫画4枚+穴埋め。

千鶴本もあった。アカン。なにせ千鶴はみんなでネタにしすぎて いいかげん残ってないのである。安易に料理ネタでも描こうものなら 火焙りに処されることうけあいであろう。もちろんそんなものを描く予定はないが、 浮かばねー。たぶんいつも通りギリギリになったらどうにかなるんだろうが、 どうにかなると言っても千鶴外生物になる可能性が高い。

余計に気分の悪い記事。国が滅ぶ。えらくなって変えてやりたいぞクソ とけっこう本気で思うが、思うだけで現実にはとてもえらくなんてなれそうもない。 つまりオレの仕事ではない。セガとか受けてる人間が何を言っても無駄だろう。 ああ、教育をどうするかとか言う会議に 呼ばれるようなえらい人になってみたかった。

ガキには詰めこめ。バカが損をするシステムを構築せよ。 能力の差別は正当だ。なーんて言ったらとんでもないことになるのだろうな。 増してオレに京大などという称号がついているだけにタチが悪い。 それとは関係のない次元での意見だと言っても説得力などあるまい。 しかし最近平穏でおもしろくないので、ボロクソに言われて ボロクソに言い返すというのにあこがれているところがある。 しかし始まったら始まったで不毛さに耐えられなくなるのだろう。 本人以外に影響力のない議論など本人の成長以外の役には立たないのだ。

おお、自制回路が。何 かに憤って興奮が高まると「おまえはどうなんだおまえは」 という問いかけが発生するような回路が完成しつつあるらしい。 多くの場合その問いかけには 「オレ、ダメ人間じゃん。えらそうなこと言う資格ないね」 という答えが返ってくるため、急速に覚めるのだ。

最近日記のせいでギャルゲーができない。まったく本末転倒である。 しかし考えることが止まらないので仕方ないのだ。 加えて最近は他人の日記を読む習慣 ができてしまったため、考えるネタが常に外から提供されてしまう。 数分、あるいは数十分の空き時間に本を読むのは苦痛であるし、 プログラムなど不可能だ。 毎度拳法の練習をしているわけにもいかない。 となればやはりWEB日記ということになるのである。 というわけで実験の合間に日記を読むというのは非常に有意義なのだが、 帰った後の時間の使い方を決定してしまうという欠点がある。 オレは入力に対して処理をしなくてはならないという強迫観念があり、 加えて最近処理した結果は出力しなくてはならないという 脅迫観念が出来上がってしまった。 もう最悪だ。ギャルゲーがもはや逃避の手段にすらならないのである。 ギャルゲー話目当てでここに来ていた人はもう愛想をつかしていることだろう。

関数を分類しよう。もらった値をどうにかして返す奴と、 もらった値を使ってシステムに対して何かする奴と、 もらった値以外をいじる奴と、単によくやる処理をまとめただけの奴。 第一の種類はバグがなければ変なことはしないので安心してブラックボックス化 できる。第二の種類は使いどころが問題になるが、ちゃんとエラーを吐くようにして おけば問題なくブラックボックスにできる。第三の奴はポインタやらリファレンス で値をもらう奴だったりグローバルをいじったりする奴だったりするわけで、 こいつらは危険だ。クラスにしていじる変数と一緒にしてやらねば 枕を高くして眠れない。そして4番目の奴はブラックボックスにはできないので いつも監視が必要だ。そう考えるとできるだけ1がいい。 値をもらって返すのが基本だ。 とりあえず外の変数は直接は絶対に見ないという決まりを 設けよう。ポインタで見る時も必ずクラスにして危険をなくす。 多少面倒くさくはなるが、こうすれば1万行あっても耐えられるだろう。 というわけで、Programing Perlのオブジェクト 指向のところを真面目に読むことにする。

隣がクレイジータクシー2。メチャクチャおもしろそうだ。 一体どういうことだあれは。あんなもん作る連中の仲間入りするなんて 可能なのか?超常スキルなしでは到底務まりそうもない気がするのだが。

2001年5月30日

野嵜氏のサイト 坊つちゃん全文が置いてあった。それも元の表記。こっちの方がしっくり来る。 本を買って読んだ時は なんで明治の本のはずなのに表記が今風なのかと疑問を持ったのだが、 やっぱりこっちだったのだ。出版社が書き換えをしたのだろう。 ガキへの配慮だろうが、いまひとつ気にいらない。ちなみに 野嵜氏のサイトには他のいくつかのものも元のまま掲載されている。 さらに新聞の表記への反論などの国語関係の記事も満載だ。 その道の人だと知ってはいたが、ここまでやる人だとは知らなかった。 すごい気合である。私はそこまでの気合もないが、ぼんやりと 日本語というものの形が保たれることを望んでいるフシがあるので、 50%くらい賛成といったところだろうか。 言葉は変化するものだが、かっこ悪い変化はやはりイヤだ。 元々違う漢字を一緒にしてしまったり (辯と瓣を弁。前者は詭辯の辯、後者は安全瓣の瓣)、 全然関係ない漢字を当ててしまうような(燻製を董製) 変化はどう考えてもムチャではなかろうか。

現代かなづかい、言い換えれば行きすぎた言文一致が方言を破壊する というのはなるほどと思った。書き言葉と話し言葉が違うのなら 方言を保ったまま文書で意志疎通ができるが、 同じということになれば書き言葉に話し言葉が引きずられる。 方言の破壊がいけないことかどうかはともかくとして、 これは理にかなっている。なお、野嵜氏の 正字かなづかひ早わかりは仮にそれを実践しないにしても 読む価値がある。やはり「少しずつ」はかっこ悪いのだ。 元々「つつ」なのだから、「少しづつ」の方が論理的でかっこいい。 「発音が"ずつ"なのだから表記もそれでいい」というのはもっともであるが、 「元々つつなんだからづつに決まっている」という言明のもっともさを超えて もっともであると主張するのは大変だ。なんにせよ自分で選べば良い。

言葉は変化するものだから「正しい日本語」とかいう言い方は 間違っている、と主張する人は多い。だが、かつてそういうことを言っていた 人にはさしたる根拠が感じられなかった。「正しい」という言葉にアレルギーを 起こしているにすぎないことが多いのだ。自分が現在あるあり方と違うものに 「正しい」という言葉がつくことは必然的に自分の現在のあり方が間違っていることに なる、というふうに感じるのだろう。 だが、もちろん「正しい日本語はある」と言う人々も 同様の状態に陥ることは多いわけで、つまりは自分が現在あるあり方に 正しいという称号がつくことが快いだけという場合も多いことと思う。 しかしこれは多かれ少なかれあることなのであって、どっちもどっちだ。 感情抜きのもっともらしさで勝負すれば良い。

一般に、変革を要求する意見と現状維持の意見が対立した場合は 後者が歓迎される。なぜなら、前者の意見においては 「正しい状態」にいない人間の数が多く、後者の意見においては それが少ないからである。前述のように自分が「正しい状態」にいないという指摘を 人は嫌うものであるから、これは当然のことだろう。「正しい日本語」 にせよ「正しいHTML」にせよ同じ原理である。 穏当な意見が常識的と言われるのは、穏当な意見とは現状維持であり、 現状が「正しい状態」なのなら多くの「現状」にいる人々は 自分が「正しい状態」にあるとして安心できるからである。 多くの場合、こういった穏当な意見は穏当でない意見を「危険だ」「急ぎすぎる」 のように一般化して退けるものでさしたる根拠がないことも多いのだが、 前述の理由によってそれは支持される。たとえば「センスって嫌な言葉だよね」 と言うのが支持されるのも「自分にセンスがないことが悪い事ではない」 と思いたい人が多いからにすぎない。 人間がその根本においては非常に論理的な生物であることが見てとれよう。 人間なんざこの程度なのだ。絶望的に単純ではないか。 だからオレはとらハに走るのである。わかるか。

センスでもなんでもそうだが、能力が欲しいなら努力すれば良い。 しても手に入らない、あるいは努力する気にならないのは所詮自分の能力の 問題であって、 それをもって自分がセンスがあると思う人を貶めて良いことにはなるまい。 能力者は尊敬されて然るべきであり、能力がない人間はそれと比べれば価値が落ちる。 当然のことである。であればこそ人は努力すべきなのであって、 かつ同時に努力しても到達できないかもしれないことを覚悟しなければならない。 だから自分が野球が下手であることをもって、野球がうまい人を罵倒してはならない。 野球が下手なのは自分に責めがあり、それは事を野球に限れば明らかに罪である。 努力をすべきであり、しないのは責められるべきだろう。 ただ、それでも努力をしたくないということはあり、 その時は黙って罪に耐えるしかない。センスを求めて手に入らぬなら、 もっと努力するか、あるいはセンスがないという罪に黙って耐えるか、 そのどちらかしか道はないのである。 なお、野嵜氏のサイトに書かれたことは非常にもっともで 私が従わない理由には彼の主張ほどのもっともらしさはない。 だがしかしそれでも、正直そのかなづかいをする気にはならない。 というわけで 自分がもっともでない状態にいるという罪を背負って生きてゆくことにする。 ここでそれを正当化するためにロクでもない理屈をこねるのは美しくない。 「だってヤじゃん」の一言で済ませた方がよほどマシであろう。

行動の動機があまり美しくない感情であるということを自覚することは 大切だが、それだからといってその行動が不当であるということにはならない ということに最近気づいた。 人格と言ってる内容を分けるべきであるのと同様に、行動そのものと動機は 分けられねばならない。私が「日本語は正しい方がいい」と言う時、 そこには「私の日本語は私が正しくないと思っているものよりも正しい」 と思うことの快楽が隠されているのだが、それをもって「日本語は正しい方がいい」 と言う言明の内容が否定されるものではないし、 私は自分でそれを否定してはならない。だが同時に、私はその動機が そういった優越感にあることを自覚しなければならない。

というようなことを考えなくても生きていけるし、考えるようになる前も私は 生きていた。たまたま思いついたからといって、思いついたという優越感以外には さして役に立つわけではない。 しかし、こういうのは思いつき始めると止まらなくなるものなのであって、 自分ではどうにもならないのである。 オレだって自分の行動の動機が全部わかってしまうのはかなりイヤなのだ。 誰か止めてくれ。そういえば MK2さん もそういうことを書いておられたような気がする。 萌えのえらい人だが、萌え以外でもイカした人だ。 たぶんこういう状態になる人はけっこういるのだろう。 ただ、おそらく思いついた人の多くは 思いついたことを隠しているのではないだろうか。 なぜなら、思いついたことをこうやって書くと嫌われるからである。

頭の中の世界を言葉にするのは水素原子を直交座標で解くようなもので 土台無理である。だが、無理と言っても100%無理なわけではなく、 感覚としては80%くらいの無理なので、なんとかやってできないことはない。 それに、仮に99%の無理であろうともやらなければ生きて行けないのだから やるしかない。人類の業は言葉以外にまともな意思疎通の手段がないということに あるだろう。もっとマシな手段があればもっとどうにかなりそうな気がするわけで、 「電波で心が通じ合う」といったファンタジーが昔から生み出されているのも そういうのを求める感情ゆえのことと思う。

野嵜氏経由で 本当は恐ろしい学力崩壊。 知らないでいい権利などあるものか。知らないのはいついかなる時も罪である。 あらゆることを知る人間以外は等しくこの罪を背負っており、 知ることが多い人ほどこの罪が少ないというだけだ。 人に許された選択肢は罪を軽くすべく努力するか、 罪をそのまま背負うか二つに一つであって、 罪が罪でないと言い張ることなど許されていいはずがない。 そういうことにしておかないと世の中はどんどんバカになっていってしまう。 知らないことは恥、つまり不快でなければならない。逆に知ることは快楽でなけれ ばならない。そうでなければ社会など成り立つわけがないではないか。 数が増えれば平均値は下がる。そして平均値が下がると低いことが罪でなくなる。 そして最終的には低いことを罪でなくすようにさらなるベクトルが生じる。 結果もっとバカになる。オレが思うにガキにはもっと詰めこむべきだ。 ちょっと前の教育が間違っているとするならば、 それは詰めこみ方がヘタクソだということに問題があるのであって、 詰めこむことが悪いのではない。中学校で微積の概念くらい教えてしまえ。 小学生はハナっから方程式を学べ。どうせわからん奴は一定数いるんだから 放っておけ。差別もやむなし。そうして知らないことが恥だという感覚を身につけて ゆくのだ。バカが損をするから頭を良くしようとするのであって、 バカが大手をふって歩いていては誰も知など求めようとはしないのである。

MIDIページ復活。著作権など知らん。バレたらそんときだ。 そのうち作曲してやる。

2001年5月29日

セガは二次を通過し、次が最終面接。 IBMの例があるので楽観はできないが、たぶん大丈夫だろう。 とか思いつつも、これで落ちたら博士行きか と思って多少緊張もする。まあいまさら進路について考えても仕方ないので 運を天にまかせよう。

なぜこうも中途半端な時間しか開かないのだろう。 妄想が溜まらないじゃないか。

アクセス解析0.5。 ブラウザ情報からOSその他の情報をとっぱらった結果見やすくなった。 しかし、IEはmozillaのふりをしているので検出するために 余計なことをしてやらねばならない。他にそういうことをしている奴がいても わからないのだ。そういう特別な処理は大嫌いなので、 これ以上はいじらない。よってOS統計もとらない。OSの書き方もバラバラなので いちいち対応する処理をさせるなんてまっぴらごめんなのだ。 そういう情報を書くなら書き方を統一してほしい。 また、ホストは一番小さいところを削除したおかげでダイアルアップで毎回 変化する奴が並ぶことがなくなった。ホストが参照できなかった場合は IPアドレスをまんま書く。 ついでに、seekはかなり時間を食うので、無駄な部分も読んでしまってから unpackでバラした方が速いことがわかった。勉強勉強。さっさと日記スクリプト の方に移らねば。というわけで、不安定でバグまみれだとは思いますが、 使いたい人使ってください。なお、タイトル画像その他の見栄えカスタマイズ機能は 掲示板のための布石なので、冗談にすぎません。

IE圧倒的。9割はIE。もっとも絵の出ない奴は検出されないので lynxやw3mもなんぼかいるのかもしれないが、少なくとも絵が出る奴の中では 圧倒的だ。しかもたいがいが5以上。 それとホストを見てるとけっこう企業から見にきてたりする。 お昼休みでしょうか。いやおもしろいわこりゃ。プライバシー云々言われても 見えてしまうものは仕方ない。httpの仕様を作った人を呪ってくれ。

バンチ3号。そろそろ買うことの意味が失われつつあるので、次を買うかは わからない。で、内容は相変わらずだ。獣医漫画が作者が獣医というだけあって やけに細かいところがそれっぽくておもしろいのだが、漫画そのものは普通。 さあどうしたものか。

セガの面接の前に3Dをいじった経験でも入手しておこうと思い、 「DirectX8実践プログラミング(工学社)」を買ってきた。 わかりやすいが、最初になにをすればいいのかがわからないので そこらへんは解説サイトを見ることにしよう。 それが置いてあったあたりにギャルゲーを作ろうみたいな本があったが 内容はそれこそ初心者向けで、それくらい自分で考えろという感じだ。 あと わたなべごう氏のところで紹介されていた「ゲームクリエイターズバイブル」 もあったのだが、金の問題で買わずに帰ってきた。 中身は猛烈におもしろそうだったので後で買おう。

