日記0011

2000年11月30日

試しにヨガ。しかしヨガっぽいポーズをとれるようになるだけで一年くらいは かかりそうだ。こいつら本当に人間か?

最近書くことがない。するとあせる。 なんとかおもしろいこと書かなきゃと思う。 勝手に公開している日記でそこまで脅迫観念にかられるのは ヨゴレの末期症状であろう。しかし、書くことがないものはないのだから、 無理をしても仕方ない。 とりあえず入力を増やす努力だけは欠かさないようにしよう。

ヨガ本が実はものすごい本であることがわかった、 非常に記述が科学的なのである。 確かにこれは「ヨガを科学する」というよりは「科学っぽくヨガをする」 という感じで、いろいろ科学としてはうさんくさいところもある。 しかし、ヨガ的にOKな気がするのであまり気にならない。 それよりもなによりも、そういった科学的な知見に基いた 栄養学、医学、生理学などを折り混ぜつつもインドの哲学の柱にそって 解説されているのがすごいのである。あの奇妙なストレッチから食生活、 呼吸法、精神鍛練、といったものが総合的に語られているわけで、 これほどかインドと言った感じなのだ。また、異常なほど自信満々に そのへんの科学や現代の食生活を批判するのが気持ちいい。 肉食を菜食に改めよという主張をしている章の中にこんな一節がある。
「果物や生野菜は壊血病に効く物質を含み、それは各種疾病の予防になる。 一方、肉類は旋毛虫症や寄生虫などのおそろしい病気にかかる率が高く、 それを食する人にすみやかに感染するのである。」
すみやかに、のあたりの独断っぷりが爽快ではないか。 この本は買っておくべきかもしれない。値段が不明なのが気になるが、 おそらく安くはないのだろう。

ネットワーク管理の本を読む。そして読めば読むほどうちの研究室 のシステムがいかにアホウな状態にあるかが骨身にしみた。 一台一台が無駄にグローバルIPを持ち、 入っているOSはマックかwindows。何も知らない人がIPアドレスを書き換える こともでき、事実他の研究室から「おたくうちの番号使ってるでしょ」 という文句が来たこともあった。 加えてファイル共有すら行っておらず、フロッピーでデータを運ぶ始末である。 そしてマックとwindowsでフォーマットが違うといって途方にくれるのだ。 さらに研究室のメールサーバもなく、 メールアドレスを持っていない人なんてザラ。 かくなる上は今度入る機械をsamba・netatalkサーバにして ファイル共有、プリンタ共有を行い、 誰も管理していない悲惨なWEBサーバを統合し、 他の機械には全てDHCPでIPアドレスを自動で割り当てる。 それくらいやると便利になるし他に迷惑をかけることもなくなるのだが、 便利になる一方で深刻な問題が発生する。 そう、オレが去った後のことだ。 今でも何に使っているのかわからないいかにもクソ高そうなNT機が放置されており、 過去に同じようなことがあったことが伺える。 結局使われているのはスタンドアロンのマックやらwindowsだけなのだ。 そんな状態でサーバに依存するようなシステムを組んだら オレが去った後全てが崩壊するのは目に見えているだろう。 ましてうちの研究室は3年後に桂新キャンパスへの移転が 決まっている。その時にオレがいる可能性は低い。

コンピュータがわかるというのは80%くらいは運の問題ではないだろうか。 教えて教えて言われても、どう教えていいかわからないのがコンピュータなのだ。 「UNIX使いになりたい」と他人にインストールしてもらったはいいが、 コマンドプロンプトの概念すら理解できぬ状態で途方に暮れ、 消そうにも自分で消せず放置、という悲惨な状況になった人もいる。 触れる機会があってすらこれなわけで、 みんなにわかれと言うのは到底無理だろうし、そんな筋合もない。 せめてわかる奴を常に一人確保できればいいのだが、 現実にはそれすらむつかしい。 コンピュータがわかる人はコンピュータを使う研究分野に偏るものであり、 バイオのこんな実験系のところにはそうそう流れてこないからである。 こうなるとパソコンに拒否反応を起こさない程度に慣れている奴を 教育する以外に手はない。だが、そんな面倒なことをオレにしろというのか。 そもそもオレだって教えられるほどわかってはいないのに。 こんな日記を手動で書いている段階でそれは明らかなのだが、 問題はいつも相対的なのである。

ヨガる。これほどかヨガ。体中余すところなくストレッチされ、 段階に応じたストレッチが効率良くできる。 呼吸法も理にかなっており、 一つの呼吸の中で腹、胸、肩の3つの呼吸法を順番に行うことで 肺を最大限に、かつ無駄な労力なく使うことができる。 確かにこれを無意識でやれるようになればそれはもう健康になるだろう。 あと食生活と浄化法があるのだが、 この2つは多少実践がむつかしいかもしれない。 果物と生野菜と穀物(豆含む)、そして乳製品だけで生きるのが 良いとされているのだが、さすがにこれは辛い。というかやる気がしない。 栄養の面だけでなくヒンズー教の哲学によるところが大きい戒律なので、 ここまですることはないだろう。 ただし動物組織が尿素などの排泄されるべき物質を多く含むというのは確かなので 量を控え目にせよというのは賛成だ。 そして最後に浄化法。鼻から口にひもを通して洗浄するとか、 たらいに水を張って座りつつ腹筋の操作で肛門から水を吸い上げて かきまわした後出すとか、およそできたら それだけで笑いがとれそうな技が満載である。 カゼの予防に良さそうだが、さすがに辛かろう。

ところで、ヨガの恐しいところは「肉体の浄化なくして精神の浄化はありえない」 という強烈な信念である。けったいな行の数々はこのためにあるものだ。 健康を損うような修行は彼等にとって愚かでしかないのである。 実はこれも拳法の思想に似ている。武術家には引退という言葉はあってはならない。 死ぬまで現役でなくてはならず、人生の一時だけ強くなるような鍛練法は まやかしなのである。しかしまあ、それを言い訳にしてロクに練習しないのは もっとまやかしなので、そうなるくらいなら思い切り身体を壊した方が 男らしくはある。

ところで、カント先生は「理性には限界がある。適用範囲を知れ」 という画期的な暴言で世間を沸かせた人だが、 東洋でははるか昔から常識だったようだ。 だから、理性を超えたところの哲学をえんえんとやってきたのである。 ただ、残念なことに理性を超えたところの話だけに理性的な説明ができない。 それを当時の実感や文化という雰囲気の中でなんとかして言葉にしようとした結果が、 ああいうオカルトっぽい電波な表現になのであろう。 この本の最初の方にがっかりな言葉があるので引用しておく。
「知性により限定された道具を用いて心理を探究したり、人生の目的という 永遠の問題に探りを入れようとするのは本当に馬鹿げたことである。」
2ページ目にして断定されてしまった。まことにつかみバッチリな本である。

自分が自分をどう思っているかを表現してしまうのは危険なことだ。 ある条件が揃えばそれを正直に言うことが信頼を強めることにもなるが、 たいがいの場合正直に言うのはあまり勧められることではない。 「オレはすごいぞ。見ろ」と口に出して言うのは下の下であり、 「こんなもんつくってみました。テヘッ」てな感じですごいものを出す方が 良いとされるものである。 とこう書くとオレがこういう日本的な空気を嫌っているように 見えるだろうが、実はそうでもない。オレもまた「けっこう自信あるぜ」 とか言われると「何言ってんだ?ハッ」という気分になるタチで、 でしゃばりと自信過剰はオレにとっても相当な悪徳だ。 もちろんその後見せられたものがすごければ帳消しになるのだが、 そうでなかった時はとみに悲惨なことになる。 そして、他人に対してそう感じるだけに、自分が人にそう思われるのは とても恐い。

カウンタを万人の目にさらしておくこと自体が卑しく思えてならない。 最近数字がずいぶんと早く増えるので余計にそう思うようになった。 閲覧に便利な機能でもなく、ただ力を誇示しようとするものでしかない。 これほどあからさまな自己満足の手段もないのではないかというほど あからさまである。下品である。 せめて隠しておくのが美徳というものなのではないか。 しかしそう思ってもオレはカウンタをひっこめはしない。 なぜなら、オレのヨゴレ根性(=自己顕示欲)がそれを欲するからだ。 数字が増えて喜ぶ自分を見るのは耐え難いが、 一切の数字にならぬ状態でこれを続けるのはもっと耐え難い。 そんなヨゴレの垢を落とせる日は来るのだろうか。

2000年11月29日

忙しかった。学会発表の要旨を書いたり二次元電気泳動を二回もやったり。 ところで、金がない。そろそろバイトをせねばならないのか。

単位は16。20中16で、2単位はテストを寝すごしたので落ちたのは一つ。 まあ予想通りだろう。さてあと残りは6単位。つまり授業3つ。 来年の前期に勝負である。

図書館でネットワーク管理の本と、ヨガの本と、運動と栄養についての本を 借りてきた。特にヨガの本は掘り出しものである。 著者はインド人らしく、中はインドな用語でいっぱいだ。 実技のページも豊富で、到底人間にできるとは思えないポーズ の写真が満載である。一応題名を載せておこう。 スワミ・ヴィシュヌデヴァナンダ著、山内隆明訳 「ヨーガ大全 身体と精神の開眼」(白揚社) 。 表紙から中身までやりすぎにインドな本だが、 こういういかにもオカルトな文面からいかに 人間の認識に関する哲学をまっとうな形で読みとるかが この手のものに触れる際には問題になるだろう。 聖書だろうがカバラだろうが経典だろうが、 それができない状態で読めば単なる電波本にすぎないのだ。

ウシオへ。原稿は土曜に描いて即日宅急便で送ります。どうか許してください。

2000年11月28日

やった事にふさわしい名の知れ方をしたいものだ。 過小も困るが、過大はそれよりもはるかに困る。 自分を大きく見せることより自分を大きくする方が先だ。 学会やらなにやらで自分を見せる機会が増えるにつれ そういうことがどんどん問題になっていくだろう。

コンピュータ発注。ボスの手口に社会のしくみを見た。

学会発表の要旨をボスに跡形もなく書き直されてしまった。 しかしこれが衝撃の出来で、納得するしかないくらいよくできていたのである。 面白味のない研究用語まみれな中にも キャッチーな言葉が地雷のごとくに散りばめられ、 結論が何も出ていないという致命的な欠陥が見えないようにうまく話が 実験手法の方に逸らされている。 なるほど、あれだけの研究費をせしめる手腕はこういうところにも 現れているということか。前から生物学の知識や考え方には 学ぶべき点があると思っていたが、 こういうヨゴレ手腕も吸収したいものである。

スポーツ科学の本を読みまくる計画だったが、今日は時間がなさすぎた。 明日もたぶんない。 筋トレの真髄を知って、それを太極拳の理論を妨げない範囲で適用する ための勉強である。 なお、ここにはもう太極拳の情報は書けないが、何をしたという程度の練習記録や、 筋トレに関してなら問題はない。要はパクりようがないような ネタに限定すればいいのだ。それにしても、どこのバカか知らないが (師範の口ぶりからしてだいたい予想はつくが) 全く愚かな奴である。 おそらくうちの師範は何かしらのリアクションを起こすだろう。 以前内家拳が侮辱された時も「内家拳というものを直接に教えて さしあげるから京都まで来なさい。 来ないならそちらとのつきあいはこれまでだ」というすごい手紙を 送ったという話だ。そんなかっこいい人に師事できて誠に光栄である。 というわけでもう少し出来のいい弟子にならねばなるまい。

台湾行きは拳法に対する取り組み方を考えるいい機会になるかもしれない。 張さんにも会えるだろうし、まだ知らぬ武術家の方々にも会うことができるだろう。 台湾には文革の際に中国を追われた武術家がたくさんいるという話だし、 師範の知り合いであればきっと相当な人なのではないか。 わからぬまでも技を見る機会に恵まれるだけでどんなにか勉強になることだろう。

最近日常がおもしろい。だが、勘違いしてはいけない。別に 「前からそこにあって気付かなかったすばらしい日常」などということを言っている わけではないのだ。ただ状況が変化しつつあるだけである。 おもしろさは変化に宿る。変化のないところにおもしろさはない。 研究。就職。拳法。同人。それらの状況の変化が渾然一体となって オレの根本にある生き方に変化を起こさせているのがおもしろいのである。 よほど特殊な環境にない限り、たいがいの人は自分の力で日常に変化を与えて おもしろくすることができる。オレもそのたいがいの人に入るということが 最近わかってきた。

2000年11月27日

すぎやまこういちはすごい。本当にドラクエIIの戦闘が ラヴェルの道化師の朝の歌から着想を得たものだったとしても そのすごさはいささかも傷つくまい。 そのラヴェルのを借りて聞きながらそう思った。 確かにあそこはまんまだが、 そこをパクったとしてどうやってその後ああつなげるのかが謎である。

15にして大阪弁萌えは早すぎる。

森嶋プチ「KANON」一巻。雰囲気は良い。 少々ひねってあったりするところがおもしろかったりもする。 しかし、良くも悪くもつまりは同人だ。

読む時にはこうやってデカい口をたたくんだが、描くとなるとこれがな。

うにの家でしばしスーパーランナバウト(DC)。街破壊車ゲーだ。 「街中に散らばった6つの爆弾をゲットして警察署へ向かえ」とか 「レタス、パン、ソーセージの3つのアイテムをゲットしてホットドッグを作り、 シティホールへ向かえ」とか、そんな指令を全うするゲームである。 ある条件を満たした状態でクリアするとその条件に応じて使える車が増えるので、 その条件を探すのにかなり燃えるのだ。 なお、「ゲットして」とは「体当りして」の意味である。 レタスをゲットと言ってもなにやらロックオンされた屋台に体当りして 粉砕するだけだ。頭の悪い遊びが存分に楽しめる。 なお、リプレイモードのすばらしいカメラアングルは必見。 自動的に一番かっこよさそうなアングルやカメラ位置で撮ってくれるあたり ずいぶんと苦労したことだろう。 さて、そういいうわけでかなりおもしろいゲームなのだが、 クレイジータクシーに比べるとスピード感でどうしても劣る。 もっともリアルな車でリアルに街を破壊するという楽しみを追求している のだからそのへんは無理もないし、運転者視点でやるとかなりの スピード感になるのでそう悪くもない。また、画像の完成度も クレイジータクシーにはかなり劣るが、あれと比べるのも哀れ といえば哀れだろう。相手は天下のセガである。

PS2やらGame Cubeやらが現役ゲーム機になるころには ポリゴン境界やテクスチャ境界が見えるなんてのは恥になるに違いない。 しかし、そのPS2も今はまるで絵がきれいなものはないわけで、 機械がなんぼすごくても結局は使いこなす人の方が問題だということだろう。 どんどんできる奴とできない奴の差が開いていきそうで愉快ではあるが、 同時に絵にしか目がいかない傾向が余計に助長されそうで恐い。

テクスチャは基本的に醜い。できるだけポリゴンの数を増やしてシェーディング でなめらかにした方がかっこいいのではなかろうか。 なにしろテクスチャがゴテゴテしていると見にくい。 ランナバウトで残念なのはとにかくそれ。

拳法関係がなくなってしまった結果、猛烈に内容が減ってしまった。 残ったのは調べれば他でもわかる情報か、勝手な主観を書き並べた こんな文章のどちらか。こうなれば作品で勝負するのが正しい進化か。

2000年11月26日

研究室の停電が終わってみて、ノートパソコンの電源を入れるも、 カーネルを読みこむところで止まる。 ケーブルの接触も悪くない。まさか死なれたか、と分解を決意する。 悪戦苦闘の末分解に成功し、一応のため基盤丸出しのままもう一度起動試験。 ところが動いてしまった。では分解は何のためだったのだろう。 ともかく音源の型番がわかっただけでも良しとしよう。

学園祭も三日が終わり。普通のコンパに対抗した鍋コンパも ほぼ成功。一人当たり1000円くらいで腹一杯魚を食えたし、 途中から他の大学の漫研の人とかが加わってものすごく楽しかった。 店で食うのは手間がないからしみじみ話すのにはいいと思うが、 みんなで一緒になにかをして楽しいのはこっちだと思う。

