日記

2000年2月29日

そろそろ原稿のデッドラインだ。 今日あたりからまともに描かないとどうしようもない。 だが、実験は容赦なく襲ってくるのである。

眠い。腹減った。疲れた。これに「やる気ねー」がつけくわわると 世界は破滅へと向かうのみなのだが、 幸い今はやる気がないわけではないので、 なんとかなりそうな気がする。 しかし、家はあまりに汚い。 そこで、清水んちに行ってフロを借りてから原稿にとりかかることにしよう。 さしあたってそのための手土産たるメシを用意せねばなるまい。

結局寝てしまった。マズい。と思っている午前7時のこと、 まさしろが来た。東京帰りである。 様々な同人誌にまじってイベントの申込書が多数ある。 とにかくも、今年は出られる限り出るという方針のため、 出られる限りは出るのである。 というわけで、5月28の大阪でのComic Communication、 6月18日の東京でのSunshine Creationには申しこむ。 20日から30日ごとに締切がやってくる、まさに地獄のスケジュール。

サークルの掲示板に感想が書いてあった。 しかもオレのがおもしろいだなんて書いてくれている。 これが感激か。これが創作の喜びか。 がんばって描こう。 …バカマンガを。

複数のタスクが同時に襲ってくる。 やりたいこともたくさんある。 もっと器用に時間を振りわけないとどうにもならない。 こんな状況ではプログラミングに割く時間がまるでないではないか。 ゲーム会社にプログラマとして就職するという わずかな望みのために今は修行せねばならないのに。 物を作る仕事の範囲で唯一向いていそうなのはプログラマくらいなのだ。 それを逃してはもはや物を作って生きてゆくことなどできまい。 裏方でもいいから物を作る仕事をしたい。 それをあきらめるほど現実は辛くない。今のところ、だが。

2000年2月28日

土曜は夕方から寝ていたのだが、起きたら9時くらいだった。 15時間くらい寝ていたようで、ひもじい。 10円消費してWEBを見て回ると、 メモリが9000円を割っていた。 買う条件は満たしている。ただ金がないだけだ。 思えば以前8000円くらいに落ちた時もそうだった。 どうせだから64MBを5000円で買うというのも みみっちくて素敵かもしれない。 それでも128MBになってかなり快適になる。 どうせだから133MHz品にして外部クロック限界に挑戦というのも悪くないだろう。 今日のイベントの結果次第ではそれくらいしても大丈夫かもしれない。

今日は原稿を描こう。間にあわないじゃないか。

拳法A&Aを少し増やした。そのかわり研究報告が古くなったので消した。 他にも小説を改訂したりいろいろとした。 久しぶりに更新した気がする。

K62+が正式にとりやめになった。 Socket7はこの瞬間に過去の物となったわけだ。 でも、さようならできるほどオレには金はないのである。 そんな金があったらオレはメモリを買う。

4月23日のこみっくパーティーに申し込むことに決めた。 モノは「雫」。清水はこれから読むことになる。 なぜ雫かというと、これが一番絵が清水くても違和感がないからだ。 ホワイトアルバムは同人誌を作りにくいし、 ToHeartは他と違う本を作れそうにないうえに清水の絵が一番合わない。 こみパは論外だし、 痕もまた萌えキャラタイプがいるので清水い絵には合わないっぽい。 というわけで雫から行くことになったのである。 同人地獄だ。

コピー本原稿申告の締切は過ぎた。 けっきょく3月5日に出すコピー本は 我がサークルの人間だけで作ることになってしまった。 申告したのはオレと清水とまさしろだけ。 かたはらは中表紙、裏表紙に穴埋め協力となった。 というわけで、もう台割りが作れてしまう。 そこで作ってみた。 28ページとコピー本としては標準的な厚さである。 これを20部も刷って5日にもってゆき、 売れ行き次第では体裁を整えてオフセット本にでもしよう。

思ったより筋肉痛がない。背筋をだいぶつかっていたせいだろう。 荷物を持つ時も渡す時も螺旋で力を伝えるように工夫していたし、 歩くのも走るのも内勁を意識していた。 そのおかげでさほど疲れもせず、筋肉痛も残らずに済んだのだから まさに太極拳さまさまである。 またやろう。金がないときは肉体労働に限る。

清水のコピー本用の漫画のプロットを読ませてもらった。 清水は絵だけでなく文章まで清水い。 たぶんオレの文章は平山いのだろう。 のぞむところだ。

もりりん氏のコンピュータを組み上げる。 いろいろあったが、大したことでもない。 というわけで、無事終了した。 その後スパゲッティーをおごってもらい、 腹いっぱい食うという感覚を久しぶりに味わった。 あまり気持ちのいいものではないな。 今となっては。 今はなによりもほしがきとミューズリーが食いたい。

本は50部売れたらしい。 半分近く返ってくる計算になる。 これならなんとか続けられそうだ。 最初でこれなら、次や、そのまた次にはもっと状況はよくなっているに違いない。 そう信じよう。

18000。やっと今日は更新できたので、 この数に感じる罪悪感がやわらいだ。 さっさと原稿をあげてまたちゃんとした更新をせねばなるまい。

2000年2月27日

引越しのサカイでバイト。 洛北高校の校舎改築にともなって、 職員室と事務室を移動させるという仕事だ。 何十にも及ぶ机、椅子、 コンピュータ。そしてえんえんと続く紙の入った箱。 20人のバイトが直列にならんでリレーで運ぶ。 10時間に及ぶ戦いだったが、 きつさそのものは大したことはなかった。 むしろ寒さの方が問題だ。 プロのくせに段取りが悪く、 待たされる時間がやけに長かったからである。 確かに休憩できていいはいいのだが、 動かないと寒いのでどっちもどっちだった。 終わったのは17時すぎ。 バイト料は9956円。44円は所得税。これでほぼなんとかなるだろう。 イベントが一段落して卒論が終わるまではバイトはしなくてすみそうだ。 それにしても 帰りに買ったほしがき(1パック100円) は本当にうまかった。 今頃漫研の連中は追出しコンパをしているのだが、 バイトをしたからといって金があまっているわけでもないし、 なにより疲れて眠いので寝る。こんな状態で酒の席なんて無理もいいところだ。

坊主化して一日が過ぎる。 髪が長いのは変だといわれるが、 髪がないのもやはり変だろう。 やはりオレは普通の人にはなりたくないらしい。 こちらの方が実用に即しているとしても本質は同じだ。 ところで、あと三ヶ月もすると、 オレは地上に存在するほとんどの髪の長さを 体験した人間になれる。 今のところ欠けているのは丸刈りからスポーツ刈りの間だけだ。 そこから先は尻まで髪が届く状態まで経験済みなので、 おそらく人類の99.999%よりも多くの状態を経験したことになるだろう。 だが悲しいかな、それに意味はない。

最近音域が広い。高校の時はグリー(男声合唱)部でバスだったのだが、 今なら短時間ながらテナーも出ないことはない。 男が標準的に出せるドの音から7度下のレがオレの低音限界で、 これは高校のころからあまり変わっていないのだが、 高音限界はだいぶ上がった。 高校の時はそのドから12度上のファあたりでもう使いものにならなかったが、 今は出すだけならその2度上のラも出る。この差は大きい。 なんとルパンを半音下げただけで歌えるのだ。 もっとも、今流行りの歌はそのさらに2度上のドあたりまで使うのが常識なので オレにはどうしようもない。しかし、逆に言えば2度(4半音)下げれば歌えるわけで、 一度カラオケでオレがB'zとかを歌って皆のド肝を抜くのも悪くない気もする。 髪を切って普通の人を目指す身(もっともあと三ヶ月ほどかかる気はするが) としてはそういうのも悪くなかろう。 しかし、カラオケに行く機会なんてまるでない。 そんなことに金を使う気もせん。 つまりダメだ。

