機会が奪われている、みたいに感じる必要はないと思うけどなあ。 サービスを利用する側は、サービスが自分に合わなければ 他に行けばいいのであって、サービス提供側に文句を言う必要はない。 契約書も交わしてないのに、相手にこっちの期待に応える義務があると考えるのは無茶だと思う。 そもそも期待する水準が高すぎるし。
自閉の子とうまく接するためには、ある種の理念が著しく邪魔になる。 理念を強く持っていればいるほど、うまく行かなくなるだろう。そこは商売と似ている。 客を幸せにする、という理念は良いが、 「何をすることが客にとっての幸せなのか」を理念で決めれば、 それは客を見ていないことになる。しかしモラルの高さと理念の強さはしばしば相関するので、 いい所取りはしにくい。「これが客にとって面白いゲームだ」と信じるからこそ、 強い意志力が生まれる。「何が面白いかは客次第で自分が決めることではない」 と思っている人間が強い熱意をもって仕事に当たるのは難しいだろう。
土曜はみかん狩り。障碍者支援の人がやってるイベントに参加するという実験をした。 最初は電車に乗るのを超絶嫌がって泣きまくったが、乗ってしまった後は観念して どうにかなった。その後はだいたい順調。 帰りに戸塚の人身事故で電車が派手に止まったことが最大のイレギュラーだが、 茅ヶ崎で降りてサイゼリアで時間をつぶすことでダメージを軽減できたので、 まあいいだろう。 そもそもみかん狩りの場所にいられないとか、 バスに乗れないとか、バスで吐くとか、 おしっこを漏らすとか、トイレに行けないとか、 まあ考えられるトラブルは多数あったが、無事に済んだ。 8家族もいたので人数もそれなりに多い。あの人口密度で逃げ出さなかったのは大したものだ。 とはいえ、トイレは店のトイレのドアが閉められないとか、 勝手に音が鳴るのが怖くて便器に座れないとか、そういうのでそこそこ面倒くさかったが、 まあ仕方ない。克服する算段をするしかないだろう。
基本は賢さを上げること。「何故怖いのか」を言葉にできるようにすることで怖さを軽減できるので、 言語化の訓練は重要。 ドアを閉めても鍵が閉まることはなく、閉めても自分で開けられる、 ということが理屈としてわかる賢さがあれば怖くはなくなる。 あとは、「何も嫌なことは起こらなかった」という事実を積み上げること。 ドアを閉めても自分で開けられる、という経験を積めば怖さは減る。 現状「ドアが閉められない」問題が一番デカい問題だな。 いろんなところで行動が制約される。
幼稚園の親イベントでマーケットみたいなのやってて、 なんかバイオリン弾くことになったので弾いた。 といっても、けん玉とかバトン回しとかのBGM扱いだけど。音源再生してたし。 オトモは幼稚園行けなくて、一緒にいた。 卒園までにまた行くようになるかもしれないし、ならないかもしれない。 今回は前回の不登園と違って、行けるようにする努力はあんまりしない。
ひつじこがビブラム体験コーナーみたいなのやってて、 横でバイオリン雑に弾いてた。ほぼ即興。 人が集中して聞いてくれるという話ならちゃんと設計した曲、さらにできれば有名な奴がいいのだが、 BGMでいいと割り切るなら下手に既存の曲を弾くよりも、 その場でテキトーに即興してる方がいい。 楽譜見て弾くものを10曲とか用意できず、 記憶で弾くとド忘れして止まる恐れがある。 また、練習不十分だとそもそも綺麗に弾けないこともある。 即興ならテンポはテキトーで良く、 難しいことはやらなければいいし、 音を外したら外した音を基準に次を作ればおかしくならない。 しかも、微妙に苦手なテクニックを混ぜて弾けば練習にもなる。 音の綺麗さは最重要なので、あまり冒険はできないが。
即興で作れる曲の雰囲気広げたいなあ。 ドビュッシーとかラベルとかあのへんの「新し目の和音/進行入ってるけど新しすぎない」 奴ができるといいんだけど。 でないとバッハとヘンデルとモーツァルトあたりのちゃんぽんから抜け出せない。
PID制御を今更勉強している。Iがすごい。Iが思いつかなかったのが悔しい。 PとDはバネダンパからの類推で自然に使っていたが、Iはそういう類似したものがないからだろう。 ただ、I制御は結構予想外の挙動をするので扱いにくさはある。
でもラプラス変換や伝達関数あたりはまだ全然理解できてない。 パラメータは手打ちだから非効率だし、パラメータの自動調整や遷移みたいなのが できない。そこやらないと先進めないだろうなあ。
「話し合いましょう」というのは 「こっちの言う事を聞け」という意味だ。本能的に嫌がられる。 「コミュニケーションは要求である」とドラッカーは言った。 要求を受け入れてもらうには、向こうの期待に沿っていなくてはいけないし、 向こうの世界観に合致していないといけない。 ショックを与えて要求を通すテクニックもあるにはあるが、 一発通しちまえばその後の関係がどうなってもOK、 というケースでない限り使いにくい。
相手に何かを求めるのはだいたい筋が悪い。 その前にかなり余計にこちらから提供しておかないと、 相手がこっちに何かしてくれる気分にならない。 「理解してもらう」というのもすでにして要求であって、 相手にコストを強いている。 相手がこっちを知りたくなるように仕向けない限り期待できない。
だから契約というものがあるのだが、 教育機関は大抵契約に基いていないので、 「契約なんだからやって」が通用しない。 地味に関係を構築して、 相手がこちらのために手間を割いてあげたくなる状況を作ってからでないと こっちの要求を通すのはたぶん難しい。
幼稚園なあ。なんだかんだ言うて、うちの子はイレギュラーだからなあ。
結局、イレギュラーに対応するのはコストがかかる。 「コスト」というのは単純にお金だけを意味しない。 心理的コスト、技術的コスト、時間的コスト、などいろいろ含んでコストだ。 子供の特性を掴むとか、子供の注意を引くとか、 ワラワラいる集団を全体として把握できるとか、 そういうのはセンスであったり技術であったりする。 自閉系の子はフツーの人類では覆い隠されている「本来の哺乳類/霊長類の特性」 が強く出ているので、ある意味「人間扱い」しているとうまく行かない。 「人間ってこういうもんだろう」というイメージの幅が狭いと、そこに収まらない。 ズバ抜けたセンスを持っていない限り、 障害を学問として学ばないと対処するのは難しい。
あと、「公平」をどう考えるか、という問題もある。 機会の平等と、結果の平等を、どれくらいのバランスで重視するかは人による。 さらに、何を機会の平等とみなすかも人による。 「ここまでは公平」というラインはそう簡単には合意できない。 どの子の親も自分の教育のために幼稚園に入れ、同じ額を払っているわけで、 「手間がかかる子が他にいるので自分の子が手薄になります」 と言われれば納得行かないこともあるだろう。 「教育方針でセロテープは使わせない」というのがある時に、 「糊の感触が嫌で乾くのを待てないからうちの子だけセロテープ使わせたい」 と言った時に、許可するのはたぶん難しい。 「え、そんな奴いるの?」というのが普通の感覚だと思うし、 仮にそういう奴がいることを認めたとしても、 他の絶対的多数の子の教育を壊してまで特別扱いさせたくない、 と思うのは自然なことだ。 そんなに嫌なら工作はしなくていい、となる方が自然だよなあ。 他の親に対する責任も負っているわけだし。
今年は帰省するぞ。しかし問題はオトモをどうやって乗せるかだ。 最近は「実は嫌だった」とか後から言うからなあ。