残念ながら拳法関係の文書を全てWEB上から引きあげることにしました。 というのも、たかが初心者で勝手に書いているだけの私の 文書をパクって本を出そうとした頭の可哀想な人が現れたという 話を先生から聞かされたからです。 転載とパクリの区別もできない人がいたことは悲しいことですし、 そもそも武術の本を出そうというエキスパートが始めて2年やそこらの 私の文章をパクるというのは中国拳法の名を貶め、 かつ今の日本の中国拳法界のくらい部分を思わせる悲しいことだと思います。 また、一応コツみたいなあまりおおっぴらに公開すべきでない 情報が入っていたかなとも思いますので、この機会に拳法関係の文書は全て WEB公開をやめ、過去の日記からもこの関係の情報を削除します。 日記の検閲にはしばらくかかりますが、 さしあたって拳法コーナーは今日をもって削除し、 これからは決してこういった情報を日記などで公開することは ありません。メールとか生身、あとは掲示板なら こういうしみったれたことは言いませんので、 これまでと変わらず格闘技談議をしていきたいと思います。

赤松健「AIが止まらない(改装版)」全8巻。ラブひなの前作であり、 いろいろといわくつきの作品である。 ところで読み終えて思ったのは作品がどうのこうの以前に、 オレが急速に成長しているという実感だった。 アレすぎるコンピュータ関係ネタや展開のダサさに3・4巻までは かなり辛かったが、その後あっさり慣れてしまったのである。 5巻あたりからこなれてきて、 6巻をすぎるころにはラブひな同様のテイストを醸し出していた。 8巻などはもうベタベタな最終回用ボス敵クライマックスで もうたまらない出来だ。バカにするのは簡単だが ネタらしさを感じない直球さはやはり良い。本人は知識としてはあざといことを 知っているようだし、それを利用して人気を稼ぐ方法も心得ているようだが、 頭の中枢はやっぱりマジとしか思えない。改装版は話の間に インタビューが挟まっているのだが、 これが不自然なほどマジな受け答えで作者の底知れぬ実力を感じさせる。 オレ内部では都築先生に並ぶ大物天然幸せ作家だ。 残念なところまでけっこう似ていたりする。

平野耕太「ヘルシング」1、2巻。 キャラが妙に病んだ性格なのが印象的で、 何かと意味深っぽい演出や構成もうまい。 技術系ハッタリ設定・演出 (SFにおける「XX%XXが低下しました!」「XXミリXX弾がどうこう」 「あのXX師団か!!」 みたいに読者にはたいがい意味不明だが雰囲気を出すための演出や設定) が微妙にダサい気はするが、 そんなことが気にならぬほどキャラが良い。オヤジの眼鏡がこれほどの味を出すのも めずらしかろう。 妙に女の子が女の子だとわかりにくい絵は気になるが、 一度慣れれば大した問題ではない。

学園祭は完全に終わった。コンパはいつも通りダラダラと終わり、 その後二次会に行くこともなく帰ってきた。

近いうちに台湾旅行ができるかもしれない。太極拳の縁というのもおもしろいものだ。 ただ、そのためには研究室で休みをもらわねばならず、 さらにそのためには11日の合同研究発表会である程度ハッタリを効かせて うちのボスを喜ばせておく必要があるだろう。

知り合いがゲームの原画をやっている。発売されたら手に入れておかねば。

サウンドカードの左右のチャネルを別々につかって 同時に2つのラジオ番組をパソコンで録音するってのはすごいと思う。 そういう人と知り合いになれたのはとっても幸運だ。 これからもいろいろ教えてもらおう。

あと5年早くコンピュータに触っていたらオレも少しはあの世界に 足をつっこめただろうか。機械が速いとプログラムをやる動機が小さくなるし、 設計のスリルがなくなってしまう。

アホから電話。おもしろいことになりすぎて困った。 だからどうするというわけでもないが、がんばろう。 ところで、 これからはあのアホが何者なのかということもけっこう問題になる 気がする。 外から見れば、あれがうちのサークルにあって何者なのかが わからんだろうし、それが何かとやっかい事に結びつく可能性もある。 つまり、奴ももう少しモノを作って人に見せびらかす必要がある ということだ。 というわけで、日記でもなんでも書いて人の目につくところに置くように。 こんなところで書いちまったんだから、もう保留はできんだろ。なあ。

2000年11月24日

学園祭一日目終了。一日中展示会場でダラダラしていた。 OBもたくさん来てヒャッホウ。しかし夜になると人が激減。 飲みに行く人やカラオケに行く人についていけばよかったのだが、 どうしてだろう。妙に行く気がしなかった。

パソコン工房に行って研究室コンピュータの見積もり。 しかしこの妙に重苦しい背徳感はなんだ。 国家の金を使って自分の好き放題しているというのは確かに事実だが、 その好き放題をちゃんと研究に使って成果を出そうというのだから やましいことはないはずなのだが、 やっぱやましいんだろう。オレもそう悪人ではないらしい。

「クレイズィテークスィー」。というわけで、浩平のクレイジータクシーのプレイ を見ながらシビれる。あんな素晴しいゲームを作る人々はやはりすごい。 絵的センス、音楽、ゲーム性、その他もろもろただすごい。 ああいうものを作る人々に混じって働けたらどんなにかすばらしいことだろう。 あまりに眠くなったので帰ってきたが、 その間、自転車にのりつつ妙にハイになれた。 途中コンビニに寄る時も無用に急停車したりして気分はやっぱり、 「クレイズィテークスィー」。

ネットの日記等々で見かけた方々の中には京大のOBやら 現役の方々も多くおられるようだ。アニメ同好会の人は特に多い。 オレはアニメ同好会には関わりがないので残念だが、 学園祭に来ておられる方も多かろうから、 行ってみたら生身で会うこともできるだろう。 なかなか感銘を受ける日記を書く方が多いのでお会いしてみたいものなのだが、 ちょいといきなりすぎる。 メールも掲示板も返事だけして 自分から書きにいかないのではつきあいは広がらないだろう。 とりあえずアニメ同好会というところも濃い人達の集まりらしいので もっと深く関わってみたい気がする。せっかく漫研とかけもちしている人間も いるのだから。

考えてみれば、土曜の夜はOBの方々は飲みに行かれるだろう。 つまり鍋はOBの方々と交流する機会にはならない。 とりあえず明日一日様子を見てから決めよう。 中止もあり。

どんな人がどれくらいこれを読んでいるのかはいつも気になることだ。 気になるということはヨゴレなので認めたくないことだが、 認めたくないといって目をそらすのももう飽きた。 もちろん、だからといってそんなことを書く必要はなく、 書かなければバレないわけだからそれでいいはずなのだが、 なぜかかいてしまう。思いついたことを文章にするのが日常になりすぎて、 思いついたことを文章にしないのが耐えられない体になってしまったのだろう。 考えたことを記録せず、それが消えてゆくことに我慢できないのかもしれない。 それとも、遺伝子を残したいという欲求と同じように オレはこんなものを残したいのだろうか。

研究室が停電なので、24日朝から14時までは掲示板、倉庫その他が使用不能です。

数学的心理学

  やる気の積分量をやる気量と名付けた(「量をつけると積分っぽい」理論。 もりりん氏。2000)。 やる気とはやる気量を距離とすれば速度である。 たとえば原稿の進行度はやる気量に比例するので、 じわじわ進めていても寸前にドバっとやってもやる気量が等しければ 同じだけ原稿は進む。 同様におもしろさの積分量はおもしろ量と言えよう。 世の中にはこういうふうに数学チックに表せるものがけっこうある。 ところで、同様にやれば練習度を積分したものが練習量ということになる。 練習度が高いとは、どれだけ必死にその練習をしたかで、 単位時間あたりの執念の量と考えてもいい。つまり練習量とは執念を時間で積分 したもので、執念量である。しかし、経験的に知られていることだが スキルの上達はこの執念量には比例しない。 執念がある一定以下の値では上達が見られないのは広く知られるところだし (てきとうにえんえんと描きちらしていてもうまくならない)、 たまに高い執念を発揮してもその間隔が広いとうまくならない (たまにがんばってもダメ)。 つまり、単に積分したのではダメで、時間的分布や ピークの高さもパラメータとしなければ上達を表現することはできない ことになる。 ちなみに注意すべきは、これらは練習するだけうまくなるような タイプの技術に関してしか適用できない。例えばサーブの命中率みたいなものだ。 絵、それもデッサンやらなにやらも周りを見る限りがんばった奴の勝ちだろう。 センスが大切になるのはその上の次元で、さしあたってオレには関係ない話だ。

  人間を貶めるのに心の数式化ほどいいものはない。人間を機械に貶め、 さらには機械を人間と同格にするための技術だ。 元々の目的が人を幸せにすることであったとしても、 こういうものは手段が目的にスリかわって「うお、おもしれえ」という 感動だけでズンズンと突き進んでいくものなのである。 神だかなんだか知らないが、 貴様にはこれを止めることはできまい。 ただ間違ってはいけないのは、いくら人間の思考や行動が数式化されたとしても、 なんとなく思うことは思うのであり、辛いことは辛いのであり、 うれしいことはうれしいのだということである。これが確かであろうがなかろうが、 そう思うことは確かに確かなのだ。我思うゆえに我ある、 というのがどうかはともかく、我思うのは確かなのである。 それだけは崩れることがないとわかっているからこそ、 安心して人間の魂を貶める作業に精を出せるわけだ。 例え全てが宇宙開闢時の粒子の配置によって定まっていたとしても、 オレは今便所に行くかどうかを悩むことができるのである。 限界だ。行こう。

2000年11月23日

奈良でソフトボール大会。そして飲み会。帰ってきて実験。 そして漫研の学祭の設営現場でしばしダラダラし、帰ってきたところだ。 設営現場にラブひなの続きがあったが、今この疲れた体には到底耐えられないので 泣く泣く帰ってきたのである。さて、明日は学祭だ。

北方謙三「挑戦」。全五巻にて完結。おもしろかった。渋かった。 男だった。描写の迫力や細部の緻密さもすばらしい。 が、話そのものはえらく単純なので好みは分かれるかもしれない。 船戸与一のように機知やユーモアに富んだものではなく、 果して話そのものがどうかと言われると微妙なのだ。 しかし、男が男なことに関しては負けず劣らず男である。

キリスト教な連中は神とかいうえらい奴が ヒトを特別なものとして作ったと信じているらしい。 全能で愛に満ちあふれた奴なんだそうだ。 さて、では遺伝子操作が仮に神が禁じた技術だとしよう。 この時、それにもかかわらず遺伝子操作が可能なのはなぜだろうか。 一つは神がマヌケでできないように世界を作ることを 忘れていた場合。もう一つは自制を期待している場合。 キリスト教な人間は当然後者だと主張するだろう。 しかし、自制を期待されそうな行動で人類が自制できたためしは全くない。 殺すし、盗むし、原爆は作る。たいがいなできそこないである。 特別製にしてはショボイ出来だ。ビタミンCも作れないくらいショボい。 こういう類の考えには、 自分が優れた集団に属しているということを何らかの権威によって 示そうとする人類の一般的な性質がよくあらわれている。 オタクが自分達にしかわからない会話で優越感に浸るのと 全く同じ原理だ。宗教にせよ神話にせよ多かれ少なかれそういうところはあるので キリスト教だけを責めるつもりはないが、 そんなものを国やら政治やらに持ちこむ国がごまんとある状況が 最高に気にいらない。せめて分離しようとする努力くらいはしろ。

バイオの問題点

  バイオの発展を妨げているのは、自動化の遅れと倫理である。 配列決定、遺伝子組み換え、DNA抽出、タンパク質電気泳動といった 基本的でよくやる操作の修得にある程度の期間がかかる。 さらにそれでも百発百中では成功しないし、操作そのものも時間がかかるし、 何より思考が作業に寸断される。 こういった操作は業者に委託するか、機械で自動化するかして そもそもそういうスキルを身につける必要をなくすべきだろう。 大幅に人材育成にかかる時間とコストが短縮され、 それだけ頭を使うことができる。 作業の成果が論文になるようでは学問の未来としては暗いと言わざるを得ない。

  バイオの応用は今のところ 農作物の品種改良や酵素を使った物質変換くらいしかなく、 到底ふるっているとは言えない。 流行っているように見える割に就職先がなく産業規模も小さいのは そのためだ。 加えて倫理というものが大きく応用に立ちはだかっている。 バイオとは生物を知る学問であり、生物で最も興味があるのは自分たち、ヒトである。 つまりバイオの究極目標はヒトをどうにかすることだと言って良い。 そしてそれは現在は病気の克服という点で一番良く発揮される。 たとえば遺伝病の治療に一番てっとり早いのは遺伝子の書き換えである。 受精卵をいじって原因遺伝子を書き換えるほど効果的な予防法はない。 今はまだ夢だが、すでに生まれている人の生殖細胞のおかしい遺伝子を書き直す 手法が開発されれば、遺伝子診断の後に手を打つことができ、 受精卵の段階で取り出すという非現実的な手段をとらずに済むようにもなる。 しかもその処置を受けた人間からは絶対に遺伝病をもった個体は生まれない。 数千年ごときのスケールでは遺伝病が再発するほどの変化はおこらないので、 言うならば今全人類の遺伝病をもった遺伝子を治療すれば 未来永劫人類は遺伝病とは無縁でいられるのである。 そういう遺伝子を持った人を隔離するなどという非道なことによらず、 治療という手段によって人類にもたらされる悲劇が減ることになる。 中途半端に倫理倫理言って研究を差し止めていると、 いつまでも遺伝子診断は生むか中絶するか決めるための情報にしかならない。 治療してこそ真に役立つ技術になるのである。

  しかし、みんなとにかくヒトへの応用は嫌がる。対象が自分たちの体で他人事でなく、 加えて何をするのかわからないから恐いのだろう。 それに子孫に遺伝する技術になり得るというのは確かに 得体の知れない怖さを感じさせるに十分な理由である。 だが、人類はもうそんなことを言っていられる段階を超えてしまったのだ。 脳死の問題を見よ。あれは人の死によって他の人の生を拾おうという 極めて浅ましい技術だ。それによって助かる人がいるのはすばらしいことだが、 移植を待つことは必然的に 全世界の人に向かって「内臓はきれいなまま脳だけ死んでくれ」という 破滅的な呪いを放つ行為なのである。 そのような美しくない技術は一刻も早くそういう呪いと無縁な技術に とって変わられねばならない。そのためにもヒトの細胞を材料とした研究は 避けては通れない。できるようになったことはもうやめられないのだから、 我々はそれを必要としないくらい優れた技術を手にすることによってしか 臓器移植やら脳死という問題を克服することはできないのだ。

  また、「変異や欠陥も個性」などと知ったふうな事を言う人がいて頭が痛くなる ことも多い。 果たしてそれは今後生まれてくる人々に対して適用すべき言葉だろうか。 そうではあるまい。誰が望んで障害を持って生まれたいというのだろう。 誰が望んで致死的な遺伝病を望むだろう。不幸にしてそうなった人が それと向き合い、健常の人以上にすばらしい人生を歩む例は多々あるが、 それとこれとは話が違う。なりたくてなったのではなく、 ただなってしまったのだということを完全に忘れているのだ。 ひどい人になると「そういう不幸な人が一定数いることは人にやさしさを教えるし、 感動的な人生を人々に示すいい例になるから有益だ」などと言うことすらある。 理知的で冷徹で、為政者の意見としてはけっこうだが、ただ美しくない。 卑怯この上ない。しかも、実際にはそういう効果よりも社会が負うコスト の方がはるかに問題なわけで、やはり社会の効率という面から言っても 防げる病気は防ぐべきであろう。

  だいぶ感情的な話になった。自動化の話は時間の問題だが、 倫理の方は根が深い。キリスト教な連中の圧力に負けて 日本がそういうふうに流れるのも美しくない。 はっきり言って、倫理に関するものは国際的に合意する必要など微塵もない。 アメリカ人がキリスト教にのっとってヒトをいじるのはダメだと言ったからといって、 日本が追随する必要はないのだ。むしろチャンスと見て積極的にやってもいい。 日本人の共通認識としてもしどうしてもヒトをいじることが 受け入れられそうにないというのなら規制すれば良い。 だがオレが思うに、日本人はすぐ慣れる。 手術を含む西洋医学は江戸時代に入ってきてからあっという間に普及した。 学問も思想もあっという間に広がった。 だからたぶん慣れる。日本人はおそらく利にさとい民族であり、 得をすると思えばすぐ慣れるような民族なのだ。 根本的なところでは意外に頑固だが、その根本的なところに 遺伝子をいやがるというのはない気がする。