Direct3Dのところだけおおまかに読んでみたが、おもしろい。 命令も別にややこしくない。そりゃやってみなければわからないが、 想像していたのに比べればはるかに簡単だ。至れりつくせりじゃないかDirectX。 ギャルゲー用プログラムの画面云々のところはこの機能をまんま使えば それで済む。スプライトもレイヤ合成もまんまあるのだ。 あとはスクリプトの文法やらなにやらを考えるという一番楽しいところだけ やればいい。

例のアクセス解析を内蔵した日記・WEBチャット・掲示板複合プログラムを 作り始めた。まずは掲示板として使えるようにし、順次カスタマイズ機能を 強化して日記にも使えるようにする。考えてみたらけっこうこれムズいわ。 何よりもむつかしいのは見栄えを好き勝手に指定する機能。 テンプレートHTMLを受けとってそれに沿って表示することもできるようにする 予定だが、そのチェックが面倒くさい。当然デフォルトな見栄えも用意せねば ならない。 とにかくカスタマイズできるべき項目が莫大にあるため、 アクセス解析の比ではないややこしさだ。 ホームページがない人でも使えるようなものをがんばって作ろう。 かなりデカくなるため、ちゃんとモジュール化して分けてかないと 大変なことになる。たぶんこれを作る過程でアクセス解析の方も改良されるだろう。

2001年5月28日

月姫、秋葉。かなりいい話。説明臭さもあまりなく素直に読めるので、 表よりこちらの方が好きだ。しかしながらなんと言うかものすごさが足りない。 ギャルゲーのプロでもこのレベルに遠く及ばないものが多いこの状況を考えれば 極めてよく出来ていると言っていいのだが、正直足りない。 やはり痕くさいのがどうにも気になるのかもしれない。 なお、現在表のアルクェイドルートを進めているが キャラはいい感じだし話もいい感じだ。ただ、やはり説明が多い。 正直な感覚としては、何か言い訳がましい。 「何!そうだったのかッ!!」というシーンでの説明がうまくないために 素直にすごがれないし、ストーリーがキャラの人格よりも上位にあるために キャラがいまひとつ生きていないように感じられるのだ。

こちら経由ナディア(英語だが絵で一発) 。 マジじゃん。教えてくれた のじりんに感謝。

朝7時半。今日の昼からのゼミの準備をこれからだ。と思って 論文をWEBで落とそうとしたら認証でひっかかった。学校ではそんなのなかったのに。 というわけで、学校へ行かねばならない。

「ゾンビ屋れいこ」というのを読んだ。いいセンス。 そもそも主人公が死体をゾンビにする能力をもった中学生という段階でおもしろい。 そしていい感じに怖い人々。絵が微妙にゆがんでいるのが余計にいい。

うにんちでメタモルVを見た。うう。さらにとびでばいんを見た。 さすがアボパ。設定項目の「なまら」がいい。なお「なまら」は北海道弁で、 「すごい」みたいな言葉だ。「なまらひでえっけやぁ」のように使う。 なまらがより強くなると「なんまら」になる場合もある。 ああなんとなつかしいことか北海道。そう思うと本当にたくさんのことが 蘇えってくる。だが、その全ては喪失感だ。耐え難い。

文章を書くというのはオレの場合溜まったもやもやを言葉にして整理することで すっきりすることだ。伝えたいという思いは、このもやもやをどうにかしたいという こととけっこう同じである気がする。そういうわけで、最近はまるで他人のことなど 考えていない。ヤバいことは書かないよう気をつけはするが、 それは他人を気づかってではなく、自分の立場を守るためにすぎない。 これをもって「他人を必要としない純粋な表現欲求」 と言うのはあまりに美しすぎるだろう。

2001年5月27日

アニ同の新歓コンパに参加。日記でしか知らなかった 中将氏 に会えたりもした。これから入りびたっていれば仮に一年しかいなくても ある程度いろんな人と仲良くなれそうだし、他に日記でしか知らない方々と 会う機会もあるだろう。 ところで、アニ同の人々は濃い。カラオケは自然にアニソン (か、よほどネタになるもの)縛り状態になるし、 みなさん知識がとてつもなく豊富だ。 こと今のアニメや声優、そしてギャルゲー周辺の話題となると オレの知識がかなり乏しいことが身に染みる。 知識に貴賤はないという美しげな言葉に従って 少々その道にも入ってみることにしよう。 オレは自分が立派な萌え人間であることをそろそろ認めるべきなのだ。 硬派のフリはもうやめる。

そういえば今日はZOEというアニメを見る機会に恵まれた。 1話の半分は辛かったが、後半から一気に本性が現わになっていい感じ。 バーチャロンみたいなデザインのロボの人格が女の子で、 これがまたかわいいのである。メカ子万歳。 セリオとは逆だが(外見はモロメカだが人格はあまりに普通の女の子)、 これもまた良し。なお、それ以外の要素は普通なのでどうでも良い。 見るのがさほど辛くない程度の出来であのメカ子なら 十分観賞に耐える。

ところで、ディズニーが「ナディア」というアニメを作っていて、 主人公がメガネかけた男でヒロインが黒人で青い宝石を首からかけてて、 原作が海底二万海里って話はマジなのだろうか。 確認せねばならない。

アレキサンダー戦記を見ようと決意した。あそこまでおもしろそうに語られては 見ずにはおけまいて。

アクセス解析0.5完成真近。ブラウザ種とホスト名の記録を盛りこみ、 ソートも書き直し、そこら中の関数を分類してファイルに入れた。 あとの課題はリンク出現時刻の推定をもっと賢くすることと整理、そして最適化。 2000行46KBもあるのは何か間違っているので、 コメントやらデバグ用の変なものやら変数の名前やらをもう一度見直して きれいにする。そしてソートをクイックソートに書き直すなどなど、 そこら中のアルゴリズムを検証して回る。うまくできたら掲示板など 出来たも同然だ。日記もそれで統合する。うまいこと行ったら やっと安心してwindows世界に旅立てるだろう。 perlでプログラムという物に慣れておけばC++もどうにかなるに違いない。

IBM落ちた。なるほど厳しいわ就職。しかしこれでセガ落ちたら、本当に 博士か?まあ、それしかなけりゃしゃーないわな。 やはり畑違いの人間は実績がないとダメということだろう。

クイックソート化完了。どこで時間食ってるかを調べて徹底的にチューンしてやる。

TOEIC。2時間なのでそう疲れなかった。出来は期待したほど悪くなさそう。 と言っても聞きとりはまるでダメだったのだが。

リンクが放置状態。自分で使っていないものを更新するはずがないな。 そういえばその他もろもろ放置状態。

物を勉強する。すると賢くなる。で、つい人に見せびらかしたくなる。 だが、勉強を続けていると自分などカスにすぎないことが明らかになり、 見せびらかしていた過去が恥となる。 今オレはプログラムを勉強しているが、これも同じ経過を辿るだろう。 オレの人生はこの繰り返しのうちに終わるのではないだろうかと思うと かなりブルーである。 何か一つくらい最強あるいは唯一になりたいと思うが、 人間としてのレベルがここまで落ちてしまってはそのための努力に耐えられまい。

2001年5月26日

何かと名前を聞くラカンという人だが、学者でもまともに理解できる人が 少ないほどヤバいという話を聞いてそれは読まねばという気になった。

とりあえず作ってみたいというのはなるほどあるのでしょう。 それと、ソースなんぞなくても中身がわかるというのは なるほどそれがプログラマというものかと思いました。 ますますかっこよく見えます。うまいこと就職できたなら そういうレベルには達したいものです。

勝ち負けを意識しない生活はおだやかで良いが、張りがない。 やはり勝ち負けはある程度必要だ。ただしあくまである程度であって、 それが程良い緊張感とやる気だけもたらして黒い感情に発展しない レベルが求められる。さて、さしあたって勝ち負けを意識するのに ちょうどいい対象はプログラムだ。たとえばすごく使いやすい掲示板を作って バラまくとか、すごく使いやすいギャルゲー用プログラムを作ってバラまくとか いうのがいい。結果自分が鍛えられ、もしある程度のものが できたならばそれで人の役に立つ可能性もなくはないというあたりがいいのだ。 勝つ可能性が低いから勝って「フフン」という気になることもそうあるまい。 さあ設計設計。

自分が低レベルでがんばればレベルが 上がる一方なのだと決めてかかると物事が楽しくなる。 そしてこれが終わるのは、自分がある程度のレベルになってしまうか、 低レベルなまま上に上がる見込みがないことに気づいた時だ。 さてプログラムにおいてこの楽観的状態でいられるのはあとどれくらいだろう。 できれば前者の終わり方をしてほしいものだ。もっとも今までのところ 前者で終わった物は一つとしてないのだが。

長いよ日記。月ごとという分割はこういうリスクがある。 が、だからといって10日ごととかにするのもなにかおもしろくない。 一番えらそうなのはCGIに求められた部分を動的に切り出させることだが、 負荷が爆発しかねない恐怖があるし、プログラムにかなりの信頼性がなければ データ破壊に怯えることになる。でもまあ、試しに作ってみるか。 こんなのはギャルゲープログラムに比べればすぐだ。

2001年5月25日

24日セガ。10人を相手どっての面接だったが、いつも通りベラベラしゃべった だけだ。話によると3次あるいは4次まであるそうで、そんなに何回も呼びつけて 何を聞くつもりなんだろうと思う。そして交通費はくれないのだ。

任天堂落選決定。ナムコもダメなので、残ってるのはIBMとセガしかない。 IBM受かってたらそれで終わりにしよう。落ちてたらセガ。 両方ダメなら博士。なんて明解な未来だろう。 どう考えても自分で切り拓いている気はしない。

セガの後K.Ten氏 の家に泊めてもらった。いろいろ話したり、 氏が原画をやっているエロゲ を見たり、いろいろ。 まりんとめらん(うろおぼえ)というアニメが妙におもしろいので、 誰かに見せてもらう決意をしたり、プライベートライアンの冒頭がすごすぎて 続きを絶対みようと誓ったりもした。

坊っちゃん。唐突に東京に帰って終わった。勧善懲悪とか書いてあるが、 本当にそうなのか。普段気にくわななくてイライラしていることを 好き放題書いたらこうなったのではないか。 文章も歯切れ良いと言えばそうだが、妙になげやりな気もする。 確かにおもしろいが、 別に作者の変態性が見てとれるわけでもなければ何かものすごい事が書いてある わけでもない。確かに心情の描写もいいし分析は鋭いが、 こんなわかりやすい奴いるかという感じもする。もう一冊くらい 読んでみないとこの人がどんな人なのかはわからんだろう。 というわけで一番漱石チックな奴をどなたか教えてください。

廣松渉。だいたい読んだが、この人はどうも認識とか意味とか言うものを科学するのが 嫌いらしい。生物学と統計学から人間を理解しようとするアプローチは 浅薄でダメなのだそうだ。 倫理学はそういう自然科学の応用ではなく あくまで独立した学として扱うべきだと言うのだが、 そんなことが可能なのだろうか。

魂(自我本体)と心(刺激と反応の対応関係)を 分けて考えるとこういうややこしいことを言わずに済む。 魂は哲学的にややこしく考えればいいし、心は自然科学的に単純に考えればいい。 ごっちゃになっているから科学で人間はわからんと言いたくなるのではないだろうか。

プログラマの性質というのは納得です。 しかし、自分で作るというのは他人のものに勝とうという意思があることを 表しています。 とすると、少なくとも作ろうという人は自分が今まで出逢ったもので一番 いいものに勝とうと思うはずで、勝とうと思わない人は大人しく すでにあるものを使うはずでしょう。もちろんこういうのは理屈なので 実際にはそう簡単ではないのでしょうが、簡単でないのはどうにももどかしい ものです。坊っちゃんの主人公と同じ心境かもしれません。

ところで例のNScripterという奴、ソース公開してないみたいですね。 仮にもプログラマの称号をもった人であれば 中で何をやってるかわからないものを使う気にはならないでしょう。

そういえばセガの面接で「20年もバイオリンやってて作曲したことないの?」 と聞かれた。関係ねえじゃんと思ったが、現代音楽においては 演奏と作曲は密接に結びついているのが普通らしいので、この疑問も無理はない のかもしれない。オレにとっては作曲と演奏は全く別のものだが、 彼等にとってはそうではなかったのだろう。

ところで、現代の作曲家は「〜〜風に」といった注文に応えるのが必須の スキルとなっている。ゲームにおいては特にだ。 オレにとってはそういう注文に応えて実際に曲が作れてしまう能力が 不思議で仕方ないのだが、もしかしたらオレが作曲を実際以上に高尚なものと とらえすぎているのかもしれないとも思う。 オレも実際自転車で走りながら即興で何かをくちずさんでいるし、 それっぽい曲を作ろうとすれば作れるような気も確かにするからだ。 ショボい漫画を平気で発表し、ショボいプログラムを平気で発表するように なるならば、同時にショボい曲を平気で発表してもなんら問題はない。 バッハやモーツァルトの偉大さを 思えば到底発表などできたものではないと思いはするが、 それはプロの漫画家やプロのプログラマのことを思えば同じであろう。 ただオレが音楽を特別扱いしすぎているだけなのだ。

と思っていろいろ頭に曲を浮かべてみたが、 ニセバッハとかニセビバルディとかばかりで全然ダメだ。 たまに違うのが浮かぶが、それも最近聞いた何かの影響を色濃く受けすぎている。 元ネタがわからなくなるところまで混ざればいいのだが、 これではモロバレだ。曲としてはまとまっていておかしくない気もするが、 独創性というものがまるでない。ちょっと気を抜いた瞬間にすでにある曲に 連続してしまう。かといってそれを無理に避けようとすれば不自然になる。 結局のところ、オレはオレの世界を形成できるほど音楽を聞いていないのだ。

言葉

  人間を、1.外部入力(刺激)、2.外部出力(行動・反応)、3.内部入力(記憶読み出し)、 4.内部出力(記憶書き込み)、5.演算制御(システム本体) と分けるとわかりやすい。外部から人間を見れば1に対して2が返ってくるような345が いっしょになった装置であるが、記憶や学習について考えれば345は 別のものとした方が使いやすいモデルになろう。 さて言語とは受けとる時は1の一種である。それが「死ね」という言葉であれ 叩かれた痛みであれ、5によって3の情報と統合して 4の出力を行うことに変わりはない。厳密には何らかの反応を返すのだから 2の出力も行われる。 つまり、言語はまず第一には刺激の一種である。次に言語を発する時であるが、 当然2の一種である。この時、3の情報を5によって処理して2として出力する。 もちろんこれもまた記憶として残る以上4の出力も行われる。 つまり、言語は行動の一種でもある。 では言語とは一体何なのか。

  まず言えるのは、1の外部入力と2の外部出力が同じ形式であるということだ。 殴られて叫ぶことを考えれば、殴るのと叫ぶのは かなり似ていない。しかし、「死ね」と言われて「うるさい」と言い返すのは、 全く同じではないにせよ「殴る」と「叫ぶ」の違いに比べてはるかに似ている。 「指を差されて」「顔をしかめる」のも、先程の言葉の例に比べれば 似ている度合が低いとは言え、「ある体の動き」を通信に用いるということについては 同じである。もっと言えば「殴られて」「殴り返す」のは同じ形式だ。 しかしこう考えていくとこの特徴だけでは日常我々が持っている言語のイメージ に合わないものも言語になってしまうわけで、もう少し狭める必要がある。 この定義を狭める目的は、「殴られて」「殴り返す」が言語でなくなるよう にすることであるから、そのような定義のしかたをすれば良い。