2000年2月26日

道場の帰り、のじりが丸刈りにしてくれるというので、 してもらった。映画「小林寺」にでもでてきそうで似合っていると 言われたが、 オレはそれをよろこんでいいのかよくわからない。 しかし、本当に丸坊主になってしまった。 かなり白い。数日中に色は黒くなるだろうが、 それでも坊主は坊主だ。 一転して、髪の長い人から髪のない人になってしまった。おもしろい。

2000年2月25日

今日は不覚にも清水の口車にのって餓狼伝(板垣版)を6巻までそろえてしまった。 参考資料として必要だったとはいえ、それは2巻だけだったのに。 それにしても餓狼伝はおもしろい。 よくやりすぎな演出だけが問題にされるが、 演出の基本はよくおさえているし、 技術としてもかなり高度なのである。 ところで、どう参考にするかは秘密だ。

東京におくりつける荷物を作るために清水んちに行ったのだが、 ダラダラと何もせず夜になってしまった。 今腹が減って金がないのでオレがメシを炊きにもどってきたところである。 もちろん炊けたら清水んちにもってゆく。 ポスターを一枚一枚ビニールにつつんで、 テーブルにしく布を縫って、 そして発送するわけだ。 ちなみに原稿はまるですすんでいない。 あとは下書きに入ればすぐなのだが。

茜ポスターはいいできだった。 この調子で夏コミまでにONEの6人全部のポスターを作ったら けっこう話題になるかもしれん。 オレも何か話題になるようなものを作ってみたいものだが、 まるで努力が足りんな。 プログラムでもがんばろう。 一つのゲームをちゃんと完成させられたらゲーム会社も雇ってくれるかもしれん。 プログラムだけでもまだまだ完成はほど遠いからな。

文ゲー汎用プログラムだが、 シナリオファイルのフォーマットが問題になっている。 例えば字を青くする命令を例にすると、 階層的なフォーマットでは「ここからここまで青い字」とかき、 直線的なフォーマットでは「ここから青、…ここから白(元が白なら)」とかく。 範囲を指定するか、ただそのつどどうするかを書くかという違いだ。 人間が書くなら前者の方が圧倒的に書きやすい。 しかし、機械が処理しやすいのは後者なのだ。 そこで、人間が書いた前者のフォーマットを機械が読みやすいように 後者に変換すればいいことになる。 しかし、変換をするのも機械なので、そこがまた面倒なわけだ。 ただ、後者の方が圧倒的に処理が速いので 売り物にすることを考えると変換処理をすませてから 製品にした方がいい。 とすると、まずは後者の直線的フォーマットに合わせて処理プログラムを作り、 その後変換プログラムを作ることになる。 いままで考えていたのは階層的フォーマットの方なので、 直線式フォーマットも考えねばなるまい。 なぜこういう考えに至ったかというと、 階層式フォーマットを直接処理するプログラムがあまりに面倒くさいからだ。 しかし今思ったのだが、変換プログラムはけっこう簡単な気がする。 一回処理するごとに階層を減らしていって、 階層構造がなくなるまでなんかいも同じ処理をすれば済むだけのことなのだ。 いままでえんえん考えていたのはなんだったんだろう。 ちょっと原稿を上げてから作ってみよう。

しかし、変換プログラムを作るよりも、 グラフィカルにシナリオファイルを作れる windows的なソフトを作った方がいいのかもしれん。 というか作らんと売り物にならんだろう。 HTMLを直でかかずにホームページ作成ソフトを使う人間が 多いことを考えれば当然だ。 ああ、しんどいなあ。

2000年2月24日

バイトに行ってきた。草津。 電車で400円だ。 そこの近鉄百貨店の売場設営をした。 早い話荷物運びである。 デパートの売場には デカイものがたくさんある。 服が置いてある棚やら試着する部屋やらもうそれはたくさんある。 当然それは誰かが運びこんでいるわけで、 そういう仕事だった。 お給金も悪くなく、5時間で5200円。 ただ仕事はしんどかった。 デカいし、重いし、多いのである。 5000円というのはこのような価値のお金であったのかと思うと 今までの無駄使いがあまりに愚かに思えてくる。 これからはもう無駄使いはすまい。 そう決心して帰れば途中の牛丼屋を見ても耐えられるのである。 ちなみに次のバイトはキツいと評判の引越しのサカイ。 丸一日で10000円だが、今日と同等かそれ以上の労働が倍の時間続くと 考えるとどうにも暗い気分になる。 しかし、それで10000円の価値というものがわかって よりケチになれると思えばなんとかなるに違いない。

金が足りない。計算によると今月は45000円ほど足りていない。 20000の借金。道場の月謝3ヶ月分未払いで18000。 それにどうも足りてないっぽい7000円。 45000円かせいでやっと収支がつりあうのである。 今日のお給金でだいたい道場の月謝が1ヶ月分払える。 あと2ヶ月分はサカイのバイトともう一回なにかをすればまかなえる。 さらにもう一回丸一日級のバイトをすれば、なんとかそれで形になるはずだ。 親に借りた20000円は来月2万円分ケチればすむ話で、 それはアホみたいに簡単だ。思えば今月がおかしかったのである。 散打の講習会があったり、グルメごっこをしてやけに外食をしたり、 夏コミに申しこんだり、同人誌の印刷費を出したり。 って、よく考えるとこれからも恒久的に襲ってくる種類の出費がある気もするが、 きっと回収できると信じよう。 でなければえんえんバイト生活を余儀なくされるのである。 それはイヤだ。そうなったら定期バイトにしないと体がもたない。

Cyrixの新作CPUが発表された。 その名も「Cyrix III」。 ペンティアムIIIに対抗してるのがみえみえでたまらない。 そしてクソ安い。推定450MHzのものが99ドル。256kBのL2塔載でだ。 こいつが前評判通りに浮動小数点が速いならSoclet370マザーを買う気になる。 金があまるのがいつになるのかは知らないが。

2000年2月23日

イベントは実行された。 要するに、床屋へ行った。 たぶんここ15年で一番髪が短くなったと思う。 一撃目に切った長いのは記念に持って帰ってきた。 どこかにしまっておこう。 しかしまあ、たかが床屋とは言え五年ぶりともなると いろいろ新鮮だ。こっちはただ適当に短くしてくれればそれでいいのに、 何回となくちょっとづつ切って形を整えているのを見ていると何やらおもしろい。 こちらが想定していたより長目になったあたりも、 さすがに落差が激しすぎて恐かったのかもしれないなどと思うと またおもしろい。 もっと短くしてくれと言ってもよかったのだが、 いちいち整えていたあの手間を考えるとなんだか気の毒になって そのままにしてもらった。 最初から丸坊主にしてくれと言えば早かったかもしれない。 髪型なんてどうでもいいからだ。 人に怪しまれなければそれでいいのである。 丸坊主でツルツルにしても、 尻まで髪があるのに比べれば一般人だろう。 ねぐせも関係ないからいいかもしれない。 それにしても清水の奴が喜びそうだ。 ことあるごとにオレに髪を切れ切れ言っていたのは奴なのだから。 というわけで、今回のことは奴のせいということにしておくのがおもしろい。 フラれたとかだともっとおもしろいのだが、残念だ。

ねぐせが問題になるほどではないにせよ、中途半端に長いな。 本当に丸坊主にした方が楽かもしれない。 オレの髪は硬いので、こう短いとほとんどまっすぐ立ってしまうのである。 そのためになにやら縦に顔が長くなったように見える。 別にいいのだが。

さりげない動作の中に長い髪が前提になっている動作が数多くあることに驚く。 上着を着る時や座る時に後ろを手で払うのなんかはその代表だ。 髪をどこかにはさんだりしないための動作で、自然に身についたものである。 髪がなくなってもついやってしまうのがおもしろい。 この動作が習慣から消えた時、 オレの髪が長かった時代の痕跡は全て消えるのだろう。 普通じゃない人でありつづけようとしてきた想いの象徴が、なくなるのだ。