2000年11月22日

現代人のどれくらいが「やりたいこと」探しをしているのだろう。 オレはヒマで裕福なものだから、つい自分には夢中になれることが あるはずだと思ってしまった。 しかし時間が経つにつれて、それが見つからぬままでも 何か「やること」がなければ 自分の居場所すらなくなってしまう状況になった。 そういう時にすべきことは、もう「やりたいこと」を決めることではなく、 「やること」を決めることである。しかし、これがまたそう簡単にはできない。 ある場所にいるために自分が向いてもいない、あるいは本当にやりたいか どうかもわからないことをせねばならないからだ。 本来目的であるはずの「やること」が手段にすりかわってしまうわけだが これをもって責めることができるだろうか。

サークルの件でオレはそれを責めた。しかし、いざ自分の進路に際して 問題にブチあたってみればこのザマだ。自分が何をしたいかでなく、 何をすれば自分の足場を作ることができるかで「やること」を決める ことになる。 いつもそうとは言わないが、人を責めるのは 自分が同じであることに気づかないからであって、自分にその非が ないからではないのではないか。もしそうなら人を責めることは 相当にリスクを伴うことだということになる。 それを知らないものは無知なのであって、また危険を回避するという観点からも 波風を立てるのは賢くない。 なるほど。こうして人というのは丸くなってゆくのだな。

しかし、頭の悪さはゼロにはならないし、責めるべきときだって、 責めていいときだってある。 賢しげに「波風立てるのはバカのやること」と念仏のように唱えていたのでは チキンにすぎない。大切なのは、自分と状況を理というレンズで がんばって見つめつつも自分の生き方を求めることだろう。 口だけならかように簡単に言えるが、 まず口で言わねば自分にも伝わらないので良しである。 無言で実行できればなお良いが、それは東洋哲学の境地であって オレには程遠いのだ。

自分が酷薄な人間であることに気づいたところで、2つの極端な選択肢がある。 酷薄に生きること。努めて熱く生きようとすること。 しかしおそらくその間をとるのだろう。気づく前ほど無邪気ではいられまいが、 その程度で冷め切るほど人間は単純にはできていまい。 だが、オレの中でかなりの事が冷めたのも事実だ。 過去のオレは過去のオレとして尊重するしけっこう愛らしく思ったりもするが、 もう戻れまい。 思えば今までこういうことをずっとくり返して今こうなっているのだから、 何も特別なことではないのだろう。少々大き目だったというだけだ。

アホチャット電話。いろいろあったし、いろいろ言われたが、 自分は驚くほど冷静だったと思う。 世の中のものがそんなにどうでもよくなったのだろうか。 どうでもよくなることと、熱意を持ちつづけることは矛盾しないのだろうか。 もしそれが矛盾しないのならば、 期待を通りこした確信などは持たず、かといって悲観もしないという境地が この世のどこかにあることになる。 前に比べれはそういう状態に少しは近づいたかもしれない。 一年かそこら前の日記にはそういう達観はオレらしくないと熱っぽく語られていたが、 残念ながら過去の自分には謝るしかない。

2000年11月21日

本田のロボット が小型化され、あまつさえ物をつかめるようになった。 奴は階段も登るし、下るし、水の入った水槽をこぼさないように持って歩く ことすらできるのである。 作業用のデカいのを作る予定とかあるんですかという質問に対して、 あくまで家庭用で行くと応えたあたりも心意気を感じさせる。 つまりパトレイバーでなくマルチを選んだということだ。言葉には出していないが、 質問した方の頭にはパトレイバーがあっただろうし、 答えた方の頭にはマルチとはいわないまでも鉄腕アトムあたりがあったことだろう。 しかし5年後には想定するものがマルチになることも十分ありうる。 だいたい120cm、43kgってのはマルチにしろと言わんばかりだ。

ストレッチ。1:開脚180度。2:立った状態での前屈でひざに顔がベッタリ。 3:体ひねり180度。この3つを達成した時から真に太極拳が始まるような気がしてきた。 あとは横蹴りのまま分単位で静止するようなマネができれば 筋力も十分だろう。このくらいできないと蹴りなんて打てやしない。 ところで、近頃関節をバリバリ動かすような筋トレはどうも太極には合わない ような気がしてきた。先生に勧められた筋トレ法もたいがい静止系だ。 「何回」と数えられるような筋トレは一つも勧められてない。 次はこのへんを科学してみよう。スポーツ科学の本を読みまくりだ。

背筋を鍛える方法で今んところオレがやってること。ただし そんなに熱心にやってるわけじゃない。なお、基本的に ストレッチを別にやらねばならんような面倒な筋トレは嫌いなので 兼ねているものが多い。

  1. あらゆる動作に背筋を使う工夫をする。 たとえば物を持つ。腕を上げる。歩く。階段を登る。自転車をこぐ。 その他もろもろ。
  2. 横蹴り静止。脊柱筋の脚を上げる側の方が集中的に使われる。 加えて支える方の尻とか脚とかも。バランスも兼ねる。
  3. 後ろ蹴り静止。上げる方の脊柱筋が集中的に使われる。 支える方の尻から下も鍛えられるし、 腿の内側、ふくらはぎあたりのストレッチにもなる。バランスも兼ねる。
  4. 馬歩体ねじり。馬歩になって下半身をロックし、 腕を水平にのばした状態で上体をねじる。姿勢を正しくし、 脊柱筋、腹筋、脇腹のストレッチと同時に脊柱筋の低負荷な筋トレを行う。 また限界までねじったまま静止おする。 なお、この際股に何か適当なものをはさむと良い。 締めてないと落ちちゃうけど、 締めてれば落ちないようなものが適当。馬歩で手を抜けなくなる。
  5. 雲手。脊柱筋を左右交互に独立して使う訓練。筋トレにもなる。 重りをもてば負荷も上がる。
  6. へきミット打ち。脊柱筋の瞬発力を鍛える。当然殴る練習にもなる。

こんなところ。どれもいわゆる伝統的鍛練法っぽい。

中間報告でびっくり。二つの実験結果の写真を フォトショップで処理して重ね、相異点を比較して見せたのだが、 そんなことが妙にウケてしまったのだ。 研究室IT革命指導者みたいな称号まで与えられる始末である。 いかにみんながコンピュータというものに 慣れ親しんでいないかが改めて身にしみる出来事だった。 これを利用してオレの足場を築くこともできるだろうが、 そういうヨゴレなことを考えるよりも自分のレベルを高める方が先だ。 生物学の知識を豊富に持ちつつ、 情報学的手法と実験的手法の両方を高レベルで会得した人間はそう多くはなく、 そういう人間が話題のテーマで論文を書けば一流誌に載る可能性は高い。 が、オレのレベルはそこまで上がるのか。

それにしても、「学者ってすげえな」と思う瞬間が少ないのはどういうことか。 分子生物学での話で他の学問は知らないが、どうにも驚く論文が少ない。 論文なんてのはそれこそ星の数ほどあるわけだが、 「うお、こいつすげえ」と思うような 論文など10個に1つもないのだ。 もちろんオレに見る目がないのもあるが、 「テーマは環境浄化で流行りだけどやってることはいつも通り遺伝子クローニング」 とかいうのは 「ジャンルはKANONだけど中身はただのエロ同人」というのとあまり変わらない ように見える。 もちろん一流のすっげえ学者はたくさんいるのだが、 一流のすっげえ学者じゃないと生きていけないほどたくさんはいないと見た。 というわけで返さんでいい奨学金が取れるなら博士もアリだ。 博士の奨学金という奴はモノによっては それだけで生きられるくらいの額になる。

2000年11月20日

学園祭まであと3日らしいということを今日知った。 何も予定がない。実験して暮すなんてイヤだ。

学園祭、鍋実行決定。トピック参照。

ONEのMIDIを使わせてくれという人が現れてヒャッホウ。

2000年11月19日

MIDIのギターベースのものを全部ピアノベースにした。 いくらか可搬性が上がっただろう。

ピアノ真面目にやっておけばよかった。 あんなに便利な楽器は他にないというのに。

MIDIを記憶で作るのはいい。 メロディーしか覚えていない状態で、どう伴奏をつけるかというのは けっこうむつかしいからだ。どうやってもしっくり来ない時などに 原曲を参照すると「こんな手があったか」と感動できたりする。

ウシオ原稿のネタができた。ロクでもない漫画になりそうだ。

よく考えてみれば、楓漫画は年内に描かねばならないのだなあ。 ともかくも発表が終わってからにしよう。

ところで、11/15は楓ちゃんの誕生日であった。 その日ジャム本の再入稿に行ったのだが、 なぜ気づかなかったのだろう。 もっと早く気づいていればジャム本に楓ちゃん漫画を紛れこませていたというのに。 秋子ジャム入りバースデーケーキ。こんなおいしいネタをみすみす逃すとは なんと愚かであったことであるよ。 あの子にあのジャムを食べさせたいと、君も思うはずだ。

正しい詠嘆の用法教えてください。

サイトってやつは公っぽいのだが、 やっぱり一人のものである。 だから、サイト製作者は客をガッカリさせる権利をもっている。 しかし、たいがいの人はガッカリさせないようにしようと いう殊勝な心掛けをもっているので、 ガッカリさせないように努力する。これは良心とか、あるいはある種のヨゴレな 意思によるものであって、サイト製作についてくる義務ではない。 で何がいいたいかと言うと、昨日今日とロクでもないことを書いているけど 反省しないぞということだ。オレもまたいろんな理由で人をガッカリ させたくない。しかし昨日今日はそんな余裕がなかった。 自分がアホウな露出狂に見えるということもわかってはいたが、 それでもやってしまうくらい昨日今日のオレはアホウなのだ。 しかし、ごめんとは言わない。

くもりときどきはれ

  「やりたいこと」はないのだが、原因が原因なので 探して見つかるもんではないらしい。 そこで、「やること」について考えることにする。 「やること」を決めるか否かだが、 もう保留は飽きたので決めることにする。 探すなどという他力本願なものではなく、 自分で好きに決めていいのだからおもしろい。 これこそ自由意志を実感する瞬間ではないか。 決めてしまったら動機などもう問題ではないわけで、 走り続ければそれでいいのである。 さて、では何をやることに決めようか。

  楽になった。そりゃ不安も迷いもあるが、 いろいろあった未決定事項がたった一つに整理されたのである。 そして、その一つも事実上どっちにするかというえらく単純なものだ。 すなわち、死にものぐるいでゲーム屋になるか、 死にものぐるいで学者になるかの二つだけ。 困った時は理づめのハッタリで自分を圧倒してしまえば 事は必ず単純になる。反論を許さず一気にたたみかけるのがコツだ。 釈然としない時は食って寝る。起きたら忘れてるのが人間だ。

頼まれMIDI状況

ONEの雨な曲(弟)
すまぬ弟よ。10度以内の4和音ってのは面倒すぎ。 で、だいたいこんな感じってのだけとってあとは勝手。
聖剣伝説フィールド(誰だ)
あの人の曲だとすぐわかる。宙明並み。
tell me why(D.C.氏)
作るには作ったけど、出す気がしないほどダメ。 ものすごーくアレンジしないとおもろないです。
ビバップOP(まさひろ)
保留。面倒くさすぎます。ごめんなーまさひろ。
ゼビウス効果音入り死ぬまで(いっぺい)
どうにか物をくれ。そうしたらすぐにやる。 さすがに記憶で効果音まで入れるのは無理だ
Mr.ドリラー(もりりん氏)
物をくれ。

録音を使わないソフトMIDI

  正直に正弦波の重なった奴が出てくるソフトMIDIないだろか。 録音は融通が聞かないのであんまり好きではないし、 素直な電子音からリアルな音まで同じ原理で動くのはかっこいいじゃないか。

  音というやつは、 それぞれの周波数の波に対しての振幅の時間変化しかない。 ということは、どの周波数の音がどれくらいかという比率と、 振幅の時間変化パターンがあればそれで音色を表せる。 時間変化は本当は何次かの曲線で表すべきだが、 MIDIの規格では操作の関係上これを4相で近似している。 アタック(出だしの山登り)、 ディケイ(出だしの山下り)、サステイン(継続)、リリース(残響)の4相で、 それぞれの相の長さt1,t2,t3,t4、 それにt=0からt1,t1からt2,t2からt3,t3からt4での減衰の傾きをv1,v2,v3,v4 としたりするわけだ。 これによって算出された値に周波数ごとの比率を表す定数をかけたもの をそれぞれの周波数の正弦波にかけて、 全周波数で和をとる。理屈はえらい単純だ。 ところで、これだと音色が単純なパラメータで表せる。 t1からt4、v1からv4。それから周波数ごとの定数Ki。 あとはリアルにするために要素を増やすだけの話で、 耐えられる計算量に応じていろいろやれる。

  周波数分布をみていた。 12倍音程度まではグラフにひっかかるが、 音色の特徴として欠かせないのはせいぜい7倍音までだ。 そのへんのをうまく足して いけばそこそこの音色になりそうだということになる。 しかし、それでも計算量は多そうだ。 いくつもの正弦波を毎秒44000回ステレオで計算して、これでやっと1ヴォイス。 同時128音とかだったらそれかける128。大変ですな。 音ショボくていいから、そういう数学な原理で動いてるソフトMIDIないものだろうか。 ついでに切れ目のないループ機能がついているとありがたい。

2000年11月18日

栄養関係の文章を読んでいて思うが、 どうしてこうもヒトの合成機能は不完全なのか。 そこら中の酵素が壊れている。 ないのではなく、壊れているのだ。 つまり治せば使えるのである。 DNAを卵子にたたきこんで合成機能復活、と考えて実行する奴 が絶対に出てくる。 ウイルスで感染させてすでに生まれている人間を改良することすら それほど夢とは言えない。倫理とか言ってももう遅いのだ。 オレを含めた何万人が日常的に遺伝子を操作して生命をもて遊んでいるし、 酵母もマウスも、つまりはヒトも遺伝子を扱ってる分には一緒だ。 操作も同じ。試験官に薬剤入れて 冷やしたりあっためたりしてる状態で倫理なんぞに目がいくわけがない。 鉄砲打ったら遠くで人が死んだ、ってのと同じくらいつながりが見えないのだ。 だから学者に倫理を期待するのは無理なのである。 できることをしないのは人類の能力を超えているだろう。 せいぜい規制するがいい。

バリアフリーというのはバリアを自由に張っていいという意味か。 前も書いたネタだが、 まったく外来語というのはおもしろい定着のしかたをするものである。

いいだろう。オレには人生を賭けてやりたいことなどないのだ ということを認めようじゃないか。

以下のは整理用。人に見られることを承知で自分用に書く。 あんまり正直に書いたから、 人が不快に思うことも書いてあるに違いない。 甘えなのはわかっているが、お許し願いたい。

今日の心境

  ゲーム業界。甘い気持ちで行けば梶原のように金タマを潰されるのがオチらし い。それはわかる。 確かにオレはやりたいことがあるかと言われるとない。 正直に分析してみたが、やはりない。 しかしその一方でオレには妙な傾向が一つある。 それはかなり強い「鍛えたい欲求」だ。 新しいことを知るとか、できなかったことができるとか、 そういうのがたまらないのである。 その中心にはたぶん「論理的思考力」とかいう奴がドカンと鎮座している。 それを鍛えたり、新しい使い方をあみだしたり、より広範囲な現象に応用した りするのがおもしろいのだ。 そしてそのために何をしているかはたぶん問題ではない。 「人の役に立ちたい」ということすら突きつめれば 「人の役に立つにはどうすればいいのか」という命題の解を探す過程が おもしろいだけではなかろうか。

