日記

2000年3月29日

入学手続きを済ませてしまって、これでオレも大学院生。

今日の夕方には福島に向かう。金に糸目をつけない方法でだ。

清水が来て、雫のどこがいいのか聞かれた。 そりゃいろいろあるだろう。しかし、おそらくそれと同じくらい ダメなところもある。しかし、好きな奴は好きなわけで、 好きな奴がなぜ好きなのかなど説明できるはずもない。 結局、オレに雫が合っていて、清水に雫が合わなかっただけのことだ。 無理に漫画を描けなどとは言えまい。

無理をするのはよくない。しかし。

いろいろ大変だ。これから研究室行ってサンプルの引き継ぎ。 それが済んだら一路福島へ。 というわけで、4月2日はまかせたぞ。まさしろ。 ブツはあそこに置いてある。

誰か4月2日に大阪で売子をやってくれる身内の人がいたら まさしろに連絡してやってください。 交通費、メシ代は支給します。オールジャンル系なんで KANONに興味のない人もいろいろ見てまわれると思います。 どうか、お願いします。 それでは。

2000年3月28日

20000。近頃更新が日記くらいなのでなんとかしようとは思っているのだが、 やはり同人が優先になるのでしんどい状態。 昔の本の漫画をここに置いてもいいのかもしれないなとは思うのだが。

魚輸送用断熱容器を見に行ったところ、2480円と安かった。 買いはしなかったが、次に市場に行く時までには買っておかねばならない。 これがあれば、東京まで食料を運ぶことすら不可能ではない。

漫画。ネタはあるし下書きも即座にできるのだが、 残念ながら事はそう簡単ではない。 予定では今日あたり下書きをしているはずだったのだが、そうもいかなくなったのだ。 仕方ないので、プログラムでも打ちながら小ネタを練ることにする。

2000年3月27日

「ねみー。ダリー。腹へったー。疲れたー。やる気ねー」。 寝たら直るんだろうと信じて寝る。

決断をするのはやめた。 つまり進学するということだ。 進学する理由と、進学しない理由は ほとんど同じくらいの重みをもっている。 ということは、流れに逆らわねばならん分だけ進学しない方が労力がいる。

本年度もあと4日。4月からは新生オレになる予定なので、 今のうちにせいぜいイヤなことでも起こってくれればいい。 しかし、これ以上何もおこらんでも、 ここまでで大体「新生オレ」の方針は見えてきている。 「楽をしよう」ということだ。 どーでもいい雑事にけずられた残りを、どれだけやっていて楽しいことに まわせるか。そこに全力をあげることにしよう。

帰ってこいといわれた。ばあちゃんじいちゃんが会いたがっているらしい。 どうもオレが坊主になったという情報が漏れたようだ。 それでなくても進学する年の春である。 オレにしてみれば院など5年生と大して変わらないくらいのことだが、 向こうにしてみれば大学に受かるのと同じくらいデカいイベントらしい。 というわけで29の夕方から2日まで福島に行く。 時間を惜しんで金に糸目をつけない方法でだ。 それでも下書きくらいはむこうでやらざるを得まい。

やっぱそうか。決心がついたので小説をけずる。 人に見せる覚悟もついていないものを見せるのはやめだ。 のせるにしてももっと練ってからにしよう。 さあ、漫画かくぞ。おもしろいって言ってくれる人が少数でもいるのだから。 といっても、オレは一生懸命かんがえて描くとダメらしいので、 そのへんがむつかしい。

東京日記

  23日。まさしろと18切符で東京へ向かう。

  23日夜。アホの家で小松師匠、アホ(良月)、オレ、まさしろ、ウシオ の5人でダラダラした。本当はとあるところへ行く予定だったのだが、 考えたくなかったので、結局いかなかった。 まあ、それはいいとして、この前印刷屋に頼んだ本が出来ていて、 それをネタにウシオや小松師匠にいろいろと聞いた。 それで、本の構成をもっと考えねばならないということがよくわかった。 漫画で埋めようとせず、文章やイラストなどで読者の読むテンポを意図的に 操作する工夫がいるということだ。次の本では凝ってみよう。 ところで、本の値段設定の話なのだが、 「安すぎるとその程度のものと思われて手にとってもらえないことがある」 といわれた。48ページ500円。確かに他のサークルは28ページの本でも 500円とかで売るし、同じページ数なら700円が普通だ。 同人には同人の世界法則があるのだろうが、 高い方がいいということはないような気がする。 値上げしたことによって利益はあがっても、 はける冊数が増えることはあるまい。 オレはそう思うのだが、どうなのだろうか。

  そういえばウシオのところも新刊を出すそうで、ちょっと読ませてもらった。 格闘系の女の子キャラ(綾香とか、カンナとか) が刃牙の地下闘技場で乱闘を繰り広げる漫画だ。 うまかった。ネタ性も高い。あれは人気が出るだろう。

  24日。昼までダラダラして、その後その新刊をもって秋葉原のとらのあなという店に 売り込みに行った。同人誌の販売委託をお願いするわけだ。 小松師匠が仲介してくれたので、 なんということもなく終わった。

  とらのあなの売場を見ている時に、ふと妙な曲がかかった。 渡辺宙明っぽいがそれにしてはヘボい作曲。 クソあつい声は、串田アキラ。 そして妙な歌詞。これがとらのあなのテーマソング「とらのプライド」である。 「ホビー、コミック、そして同人誌ー、愛をもとめー、 ここに集うー。君の夢にアクセスー。とらーのあなー」。 ものすごいダメさで、頭に即座に焼きついてしまった。 串田アキラも多少衰えたとはいえまだまだ歌えるようでうれしい。 いずれとあるルートでCDが手に入るだろう。

  とらのあな。同人誌委託販売業者。店のなかはあたりまえだが同人誌まみれである。 そして、ほとんどはパロ。そのさらに大半はエロ。 対象は明らかに成人オタク男性のみという店だ。 そんな中にポツンと我々の本が置いてある。 この状態で買う人がいるのだろうかといぶかしんでしまうが、 事実一週間で12冊売れているのである。 軌道にのったと言ってよいのか。

  24夕方。二郎に行こうということで吉祥寺へ向かう。 だが、あまりにもダラダラしすぎた結果、秋葉原を出たのが4時半。 二郎がしまるのは5時半あたり。 というわけで、間にあわなかった。 まさしろのがっかりっぷりがすごかった。 二郎は伝説にしたいほどのラーメン屋で、 オレが度々「あそこはすごい」と言っていたからである。 次の日は宴会なので、二郎など食おうものなら 宴会では何も食えなくなってしまう。 今回の二郎は絶望的かと思われた。

  25日朝6時。宴会の食い物を買いに、築地へ向かう。 築地といえば日本最大の魚市場である。 全国からありとあらゆる海産物が集まる、魚のメッカだ。 しかし、遠かった。荻窪から1時間近くかかる。 鮮度を保持するための装備がまるでなかったので、かなり不安だった。

  7時。築地についた。デカかった。 適当に正門をみつけて入ると、掲示板。 落としものの掲示だ。だが、そのアイテムがすばらしい。 わさび、カンパチ、サバ…。落としたことに後で気づいても もうとりかえしがつかないのだ。

  並いる人と店をかきわけて、いいものを探す。 今回のターゲットはタコと適当な刺身になる魚。 値がはるのや小さいのはしんどいので、デカくて安い魚を探す。 ただ、タコだけは最高のまだ生きている奴を買う予定だった。 しかしまるでみつからない。あっても足だけが置いてある。 魚も、確かに殺したての、もしくはまだ瀕死の活きのいい魚が ドカドカ並んでいてすごいのだが、我々にとっては安いわけではない。 というわけで、かなり難航した。 仕方なくタコの足(キロ2000円)を2キロほど買い、 たらこを3キロ箱で買った。 そのあと刺身になる魚はないかと探していたのだが、 その時異変は起こった。 タコがみつかったのである。生きている奴だ。 それも、たてつづけに。 タコまみれだった。どうも領域を間違っていたらしい。 キロ2800円くらいと高いのだが、今回のメインはタコだったので、 それでもよかったのだ。しかし今さら遅い。 涙をのんであきらめた。結局鯛(2キロ)とカツオ(3.7キロ)、それにイカ4杯 を買って築地を後にした。リュックからカツオの尾が出ているのが、 非現実感を強調していて良い。

