オトモ、自分で絵本を読むね。すごいな。音読してゲラゲラ笑っている。
今、ハマっている本は、鈴木のりたけさんの「大ピンチずかん」色々な大ピンチをランク分けして分類している本。これ、オトモみたいに失敗がべらぼうに多い子には良い。
この前、テーブルの上に置いてあった鉛筆削りをオトモが蹴っ飛ばして、削りかすをテーブルと床に撒き散らしたときも、大ピンチずかんの鉛筆削りのページを思い出したようで、とても冷静に状態をみて掃除機を持ってきて掃除していたよ。
オトモ、ディスレクシアなのはほぼ間違いない。「ぼく、グチャグチャになっちゃうから、教室では字を書きたくないな」って。まあでも1年生だし、今からタイピングに全振りするわけにもいかないから、量を減らしてちょいちょい書かせる。タブレットに指で「変なこと」を書く練習が一番負担が少なそう。
まあ、問題はすごく色々あるんだけど、今の状態はとてもいい。
先生に教育を求めなくなって、ほぼ接触がない状態をキープしているのがいい。
先生達は本当に真面目だから、子供に「教育」をしようとする。先生達の行う「教育」は、みんなと同じことができて目立たなくなるように我慢させる、静かにさせる、じっとさせる、頑張らせる、苦しみに耐えさせる、みたいなことで、これが本当にオトモと合わない。鉄棒をただ握って感触を楽しんでいるオトモに近づいて、先生は「よし!逆上がりだ!」といきなりお尻を持ち上げてオトモを逆さまにしてしまう。先生たちは、鉄棒と言えば逆上がりだし、縄跳びと言えば前跳びだ。縄跳びを持っていても、ただ波形を作っているだけかもしれないし、ただ引きずってガリガリいう音を楽しんでいるだけかもしれない、という発想は無いらしいのだ。
そうなると、本当にオトモと合わない。オトモからしてみたら、鉄棒を持って楽しんでいたら、いきなり体を逆さまにされてしまう。縄跳びを持っていたら、いきなり翔べと言われる。言葉が通じないから恐怖でしか無い。
こういうのって、保護者が言っても絶対に分からないし、クレームにしか思われないから言えない。
書きたいことは色々あるけど、眠いから今日はおわり。
オトモの調子がいい。分離が順調だ。 家や療育先では、自然に分離が出来ている。1時間位の留守番なら子供だけでも普通にできるようになっている。私が2泊3日の旅行に行った時も大丈夫だった。療育の時も1時間、先生と二人で過ごせている。
でも、学校では無理だ。先週先生に向かって「ぼくは お母さんのことが 大好きだから、ぼくは お母さんと はなれるわけには いかないよ」と唐突に宣言した。おそらく学校では私と離れたくないと強く思う理由があって、「ここはちゃんと先生に伝えておかないと!突然離れさせられたら大変だ!」と思っての発言だったのだろう。私も学校では、オトモから離れる気にはなれない。オトモが敢えて宣言をした理由はよくわかる。
オトモが学校で私と離れたくないと宣言するのは、学校の先生方の考え方からくる言動がオトモにとって安心できるものではないからだ。自分も先生と呼ばれる立場で働いていたことがあるからよく分かるのだが、先生は日々、同僚の先生や保護者に指摘をされるような言動をしないことを目的にして学校生活を送っている。問題行動を起こす子供は、子供や家庭の問題だと言えるから、子供よりも大人社会でミスをしてダメなやつと判断されないことに重きを置いてしまう。子供を見て、子供にとって最善になるように行動することはない。どうしても取り巻く同僚などの大人のことを考えながら行動するから、子供が嫌がったり、やりたがらないことを子供の気持ちを汲むこと無く強いる。だから、いつまでも子供の信頼を得られない。