  だが、たまにそういう殺伐としたことをまるごと忘れる瞬間がある。 グリフィスの「夢」に当たるのがその「冷徹な鍛えたい欲求」だとすれば、 オレにそれを忘れさせてくれるガッツが、 漫画やらアニメやらゲームやらなのだ。 それらに触れている時にはそういうのが消しとんで、 ただまったりとしたよくわからないところにいられる。 だから、どうせもともと何にも興味がないのならばせめてそういうものに関係 して生きたいと思うのである。創作センスがないのなら、 そういうものがある人の道具としてでいい。

  しかし、こんな動機の人間は誰も必要としない。 世の中で求められるのはあることが好きで、「物そのもの」に打ちこめる人間だ。 だから、オレは自分をそういうふうに改造するのが正しい。 何かに熱中して一生続けられるように自分を改造するのが正しい。 しかし、とても今すぐにはできそうにないのだ。 それができないなら、傾向はどうあれオレが必要とされるくらいの 能力をつけるしかないのだが、それも空しいといえば空しい。

ここらで自分史

  やりたいことがないというのは、何か一つに絞らざるを得ないような環境に おかれなかったということの現れだ。向いているものに気付くこととは関係な い。そりゃ向いている方がいいにはいいが、それよりも 「これしかねえ」という状態に追いこまれる、 あるいは自分で勝手に追いこんでしまうことの方がずっと大切である。 早い時期にある分野で人に誉められまくったりすれば自然とそうなるし、 ある分野の先達に強烈な感動を覚えてもそうなる。 思えばオレにも確かにそういう感動があった。 小学生のころから 300年生きる技術を開発してやると本気で考えていたのである。

  何を見てそういう誓いを立てたのかは覚えていないが、 「千年は生きたくないが三百年なら生きたい」 というどこぞの教授の言葉は今でも覚えている。 何が原因かは知らないが、 死というもののイメージが頭の中にとてつもない恐怖を形づくっていたの も大きかった。なんだかわからないそんなもののために眠れない夜を過 すような時期が2年以上続いた。今でも「自分が生きている」 ということについて考えたりすると、発作のように苦痛が襲ってくることがある。 それくらい強烈な恐怖だったのだ。トラウマという奴だろう。 加えて運動が致命的に苦手だった。今でもそうだが、運動というもの自体を 憎むほど嫌いだった。それも頭を使いがちになった原因だろう。

  中学のころは勉強なんてしなかった。しなくても勝手に学年で 20番くらいには入れたし、受験のための勉強なんてカスだと本気で思っていた のだ。 どんな高校に行っても必要なだけの受験勉強をして、 野望に最適な大学に行くだろうということをいささかも疑うことはなかったの である。 そうして私服だった東京工業大附属と、たまたま親が函館旅行に行こう と言いだしたためにラ・サールを受けた。後者は東京に受験会場があって ガッカリした覚えがある。両方とも受かったが、 ちょうど親が転勤だったので寮があるラ・サールに行った。

  そして高校もオレを挫折させるほどの破壊力はなかった。 最初の試験は勉強ゼロで何番になるかという 実験に使ったのだが、350人中80番。 当然、ナメた。そうこうするうちに順位は30番くらいで落ちついたし、 ひどい時には6番なんてのもあった。ナメ切った。 アホ(良月)やらruinやらAKIやらyouやらと同じ部屋で暮し、 毎週テーブルトークに明けくれる日々だ。

  三年の夏休み前。京大模試受ける奴足りないから受けてくんないと言わ れ、受けた。E判定。考え直せボケという意味である。 しかし、また頼まれたので、受けた。D。 ちなみに、その模試はDが最低だった。らぶひな景太郎状態である。 無理だろこらと思ったが、 また頼まれるので受ける。Cだった。 おもしろい、とそれから一日8時間かそこらの勉強を毎日やるようになった。 駿台とか言う会社の大学レベルな物理や化学の参考書を必死こいて読み、 英語は毎日ラジオを聞き、英和辞典を捨てて英英辞典だけを使った。 日曜はテーブルトークだったが、それ以外は勉強しかしていなかっただろう。 そんな中、判定はBになっていた。 やればできるという確信が生まれた。

  冬休み。センター試験とかいう奴が迫る。 一日12時間やそこらは確実に勉強していたはずだ。 そしていくばくかのアホウな失敗にもかかわらず、 十分すぎる点数がとれた。二次を受けずに どこぞの国立大の医学部に入れてしまうような点数だ。 その時のセンターボーダーライン予想テレビを見て、 うちの親は初めてオレが成績がいいのだということに気づいたのだと言う。 しかし、敢えてセンターを一点も考慮してくれないうちの理学部を選んだ。 京大の理学部は学科がない珍しいところで、 どの分野が野望に近いのかを見極めるまでいろんな学問を勉強できる と思ったからである。落ちたら来年受けりゃいいやと京大しか受けなかったのだが、 あっさり受かった。 世の中チョロイぜと思っていたオレも、 さすがにこんなんでいいのかと思った覚えがある。 だが、本当におかしいと思ったのはもっと後のことだ。

  そういうわけで、大学も二年生までは誓いが完全に機能していた。 大学一年の時は二年の、二年の時は三年の授業を取り、 それも化学と生物両方でである。成績は悪かったが、かなりの数の分野に触れて どんなものかという大筋だけは理解できた。 飛び級すら狙っていた。生物系に飛び級がなかったのでやらなかったが、 もしあれば本気でやっていただろう。

  だが、斜里の直線道路も15キロも行けば曲がる。 フルスピードで走っていたオレが現実にブチ当たったのは三年生の時だった。 教授という人種にモロに触れて学問の世界を知るにつけ、 人類は到底そんな段階に来てはいないことと、学問というやつが あまりにも細分化されすぎていて、特に生物学を総合的に理解するのは とてつもないことなのだと遅まきながらに知ったのである。 論文なんてたいがい「XXX遺伝子のXXX代謝系でのXXXタンパクによる活性化機 構について」とか、そんなんばかりなのだ。 このサイトを作ったのもそんな時だった。 加えて四回生の時は まったりとした研究室に、興味がないわけでもないけれども さして刺激的でないテーマ。 日常の中に野望は埋もれ、趣味に走った。 そんな中だと余計なことを考える。自分には独創性がまるでないとか、 自分が器用ではあるが さして頭のいい人間ではないとか。そんなことは事実であったところで 些細なことなのだが、一度そう思うと折れる方へ折れる方へと落ちてゆく。

  院試ではより野望へ近い場所へ行こうと再生医化学研を狙った。 人工臓器、再生医工学などの日本でも有数の研究所だ。 しかしこの時にはオレもかなり折れており、 ほとんど自分を野望へ追いこむために受けたようなものだ。 基礎研究と応用の距離がバイオでは特に遠く感じられたし、 ここらで医学や薬学と言った応用に近づいておかないとどんどん 自分が腐っていきそうに思えたのである。 しかしそう思ったころには受験はあまりに近づきすぎていた。 高分子化学、化学工学など、見たこともない学問が受験科目にあり、 残りは2年以上見てもいない物理化学、電気化学、量子化学、有機化学などだ。 到底受かるわけはない。 落ちれば一年間そちらの授業を工学部にまぎれて受けて もう一度狙い直そうと思ったわけで、いわば模試がわりだったのである。 だから、院試のための休みをもらったのをいいことに 力の限り遊んだ。今日記を読み直すと本当にすごい遊びっぷりだ。 おそらく10時間と院試勉強はしなかっただろう。 過去問なんて手に入れようとさえしなかった。

  だが現実はおかしい。補欠とは言え合格してしまったのである。 加えて理学部チックな生物の研究室が工学部にも二つあり、 さらにその一つが補欠で行けるところの候補に入っていたのだ。 9科目中4科目が見たこともない教科、3教科が丸二年触っていない教科。 そんな状態で受かってしまうなどあり得るはずがない。 「日本で一番難しい化学系大学院を自称する 京大工学研究科化学工学がこれか」と罵しった。 神を呪いたくなるほどの幸運によって、こうして二年間は決定したのである。

  もうこのあたりではオレもかなり折れており、二年もダラダラしてりゃ 野望なんて消えて普通に就職する気になるだろとなげやりに思っていたのだが、 やはりそうは行かないわけで、 刺激の少ないヒマのある生活をしていると何かとよからぬことを考える。 わき道からオレに入ってきたゲームやら漫画やらがおいでおいでする。 自分にしか作れないものを作って人にウケる。 そんな職業にあこがれを抱いてしまったもんだから大変だ。 しかも考える時間は二年どころか半年しかなかったのである。

  事態がここまで悪化したのはオレの行動の本質が保留だからだ。 中学校のころから野望にもっと積極的に臨んでいれば、 実際の学問がどういうものかはもっと早くわかったはずなのだ。 そうすれば挫折するにも早かったろうし、 挫折しないにしてももっと野望に適した進路を取れたろう。 だが、過去はもう変わらない。

  オレは恵まれすぎるほどに恵まれている。それはよく知っている。 だが、知っているだけだ。 売れた同人屋も売れたなりに悩みがあるであろうわけで、 悩みとか不幸とかは相対的なものなのである。 「おまえは恵まれてるんだ」と言われてもハイそうですかとは 思えないのがやっかいなのだ。 「知るか死ね」と言われるような くだらないことでオレは悩んでいる。 そして、くだらないと本気で思えばオレは普通に就職できる。 だが、まだ思えない。オレに止めを刺してくれるところに行かねばなるまい。 もしそれでも止めを刺されなかったならば、 オレは何がしかの実績を残せるだろう。

2000年11月17日

「最新栄養学」を読んでいて気がついたのだが、やけに菜食主義者という 言葉が多く出てくる。アメリカの本の翻訳なのだが、とするとアメリカには そんなに菜食主義者がいるのだろうか。いるらしい。

「エクセル・サーガ」5冊。やった、やりすぎだ。 久しぶりにやりすぎ系の漫画を読んで気分が良い。 どこまでも力一杯やりすぎ。狙って狙って狙い尽したその果てに見える 作者のセンスが大好きだ。「揚力」はそうそう出るもんではあるまい。 にしても、キャラが生きている。

こんなもんアニメにしたのか。

近頃何読んでもおもしろい。何か象徴的だ。

最新栄養学を読み終えた。といってもちゃんと読んだのは2割もないと思う。 やけに細かいことばかり書いてある本だからだ。 しかしそれでもいろいろとわかった。 とりあえずわかったのは、白米や白い小麦粉がいかになんもないもんかということと、 野菜と豆を食わないで栄養をちゃんと取るには薬に頼る以外に手はないということだ。 加えて欠乏が実際に効果を及ぼすにはある程度の時間がかかるということと、 効果を及ぼすほどの状態になってから正常に戻すのにはさらに多くの時間が かかるということもわかった。

言っちまった。ボスに。「ゲーム会社とか就職したいんですけどねあははー」。 しかし一応のために、「研究おもろくなってきたしもうちょっと軌道にのるようなら 博士行くかも迷ってるんですよあははー」 とはつけ加えておいた。とりあえず学会発表、どうしよう。 ボスはやる気まんまんだし、やるんだろうな。しかし、 明らかにボスはオレに博士に行ってほしがっている。

オレ用のコンピュータを買うそうだ。当然オレが選ぶ。 何より場所が問題なので場所を食わない奴にせねばならない。 そういうわけで小さい液晶の奴だろう。14インチで十分だし、 性能もそうそう必要ではない。わざわざ組み立てる気もしないので 既製品だ。あとスキャナ。CD-R。 100万くらいまでならなんでも言ってやと言われたが、 さすがにそんなものを頼めるほど人間は大きくないので せいぜい全部で40万ってとこじゃなかろうか。 少々調べてみることにする。

ところでM3(修士三年目突入)はダメだって。つまり就職か博士かプーかの究極の3択。 これ以上親のスネをかじるのはやりきれないので奨学金ということになるが、 それ、後で返さねばならんのだぞ。とりあえずいいや。来年の前期から申請しよう。

さて、土日を利用してウシオ原稿を片づけよう。しかしTo Heartか。遠い目。

ついにここを「日記サイト」として紹介しているサイトをみつけてしまった。 でもいいや。なんぼてきとうに書いててもオレが書いてるものに違いはないし、 よく考えれば日記よりてきとうに書いてる文章もかなりある。 もういい。日記サイトで結構だ。すでに容量の半分が日記なのである。

読みやすい文章。なんだろう。テンポが良いこと。ややこしい言葉を無理して使って ないこと。つかみOKなこと。というかなんというか、なによりおもしろいことだ。 おもしろいと、わかりやすい。おもしろいと、読みやすい。 じゃあおもしろいのはなにかと言うとむつかしいが、 とりあえず書いてる奴がおもしろそうだと、文章もおもしろい。 本当は逆で文書がおもしろいから書いてる奴も おもしろいのだろうと思うのだが、敢えて言おう。おもしろい奴が書いてれば、 文章もおもしろいのだ。技術的なことは後からついてくるのでいいのだが、 ややこしいことをややこしく書いてたり、 何がいいたいのかわかんなかったりするとおもしろくない。 かっこワードが多かったり、無理矢理な口語調になってたり、 文がやけに長かったり、かっこなんとかが多かったりすると読みにくい。 自己弁護が抜け目なく入ってたり、いやーどうでもいいんですけどねー みたいな逃げがあるとなんか腹が立つ。 …いろいろ当てはまる。気をつけねば。

2000年11月16日

13時間寝てしまった。テレホーダイ時間をまるまる寝たのはかなり久しぶりである。 気分爽快なのはともかくとして背中が固い。ほぐそう。 オレはどうも寝ている間背筋を緊張させるクセがあるようだ。

就職。 研究職というのはあんまり一般公募していないわけで、 たいがいツテでしか入れない。 で、薬屋やら、繊維屋やら、酒屋やらは学部でそのツテがある。 よく考えればバイオなんてそれくらいしか職種がない。 しかし研究職をやりたいなら博士に行って博士号を取っておかないと いろいろとショボいし、 博士がイヤなら自力で全然関係ない会社に就職した方がいいような気がする。 就職活動を楽にすませつつ高給取りになりたいというだけなら このまま薬屋や繊維屋に就職してもいいのだが、何かイヤだ。 薬屋や繊維屋がオレを鍛えてくれるような気はあまりしない。 宝酒造に行った先輩は半年間電話番をさせられたのだと言う。 では、どうしようか。冗談抜きでゲーム業界にでも行くか?