もうシャンプーもいらない。 リンスなどゴミ箱行きだ。 せっけん一つあればことたりる。 極端な話、体はぬれた布で拭けばいいし、 頭は流しで洗えるので風呂屋に行かねばならないということもない。 生活が大きく効率化されるだろう。

学相(学生相談所)に行ったが、 夕方から朝の間にあるバイトは一個しかなかった。 そして案の定なくなってしまった。 12時すぎにいっても掲示が少なければやはり無理ということのようだ。 なにせ12時すぎにはすでに20人くらいは並んでいるのである。 今度は午前中にもいってみよう。 というわけで、明日は10時と12時に学相に行くことにする。 なんとか道場の月謝とコピー本の印刷費は最低稼がねばならない。 もっともバイトを紹介してもらえないことには何も始まりはしないのだけど。

ということで、今日中に下書きくらい片づけてしまわないと危険かな。

PCR(Polymerase Chain Reaction:DNA合成連鎖反応)の3時間待ちの間に 原稿を描こうと帰ってきた。だが、シャープペンシルがなかった。 オレは現在シャープペンシルは2本しかもっていない。 その一本が行方不明になったのだ。 間違ってゴミといっしょに捨ててしまったかもしれない。 残るは研究室に備えつけている一本のみとなった。 買うのももったいないが、研究室に戻ってとってくるのもバカらしい。 仕方ないのであきらめて他のことをする。

フロ道具をもって清水んちに行こう。 2月27のイベントに必要なものをそろえに行くのだ。 ついでにこの頭で驚かせて楽しもう。 行くまでにはまだこの日記は読んでいないはずだ。

片足に4キロの重りをいい感じにつける方法を開発した。 これで日常4キロづつつけて生活できる。 かなり重い。 が、2kgつけて生活していても足がどんどんあがるようになっていたので、 相当効果はあるはずだ。

清水んちに行った。5月5日のイベントの申込のために サークルカットを描いてもらいに行ったのである。 ついでにイベント展示用に、 夏コミに出したサークルカットの茜をA3に拡大して看板にしたいと言ったら、 なんとベクトル化を始めやがった。 元の絵はピクセルである。 ピクセルの絵とは要は小さい色のついた正方形のあつまりで、 拡大するとその正方形の単位まで大きくなるので拡大には向かない。 一方ベクトルは鍵になる点を記憶してその間を数学的な曲線で補完する 形式なので、点と点の距離に応じていくらでもなめらかに曲線がひかれ 拡大してもきれいである。 確かに元が小さい絵なので拡大すると正方形が見えてしまうのだが、 所詮看板だ。遠目でわからなければいい。 それにもかかわらず、清水はベクトルにかえようというのである。 元の絵の線の上に点をおき、その軌道を元の線に合うように変えてゆく。 一個一個点を置いては方向を決めてゆくその作業は 見ている方もしんどくなるほどメンドクサイ作業だ。 さすが清水といいたいところだが、頼むからコピー本の表紙を描いてくれ。 看板がほしいなんて言ったオレが悪かった。

しかしまあそれはそれとして、オフセット本の表紙をA3に拡大した ポスターはかなりきれいだった。 買い手もいるのではなかろうか。 茜もベクトル化が終わったあかつきには あれくらいきれいなポスターになるのだろう。

2000年2月22日

今の心情を記念して、 ちょっとしたイベントをやりたいと思う。 明日になっても心がわりしていなければやることにしよう。 オレにそうしてほしい奴も多い。 誰かにおねがいできると金がかからなくていいのだが。

好き好きinサンシャインのサークルチケットが届いた。

学生相談所にアルバイトをとりにいった。 夜中しか使えないので徹夜バイトになるのだが、 あまり数はない。 並びはしたが、直前でなくなってしまった。 12時40分にはすでにわんさか人が並んでいたので、 明日はもっと早く行かねばなるまい。 徹夜バイトがまたあることを期待して明日を待とう。 どうせ今の状態では時間があっても有効に使えやしないのだから、 そんな時間は金と筋肉に替えてしまった方がいいのだ。

昼寝したら夢を見た。 研究室の先輩から「おまえは研究室にいなさすぎる」 というメールがくる夢だ。本当に夢なのだろうか。 そんなメールも掲示板の書きこみもみつからないが、 どうにも気になる。

弘前大の漫研の人が京大の漫研の掲示板にかきこんでいた。 そこからリンクをたどったらRUINの絵があった。 高校の時寮で同室だった奴だ。 あいかわらずやる気なさそうでなによりだ。 そうだな。オレをひさしぶりに見た奴が 「あいかわらず自信満々でなによりだ」と思ってくれるように なんとかするとするか。ただ、そろそろ自信にも根拠がいる。

すずうたの曲がしみる。

4時55分。となりのこーへーが帰ってきた。 別にだからどうしたというわけでもないが、 漫研の奴等はどうしていたんだろう。

2000年2月21日

もりりん氏のコンピュータを組むために日本橋へ行った。 とにかく安くあげるのが目標。 その結果、12万くらいで600x1200DPIスキャナ、 インクジェットプリンタ、2倍速CD-R、17インチモニタがついて CPUも400MHz、メモリも128MBでモデムまでつくというなかなかの構成となった。 ちなみにスキャナもプリンタもCD-Rもどこの馬の骨とも知れないもの ばかりなのだが、本人もそれでいいらしいので問題ない。 コンピュータなんてそんなもんだ。 ちなみに、組むのはモニタが到着してから。

買物の途中にちょっとコケた。 かなりモーロー状態で歩いていたらしい。 それでひざの下のところをすりむいた。 大したことはないが、 考えればすでに何日か風呂に行っていないのである。 しかしまあ、たかが風呂ごときでしなくてもいい痛い思いを しなくてもでもいいじゃないか。 やめた。 最後に風呂に入ってから何日がたつのかは想像におまかせする。

かゆい。

家には食料がある。米、麦、豆。 それでいい。それで、いい。

4年でちゃんと就職する奴と、 えんえん留年したり進学したりして稼ぐあてがない奴がいる。 もし前者の方が仕送りが多かったとて、 それをもって甘やかされているとは言えない。 結局総額は後者の方が多いかもしれないのだ。 ふとそう思った時、いろんなことが結びついて急にイヤになった。 オレが院になど行って、それで一体どうなるのだ? 院は好きでやらない限りにおいては実験という仕事をするところにすぎない。 金を払ってやる仕事だ。好きでやれれば何も問題はないが、 そうでなかったら一体どうするのだ? オレは好きなことからさほど外れないことをして食っていくのが目標だ。 しかし、それだけの能力が自分になるのだろうか。 あきらめる、というと言葉が悪いが、 分をわきまえる、というと途端にいい響きになる。 そんな言葉の違いに左右される自分の心に気づくと、 さらに自分が負犬に思えた。 ずっと、やってみてから考えればいいと思っていたし、 やってもみない奴はダメだと思っていた。 しかし、やってみて失敗するほど無駄で迷惑なことはない。 どうにでもなるさ、と言葉では言うが、 自分でそれを信じ切れない自分を見るにつけまたイヤになるのだ。

世界が自分の力でどうにもならないほどややこしいいうことを認めると、 世界は逆にとてもかんたんなものになる。 どうにもならないものは、どうにもしようとしないのであるから、 どうでもいいのである。 政治も、経済も、彼岸のイベントだ。関係ない。 自分が直に影響を及ぼせる範囲、自分に直に影響を与える物事。 それだけが世界であって、他はどうでもいいのだ。 街にひしめく人々も畑の大根とかわらない。 それは実感として事実であって、誰も責められはしない。 選挙に行かないのなんてあたりまえのことだったのだ。 同人誌を作る人達も、創作の欲求からというよりは 直に影響を与え合うことができる世界を求めているという面が 強いのではなかろうか。 それでいいのだとしたら、才能もない身で無理に「質」などという 幻想を追い求めても何も残らないのではないか。 だが、そうだとして、オレはどうすればいいのだろう。

