ゲームって?

友人と絵と文章が主体の(コンピューター)ゲームについて議論していたとき、 わきから別の友人が口をはさみました。「それってゲームなのか?」と。 いわゆる一般的な意味でのゲームしか知らない人で、 考えてみれば、しごくあたりまえの疑問です。 はたして、ゲームとは何をさしているのでしょうか。

われわれゲームになれた人は、 「街」と「パラッパラッパー」 をその特徴の違いにもかかわらず、分類する言葉がないために 同じ「ゲーム」と呼びます。 また、はなから関心のない人にとっては、同じように機械と ディスプレイとコントローラを用いている、という理由によって ゲームと総称します。実際そういう人は仮にゲーム機で化学技術計算をしようと、 漱石の坊っちゃんを読んでいようと「ゲームをしている」と見なすでしょう。 極めて外面しか見ていないことがこれにあらわれています。 さて、その友人のようにほとんどはじめて パソコンで文章系のゲームをやった人間にとって、それはゲームではなく 音・絵つきの小説です。なぜなら、この作品において一番重要なのは文章であり、 文章が一番重要なメディアとは一般に小説であるからです。 彼はわれわれがそれを「ゲーム」とよんでいることに 違和感を感じました。たしかに、おもてづらの機械・道具をみれば同じですが、 「街」と「パラッパラッパー」の違いは小説と漫画の違いより大きいのです。

ゲームをとりあえず「あるルールにそって行動することを楽しむもの」 と定義してみましょう。 (勝敗をきめるという要素もありますが、とりあえずおきます。) そして、このルールをきめるとき、たんなる約束事以外に なんらかの「道具」をつかうことがあります。たとえばサイコロなどです。 このとき、この道具は2つの機能をもたねばなりません。

  1. ルールの執行補助。たとえば乱数の発生。バットならその物理的性質。
  2. 表示。たとえばさいの目。バットなら、 打球の距離、方向。このときは、自然法則、ボールなども含めて 総合的に「道具」の役をはたすと考える。

こう話をすすめると、コンピューターもなんらこれから外れるものでは ありません。ルールを計算によって執行し、画面、音、文章などで表示 しているにすぎないのです。

しかし、コンピューターの機能があまりに多様であるため、 単なるルールの表示がメインの位置をしめるようになってきました。 「街」を例にしましょう。このゲーム、要は「選択肢つき小説」です。 ルールは基本的に「選択肢」を選ぶこと。ほとんどそれだけです。 まあ、いろいろと補助的な要素があってそれが、この作品を斬新な ものにしてはいるのですが、まあいいでしょう。 この作品における「表示」は文章、絵、音の3つに分類されます。 「選択肢をえらぶ」というルールにそって行動した結果、 新しい文章が表示され、場面にあわせた音と絵がでるのです。 さて、こういった作品において、 「ルールに従って行動する」いうことは、文章をより楽しむための補助 にすぎません。こういった形式のもので優れたものならば、仮に小説にしても そこそこおもしろいものになるでしょう。主役はルールでなく、 文章なのです。しかし、それでも先の定義からは逸脱してはいません。

さて、こういったコンピューターゲームでも先の定義からいくと 「ゲーム」にちがいない ことはわかりました。しかし、当然彼の違和感はきえません。彼の違和感は ルールのしめる位置が、彼の知っている「ゲーム」にくらべていちじるしく 低いことが原因ですから、どのていどの位置をルールがしめるかで 分類すればよいことになります。 だいたい、先の定義ならば小説や映画をゲームといいはることは たやすいのです。そこで、映画がけっしてゲームにならないように 定義をせばめなくてはなりません。

しかし、それが不可能なのは誰の目にも明らかです。 コンピュータ上のものを分類もせずに ゲームとよんでいる今の状態からして、 ゲームとそれ以外のものの間には無限の段階があると考えられるからです。 今やゲームという呼称は実質的に何も意味しません。 「ゲームなんてつまらない」と言うとき、 それは小説と漫画と映画を同時につまらないと言うのと同じ程度の 重みをもちます。そもそもゲームという分類は小説や漫画という分類と 独立であるわけではなく、 ゲームと呼ばれながむしろ漫画であるということも十分にありえます。 いうならば先の「街」はゲームと呼ばれますが、その形は小説なのです。

さて、元々ゲームはルールと表示から成ることは前にのべました。 しかしコンピュータ上のゲームに関しては 今の状況とメディアとしての特性を考えると「ルールと表示」という分類は 適当ではありません。 ゲームをコンピュータ上の表現形式と広く定義すれば、 「画像、音声、文章、ルール」の4つから成りたつものと考える方が妥当です。 これらは同等であり、作品によってこれらの比重が異なるわけです。 連続的にメディアの境界をなくして考えれば、 ただのコンピュータ上の絵すら「画像の比重が極めて高く他の要素の比重が0である」 「ゲーム」であると考えられます。 そもそも小説すら挿絵があるものが多いわけで、それを文章からのみ成りたつものとは 定義できません。挿絵があるものもないものも小説なのならば、 多少のルールや音声が入ったからといって 小説でなくなるということはないはずでしょう。 もはやゲームとそれ以外のものに境界などないのです。 そもそもコンピュータ上で動いていればゲームと呼んでしまう今の状態が 間違っているのではないでしょうか。

いずれ、今ゲームとよぶことを余儀なくされているものにも 新しい名をつける必要がでてくると思います。 いくら無限に段階があるとはいえ、必ずバランスのとれた使いやすい メディアの形式がいくつか存在することは、現在ゲームの形式が ある程度限られた種類におさまっていることからも想像できます。 例えば、「街」などの選択肢つき小説のようなものは ストーリーを語る手段としてなかなか優秀であるようには思いませんか? これらに別の名前、たとえば「サウンドノベル」のようなものをつけて ゲームから独立させるのが望ましい流れだと思います。 そうでなければ、永遠に今ゲームと呼ばれるものすべては「ゲーム」 という言葉から連想される小さい枠を抜けだすことができず 時代遅れの偏見から逃れることはできないでしょう。

いずれ、そういうことが重なれば彼の違和感もなくなるかもしれません。


もどる