ジョジョのダービーの話の原作を読み返した。すると、 アニメがかなりまんまやっていたことがよくわかる。 構図やら変な演出やらはかなり忠実だ。その一方で台詞が微妙に変わっていて、 ダービーのキャラクターが内海賢二向けにカスタマイズされているような気もする。 細いところの省き方も絶妙だ。あの監督はなかなかやり手なのに違いない。

栄養学。なかなかおもしろい。とりあえず各栄養素ごとに文章を書いて、 その後その知識をどう応用すべきかをまとめようと思う。最初のうちは だから何?って感じの文章ばかりになるでしょう。これを読み終えたころには そのへんのショボイ健康マニアよりは詳しくなっているに違いない。

12月始めに横浜の理研に実験をしに行く可能性が大。

就職ガイダンスとやらを聞いてきた。 リクルートの編集長のお話であるが、 頭の切れる人の話は聞いていて楽しい。 そう年にも見えず、さすがに編集長という立場になる人間は違うなと 思わせるものがあった。アホウな質問もさらりと核心を外しつつ優雅に答える様は まったく大人である。ところで、答える方がそうも大人だと、 そういうアホウな質問をする奴等が余計にガキに見えて悲しい。 どういうアホウな質問かは言わなくてもわかるだろう。

とりあえず、薬屋に就職する気がまるでしない。ゲーム屋に就職するのを 本気で考えてみようかと思う。何も知らない新卒をとってくれるような 会社もあるわけで、なんとか開発に携われるようにがんばれば きっとものすごい修行ができるだろう。 どうせ死ぬまで同じことをする気などさらさらないのだから、 最初の会社はオレの尻をひっぱたいて死ぬ気で修行せざるを得ないようにしてくれれ ばそれでいい。

今日のガイダンスで言っていた企業が求める3つの能力というのは、 「目標を決める能力」「いつまでも勉強し続ける能力」 「人と対話して有益なものを引き出す能力」 の3つだった。状況把握、やる気、社交性と言い替えてもいい。 そういうふうに言われるとオレは全部自信がない。 父に言われたようにオレは使えない人間なのか。 オレが仮にオレの上司だったら、さぞやイヤだろうと思う。

言葉は人によって定義が違うので、基本的に信用できない。 確かなのは形式である。たとえば「AならBでBならCだからよってAならC」という 推論は形式であって、言葉の定義にはあんまり関係がなく、 けっこう確かだ。そう考えると、 この世でどうにか信頼が置けるのは形式だけということになりそうである。 カント先生はそういうことに気づいて、空虚に言葉遊びをする奴等は バカだとはっきり言ってしまった人だ。しかし、言葉の中にも信頼がおけそうな奴から とても置けそうにない奴までけっこう幅が広いわけで、 全部使えないと言ってしまってはどうにもならない。 たとえばアホの定義は人によってかなり違うだろうが、 赤いの定義はあんまり変わるまい。 高いとか、低いとか、大きいとか、小さいとか、そういう単純な言葉 はけっこう確かっぽい言葉である。そういう確かっぽい言葉だけで確かでわかりやすく 形式(論理という)を駆使して文章をかければ誤解は少なくなるし、 多くの人に納得してもらえる文章が書けることだろう。 その観点から行くと、良いと悪いは最悪だ。 人によって場合によってコロコロといくらでも変わってしまう。 良いと悪いを追放したらどれだけ誤解が減るだろうと思うほど 誤解やトラブルの原因になることが多いのである。

2000年11月15日

MIDIの規格書を置いているべきサイトを探しあてたが、 WEB上にはないらしいということがわかっただけだった。 っと、待てよ。元は英語のはずだぞ。どこだ。どこにあるのだ。

米国MMAを探しあてたが、アドレスの通り間借りサーバ。 ドメインくらいとれ。加えて、ほとんどのファイルが404(File Not Found)。 やる気あんのかこら。

アメリカ人はMIDIはあまり興味がないのだろうか。 規格もたいがい日本人が作ったらしい。

ジャム本の原稿を印刷しようとwindowsに行くも、保護エラーで起動せず。 下逸を呪いつつ上書きインストールで、ブートセクタ破壊。 FreeBSD起動フロッピーで起動してブートセクタを書き戻して現在に至る。 使っていなかったwindowsがなぜ突然壊れるのか。下逸。

トナーが振っても出なくなった。仕方なく薄いところを手でベタ塗り。 もうさすがに替えるしかないのだが、あれ1万近くするんです。

ジャム本改訂版原稿完成。入稿しにいこう。36ページ。 増えたので余計に採算が厳しくなった。 しかし、今度はエネルゲンの公式本に認められたので予算が出る。 オレ一人かぶらなくていいなら気は楽だ。

実験がヤバい。来るはずのデータが当分来ないことになったのだ。 12/11の合同研究会で発表するネタがない。こうなったら二次元を 全力でやって結果を出す以外に手はない。明日から休日返上でやらないと ダメだ。

北方謙三「挑戦III-風の聖衣」。 南米のある村をめぐって、村人、政府軍、革命軍の三つ巴の闘いが続く。 主人公は村のために、そしてインディオの誇りのために闘い、 革命軍の傭兵となったある日本人もまた、 自分の生き方と求めて闘う。主義主張などよりももっと根本のところで ぶつかり合う誇りと誇り。男と男。燃えるシチュエーションだ。 ゲリラ戦の描写もいい。しかし、主人公強すぎないか。 ところで、この前読んだエデンも南米だった。ゲリラ戦の様子も似ているし、 あれに出てくる日本人はやけにこの主人公を彷彿とさせる。 関係があると断言するほどではないが、重なって重なって仕方がない。

栄養学の本を借りてきた。600ページもあるブ厚い百科事典のような本だ。 その名も「最新栄養学」。 この手の名前は古くなった時に困るのでどうかと思うのだが、まあいい。 ところで、こういうのを読んで知識がついても実際にスーパーに並んでいるものを どう用いればいいかとはあまり関係がないのだが、あまりないだけで そこそこはある。いかにそういうバラバラの情報を 実践に結びつけるかが科学を使う者の力の見せどころであろう。 なんでもバラして考えるのはアホだという人もいようが、 バラした後に再構築できないから使えないだけで、 もし再構築できたならバラす前よりも数段高いレベルに達することになるのである。 バラして元素を見つけ、その後自分の目的に合わせたレベルで近似すれば、 元素の存在を考慮にいれつつも総体として把握するというえらくかっこいいことが できる。必要になるのは、現象から元素を抽出する能力、 元素の組みあわせを目的に合わせたレベルで近似を行って現象を再構築する能力、 そしてなによりも最初から最後まで総体を見失わない能力。 科学だよ。科学。

2000年11月14日

北方謙三「挑戦II-冬の狼」。 主人公がペルーでゲリラの訓練を積んだ後の話だ。 巨大な組織に立ち向かう男達の闘いが熱い。 ただ、一巻に比べると技巧や趣向をこらしているとは言え やはりお話としては単純だ。しかし、この単純さはおそらく意図してのものだろう。 娯楽小説たろうという姿勢の中でどう空気を表現するかを追求しているのでは ないだろうか。というわけで、やっぱり男なのである。

仰々しい感情表現は白ける。 言葉だけ、表情だけ。そんなものは空しい。 人間の感情は空気である。 言葉や表情はもちろんのこと、手の動き、視線、沈黙、といったような微妙な もの全てを次第に次第に積み重ね、 それが空気として現れた瞬間が感動につながるのだ。 言葉で全てを語ろうとするのは下の下だろう。 絵があるメディアであればなおさらだ。

人間が一億人もいるとわけわからなくなる、というような台詞が 北方謙三にあったが、三人で十分だ。

ジャム本が7冊も発見されたという。 改訂増刷の告知をした今となっては、もうその7冊は売れない。

ジャム本大幅増補。36ページになって生まれ変わる。 が、増える8ページのうちあてが確定しているのは6ページ。 残りはどこから?

MIDIか

  いっぺいから借りたが長いこと放置されていたMIDI本を読んだ。 借りた時とは比較にならぬほど簡単に読めて、簡単にわかってしまった。 成長したのだなオレ。 でその結果、MIDIという規格がだいたいわかった。 何をしたいがために作られた規格かもわかった。 あとは規格書をどっかから探してきて読めば 全てがわかるだろう。たぶんいっしょにGMの規格書もあるはずだ。 SMFファイルのも。

  ピッチベンド幅の設定法を発見。 さらに、ポルタメントが何かわかった。 加えてエンヴェロープをいじる方法を発見。 しかしPCMタレ流し式音源ではエンヴェロープ変化命令を受けとっても どうしようもないらしい。周波数を変えて使うだけでは 低くなるにつれてアタックが遅れるのも無理もない話だ。 音色ファイルって奴はちゃんと アタック、ディケイ、サステイン、リリースの4相に分けて保存されているの だろうか。されていなければそんなものはまるで操作できないことになる。

  PATファイルの中身が気になった。 フーリエな式のデータで入れられるなら 怪しいほど小さくてやけに素直に電気な音が 鳴るパッチセットとか作れると思うのだ。 調べてみよう。しかし音関係はフーリエだ。フーリエがわからねば何もできな いくらいフーリエに支配されている。

  sf2ファイル(サウンドフォント)をDSPに叩きこんだら、まんま音が鳴った。 録音のものはそれこそそのまんま入っているらしい。 録音じゃないものもかなりの数あるようなので、 そちらのフォーマットが気になるところだ。 ともかくも、SFで録音された音色を使う時には 相のコントロールが一切効かないということになる。 アタックもリリースもない。 patもそうなのか。

2000年11月13日

もう猶予はない。 オレはすごい人間にならなくてはならない。なりたいという理由ゆえに、 ならなくてはならない。 人生はあと3分の2しかないのだ。 自分を鍛えるのをやめた時にオレは年老いてゆくだろう。

仕事という日本語が最近英語のworkの意味に近づいていっている気がする。 英語のworkには作品とか成果みたいな意味もあるのだが、 元々日本語の仕事にそんな意味はあったのだろうか。 少くともオレは仕事という言葉にそういう印象を感じない。 しかし、最近はどう考えても作品という意味も持たせないとおかしい用法が たくさんある。「いい仕事してますね」とか。研究も仕事と言うのだが、 この仕事も作品とか成果とかいう意味が入っているだろう。 英語の影響か、それとも元々そうだったのをオレが知らなかっただけか。

ゼミ終わり。とりあえず目的は達しただろう。 が、むなしい。

「美少女わんさか☆ラブコメ!!」(ラブひな一巻帯)
オレの負けだ。

ラブひな3冊読破。一巻の最初は辛かったが、次第に、というかあっと言う間に慣れた。 パターンが見えてくると安心して読める。おいしすぎる展開も妙に 作者の邪気が見えないので気にならない。ひょっとして、マジ で描いてるんじゃないかと思うくらい邪気がないのがよかったのだろう。 あざとさとか、お約束でどうこうとか、そういうものがまるで感じられないのだ。 一度そう思うと普通の漫画になるし、 普通の漫画として読めば確かにおもしろい。 テンポはいいし、絵はかわいいし、なにより異常に読みやすい。 普通の漫画として出来がいいのだ。 というわけでオレは勝った。 オレはラブひなをおもしろく読むことに成功したのだ。 もう恐いものなどあるまい。というわけで、続きを読ませろ。

あざといとか、そんな理由で物を拒むのはかなりもったいないことな気がしてきた。 そういうのは作者について考えた時に生じるもので、極端な話作品に罪はない。 拒むなら出来の悪さでこそ拒みたいものだ。 あんなに辛かったラブひなだって、ほらこの通り。

つまらないと言うのは、おもしろくすることに失敗したということであり、 すなわち負けだ。しかし、 負けでもいいと思うほどつまらないものもたくさんあるので、 常になんでもおもしろくせねばならないというわけでもない。 でも、負けは負けだということだけは覚えておこう。 オレはかつてセーラームーン(原作)に負けたが、あれは負けてもいい勝負だった。

ビバップのオープニングのMIDI化を頼まれたが、これはかなり難物だ。 ピッチベンドまみれのデータを作るのもしんどいし、 MIDIでトランペットやサックスにソロをやらせるのはあまりにリスキーなので、 メロディその他はピアノに変えるのが妥当だ。 とりあえずピアノで作りつつ様子を見る他ないだろう。 あと地獄のようなドラムだが、 いくつかの基本的なパターンを読みとってあとは好き勝手に配置し、 特に問題になるところだけ照合すればいい。完全に一致することには意味はなかろう。 というわけでとりあえずの方針は立ったが、 こうもカデンツァ的で即興性が高いと相当な手間が予想される。 和音は古典的な法則にはまるでのっとっていないし、加えて長い。 これは丸一日かかるだろう。 なお、もう一つ頼まれたtell me whyの方はえらく単純な曲なので MIDI化だけならラクチンである。しかし一方であの味を出すのはおそらく不可能だ。 似せてもいいことはないので、 オーケストレーションしてゴマかしてしまうのが吉か。

北方謙三「挑戦I-危険な夏」。男すぎる。隆慶一郎を高原を吹きぬける風のような 男らしさとすれば、これは太陽の照りつける砂漠のような男らしさだ。 文体のそっけなさと、非情な雰囲気がたまらない。といっても 良く読めば人情とロマンあふれる冒険活劇なのだが、 なぜか乾いた印象を受けてしまうのだから仕方ないのである。 話がどうかと言われるといまひとつどう言っていいのかわからないし、 正直おもしろいとはあまりおもえないのだが、 オレはこの男のロマンだけでいい。惚れる。 さあ、第二巻では主人公が傭兵らしいぞ。増せ、雄度。

2000年11月12日

夢。すごい映像だった。 少々イデオンが入っていた気はするが、カメラが尋常じゃなかったのだ。 一体どこであんなの見たんだろう。今までに見たものがミックスされてああなったの だろうか。もっとも、所詮は夢。

機械に自分の知識を入れて生きながらえるネタ。よくあります。 しかし、こんなのは うにの言う通りアホだ。確かに本人は死んでる。 死んでるのだ。 しかし、こういうのはどうだろう。
「物質転送機で、分子にバラしてどっかで再構築」
さあ、再構築されたのが寸分たがわず本人だとしても それは本人なのだろうか?本人は生きているのだろうか。 本人にしかわからないし、それどころか本人もわかることはできないわけで、 つまりは絶対にわからないのだが、それでも考えたくなる。 「本人」の「実体」がソフトウェア的な意味の魂なのなら 同じ本人なのだろうが、現実にはソフトウェアも物質に宿るもんだ。 物質が消えればそれは消える。 コピーしたソフトウェアとコピー前のソフトウェアが同じもんとされるのは 区別がつかないからであって、ソフトウェア本人にとって同じか どうかは絶対にわからない。 というわけで宗教的な意味で「魂がある」と 信じていない人は物質転送機に入るのはやめましょう。 そこで死ぬかもしれません。誰にも死んだと認識されることなく。

科学の根本には、観測して同じものは同じというのがある。 だから、直感的に違うところがあるのに観測しても違いがわからない場合には、 観測の精度が足りないか、もしくは錯覚だということになる。 さて、魂はどうかな。

なにかと話題になる「勝手に改蔵」。今週はそれほどネタはないなと思ったが、 トビラがどこかで見たポーズ。今回は古典で来たかという感じだ。

今流行りのDNAチップをネタにゼミ資料作成中。 せっかくだから、 終わったらもっとわかりやすくしてWEBに置きます。バイオコーナー設立だ。 バイオ質問掲示板も置いて、バイオQ&Aを設立しよう。 今までやるやる言ってまるでやらなかったが、今回はいい契機だ。 にしてもゼミ資料の文体が日記のまんまなのはマズいか。

論文読んでて思うが、頭よすぎな人々がいっぱいいる。 一瞬おい、それは待てよと思うような乱暴なことをしていたりもするが、 よく読むと実にうまい。こういうことできるなら学者も悪くないな。 博士に行く気にもなるかもしれん。

物を殴らないと強くならない。それは、物を殴る時の手の角度、部位、 吸いつきといったものがわからないからだ。 ただし、力一杯殴ったのでは手が壊れるだけでいいことはない。 ちょっと壊しては治し、ちょっと壊しては治し、ということを繰り返している うちに手そのものが強くなって当て方もわかるようになるのだし、 これは脱力の練習としての意味も大きい。 力づくでやったのではそれらの効果がなくなってしまうのである。 そして、それくらいの感じでやれば 物を殴ることの恐怖心を徐々になくすことができる。 というわけで、物を殴ろう。 ヴァイオリニストではあってもピアニストではないのだし、 こんなきれいな手をしていても仕方がない。 と、ここで中国拳法らしく噂の鉄砂掌をやるとかっこいいのだが、 やり方を知らないのでいいや。 というわけで、チャンピオンを木にくくりつけて殴ろう。 ちょうどいい木を探して、ベルトでくくりつければいけるだろうか。

ところで鉄砂掌とは、固いツブツブの入った袋を打って手を鍛える鍛練法のことだ。 なお、伝統によると終わった後に秘伝の薬に手をつけることになっているが、 これは炎症を避けるため。要はシップをしているのだと思えばいい。 手はややこしい形をしているので薬につけた方が早いということである。 秘伝の薬でなければならないこともないだろうが、こういう処置なしで やると手の神経やら組織がボロクソになって、器用な動きができなくなってくる。 日常生活にはあんまりいいことはない。 漫画描けなくなっちゃいます。

2000年11月11日

道場で衝撃。とりあえず、やわいだけじゃダメだ。でもやわらかさと筋力が 足りないのは事実なので、それは引き続きどうにかしよう。 でも、気だよ気。やっぱ気だって。というわけで気も鍛えます。

自由意志。あってもなくても事態は変わらんし、それを確かめる術もないわけ で、単純に気分の問題ですな。神がいるかどうかとか世界の果てはあるかどうかとか と変わらん話。思いつきでヒョロっと書いただけのくせに 下手にそれっぽい理由を書き並べたもんだから、 オレが「人間に自由意志などないのだ」というご大層な主張を してるように見えてしもうたかもしれない。 またか。自分の浅はかさが痛い。