  地下鉄丸の内線。駅が多く、速度が遅い。 荻窪でJRにのりかえて吉祥寺。そこから時村の家までも長かった。 時村邸について魚の処理を始めたころには、 すでに魚はかなりダメになっていたのである。 特に顕著なのがイカ。匂いが出始めている。 新鮮であれば食えたはずの肝臓がまるでダメになっていた。 イカは肝臓がメインなのであまりにももったいなかったのだが、 今さら言ってもしかたない。とりあえずさばいた。 タコは軽くゆで、イカのゲソもゆでる。 カツオと鯛は内蔵をとっておく。 ここまでやってとりあえず一段落とした。

  11時。宴会は1時からの予定である。次の日はすぐ帰る予定なので、 二郎を食うなら今しかない。というわけで、朝二郎。 まさしろ一人食いにいかせるのもアレだし、 けっきょくなんだかんだいって腹がへっていたので オレを含めた数人で行った。 オレは後のことを考えて「小」にしておいたが、 まさしろはなんと、「まし」。 二郎の大きさの中で最大のものが「まし」である。「大」よりも多い。 おそらく小3杯分はあるのではないか。 見た瞬間にめまいがするほどの量だ。 大にしても小2杯分くらいはあってかなりキツいのだが、ましはその比ではない。 重量そのものはさほどでもなくても、麺が異常に太いので消化が悪いのだ。 だいたい並のラーメンの大盛りで「小」。特大とかで「大」と考えればいい。 「まし」に匹敵するダメージを与えるラーメンは、おそらく他にはなかろう。 というわけで、我々小を食った人間は早々に出てきたのだが、 まさしろ一人がえんえんと食い続けていた。 遅れること10分か、15分か。まさしろが出てきた。 苦痛の中に浮かぶ、晴れやかな表情。 食い切ったのである。スープすら残さなかったのである。 英雄と讃えようではないか。この後が宴会でなければ何も問題もなかったのだが。 ちなみにまさしろによれば、 ココ壱(カレー屋)の1000gをはるかに超えるダメージだという。 今までで最も強力な食いものだということだ。

  宴会はいろいろあってかなり遅れた。その間、刺身の鮮度はさらに落ちてゆく。 氷で冷やしていたとはいえ、すすめのなみだ。 次やる時までに断熱容器を用意しておく必要がある。 結局始まったのは3時くらいだっただろうか。 それまでウシオともう一人とオレでなにやら格闘技ごっこをやっていた。 それでわかったこと。組手やらなきゃ。

  15人の人間があつまった。酒がおいしいのばかりだったのもあって、 やけに楽しくなって木の根本にすわりこんでボーっとしていた。 そのうちまるくりら氏が挙動不審になってみんでおもしろがっていたのだが、 そのうちツブれた。寝たまま吐いてる。こりゃヤバイとみんなであせって いろいろとあった。そういうことで7時にはおひらき。 まるくりら氏は病院で点滴を受け、つきそいが数人。 荷物を時村んちに運ぶ人間が数人、カラオケに行く人間が数人と バラバラになった。オレは酒のせいもあって疲れていて、 さらに金がまるでなかったので時村んちでゴロゴロすることにした。 アホどもと一緒に行動しないのはオレとしてはめずらしいが、 かたはらや他の人とも話す機会がほしかったし、ちょうどいい。 なにより疲れていた。

  時村んちでゴロゴロしていると、時村とまるくりら氏が戻ってきた。 まるくりら氏はすっかり酒が抜けて冷静になっており、 ちょっとかわいそうだった。 カラオケが終わればアホどももこちらに来るだろうから待つつもりだったのだが、 すぐに寝てしまった。

  26日朝5時。起きだす。まるくりら氏は帰り、 時村と2人になった。アホどもはどうもオレが寝ている間に来たらしいが、 オレを起こさずにアホの家に撤退してしまったらしい。 ひどい話だ。 とりあえずダラダラと時村と話をした。 おもしろいゲームってのはどうやったら作れるかみたいな話とかだ。 結局、売るためのハデな見せ物の下に自分のやりたいことを隠すしかないのだな。 誰もそんなところは見ないのだから。 主張はエンタテイメントの形でやるべきだろう。

  アホの家に行って荷物をとり、まさしろと京都へ向かうことにした。 さて、ここでの問題はどのルートを通って帰るかである。 18きっぷだからどう帰ってもいいのだ。 ただ、今日中にたどりつければという条件の中での話である。 東海道線で行く場合は荻窪から東京まで東に行ってから、南に行って 海沿いをゆくことになる。何度となく通った路線だ。 これに対して、荻窪からそのまま西へ行けば、 山梨、長野、岐阜といって名古屋に出ることができる。 山の中をつっきるわけだ。 結局、おもしろそうなので後者のルートをとることにした。

  荻窪からそのまま西へ向かう。吉祥寺、三鷹、八王子といって、 山梨に入るころにはもうすっかり回りが田舎になっていた。 風景が茶色い。枯木の色だ。 町があっても茶色い。鉄のさびの色だ。 青も、緑も、白も、何もかもがくすんで茶色くみえる。 人が少ないからだけではない、どうしようもなくさびれた感じの風景が続く。 途中山梨県の県庁所在地である甲府を通ったが、 そこもなんとなく茶色かった。

  標高が高くなって寒くなってくる。 そのうち小淵沢についた。ここで30分ほど電車がこないので、 郵便局に金をおろしに行ったのだが、これがまた茶色い町だった。 日曜だからだろうが店はほとんど開いていないし、 冬でも夏でもない半端な季節なだけに他から人がくることもない。 「ようこそ小淵沢へ」みたいなアーチも色あせていた。 閉まった店の前にある旗や、軒先の布をが風にあおられてバタバタと音をたてている。 日もまた沈みはじめていた。 人が一人も歩いていない茶色い風景に、ふと横から犬が入ってきた時、 それは完成された。見事だった。息をのむほどに見事な田舎だった。 こういうものは理屈ではないのだなあとつくづく思った。

  小淵沢駅の横のみやげもの屋の名前がけっこう秀逸だった。 「元気甲斐」。かなり茶色い。 思わず入って「やまぶどう羊羹」というのを買ったのだが、 それも茶色かった。色は白かったのだが、何か茶色な印象を受ける味だった。

  諏訪をすぎて、松本に着く。さて次は長野か、と思って路線図を見て がっかりした。この先にあるのが名古屋ではなくて新潟だったからである。 行きすぎたのだ。もっと前の塩尻でのりかえねばならなかったのである。 松本も長野も通らないのだ。 新潟経由で帰れはしないかとも思ったが、どこをどう考えても クソ遠まわりだった。あわてて塩尻まで戻る。 このあたりで、どうも今日中には着かないのではないかという気はしていたのだ。

  まさしろが時刻表をしらべてわかったことである。 今日中にはつかない。 オレは知りたくないので見なかったのだ。 名古屋着が9時40分。11時30に米原について、そこで終わりであった。