2000年2月20日

土曜の夜、例会後どうもダルくて やる気なく清水んちに行って、 やる気なくやる気ない話をしていたら 4時になっていておどろいた。 そうか、やる気なく生きるとこんなにも人生は短いのか。 そう思ったので帰った。 清水も同じ思いだったにちがいない。

BGMに適当にゲーム音楽を流していたのだが、 たまたますずうたの曲とKANONのオープニングが 連続してかかった。 急に泣けた。 理由はわからない。 これらの曲がどういうイメージでオレの中に 刻まれているのかはわからないが、 それがオレの心に何かをしたのだろう。 オレはみたされていないのだろうか。 こんなにやることがあるのに。 元気になったと思ったのに。

部屋はたいがいかたづいたけれども、 ふとんをしくのがめんどくさい。 いや、なぜかしきたくない。 こたつもしまってしまった。 寝袋で寝ることにした。

コピー本の話は energenのメンバー用掲示板(トップの下の方にあります) にかいてあります。 メンバーじゃなくても歓迎ですので、 参加を考えておられる方はそちらを見てください。

2000年2月19日

ひるま。急にやることがなくなって呆然としている。 次の本の準備やら、サイトの大更新やら、 ○週間ぶりのそうじせんたくとか、 まあそれはもういろいろとあるのだが どれもさしせまった実感がないのが困ったものだ。 まずはメシを炊いて、せんたくをしながらそうじをするのが 吉だろう。 それにもうこたつ寝はやめた方がいい。 こたつもしまってしまうのがいいかもしれない。 おお、そうだ。 ふたたびこの部屋をなにもないガラガラな部屋にして 一人ほくそえもうではないか。でも、めんどくさいなあ。

コピー本の話だが、布告をかいてちょっと後悔した。 まにあうんだろうか?本当に。 でも、まにあうんだろう。きっと。 本なんてものは締切さえ決めてしまえば 自動的にできてしまうものだからだ。

6ページコマ割り完了。下書きに入る。 バカ漫画もいいところだが、まあ、いいや。 オレ以外はたいがいまともなものを描く傾向があるので、 オレくらいバカなものを描いた方が 本の構成としてはいいに違いない。 どうせ絵では勝負できんのだ。 あとは穴埋め漫画のネタの用意だな。 編集の都合上1ページのネタは常に 用意しておかねばならんのである。

2000年2月18日

昼までかかって全てをおわらせた。 ただし、オレはセミナーがあるので 入稿は清水にゆだねた。 この結果で思い知ることになるか、調子にのることになるか。 27日にすべてがわかる。

その2月27だが、どうやって東京まで行くかが問題だ。 印刷のおかげでもう金はない。どれくらいないかというと、 見事にない。手持ちは3000円程度である。 郵便局にも電話代に消える程度しか入っていない。 今月はわけのわからない用途でなにかと金が消えたため、 いつもよりもさらに最悪の状況だ。 こんなことならCPUなんて買うんじゃなかったと後悔するも、 あれなしで原稿を描くことを考えるとそうとも言えない。 まさしろと清水に今の段階で4分の1づつ払わせればなんとかなるが、 やはりここはかせぐしかあるまい。ところが、 昼間は実験がある。今週は原稿にかまけて ロクに実験をしていなかったので、 その分をとりもどさないとマズいのだ。 夜間バイトを探してなんとかするしかない。 えり好みせずにやったとしていくら稼げるかはわからないが、 冷静に考えれば考えるほど行けない気がしてきた。 良月、かたはら、まさしろ。後は頼む、かもしれない。

電気の力を借りて原稿を描く経験をして、 自分に必要なものが見えてきた。

優先順位から行くとメモリを128MB増やすことが急務だ。 かかる時間の半分以上待ち時間というのはお話にならない。 あと絵のかき方に関してはどんどん単純化していく必要がある。 オレの絵というものを確立して、 どんな角度でも楽に速くかけるようにならないと ページを増やすことができない。 このままでは見栄えも悪いし、労力もかかる。

眠い。体がダルい。道場はサボり。なさけないが、 入稿直後だ。

買物の帰りに長月氏にばったり会い、 そのまま彼の家に行ってメシを食わせてもらう。 ダラダラ絵をかきながら話をして今帰ってきたところだ。 さて、今日はふでペンでいきなり絵をかくのがけっこう楽しいことに 気づいたのが収穫だった。 そりゃデッサンもまともにできないオレのかくものなので ゆがみまくってはいるのだが、そこそこがんばって描くと そこそこなんとなくそれっぽく見えるのがおもしろい。 今度出すコピー本で1ページくらいふでペンで漫画を描いてみようか などと思ったりする。もちろん落書と違って下書きはちゃんとするけれども。

2000年2月17日

かたはら氏からの原稿が到着。 あとは清水が表紙をあげて、 オレが自分の原稿と穴埋めにとどめをさして、 まさしろの原稿を回収すればよい。 明日の朝まで勝負だ。 実験どうしよう。 もう昼なのに行ってない。 マズいかなあ。

2000年2月16日

原稿が、あとはコンピュータ内の処理だけとなった。 もしこれがどうしようもなく遅ければメモリ増設となる。 原稿があがらないという事態はもはや許されないし、 コンピュータに完全に依存した形で原稿をかいているために もはやどうにもならないのである。 親に泣きついて金を借りるしかない。 自分のあさはかさと計画性のなさがイヤになる。

編集のむつかしさと大切さを実感した。 周到な準備が勝利の鍵だ。 今回は編集に時間をかけることはできないが、 次に作るコピー本で試してみる。 小松師匠の教えを活かそうではないか。

ところで、本の構成を確認していたところ 2ページたりないことがあきらかになった。 表紙の裏は白紙、ということを忘れていたためである。 清水はまだ表紙の色を塗っており、裏表紙も中表紙も線画だけ。 オレも自分の原稿が完成したわけではない。 しかし、もうこれはオレの責任であるからして、 オレが2ページ埋めねばならないのである。 もはやさし絵をうまく配置しつつ文章ネタで攻めるしかあるまい。 とにかく、今回思ったのは「後書きはやっぱりいらん」 ということである。 ページは増えて金はかかるし、手間は増える。 それにしても、今回はオレを含めて全員がギリギリである。 ギリギリであるからして編集に割ける時間など皆無だ。 仮にもまともな本を作ろうとするのなら 入稿3日前には全原稿を手に入れておかねば話にならないだろう。 モノを見ずに編集するなど不可能なのだ。 個々の作品の出来がいいからといって本が いいものになるとは限らないのである。

身近にサイトをたたむ人が出た。 オレがたたむのがいつだかは知らないが、 いいかげん全面改訂したくて仕方ない。 時間は作るものなのだが、 作り方を忘れてしまったようである。

2000年2月14日

昨日はBright Season 5に行って、 いろいろとショッックを受けて楽しかった。 本も10冊も売れた。 100部売れるような本をつくるために、 がんばるとしよう。 さしあたって清水のうちにいく。

2000年2月13日

土曜の夜までは原稿かいてました。 下書き4ページと、荒下書き4ページが終わりました。 あとは荒下書きを本下書きにして、ペン入れして、 とりこんでベタやらなにやらするだけ。 ただし、それにどれだけかかるかは謎。

清水んちでバイオハザードコードベロニカをやっているのを見ていた。 通称バコベロ。他にもいろいろあるが、今はいい。 で、バコベロがおもしろいことはよくわかった。 さて、清水は何をしていたかというと、 この前のコピー本を売りに行くにあたって、 表紙をかきなおしてたのである。 オレがこうして日記をかいているのと時を同じくして、 彼はえんえんとインクジェットプリンタPM3300をフル回転しているのだ。 あとは表紙の到着を待って本をバラしてさしかえるだけである。 それにしても、やってみるとできてしまうことが多いのに驚かされる。 清水は絵をかくのにメチャクチャなエネルギーをかける男だ。 それ だけに、時間もかかる。 しかし、今回は数時間で色付きのものをあげてしまった。 オレがなんもせんとバコベロをみている間に、 彼は絵を一枚かいてしまったのである。 であれば、オレも戦わねばなるまい。 3月5日のイベントにむけてコピー本をつくる計画を正式に発動させよう。 まあ、入稿の後ではあるけれども。