ややこしいことを書く度にロクでもないことになってる気がするのは オレの文章が下手くそだからか。オレの覚悟が足りないだけか。 そもそもややこしいことなんぞ考えるべきでない のか。でも考えてしまうのは仕方ないし、考えたらどっかに記録しておきたいし、 どうせなら人に見せびらかしたくなるのも無理もないことなので、やめない。 人に見ない権利があって、でも見たい人はタダで見れて、 加えて見せるのにも金がかからないなんて媒体はこれしかないのだ。 しかし、それはそれとしてちゃんとわかるように書く訓練をせなあかん。 見ない権利があるにしても、見た人が不快になるのはオレがイヤだし、 見た人が誤解するのもオレがイヤだ。 ややこしいことでもなんでも、読む気になるくらいおもしろく、 一発読んでわかるくらいわかりやすく、疲れないくらいの長さで、 飽きないよう話題は多様にしつつ、さらに情報価値も折り混ぜて書く。 できたらプロになれるってそら。 ちなみに心の師は福沢諭吉。あの人はわかりやすさとおもしろさを追及 するあまり過激になったり厳密さを欠いたり説明不足になったりして ボロクソに攻撃されまくったというどっかで見たような人なのだが、 それでも並外れた頭の良さと努力でえらい人になったのである。 オレもがんばろうっと。

掲示板プログラム。あんなこといいな、できたらいいな、といううちに 仕様がデカくなってきた。条件検索、リスト、訂正、削除…。 細かいところは後回しにするとは言え、そういうのを足すことを考えて 設計しないと後で足そうとした時に全部やり直しということになりかねない。 そう思ってやっていたが、物には限度というものがある。 日記にも流用しようとか思っていたのが全ての元凶なのは間違いない。 条件検索とかいうのも月ごとにまとめるとか、特定のワード が入っている段落だけ抜くとかそういうための布石で、 掲示板ごときに必要な機能とは思えないのだ。 最初はそういうのは全部ダミー関数にしておこう。

CGIってゴツいAPI知らんで作れて役に立つ唯一のもんではなかろうか。 このご時世には。

ものみの塔が来た。内容と全然関係ないが、この資料に使われている フォントを「ものみフォント」 と命名。そのへんに落ちてないもんだろうか。 なお、いろいろ恐いのでスキャンしてサンプルを置いたりはしません。 わかる人だけわかってください。

音の周波数を分析して音符に直してくれる ものってないのだろうか。耳コピ自動化装置である。 耳コピなんてのは機械的作業で芸術的感性とは無縁なものだろうから、 自動化できるなら自動化してしまってアレンジとかそっちで人の頭を使った 方がいいような気がするのだ。 ただし、素直に作っても打楽器や倍音等がメチャクチャに混ざって 使用に耐えんだろうから、よほど解析を賢くしないと話にならんだろう。

服装がおかしいと言われたが、それが問題になるような時だけちゃんとすれば いいじゃないかと思う。しかし、普段やってないことは時に 臨んでできるはずもないので、つまりオレはちゃんとできないに違いない。 ちゃんとしたらすっごく得をするとか、ちゃんとしないとすっごく損をするとか なったら考えよう。

主語を私か僕にして、丁寧調に変え、断定の多くを 推量に変えたら少しはトラブルが減るだろうか。

好き嫌い続き

  前の文章について致命的にヤバいことに気がついた。 問題にする対象の範囲について何も触れてなかったのだ。 オレが言いたかったのはたぶん 「注目している各要素については」好き嫌いに還元できるということだろう。 ちなみに好き嫌いとは言うならば「好き度」とかいうような 一次元の値であって、マイナス100からプラス100まであるような もんだと思ってくれるとありがたい。ゼロ付近はどっちでもないわけで 好きと嫌いの2つに分けられる、という意味ではないということだ。 で、見方が違うということ自体が対象をいくつかの 要素に分割して見ているということを意味するから、 一つの対象について一つの見方しかないくらい 分割されたものを要素を呼べば、それについての人間の認識は一次元的 なのだろう、という話になる。 今考えてみたらそうでないと話がおかしい。 そうでないと「ここは好きだけどここは嫌いで、全体として考えてみるとONEが好 きなのかどうかよくわかんない」というオレの状態を説明できないのだ。 たとえば、KANONドラマCDの真琴の声はかわいい。 それはそれとしてやりすぎ。でもそれはそれとして話は泣ける。 しかしそれとはまた別に話がやっぱり恥ずかしい。 ついでに名雪はどうだろう、おい。 で、結局どうなのかと言うと、よくわからんわけだ。 加えてその要素というのも場合によってコロコロ範囲が変わるわけで、 たとえば「ONEのキャラがいい」と言った瞬間にはキャラを要素として見ているが、 さて、そのキャラってなんだっけと一段階進めて考えてみると 「みさき、繭、長森…」と分かれていくようなことになる。 ついでに言うと、全体としてそれが好きかどうかなんてことはまず問題になら ないし、「ONEそのものが好きか」という疑問に答えようとする時には たいがい一番強烈な要素しか見てないものだ。だから、 「オレはみさき先輩が好きだからONEが好きだ」と言った 次の瞬間に「話わけわかんねえからONE嫌い」と言うこともできる。 ONEが好き、ONEが嫌い、どれもどれかの要素に注目した結果であって、 この2つは同時に成り立ち得るのだ。

  んで、前に書いた文章の例をこういうふうな感じで考えると、 自分の好きなものを違う見方で好きなのは不快、とかいうのはつまり 自分の好きな要素と相手の好きな要素が違う、ということなわけで、 つまり自分と相手の好きなものが違い、自分の好きなものを 相手が好きと思ってないから不快、ということになる。 「常識」としての「良い」と「好き」の関係については この話とはそんなに関係がない。

  ようするに前の文章は、関わる要素がとんでもなく多いために 到底大腸菌と人間は同一視できないということはまあさておいて、 その極限で一つの要素だけ取り出してみれば 人間も大腸菌も同じようなもんだ、ということと、 人間は社会的生物なもんだから、他人と自分が同じあり方で存在していると仮 定していて、それ故に他人に自分と同じものを期待してしまいがちなんだろう、 という2つのことが書いてあったことになる。 前者と後者は関係ないことなのだが、 ついネタの流れからくっついてしまったのだ。 前者は単純な原理の積み重ねで人間と同じ知能が作れるんじゃな かろうかという人工知能がらみの話だったに違いない。たぶん。 それにしてもややこしいことはちゃんと考えてから書けという教訓ですな。

2000年11月10日

いっぺい曰く、「初めてC勉強した本って、"はじめてのC"なんだけどさー、 これってすごい題名だよな」。 言われてみりゃそうだが、気づかねえよ。

ソフトボール大会。出番はなかったに等しいが、みな大したものだ。 体を使う技はニュータイプといえども同じと言うが、 オレはニュータイプですらないのでだからなんだ。

柔軟体操を次々とあみ出して体を強化中。 これを続けていればいずれ頭上を蹴ったりできるようになるに違いない。 頭上が蹴れるくらいになれば、ローや前蹴りの際に破壊力を減らすような抵抗力は ほとんど働かなくなるだろう。ハイが蹴れてこそヤバいローが打てるのではないかと いう気が最近してきた。

太極拳に必要な基礎は筋力と柔軟性なわけで、他のものとなんら変わるところ はない。そこができてからが勝負のはずなのだが、 オレにはそこがまだできていないようだ。それができていなければ上達は どうしても遅くなる。ここらできちんと基礎を作っておかねばなるまい。 4年目に入る前に基礎を完成させておけば、後は技と精神を学ぶことに集中で きる。一度できてしまえば後はコンスタントに使い続けるわけで、 そう簡単に柔軟性は落ちないだろうし、どうせ習慣化するに決まっている。 種目は脚の裏側、股、腰背、広背筋、大胸筋、脇腹、腹筋、首のストレッチ、 それに腰背と脇腹の強化。背筋は定番の奴で、脇腹は横蹴上でそれぞれ攻める。 あとは下半身の安定性向上だが、 これは馬歩重り雲手で行こう。

重りから鉄粒がもれてきた。妙に軽くなってると思ったらまさかこんなことに なっていようとは。安物め。もっと重い奴を探してみよう。

なにげなくパッチ修正

うちのパッチで「このMIDIがまともに鳴らないぞ」というのがあれば、 どうか教えてください。 ゲームのMIDI以外まるで試してないので、ポピュラーなんかがどう鳴るか は全く不明なのです。しかしながら自分でそういうのを探すのもイヤなので、 誰かに教えてもらおうということですな。URL教えてもらえれば ヒマな時に回収して調整に使わせてもらいます。

2000年11月9日

晴子と言えば老人Z。そういえば看護してたな。

人間に自由意志なんてないんじゃないかと思う今日このごろ、 みなさまはいかがおすごしですか。 それはいいとして、自由意思なんぞないと思うとかなり楽になっていい。 たとえば、今日たまたまWEBでとある日記を読んで、そこからいろいろたどって、 で考えてしまって、下のを書いた。ここにオレの自由意思はあるのかといわれると 謎だ。そもそもWEBを見たというのは習慣であるが、その習慣も過去の 何かが原因になっている。リンクをたまたまたどる気になったのも、 論文を読む気がしないからで論文、ひいてはゼミというオレによらない理由が オレの現在の性格と相互作用してそういう気を起こさせただけだ。 性格に由来するものは自由意思としていいのが普通の定義かもしれないが、 性格がいかにして出来たかを考えればそれも怪しい。 オレに責任があるもろもろの事象も オレに自由意志がないと考えれば責任放棄でヒョッホウである。 ああ、「オレはオレだ。物理や遺伝子に負けてたまるか」 と本気で言えなくなった自分が気にくわない。 そしてそんなに気にくわなくない自分がけっこう気にくわない。 何か熱病にうなされるように物に打ちこむことができれば また言えるようになるのだろうか。

mozilla(netscape6)が使えるようになった。たまに起動しなくて、 ディレクトリを移ると起動したりして意味不明なのだが、 起動してしまえばまあ問題なく使えるし、日本語をいれても落ちない。 この段階でnetscape4より上である。というわけで、netscape4の放棄を決定。 と思ったら、落ちた。javaとjavascript切ったら落ちなかった。 まだそのへんはダメか。しかしjavaにもflashにもjavascriptにも用はない。 そんなもんがないと見られんようなサイトは 作者に見てほしいという熱意がないものと判断して良かろう。

遺伝子が犯罪に関係する度合はたいがいの場合(障害にならぬ限り)誤差の範囲で、 性格ですらおそらく誤差の範囲だ。歴史上犯罪者の子を皆殺しにするのが そんなには流行らなかったことからしてそれは妥当だろう。 影響がデカければ犯罪者の子孫を 皆殺しにするのがもっと流行ったはずだし、 子に罪はないなんて言ってはいられなかっただろうからだ。 あるいは、あったのかもしれないがそういう遺伝子は皆殺しにあって すでに残っていないと考えることもできる。 近親相姦が遺伝学のない時代からこれだけどこでも 嫌われていることを考えれば、けっこうそれっぽいのではなかろうか。 だから、今の犯罪は全て環境要因と考えて良いと思う。

前の段落とは関係ないが、最近凶悪犯罪が多いという。 ガキがやるケースが多いというが、ガキなんて頭悪いんだから 個性やら人権やらが浸透して脅迫観念のすりこみが減れば そういうことをやるに決まっている。 極端な行動を妨げるのは、すりこみと経験の2つであって理ではない。 ガキには経験がない。だからすりこみで止めるしかないのだ。 そのへんをわからず人権だ個性だ自由だなんだと言って 生ぬるいことをやっているからこういうことになる。 愛で世界は救えんよ。 あ、別に教室にたたみとか、ボランティア義務化とか、 そういうのをやれっていうわけじゃないからね。一応。 それにオレ個人としては自由と理で生きたいので、 子ができてもそういう教育をするだろう。その結果ヤバいガキになる可能性は高いが、 オレはそれを良しとするタイプだ。ダメだが、知らん。

わかりにくい、読みにくいと言われたので、一応頭を使って下のを書き直してみたが、 なんか違う話になった。まあいいか。しかし、ややこしいことを書く時には ちゃんと起承転結考えてから書けってことだな。ごめんなさい。 それと、ややこしいこと書く時にはちゃんと下みたいに見出しつけて 分けるようにします。

トナー、振ったらまた出た。やったぜ。

「ぴたテン」2巻まで。辛いかと思ったが、なんだ読めるじゃないか。 ものすごくおもしろいとは言わないが、普通にちゃんとしている。 今の精神状態がこういうのを許せるくらいおだやかだということか。 今なららぶひなも行けるぞ。うにに借りに行くか。

餃子のかえり、いっぺいがバッティングセンター。 そこで金属バットが折れるというレアな出来事に遭遇。 いっぺいによるとまずないことだと言う。いやいいものを見た。

結局好き嫌い

  AIRの評価割れてる。AIRに限らずそれはあたりまえだが、 今流行りなので自分を含めたWEBサイトではこういう話題が多くて目につくのだ。 で、その割れ方がおもしろい。 たとえば、 みちるに殴られるシーンから「日常はいいなぁ」というお題目を受けとる人と、 「日常云々は知らないが、そのシーンはそれとして感じ入るものがある」という お題目を拒否しようとする立場がいたりする。 オレは最近読んだもののおかげで後者の考え方が好きだが、 そんなオレも「うお、家族だ」とか「うお、幸せな日常」なんてのを AIRから感じるわけで、結局のところどうとも言えない。 また、実際はどうかというのを持ち出す人と持ち出さない人でも 割れている。「日常なんていいものか?そんなに賛美するんじゃねえ」という人と、 「実際いいものかどうかなんて知るか。これ見ていいと思ったんだから文句あっか」 という人。このへんで割れたりするわけだ。 もう話がAIRにとどまらず作品はどういうのがいいかという 一般的なことに話が飛んでしまっているのである。 なぜこうなるのかを考える上で重要なのが、 「好き嫌い」と「良い悪い」の関係ではなかろうか。

  生きる上で有利な方向が「良い」でイコール「好き」、 逆が「悪い」でイコール「嫌い」、というのがたぶん根本であろう。 大腸菌は栄養のある方に向かって泳ぐわけで、 これを「大腸菌にとって栄養は良いもの」 とも「大腸菌は栄養が好き」とも言える。同じことだ。 ただ、大腸菌と違って人間は社会というややこしいものの中で生きており、 その中でうまく生きるために個体の単純な欲求を抑えることが多くある。 その結果、集団にとっての「好き」と、個体にとっての「好き」を 分けて考えるのが便利だったに違いなく、 前者を一般的には「良い」と名付けるに至ったのであろう。 「良い」と「好き」が対立する場合には「良い」を優先するようにできてくるわけだ。 この「良い」が常識である。 しかしやっかいなことに、 なんぼ同じ集団にいても全然違った入力を経て育っているわけで、 その結果「良い」の概念も個体によって違ってくる。 所詮集団も自分が知覚する「他者」なのであって、そもそも一致するはずがないのだ。 一致するはずがないのに一致すると錯覚しがちなのは、 他人が自分と同じあり方で存在していると信じるのが 社会の前提である以上無理もない。 こうならないためにはみなが他人を自分に対しての作用だけで考えればいい。 他人に人格を想定する必要すらないわけで、当然価値観など問題にならない。 これが究極の個人主義なわけだが、人類はそういう段階には永久に入れまい。 マルチに人権は与えられそうにないのである。

  人間の頭はもともとそんなに複雑ではないので、 入ってきたものは全部「好き嫌い」の一次元軸上に置かれるようになっている。 そして、この「好き嫌い」の値は即座にイコール「良い悪い」になる。 嫌いなものは悪いのであって、好きなものは良い。 しかし、これをこのまま出すと相手の「良い悪い」とぶつかるので、 理性を使って相手の「良い悪い」を探り、違う部分では 「好き嫌い」という形で外に出す。「良いけど嫌い」というのは、 相手が「良い」と思っているらしい部分を探り、 そこを相手に合わせて「良い」と言う一方で、 そこを自分が「悪い」と思っていて一致しないので「嫌い」を 同時に使っているのである。実際には「好き嫌い」と「良い悪い」の区別は それほどできていないので、「好き嫌い」で言われても不快になり得る。 ただ、これは理性の下のレイヤの話であるからして、理性が十分に発達していれば 感じられるほど不快にもならないし、「良い」と「好き」も十分に分離される。