  そう考えると入力や出力の過程が微妙に他のものと違うことに気付く。 殴るという行為の場合、 具体的な視覚的イメージや感蝕や身体感覚といったものを総合的に必要し、 それを実際に行う必要がある。どのように殴るのかも同時にイメージされねば ならないし、実行されねばならない。 一方、「殴る」という言葉を発する場合にはそのようなものを ことさらに使う必要はない。もちろん記憶のどこかにそれがなければ 殴るということの意味がわからなくなるため使えなくなってしまうのだが、 「殴る」と言う時に実際に殴る時ほどに具体的イメージを表層に読み出す 必要はない。殴るというイメージのうち「どのように」が抜けた イメージだけあれば良いわけだ。そして、「殴る」という言葉そのものの 情報量はその抽象的イメージの情報量に比べても著しく小さい。 この圧縮性もまた言語の特徴である。このことを差して言語は記号である というわけだ。言語は抽象イメージを呼び出す鍵であり、 行動の際には抽象イメージが状況に応じた具体的イメージを呼び出す。 実際はこの「言葉」→「抽象イメージ」→「具体イメージ」の 3つの間には無限の段階が存在しているわけだが、 実際問題「言葉」と「抽象イメージ」 の間には断絶があると考えてもさしつかえない。ここで単純のために2つのイメージを ただイメージとしておけば、「言葉」が「イメージ」を呼び出す鍵であると 言うことができる。「意味」というものの正体は「言葉」に対応した 「イメージ」のことだ。

  さて、以上のことからいって、言語の特徴は入出力の形式が共通であることと、 実際のイメージを呼び出す鍵になっていることの2つに尽きると言うことができよう。 第一の特徴だけでは殴ることも言語になってしまうし、 第二の特徴だけでは「鈴を鳴らされると」「よだれが出る」も言語になってしまう。 また、第三の特徴としてその情報圧縮性を挙げることもできる。 ともかくもこれらの性質によって、 我々のイメージしている言語の姿が浮き出てくるわけだ。 言語は入出力と記憶の形式と連想の形式を規定しており、 人間が生きる上で非常に大きなウェイトを占めている。 他に人間のシステムをこれほど規定する物はない。

  ところで、言葉について考えるならば 「言葉」と「イメージ」はいかにして結びつくかを考えねばならない。 これはつまり「意味」はいかにして与えられるかということであり、 いわゆる意味論である。が、これも単純に考えよう。 人間はいろいろな意味で近い事象を結びつけて記憶するようにできており、 「馬」と言われた時にそこに馬がいれば、「馬という言葉」と「馬本体」は 結びつくことになる。最初はそこにいた具体的な茶色の馬だけが結びついて 黒い馬は馬という言葉に結びつかないかもしれないし、ひょっとしたら 馬を指を差すことが馬という言葉に結びついてしまうかもしれないが、 さまざまな経験を経るうちにそういった間違った結びつきは頻度が低いために 失われていき、最終的に他の人間が共通に持つ馬というイメージに近いものが 「馬」という言葉に結びつくことになる。原則はおそらくこれだけだろう。

  ここで一番むつかしいのは、実はその結びつきやすさを規定する「近い」 ということの内容である。このうち時間的な近さはわかりやすい。 また空間的に近いのも「近い」のうちである。 問題は「ある事象とある事象が似ている」 という「近さ」だ。しかし、この近さを決める基準は一つではない。 ゴキブリとカブトムシが似ていると思う人と思わない人がいることだけとってみても 似ているとする基準が人それぞれであり、つまりハードウェアのレベルでは 近さの評価基準は決定されていないことがわかる。 よって、事象同士の距離はもっと違う後天的なもので 決定されているに違いない。このあり方を探ることが最大の課題だ。 おそらく快・不快というものがこの評価に大きな影響を持っていると思うのだが、 ここでは長くなるのでやめておく。

  とかいう感じで廣松の意味論とか読んで思ったことを整理してみた。 オレは学者ではないので、これ以上厳密にしたりする気は毛頭ない。 所詮お遊びだ。 なお、意図的に「伝える主体」とか「伝えようとする意思」とかについては 無視して、あくまで外から見える入出力と記憶という視点のみから述べた。 「伝える主体」などというものを仮定しなくても過去の入力が時間を経て 出力を催したと考えれば説明が可能であるし、「伝えようとする意思」 がない行動とある行動を分けるべきではないかという意見はこの際 無視する。「死ね!!」と言う台詞が常に伝えようという意思を伴っているかどうかは 怪しいが、それでも言語には違いないのであるからそんなものは言語の性質として はどうでもいいことなのである。

  人間をマシンと仮定してどうしても説明できないことが 出てくるまでは、魂やら自我やら意思やらを導入してはならない。それは逃げだ。 「全てを数学と物理に還元しようとする浅薄な試み」すら極めていない 状態でその上に行くなどオレには許容できん。

2001年5月24日

月姫バージョンアップ。読み返しがついて不満点が一つさようなら。 このNScripterって言う奴が流行ればそれでいいんじゃないだろうか。 ただ、説明を読むといまひとつ文法が美しくない。変数も$0から$999 とかで、なんとなくイヤだ。機能も今あるタイプの ギャルゲーを作るということに特化していて、新しいタイプのものを作れる 気がしない。自分で作ってもいないのにこきおろすのも卑怯なのだが、 くそ作ってやるぞ。作ってやるからな。今のスキルでは話にならんのだろうが。

windowsのAPIを覚えることとかよりも、 あのVisual Studioでコードを書かねばならないということの方がイヤだ。 しかしそうも言ってられん。

2001年5月23日

「なんだとこのヤロー」と「うるせー」が基本原理である人間は意外に多い。

ハデな考え方を危険といって退けるのは社会の安全機構としては優秀だが それに支配される人間そのものは優秀ではない。

生物にとって変化は多くの場合有害であるから できるだけ変化が起こらないように抑制するという機能がある。 社会の保守性はこの延長として説明できよう。 人は変化に対して恐怖を感じるようにプログラムされており、 社会的にはその恐怖を「〜〜は危険である」と言う形で表現するのである。 主観をあたかも普遍的客観であるかのように表現するこの習性は 生物のハードウェア的性質と進化論から説明が可能である。

科学の目的は2つあり、一つは説明すること、もう一つは制御することである。 量子力学が出た時化学は終わったと言われたが、 それは化学が究極としては全て 量子力学で説明できるからで(厳密には相対論もいるのだが)、 今続いている化学は説明するためのものではなく、制御するためのものだ。 一般に制御より説明の方が崇高と言われているので、それが完成すればその学問は 「終わった」と言われる。 その意味で確かに化学は終わっているわけだ。 では、社会学が終わる日は一体いつ来るのだろうか。 生物学を基礎として環境や個体によらない人間の性質を明らかにすれば これが化学における量子力学に対応するはずであり、 この和として社会が表現できる以上社会学はその意味では終わることになる。 こんなにスリリングな分野は他にない。人類の権威を失墜させる一番の早道だと思う。 自分の行動を他人に説明されることはかなり不快なことなわけで、 それを全人類に一気にやるのだからこれ以上のいやがらせはない。

最近自分や他人の日記を読んでそういう試みをしているオレは相当な悪人だ。 さあ、何を書いてもオレに分析されるぞう。とかそゆこと言うと、引きますか。 自分でも何様のつもりだと思います。 「人間を人間として見ないなんてなんて不道徳な」と言われることでしょうが、 その台詞において最初の人間と二番目の人間は意味が異なるわけで、 二番目の人間は「機械でない何か説明できないすごいもの」 という意味をもっています。 つまりその言葉は人間がマシンでないことが前提です。 私にとって人間はマシンなので、その言葉は意味を持ちません。 ちなみに、そういうことを考えるのに一番 データとして役に立つのは自分です。なんでこいつはこんなに偉そうなんだとか 考えると人間の性質が見えてきます。そして他人の日記やら何やらを対照として 見つけた法則性を検証するわけですな。今日は自虐の日。

ああ、レン。あの子は本当にいい子です。抱きついて困らせたくなりませんか。 しかし、悲しいかな彼女はこんな私など必要とはしないのです。 とらハをやって得られる幸福感はちょっとしたきっかけで疎外感に化けてしまいます。 あの世界に私は含まれていないのです。

辛気臭い話はいいからギャルゲー話したい。果たして月姫は萌えられるのだろうか。

ナムコ。ブッチ。正確に言うと、大遅刻。会場がわからず難儀したりといろいろあった のだが、それよりなにより時間を間違えていたのが致命的だった。 電話では2時半と言われたように思っていたのだが、 1時半だったのである。 まさか相手が言い間違えるはずもないので、自分が聞き間違えたのだろう。 メールでも連絡してくれればいいのにと思うが、済んだことは仕方ない。

月姫シエル。おお、ええ話や。ただ、 説明が説明的で多すぎる。まあ、それは設定マニアの需要もあるだろうしいいのだが、 トゥルーエンドがよくわからん。目覚ましたら死あるのみとか言ってた 気がするが、いわれなくハッピーになってしまった。何故。 ちゃんと考えたらわかるかもしれないが、最近頭使いたくないので 頭が回らないのだ。 というわけで出来がいいとは言え普通にええ話な トゥルーエンドよりやけに楽しげなグッドエンドの方が いい気がするのだが。ところでこれの話があまり衝撃がないのは 全部が仕組まれてて説明されてしまうからだと思う。 偶発事故が全く起こらない。偶然と必然のバランスが必然に傾きすぎているのだ。 だから展開が読めてしまうのである。思い返してみると遺作なんかは バッタリはちあわせのあのシーンが脳裏に焼きついて離れない。

機構としては、読み飛ばしが文脈がわからんで不便なのと、 ウェイトなしでも大して表示が速くないのと、 読み返しがないのが不満といえば不満。しかし、動作に不安はないし 他の悲惨なもののことを思えば十分合格点だ。

ところで、この手のものは誰かできる人がヒョイっと作ったら みんなでそれを使えば幸せになれるのではないだろうか。 現実がそうでないのは理由があるからで何かむつかしいことがあるのだろうが、 せめてそこそこのものが知れ渡っていれば プログラム以外はいいゲームという辛いものが生まれなくて済む。 月姫が採用している奴もそこそこいい感じなので、 是非悲惨なプログラムしか書けない会社には使ってほしいものだ。

夏目漱石、坊っちゃん。まだ半分くらいだが、おもしろい。 なんかノリノリで書いてる。便秘が一気に通ったような勢いだ。 この小説で一番キャラが立ってるのは夏目漱石本人である気がする。 まあそれを言ったらとらハも都築真紀先生のキャラ立ち度合が超ド級なのだが。

ふと気づいたが、オレが好きになるのって作者がキャラ立ちしてる奴ばっかりだ。 このキャラ/話は変だ→書いてる奴は変に違いない→変なのは大好きだ→作者萌え。 芥川龍之介とか福沢諭吉とかは都築真紀先生と同じくらい萌えである。

2001年5月22日

IBM最終面接。建物が帝王のオーラを発していて怖い。 ついでに人まで「できますできます」というオーラを発していて怖い。 いつも通りベラベラしゃべったが、さあどうか。 ちなみにこの会社は気前よく交通費を払ってくれる。

帰ったら映画上映会。一つ目は燃えよドラゴン。 ブルースリーの名作だが、みな見ていなかったので見せようというのが主旨である。 それにしても何度見ても頭が悪い映画だ。そして何度見てもブルースリーの体は おかしい形をしているし、動きは無駄がなく速い。そもそも怖い。 リズムもクソもなくいきなり襲ってきてなんだかわからんうちにやられてそうな 怖さがある。あれはマジで強かったことだろう。

次。霊幻道士。おお、ちゃんとおもしろい。以上。 しかし、オレはキャラの頭が悪い(普通の意味でだ)ことによる笑いというものには どうにもなじめないらしく、いまいち笑えなかった。

最後。ワンスアポン云々チャイナ。ジェットリーの動きが素晴らしいが、 それ以外は普通。下手に政治的なお話がからまる分メインがなんだかわかりにくく なっており、映画の出来としてはいまひとつだ。しかしジェットリーの動きが 素晴らしい。ただ、ブルースリーの持つような「怖さ」はまったくなく ただ「見事」なだけなのが多少物足りない。

コミックバンチ2号。北斗の拳2は思った通りどうでもいい。そして案外 city hunter2がおもしろくなりそうな予感。やましたたろー2は 存外おもしろくて安心。その他はなんとなく読めるが、 読める以上の力がないといったところか。なお、にわのまことは極めて痛い。 絵が下手になっているような気がする上に、漫画まで下手になっている気がする。 そして致命的かつどうしようもないことだが、この人は過去の人だ。 それも風化するタイプの。原哲雄や次原隆二といった人々は今読んでも それなりにどうにかなるが、この人はダメっぽい。 ちなみに北条司もけっこう危ないラインにいるのだが、 やはり絵と漫画がうまいのでセンスだけどうにかなれば十分耐える。

アインシュタイン著「特殊および一般相対性理論について」。 異常なほどわかりやすい。1回目で特殊相対論の概要がわかり、 2回目で一般相対論の概要がわかり、3回目でこれ以上わかるには数学やらなあかん ということがわかる。素晴らしく良い。こんなにわかりやすい本があるのに なぜ世の中には他に相対論の解説書があるのだろう。 非ユークリッド幾何学、ニュートン物理、 電磁気学、微積と線形代数などなどを勉強している状態でこの本を読めば、 ほぼ全ての過程を自分で式を立ててなぞっていくことができるはずだ。 ああ、物理やっとけばよかった。というわけでこれから始めることにする。

ロバート・ホールドストック著「ミサゴの森」。イメージによって 神話的世界や神話敵存在がこの現実に現れるという設定を軸として 時間や文化までが語られる。基本的にはある不思議な森に魅せられた兄弟とその父 の物語なのであるが、ただそれだけに終わらないすごみがあるわけだ。 ただ、かなり理屈くさいのが辛いといえば辛いかもしれない。

掲示板。IPアドレスとかホスト名とか出るようにしといたら 暴言を吐かないように気をつける気になるだろうか。 もちろんわざわざ細工をして隠すような悪な人には効果がないが、 そういう人はそう多くはあるまい。

匿名の人間に言われたからといって無視していいというものではない。 内容と発言者の人格は分けて考えるべきだからだ。 だが、それと同時にその人を軽蔑するのは良い。 内容と発言者の人格が別であれば、内容を受け入れつつ発言者の人格を否定することも また可能だからである。

2001年5月20日

停電中。すっげえ不便。あのサバがずいぶんとオレの日常の一部になっている ことを痛感した。そのうち自分のうちでなにもかもできるようになるといいんだが、 それは無理か。

起きたら枕元にプレゼントが置いてありました。 しかし最近別に良いことをした覚えがないので たぶん神様じゃなくて悪魔からのプレセントなのでしょう。ありがとう悪魔様。 さっそく起動します。

なんとなく一人前になりたい。 たぶんオレが就職に走る動機の一番デカいのはそれだ。しかし、そんな動機で 就職していいものだろうかという気もする。 別に今のまま博士に進んでこのダラダラした生活を 延長していけない理由はないのだが、なんというかそれは不安だ。 今の研究に飽きたというのもあるにせよ そんなのは大したことではなくて、やはり罪悪感とか引け目という奴がメインらしい。 根っこにあるのは「学生は半人前」という先入観とか、 「お隣はあんなに立派なのに」 という黒い感情なのかもしれないが、分析以前にあるこの「なんか不安」 というのをどうにかしたい。一遍働いてその不安を消し去った後で、 「ああ、やっぱ辛いわ。学生戻りてー」と本気で思ったら博士にでも行けばよかろう。 というわけで、明日は東京でIBM。この会社は交通費くれるはずだから安心。 だが24のセガはほぼ確実にくれまい。ともかく、一回「働いている人」 という称号を手に入れてみよう。