オトモのような子供は「自分と向き合う気がない大人」を見分ける能力がものすごく高い。というか、ちゃんと自分に話しかけていないと、オトモは声を掛けられていると気が付くことができない。オトモに話しかけている風を装って、隣にいる大人(私)に「オトモの相手をしている」事実を作ろうとしている先生の声は、声の大きさに関係なく、オトモの心に届かないので、オトモは無反応になってしまう。
オトモと話すのって本当に難しいんだな、って学校にいると思う。オトモに声が届いてオトモと会話ができる先生は、すごく少ない。っていうか、今の所居ない。
先週の個人面談以降、交流級の先生は、オトモに対しての接し方が変わった。おかげで、オトモは3回ほど教室外での授業に少しだけ参加することができた。先生の声掛けや接し方が変わるだけで、オトモは先生が自分を排除していないことを感じとり、またクラスの子供たちも先生がオトモを排除していないと感じてオトモへの接し方がものすごく変わった。その結果、オトモがクラスの中に自分が居ても良いと思えるようになったっぽい。
オトモはだいたい3-4時間目頃に「今日のミッション」を全て終わらせて帰宅する。午前中に、親子でニコニコ街を歩いていると、年配の方がよくオトモに注意をしてくるのでヘルプマークが欠かせない。前と後ろに付けたいくらい。どんなにズル休みの元気っ子に見えても色んな事情があるんだよー。
今日も帰りに二人で川を見てたら年配の女性に「ほら危なっかしい!落ちるんじゃないよ!」と突然叫ばれた。即、「心配して頂いて有難うございます(^^)オトモ、落ちないでねーって心配して下さっているよー(^^)」と怯まずにガッツリ良い人オーラを張って笑顔で相手の目を見て言った。私は謝らないぜ。
女性は「魚なんて居ないでしょ!何を見てんの!」と注意口調のまま話し続ける。オトモは動じず「アメンボーだよー。それとバナナ。」その辺りでやっと女性の何かが緩む。「バナナ?」「そうだよ。バナナ。」「それ、バナナの木なの?」とオトモと(私の通訳)と女性で暫く川を見ながら話をした。
最後はニッコリ笑顔でお互いに「ありがとうございました(^^)さようなら!バイバーイ!」とお辞儀して別れて。話がしたかったの?注意がしたかったの?お願いだから最初から笑顔で話しかけてほしいよ。注意やしつけや正義を会話のキッカケにするのは本当に止めてほしい。
今日はヘルプマークが私とオトモの間にあって女性からは見えなかった。見えていたなら今回のようなことは起こらない。ヘルプマークは私にとって、「絡むと面倒な人間」とアピールする御札。「怒っていい女子供」という弱い立場から、「存在を無視される」さらに弱い立場に差別のグレードを上げる札。
今日の会話の様子から、オトモのコミュニケーション能力が随分と伸びていることが分かった。これだけ話せるなら、逆にこういう経験を積むのは良いかもしれない。でもなぁ、どんな人が話しかけてくるか分からないし、結構危険な賭けだよなぁと、考えている。
今日は9月5日ぶりに、交流級の中に5分程度居られた。外で球根を植える作業だったので、友達が寄ってきて、色々とやり方を説明してくれた。そして、最後は先生が手を繋いで一緒に仕上げてくれた。いいやり取りだった。
そんなこともあったりして、下校時間は給食が始まる頃になった。2学期最長記録。
普通にこんな事ばかり考えるのは、精神衛生上良くない。本来の私はもっとユルユルなオメデタイ頭の人なんだから、もっとくだらなく生きたい。
だから、たかしさん、早く帰ってきてー!
オトモ、22日に続いて、今日も分離療育で私から離れられた!全然平気そう。
旅行に行ったんだよ、私。 11、12、13日と伊勢に旅行に行った。すっごい良かった。私、やっぱり旅行が好きだわ。そして、オトモは3日も離れていられた!