清水の日記にはオレの名がよくでてくる。 オレの日記にも清水の名はよくでてくる。 オレと清水は似ているところと似ていないところがはっきりしていて、 オレはおもしろいし、清水もおもしろいらしい。 人間同士が互いにおもしろがっていれば、それはいい関係だ。 だから、オレは喜んでおくことにする。

オレが議論をするとき、それはたいがいオレにとってエンターテインメントだ。 楽しくて役に立たないことをエンターテンメントというならば、 大学生の議論はたいがいエンターテインメントであるに違いない。 互いに力を尽して楽しませ、楽しむ。 なにせ議論というやつは人間が出る。 理論的思考が特に強調されるけれども、 そこには人間を感じ、知ることのもっと感覚的な驚きもあるのだ。 議論というと硬く感じるけれども、ネタなんてなんでもいい。 会話と区別することもない。 会話と議論の間には無限の段階があって、 時と場合と人によってそのどこの位置になるかは変化するものなのである。 アニメでも、ゲームでも、政治でも、哲学でも、 料理でも、なんだって同じ文法で議論することができる。 言葉だって大半は同じでいい。 ジャンルごとに思考方法が変わったり、 言葉が大幅にかわるのは何かが違うんじゃないかとオレは思うのだ。 「マルチがかわいいか否か」と「教育はどうあるべきか」 は社会の維持に関係する度合以外ではまったく 同等に高度な議題といっていい。 社会の維持に深く関係する話題であったとて、 その議論がなんらかの影響を及ぼさない限り ムダであることに変わりはないではないか。 将来その手の職につかない限りにおいて 教育の話をするのもマルチの話をするのも、 やり方さえ同じならばまるで同価値だと思うのである。

言葉は互いにそれを同じ定義で理解している場合にのみ 正しく伝わる。そんなことは現実には決してないのだけれども、 日常よく使う普通の言葉ほど人による定義の誤差は少ないものだ。 もちろん時にはむつかしい定義の多様な言葉を使うことで ギャップをあいまいにして会話を滞りなくすすめる必要もある。 でも、それだけではきっと熱くならない。 きっとおもしろくない。 意見を言うことが「XはYだ」という宣言をすることだとするなら、 Yは相手のわかる言葉、正しくは相手と自分の定義が同じか かなり近い言葉である必要がある。 ここで定義といったが、これは言葉であらわされるような単純なものではない。 例えば、「洗脳」という言葉を十人が聞いた時、 定義を言葉で言った時はそんなに違わないかもしれない。 しかし、その言葉に対して抱く感情やイメージはまるで違う。 そんなに悪いイメージをもたない人から嫌悪感を示す人までさまざまだ。 そういう言葉は基本的に議論には不向きではないだろうか。 これが専門用語ともなるともっとやっかいで、 専門用語にはイメージがまるでないことが多い。 イメージがない、言葉だけで定義された言葉は 実感をもってわかることができない。 言葉を感じることができない。 そんなものは、わからないのだ。 議論は相手の言っていることがわからなければ進まない。 わからないのはわかる言葉を使わない方にも責任がある。 漢字二文字の音読みの言葉で 明治になってから作られたような言葉は たいがい強いイメージをともなっていない。 だから、漢字が多い会話をするのはオレは嫌いだ。

確かにわからない言葉で話すのは大人の社会には必要なことだ。 ぜんぶ意味をわかるように話していたら摩擦は起きるし、 時間はかかるし、疲れるし、利益というものがある以上自分の不利になることも多い。 社会というやつはけっこう適当に動いていくものだから、 会話もある程度は適当である方がいいのだ。 しかし、友達と、それもちょっと議論っぽく話すのだったら、 たまには言葉のイメージを互いに確認しながら一歩一歩話してみるのもいい。 むつかしい言葉で議論をした気になるのとも、 適当にさわりのない会話をするのとも、 少し違った楽しみがあるのではないだろうか。 そればかりしていると疲れるのでほどほどにするのがよいのだけれども。

2000年2月12日

修羅場と散打の渦中。 落ちつくまでまってください。

2000年2月11日

散打講習会前半おわり。 これから誘われたので、原稿をかきにいく。 明日は昼から散打講習会。 死ねというのか。

2000年2月10日

切羽つまると人間なんとかなりそうになるものだ。 ものすごい勢いで漫画のコンテが改良された。 わかりにくい、展開が早い、という2つの弱点をかかえるオレの漫画を 改善するには、ページを潤沢に使うのが一番早い。 しかし、それは金やら時間の関係上今回は無理だ。 であれば、内容を減らせばいい。 いやいや、この表現は誤解を招くな。 「ページ数にあった内容の量にする」のである。 内容の量というのは早い話イベント(動作、セリフ)の数であるから、 少ないイベントで印象の強いものを表現できるように、 イベントを厳選すればいい。 いままで、16ページネタを8ページで描くようなことは 日常茶飯事だった。コマ数をそれでも1ページ6コマ程度におさえるために、 徹底的にコマ数を減らす工夫をした。 その結果、怒涛のように話がすすむ漫画になってしまっていたのである。 そう、まるでズバットのように。 これは、書く前に内容を厳選しなかった結果ともいえる。 もちろんページを潤沢につかって描けばなんら問題はないし、 今の漫画はそれが主流だとは思うのだが、 時間、労力、そしてなにより発表形態を考えると ページ数が多いのはそうそう歓迎されないことなのである。 より少ないページ数でも同じだけの印象を与えられるように努力した方が オレは性にあっている。 将来WEB漫画をやる時にも、その方がいい結果をもたらすだろう。 もっとも、それは時間と金がないという現実の条件があるからであって、 両方がある程度あるなら長いものもかきたいのだが。 200ページで痕の梓シナリオをアレンジして描いてしまうとか。

清水が昨日の日記に対して「オレだってけっこう涙もろいぞ」と文句を言ってた。 そこはまあ近似の精度というやつで、とりあえずの傾向を見ようと 2つのパラメータでやってみたわけだ。 もう少し精度をあげるにはパラメータをふやすなり補正の方法を考えればいい。 次にやるとすれば、経験によって特定の種類のものに対して感動が増幅される現象を 説明することだろう。いわゆる「萌え」の説明だ。 めがねっこがたまらないとか、人がいなくなるシナリオに弱いとか、 そういうのだ。 こういうのを分類して例のパラメータにかける補正値にすれば もう少し近似の精度があがるのではなかろうか。 しかし、それをやるとちと複雑になるので、 やはりあの程度ですませておいてもいい気もする。 所詮日記のネタだ。考察と呼べるものではない。

すすうたの曲が気持ちいい。 頭にこびりつくわけでもなく、 そう独創的なわけでもないのだが、 なにか心地いい。

ElectricEyesはいいソフトだが、 gnomeがいるので面倒だ。 なんんかいいもんはないかと思ってみると、 qivというのがある。 gnomeもいらず、どうやらimlibをたたいてるだけという感じだ。 ソースが50Kしかない。 しかし、軽いので使い勝手はいい。 ElectricEyesとgnome、さようなら。

2000年2月9日

ONEドラマCD2。茜ちん。 またもや出来が悪い。 特に音楽。次に構成。 演技はまあ、許す、 と言いたいところだが、折原ダメすぎ。 無理にさわやかで困る。 心情を考えろ。妄想が足りん。

ああ、脚本まで悪い。 妄想が足りてないからこんなことになるのだ。 そんな説明的なこと言うものか。くっそー。 原作にない部分をつくるのはいいのだが、 そこがショボイ。ショボすぎる。 クサい。クサすぎる。 寒い。寒すぎる。

たぶんこれはONEという物語の本質を見誤っている。 世界観を見誤っている。 久弥怒ってるんじゃないのか?