  米原。京都まで1110円なので、さほどのダメージではないのだが、 寒かった。とりあえず、電車賃を節約しようと 始発の時間まで歩くことにしたのだが、これもまた愚かな選択だった。 田舎である。暗い。道もロクにわからない。 そんな中で適当に進めばどういうことになるか。 かくして1時間以上歩いて目にした駅は彦根。米原のとなりである。 直線距離なら5キロもないのだが、道が大きくまがっていたために 10キロ近くを歩いてしまったのだ。歩道もロクにない道を歩いたので、 数十センチ横をトラックが行く。うちひしがれて駅に着く。 せめていくら節約できたのかを確かめようと運賃表を見て、さらにブルーになった。 1110円。1円も変わらない。時給0円の仕事をしてしまった。 駅の下のコンビニも1時でしまってしまうような田舎なので、 24時間営業ファミレスでしのぐなどというマネもできない。 仕方なく駅で始発まで寝ることにした。 寒かった。冬用のちゃんとした寝袋を買うことを誓った。 そして、中央線経由は3時間は余計に見ねばならないということもわかった。

  27日朝7時。京都の朝は、まだ寒い。

2000年3月23日

「つまり、君はこれといってやりたいことがあるわけでもないのだろう? あるのはやりたくないことばかり。 君はその程度の男なのだよ。」

その台詞、もっともだ。つまらない以外に何の欠点もない。

東京に行く。26に帰ってくる。

2000年3月22日

がんばれば好きなことをしてメシを食う人生を歩むことができるに違いない。 そう信じていたはずなのに。 普通の生き方はしたくないとあれだけ言ってきた自分が、 結局一番まっとうに、順当な生き方をする方向に動いているという事実が 気にいらない。

まさしろに この日記が「あったことをかいてるだけ日記」 になっていることを指摘された。 指摘というほどでもない。そういう話になったというだけだ。だが、 愕然とした。覇気がない。無茶がない。破綻がない。事件がない。 戦いがない。そして男がない。

頭痛がする。のどが痛い。熱をはかったら37度を超えていた。 何もかもが最悪だ。

4年になってからえんえんと不安定だ。 数分で考えがひっくり返ることも珍しくない。 結局焦っているのだろう。 時間があった時は、真剣に考えなかった。 時間がなくなってみれば、まともに考えるヒマもない。 まともに考えられない状態で考えると辛いから、 どんどん忙しくしてそれから逃れようとした。 その結果、余計に時間はなくなった。 おそらくオレに必要なのは数ヶ月という長さの 何もしないでボーッとする時間なのだろう。 それを得ることはもう絶望的だけれども、 ルーチンワークと化した日常はボーッとするのとあまり変わらない。 二年という時間は日常をルーチンワーク化するのには十分な長さだ。 「二年の間同じ日がくりかえされるのだ」と 思えば何も辛いこともなく過ぎてゆくに違いない。 ほんのささいなことで喜んだりがっかりしたりする日常の中で きっと半年もたてば落ちついているのだろうと思う。 削られて、薄まって、我慢も我慢でなくなって。 でも…。決断を下すのは28日でいい。

2000年3月21日

ひもじい。

金をおろさねばならない。研究室の歓送会だからだ。 そして金をおろした状態で使わない自信はない。 余った分は即座に郵便局に入れてこねばならないだろう。

4月から行く研究室に行ってきた。 有機溶媒の中で生える酵母の研究をやることになっているらしい。 酵母の表面に都合のいい酵素がでてくるようにしむけて、 それを反応液の中で飼えば、温度も圧力もかけずにお望みの化学反応をやれる。 この虫のいい話を現実のものとするために、 有機溶媒中で生える酵母が必要なのだ。 たいがいの化学合成工業では有機溶媒中で反応をするからである。 ただし、目的や遺伝子はともかく、やる操作はあまりかわらない気がする。 2年もつのだろうか。ちなみに、明日も行って説明を聞く。

歓送会はオゴリだった。ありがたい。 さらに、研究室の部屋代(新聞代とかお茶代とか)が3000円もかえってきた。 コンパに行って金が増えるなんて妙な気分だ。

卒業式は24だ。東京で花見があるのは25。一見無理と思えるが、 事務のおばさんに「卒業式って出なあかんもんなんですか」 と聞いたところ、「最近出る人が増えて椅子出しが大変なんだよね」 という答えが帰ってきた。 というわけでまさひろをひきつれて23の朝に東京に向かう。 もちろん18切符。

2000年3月20日

日記をかいてる途中に日がかわった。 さて、ここからは20日だ。19日のオレとは一味違う。

じしょがおかしくなった。「じしょ」と漢字で変換できない。 仕方なくじしょをインストールしなおす。 ところが、それにともなってデカいエディタまでインストールされはじめた。 15MB。デカイ。なす術もなく待つワタシ。

ヒマだったのでリンク集の更新と、サークルサイトのイベント参加予定を 書き換えてあそぶ。半年以上先の予定を勝手にきめて遊ぶのもおもしろい。 そんな先になってこの遊びが続いているかどうかすらもわかりはしないのに。

気が向いたので、トップをテーブルバリバリにしてみた。 背景までつけちゃって、ああ、いけないサイトという感じである。 まあ、見栄えは悪くあるまい。 それほど面倒なこともしてないのでメンテナンスも面倒くさくない。 とりあえず、よし。

痕は知的におもしろい。 ちょっとした表現のおもしろさ。ストーリーの構成のおもしろさ。 小道具の使い方のおもしろさ。そういうのが主だ。 一方キャラクターに関しては出来はいいものの典型だ。 ONEとは対極をなす作品と言えよう。 それにしても、けっこうストーリーの構図が雫と似てる気がするな。 ところで、楓シナリオってこんなに速かったけか。メチャクチャ速い。

2000年3月19日

5月3日。東京で格闘技のイベントがある。 パンクラスルールのトーナメントだ。 ただ、ひとつだけ少し変わったことがある。 それは、「コスプレ」をして戦うということだ。 そんな大会を主催したのは誰だと詰めよりたくなるような イベントだが、それにウシオの奴が出るらしい。 見にいかねばウソだろう。 ついでにKTX(Key Tactics eXpo)にも出るとしようか。 金をかせがねば。

清水んちでフロを借りて、ついでに数時間ダラダラしてきた。 今日はダラダラしただけじゃなくて清水先生に いろいろとアドバイスをもらったので、漫画を描く時には気をつけることにする。 しかしまあ、物をつくって人に見せるというのはえらい不安だ。 そもそもおもしろがってくれるかどうかが不安だし、 おもしろがってくれていたにしても、何をおもしろがってくれているかが不安になる。 しかし、そんなことを考えても仕方ないし、放っておこう。

痕。ノーコメントだ。

アホから久しぶりの自慢電話がきた。 奴はなにかあるごとに自慢電話をかけてくれるのだ。 前回は水無月(リーフの原画屋)の色紙で、これもかなりおかしかったのだが、 今回もまたかなりおかしい。 話はリーフのスタッフの出したコピー本を3冊除いて 全部もっているという人に、 もってないのをもってきたら他のと交換してもいいといわれたことから始まる。 しかし、そんなものは所詮コピー本であるだけに 入手はほぼ絶望的なはずだった。 ところがだ、秋葉原に行ってみたらいきなり路上で売っていたというのである。 それも一番最初に出た、いうならば一番レアな物体である。 奴は買った。1万というとてつもない値がついているにもかかわらず 買った。確かに交換によって10冊で1万になると思えば そう高いこともない。ましてやそれを…すれば…。 ともかくも、世の中はたまに都合よくできすぎている。 ただし奴の場合は「おもしろい以外に何の得もないこと」 に関して都合がいい。 オレはというと一般的によろこばれる意味で都合がいい人生を送っているのだが、 その都合のよさがおもしろさを伴わないので、いまひとつおもしろくないのである。