  この延長線上の話だが、 自分の好きなものを違う理由で好きになられると不快、というのも 自然なことだ。自分の好きなところを相手が好き と思っていないということなわけで、 全体としては同じ好きであっても、細かくわければ好き嫌いの対立になる。 理性レイヤの下では好き嫌いと良い悪いが同じなのは書いた通りで、結果 「オレの舞を汚されたような気がして…」という気分になることになるし、 「こんなの舞じゃねえ!」と勝手に怒ることにもなる。 「本当に同じものを見てるのか?」という疑問もそれだ。 この疑問には2つの前提が必要で、一つは「相手が同じ対象を見ていること」、 もう一つは「相手が同じ価値観で見ていること」なのだが、 後者はどうしても忘れがちである。ちなみに、価値観とはどこを見るかのことなので、 厳密に言えば価値観が違えば見るところが違う。つまり、価値観の違う人は 同じのものは見ていないのである。だから例の質問の答えは、 「同じものを見てなどいないのだ」となる。

  さて、こういうことを書いていると何か自分が天上界にでもいるような気分になる わけだが、やっぱりオレもその地上の有象無象の一つなのであって、 「AIRは美しいから好き」というのが至上であり、「ONEは放っておけないから好き」 というのが至上なのである。オレとしてはONEの消える云々はどうでもいい。 みさお話はオレにとって蛇足であって、みさき先輩や茜があんまりにも放っておけない 奴だから好きなのである。居場所など知らん。 そしてAIRもまた、 晴子さんの姿が美しいからこそ好きなのであって、 それ以外の因縁がどうだ呪いがどうだ、 萌えがどうだこうだは美凪を除いてどうでもいいのである。 だから、それ以外の仕方で好きな人とは 究極的には相容れない。建前はさておき自分と違いすぎる評価のしかた をする人にはオレは物を積極的に勧めることはないし、 むしろ触れられたくないとすら思う。 まして「KANONは人を殺す話だからなぁ」とか言われると腹が立つ。 立って悪いか。 しかしその一方で、「言われてみればそこも確かにすごい」とか 「そんな愛の形もあるか」という感動があるので やっぱり人の感想はおもしろいし、こいつはどう思うのだろうという好奇心も働く のである。

  要は、人はみんな違うのは重々承知してるけど、 たまに共有できたらなんかうれしいよね、ということだ。 この広い世界、自分とかなり似た人はいるかもしれないし、 あんまり輝きの強い人に出逢ったら自分もそう変わっていくかもしれない。 違うんだという認識をあきらめにせず、そこからどう高みを目指すかが 人の生きざまなのだなぁと大袈裟に思った次第である。

2000年11月8日

原稿K終了。原稿Uに入る。しかし、自分がどういうものを作ることを 期待されているのかがわからないほど恐ろしいことはない。 だいたい想像はつくが、もし外していたら…。 人の評価が気になる小心者め。

ゲームをやるヒマがない。やりたいゲームが借りられないというのもあるにせよ、 やはりヒマがない。 同人のKANON RPGなんかもおもろそうなのだが、そういうネタものは 優先順位がどうしても下がってしまう。そんなヒマがあったら 勉強と漫画と拳法とプログラムをやらねばならないのだ。 加えて借りている小説もまだ30冊近くある。 とここでギャルゲーならいいのかと言われると困るが、いいのだ。 オレの見識を深める役に立つ、という理由にしておこうか。 操作が楽しいとか、作業が楽しいゲームも本来は大好きなのだが、 この自分を鍛えるのに忙しい時期にそんなことはやっていられないのである。

午前11時半。手違いで夏影をまだ上げてなかったことが発覚。 万が一ブチこわしてしまったら大変なので、上げるディレクトリ から外にコピーした奴を編集していたのだ。んでそのまま。 てなわけで、これより前に落とした人は何も変わってません。ごめんなさい。 4時ごろにこれに気付いて上げたつもりになってましたが、 どうもそん時もちゃんとあがってなかったみたいです。 パーカッションがなかったら旧バージョン。

冬と認定。コタツシフトを行う。ちなみに、サンダルでいられなくなった時が真冬。 北海道感覚で言うならこんなのは生ぬるいのだが、ここは京都だ。

ところで、KANONは実に冬をナメている。 あのスカートは都合上許すとしても、真冬に外でそんなことができるほどぬるい 北国があるものか。まして防備もなく外で寝ようものなら確実に死である。 というわけで、あの舞台は北陸と断定。麦畑とかの背景の感じは かなり北海道なイメージだが、一体どうなのだろう。 北海道をナメるなと道産子の一人としては言いたい。

そういえば南国ギャルゲーはあまり見ない。 また、季節で言うと春とか冬が多い気がする。 夏はダメか。まして秋。 一番ダルい季節だからこそいい雰囲気が出るような気がするが、 その点いちょうの舞うころは見事だ。 そういえば2はどうなのだろう。噂を聞かない。

ところで、TMIDI PlayerとTIMIDITYは関係ないのでそのへんよろしく。 前者はMIDIデータを音源に送りつけるソフトで、つまりプレイヤー(らしい)。 後者は音源そのものだ。

TIMIDITYをWINDOWSで標準MIDIデバイスに設定する方法を調べてみよう。 これができるとMIDIの入ったゲームが楽しくなる。 例えばとらハとか。SB32も悪くはないが、やっぱり悪い。

コミックマスターJを4冊読む。かなりおもしろい。 チャチャが多めの島本、といったところか。 しかし、漫画は大変だ。何か自分しか作れないものを作って それでメシを食うというのはすごい。

2000年11月7日

部誌修羅場終了後、もりりん氏、長月氏とスパゲッティ屋会談。 頭のいい人には勝てねえということがわかったが、 頭の悪い人には悪い人にしか気付かないことがあるのであって、 それもありなのであった。ところで自分がふぬけていることを再確認して がっかりする。毎月8ページの連載をしていたなど夢のようだ。 いろんなものにエネルギーを吸われてやる気を失っているのである。 それはもちろん言い訳で時間などなんぼでも涌くのだが、 人間弱いものでそれを使うことができない。 オレがこんなこと言ってるあたり本当にふぬけてしまったようだ。

一番楽しいのは視野が狭くなってまわりが見えなくなるくらい 一生懸命あることをやっている時だ。 後から考えてみるといろいろ頭が足りなくてバカバカしいが、 それが楽しいのである。のんべんだらりと薄めた楽しみに価値などあるか。 水で薄めたグレープフルーツジュースはマズいではないか。

ささやかな日常の幸せがどうとかよく言うが、 気づかんでのんべんだらりと過ごしている日常がいいという意味で あって欲しくはない。 日常のささやかな出来事を、懸命に生きるのがいいのである。 ダラダラしていてはつまらない日常をも、おもしろく変えようとする 努力と姿勢がいいのである。 たいがいの人はその人生の9割以上の期間が日常なのだから、 その莫大な時間を充実させることに努めた人こそ幸せになれるのだと信じたい。 幸せは気付かなければ幸せではない。 不幸じゃないことを幸せと言うのは少々ロマンに欠けるとは思わないか。 せっかくこんなにぬるい国に生まれたのだから、それを最大限に生かすべきだろう。

あずまんが2巻。大阪率と胸率が大幅アップ。しかしそれとは関係なく なんでこんなにおもろいのだ。 いや、おもろいというより、いい。何かいい。何がかはわからん。

13日のゼミ発表のための資料集め。10や20の論文は読まねばならない。 というわけで明日は朝から晩まで図書館決定。 みなはたいがいそんなことはしておらず、検索で目についた奴を2個くらい読んで まとめるだけなのだが、それではおもしろくない。 自分と関係のあるものといえばDNAチップなので、 これに関する論文をねこそぎさらって読んで 原理、使用法、展望、応用例、とまとめて発表する。 どうせやらねばならん勉強ならこういう機会を利用した方がいいし、 その時の副産物としてみなの度肝を抜くのは悪くない。 保存版にできるくらいの資料を作ってやろう。 ひょっとしたらこの道で食うかもしれんのだ。

太極拳をやる上で基礎的に必要なのは、強靭な足腰、強靭な腰背、 そしてなにより全身の柔軟性である。 体中全ての筋肉がかなりのレベルで柔くないとダメなのだ。 中でも重要なのが、腰から肩にかけての体幹の筋肉で、 前後左右に左右のねじりを合わせた6つの運動の可動範囲が直接に効いてくる。 脱力ができたところで柔軟性が低ければ摩擦が大きくなって威力は出ないのだ。 こんな致命的なことがはっきりわかったのはつい最近である。 2年前にこれがわかっていれば今ごろはもっとパンチが飛んでいただろう。 「やわらかくないといけない」とは何度も言われたが、 つい脱力のことだと思ってしまっていたのだ。

唐突にエクスプレッションの使い方がわかった。 これでだんだん大きくなる音を使える。

夏影改良。エクスプレッションとパーカッションを追加。

2000年11月6日

純正調対応MIDI打ちこみソフト作りたいなぁ。 ピアノを純正調で鳴らすなんて、すごいロマンだ。 電気ならそれができる。

部誌用漫画1ページ。描いてて自分の頭の悪さが快感。 これのとあるヒトコマを後でトップ絵にしよう。発行後ならいいよね。

2000年11月5日

今週の浦安はどうか。いや、いいのだが。刃牙ネタは誰でもやりたくなるものだ。 ところでその刃牙だが、加藤が一週を生きのびた。何週生きのびるかで賭け をやっている奴とかいそうである。

電撃姫のAIRインタビュー。シナリオがモザイク状でいろんな人の手が入っている という。このキャラが誰、とかいうんじゃないらしいのだ。 過去編はまるごと涼元氏なようだが、他はけっこうバラバラだという。 それにしてもさすがに彼らはプロらしい。 プロたろうとしているのにプロっぽくないところが出てきてしまうあたりが、 またプロっぽいではないか。

二郎吉祥寺店の写真を発見。二郎系のホームページってけっこうあるんだな。 だが、吉祥寺に限って二郎そのものや 二郎の店内を写した写真はまるで見当たらない。さすがだ親父。

遠近法でハマる。普段まともに背景を描いていない罰だ。 背景は大切ですはい。背景なくてもいい漫画もあるが、ないと困るものを描き たくなった時に描かずに済まそうとするのは怠慢だ。今回はそういう時。

一人でやってるゲーム会社があるらしい。 噂にならぬところを見ると物はそれなりなのだろうが、 一人でやっているというのは驚きだ。元々二人だったのだが、 一人が脱落したのだと言う。「やる気あんのか?」「すまん。なくなった」 ってな感じらしい。どこも大変だ。

ところで、世の中には頭数と進行度が比例する作業とそうでない作業がある。 後者の原因は、個人の能力差のために足をひっぱられて効率が落ちるのと、 多人数の調整に余計にエネルギーが割かれるからである。 その無駄を最小限にしつつ多くの人を使って規模の大きいことをやるのが 団体運営の真髄と言えよう。そもそも人が多様であるから複雑になって無駄が出る。 人を多様とみなさなくて済むようにすれば、それだけ単純になって扱いやすい。 そのためには必要とされる能力をできるだけ狭く限定し、 個人に要求するレベルを下げれば良い。 プログラムのモジュール化と似たような発想だが、使える資源が人間であって プログラマ(雇用者、統轄者)がそれを左右できないあたりがより深刻であろう。 現実のおもしろみの多くは人が多様であることによるが、 おもしろさ以外のところでは困ったちゃんであることが多い。 優れたプログラマが自分一人で 美しい秩序を構築することにのめりこむのもよくわかる。

「失敗したら死ねばいい」と隆慶一郎の小説にあるが、 本当にそう思えるようになったらさぞや人生はおもしろくなるだろう。

臭い物質のうちある種のものはビニル袋を貫通する。 魚をさばいた後のゴミを捨て忘れ、袋に入れて口を堅く結んでおいたのだが、 にもかかわらずその袋に接していた布が腐臭に包まれていたのである。 部屋にもそれがかすかに漂っており、ゴミの日まで我慢しきれず 秘かに処理してしまった。というわけで魚をさばくのは ゴミの日の前日に限るべきである。最悪の場合でも熱を加えて腐敗を遅らせる必要 があるようだ。 ところで明日はゴミの日の前日な上に修羅場明け。 オレが漫画を1ページでも提出できそうなら タラでも一匹買ってくるか。そろそろ出回るころだろう。 自転車のならしにもなる。

弟からのメール。
「キーボードぉ?あぁ、ありゃだめだ。 一ラウンドでユリーに壊されておしゃかになっちまったよ。」
「音もでないしわからないッす。 自分は横綱ッスから...。」
いい弟を持ったものだ。中三でこれならさぞや立派な大人になるだろう。

2000年11月4日

小説が、ダラダラ日記を書くのとははるか別次元にある行為であることが よくわかった。学ばねばならないこととか、守らねばならないことが 漫画よりもずっと多い気がする。頭よくなきゃ書けないな。これは。 台詞だけつながってるようなやつならいいが、地の文でちゃんと状況を 説明するのはあまりにむつかしい。あとは漫画でもむつかしい場面転換が 余計にむつかしいのが困る。

KANON真琴CD。なんで声がつくとこんなに恥ずかしいのだ。 うさんくさいくらいかわいい。 むしろ、かわいすぎてうさんくさい。それにしても、 こんなに恥かしいシナリオだったんだな。 しかし、この演技はうまいがやりすぎだ。いや、すごくいいんだが。 つまりだな。嫌いじゃないしむしろ好きなんだが同時に辛いんだ。 わかるだろう?