KANONのOVA作るのは一体だれなんだろう。 これと同じ連中が関わっていないことを祈る。

ONEはやはりヤバい。 こんな出来の悪いもんを聞いていても、 原作の破壊力は十分にオレを壊せるくらいには残されている。 KANONなど比ではないヤバさだ。 決めた。清水にやらせる。ハマらない気もするが、 KANONよりはマシだろう。しかしまあ、なぜハマらないだろうなと思うのだろうか。

人間のハマリ特性が2つのパラメータを設定することで説明できると仮定してみよう。 一つは情緒的なもの。イメージや雰囲気、人柄などだ。 もう一つは理性的なもの。出来事や形や構造などだ。 人のハマり特性はその2つのパラメータの値である程度説明できる気がする。 世の中の作品をそういうパラメータで分類し、 ある人がどのバランスのものが好きかということを考えると 人を分類することができるのである。 2つのバランスでどういう傾向のものを求めるかがかわるし、 2つのパラメータの大きさによってどのレベルのものを求めるかが違ってくる。 また、この値は物を見る時だけでなく、作る時にも影響を及ぼす。 不幸なことに、そのパラメータとその人間がどちらの思考を得意とするかは 全く別だ。情緒的な人間が理性的なものを好む場合、 やはり好みである理性的なものを作ろうとする。 しかしながら向いていないわけだからいい作品を作るのはむつかしい。 また、値が大きい人はそれだけ高レベルのものを求めているので、 能力がともなわない場合それだけ苦労することになる。 能力と好みの傾向が一致して、かつ能力と執念の十分にある人間だけが 真に名作を作れるのではなかろうか。 ちなみに、オレの嗜好はだいたい情緒70%理性30%のバランスなのだが、 オレの能力はその逆で理性80%情緒20%といったところである。 嗜好の方の値は大きく、相当な高レベルのものを要求する。 つまりは能力的に向いていない上に要求水準が高い。 悲しいことだ。 また、清水の奴をこうやって分類すると 能力はオレと似た傾向をしめすが、嗜好は全く正反対である。 あいつは能力の傾向と嗜好の傾向がある程度一致しているようなので、 その点ではうらやましい。 ちなみに、作品を作る能力について考えるなら、 もう一つ「執念」というパラメータがいる。「やる気」といいかえてもいい。 これが大きいほど根性をいれていっしょうけんめいがんばれる。 能力があって、嗜好の傾向もそれに一致していても、 この執念がなければ物をつくることはできないのだ。 これも自信ない。

ある事象について、どういうパラメータを設定すれば 納得のゆく分類ができるかを考えるのはおもしろい。 先の例で言えば、嗜好の情緒的要因と嗜好の理性的要因 というパラメータによって好みがある程度説明できる。 RPGの能力値をどのように設計するかもこれと同じである。 これをするには、「目に見える物事の違いはどの性質の違いに起因しているか」 をとらえればいい。 少数のパラメータを設定して試験をし、 現実の事象があわなくなってきたら パラメータを追加する。 そうやって、満足できる精度の近似ができたところで完成である。 この「どの程度の精度で満足であるか」をはっきりさせるのもまたたいせつだ。 TRPGとコンピュータRPGでは自ずとその精度も違ってくるだろう。 また、論文にまとめて学説にするのとこうやって日記でたわごとを書くのでも 違う。思えば物理学はこのプロセスにおいて最も発展した学問だ。 物体を体積も大きさもない点と仮定して扱っていたのが、 硬さが無限大であるが形をもつ剛体に発展し、 ついには流体や硬さをもつ物体までを表現している。

物事を理解するには2つの手段がある。 一つは前の段落にかいたように分解して理解する方法。 根本がわかるかわりに、現実に応用できるまでには数々の近似を開発せねばならない。 もう一つはそのまま経験、事例としてストックする方法。 根本原則はわからないし他のものには応用できないが、 同じタイプの物事への応用が簡単で、数をこなせば使える範囲も大きくなると いう利点がある。どっちもいるのだが、 たいがいの人はどちらかにかたよっているものだ。 そのかたより具合がおもしろい。

のじりが拳武会のロゴを書きに来た。 帰る時には雪がふっていた。 大きな、綿のような雪だ。きっと明日の昼には 消えてしまうのだろう。 だから、今のうちによく見ておく。 かわらに雪というのはなかなか風情がある。

2000年2月8日

ONEのドラマCDを聞いている。 何がいいたいのかよくわからない。 どうしよう。

そんなはずかしいシチュエーションがあるものか。 お目覚めのキス。このCDでヤバいのはそこくらいか。 ところで、ONE読みたい。 と思っているまに頭に広がるこれはなんだ。 そういえば夏コミはONEでもうしこんでいた。 受かるとも思わんが、受からんでも委託はできるかもしれない。 広がる妄想、ウッ、ウッ、ウルフのマーク。

しかし、声出るとはずかしいな。ONEって。 KanonのOVAが楽しみだ。 同じテイストではずかしいアニメが展開されるに違いない。

ああ、音楽悪い。ゲームのそのままもってくれば 数万倍マシなのに。ああ、もったいない。 もったいない。あー、もったいない。 ま、脚本、構成、演出全てでダメなのだ。 ダメなのだ。が。ダメなのはこのCDのそれであって、 元もとのものではないのだ。 KANONなど敵ではないわ。 やはり、ONEはすごかった。 蘇える記憶がそう言っている。

もっとも、オレのツボにはまっただけというやつかもしれん。 出来がいいからオレがダメにされたのか、 オレをダメにする要素が入っているだけなのか。 もはや判断できん。

ああ、音楽悪い。演出悪い。 くそぉ。はらたつ。 以上NO1感想。

まさひろとこうへいと漫画をかいてた。 コンテが8ページできたっぽいので、 明日下書きを終わらせる。 さっさと終わらせて、もっと描きたい。 話のネタだけならたくさんあるのだ。 妄想の産物である。

2000年2月7日

清水がメシ食いに来て寝てる。 さっきまでとあるお方から借りた月下の棋士のドラマのビデオを見て 寒く笑っていたところだ。 原作のテイストを再現しようとして見事にハズしているのが 悲しくもあり、おもしろくもある。 顔はあんなに似ているのに。

FreeBSDのCVSupの使い方を勉強して実行中。 OSの状態を自動的に最新のものにしてくれるプログラムだ。 winowsでいえばwindows updateみたいなものだろうか。 しかし、OSそのものをまるごとやるあたりがwindowsとはモノが違う。

一応礼儀なので京都市長選挙にいこうと思っていたが、 ねすごした。別に何も困らないが、 いい子ちゃんであるオレとしてはいまひとつつまらない。

筋肉をもっとハデに鍛えようと思って、 2kgの重りを買ってきて足につけている。 どうせだからと手首にもつけている。計8kg。 これでメシを食ったり階段をあがったりするとかなりこたえる。 しかしどこがキツいかというとやはり背筋が主なので、 動作は間違ってはいないようだ。 これで腕やら肩が疲れるようでは 間違っているのである。 師範は小学生のころに両脚に1kgづつつけて登校していたというのだから、 いずれ4kgくらいつけて平気にならないと情けないだろう。 しかし、そうなると重さよりも体積の方が問題だ。 今でもズボンからはみだしているのである。 ところで、一日中つけてて外すと えもいわれぬ快感があるので、注意したい。

ボンバーばくだん。

前の段落は しろー大野作「ムッシュゴリグリ鈴木ドヤコペッティの優雅な生活」 に出てくる一節である。 負けだ。今道場の先輩に借りているので、 読みたい人はいってください。 例会に行けたらもってきます。 ~