砂糖を買ってきた。所持金51円。

まさしろが現れた。持ってきたものは「既知街(kichigai)」。 みなごろしLEAF系同人ゲームだ。 ToHeartのパロディーなのだが、 とりあえず物語は日本が中国に占領されるところから始まる。 もうそれだけで圧倒だ。 そしてとにかくうまい。文章がうまい。曲がうまい。 絵がうまい(いや、これは少し違うかもしれんが)。 。曲もLEAF系の曲のアレンジが多いのだが、 原形を留めないまでに強烈なアレンジで、ただでも殺伐とした雰囲気が 草木一本残さないほどに高まっている。絵も閂夜明氏だけに独特にすごくて、 アレだ。そう、イヤだ。ところで、シナリオのきくち氏のサイトを見たところ、 かなりの教養をもちつつバカが光るたまらないお人であることがわかった。 既知街もまたそのセンスが光る。この道で十分銭がとれるお人だろう。 一体普段は何をやっている人なのだろうか。 こういうのを見せられるとオレにできるのはせいぜいプログラムが限度だな と思ってしまうのである。

硬派(?)で知られたとある先輩が、 光の速さで我々と同じ世界の人になっていたことを今知った。 掲示板を見てみるとかなりそういう話題がある。一体いつの間に。 送られてきた年賀状が「松原葵」だったのでもしやとは思っていたのだが…。 「D.C.様。そのうち一緒になにかやらかしましょうね」と勝手に思った。

2000年3月18日

今日の読書。餓狼伝8、9。 マウントポジション(相手を仰向けにして寝かせ、上にまたがった体勢)強いわ。 素人にやられるならともかく、 それをえんえんと研究してきた玄人にやられたらたまらないだろう。 果して中国人の何千年の蓄積の中には それに対抗する方法があるのだろうか。

しかし、おそらく特に効果的なものはないだろうとも思う。 中国人は基本的に多人数の乱闘で使える技術を開発してきた。 最小限の時間と労力で相手をダメにできればいい。 そういうことを考える連中なら マウントポジションで殴るような技術は実戦的でないと考えるだろう。 後ろから別の奴にやられることを先に考えるからだ。 結局、格闘技と武術はそこが違う。 武術的に考えれば、一対一であるということすらルールの一つと言える。

昨日月謝を2ヶ月分払った。 フロ屋に行く金すらない。 すでに何日フロに入っていないだろうか。 数字を書くとイヤがられるので、書かない。

XFreeの4を入れた。いろいろとかわっているが、 使っている分には何も違いはない。 設定ファイルの書き方がまるっきり変わってしまっていて、 大変だっただけだ。 True Typeが高速で出るようになっていれば更新した甲斐があるというものだが、 放っておいたままでは表示することすらできない。 設定しようにも説明書が書いている途中だったりするのがひどい。 試行錯誤の末なんとかタブレットは動いたが、 今だにTrueTypeは出ない。なぜか日本語フォントだけ出ない。

餓狼伝10、11を読む。最新巻なのでこれ以上はない。 で、残念なことにだんだん慣れてきた。 これからは一気に読むことはないから飽きることはないだろうが、 もしあと10巻もここにあったら途中で飽きていただろう。 というのも、軌道にのりすぎている上に、 起こる出来事があまりに都合よくなってきたからだ。 流れついた先で姫川のオヤジに会うのはどうかと思うのである。 ましてや姫川のオヤジが素手で刀をさばけるほどの達人というのは どうかと思うのである。 しかしながら、この文体は気にいった。熱くて退屈しない。 新しいのが出たら読むとしよう。

痕やらなきゃ。

6月11日に川崎でKANONオンリーイベントがある。 ただのKANONオンリーではない。「名雪中心」KANONオンリーである。 その名も「なゆけっと」。狭い。極めて狭い。 募集サークル数も60と、狭い。 Bright Seasonよりも小さいのだ。 だが、その心意気に惚れた。 たかが参加費3000円でこんなおもしろいことに参加できるなら惜しくはない。 だが、割にあわないのも事実だし、そもそもオレが行けない以上 オレに決められることではない。 判断は東京の奴等にまかせることにする。 名雪本を作らねばならないわけでもないので、 最悪何も作らなくても今までの本で出られるだろう。

2000年3月17日

もうしこむイベントがたくさんある。 4月2日のComic Canvas。 5月28のComic Communication。6月18のサンシャイン・クリエイション。 7月2日のBright Season 6。もうしこむには当然金がいるわけで、 だいたい14000円。 月謝を払うことすらままならぬ状態に追い打ちがかかるのだ。 もう致命的に金はない。 やっと卒論も終わったことであるし、月曜にはサカイ をとってくることになる。 連続で3日も入れればかんがえるヒマもあるまい。 3日間だけ過去の自分を呪えばすむ。 その3日がすぎれば過去の自分に感謝することになるのはわかりきったことなのだ。

餓狼伝を7巻まで読んだ。格闘家って本当にこんなにすごいのか? もしこれが多少の誇張こそあれリアルなのなら、 オレはどのように武術に関わっていけばいいのだろうか。 少くとも足に重りをつけていればいいというものではない。

いっしょに借りた「学園武芸帳・月に笑く」というのも読んだ。 しかしどのレベルで読んだ時におもしろいのかがよくわからない。 とりあえずオレは格闘描写みたいな細かいものは雰囲気だけで流してしまって、 セリフや展開を追うようにして読むのが常だ。 餓狼伝でもよほど気になるところじゃなければわざわざそういう読み方はしない。 あれはそれでも十分おもしろいのだし、それでいいだろう。 しかし、これは少くともそういう読み方で読んでもおもしろくはなかった。 貸してくれた人の性質からして、 格闘描写を逐一頭でイメージしながら読むとマニアックで おもしろいのかもしれないとは思う。 しかし、それをさせるにはその前の段階で十分におもしろくないと辛い。 「電撃文庫」ということや絵の印象が偏見となって オレを縛っている可能性もないでもないのだが。

2000年3月16日

夜中の3時に目が覚めた。寝たのは19時くらいだっただろうか。 間違った時間に8時間も寝てしまった。

リアルじゃない。何のことかと言うとプレステ2のゲームのことだ。 コンビニでデモをやっていて見ていた。 確かに絵は細かくなった。 世間一般にはこれをリアルになったと言うのだろう。 だが、それは静止画のリアルさであって動画のリアルさではない。 欠けているのは重さ、硬さ、加速度。つまりは動きのリアリティーだ。 だが、それは仕方のないことなのだろう。 ポリゴンにおいて、絵のきれいさは機械の性能と 機械を使いこなす技術に大きく依存している。 まだ機械の性能はそれで美しさを上げられる限界まで達してはいない。 だから、技術の競争が質の競争と同じ、もしくはそれ以上に大切になる。 だが、動きのきれいさを表現するには何よりセンスがいる。 それは、技術の向上よりもよりむつかしいことに違いないし、 それを見る目もより高度なものが要求されるだろう。 ドラゴンボールの強さを理解するよりも刃牙の強さを理解する方が むつかしいのは自明なのだ。

2次元グラフィクスはイラストレータの絵を そのまま表示できる能力を手にいれた。 テレビという媒体の限界に達したのだ。 そうなると同時にゲームのほとんどが3次元に移行したのは、 決して3次元の方が優れていたからというわけではあるまい。 生まれてからこのかた、 コンピュータゲームは「進歩している」という印象によって売ってきた。 それが一番わかりやすいことだからだ。。 だが、技術の差が目に見える限界を超えてしまった時、 そこに「進歩」はない。あるのは「違い」だけだ。 しかしポリゴン数はまだ技術によって上がる。 それを進歩として貴ぶ人がいる限り、ポリゴンはもてはやされつづけるのである。 だが、これからはどうか。 音楽はCDで鳴るからこれ以上の進歩はない。 シナリオは二千年以上前から進歩などしてはいまい。 ゲーム性も10年前には進歩を止めていた。 この上画像に関する技術の進歩までが意味をもたなくなるのだ。 おそらくゲームはその勢いを失うことになる。 それがゲームの成熟する時だ。 「絶対的な進歩」という幻想を離れて、「違い」に注目するようになる時代だ。 その時が、待ち遠しい。