イズミヤの古本セールで半ばあきらめていたドーベルマン刑事の17から19を入手。 「このド外道がぁ〜〜〜」で犯人を片端から射殺していくのが心地良い。 ついでにジーザス1,2巻も入手。靴下。 あと吉川英治の宮本武蔵と夏目漱石の坊っちゃん。 そのうち読むだろうたぶん。

夏が来やがった。

月姫。5時間ほどやったが、盛り上がるのはこれからくさい。 同人のレベルは逸脱しており、プロでもこれ以下のものはいくらでもあるが、 今のところこれといったウリがない。だがしかし、あれだけ評価が高いのだから これからものすごいことになるに違いない。楽しみだ。 ただ、今のところの印象ではちょいと説明くさいのが気になるか。

ところで、月姫の画面が暗くなる効果は遅くない。 フルカラーではないのか。それとも、やっぱりそのくらいはできるはずなのに やってないゲームが多いだけなのか。謎だが、 自分で作ってみねばわからんに決まっている。やろう。

2001年5月19日

今日、明日は研究室が停電。アクセス解析、掲示板等は使用不能です。 電力が復旧しても上流の機械が動き始めるまでは使えないので、 最悪月曜までかかることも考えられます。うちのネットワーク管理体制は どうにかしてほしいものです。

sambaでプリンタ設定に成功。スプールディレクトリのパーミッションと ログインユーザの設定(nobody→印刷用別ユーザ)をいじると 「書きこみ失敗」というエラーが消えてなくなって万歳となった。 これでwindowsを常時稼働しなくても隣から印刷ができる。 プリンタ共用だ。研究室でも同じことをやろう。

変数が一個であるような関数の極値を計算して列挙 するプログラムを書くことにした。ただどれくらいの幅で極値があるかは わからないので、一定の計算量だけやってそこまでの結果を出すだけになる。 検索する定義域は引数として与えることにし、その外は無視だ。 現実的には関数のパターンをいくつか教えてやって、 関数の形から極値の範囲や数を推定する必要があるのだが、 今問題にしているものはほぼ間違いなく0から10までに問題とする極値があるので それでいい。

というわけで基本戦略。まず定義域をn段階でスキャンして、 極値を探す。あればその前後を新たな範囲に設定し、 余った部分もまた新たな範囲として、それぞれにn段階のスキャンをする。 以下くりかえし。極値がなかった場合は2等分していくが、 このままだとどんどん計算量が増え続けるので k回連続で2等分しても極値がなかった範囲は破棄する。 全部でs回スキャンすることにして、泣いても笑ってもそこで計算を終わる。 で、一番小さい値を出したxを採用。 かなり頭良くないが、オレは所詮バイオなので良し。 範囲がわかってるだけにk=1、n=4、s=20でほぼ収束する。 マジで全部の極値が欲しいとかいうことになるとkとsをバカスカ増やして やらねばならず計算量がそれはもう大変なことになってしまうのだが、 そんな必要はないのだ。2つのデータ配列が一番よく一致するように 片方にある数xをかけようという時に、10とか100とかかけたら 片方の寄与しかなくなってしまうに決まっているのである。

とか言う時に SAにモンテカルロまで組み合わせた方法が。さらに遺伝的アルゴリズム。 ああ、言葉しか知らないお話がたくさんです。しかし「いや、私バイオだし」 とか言って逃げていられる状態でもないので勉強しましょう。 でもちゃんと実験もやらないとマズいのが私の研究の辛いところでもあり 逃げ場でもあります。

なるほど。しかし、画面を暗くするなんてものすごく基本的な気がする んですが、それが重くなるのが仕方ないのだとするとけっこう淋しいです。 最近のが重いのは別に作者達が悪いわけではないんですね。 ReLeafとかはさすがに別格でしょうけれども。 ともかく、どれくらい大変な処理なのかは自分で作ってみなければわからないと 思うので、画面になんか絵を合成して表示して エフェクトかける部分だけ作ってみようと思います。 計算するのが遅いのか、送りつけるのが遅いのかというような 感覚もわかるでしょうし。

ナデシコ劇場版、エスカフローネ劇場版

  アニ同の上映会に参加して、ナデシコ劇場版とエスカフローネ劇場版。 まずナデシコだが、おもしろかった。まず、動く。何より動く。 それも気持ち良く動く。これだけで良い。加えてセンスがいい。 いろんなオブジェクトがおかしいので戦争してる気がまるでしないのだが、 その割にキャラはみんなけっこう真面目にやってたりして、そこがいいのだ。 「占拠速報」なんてのはツマらないシャレだと言ってしまえばそこまでではあるが、 やはりキャラが大真面目なので良いのである。内容についてはよくわからんが、 まあなんとなくわかるし、キャラも無理矢理ではあるもののけっこう立っている。 極めて悪くない作品だった。

  さてエスカフローネの方なのだが、 これが実は評価に困る。動いていたのは間違いない。 デカい鎧武者ロボットみたいなのがいかにも重そうな動きで重そうな剣を 重そうに振り回すシーンはなかなか良かった。 動画に重量感が出ているのは非常に評価できるのでそこだけは 無条件に讃えたい。しかし、全体としてどうかと言われるといまひとつと 言うしかない。何が悪いかと考えてみれば、 まずはセンスの無さ、そして説教臭さ、最後にキャラのどうでも良さとなる。 センスと言ってもデザインや世界観ではない。 世界観は古くさいあれの割にはちゃんとしているし、デザインは文句なくかっこい いからだ。問題があるのは演出的なことと時間の使い方だ。 とりあえず空と鳥というカット割りにどうにもセンスが感じられない。 そして説教臭い。 何の積み重ねもなくクサい台詞を連発するのが気に食わない。 人は、いや少なくともオレはセリフの内容のみをみて 判断したり感動したりすることはなく、そのキャラがそのセリフを吐くまでに 積み重ねてきた行動や態度によって感動するのであって、セリフは 引き金にすぎない。奴等にはその積み重ねがまるでない。 それに冷静なツッコミを入れるならば、 一族皆殺しにされて実の兄と殺し合いをせざるをえなくなった 少年と、生きる実感もなく人との距離がはかれないだけの現代日本高校生 の苦悩を同列に扱われては困る。 そして最後のキャラだが、これも説教臭さと同じことで 言わせたいテーマみたいなものを言わせられたためにそのキャラの人間が 見えず魅力を感じない。加えて主役二人の人格やその関係が、 序盤と中盤で激しく断絶する。話も聞かずヒロインを 殺そうとするヒーローと、いじけてビビっているムカつく女子高校生ヒロイン という関係が、気がついたらヒロインを守ってやる使命感に燃える熱血少年と ヒーローの心の傷に共感して自分の過去を乗り超えていこうという 美しい姿勢の熱血ヒロインになっていた。きっかけと言えるものはあったし、 現実そんなもんかもしれないが、オレがそう思えなかったんだから仕方ない。

  思い返してみたらマクロスプラスもこんな感想を抱いた作品だった。 話はともかく、メカがかっこよくて音楽が良くてミサイル。

2001年5月18日

となりにコンピュータ導入。窓からLANケーブルを外に投げ、それを外で うちの窓から降ろしたひもに結びつけて引きこんで、接続。 100Mb/sで通信するご近所の完成だ。プリンタとプロバイダを共有する。 最終的にはsambaにプリンタを制御させてウハウハにしよう。 そうすればwindows機を立ち上げっぱなしにしなくて済む。

9335次式の値が最少になるxを探すという問題に直面。 代数的な厳密解を求めるのは無理そうなので、 てきとうに代入して一番小さいのを拾ってくるという戦略に出た。が、 極値がたくさんあるので一つだけ見ればいいというものではないし、 どれくらいの幅で代入していけば見つかるかもわからない。 ちょいと頭を使う必要がありそうだ。

なぜ最近のギャルゲはこう重いのか。顔のない月の重さはどう考えてもおかしい。 ただ画面をだんだん暗くする処理がなぜこれほどぎこちないのか。 思えばTo Heartを最初にやった時はCPUが133MHzとかだったし、 ビデオもTrio64かなんかだった。 今のとは比較にならんほど遅かったはずだが、 重くてイライラした覚えはまるでない。そして、今のギャルゲーがあれに比べて とんでもなく高度な処理をしているようにはまるで見えない。 今のギャルゲーを当時の機械でやったら 一体どんな恐ろしいことになるのだろうか。一度200MHz級の機械で 今の重いギャルゲーを動かしてみたいものである。

150W電源でDuron+CD-Rは無理だったか。いきなり落ちるので、 K6機と交換。小さくてかわいいケースなのだがなあ。これ。 やっぱりファンいらないコンピュータが一番だ。 もう遅くて困るほど遅くはないのだし。 CPUファンムッチャうるさいです。

覚え書き。「アクセス解析は正当な行為か?」。後で考えてみよう。

2001年5月17日

周りで鬱が流行しているらしい。今までの経験の範囲で言えば、 鬱は化学である。さらに言えば感情は化学である。 そうやってどうにもならないことをどうにかなるような気がすること に置き換えると、見かけ上物事が簡単になってまあいいかという気に なるわけだ。所詮見えるように世界はあるものなので、それでいい。 なお、それはそれとしてオレは感情は化学で心はデータだと信じて 疑わない男である。体、心、魂の3分割は魂の神秘性を保ったまま 心を科学できるとても都合のいい方法だ。 心が科学できるのならその現象たる鬱も科学できるはずで、 我々の実体が魂だと言い張るのであればそんなものに 翻弄されるのも情けないことだろう。 だいたい胸が苦しくなるとよく言うのは それが肉体の感覚である証拠であってなんら神秘的なものではない。 罪悪感とか明らかに肉体感覚だ。

と、このようなことを言えるのは鬱が発動していない時に限る。 ところで鬱はクセになるので気をつけた方が良い。 万年鬱で鬱に慣れてしまうのも手ではあろうが、それはちとヤだろう。

人間の時間感覚は対数的である。1秒前と2秒前はけっこう違うが、 1年前と1年+1秒前はかなり同じだ。ということは、人間の記憶が対数的に 減衰していくことを意味している。それが神経細胞というマシンの特性によるのか 日常の生活における情報の書き換え速度によるのかはわからないが、 ともかくも対数的である。ちなみに、聴覚も対数的である。 エネルギーが何万倍も違う音を人間はせいぜい何倍大きいという程度にしか感じない。 逆に言えばそれ故に何万倍違った音も聞くことができる。 さらに視覚も対数的である。光の粒10個もあれば人間の目は物を見ることができるが、 それが何万倍になってもやはり物を見ることができる。感覚的に 太陽の下が家の中の何万倍も明るいとは感じないのは事実である。 そして感覚も記憶も対数的なのだから、人間は考え方も対数的になる。 人を対象として何かを作る時、この性質は心に留めておいて損はない。 そういうわけで、発想そのものにおいてはトーグ(判定が対数なTRPG)や FFは正しいと言えよう。 ドラクエは基本的にリニアーであるため、さほど強くなった気がしない。 しかし人間の強さは対数的には増加しないので、ドラクエの方がリアルではある。 どっちがいいかは場合によるだろう。しかし、トーグはおもしろかった。

perlのリファレンスが唐突にわかった。多次元配列作りたい放題。 原則がわかればこっちのものよ。->演算子の意味がわかれば後はもう。 でも3次元以上はヤだな。

人間がマシンだという考え方はなにかと反発される。 おそらくそのような思考は多くの脳では禁止されているのだろう。 自分の脳の中では半ば自明になってしまっているので、他人の脳がそうであることに 長いこと気づかなかった。 たまたまオレがその禁止をブチ破るような衝撃を受けたか、 あるいはその禁止が元から弱かったかしたからこのような認識に至ったわけで、 これは頭の出来の問題ではなく単に受けてきた入力の違いである。 逆に言えばオレが「非人間的」だから 心というものがわかっていないのだ、ということにもなる。 まあそれでもよかろう。

なんかバカ笑いできるような楽しいことを書きたいんだが。

セガ一次通った。面接地獄。あんな怖いのはもうイヤなんだが。

アクセス解析。ファイル読むのに2000アクセスで0.12秒もかかってる。 2000回seekとreadしてるんだから無理もない。 バッファにドカンと読みこんで処理するように変えないと。 なお、0.5は機能拡張というよりは大規模な再編成と関数の汎用化。 固定長レコード使うのに必要な関数とか、一つの実行ファイルで ログをたくさん持てるCGIとかに共通な関数を全部ひとまとめにしてライブラリもどき を作っているのだ。 初心者なので練習の名のもとに先人の遺産を無視しても許されるに違いない。 絶対そういうライブラリあるんだろうけど無視無視。

立場と正義

  立場ってものがある。オレはサイト製作者だから 読者には何も要求する権利はないのだと 「自分で」思う。読者は読者にすぎず金も払っていないのだから 作者に要求する権利はないと「自分で」思う。これが立場であり、 つまりは大人の社会の基本である「非干渉」の考え方である。 これが、「サイト製作者は読者に気を配らねばならない」と読者が言うようになると、 領分を侵害することになる。そしてまた、「読者は読者にすぎないのだから 作者に要求する権利などない」 と「作者」が言うのも社会的に間違いなわけだ。 多く人は正しければ(=善意であれば)押しつけてもいいと思いがちであるが、 正しいというのは自分の脳内部でのことであって他でそうかは必ずしも確実ではない。 それを忘れがちな人が特にネットでは多いように見受けられる。 非干渉とは無関心ではなく自制のことなのである。 いちいち掲示板まででかけていって、 「あなたは間違っている」と言うのはこの原則に反しているし、 かといってそういう書きこみに対して「あなたは私の言うことをわかってない。 理解してから言いなさい」 と言うのもまた同様に原則からすれば間違っている。

  もちろん現実には度合というものがあり、「死ねこのクソオタク」と 掲示板に書いた奴がいたからといって作者が反省してオタクをやめねばならない わけではない。また、「こうこうこうした方がいいと思いますよ」という 真面目な意見はサイト製作者にとってありがたいわけで、こういうものが全く なくなってしまってはまた困るわけだ。 では、原則に反しても許され、 かつうれしいのはどのような条件がそろった時かと考えると、 その干渉が真面目でありかつ有益である場合に限られることがわかる。 この二つの度合の合計がある程度あればまあいいかということになるし、 もっと多ければ喜ばしいことにもなる。 そしてどちらかだけというのはやっぱりダメだ。 すっごく真面目で本人は善意だと思ってるけど的外れで押しつけがましい意見とか、 正しくて言うこと聞くべきな意見だけども高圧的でこっちをバカにしすぎているとか、 そういうのはダメなのだ。