2000年2月6日

まさしろの奴がなぜか夏コミの申込書をもっていた。 それで、清水に電話してみた。 すると出すことになった。 その後清水んちに行って寝て起きたらサークルカットができてた。 茜ちん。ONEだONE。ものすごい勢いで話が進んでいるが、 夏コミなんて競争率メチャクチャなんだろうし、 あまり深く考えなくてもいいだろう。 仮に受かるにしても半年も先の話だ。

本なんて締切さえ決めればできてしまうものだ。 締切が近くならないと作業にはかからないのが困りものではあるが、 締切が近づいてくれば作業はするものなのである。 オレやら清水やらの頭の中では、「落とす」ということが 恐怖すら感じるようなイヤなイメージをもっているので、 たぶん本を出すといって出さないことはないはずだ。 そうやって描いてりゃうまくなるんだろう。たぶん。

サークルのサイトの更新が早い。 清水が日記をかくようになったからだ。 いまのところ毎日かいている。 ただの日記でなく必ず一枚絵がついているのが大したものだ。 リンクもはりまくっているようだし、 そのうち人がくるようになるのではなかろうか。

2000年2月5日

昨日の日記を書いた直後にウシオからメールがきておこられた。 ゲームをどうしたいのか、とすごいことを聞かれた。 とりあえずオレさえおもしろければいいので オレがおもしろいゲームを誰かが作ってくれればいいのだが、 結局それは自分で作るしかないので、 そういうことを書くのは不毛だったのである。 くちだけはいけないな。

拳武会(オレが所属する中国拳法団体)のサイトを作ってほしいといわれた。 内容を考えるのはしんどいので、内容は他の人におしつけて オレは技術担当ということになった。 UnitEnergenのサイトと同じである。 しかし、サイトを作ったとして、 その存在をどうやって知らしめるかが問題だ。 リンクをはるのも相手にどういうサイトを選べばいいかわからないし、 宣伝の方法もない。 一体どうするのだろう。

なお、なぜそんなことになったかというと、 このサイトを師範と先生に見られたからである。 太極拳のことはかなり秘密っぽいことも書いているので、 シメられるのではないかとかなりヒヤヒヤものだったのだ。 事実、「リークしてたのか」と言われはしたが、 冗談の範囲だったので一安心である。 で、ついでにサイトを作るという話になった。 サイトができたせいで入門者がきまくるようなことになるとやっかいだが、 そんなこともなさそうなので大丈夫だろう。 世の中戦いたかったら普通は空手に行くものなのである。

師範の過去をいろいろ聞いて、 かなりおもしろかった。すごすぎる。 漫画にできないくらいベタベタである。 ユダヤ人のヴァイオリンニストの幼少期の話を そのまま拳法におきかえたようなものなのだが、 「人を破壊する技」である段階でおもしろさがケタ違いなのだ。 物を破壊するのが楽しくて、家中を破壊してまわるのが趣味になってしまい、 わざわざ頑丈なはなれを作ってそっちに住まされた、なんてのは ヴァイオリニストのエピソードよりもおもしろいだろう。 廊下の両側の壁にすきまなくミットが並んでいて 打ちながら歩く習慣になっていたというし、 小学生のころから足に重りをつけて生活していたという。 どこまで書いてもネタにしかならないし、 あまり書きすぎるとヤバい気もするのでこのくらいにしておこう。 いずれ漫画にしてみたい。

2000年2月4日

吉田神社の節分祭に行ってくる。 オレとも思えないほど金を使ってしまったが、 まあ、いいだろう。いいはずはないのだが。

その後おとなりさんのところでPCエンジンのおひろめを行なった。 PCエンジンに親しみのある人は少なかったので、 かなり新鮮だったらしい。 そもそもラストハルマゲドンにせよR-Typeにせよ超兄貴にせよ なんらかの意味で激しいゲームだ。 近頃こういう激しいゲームが少なくなったのがさみしい。 漫画同様にゲームも成熟の時代になったということか。

バイトを紹介してもらえる可能性がでてきた。 コンピュータ関係、それもゲームがどうとかの講師らしい。 それって、すっごくヤバいんじゃなかろうかと思うが、 紹介してくれるというその人もそう詳しいわけではないから なんとかならないこともないのだろう。 しかし、人に物を教えるなら、 それにふさわしい能力を身につけておかねばなるまい。 原稿が終わったらさっさとプログラムのスキルを成長させねばならないだろう。 しかし、講師がバイトというのは何か間違ってはいないだろうか。 金を払ってバイト君に物を教わろうなんて人はいないだろうに。 まさか、その事実は隠蔽されているのか? しかし、一体何を教えるのだろう。 プログラムは基本的に独習するものっぽいし、 ゲームデザインなんて教えられるものとも思えない。

ゲームデザインというが、今となってはルールデザインにすぎない。 ルールとゲームが同義だった時代はとうの昔に去っている。 キャラクターデザインよりもルールデザインが重要であることは めったにないのだ。 その現状を考えるにつけ 世の中の大半は時間をつぶすためにゲームをしているのではないかと思ってしまう。 自分の小学生、中学生のころを考えればそれも間違いではないだろう。 しかし、どうせ自分で作るなら 時間が限られていてもやりたくなるくらいおもしろいものを作ってみたい。

RPGと呼ばれるジャンルのゲームに顕著だが、 待ち時間や作業時間が異常に多い。 一度見たムービーを見るのは基本的に無駄である。 判断を伴わない、作業と化した戦闘は無駄である。 操作することそのものがおもしろい、というわけにいかないのがRPGであるから、 そのおもしろさにおけるルールの役割は、判断する機会を いいバランスで常に提供することだ。 将棋のおもしろさと同質であることを考えれば、 その本質は判断である。 たいがいのRPGでプレイ時間の8割以上は戦闘だと思うが、 そのさらに8割は作業時間にすぎない。 比べて漫画、小説を読むにあたって無駄な時間はほぼ0だ。 一方RPGにおいてはゆうに6割以上の時間が無駄であることが多いのである。 であれば、どう考えても漫画を 読んだ方がマシだ。 考えてもみよう。 FFが仮に40時間で終わるとする。 しかし、40時間というと映画20本が見られる時間だ。 オレなら何らかの理由がない限り後者を選ぶだろう。 ストーリーを語る媒体としてRPGは時間を無駄に食うだけで 漫画や小説や映画に勝るはずがない。 ゲームという形態が他のメディアと競争力をもつのは ルールの存在によってであり、 優れたストーリーもルールの組み合わせによってそれらに勝る娯楽となるのである。 であれば、ルールは絶対的に優れていなければならない。 時間を食う非効率的なゲームが他の娯楽と競争力をもつためには、 ルールの力を最大限に利用することは不可欠である。 ストーリーだけなら漫画などにするなり、 ほとんど無駄な時間のないノベル形式にしたりすれば済むことなのだ。 大したルールも作れないのに無理にRPGの形式にするのは無駄もはなはだしい。

2000年2月3日

おとなりさんといっしょにカレーを食った後、 えんえんダラダラ話した。 ああ、オレってなんでこんなに調子にのるんだろう。 で、その後PCエンジンのおひろめ。数々の名作を見せてよろこばす。 ポピュラス、R-Type、ラストハルマゲドン、 スーパーダライアス、ガンヘッドなどなど。 思えばPCエンジンもおもしろいゲームがいっぱいあったのだなあ。 結局機械ごと貸した。サルのようにポピュラスをやる姿が 目にうかぶ。

2000年2月2日

コンピュータを組むために日本橋へ行ってきた。 で、リーフの新作が目に入ったら買ってしまおうと思っていたのだが、 どこも完全に売れきれていた。そんなに人気があったというのか。 とりあえず、普通に買物をして帰ってきただけ。