2000年3月15日

卒論かいてます。でも、資料の一部が研究室におきっぱなしです。 これからとりにいきます。寒いです。朝6時です。 それにしても発表何時からなんでしょう。 それも確認してきます。 もし13時とかだったら、終わりです。 悲しんでやりましょう。ワタシの最期を。

16時からだった。

同期の机にはびっしりと資料。 全部卒論だろうか。100枚くらいあるんじゃないか。 こうなったらレイアウトに凝って対抗しようかと思ったが無理だ。 texを面倒くさがってHTMLで打ってしまった以上、 出力はIE。netscapeの印刷機能はカスだし、 実はまだFreeBSDになってからプリンタ設定をしていないのだ。 別にいいや。

卒論は終わった。あっけないほど無難に終わった。 即席卒論であることがバレなかったのか、 みなそんなことどうでもよかったのか。 たぶん後者だ。みなそんなにヒマではない。 さて、あとはやり残した実験を少々してサラバだ。 あとは実験ノートを渡さねばならないのだが 実はこれが問題だったりする。 汚ないのだ。 そのまま渡したら 怒るのを通りすぎて笑われてしまう。 なにせヒマな時に本当に落書きをしていたのである。 漫画のプロットが書いてあったりして非常にヤバい。

今日の読書。餓狼伝1、2巻。道場の先輩に借りたもので、もちろん原作の方だ。 最大の感想は「これってストーリーあったんだ」である。 板垣版をいくら読んでもまるでストーリーなど見えてこないが、 さすがに小説だけあってちゃんと筋がある。 話には流れがあり、論理がある。そういうわけで、これは完全に違う作品だ。 ストーリーからキャラまでほとんど原形を留めていなかったのである。 結局、板垣はすごいということが再確認されてしまった。

ところで、格闘家ってそんなものすごい人種なのだろうか。 確かに思いあたるフシはある。うちの先生やら師範を見ていると ああいう世界の人なのかという気もしないでもない。

さて、金をかせごう。狙い目はサカイだ。 キツいだけに誰もやりたがらない。 しかし、実は 背筋を使う術さえ知っていればそう辛いものではないのだ。 とんでもなく重ければ腕力を使ってしまってしんどくなるが、 普通の引越しではそれほどのものはないし、 バイトにはそういうヤバいものは持たせないのが常である。 太極拳は生活に密着した殺人術。

はやいところい雫と痕をやり直さねば。 どちらの漫画を描くかは知らないが、 やっているうちに妄想が広がって浮かぶに違いない。

そういや、タクティクスオーガまだ続きだった。 でも、今は先にせねばならんことがありすぎる。 攻略本まで買ったのに。

2000年3月14日

4月23日のリーフが主催する同人誌即売会「こみっくパーティー」。 受かった。よって、本を作って出る。 初の非kanon本だ。雫に痕はもう旬ではないのでそうそう売れはしないだろうが、 それもまたよしだ。

入稿してきた。清水がそうしたいというので、そうしたのだ。 3月31日には本が来るので、4月2日には間にあうだろう。 かくしてまた金が消えた。 こみパではKANON本は売れないので、当分はかなり地獄だ。 卒論終わったら、サカイ。

で、入稿から帰ってきたら6時。まだ卒論はまるでやってない。 HTMLでヒョロっと書くにしても時間がない。 清水につきあってしまったのが甘かっただろうか。 とりあえず日が変わるくらいまで寝て、それから勝負だ。 ゆうべは編集で寝ていないのである。 こんな修羅場がいつまで続くというのだ。

オレの4コマ漫画は最初の3コマでいいと言われた。 オチがどうでもいいらしい。オレもそう思っていたのだが、 形式にこだわりすぎていたらしくどうすることもできなかった。 無理にオチをつけようとしたのが失敗だったということか。

2000年3月13日

ふとみたら19000。ありがとうございます。

原稿を片づけて、まさしろから借りた同人ゲームをプレイする。 Apple Projectの「天使のお仕事」。 KANONのアフターストーリーだ。 ひょっとしたらこれから読まれる人もいるかもしれないので 筋はかかないが、なかなかよかった。 ONEのクロスオーバーネタがあったり、 秋子さんの正体がアレだったりとネタじみたところも多く プロ的ではないが、同人として、あるいはパロディーとしておもしろかった。 なによりキャラがまぎれもなくKANONキャラだし、 いいシーンもけっこうある。 ああ、こういうのを見るとゲーム作りたくなるよなあ。 でもとりあえずは卒論書くか。今日はもう疲れたから、 明日一日で。

絵をとりこむ時に一番問題になるのは汚れである。 ペンでもえんぴつでも変わらない。 しかし、えんぴつの場合これがよりクリティカルになる。 えんぴつの色範囲がペンのそれよりも広いために、 ゴミだけを飛ばすのが困難だからだ。 というわけでトレースという作業の重みは否応なく増してくる。 えんぴつにもかかわらず消しゴムが使えないのもしんどいところだ。 目には消えたように見えるが、むしろ汚れが薄く拡散してしまって 収拾がつかなくなる。 灰色は黒と白の割合を変えることで表現されるので、 わずかに灰色なだけでもまっくろい点がでてきてしまうのだ。 また、えんぴつはペンほど黒くはないため、濃さを上げざるを得ない。 でないと、印刷した時に主線すらハーフトーンのアミで表現されてしまって 見苦しくなるからだ。 しかし、インクでひどい目にあう可能性が0になる上に、 インクにつける手間もない。手もそんなに汚れない。 ペンの劣化でひどい目にあうこともない。 紙もけずらないから重ねて書いて太くすることも自由だ。 これらの利点もまた捨てがたい。 自由度だけ見ればペンよりもえんぴつの方が明らかに優れている。 あとは書き手の技術と、印刷機械の問題だ。 さて、どうしたものか。

実は、この点においてふでペンは最も優れている。 ふでと違ってインクをつける手間もなく、太さの調節も思いのままで、 重ねても紙はけずれず、階調表現性もペンに勝る。 黒さはもちろんペン同様で、現在の印刷技術でも特別な加工なしに ある程度の再現が可能だ。その上同じ画材でベタまで塗れるのである。 えんぴつと違ってさわった程度ではよごれが広がることもない。 まさにスーパー画材である。 ただし、必要とされる技量がハンパではないのだ。 また、いくら習熟しても集中力がとぎれれば死あるのみとも聞く。 でも、ちょっと練習してみようかな。 トレースを使えばやり直しはいくらでもきくのだし。

600dpiは1ミリに20個の点がならぶ解像度だが、まだ点が見える。 えんぴつ書きの絵には最低1200dpiほしい。 ちなみに、1200dpiを扱えるスキャナやプリンタはすでに売っている。 ただ、メモリとCPUがついていかない。 1GB超のメモリと、1GHz超のCPUが必要だからだ。 誰か50万でコンピュータを組んでくれと言ってきたら、 そういうことができる夢の機械を組んであげよう。

2000年3月12日

入稿は遅れる。火曜日だろう。 それじゃあオレの原稿もゆっくり上げればいいやなどと思ったりするが、 それでは卒論が上がるまい。

とらのあなにうちのサークルの本を販売委託しているのは 書いた通りだが、大変なことになっている。 本の紹介のために中から数ページ選んでコピーして 本の前に展示しているらしいのだが、 その中にオレの書いたものが入っていたというのだ。 3ページも。8ページ中の3ページだ。 確かに、中から8ページ選べといわれると、 オチや話の核心を避ける関係上オレのも載せざるを得ない。 しかし、そんなことはどうでもいいのだ。 踊りたくなる。

CPUのデータシートを読もうとacroreadの ポーツを入れようとしたら、 システムが古いからmake worldしろと言われた。 やったらエラーで止まった。 カレントはダメなのだろうか。 とりあえずstableをもってきてみる。

ところで、昨日はやりすぎた。 しかし、ある種の納得は生まれた。 仕方ないということはある。 さしあたって、自分に関しての責めは抹殺しておかねばなるまい。 そうすれば、あとは野となり山となるだろう。

朝10時。下書き終わり。あとはトレースして ふでペンで遊んで、とりこんでいじって終わり。 そうしたらみんなの原稿のサイズをそろえたり、 ノンブルを打ったり、目次を作ったり。 今日一日は使用不能だろう。 ということは、何か? 卒論は明日明後日の2日で書くということか? 発表は、水曜日。

下書きが終わったので「終末のすごし方」をやってみる。 借りたゲームをすぐにやらないのはオレの生き方ではないのだ。 といういい訳はともかくとして、いいゲームだった。 岩にしみいる水のように、すなわちボディーブローのように、だ。 絵も好みだ。オレ、こういう絵柄もこういう塗り方も、 かなり好き。アニメ塗りより味があって、 かつひょうひょうとした感じがたまらない。 ところで、卒論は?