  オレのサイトを例にして言おう。 まず原則としては、 読者の立場から言えばオレが何を書いてもオレに文句を言う権利はない。 そして同時に、読者が何を言ってもオレがそれに対して文句を言う権利はなく 読者に対して一切の要求をすることはできない。 しかし、実際上の問題としてはオレがメチャクチャなことを書けば 文句を言うのも妥当であろうし、オレもまたその原因になるようなメチャクチャな ことは書くべきではない。そして、悪意のこもった上にこっちの書いてることも 理解してないような文句には「知るかボケ」と言うのもやむを得ない。 正義が相対的であるとはこのような意味であって、 断じて「正義なんて相対的で人によって違うんだからおまえの言うことは聞かねえ」 という頭の悪い意見の根拠にはならないのである。 言葉だけ見てわかった気になるからそういうことをやらかすのだ。 オレも身に覚えがいくらでもあるから他人に強くは言えないが、 ネットではあまりにそういうのが目につきすぎる。 きっと生身の関係で抑えているものがネットだと出てしまうのだろう。 案外生身でつきあうよりもネットでつきあう方が本性が見えるということも あるのかもしれない。

2001年5月16日

顔のない月、ホモシナリオ。といっても、炎多留チックなわけではなく、 所詮はショタだ。なんでこんなにかわいいねんという感じで、 出来はよろしい。 それにしてもえらくエロゲーなエロゲーだ。 エロゲーとしての完成度はズバ抜けている。 話がわけわかりにくいあたりが今風ではあるが、 それにしても古いエロゲー的エロゲーとして出来が良い作品だ。 かつてはこういうのが主流であったはずだし、 おそらく数年後には同様に主流になっていることだろう。ここ数年 なんでエロゲの体裁なのかようわからんものが流行っているが、 そう続くとも思えない。そして、その流行が絶えたころには オレもこのジャンルとおさらばしていることと思う。 KANONのヒット以来盛りあがる作品がロクにない状態が続いているが、 このまま多様化が進んだ結果全体としては薄れて消えていくのではなかろうか。 そもそもギャルゲーなるものがそうそう長いこと隆盛を誇るなどといういことは 考えにくい。一度確立した以上なくなりはしないが、 かつての勢いを取り戻すことはあるまい。

ところで、このゲームかなりジジイの声が秀逸だ。 それにしてもなんでBGM鳴らないのだろう。 うちの機械が悪いのか。

2001年5月15日

セガ面接。わざわざ東京まで行ったというのに交通費くれなかった。 そして時間がわずか15分。それも4人いっぺん。 さらに聞かれることが普通。あれで一体何を見ていたのかは知らないが、 座り方やら部屋の入り方やらをジロジロ見ていたので、 たぶんそういう方針なのだろう。好感度かなりダウン。 しかし、一般に面接と言われるような面接を受けたのは生まれて初めてなので 経験にはなったかもしれない。25000円の価値があるかどうかは微妙だが。

考えてみれば企画とプログラマを別に枠を設けて取るという時点で 何かを限定しすぎている。職種を変わることができないというのは、 つまりプログラマはいつまでもマシンでいろということに他ならない。 その点はナムコも同じだ。任天堂の「技術系」という取り方は 入った後の可能性から言えば一番いいのかもしれない。

にしても、「やる気がある」などという禁句を平気で言ってしまうのは辛かろう。 やる気のある人間が今までその方面に何も手を出さないなどということが あるはずはないのだから、 この時点でなんらかのスキル、あるいはせめて手を出した経験を持っていなければ そんな言葉はウソにしか聞こえないのである。

廣松渉。妙に辛くなった。というのもわかりやすすぎるからだ。 最初にもう結論は示されていて、後はわかりやすくかみくだいた例をえんえん 説明しているにすぎないのである。というわけで飽きた。次は彼の元ネタである マルクスあたりを読むことにする。 ところで、かなりイカした一節があったので紹介しておこう。

「指示」される対象は、so und soの規定性(内包)をもつものとして「述定」 されることによって、−−いわば、"角材"が「ゲバ棒」になるように−−もはや 単なるそのものals solchesでなく、述定される内包規定を担うかぎりでの 対象性として相在so-seinする。

例がアレなのもさることながら、「相在so-sein」あたりのシャレの素晴らしさには 声もでない。内容は普通にまともでさほど見るべき点があるわけでもないが、 この文体は使える。 「オリエンティーレンする」とかはとても良い。 ちなみに「方向づける」の意味である。

面接待ち時間にコミックバンチ。「ほぉくとのけんツウゥ〜〜!!」 と千葉繁の声で叫びたくなるが、 中身は「親は」(=中坊)だった。ところで、この雑誌。どうしよう。 枯れてるだけに安心して読めるが、安心できるだけでネタにしかならない。 それにしてもシティーハンターってのはこんなにダサい漫画だったか。 やはり過ぎ去った物はダサくならざるを得ないのか。

2001年5月14日

読む容量より関数を呼び出す回数の方がずっと処理時間にとってはクリティカル であることがわかった。 とすれば、メモリが負担にならない程度にまとめて読む方がいい。 そういうふうに書き直そう。0.5の課題。

しかし、たかがアクセス解析ごときになにやってんだろう。 実は掲示板に必要なルーチンの8割はもう書いてしまっているので、 無駄ではないんだが。後で共通部分を別ファイルにしておこう。 後はサイト内検索CGIくらいだろうか。

IBM二次面接で東京へGO。21日。しかしやっぱり日帰りか。

合同研究発表会。やりすぎた。まただ。またやりすぎたんだ。

Y軸に恵まれ度、X軸に時間をとり、幸せ度をf(t)と表す。 この時幸せ度はある基準時刻をt0、現時刻をtとして f(t)-f(t0)/t-t0となる。つまり傾きだ。 恵まれ度の傾きがプラスに激しいほど幸せで、マイナスに激しいほど不幸になる。 微分じゃないのか?と思うかもしれないが、人はいつを基準時刻とするかを けっこう自由に決められるため、t0はtからけっこう離れていてもいい。 実際「あのころに比べれば」というのはよくあることだ。 つまり何が言いたいかと言うと、幸せかどうかは恵まれている度合ではなく 恵まれている度合の変化で決まるのであって、恵まれているからといって 幸せとは限らないということだ。他人と比べられるのは恵まれ度であって、 幸せ度ではないということである。ということは、できるだけ恵まれ度の低い 時刻を基準時刻にとって生きていけば、いつも傾きがプラスになって 幸せになれるわけだ。理屈は簡単である。辛いことをたくさん経験すべきだ と言うのは、成長するからという以外にこの基準時刻を作るためという意味 がありそうな気がする。もっと辛い目に遭おう。

こうやって数学のまねごとをしてネタをやると、ある種の人には嫌われる。 「人間の心を数学で扱うなんて」。オレもそう思う。思いたい。 自分にも他人にも 数学なんかでは表せないすごい複雑でナイーブなものが備わっているんだと思いたい。 だが、見れば見るほど数学でどうにかなりそうな気がしてくるのだ。 制御できるわけではないが、しくみは数学で説明できてしまう。 だがそれはそれとして、あまりこういうことを言わないようにしよう。 文章で書くのと面と向かってしゃべるのは全く別のことなのである。 全ては連続でパラメータの違いにすぎないというポリシーに反する ことを言うようだが、これに関しては「別」と思った方が生きる上では無難だ。 生身のつきあいは言語を絶したものなのである。

合同研究会でやりすぎたのがブルー。そしてブルーになると過去の悪業が思い出されて よりブルー。ああ、あの状況で教科書問題の話に参加するなんて なんてバカだったのだろう。自分の考えを示すことがいいことだ なんて絶対ウソだ。 自分を強く見せようとする技術はこの国にはそぐわない。

明日はセガ本社を拝んでくる。おっと履歴書書かな。

相対性理論は宇宙の陰陽を数式で表現したものらしい。 うちの師範はどうしてそんなイカした台詞を吐けるのだろう。 ムチャクチャに思える一方で何かあの人が言うならわかるという気がする。 絶対に電波が来ている人ではないからだ。語彙がたまたま中国なだけである。 とりあえず相対論の本でも読んでみるとしよう。 知ってたら新しい地平が見えそうな気がする。

日記支援関係を全部書き直すことにした。そこら中何かがおかしくなっている。

2001年5月13日

研究室の新入生歓迎会2。教授の家にたくさんの人々が集まっていた。 新入生歓迎会とは言うものの、その実体はOB飲み会である。 うちの教授は来年退官なだけに、歴史がある。 そして、歴史があるということは人脈があるということで、 40人近くもOBが来た。自己紹介でみんな自分の研究やらプロジェクトやらの 紹介をし、そして歓談モードではさりげなくコネを形成してゆく。 これか。これでこの世界は成り立っていたのか。

ところで、オレは居場所がなかった。何を話したらいいのかまったくわからないので どうしようもないのである。アニメでも映画でも豪勢なパーティー から主人公が一人抜け出して夜風にあたるシーンがよくあるが そんな気分だ。ただ、残念ながらあれにつきものである声をかけてくる キャラがいないし、所詮オレなのでまるで絵にならないのである。

0.4 がとりあえずできた。新機能はカウンタ、管理者設定、ログサイズ限界設定。

ツッコミの出現をアクセスログの大量のゴミの中から高確率で検出して かつ新しい順に表示するにはどうすれば良いか。 特に同じURLから複数回のツッコミリンクが発生した場合にログに埋もれない ようにするにはどうすれば良いか。 もちろんいちいち読みにいって本当に リンクがあるかどうかを確かめ、さらにはそのファイルをキャッシュしておいて アンカー周辺の文字列の比較を行えば確実にわかるのだが、そんな方法は却下する。 で実際には、単位時間あたりのアクセス数はリンク出現直後が最大で その後は減衰するという性質を利用すれば良い。 アクセス増加加速度が大きく プラスになるところがリンク出現時刻である可能性が高いというだけだ。 人は一日単位のリズムを持っているので時間間隔は日でいい。 またリンクが実際にあるかどうかは参照回数だけで評価でき、 はっきり言って同じところから2回以上来ればほぼ間違いなくリンクがある と言って良い。つまり、2回以上参照があったもののみを相手にして リンク出現と考えられる時刻から過ぎた時間の逆数を計算し、 これでソートして表示できるようにすればいいわけだ。 アクセスが少ないといまひとつ時刻特定の信頼性が落ちるが、 少なくともコンスタントに使われているリンク(トップページ、アンテナ等) はこの方法で除かれる。 というわけで0.5に追加予定。ついでにソースのおそうじと高速化。

いっぺいから借りた二宮ひかるの漫画「初恋」「誘惑」「最低」。 どう言っていいかわからないが、ちょっといい感じ。

合同研究発表会は明日。でもまだ何もしてない。加えて眠い。 ちょっと寝てから勝負だ。

文脈も感想もない引用は怖いです。 「どういう意図で引用してるのかなぁこれ」と不安になります。 もちろんそうやって文句を言うのも筋違いなんですが、 ささやかなお願いということで。

2001年5月11日

「happy lesson」。いきなり5人の先生がママになるという シスプリのママプラス先生版みたいな物体だ。 二番煎じな上にほとばしりが弱く、普通。

思えば、今大学一回生の人々は雫が出た時まだ中学生だったのである。 そして、To Heartですら高校生だ。大学一回生にしてギャルゲーのエリートと なるのも無理はなかろう。しかし、空気のようにギャルゲーがあるだけに こだわりが薄い。ただ萌え萌え言っているだけでは高みには登れまい。 なお、そんな高みに登ってどうするかはひとまず置くとしよう。

ナムコ書類通った。こんなに書類って通るものなのか。 大学の名前がそれだけ偉大だということか。 ナムコの書類は間違いなく一番適当に書いている。 「このスペースを自由に使ってアピールしてください」 と書いてあったのだが何もネタが浮かばず、つい 拳法の技を図解してしまったのだ。

名簿。ネタがないなあ。

G'sマガジンというものを見た。事実上初めて見たかもしれない。 そしてギャルゲーの数に驚いた。こんなもんいちいち見てられるか。 WEB日記で話題になったのだけ手をつければ十分である。 半年残らん物に価値などなかろう。

自分の文体が急に恥ずかしくなった。とか書いてるのがだ。 さっきたまたま芸風の良く似た文章を見つけたのがきっかけだ。 同じ趣味の人がいるとわかると急にそれをやめたくなることがあるが、 たぶんそれだと思う。 もっと「こんな文体いねえ」っと言うような文体だったならこんな思いは せずに済んだのだが、残念ながらちょっと少ないくらいでありふれているようだ。 しかしもしかしたらそういうことは関係なくて、 えらそうな文体のわりにオレが客観的証拠としてのえらさを まるで持ち合わせていないというギャップが恥ずかしくなったのかもしれない。

匿名の正義

  やっぱり匿名はいかん。他人に面と向かって物を言う時に匿名であるのは 卑怯にすぎる。2chなどなら批判される人の前でやるわけでもない陰口だから まだかわいげがあるが、他人の掲示板まででかけていって 匿名で批判なり中傷をするのはあまりにも醜い。 本名、あるいは広く知られた通り名を示して発言すべきである。 いちいちけなしに行く人は当然けなされる人よりも自分に正義があると 思っているわけで、正義だと思うなら名を名乗って然るべきであろう。 名すら名乗れぬような正義で人をけなすとはあまりに卑怯かつ愚かである。

  何かを発言する時、人は例外なく自分に正義を感じている。 どの程度の自信をもっているか、あるいはどのような種類の正義であるかは 場合によるが、少くとも最終的判断として良いと思わない行動は絶対に 意図的にはなされない。ウソをつくのはどうなんだと言われるかもしれないが、 それは「ウソを敢えてつくことが良い」という判断の末である。 人に何かを教えてあげるのも「知らない状態よりも知った状態の方が良い」 という判断の末である。人の掲示板にでかけて死ねなどと書くのも、 「相手は死ねと言われても良く、かつ自分がそれを言って良い」 という判断の末である。全ての発言、ひいては全ての意図的な行動は 最終的に「良い」という判断が下された結果として行われるのだ。 「ああ、わかんねえけど、いいや」と言われるのも、やはり「良い」 と判断しているのである。 そしてオレも当然「こういうことをここに書いても良い」という判断の末にこれを 書いている。このようにあらゆる発言がその人の正義を反映している以上、 あらゆる発言はその人の正義を相手に示しているわけで、 程度の差こそあれあらゆる発言は全て正義の押しつけなのだと言ってもよかろう。

  さて、では現実の問題は何によって起こっているのか。 それは「程度の差にしかすぎない」というまさにその「程度」によってである。 提案と強制の間には無限の段階があり、ここからが提案、ここからが強制という ラインは存在しない。だから、人は自分と相手の関係をよく見てして良いことを 判断しなければならないのだ。 この計算に手を抜くからさまざまな問題を起こすのである。

  たとえば、「正義を押しつけてはいけない」と言う人がいるが、 その人が「正義の押しつけ」と感じる条件は案外単純なものだろう。 すなわち、「自分がやりたくないことをやれと言われた」とか、 「自分が賛同できない意見を〜べきという言葉を使ってい書いている」とか、 所詮その程度ではないか。「人類は平等だ」と言って人権擁護運動をしている 人に対してそう思うとは思えないわけで、結局自分の利益に基づいているにすぎない。 「正義を押しつけるな」と言う人がその「正義とはなにか」「押しつけるとは何か」 について考察を十分にしていることはおそらくまれであろう。 他人に何か言うのにその他人の言っていることを理解しないのは論外だし、 自分で言うことの意味について考えないのも論外である。

  人が匿名で物を言うべきでないのは、反撃されないからである。 反撃されないということは、自分の正義を疑う機会が与えられないことを意味する。 つまり、成長のチャンスが失われるのだ。成長は過去の自分の過ちを認めること を必要とするが、自分が間違っていることを認めるためには多かれ少なかれ ダメージを受けなければならない。