夜に伊勢市駅に着いたのだけど、久しぶりに駅前にしゃがみ込んでたむろしている十代を見て、何か懐かしいような気持ちになりつつ通りすぎて。そこからホテルを探して歩いたら、今度はコンビニにたむろしている十代が居て。もうそれを見ただけでなんか、旅している!って気持ちが昂揚した。
とりあえず、チェックインして荷物を置いたあと、どこかでご飯を食べようとまた駅方面に歩いた。個人のお店は全然開いて無くて、営業しているのはチェーン店のファミレスか、居酒屋だったので、とりあえず「さと」に入って、味噌煮込みうどんとビールを注文した。ビールを頼んじゃうところで、なんかまたグッと来たね。
20代、30代のころは、一人で歩いていると日本でも海外でもかなりの確率で話しかけられたし、絡まれたし、巻き込まれたし、なんなら昼間の赤坂の一ツ木通りでも抱きつかれたり、触られたりしていたので、夜に出歩くなんて以ての外だったし、まして、一人で外でお酒を飲むなんてあり得なかった。でも、あの夜は、ヤられないように、自分でバリアを張れていそうな気がして、夜に外を歩けたし、お酒も 気持ちよくご飯を食べられたし、帰りにコンビニに寄ってお茶とチョコレートを買った。そして実際に誰にも絡まれなかった。それがなんか、嬉しかった。
まあ今回も、めちゃめちゃ話しかけられたし基本舐められている?と思うことも沢山あったけど、ちょっと中身の質が上がっているんだよね。前回の身延山の旅行の時から、話しかけられ度は変わらないけど、危険な人は寄り付かなくなっていると思う。旅行している土地が身延山と伊勢神宮だからってのも多分にあるだろうけど。
ええと。食べたものは、味噌煮込みうどん、うなぎ、甘酒、神代餅、伊勢うどん。2泊3日で食べられたものはこれだけ。メインはお参りだし、沢山あるきたいからお腹いっぱいで具合が悪くなったりしたくないから、仕方なかった。
お参りはすごい良かった。明治神宮も出雲大社も三島神社も凄いと思ったけど、伊勢神宮も気合がすごかった。気持ちが良かった。大きく自由に生きようって思った。
あとは太鼓が良かったね。太鼓教室のリーダーのカリスマ性が他を圧倒していて面白かった。見ていて涙が出てきちゃって、驚いた。
帰ってきてからも色んなことがあるけど、いい感じに力が抜けていると思う。
それと。大河ドラマのお陰で気持ちを逃がせるのもいいのかも。ひどいと思ったことがあった時に、大好きなカッキーの良いところや、あるいは、たかしさんの良いところを真剣に文章にしたりという、だいぶ気持ちの悪いことをして気持ちを切り替えている。
たかしさんの良いところは、なんと言っても頭がいいところ。初めて会った時に、「わー。こんなに頭の良い人、今まで会ったこと無いよ。すごい人だ。おばけみたいな人だなぁ。この人に100歳まで習いたいなぁ。わたしのことを好きにならないかなぁ。」って。次の日も「昨日会った人がすごく素敵で、私のこと好きになってほしいって思うのだけど、多分、あんまり人を好きにならないタイプだろうから、ゆっくりだろうなぁ。」なんて同僚に話したんだよね。
その時から、今も印象はほとんど変わっていなくて。今も、たかしさんの圧倒的な頭の良さがにじみ出る視野の広い話しや考え方、賢い話し方、説得力、先を見通した行動力に本当に憧れている。こういうのって何年も一緒に居て、一番近くで見ていても身につくものじゃないのね。私もたかしさんに近づきたいけど、そういうわけにはいかないみたい。
まだまだ、たかしさんの素敵な所を書けるよ。声が良いところ、音楽を持っているところ、肉体的にも精神的にも強いところ、教養があるところ、努力するところ。これらは、たかしさんが自分で努力して獲得したものだよね。すごいよ。誰も到達できないものをたかしさんは自分で意識して身につけたの。
あとは神か?ってくらいの包容力。これもすごいのよ。たかしさんに初めて抱っこしてもらった時、ものすごく気持ちが落ち着いて、びっくりしたんだ。ああ、こんなに落ち着くのは、生まれてきてから初めてだって思ったの。なんで他人なのにこんなにずっとくっついていられるんだろう?って。
あとは、どんな命に対してもちゃんと大事にしているところも好き。誰に対しても尊敬の意を持って接しているところも好き。虫でも、植物でも、豆でも、種でも、子供でも、大人でも、男でも、女でも、物でも、本当に何に対しても対等に平等に接することができるのって、凄いんだよ。私もそうありたいけど、出来ないもの。