ああ、全員クリアして、あまつさえ誰ともくっつかないエンドまで見てしまった。 即感想文。久し振りに更新した気がする。 ついでだ。バナーでも作るか。 原稿そっちのけで。 …卒論は?

責を減らすために、ちょっとサークルのサイトの更新をしてみた。 ノリでてきとーにやったので、怒られるかもれない。 おこらないで。 …卒論。

ダラダラトレースを終える。 さあとりこんでいじるか。 わくつけて終わりでもいいし。らくちんらくちん。 たまには手書きの字もいいな。さあ、さっさと作紹も書いてしまおう。

ああ、ガラスが割れた。 体重かけすぎたのね。 ごめん、ガラス。 でもきれいにまっぷたつになったことだし、 このまま使おう。これ、かなり便利です。 清水がトレーストレース言ってるのがわかる気もする。 もっともオレは手抜きの道具に使っているので まるでダメなのだが。

ところで、描いてる間に香里と北川が頭に住みはじめて困っている。 そのうち所帯をもってしまうかもしれない。 誰か間に割って入って三角関係にしてくれないか? そうすると頭の中がにぎやかになっていい。 そういえば北川君だけ苗字で呼ぶのはなんかかわいそうだ。 でも、潤って呼んでも誰もわからないんだろう。 たぶんオレも。

なんかいい一人称代名詞はないもんだろうか。 「オレ」は飽きた。確かに普段口では「オレ」と発音しているので、 「オレ」か「おれ」か「俺」くらいしかない。 「ore」とかだとわかりにくいだけだろう。 しかしまあ、どうせ文章だから普段と変えてもいいかもしれない。 やはり無難なところでは「私」系だな。 でも、「私」はおカタい。「わたし」だと名雪だし、 「ワタシ」だとバカっぽい上になんかナメてる印象があって 嫌われそうだしやめよう。というわけで、 やはりいいのは見つからないのだった。 それにしても英語人とかドイツ語人ってのは こういうことじゃ悩まないんだろうな。

本当にバナーを作ってしまった。 どうせだからそれの縮小前のを表紙絵にしてしまった。 多少重くなるが、ご愛敬。 ついでに例のカイロもスキャンしてのせた。 こんなことやってる場合じゃないんだけど、 まあ、いいか。

2000年3月11日

のじりとペン入れは必要かという話になって、 なったすぐ後に必要ないという結論に達した。 印刷技術が低くて白黒はっきりしている絵しか印刷できない時代は やむを得なかったが、今はコンピュータの力でどうにでもなる。 版画と同じで消え去るべき遺物と言っても良い。 版画同様に愛好者はいなくはならないだろうが、 誰もがやらねばならない時代はもう去りつつあるのである。 というわけで、下書きをきれいにして、 とりこんで加工すればいいやということになった。 今回はそれで2ページ描いてみようと思う。 手順は、

  1. 下書きをする。
  2. 別の紙をかさねて透かしながら、ちゃんときれいに線をひく。
  3. 筆でやる作業をやってしまう。
  4. とりこむ。
  5. いじる。

となる。 ここで問題になるのは2番目のところだ。 どうしても下の紙の絵が透けて見える必要がある。 こういう時にまっさきにうかぶのが、 トレース台という蛍光灯が入っていて上面が半透明になっている箱なのだが、 そんなものは異常に値がはるので却下だ。 たかがあかりつきの箱に1万なんぼも出す気はしない。 そこで、ガラス板と蛍光灯スタンドで代用することにした。 ガラス板はゴミ捨て場から拾ってくればいいし、 スタンドはある。 その後のじりの指導のもとゴミあさりをした結果、巨大なガラス板を手に入れた。 これをこたつの上から半分だけせり出させて置き、 ディスプレイを置いて固定する。 空中にせり出た部分が机になるわけだ。適当に下に蛍光灯を置いておけばよく透ける。 完璧だ。

考えてみるとペンで描かない以上紙はなんでもいい。 それこそコピー紙が薄くて安くてなめらかで最良である。 もう高い漫画用原稿用紙を買う必要はないのだ。 1枚1円以下。すごいや。

後は下書きをいきなりきれいにできればトレースの手間もなく いきなりとりこんで加工して終わりになるのだが、 そこまでは行けないだろうな。たぶん。 あとはコンピュータの性能に全てがかかっている。 なんとか金をかせいで、スキャナとメモリをかわねばならない。 35000円。どこから。

ヨゴレ要員としての責務を果たそうとしたが、 疲れた。

2000年3月10日

セミナが終わった。論文を読んだのが今日の朝だったこともあって (これ読まれたら終わりだな)調査不足だったので、 いろいろと叩かれたのだが、それでもおわったには終わった。 で、ふと思ったのが、オレ普通にしゃべれなくなってる。 おかしい。文章で妙な演出をしてしまうのはまだいいのだが、 しゃべるのまでそんなになってしまっていたのだ。 「損傷部位と関係ないところでDNA切断が起こっているのではないか」 と言えばいいところを、 「損傷したところと関係ないところでDNAがブチ切れてるんじゃないのか」 と言ってしまったところではたと気づいたのである。 確かに、わかりやすく退屈しないように話そうとは前から努力していた。 しかし、それがウケる場所でもない気がする。 困った。どうしよう。 それでもいい世界に行くか、それでも文句を言えないくらい 有能な人間になるか、その道を極めてしゃべる人になるか、 それくらいしかないのではなかろうか。

オレがこうなったのはいつだろう。 高校の時は普通にしゃべっていた気がするし、 今だって少くとも奴(良月ら)相手には普通にしゃべっている気がする。 ということは、オレは相手によって実はしゃべり方を変えていたということか。 気づかなかった。 それではひとりごとはどうだろうと思ってひとりごとをしてみたのだが、 やはりおかしい。普通にしゃべろうとすればするほど 「普通にしゃべる演技」になってる。 困る必要はないのだが、なんだか困る。 一体どうすればいいんでしょう。 魂の芯までネタ人間になってしまったのでしょうか。 これ、「おもしろい人」と思われたら得だけど、 「不道徳で不真面目でチャランポランな人」 と思われる確率の方が高いだろうな。 これじゃサ○ヤだ…。

のじりとヤバい話をしていた。 本当にヤバい話だ。 どうヤバいかはヤバいので秘密。 さて、前の段落の話題だが、 別に困らないからいいやということになった。 わかりやすく話す努力をすることの何が悪いだろう。 いちいちわかりにくい言葉を使ってただでもむつかしい 学問の話をさらにむつかしくすることはないのだ。 これは学問の話に限らない。 相手も自分も理解しているかわからないような 定義のはっきりしない言葉で議論をした気になるよりも、 一歩一歩わかりやすい言葉で論理的に進めていくのが本道だ。 はっきり言おう。互いに言葉の定義をたしかめずにできる議論などありはしない。 それは議論ではない。ひとつひとつ明らかにしてゆくその対話こそ、 プラトンが重んじた対話、ひいては議論の姿である。