  匿名で物を言う人も、物を言う以上自分に正義があると思っている。 しかし、その正義に自信を持てない。そしてその上、自分が間違っていた時に 食う反撃を恐怖しているのである。これが大した意味もないどうでもいいことなら 「バカに噛みつかれても面倒だし名前ふせとこ」と言うのは賢明ではあろう。 だが、人に意見しようと言うのに名前を伏せるのは臆病以外の何者でもない。

  人は自分の行動の動機を知る努力をすべきではないか。少しでも。

2001年5月10日

不思議だ。人は自分が優れている(正しい)と思うことは快楽なのに、 他人が劣っている(間違っている)と思うことは不快なのである。 結局のところ「自分が他人よりもある程度勝っていると思う状態」 がエネルギー的に最も安定(つまり一番気持ちいい)なのであり、 その「ある程度」が人によってだいぶ違うということなのだろう。 なお、最も不幸なのは「他人は自分よりも常に優れていなければならない」 という感覚だ。自分と他人が逆ならば修行すればいいだけで事は簡単なのに 対して、これは自分の力ではどうにもならないのである。

任天堂

  任天堂試験。専門が電気・電子、情報、機械から一つ選択で、 残りが一般問題だ。専門は情報をとったが、 「どうすれば通信の反応性能は良くなるかを現状のインフラを考慮して述べよ」 みたいなのとか 「多重化回路と脱多重化回路を書け」とかいうオレにはどうしようもない問題と、 RISCとCISC、インタプリタとコンパイラ等の違いを述べよみたいな どうにでもなる問題の二種類があった。 その手のことをしてきた人には楽勝だったのだろう。 そして、実は一般がメチャクチャおもしろかった。 一般常識を問うつもりなのだろうが、どうにもおかしい。 「平家物語と同じ種類のものを以下から選べ」とか、 「以下のうちから画家の国籍と名前が一致しないものを選べ」とか、 それはもうどうでもいいものばかりだ。3分の1くらいは四字熟語だとか英語だとか 算数だとかの普通の問題もあったのだが、残りはメチャクチャである。 極めつけは任天堂関係問題。「マリオとルイージの関係は以下のどれか」 などは吹き出すのをこらえるのが大変だった。 ちなみに選択肢は「兄弟、親子、友人、進化形」とかそんなんだった気がする。 「進化形」はおもしろすぎるだろう。あとは「以下からシューティングゲーム であるものを選べ」 とか「任天堂の2001年度売り上げに最も近いものを選べ」とかもあった。 そういえば英語の日本語訳もあったのだが、内容がすごい。 「ゲームキューブはAV機器なのかそれともゲーム機なのかという問いに対して 我々は明確にゲーム機であると答えるだろう。それも究極のゲーム機であると」 とか「ゲームボーイは初代以来ほとんど仕様の変更もなく 一億台突破を達成するに至った」とか、まあそれはもう自画自賛である。 到底素面で受けられる内容ではない。なんかこの会社が好きになってきた。

  ちなみに、建物は無駄に豪華である。正面玄関もゴツいし、中身もゴツい。 受付の女性の立ち振舞いも徹底しており、絶対に客にはドアを開けさせない。 常に先回りしてドアを開ける。加えてトイレの中まで大理石タイルである。 これは、成金だ。急速にデカくなってしまって金の使い方をどうしようか 迷ったあげくそうなったに違いない。なお、話によると任天堂には8000億の 資金があるそうだ。現金である。どう考えても強すぎる。

  ところで、自転車で行ってきたので交通費はゼロだったのだが、 なぜか1000円くれた。8時半から12時半まで拘束されたので、自給250円だ。 なんかでそんなキャラがいたような気がする。どうでもいいが。

押しつけ

  正義は争いを生む。自分が正しいと思うことがまかり通らないのは 不安で不快なことだからだ。正義を押しつけるのは良くないと言われるのは こういうことがあまりに頻繁にあるからである。しかし、 最近は「正義を押しつけるのは良くない」という押しつけ の方ががうっとうしくて仕方ない。見飽きた。 陳腐である。ダサい。 正義を押しつける人が生身で会う関係にあるなら それはうっとうしかろうが、所詮WEBである。なぜ放っておけないか。 なぜいちいち掲示板まででかけていって挙げ足をとろうとするか。 最近思うが、人は「美」に従った方がマシである。 恥や美意識といった感覚は下手な理性よりはるかに勝る。 でしゃばり、挙げ足取り、自分を棚にあげた非難。そういったものは 間違っているからダメなのではなく、美しくないからダメなのである。 もしその美意識がある程度のレベルですら共有されていないのだとすれば、 この社会はすでに瓦解しているのではないか。

  なお、そんなことを言っているオレもまたこの意見を 押しつけようと意図しているわけだが、それをもって「そんなことを言うな」 と言うのであれば、そうして「言うな」ということもまた押しつけであり 「言うべきでない」。形式しか見ない議論は必ずこういう果てのない連鎖を 引き起こす。人はどう頭を使うかを考えることにこそ頭を使わねばならない。 何をどう勉強するかに頭を使わない人間が受験で成功するはずもなかろう。

  ちなみに、最近は正しさよりも美しさよりも「おもしろさ」を価値判断の 基準にした方が良いような気すらしてきた。つまらんものはダメだという考え 方は、間違っているものはダメだという考え方にくらべれば 極めて穏当でかわいいものである。どうせ良し悪しから逃れられないのなら、 できるだけ穏当な良し悪しを選択すれば良い。

2001年5月9日

顔のない月のヒロインバッドエンドを2つ片づけた。とにかく言えることは ちゃんと作られていること。売り物として、そしてストーリーとして ちゃんとしている。ただ、主人公がよくわからん上に嫌いなのが辛いか。 ヒロインは普通。

自分が間違っているのではないかと思う人間にしか成長の機会はない。 しかし同時に自分が間違っているという思いは不幸である。

内田氏は形式的に間違っていることを敢えて書く人だと思います。 コーヒー牛乳の話などを読めばわかることですが、 伝えたいことを伝えるために、あるいはおもしろくするために わざと話の流れを非論理的にしたり エセ論理にもっていったりする人です。 この話の場合「あらゆる行為は利と害のバランスによって良し悪しが決定される」 ということが本筋であって、それ以外は話を盛りあげたりわかりやすくするための おまけに過ぎません。 憲法だろうが法律だろうがその原則から出発している以上、 憲法だからどうの法律だからどうのと言う前にその根本を考えてみた方が いいのではないかという提案でしょう。元の「意味」も考えずに 解釈だなんだ言うなと。そういうことを伝えようとする際には 憲法と法律の関係がどうであるかは本題ではなく、意図的に法的には間違った ことを書いたか、少なくともどうでもいいこととみなしているのだと思います。 形式は理由があって生じたものですが、その理由は状況によって生じます。 状況が変化すれば理由の根拠も薄れるものですから、 結果形式も変更する必要が生じるわけです。その論理の流れを はっきりさせるために敢えて順番を逆にしたのではないかと 私は思います。なにせこの人頭いいですから。 (野嵜さんへ)

任天堂の試験受けてきます。どんな会社かそれでだいぶわかるでしょう。

「ダメで良い」と聞いて「それは矛盾だ。わからん」と言う人間には わかろうという努力が足りない。同時に「ダメで良い」などという言葉を 使ってしまう人間にはわからせる努力が足りない。 そして、こう言われた時に「どっちだよ」と思う人間にはバランスが足りない。

アニ同の名簿を忘れてた。 新人を教えるのとプログラムにかまけてたらとんでもないことに。 そういえば今週末は漫研の新歓コンパで、ということは当然漫研の名簿も 描かねばならない。とよく考えてみたら、土曜日は研究室の新人歓迎会で 教授の家まで行かねばならんので、コンパは無理だ。 …名簿どうしよう。これから描くにしてもいつ描けばいいのだ。 なお、アニ同も漫研も名簿はただの名簿ではなく、 B5の紙一枚を好き勝手に使うものである。 当然自分をアピールすべく趣向をこらす必要があるわけだ。 でアニ同の方は手遅れなんだが…どーしよか。

魂、心、肉体という三分割は心と肉体という二分割よりも理にかなっている。 この時、根源的な自己は魂に属する。感じる主体である。そして、肉体は 心に及ぼす刺激であり、 心はシステムである。つまり、肉体の入力を心が処理して出力し、 それを魂が受けとるわけだ。心は作られたものであり、外界からの入力 によって決定される。つまり、心は入力によってその姿を変える自己書き換え型の システムなのである。そして、その出力を受けとる魂が別に存在すると考えるわけだ。 オカルトで言うアストラル体はこの魂に対応するものだと考えられる。 心を自己書き換え型のシステムかつ出力を受けとる何か と考えると心の正体が見えにくくなるが、これから出力を受けとる何かを分離 すると心というものがよく見えるようになる。 うちの道場ではこんなことを学べます。

さて、自己書き換え型システムというのは、書き換えられる部分と書き換えられない 部分に分けることができる。 そうすると単純なシステムとデータに分類できるわけだ。 こうすると、心はそのデータの方になる。システムは 肉体なのだが、すでに肉体を入力と定義しているので、 ここでは脳という名前で呼ぼう。 つまり、体、脳、心、魂という4分割が成立する。 体が入力装置、脳がシステム、心は記録装置、 そして魂は出力を受けとる何かである。 これがオレの主観的人間観だ。こう分類すると、魂はおそらく永遠に科学できない。 しかし、逆に心が科学可能なものであることがわかる。

アルゴリズム日記と書かれた方へ。まったく気にしてないどころか むしろネタにしていただいたのがうれしくて仕方ないので気になさらないでください。 迷惑なんてとんでもありません。私は読んでもらうために書いていますので、 読んでくれる人が多いのはよろこばしいことなのです。 あんまり「アルゴリズム日記」という言葉がおもしろかったので ついて「なんやねん」というツッコミを入れたくなってしまっただけで、 まるで怒ったりはしてません。ギャルゲーのイメージからかけ離れたのを 書いてるのも半ばわざとです。ギャップがあるほどおもしろいものですから。 でもまあ、半ば以上本気なのでアツくるしくて怖いかもしれませんが…。 というわけで、これからもよろしくお願いします。

私の段落アンカーふりスクリプトには欠陥があります。 なんといってもただ順番に番号をつけていくだけなので、 張った後に私が段落を挿入するとズレてしまうということです。 特にH3でタイトルをつけているものは常に最後にきますので、 そこの中の段落に張られた場合、かなりの確率でズレが起きます。 というわけでH3部の中には段落アンカーをつけないようにします。

廣松渉

  内田氏のサイトの文章を読んでやけに読みたくなった 「世界の共同主観的存在構造」(廣松渉)。しかし思ったより普通に読めるし、 思ったよりむつかしくない。今まで読んだところでは 「主観そのものが社会の影響を受けて出来あがるのだから、 主観と客観に単純に分けて論ずるのはムチャだ」という 至極あたりまえに思えることしか語られていない。 ところでこの文体のわりには出てくる例が 日常的だったりして、実はけっこうフランクな人だったのではないかと 思わせるところもある。わけのわからん用語は漢字をバラしてそれぞれの意味を くっつければだいたい想像がつくし、知らん人や本の名前など無視すればいい。

  主観と客観は社会的視点から見れば分けられるものではない。 オレの人格そのものが経験を入力とするシステムの出力結果にすぎない。 科学的解釈としては自由意志など存在せず全ては運命のままに決定されている のではないかと思う。しかしそれでは夢がなさすぎるし、実際そう思って やる気をなくしてもいい事はなにもない。だから、オレはオレという人格を持っていて 自由に生きているのだというファンタジーを信じて良いのである。 それに、まだ科学があずかり知らないところに意思というものが存在しないとも 限らないではないか。というわけで、人間には自由意志がある。 だから、責任という言葉も意味を持つわけだ。その人が犯罪をやらかしたのが 世界の粒子配置のためでなくてその人の自由意志のせいだからこそ、 責任を問えるのである。

  ただ、どうやら昔の人々はそういう考え方をしにくかったようで、 「自由意志はある。オレには魂がある」という考え方を根本にしたままで 社会について考えようとしてしまいがちだったらしい。 確かに感覚としては主観は主観であって、客観とは違うものだ。 なんぼオレがオレ世界に作られたものであっても、オレは考えているし、 感じているのである。これを無視しろというのもムチャな話だろう。 だが、人間の集合体について考える時にこんな考えを土台に置いていても 仕方ない。二人以上の人間について考える時、 魂やら意思などというものを考える必要は微塵もない。全ては入出力であって、 外から観測できることを主体にして論じられるべきものである。

  社会学をする時に、人間が意思を持っているかは問題ではない。 人間が意思を持っていると思っているかどうかは大いに問題ではあるが、 それは行動の変化として現れるから問題なのであって、 実際にそうであるかは全く問題ではない。つまり、本質は問題ではない。 社会と個体では本質と実存が入れ換わるのだ。 個体にとってはどう感じるかが実存であるが、社会を見る時には 超越的観察者が設定されるわけで、そいつにとっては統計的挙動こそが見え感じられる 「実存」である。

  廣松渉の認識学は科学よりな視点に立っているため、 複数の人間を超越者から見た時にどうなっているかということにより興味がある。 昔の人々の認識学は結局のところ「自分にどう見えているか」しか相手にしておらず、 「自分がこうなのだから他人もこうだろうたぶん」 といって人間の性質を明らかにしようとしたのとは少々違うわけだ。 廣松ももちろんそういう考察をしているが、もうちょい社会よりに見ようという スタンスに思える。

  まだ30ページしか読んでないんだが、そんな感じ。おもしろいのでちゃんと読む。

2001年5月8日

顔のない月にホモシナリオがあるという話を聞いて、それだけでもやらねば という気になった。が、今は忙しいので後である。それにしてもどこかで見たような 絵だと思ったらRe-Leafの人らしい。あまりいい思い出がないゲームだ。 これを売っても罪に問われないのかと本気で思ったものである。

オレってそんなにギャルゲーの似合わない人間なんだろうか。 加えて吹き出されるほどおかしい日記書いてるんだろうか。 アルゴリズム日記ってなんやねん。 「自分がまともであることを理をもって説明する人間は、その理が もっともであればあるほど正常とはみなされない」というのと同じことか。 いまさらそんなことでブルーになるわけではないが、 アクセス解析を始めてからというもの そういう感想をちょくちょく見かけるので、ちょっととまどってしまった。 しかし、どういう感想をもたれることも止めることはできないし、 話のネタになるのは光栄なことなので実はうれしかったりもする。

サントリー。「鳥居さん」をひっくり返したのが社名の由来らしい。 社長、副社長そろって鳥居さんなのだそうだ。 で、コネの関係でそこには無条件で就職できるらしいくさそうだ。 未確認だが、それで済むならそれでいいかと思ったりもする。 何せ面倒くさいし、イヤになったらどこの会社だろうが辞めるに決まっているのだ から、あまりこだわる必要もあるまい。 最初に買うものは必ず失敗するわけで、会社も一緒であろう。 他の結果が出てから考えればいいので今は放っておくが。