とか。書いてるの、気持ち悪いでしょ。何度も推敲して最高の文章にしよう。今度はカッキー。
カッキーを初めて舞台で観たときに、(うわー。こんなに人ってエネルギーが放出できるんだ!遠い舞台上からでも、こんなにパワーが伝わるんだ!届くんだ!眩しいってこういうときに使うんだな、自分の中からのエネルギーで燃えて燦めいている、まさに太陽みたいな人だなぁ。でも、人が生きるのに使うエネルギーを周りの人に与えすぎちゃっていない?放出しすぎちゃってない?人として維持して生きていくための、自分に使うエネルギーの分を取っておいていないでしょ?これ無自覚だよね?生きるための最低限確保すべきリミッターが壊れちゃってない?心配になるよ。大丈夫かなあ。ああ!だからすごいエネルギーを纏っているのに、同時にすごい儚げなのか。うわー!魅力的すぎる!目が離せないよ!ああ!どうか、神様、この人がいつまでも病むことなく健やかに好きなように自由に楽しく生きられますように!そして、それを陰ながらずっと応援させてください!って。観ながら思ったんだよ。
演技が凄いとか、胸を締め付ける歌声とか、可愛らしくてスマートで魅力的な動きや表情とか、人物描写が立体的で役の感情が真っ直ぐ届くとか、素のふわっふわな所とか、カッキーの素敵なところはいっぱいあるけど、どんな役でも何をしていても、私はカッキーの持つエネルギー量と清らかさにやられている。自分を顧みないで無自覚に周りの人にパワーを配り与えちゃう、シャワーを最大にしたままたれ流しているようなところ。そんな風に人は生きられないから普通そんな人は居ないんだけど、カッキーは人並を越えてしまう鍛錬と努力と精神力で、エネルーギーの放出量を限界突破しても無自覚に打ち勝ってしまう自家発電を開発してしまったから、生命と精神を何故か維持できてしまっている稀有な人なんだと思う。
そんなカッキーだから、普通は難しいと思われる感情を爆発させる役は魅力的で、多分普通の役者さんよりも得意なんだと思う。だから、わかりやすく望まれてしまって、映像では特に猟奇的な役が多くなるんだと思う。でも、どんな役をしていても滲み出てしまう人に対する無防備な愛情の放出っぷりや、人間として清らかで美しい佇まいを感じるから、そこから目が離せないし惹かれる。
カッキーの自分を顧みずに赤ちゃんのように全て人に与えてしまう佇まいをみると、ああ、私も頑張ろう!人目を気にせずに、もっと一生懸命自分らしく生きよう!もっとのびのび生きていいよね!と思えて足取りが軽くなったり、自分のオーラが大きくなるような気がするところが、本当に助かっていて。だから、カッキーは私にとって替えがきかない存在なのです。
と、色んなことがあったから、私がカッキーを好きな理由を思いのままに書いてみた。こういうのを一生懸命書いている時間は脳内がすごく幸せだから、ある意味逃避。
小学校の中で長年働くことで独学で身につけてきた教育観や指導法は、多様性、合理的配慮、インクルーシブなどといった「今時の考え方」と極めて相性が悪い。時代の流れ的に実践しなくてはとはいけないとは思っているだろうが、独学で頑張らないと行けない世界なので誰も教えてくれないし、具体的にどうしたらいいのか、本当に分からないのだろう。保護者のほうが知識があって、面談で普通に会話にその用語が出てくる状態というのは、それだけで恐怖で、何か脅かされるような気持ちだったのかもしれない。
先生方にインクルーシブの発想がないのだから、持って実践してほしいと言っても無理だ。教育センターや教育委員会に、先生方向けの特別支援の研修をやって先生に特性の知識や指導の技術を学ぶ機会を作ってほしいとお願いしていくしかない。うちの子には間に合わないが。
学校の先生方同士で共有している「学校の常識」は保護者の立場からみると義務教育の放棄だったり人権侵害なのだけど、学校の中では先生方が多数派なので、一人の保護者がそれを覆すことはできない。今はとにかく勉強してもらって、時を待つしか無い。うちの子は間に合わないが。
オトモに関しては、特性は変わらなくても今後の教育次第では本人が社会を理解して受け入れられることは増えていく可能性がある。時を待つしか無い。 1年生の教材を智基にも下さいとお願いしたとき、 今まで支援級でそんなことをいう保護者に 会ったことがないと言われ、対応に困ると 教頭に言われた。 一事が万事そうなので、今は、学校にひとつひとつを 働きかけるのはやめて、智基の成長を待とうと思っている。