議論は論理的でなければならない。 論理的な会話をするためには互いに言葉の定義が一致していなければならない。 定義を一致させるためには、一致させやすい言葉を選んで会話をしなければならない。 たしかに言葉の定義が完全に一致することなどないのだが、 できるだけ一致するように努力がいる。 とすると、性質のわからない相手と議論する時や多数の人間で議論をする時は特に だれにでもわかる日常的な言葉によってするべきだということになる。 つまり、議論だからといって語り口や言葉遣いが普通と変わったとすれば、 それはもうニセ議論なのである。「えらそうな言葉の口ゲンカ」 のことを議論だと思っているとすれば、それはかなりションボリだ。 前にも書いたが、政治のこととギャルゲーのことは使う言葉こそ多少違ってくる にしても語り口も論理の流れも同じでいいはずだ。 相手によって言葉が変わるのはまだわかるが、 同じ相手と議論するのに題材によって語り口が変わったとすれば それはニセ議論に毒されている。 議論という言葉のイメージや 一般的な風習にとらわれて、議論が何を目的としていて その目的のためにはどのような手段が最も効率的か、という本質を見失っている。 議論に必要なのは、相手とともに何かを追求してゆくマジメな姿勢だけであって、 そのルールの最大のものは論理性を保つということだ。 1+1=2くらい簡単で自明なステップをいくつもいくつも積み重ねて 少しずつ相手の意を理解してゆくことが議論なのである。 その過程で一切のあいまいさは排除されねばならない。 一切のあいまいさは非論理的である。相手に自分の言葉の解釈を任せた段階で、 それはもう論理性を失っている。自分の言葉の定義は完全に自分で決定し、 相手にはそれを伝えねばならないのだ。だからちゃんとした議論はしばしば 言葉の定義を一致させるだけでえらい時間がかかる。 それが相手の目に「容赦ない」とか「面倒だ」映ったとすれば、 それは相手が議論に向いていないだけのことだ。 あいまいさを残せば確かに会話は円滑にすすむかもしれないが、 それはもはや非論理的であって議論ではない。 こう書くと大変なようだが、 コンピュータでもできそうなほど論理的に簡単な会話のことを議論というのだ、 と考えると逆に大したものには思えなくなってくる。 では、ちょっとした例をあげてみよう。 ドリーム職人という漫画を読んでみてほしい。 これの会話はキャラの会話はかなり議論である。 論理性が保たれており、互いに話を聞こうという姿勢がある。

2000年3月9日

オレも同人作家のはしくれになってしまったことだし、 このサイトを同人っぽく絵まみれのキラキラしたサイトにしようと 思っている。でも内容はこのまんま。 さしあたってカラーの絵をかく技を手に入れて、 全域を絵で埋めつくそう。 それでも重くならないで、 かつHTMLの精神に違反しないでできるかが腕の見せどころだ。 1KB未満の小さい画像の使い方が明暗を分けるだろう。 まずはトップページから。 同人系の人に見られてもナメられないサイトにしてやる。

と思ってしばらくいじったが、どんどんメンテナンスが面倒なコードに なってゆくのにいやけがさしてやめた。 見栄えには大きくわけて配置と色と画像の3要素があるが、 そのうちの配置はテーブルなしでは絶望的であり、 そのテーブルという奴がこれまた面倒くさい。 テーブル表示にバグがあるソフトも多く、 できるだけ使いたくないというのもある。 画像に関しても、字で済むものをなんでわざわざ絵に せねばならんのかと思うとバカくさいし、意味もなく飾りをつけるのも ジャマっけだ。 色だけ凝ろうと思ったが、それも見やすい配色というものを最優先すると そんなに凝りようがない。 ネットスケイプのバグのせいで字は黒に固定せねばならないという ことも大きい。結局、凝れるところなんてないらしい。 いらんものを削り、すっきりさせたくらいにとどまってしまった。

さて、セミナの準備をせねばならない。 面倒だ。本当に。

ちなみに、今日で実験は中断。むしろ終わり。 というのも卒論をかくからだ。 卒論の発表会さえ終わってしまえば、 あとは実験なんてするものか。 というわけで、漫画描き放題になるといいのだが。

2000年3月8日

実験も早く終わったのでここ数日何があったのか書こうと思ったのだが、 詳しく書くのも面倒だ。 とにかく同人サークルのことについてダラダラ話したり、 漫画を描いてたり、イベントでの展示用に木材を加工したり、 イベントに出たり、普段は食いにいかないようなものを食いにいったり、 中央卸売市場で食い物をしいれて宴会をやったり、そんなだった。 とにかく異常に楽しかったのだ。 オレも良月もかたはらもJAGも企むのが大好きな企み人なので、 とにかく企んでいたのが一番楽しかった気もする。 うちらの間では企むことや、企む人のことを「ヨゴレ」 と呼ぶ。今回はまさに「ヨゴレ」を楽しんでいたと言えるだろう。 バカな中学生高校生が不良ぶっているのと同じように、 バカな大学生である我々としては「ヨゴレ」ぶって遊んでいるわけだ。 レベルが同じというのがまた素敵で、童心に返った気分である。 というか、童心のまままるで大人になってないのが感慨深い。

大人ってつまらなそうだなぁ、ということについて書こうとしていたのだが、 それにはオレが「大人」という言葉についてどういうイメージを持っているかを 説明せねばならないことに気づいて書けなくなった。 イメージというだけに言葉にはなりそうもない。 「適当な」とか、「どうでもいい」とか、 「こだわりのない」とか、「薄い」とかそんな感じなのだが、 なんとも説明できない。 「あいつ大人だなあ」と言うとき、 それは「損得を考えて、いらぬ波風を立てない行動ができる」 という意味を持つことが多い気がする。 人に反対しないでがまんしたり、無理に意見をいわなかったりと、 そういう時だ。意見を言うということは、相手と違うことを言うということなので、 やはり反対することに入るだろう。 とすると、大人というのは人に反対しない技をもっている人といえるかもしれない。 考えが違うのに人に反対しないためには、その話題がどうでもいいか、 その相手がどうでもいいか、自分の意見を言う頭がないのか、 あるいはそれらのどれでもないのにあえて反対しない理由があるのかのどれかだ。 話題がどうでもよければ反対する気も減るだろう。 相手がどうでもよければわざわざ意見をいって会話を長びかせる気もしないだろう。 意見を言う頭がなければ論外だ。 しかし、どうでもよくない人とどうでもよくない話題について話す時に あえて反対しないとすれば、それはやさしさといってもいいかもしれない。 相手の立場にたって、相手を思ってあえて反対しないことだろうからだ。 しかし、話題がどうでもよくても、相手がどうでもよくても、やさしさのためにでも、 反対しないという結果は同じだ。どうでもいいから反対しないときに、 それをやさしいから反対しないのだと思わせる技術があれば、 それはもう同じなのである。 反対しないことをやさしいことだと錯覚してしまう人はたくさんいるのに違いない。

どうも、大人というのはどうでもいい事柄を増やして反対する理由を減らしつつ、 どうでもいいことを悟られないような技術を磨いた人という気がする。 本音を言わずに人畜無害で、ちゃんとしていて隙がない。 確かに迷惑はかけないし、いらんことで神経をすりへらすこともなく楽だろう。 しかし、つまらないし可愛げがないと思いはしないだろうか。 おもしろくないと感じはしないだろうか。 もちろんそういう大人さを時と場合によって出したりひっこめたりできる人なら いいのだが、出しっぱなしな人はどうも苦手だし、そうはなりたくない。 「大人さを出したりひっこめたりできる大人になりたい」 といえば、いいだろうか。 言葉の定義が使われる場所ごとに違っている妙な文だけれども許してほしい。 言葉はイメージの産物なのだから。