超硬派To Heartマルチ小説。すごすぎてどうしようもない。 感想を書こうにも頭の中にいろいろ巡っていて整理できない。 むしろ、整理すると情報がたくさん抜け落ちてしまいそうなので、 整理したくないのだ。一言で言えば、いい話である。

index.htmlについて

  index.htmlをブックマークに加えていらっしゃる方がいくらかおられるようです。 IE3がほぼ駆逐された現状では全く意味のないファイルですので、 これをtop.htmlと同じものにしました。top.htmlに行くリンクは全てindex.html に差し換えます。といってもtop.htmlを消すわけではありませんので、 ブックマークされている方は特に変更する必要はありません。

  ところで、top.htmlをブックマークに登録していらっしゃる方も、 もしかしたらdiary.htmlの方が実状に合っているのではないでしょうか。 カウンタなどどうでもいい飾りのようなものですので、 回してあげようなどと思う必要もないでしょう。 なお、最近は直接これを見に来る方のことを鑑みて 何か別の物を更新した時には必ずここからリンクを貼るようにしていますので、 トップの追加履歴も昔ほどの意味はなくなっていますし、そもそも他のものは 滅多に更新されません。

アクセス解析飽きました

  アクセス解析。 うちのがともかくも問題なくログがとれているようなので、 試したい人はドカドカ使ってください。 どこ経由でどれくらい人が来ているかとか、 何時間前に何人来ているかとかがわかります。 どなたでも試して欠陥を見つけていただけるとありがたいです。 なお、旧版 はバグが多くみつかった上に急速に重くなる恐れがあるので近いうちに削除します。 旧版を試してくれた人には申しわけないんですが、 ログは消えてしまいます。データのフォーマットを変換して 移すこともできるんですが、正直面倒くさいです。

  ところで、アクセス解析ごときに何をこんなに凝っているのでしょう。 謎です。そして、こういう思いが出てくるということは飽きたということです。 というわけで次は掲示板でも作ってみようと思います。 すでにあたりまえのようにあるものを自分で作ってみて、 ちゃんと動くことに感動するということを 繰り返すうちに自分独自のものを作るための基礎ができることでしょう。 そして作ったらまた「なにを掲示板ごときに」と思うのは間違いないはずで、 そのころにはもうちょっと賢くなっているはずなのです。 人に配るような質のものは到底作れないでしょうが、 たまたま目についたもの(例えば今使っているlight bbs)よりも 何らかの意味でおもしろげなものが作れればそれでいいでしょう。 さしあたってやることは、 全部読まずに書きこめるようにすること。 置くファイルは一つでいいこと。 設定はブラウザで全部できること。 実行ファイル一つでいくつでも掲示板を作れること。 表示条件をいろいろ選べること。そんなもんでしょうか。 アクセス解析のプログラムがだいぶ流用できそうですが、 見栄えとか安全性とかいろいろと気を使うことが多そうなのでおもしろそうです。

  ところで、これにちょっと手を加えたら日記にも使えそうな気がします。 加えてよくあるWEBチャットにもできそうな気がします。違うのは 入力された文章のフォーマット方法とレコードの構造くらいでしょうか。 あとチャットの場合は自動リロードをつけ、日記ならば書きこみにパスワードを かけるくらいです。この手のものは結局のところ、 データ入力要求を受けてなんか処理をして溜めこみ、 閲覧要求に答えて条件検索とソートをして出してくるということで共通しています。 研究で必要なタンパク質条件検索プログラムも全く同じでしょう。 違うのはその溜めこむデータの構造と、データ特有のフォーマット方法だけです。 そう考えると固定長レコードの読み書きというのはけっこう大切なもの なのかもしれません。

2001年5月7日

イズミヤの西側にある耳鼻科の医者がいい。 こちらを理系の学生と見るや「メニエル氏病」「活動電位」「カリウムチャネル」 等の専門用語を連発してくれる。説得するのに理論と実験をもってする態度が まさに科学者だ。 そしてそれとセットになっていいのが 下の薬屋。物質名と作用を表にしていちいちプリントアウトしてくれる。 説明もいちいちすばらしく詳しい。セットでおすすめだ。

で、鼓膜は切らずに済んだ。水など溜まっていなかったからだ。 低音部の感度が落ちているために、水がたまったような感じを催していたらしい。 人間は経験的に感蝕を分類しているため、水がたまったために低音部が 聞こえなくなったのにもかかわらず低音部が聞こえなくなった状態を水が たまった感じと表現してしまうのである。と言われると納得するしかない。 鼓膜の圧力を測定して表と裏で気圧差がないことを立証されては 主観的な感覚など粉微塵なのであって、科学万歳である。 なお、結果は感音性難聴だった。計ってみた結果 低音部の感度が多少悪い。1.25分の1(-10db)くらいになっている。 神経細胞が死んでるわけではないので左と違って絶望的なわけではないが、 あまり気分がいいことではない。加えて特効薬もない。 「そのうちいきなり治るかもしれんしなんとも言えんが とりあえず脳の電解質循環を良くする薬でも飲んでたらマシかも」 という程度である。どんな薬やねんと思うが、とりあえずもらってきたので飲む。

ところで、例の医者の耳そうじスキルはかなりのものだと思われる。 片耳あたり1秒の半分もかかってはいない。瞬間的に 巨大な耳垢をほじられた時は感動した。耳そうじのスキルから考えて おそらくかなり腕は立つのではないだろうか。昔かかっていた鼓膜切開が下手な 医者は耳そうじも数秒かかっていたのである。

「大卒の人間は高校の勉強しかできない。 同様に高卒の人間は中学の勉強しかできない」
とある先輩の言葉である。考えてみればあたりまえで、 大卒の人間は高校の勉強ができたから大学に入っただけで、 大学の勉強ができなくても卒業はできるのだ。 逆に考えると大学院生は大学の勉強ができているわけで、 それはそれでありがたみがありそうではある。

2001年5月6日

岡山。ボロクソ。あらゆる理屈は速度と気合の前に崩れ去る。 わかっていたことだが。

mod_perl。そしてCでapacheのモジュールですか。 なるほど。あんまり有名じゃないのは CGIに比べてなにかいろいろむつかしいからなのでしょうね。 それにしても速いというのはロマンであり絶対必要なことだと思うますが、 遅くて困らないと速くする気がおこらないのも事実です。 486ノートで掲示板やってた時は今使っているlight bbsというのが死ぬほど重くて どうにか速い奴を作ろうと思ったんですが、実行に移る前に速い機械が手に入って どうでもよくなってしまいました。ダメダメです。

アクセス解析に飽きたので、掲示板でも作るとしよう。 どうせこの手のものはとっくにいいものがあふれているので、 人に配ることなど考える必要もない。気楽な練習だ。 そのうち人が喜ぶような物を作りたいものだが、今の技能ではどうにもならん。

今日から学校。さて何をどうやって教えたらいいものか。 オレも知らんことと、オレと彼の差が激しすぎることのどちらかしか 教えることがないのである。

とらハ本。ページ数、左右の申告が5/31、完全締切が6/15となりました。 というわけで、それなら参加できるという方いらっしゃいましたら どうぞ。

2001年5月5日

明日は岡山でヤボ用がある。というわけで、今日明日は忙しい。

花右京。ちゃんと最後まで見たが、普通。出来が良くないだけで普通。 どこぞで見た時はもう少し殺人的だった気がしたが、こんなものだったか。

鋼鉄天使くるみ。同じく普通。出来が良くないだけで普通。 萌えーかと言われると、そうでもない。声が激しいが、 その程度。普通。

こみっくパーティー。やっぱり普通。絵は普通。話はクサいが普通。 キャラも普通。同人業界のことは相当正しいのだろうなとは思うが、 その程度。普通。しかしキャラ弱いのう。

アンテナ線をつないだ理由の半分程度を今日達成したわけだが、 普通。これでどうしろと。他にないか。

この人が言うなら信じていい。どう考えても疑うに足る理由がない。 そういうことが稀にあるものだ。増して同時にそういう人が二人も現れて、 その二人が同じことを言う。それがどんなに突飛であろうと信じる以外に ないではないか。 それが科学的本質ではないとしても認識であり実存であることに変わりはなく、 ましてそれを最低でも二人が共有している。 であれば、オレに共有できないのは運や能力の問題であって、 原理的に不可能というわけではあるまい。 そう思った時、世界はその姿をガラリを変えた。

武術というものが、ある種の神秘をはらんでいることは疑いようがない。 認識できるものは科学できるはずであり、神秘であろうとも存在するならば 科学される運命にはあるが、所詮科学は科学であり限界が明確に決まっている。 科学は気や勁力を物理的に解明できるだろうが、したからといって 人がそれを身につけられるようになるわけではないのだ。 だから、気や勁力は存在して良い。していると思うことで体得できるのであれば、 それは存在しているのである。オレは運良く極めて高レベルに体得した 人間を二人も同時に見ることができたので、 こういうことを無理なく実感することができた。

いきなりだが耳の奥に水がたまった。聞こえが悪いし、 放っておくとバイキンがわいてとんでもないことになる。 残った右耳までイカれられてはたまらないので早急に治療せねばならない。 さて、こういう時はどうするかと言うと、 針を鼓膜に差して穴を空け、そこから水を吸い出すのである。鼓膜切開という奴で、 けっこう痛い。しかしそうも言っていられまい。すでに耳の奥に痛みがあり、 ということは炎症が始まっている。放っておけば膿がたまり、 余計に手術が痛くなるのだ。水ならズビズバーと抜けるが、 膿だとズビュルルズビュルブベーという感じで何倍も時間がかかるのである。 なお、下手な人だと麻酔をかけるので痛くないが、 下手なので治りが遅いし時間がかかる。 上手い人だと麻酔をかけないので痛いが、一瞬で終わる上に わりとすぐ治る。どっちがいいかはけっこう微妙だ。 なんつっても、かなり痛いのである。 痛い上に大音響でゴソゴソ不気味な音が鳴るのだ。 それに鼓膜に針を差す痛みだ。想像してみよ。 ああ、ついでに左耳を直せないかどうか聞いてみよう。 あれからもう15年も経っているのだし、進歩していてもいい。

いきなり打ち砕かれた。みつけた 耳鼻科50音辞典によれば、おたふく風邪難聴は治らんらしい。 小さい時にかかるほど片耳でもどうにかなるように育つとか、 そんなことが書いてあったがだからどうした。加えて万に一人くらいな病気らしい。 それも、おたふく風邪にかかった人間一万人に一人である。 運わるすぎ。

6/3のComic Communication落ちました。というわけで発行は 7/1のとらいあんぐるパーティーということになります。 スケジュールについては長月氏と協議して決めましょう。 …この際だ。布教しまくってやる。

当然だが、耳鼻科は休みだ。気付けよ。というわけで音がロクに聞こえないまま 試合に出ることになる。最悪だ。

治らんと思うと余計に治りたくなる。補聴器も無意味。人口内耳も無意味。 聴覚神経そのものが死んでるのでどうしようもないわけだ。 ここはやはりサイバーしかない。サイバーの発展を祈る。

作ったもののソースを 置いてみることにしました。おヒマな方いらっしゃいましたら アドバイスを下さい。ああ、はずかしい。とかいって、 自分でバグ見つけたらまた消しちゃうんですけど。 なお、 動いている実物はこちら

CGIって、メモリの中にえんえんおって要求が来たら即答えるよう にはできないのだろうか。できたらいろいろ便利そうだが、 何かヤバいのかもしれない。セキュリティはよくわからんが、 できることが多いほどヤバいものらしいからだ。

2001年5月4日

とりあえずperlでどうにかプログラムを書ける気がしてきたので、 そろそろオブジェクト指向とバイナリ入出力を学ぼう。 演算子の多重定義と固定長レコード入出力は絶対にいる。 それにしても、できるようになるというのは楽しいことだ。 久しく忘れていた。

固定長レコードバージョンに書き直した。バイナリおもしろい。 エンディアンとかいうものがあってややこしいので、 よくわからんままネットワークバイト順とかいう奴にしたが、 いいんだろうか。 なお、古い方はよほどなんかない限りもういじりません。 新しい方で3日間何もなければ完全移行。

2001年5月3日

長月氏 と3日のイベント用のチラシを作っていた。 とらハ本の告知用チラシである。 せっかくなのでWEBに置こうと思ったが、 字が小さいので並の解像度ではお話にならない。 そこで、 印刷用のものを圧縮して置いておくことにした(577KB)。 酔狂な方は落として印刷してください。 A4で600dpiの白黒BMPをLZHしてあります。 ところで、チラシはあの世界ではペーパーとも言うのだが、 オレはペーパーと言うと論文にしか聞こえない人種なので困る。

アンテナ線をつないでテレビが見られるようになったが、 これはやはり悪魔の道具だ。 時間を奪われるわりに得られるものが少ない。 ちゃんと選んで見れば良いのだが、タレ流しメディアの常として 電源が入っていれば流れてくるのである。 見る側が時間を制御できるメディアの方がいい。 ビデオは始めなければ始まらないし終われば終わるので、 だいぶマシだ。しかも、たいがいのアニメはテレビ大阪 なので見られないのである。これでは意味がないではないか。

なぜか転がっていたベン・ハーを見た。ものすごい金のかけ方で、 内容云々以前に圧倒される。ユダヤ宣伝映画になっている ところはご愛敬。

NHKで男4人の介護会社の話をやっている。何かやることがあると こういうのを見てもなんとも思わないものだが、 今日は不思議にしみた。 介護の人が老人の昔の写真を見て「かっこいいじゃないですか」と言うと、 老人が「こういう時もあったんだよ」と言う。 妙にクるものがある。誰にも歴史があるのだ。 だが、これは所詮テレビを見た感想にすぎず、 生身で会った時に相手がとんちんかんなことを言っていると思えば もう相手を尊重しようなどという気など失せてしまう。

ラジオの時間になったのを思い出さなかったら、いつまでもテレビがついていて いつまでもそちらに意識を奪われていただろう。 しかし、毒にも薬にもなるものを使いこなしてこその知性だから、捨てない。 ただ、大抵の場合ここで捨てる方が賢い。人類は常にこの葛藤にさいなまれ、 そして捨てられずに来たのだ。うまく使ってみせる、という言い訳とともに。

自分を嫌いなのは自分と自分でないものを比べているからである。 自分にあるものは欲しがらないのだから、他人と比べれば常に不満に さいなまれるのは当然であろう。 いや、他人ならまだいいが、 理想の自分などというものだと自分とつくだけあきらめにくい。 理想の自分は自分ではないというのに。

2001年5月2日

CPU100%使ってる時とヒマな時でPCから聞こえる音が違うことを 誰か説明してください。ハードディスクの影響はありません。 また、スピーカからの音でもありません。 CPUを使っている時は半音程度高くなり、音もうるさくなります。 CPUの使用率に合わせてファンの回転数を変える機能がついているのでしょうか。

温度に応じて回転数を変えてるなんてすごいです。 ものすごい反応速度なんですが。スクリプトを開始した瞬間に音が変わります。 CPUってメチャクチャ熱くなるんですね。

ヴァーチャル・リアリティの訳語は仮想現実だが、 その意味は「実質的には現実」という方が近い。つまり、 「現実ではないが、現実と考えて良いもの、現実と区別できないもの」 の意味だ。思っていた意味と逆だという人が多かろう。 それくらいヴァーチャルという言葉は間違って伝えられている。 仮想という訳語には問題があろう。

掃除をしてもペンチは出てこなかった。そういえば錆びてて使いにくかったし 買いにいくか。なお、こうやってもっともらしい理由をつけることを 合理化といい、ダマされた時などに発動しやすい心の働きである。 合理化に気をつけろ。