タクティクス・オーガで忍者軍団を作って遊ぶ。 10人忍者だ。必然的に全員野郎。 殴られると異様に弱いのが難点だが、 足が速いので距離をちゃんと計っていればそうそう食らわない。 敵をひきずりこんでから距離をとりつつ包囲して、 一挙に矢で殲滅する。しかしながら攻めるとなると弱いし、 1ターンで殲滅できなければかなり辛い目にあう。 リーダーを殺せばすむ時は強いが、 殲滅が勝利条件だと長びくので地獄だ。 こんな編成で保つのは今のうちだけだろう。

ktoreishi氏から 帰ってきたESSのサウンドカードがどうも認識されなかったので、 ALS120をつんだ安物を買ってきた。 ところがこっちは認識はされるものの動かない。 困ってもう一回ESSを差してみたら、あっさり動いた。 Vibra16xのような不都合もない。 ちゃんと差さっていなかっただけだったのか。 1280円損。まあ、売り払うから500円くらいの損害か。 明日VbiraとALSを売り払いにゆこう。 音源がほしい人にはVibraは1100円、ALSは700円で売ります。 明日の夕方までに。

ものすごい勢いでいきなり不安になった。 自分の急な変質がその原因だ。 近頃、 目にみえてやる気がなくなった。 目にみえて攻撃性が消えた。 目にみえて頭を使わなくなった。 目にみえていいかげんになった。 それはいいことだと近頃ずっと思ってきたのだが、 そういう変化はこのサイトをつまらなくはしないだろうか。 サイトに限らずオレの作るものがつまらなくなりはしないだろうか。 基本的にわざわざ見るほどおもしろいものというのは 互換性のないものに限る。他にないから見るのだ。 他にないのはなにかというとそれは結局人間であって、 作品にあらわれる作者がおもしろければ作品はおもしろくなる。 オリジナリティーがどうとは言わないが、 つまらん人間のつくったものはつまらないに違いないのだ。 しかしまあ、それはどうにもならないことなので、 できるのはせいぜいがんばることくらいだ。 というわけでやる気がなさすぎるのはダメなのである。 さしあたって漫画をかけば救われる気がする。 サイトに置く気になるくらいのものを描こう。 そのうち、前作った本にかいた漫画もおく気になるかもしれない。 自分がうまいと思えるようになることは一生ないにしても、 ヘタクソではないと思えるようになることなら不可能じゃない気もする。 やる気復活といくといいのだけれど。 とりあえず、組み立てちまうか。オラ。

2000年2月1日

昨日は清水んちでえんえんサークルのサイトの更新をしていた。 のじりもいて、寝てた。かなりダラダラしていたので、 ダラダラにも飽きるだろうと思ったが、ダラダラというのはなかなか飽きないどころか 慣れてしまう恐しいものらしい。困ったものだ。 しかし、いくらやる気がなくても締切があれば動くのだし、 一度動いてしまえば楽しいのでかなりがんばってしまうのが常なのである。 それすら失われるほどふぬけると命にかかわるだろう。

で、今日は研究室の修士論文発表会だった。 とにかく、3月半ばまでになんとか結果らしきものを出さないと いまひとつおもしろくないと改めて思った。 「これこれこういうことをやったけれども、何も出ませんでした。」 というのはつまらないだろう。 がんばりはしないが、あからさまに手を抜くのはどうもイヤという困った性分 なのである。

しくじったぁ。イデオンを見せた人間のうち2人がわざわざ日記にそのことを書い ていて、さらに「おもしろい」とか「10話しかみられなくて残念」なんて書いてた。 よー考えたら今日は例会の日だったじゃないか。もっていって見せりゃよかった。 うー。無念。人がオレと同じものをおもしろがるなんて すっごくめずらしいことなのに。 こうなったら、次で全話完了させる覚悟で全部もっていってやる。 覚悟してれ木曜日。ヒャッホー。 この勢いでボトムズを見せられるともっとうれしいんだけどなー。

思えば、オレと同じものをおもしろがる人間は少ない。 つまりは、オレが人と同じものを面白がらないということだ。 最近ではヴァルキリープロファイルがいい例だろう。 ものの評価なんてものは、その人間が「どの要素を重視するか」と、 「優れているとはどういう状態だと思うか」によるわけで、 オレはいささか平均的とはいえないということなのだろう。 さて、評価というものは自分の中だけの話なら好きか嫌いかの話であって なんらむつかしいことはない。しかし、これを他人に伝えようとすると 話が違ってくる。それだけ客観性を帯びねばならなくなるからだ。 「このシナリオはいいか」ということを考えるには、 「どういうシナリオがいいのか」ということを知らねばならないが、 客観性をもたせるためにはこれを 「よいと思う人が多いシナリオとはどのようなものか」 ということにおきかえねばならない。 これによって、「なにがいいものか」ということが人によって 違うにもかかわらず、ある程度使える評価になる。 次に「どの要素が重要か」だが、 「その形態のものについてどの要素が重要だと考えらられることが多いのか」 と問題をおきかえることでそこそこ客観的にできる。 ゲームの話でいえば、 ノベル系ならルールの比率が下がってシナリオの比率があがるだろうし、 アクションゲームならルールの比率が高まるだろう。 もちろん、こういう作業を経てできあがった評価とて 所詮平均値である上に、人の判断がはいっているのだから そう大したものでもない。しかし、およそ批評というものは こういうステップを欠かしては成立しないのである。

ところがこういうふうに書いた批評は けっこうもっともなのはいいがつまらないことが多い。 批評が読ませるものである以上そこにはおもしろさが必要だ。 一般的に何がおもしろいかというと 人の独自の判断がおもしろいのであるからして、 客観性だけが高すぎるものはおもしろくなくなる。 この客観と主観のバランスがいい批評は読んでいてもっともなうえにおもしろい。 「ここがオレの主観だ」ということをことわってから 主観をかくのは、客観性をそこなわずにおもしろくなるいい手だ。 「こうこうこうですごい。だがオレはどうも嫌いだ」 というのは批評として成り立つだろう。

客観というやつは理性が言葉を用いて生みだすものである。 言葉は互換性があるので、他人と共有しやすい。 対して、主観は言葉を用いるタイプの理性からは生まれないので、 互換性がなく、共有しにくい。 ところが、互換性というやつは他と接触しなければ必要ない。 人に自分の考えを伝えるのに言葉を使うのは面倒であり、 言葉に変換する過程で変質もする。 だから言葉で伝えるべきことだけに言葉を使うのがいい。 言葉うんぬん以前に人に伝えても無駄なことだってたくさんあるではないか。 それでもやってしまうのは、悲しく空しい人の習性なのだろう。 この日記がいい例である。

近頃言葉で考えるのをやめるように努力している。 オレはこれまで言葉を使いすぎてきた。 言葉によらない頭の働きをもっと開発すべきだ。 理性やら悟性やらの長所は正確で互換性があることだけで、 遅いし、疲れる。 言葉によらない思考を仮に「なんとなく法」 言葉による思考を仮に「ゴリゴリ法」と呼ぶならば、 前者のほうがはるかに楽で速い。 他人に伝えられなかったり再現性が薄かったりと弱点はあるが、 他人に伝えようなどとしなければそれで済む。 特に絵やら作曲やら小説やら漫画なんてのは「なんとなく法」によって やるのが本当なのだ。「なんとなく法」 で作った後に「ゴリゴリ法」をちょっとだけ使って それがどの程度のレベルなのか、とかどう改善できるのか などをテストする。「ゴリゴリ法」の出番はそこだけだ。 考えるより感じよう。ただ、感じた後にちょっとだけ考えよう。 それでたぶんたいがいうまくゆく。

なんとなく東洋思想はやる気がなくて、西洋思想はやる気まんまんな イメージがあったが、それは頭の使い方が「なんとなく法」主体か 「ゴリゴリ法」主体かという違いなのだろう。 「ゴリゴリ法」の人は疲れて自殺したりもするので、 その成果の価値はどうあれ本人はたいがい不幸にみえる。 オレは楽しく生きたいので、「ゴリゴリ法」は少しひかえることにする。 「てきとー」に「なんとなく」「いい感じ」に考えるのだ。


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