いろいろ大変そうだったがコピー本の再販をかけることとした。 オフセットで。漫画やらなにやらを多少追加する。 大変なのは原稿サイズだ。コピー本だけにサイズがまちまちで、 切ってしまったりもしているのでかなりオフセットにはしにくい。 拡大かけたり、たちきりのところはベタでごまかしたりと いろいろと大変だ。我々はコピー本を「印刷所に出すヒマがない時につかう 非常の手段」として使っているだけで、コピー本にしかならない漫画 をかくことはない。ということはこれからもこの問題はつきまとうことになる。 できるだけ早めにやってオフセットだけで勝負できるようにせねばならないし、 コピー本を作る時もたちきりを使わないとかの手を使わねばならない。 元々電気(CG)の原稿はそのへんが楽だ。 しかし、手書きの場合サイズ変更には拡大縮小コピーをせねばならない。 これが曲者で、コピーはタダでも画質が劣化する上に、 縮小ではトーンがツブれたりする。トーンバリバリの原稿をかく 人間にとってはまさに死活問題なのである。

香里北川漫画を1ページ×2描こう。 コンテは頭にできた。勝負だ。

2000年3月7日

宴は終わった。3人は東京へ帰った。 だから、実験はせねばならない。卒論はかかねばならない。 セミナーの準備はせねばならない。 実験は3月24までやるという。 卒論の発表会は15日だという。 セミナーは10日だという。 だが、世界はそれでも回り続けるのであって、 11日はコピー本の焼きなおしの締切だ。 それまでにオレは2ページの穴埋めを描かねばならない。 そして日曜には入稿しに行くのであるが、 当然のように金が見事に足りない。 とりあえず借りて急場をしのぐしかない。 そして、次の本の印刷もあと一ヶ月に迫っている。 そちらも金がかかる。これはひょっとして「いそがしい」と 言ってもいいのではないか。 いそがしいという言葉を吐くことは、かなりの場合「やる気がない」 と言うのと同義語なのだが、 今回はそうでないといいはってもいい気がする。 それくらいやることがてんこもりだ。 しかし、ここでいそがしいと言っては男がすたるのであって、 男がすたるのはやはりかっこわるいのであって、 かっこわるいのは、結局のところつまらないしおもしろくないのである。

同じ意味の言葉をたくさん使って同じことをくり返すのを空しい といったのは鶴見俊介だっただろうか。 モーツアルトも同じことをくり返すのを極端に嫌ったと聞いたような気がする。 AはBというものいいをする時にもそれは同じで、 AとBが違う言葉でも、そこにこめられたものが違わないのならそれは空しい。 そこに表れるのは人そのものなのだから、 同じことをくりかえす人は それしかもっていない人間なのだ。

自分で表紙をかいてみたいものだ。 ただ、それがある程度人にうけいれられなければ 金がもたないし、さみしい。 そこで人に頼るのだが、やはり自分でやっていないだけあって おもしろさがすこし足りない。 いつまでも頼る人がいるわけでもない。 いつまでも頼っていてはおもしろくない。 だからオレは絵がうまくならなければならないのだ。 少なくとも、あの世界で下手とみなされなくなる程度まで。 今回はかなり本気で思ったと思う。

コピー本やきなおしオフセット本の穴埋め。 文章ネタが楽だし構成上いいかとも思ったが、 どうせだから漫画にしよう。オレだけが漫画を追加できるのだ と思うとやらねば損をするような気がしてくるではないか。 1ページものの連作を2から4ページ。何かうかべ。

2000年3月6日

終わった。Reliable Memories。 コピー本も出るには出た。 そして、完売した。 なにかウソくさい。 20部しか作ってないし200円だったのが大きかろうが、 一緒においたオフセットも25部ほど売れたので けっこうなんとなくそれっぽい。 どうしたものか。とりあえずオフセットにでもするか。 すげえ。清水の絵の力を思い知った。

2000年3月3日

力の限り遊んでいる。原稿を描いたり、ダベったり、 ダラダラしたり、ほっつき歩いたり。 本当に力の限り遊んでいる。 あさっては本番、Reliable Memoriesだ。 小松師匠のおかげをもって 意外なほど速く計画の第1段階(一回のイベントで投資が半ば回収できる状態) を突破した上に、第2段階(元がとれる状態)も虎の穴という 予想だにしなかった手段によって突破できそうである。 虎の穴というのは同人誌を扱う店で、 そこに同人誌の販売を委託することができるのだ。 当然マージンはとられるが、それにしても在庫がはけることの方が問題だから 是非お願いしたいというものである。 これも小松師匠のお力添えがあってのことだ。 100部委託することは決まっているので、 今回のイベントの売れゆき次第ではさらに200部の再販をかけるという とてつもない事態になる。 おもしろすぎだ。

2000年3月2日

良月、JAG、かたはらが来た。 天一を食って京都を感じた後清水のうちで えんえんと本の題名を決めるという口実でダラダラ馬鹿話をしていた。 午前3時現在、題名も決まり、清水には悪いが表紙を描いてもらっている。 オレはこれから実験。昼間遊べるようにと時間をずらしているのだが、 しんどいな。

今回清水は漫画を描けない。時間がないからだ。 だがオレやら他の人間はこれから描き始めるような状態にもかかわらず 漫画を描くつもりでいる。 この差は何かといえば、どこまで原稿に時間をかけたいかという気持ちの差だ。 上がらない原稿に意味はないという考え方もあれば、 カス原稿を上げて人に見せるのは罪だという考え方もある。 清水はいいかげんなものは出したくないようで、 今回のコピー本は乗り気ではないようだ。 さて、考えてみると清水は表紙やらなにやらで明らかにがんばっているが、 オレは到底がんばっているなどと言えない。 オレが本を作ろうと言っているのは、 作り手の態度がどうとかでなくて ただ本をつくるということがおもしろいだけだ。 客のことなんて考えてないひどい話だ。 それだけに説得力はまるでない。 しかし、オレが胸をはってがんばっていると言えるくらい がんばって原稿を描けば許してもらえるかもしれない。 いくら空手なバカ漫画でも。 といいつつ、ちょっと内容に関しては後悔している。 せめて絵くらいきれいにしようと思うが、格闘は楽しい一方むつかしくて困る。

2000年3月1日

ああ、原稿。ああ、実験。ああ、アホ。 そう、今日の夕方にはアホがその眷属を従えてやってくるのである。 そんな状態で原稿など描けるか。 否。描けはしない。 そんな状態にもかかわらず、オレは下書きも終えておらず、 目次のレイアウトもまだ決めていない。 しかしもっとまずいのは清水だ。 9ページの漫画を描くと言っていたが、 今しがた電話をかけて聞いたところ、どこをどうやっても無理だという。 仕方ないので表紙にとりかかってもらう。 というわけで、20ページ本となる。 それにしても内容なさすぎだぞ。このままだと。 というか、それ以前に本出せるのか? だんだん出ない気がしてきた。

我々は突発コピー本のようなものには向いていないのだろう。 メンバーが関東と関西に分散している上に、 漫画を描き慣れた人間が一人もいない。 今回の本をあきらめたわけではないが、 すでに漫画をあきらめざるを得ない状況になる人間が出ていることを考えると よしんば本が出たところでまともに出せたとはいえまい。

またやった。スーパーでカップラーメンが異様に安く、 メシを炊くのも面倒だったので買ったのだが、 吐き気がする。もう、吐くべきか。 眩暈がする。これは毒だ。毒だ。 そんなことは前からわかっていたのに、 なぜこうもくりかえすのだ。 原稿を描く時間を増すために買ったのに、 これではかえって減ってしまうではないか。 しばらく動きを止めて回復を待とう。 しかし、今度のはひどい。 今までとは桁はずれの症状だ。 視界が回る。本当にひどい。


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