買ってきて放置していたネギに花が咲いた。初めてみたネギの花。 生命力偉大なり。

任天堂書類通ってた。いきなり電話で筆記試験の案内が来たのだ。 メール使えよと言いたくなる。かなり体質が古い企業のような気がするが、 大丈夫か。まあネタとして行くが。

アクセス解析−リンク−相互リンク

  アクセス解析をしているサイトへのリンクが相互リンクに近い性質を帯びる というのは言われてみればそうだ。「相互リンクしましょう」と言うのは、 「友達になる儀式」としての側面を無視すれば 「そちらでこちらを宣伝してもらえませんか」ということになる。 アクセス解析をしているサイトにリンクを貼ることは、 相手に「自分がそちらを読んでいることを伝える」ことであり、 それは強制力こそ弱いものの「そちらもこちらを読んでくれ」と言う 意味合いを帯びるだろう。つまり、自分を宣伝している。 ベクトルの大きさはともかく方向は似ているかもしれない。

  ただ、相互リンクと違うのはそのまさにベクトルの大きさであり、 つまりは強制力である。明示的な報告なしにリンクされた時に こちらからもリンクし返さないと気まずい気分になることはまずないが、 相互リンクをつっぱねるのはかなり気まずい。 はっきりと相手に頼んではいないというのが何より大きい差だろう。

  物事には「でしゃばり度」というパラメータが存在する。 何かを要求する性質が強いほどでしゃばり度が高い。 たとえば、相互リンクをメールでお願いするのは、 メールの下にサイトのURLを書いておくことよりもでしゃばり度が高い。 他人の掲示板に自分のURLを書いたりする行為も 比較的でしゃばり度が高い行為である。 でしゃばり度の高い行為であるほど「宣伝したい」という意図だと とられやすくなるし、一つ間違えば無礼にもなる。 それだけ自分と相手の関係というものに留意する必要が出てくるわけだ。 この点、アクセス解析実施サイトへのリンクは極めてでしゃばり度が低い。 何も考えなくてかまわないくらい低い。 アクセス解析をしているとは普通明示的には書いていないわけで、 ということは建前としてはそういうことを見込んでリンクを貼ることはない。 事実オレは長いことそんなものを知らないでリンクしていた。 加えて、リンクを貼るという行為は通常相手のサイトの宣伝であり、 こちらのサイトの宣伝は意味しない。 実質的にそうなっていたとしても、イメージ的に意味しない。 そういうわけででしゃばり度はゼロに等しい。 しかしその一方で、 どこからリンクされたのか気にならない人はまずいない わけだから相手がこちらのサイトを見る確率は極めて高く、 加えてもしこちらのサイトがおもしろいと判断されれば継続的に読まれたり あるいは逆にリンクしてくれる可能性もある。 そういう意味からいって、アクセス解析実施サイトへのリンクは でしゃばり度が低い割に極めて効率が良い宣伝方法なのである。

  というわけで宣伝効果とでしゃばり度という視点から考えてみたのだが、 こういうことを頭に置いてリンクしたり相互リンクを頼んだりする人は 邪悪である。自分がそういう動機でやっていないことを確認する必要が あろう。たまに無邪気にやってしまうので注意せねば。

ガンパレ公式サイト

  全然知らなかったが、ガンパレはかなりキッツイ問題を引き起こしていたらしい。 一番わかりやすい例が、 「実録 世界の謎を追え」 などという文章が出てしまったことである。 で問題などと言って始めておいてなんだが、これおもしろすぎる。

  あまりにおもしろいもんだから、情報を集めるために 公式サイトの掲示板とやらを見にいってみた。が、予想以上に濃い。 濃すぎる。しかしまあ、こういうのは外から見るから怖いのであって 中に入ってしまえばお祭りのようなものでさぞ楽しかろう。 とそう思いながら見ていくと、芝村氏のレスを発見した。 そして、痺れた。笑うしかない。 これはこの会社が一丸となって芝村というキャラを売り出してるんですよね。 そうだと言ってください。頼むからゲーム帝国の悪魔の安楽椅子みたいなもんだと 言ってください。

  加えて あるファンの方の文書も読んでみた。 みるみるうちにガンパレへの感情が悪化してゆく。 そしてそのきっかけが先に挙げた「実録 世界の謎を追え」なのだ。 それを読んでからの記述では 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」がダイナミックに展開されている。

  さて、無関係なオレとしてはこれをネタに少々遊んでみよう。 わからない点は以下の3つだ。

  1. なぜこんなファンの反感を買うとわかっているものを 会社のサイトに載せたのか。
  2. 芝村氏ってのはマジでこんななのか。会社が作ったキャラではないのか。
  3. あの文書に出てくる出来事はどこまで事実なのか。

  第一の問題に関してはこれを二つの問題に分けることができる。 つまり、「矢上氏はなぜそんな文書を書いたのか」と 「会社はなぜ置くことを許可したか」である。この問題は密接な関係があり、 もし会社の意図としてあれが上げてあるのであれば濃いファンはいらないという 姿勢を明確にしようとしたことが考えられるが、普通そういう危いことはしない。 とすれば、あれは矢上氏が出しちゃって、消すのも印象悪いから開き直った と考えるのが妥当だろう。しかし、芝村氏がある種のキャラ(高橋名人のような) だとするならばそのイメージをより強調する意味があるので、 濃いファンを捨ててでもそれをやろうとしたという解釈は成り立つ。 ただ、やはり「腐…同人」あたりの記述のヤバさは度を越しているので、 矢上氏になんらかの怨念があることは間違いなかろう。 構成が妙に凝ってたり表現がイカしすぎてたりと、 ノリノリで狙って書いているのは確かだが、やはりどう考えても怨念が あるとしか思えない。濃いファンがジャマだというのは皆知っていることだろうが、 それを会社の人間が公式サイトで書いてしまうなど尋常ではないのだ。 では、その尋常でないものを書かせるに至らしめた怨念の元とは何だろうか。 そう考えると、この情報の範囲内では芝村氏という存在しかないのである。 つまり、芝村氏への怨念があれだけの電波描写をやらせたと考えればつじつまが合う。 言うならば皮肉である。あの凝りに凝った表現と構成が全て怨念のなせる業だと 考えると非常に理解しやすい。 そうするとイモヅル式にあの文書内の出来事は電波描写を除いては ほぼ真実であろうということが推測される。 外から見た状況(発売時期、掲示板の状況)等はウソをつきようがないわけだが、 これらが本当だとすれば他のところも本当であるのが自然だ。 そこまで込み行ったフィクションを作るのは度を越しているだろう。 それに、こんなにおもしろいフィクションが書ける人などそうはいない。

  そして問題は結局ここに行きつく。
「芝村って何者やねん」
イカした掲示板のレスといい、数々の芝村演説といい、 相当にイカした人であるのは間違いない事実だ。 あんな着眼点のゲーム屋がそうそういるわけもなく、 ましてそれをあんなイカした言葉で語れる人間などそういるはずがない。 仮に会社ぐるみで演出したとしても、最初の一人がズバ抜けていなければ ガンパレのようなゲームが出るはずがないのだ。 とすれば、やはりああいう人がいるのだと考える他ない。

  うおー会いてー。一緒に仕事してー。そんな奴いるなら見てみてー。 結局それが本音。

2001年5月1日

日記スクリプトの方もどうにかせねば。 アップロードを発動するごとにダイジェストを作り直して 日付を更新してしまうので、アンテナを見て来たけど変わってなかった、 なんてことがけっこうあるはず。ちゃんとチェックを入れよう。

実体のないものに所有権を主張するのは文化としては高度だが、 ムチャな話でもある。オレはもっと素朴な世界でいい。 著作権を主張するなんてオレには高度すぎる。 もっとも、オレが金を取れるものを作れるようになった場合は これを180度ひるがえすことになるような気がしないでもない。 実体のない物からは実体のない利益だけ得られればいいような気もするが、 そうは言っていられないのが世間というものなのだろう。

アンテナ線を買ってきた。だが、つなぐにはペンチがいる。だが、 ペンチが見当たらない。探すためには掃除しなければならない。 というわけで掃除をする。ペンチが見つかるのが遅いほど部屋がきれいに なるわけだ。

NHK英語ニュース。この「さくらさくら」のアレンジした奴前へ出ろ。

「自分で考えるのではなく誰か他の人の意見に同調し、 さらにそれをもって自分で考えているように思いこむ。」
小学生の作文の独自性のなさを指摘した文章の一節にこんなのがあった。 大人の意見を調べて文章にすると自分で考えたことでなくても誉められる。 そういうことが続いていると大人になっても自分で考えない人間になる のではないかという事だ。考えることが常に尊いとは言わないが、 十分に考えたことがない人間が知るだけで満足するのは間違いであろう。 NHKラジオの国語の番組だが、毎度毎度いいネタを持ってくる。 少々高校生をナメすぎてはいないかと思うほど言葉の説明が詳しいが、 オレが高校生がどんなものかを知っているわけでもないので なんとも言えない。

WEBサイトの風習

  いろんなところを見ていると、 WEBサイトでありがちなな風習についての批判がよく見つかる。 言っても仕方ないような正しいことをドカンと言うのは 気持ちよくもあるしかっこよくもあるので、あまり差し触りがない範囲で 挙げてみることにしよう。

推奨環境・動作確認

よく「IE X.Xの解像度YYYxZZZ、色数WWビットで確認しています」 とか「推奨」と書いてある。が、書いてあることによって読者は どのような利益を受けるだろうか。実は何も受けないのである。 なぜなら読者がWEBサイトに合わせて環境を変えることはまずありえないからだ。 IEで見たら綺麗に見えると言われても、netscapeなものは仕方ない。 解像度云々にしたらいいと言われても、15インチではそんな細かいのは読みにくい。 つまり、結局のところそれから外れる人に 「ああ、オレはまともには見られないんだな」という諦めを抱かせる効果しかない。 いちいち言い訳がましく 「この環境以外でデザイン崩れてもオレのせいじゃないです」 などと言わなくてもいいではないかと思うのだが、どうだろう。

なお、これが「〜〜という環境で見ろ」という強制だと 事は少々趣きが変わる。むしろこちらの方がすがすがしく潔い。 「オレの望んだデザインにならない物で見るな」という男らしい言明である。 オレとは違う宇宙のお話であり、 やめろと言うのも野暮であろう。

"japanese only"

どうせ読めない人々にとっては 謎の文字なので日本語だろうがベトナム語だろうが関係なくさようならだし、 たいがいの場合文字化けするので一発でわかる。 つまり、意味がない。「私は日本語以外も考慮している国際人です」 とこれみよがしに言っているようで、いまひとつ格好がよろしくなかろう。 なお関係ないが、英語できりゃ国際人というのは少々アメリカ萌えすぎる。 実用上は別としても、地位としては日本語もベトナム語も英語も対等だと 思う人を国際人と言うのではないだろうか。従って、「sorry」などと 入れられると非常に気分が悪い。 「日本語で何が悪い」と言いながら後ろを振り向きたくなる。

なお、japanese onlyは「日本語だけ」でなく「日本人だけ」 ともとれることを指摘しておこう。それはマズいと思うのだがどうか。 せめて「written in japanese」くらいにした方がいいだろう。

リンク指定

「リンクは〜〜へ」というのをよく見かける。 どっかのサイトのフレームの中に絵だけ貼られてまるで その人のサイトの一部のように見える、ということに対する警戒心からだろう。 また、フレームでないにしてもその引用先のブツの作者が誰なのかが 引用元に書いてなければURL以外に判断材料がない。 「これはオレの」と明確に主張したいという気持ちがそういう宣言を 書かせるのも無理からぬことではある。

しかし、そういう悪意のこもった引用ばかりがあるわけではないということも 知ってもらいたい。 ちょっと紹介したいという時にトップページにしかリンクを貼れないのでは不便だ。 人類の知識の結合を妨げる物理的障壁をとっぱらうというのがWEBの目的とも言える わけで、こういう場所には「オレの」という考え方はそぐわないのである。 これに関しては正論を言いたくても言えないので、 「もう少しおおらかになってはくれまいか」と言うに留めるしかない。

サイトはボランティアである。よって、作者は読者に対して何も要求できない。 「これを最初に必ず読んでください」と言ったところで、 言うことを聞かねばならぬ法はない。リンクは許可をとって、と言われても 聞かねばならぬ法はない。あらゆることは「お願い」にすぎないのだ。

相互リンク

「相互リンクしましょう」は良く聞かれる台詞である。 友達付き合いの一つのツールとして価値があり、なにもいけないというわけではない。 だが、これは時として暴力的になり得ることは知っておいた方がいい。 考えてもみよう。 全然知らない人に「相互リンクしましょう」といきなり言われた時、 あなたはどう感じるだろうか。

「相互リンク」は響きにこそダマされやすいが、 実際には「あなたのところから私のところにリンクを貼ってください」という 要求と等価である。なぜなら要求元が要求先にリンクを貼るのは所詮要求元の問題に すぎないからだ。一見互いに何かを払っているような気になるが、 それは全くの誤りである。しかし、これが暴力的なのにはより大きな理由がある。 それは、「とにかく断わりにくい」ということだ。 ただ頼まれただけなら「無礼な」の一言で済むが、 「相互」という言葉がついているだけで妙に断りにくくなる。 穏便に済ませようと思えばしたくなくてもせざるを得ない。

これは度合の問題である。相手と明らかに仲が良くなっていて、 サイトのリンク集にあっても違和感がない、そういう状態であれば相互リンク を申し出るのも悪くないし、むしろ楽しい交流のツールとなる。 ただ、その前に自分と相手の関係について少々考えるクセをつけるべきだろう。 これはCGを贈るといった場合も同様であり、もらった方の身になって考えれば 贈られたCGは展示「せねばならない」ことになる。ここでもらっておいて 展示しないというのは「非常に気がとがめる」ことは明らかだろう。 いろいろな要素を鑑みないと楽しい交流ツールも 暴力的なものになってしまうのである。

リンクフリー

これが日本語であるというならば、キャッチボール同様「英語としておかしい」 などと言っても仕方がないことではある。ただ、英語のつもりで書いているならば どうもおかしいということは知っておいた方が良い。

一般に「(名詞)+free」は「(名詞)がない」を意味する。 加えてその名詞は何か好ましくないものや制約を意味する。 「バリアフリー」は、「バリア(障壁)がない」である。 「デューティフリー」は「デューティ(税金)がない」である。 どちらも制約がない→自由というわけだ。sugar freeのような場合は 「砂糖がない」であるが、この場合は砂糖が好ましくないという意味合いで 使う。というわけで、「リンクフリー」は「リンクがない」としか解釈できない。 しかも、リンクは好ましくない制約ということになる。

ただし、freeは副詞としても使うことができ、 たとえば「fall free」は「自由落下する」ことであるから、 仮に「link free」のlinkが動詞であれば意味は通る。 主語がなければ命令形であり、「自由にリンクせよ」である。 こう考えれば正しいくさいが、「ここはリンクフリーです」 のような場合には動詞であるはずがない。

まあ、どうでもいい話であるし、もう日本語になってしまっているようだから とやかく言っても始まらない。ただ、そういう妙な和製英語は なにかと外人からバカにされるので、いまひとつおもしろくないというだけだ。 なお、アルファベットで「This page is link free」などと書いてあるのは ヤバげなのでカタカナに直した方が良いと思う。

  なお、推奨環境にせよjapanese onlyにせよ、なんとなく書いた方がいいような 気がして書くというのが実状であろうし、実際我が身にも覚えがある。 あまりオレも強くは言えない。


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