避難訓練の事前の話。先生「みんなが避難している時に、避難できないオトモくんを他の子に見られるのは困るので、避難訓練中は違う場所で隠れてもらえますか。」私「それって、帰った方がいいってことですか。」先生「いえ、隠れていてもらえればいいです。」
これを配慮と言われると、保護者としてはだいぶ戸惑うのだけど、先生的にはこれが誠実で真摯な合理的配慮なんだよね。
先生達に「言葉」があったらいいのだけど。オトモの突飛でハミ出した行動を「なんで?」「ずるい」と子どもに言われた時に毅然と「オトモくんは佐助門を通ることが怖いんだって、だから今日はこのあと残った先生と一緒にみんなとは別の避難訓練をするんだよ」とフラットに言ってくれれば、オトモが隠れる必要はないし、他の子たちにも「みんなと同じことが出来ない子も学校にいる。それが普通」というメッセージが伝わると思うのだけどな。「同じことが出来ない子は他の子に示しがつかないし、他の子が真似したら困るから隠す」が学校の常識だという現状を、先生たちに、色んな子が(ハミ出す子も)いるのが普通という考え方に変えてほしいなあ。
寒いねえ。校庭で11時すぎまで過ごすとだいぶ冷えるよ。ずっとステップ踏んでいたよ。遠巻きに見たらたぶん変に踊り狂っている人だったと思うけど、寒すぎて誰も外に出てこなかったから、誰も見ていないから大丈夫。
旅行行こうねー。楽しみだねえ。
週末に鶴ケ岡八幡宮のパレードに行ったよ。柿澤さん、本当に人気なんだなぁ。良かったなぁ。
カッキーは自分を犠牲にする役、自分がどうかなればうまくいくんだと駒になる役、でも本人は犠牲になっているという自覚はないまま、自分の命をすり減らして突っ走って生きて破滅する役が多くて。傍から見ていると、カッキー本人が普段もそういうイメージ。廊下でぽつんと一人で座っている、はかない、出し惜しみしなさすぎて危なっかしいんだけど、ちゃんと生きている。めちゃくちゃ眩しく輝いているから、周りがガードしてこの面白くて危なっかしい子を大事に守って育てていこうと自然に思う。そんな子なんだけど、一方ですごくふんわりと相手役に寄り添ってくれる役者さんで周りに気を使わせない、すごく素敵。ストレスがかからない、ふわっと寄り添ってくれる人。すごく冷静でとっちらからないでひんやりしたイメージとストイックで真面目で子供っぽくて熱いエネルギーがほとばしったイメージが同居している。
めぐさんは、慈愛に満ちた役、自分が犠牲になってでも守りたい、包み込むような役、犠牲になることを厭わない、魂も体もどうでもよくて、相手が幸せになることを祈る、自分のことは置いておいて、誰かのためにすべてを捧げて愛で包み込む役。
金曜日に学校でひどい怪我をしてから、自閉特性がめっちゃ強めだなぁあ。
11月だよ!
10月は日記を何回書けたんだろう。あっという間だった。 なんだかんだと文章は書いているんだけど、日記は書けていない。
週に1度は伯母に手紙を書いている。「おばちゃんへ 調子はいかがですか」で始めて、その週に起こったことを穏やかにまとめてミニレター(だっけ?62円で送れる封書みたいな紙で)送っている。
これがなかなか神経を使う。伯母は寝たきりで、看護師さんに手紙を読んで頂いている。なので、ポイントとしては、 1)看護師さんにもそれなりに喜んでもらえるような内容なこと。 2)伯母が手紙を読んで、元気が出たり肯定感が増すような内容にすること。 3)大きな字で読みやすく、上手に書くこと。
食べ物か洋服や洋裁の名前が多い。それと子供の話題。食べ物のなかでは、あんこを煮る話が多い。って感じで、結構気を使っているので、日記に手が回らない。
それと、学校関係の文書が多い。教育相談員に送るレポート、日々の活動日誌、記録。陳情書?っぽいもの。とにかく量が半端ない。まあ、仕方がない。
こういう書いたものも日記と大差ないから、ここに上げてもいいんじゃないかと思えてきた。固有名詞だけ外せば問題ないか。
バッタやトンボが体に停まる。虫に好かれているよ、私。ほら。優しいからね。(ホント?)
温かいからかな。体温。物理的な問題?
10月のオトモはできることがいっぱい増えたよ。