1535字。一行30字で80行。このへんで良しとしよう。あとはカットを書いてから もう一度推敲して。なんとか今日中には片づきそうだ。 そうすれば漫研の修羅場に半日くらいは参加できる。

自転車を買った。 買ったのはマウンテンバイクと一般車の間みたいなタイヤのついた奴だ。 ドロヨケもついていたが外してもらい、えらくシンプルになった。 荷台はつけたので、こいつがドロヨケ代わりになってくれるのだ。 しかし、傘差しながら走るのが不可能なタイプの自転車なので、 結局雨がっぱを使うことになる。つまりドロヨケなんでどうでもいい。 それにしてもこんなに違うのかと思うくらい走り心地が違う。 なるほどと思った。ちなみにこの自転車は工具なしでタイヤを外せる便利な機構に なっている。研究室に行く時に前輪を外して持ってゆけば、 変人の称号と引きかえに盗まれる率が下がる。鍵も閉めるが。 さあ、クーラーボックスをくくりつける手段を考えよう。 ところで、サカイが2回くらい必要。

なお、店の人によると自転車を入れる袋というのがあり、タイヤ2つを外して コンパクトにすれば運ぶのもそう大変ではないのだと言う。 そのためにもタイヤが簡単に外れるのはいい。 総重量もたかだか15キロである。 奈良行く時に駅からはかついで運び、山田川から自転車、ってのはかなりアホだが 同時に魅力的だ。 バス代分(780円)得するし(国家の金だが)、 あのバスを待つことを考えればかえって早い。 包丁同様に愛用することにしよう。

最近柔軟がいい。やっているのは股割と、脚ののばして座って上体を倒す奴と、 立って腕を水平にのばして上半身を回すやつ。脚は上がるようになるし、 背中もやわらかくなってパンチも飛ぶ。 最後のは重りをもって馬歩でやれば同時に下半身も鍛えられる。 あとは雲手で背筋をつけつつ理を学び、移動稽古で全身をほぐす。 ちなみに、自転車も役に立ちそうだ。 背筋を使わざるを得ない姿勢になるのが良い。 腕に負荷がかかるが、これも工夫すれば広背筋を使える。 体が強くなるのはなんと楽しいことだろう。 年とともに失われない技のためにもそういう基礎がいる。

クライブ・パーカー「ミッドナイト・ミートトレイン」。 スプラッタホラーだ。機知に富んでいて演出も心にくい。 とても「うまい小説」である。

道場。最近筋トレと柔軟のおかげで調子はいいが、 その一方で太極の精神を忘れていた。 物を殴ろう。

2000年11月3日

漫研の人々が今修羅場をやっているらしいということを聞いて、 明日が休みであることに気付いた。原稿Kを終わらせよう。 そうすれば部誌に参加できる。

Cで書かれている掲示板を発見。ありがとうJAG。 で設置してみた。が、いろいろ使いにくい気がする。 速いのは確かなのだが…。 ちなみにファイルをどうやって保存してるのかなと思ったら、 番号ファイル名のファイルがドカドカ置いてあるだけだった。 これでもこんなに速いならいい気もするが、 果たして書きこみが何百件たまってもこの速さを 維持できるのだろうか。

ともかくも、light BBSが遅いということがよくわかった。 そして、486DX-50でも十分な速度で動くものが作れることがわかった。 やる気が出る。

もう一個もってきてみた。こっちは設置に手間がかかったが、 使い出してみるとよさそう。さて、どうかな。

文字コード対応ダメ。無駄に画像。形式が変で設置が面倒。やめだやめ。 というわけで撤去。

真琴CD部分的に試聴。みしおの話し方が妙におかしかった気がするが、まあいいや。 名雪はやっぱ辛いです。真琴は良し。

弟のリクエストで AIR夏影MIDI。 我ながらそこそこ良くできたとは思うが、 他でどう鳴るかが不安だ。これをピアノオンリーにするには、 かなりのアレンジをを加えねばならないのである。 なお、まだ音量調整、表情付け、音色調整、パーカッションなどを 処理していないので、もっと完成度を高めることもできる。 やってほしい人がいたらやることにしよう。

小説むつかしい。まして短いのはかなりむつかしい。 縮めても縮めても3KBを切らない。 そして縮めれば縮めるだけ描写が減る。 どうすれば最小限のテキストであれとあいつのすごさを伝えられるのか。 特にあれを知らない人にあれのすごさを伝えるのはむつかしい。 このままじゃすごいのはあいつだけで、あれのすごさが出ない。

2000年11月2日

失敗。ショートして電極がコゲた。プラスチックが微妙に変形してしまったので、 カッターで削ってとりあえず使えるようにはなったが、見た目にコゲている。 あれ、35000円するんです。長さ20センチのプラスチック棒に 針金がついただけのものが。これだから研究用品はイヤだ。

先生がいないので、相談は明日。何か先のばしにしてる気分。

自転車を調べてみたが、高いのと安いので何が違うのかすらわからない。 しかし一つ収穫があって、世の中には自分専用のを組み立ててしまう人が けっこういるということがわかった。普通の自転車でも完成した状態で出荷 されるわけではなく、店である程度は組み立てているのである。 しかし、だからといってそんな金はない。

やけにニブいカラスが一羽。 車によけて通られるほどのニブさだ。 がんばって生きろよ。

オレの内部の美凪のイデアを強く分有する同人誌を作りたいものだ。 みんなの美凪のイデアを想起するようなものにできるとうれしい。 なんて、イデア用語使うとうさんくさくていいなぁ。 ちなみにこれを普通に書けば、 「オレの頭の中の美凪が爆発してる同人誌つくりてー。 みんなが、うおこりゃ美凪だ、って思うような美凪が描けるといいなー」 となる。

プラトンがイデア論をどんなもんだと思っていたかはよくわからない。 普遍的な「椅子そのもの」がそのへんの椅子とは別にマジで存在してい るという電波な思想だという説もあれば、 所詮人によってイデアも違うものではあるが、 共通の認識、最大公約数的なものとしてイデアというものを設けてみました、 という程度だという説もある。 冷めた人間が善のイデアとか美のイデアとか言いだしはしないだろうから かなり前者っぽいのだが、 年とともに弱気になって後者に近くなっているという話もある。 プラトン先生も苦労したんだろう。 ところで、前者の説を悪い頭と行きすぎた先入観で推しすすめたのが 初期のキリスト教神学だと言われている。 神のいるところ=イデア界というわけだ。 もっとも、こういう哲学な思想というやつは訓練を積んでいない人には わかりにくい。イデア=神の世界、とか言ってしまうと訓練してない人でも わかった気になれるので、ついついそういうのが普及してしまうのだ。 カッバーラーやら密教やらも認識やら思考の形式について考えたもんであって、 即物的に世界のあり方がどうとか言っているものではないらしいのだが。

無駄にサイズがデカいもんをみて「それに比べれば自分はちっぽけだなぁ」 とか思うのはかなり意味不明だ。比べることに意味がないからである。 しかし、それで救われる委員長がいるのも事実であり、 なにかを捨てるきっかけとしては悪くない。 「空手やったってライオンには勝てねえよ」というのは、 ライオンに勝つために空手をやっていない限りは無意味な言明だが、 空手をやめようという意思がある時であれば、 そう思うのも意味があるということだ。 さて、オレは何にでもなれるという幻想を捨てる時がきたわけだが、 こういう時こそ「宇宙はでっかいなぁ。それに比べればオレなんか小物さ」 と思えれば夢を捨てることができるわけである。 でも思えねえよなあ、いっぺい。 誰しも一度は世界最強を求めるものであろうよ。

オレに一流のプログラマーになることを強いてくれる会社に入りたいものだ。 一流のプログラマにしてくれる会社、とは言わない。 情報学科に入り直したいがもう遅いし、基礎や動機さえしっかりすれば 「独学+身近によく知っている人+脅迫観念」の方が速いのは今までの人生で よくわかっている。

自転車屋でズバリ聞いてみた。「頑丈でムチャに耐えるのはどれですか」。 「手入れすればどれでも保つし、手入れしなきゃすぐダメになりますよ」。 オレが間違っていたようだ。 いいものほど何をやっても壊れないのだと思っていたのだが、 自転車はそういうものではないらしい。 基本的には、高いのは快適だからであって頑丈だからではないのだ。

なお、高い自転車が高いのは高い部品のためらしい。 基本的にブレーキやフレームや車軸は手入れでどうにかなるものではないので、 そのへんは高いものと安いものでは雲泥の差なのだそうだ。 なお、マウンテンバイクは一見頑丈に見えるが、 手入れをちゃんとしないとみるみるうちにダメになるという。 その点では普通の自転車よりはるかにタチが悪い。 加えて6万くらいするようなものでない限り部品やらなにやらで手抜き をしているらしく、 まして普通のと同じ値段で買えるようなものはとても勧められないという。 その店に置いてあるものの大半が4万以下で物によっては 2万を切るものまであるのだが、そういうものを買う人は通ではないと 言いたいのがバレバレな態度だった。 それにしても一体どうしたらいいというのか。 このへんの自転車屋はおおかた回って中古がロクにないことは確認済みなのだ。

市に電話をかけて自転車のリサイクルをやっていないか聞いてみた。 やってなかった。

風雲児たちの作者(みなもとなんとかだった気がする)が同人で活躍しているらしい。 知らなかった。今度コミケに行く時は探してみよう。

世の中間違っている。C-REVOにとらのあなの人が来てジャム本をもっていった のだが、何の間違いか発注が来てしまったのである。 50部といえどもあれに発注がくるのはおかしすぎる。 そもそも卸値が250の7割で175円(300円だと210円になって原価を超えてしまう)。 一冊75円のもうけにしかならず、仮に50部売れても3750円のもうけにしかなら ない。そんなはした金のためにわざわざ貴重な店の一画を 費そうというのか。あの会社本当に大丈夫なのか? それよりなにより問題なのは、あれをもう一回印刷せねばならないということ だ。そんな金、どこから?そして50部では元がとれないから100部刷らざるを 得ない。元がとれるためには最悪で62部売らねばならないわけだが、 すでに買う人は買ってしまっただろう。どうやってそんなに売るのだ? しかし、ここで引きさがってはおもしろくない。 せめて仕上をして穴埋めページの体裁も整えてから出そう。 穴埋めを差し変えたりページを増やしたりすると契約違反になる可能性もある ので、それくらいにしておく。

既知街は正しかった

  「デストロイヤーの誕生(サビア&マーフィー、佐和誠訳)」。 読んでみた最初の印象が見事に「既知街?」だ。 あれを読んだ時にはなんぼ翻訳でもこんなにヒドくはないだろうと思ったものだが、 オレが間違っていた。あんな翻訳があったのである。 さすが菊地研一郎氏と言う他ない。 さしあたってまずは中表紙にあるあらすじを見ていただこうか。

殺人の濡れ衣を着せられた警官ウィリアムズは無罪を立証できぬまま電気椅子に 送られたが、それは秘密組織<CURE>の仕組んだ罠だった。 その組織は病めるアメリカを治療(キュア)するために作られ、 彼を冤罪に陥れたのは、蘇生させた後、冷酷な殺人機械に仕立てるためである。 ありとあらゆる殺人技術が教授された。 特に一東洋人の教える空手は彼を一個の凶器に変えてしまった。アメリカをか ら護るべくウィリアムスは独り敢然と死地に赴く(以下略)。

  かなり恥ずかしいが、時代を考えれば無理もない。が、やはり恥ずかしい。 ちなみに東洋人の名前はチウン (後書では訳者によって朝鮮人と断定されているが、そんな説明はない)。 武器を奪われた農民が立ちあがるための技として達磨大師が伝授したのが 空手の起源だと言う。「オープン・ハンド=カラテ」という説明もあり、 原書にはKARATEと表記されていたのだろう。 また、数週間か数日かはわからないが、ともかくもその程度の期間で 合気道と空手を殺人に使えるほどになってしまうあたりが 東洋の神秘である。ところで話を蒸し返すようだが、 やはりこの本のウリはこの文体だ。 こういうのを多く読んだ人が既知街を読むと、ああ、と思うのだろう。 オレは逆だったがそれでもかなりおもしろがれた。 なんとかそれがわかる個所を引用したいところではあるが、 どこを読んでもそうなのでどうしていいかわからない。 ともかくぱっと目についたところの台詞だけ引用してみよう。 濡れ場直後の会話である。

「こんなふうだなんて思ってもみなかったわ、わたし」
「ああ、ほんとだね」
「恐ろしかったわ」
「さあ、もういいじゃないか」
「あんなふうだなんて思ってもみなかった。あなたがあんなに強引にやるんで すもの」
「わるかった、ディアー。ただ、 きみを愛していたんでつい夢中になってしまったんだ」
「セックスだけだったのよ。あなたの狙いは」
「それはちがう、きみが欲しかったからだ。形而上学的な、全宇宙的なきみの すべてが欲しかった」
「セックスよあなたの欲しかったのはそれだけじゃない」
「とんでもない。結婚したいくらいだっていうのに」
「当然でしょ、結婚するのは」
「そのつもりだとも」
「わたし妊娠しちゃう?」

  間の地の文は省いたが、あってもあまり印象は変わらない。 男女の会話に限らず始終こんなである。 元の英語はだいたい想像がつき、英語だとそれほど違和感はないのだが、 日本語になるとあまりに妙だ。 ちなみに、そんな文章なのでわかりにくい上に到底おもしろいとは言えないし、 話そのものは先に引用したあらすじの通りである。 アメリカでは百万単位で売れたらしいが、 ベストキッド(原題:KARATE Kid)がヒットする国であるからして不思議はない。 最後の殺し方が車ごとスクラップ機でプチ、 というのが少々おもしろかったくらいか。 クライマックスの殺しが空手じゃないあたりが 何をしたかったのかよくわからず、非常におもしろい。 というわけで道場の先輩には悪いが、これはネタ。

2000年11月1日

とらハ3の発売予定が12月になってた。しかし、 のばしてでも完成度を上げてくれるのならむしろ歓迎したい。 あのシリーズに欠けているのは完成度なのだ。 ところで、AIRに黒幕がいたように、誰かとらハ3の黒幕になってあげてください。 自分の好きなものの欠点が減るのは喜ばしいことで、 それだけ自信をもって人に勧められるのである。

CDを焼こうと思ったら焼きソフトが入ってなかった。 CDをひっぱり出して入れようと思ったら、 CDが割れてた。オレは知らないうちにどんな酷い仕打をしたのだろう。 殴ったり蹴ったりした覚えはないので、たぶん踏んだものと思われる。 というわけで焼きソフトを調達せねばならない。

中間報告の最中ヒマだったので背筋の具合を確かめていたのだが、 恐しいことに左右でまるで太さが違うことに気付いた。 2年半に渡って右パンチばかり練習していたものだから、 つい左背筋だけが太くなってしまったのである。 上体を前に倒した時にも、左背筋だけでほとんど支えてしまっていて、 右背筋はあまり使われていない。これはいけない。 かといって、 急速に右背筋を鍛えると左背筋とは質の違うものになってしまう恐れがあるので、 筋トレすればいいというものでもないのである。 ここは「両方均等に鍛える」が正解だろう。 重い物を手首に巻きつけてえんえん雲手をするのが最良だ。 左右の背筋を別々に使うから、いずれ右も左に近い太さになる。 運動量が左右で同じなら、負荷は弱い方にとってはより大きくなるだろう。 左パンチが飛ばないのも、左に重い物を持った時に妙に腕が疲れるのも 右背筋が弱いからだったのだ。ちなみに、階段を上がる時にも 右足が妙に疲れる。右背筋が弱いために脚力を使わざるを得ないからだ。 背筋が強化されれば階段も楽々になるし、自転車も脚を疲れさせずに 乗ることができるのである。便利よ太極拳。

ようやくサークルの方針が立ったようでめでたい限りである。 1/21サンクリ合わせで楓本、3/18サンクリ合わせで表紙カラーのAIR本とのこ とだ。

タダ配り本は、偶然に通りがかれば手にとることができる。 WEBのファイルは、まず偶然に通りがかることはできない。 同じタダでもそこが違う。どちらを良しとするか。

ボスから就職どうすんのか早く決めろと言われた。 博士に行くなら行くで4月までに研究チームの編成も考えねばならないし、 そのための論文の用意もあるわけで どちらにせよ急がねばならない。さあどうする? とりあえず名前を知ってる企業のサイトでもてきとうにのぞきまくってみよう。 一生モノだからよく考えろとは言われるが、 何を考えるのだ?調べて済むことでもあるまい? とにかく、オレが何をウリにできるのか、何をウリにしたいのかを考えねばな らない。それも早急に。

ボスから3月の農芸科学会での発表も視野に入れておいてくれともいわれた。 一度に二つの話をするな。どっちかにしてくれよ。 どうやら中間報告でのハッタリが効きすぎてボスを調子にのせてしまったらしい。 ハッタリといってもそれは話し方のことで、 モノはちゃんとやったので後ろめたいことはないのだが、 あまりにデータ処理の話を詳しくしすぎて、オレしかできないような印象を 与えてしまったようなのだ。悪いことにボスを含めてうちの他の連中は ほとんどコンピュータに関しては素人なのである。 オレの後を引き継ぐ人間のことを考えると、 オレに道を完全に作らせて、後から来る人間がブラックボックスの中を 気にせずに済むようにしておきたいということだろう。 DNAチップ解析の常道を確立し、人がすべきでない作業を自動化するという作 業をうちの研究室でできる可能性があるのは確かにオレだけである。 他の研究室の人でやっている人はごまんといるだろうが、 そういう人の作ったツールが公開されているのは見たことがないし、 論文を読んでも系統だてた解析をしているものはあまりない。 もうオレにはこの道しかないのか。 バイオインフォマティクス(情報学的手法を応用した生物学) やってます、なんていったらそこそこウリになるのかもしれんな。

わかった。明日先生に相談しよう。どっかいい企業ないすか、って。 OBやら友達やらのコネを総動員して探してくれることだろう。 オレが背広着て街歩く光景をこんなに早く見ることになるとは思わなかった。 またもこうやって状況に流されていく。オレの自由意志など ヒマな時間を何に使うかを左右できる程度のものなのだということだ。 もうオレに全能性はないのだということを認めねばなるまい。

4月から当然新しい4回生がくる。一人くらい手下に欲しいな。 オレが苦手な手を動かす作業をやってもらって、 オレは頭を使うだけ。しかし、その前に教えられるだけの スキルは見につけねばならないわけで、そればかりは仕方ない。 というわけで二次元電気泳動の毎日。明日は朝7時から。


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