サピエンス全史とホモデウスを読んだ。
意識と知能の分離、というのは実にわかりやすい。 AIが意識を持つようには見えないが、 意識がなくてもできることはたくさんあり、 人の仕事が分業されればされるほどそれは増える。 囲碁や将棋でもはや人が勝つことはできないわけだが、 医療の診断や投資判断などもそれに続く。 自動車の運転もそう遠くない。 意識がなくてもできる仕事がどんどん機械化されていった先に 何があるのか。
人の自由と意思に価値がある、という宗教が、 AIによって終わるかもしれない、というのはもっともだと思う。 私は結構前から、書かれず共有されていない思考にあまり重きを置いてない。 どうせ忘れてしまうからだ。 鮮烈で忘れ難い体験、というのが私にはイマイチわからない。 書き留めないことは消えてしまうし、自分だけが見られる状態のものは、 私自身が忘れているのだから世界からなくなるのと変わらない。 だからしょーもないことまでweb日記に書いていた。 今は会社のslackに書く方が多いが、 なんにしても、書いて共有しないと価値がないという思いが強い。 食事の写真をtwitterに上げることはしないが、 する人の気持ちはわかる。私が文章でやってることと、 位置付けは似たようなものだろう。
で、いろんなことを忘れてしまう私が、 私のことについて一番知っていると信じる理由はない。 書き留めて共有したことを全部把握している何者かがいるとしたら、 その何者かは私よりも私のことを知っているだろうし、 重要な決断を私よりもうまくやるかもしれない。 占いや神託に頼って決断するのと同様、 googleに決めてもらっても悪いことはない。 googleは世界征服を成し遂げ、もはや神になっていると私は思っているのだが、 まさにそういうことが書かれていた。 神により正しい判断をしてもらうためには、 神に見える形で私を示さないといけない。 だからできるだけtwitterなりなんなりに書きこむべきだし、 クレカを使って履歴を残すべきだ。 それによって神にもっと良く私を見てもらうことができる。
自動運転が当たり前になるのも私は歓迎だ。 あんな怖いことを自分でできる気がしないし、 一日の大半使わない車を自分で所有する気もしない。 世界の車全てが自動操縦になるなら、 各人が必要な時に車がやってきてくれるのが当然になるはずで、 所有する必要はなくなる。
ホモデウスに書かれていることに、私は全く違和感がない。 実際、おおむねそうなるだろうし、 そうなることで資源の浪費は軽減され、 やりたくないことをやらずに済むようになる。
ちょっと前に鎌倉の市議会議員選挙があったが、 どう考えても制度がバグっているとしか思えない。 26人を選ぶのに、39人の候補から一人選ばないといけないのだが、 当然誰一人として話したことがある人はいない。 「この人はダメそう」と思った人以外の誰かに入れることに 意義がないわけではないが、その程度の意義しかない。 みんなが思い思いに投票すれば総体として世界が良くなる、 と信じられる理由が全くない。 そこが信じられない以上、時間をかけて投票に行く意義は怪しく、 その時間があったら仕事をして確実に世界に貢献する方が 良いようにも思える。お金にもなる。 投票以外に貢献できる手段がある人ほど 投票をする意義が相対的に薄くなるわけで、それって制度自体バグってないか。
人によっては、何か特定の興味があって、 鎌倉の海の綺麗さやら、ゴミの有料袋やら、 障碍者福祉やらの個別の課題で自分と考えを同じくする人を選ぶ、 ということもあるだろう。 しかし、そうやって選んだ人は、それ以外の分野の話し合いにも 参加する。障碍者福祉を向上させてくれる人に入れたのに、 その人が原発反対とかの全然関係ないことを主張するのは、 本当に邪魔くさい。 個別の分野を改善するなら、その分野に寄付をするなり、 その分野に入って自分で改善するなりした方が速い。 というか教育問題に取り組んでる人がことごとく原発反対だったり 市役所移転反対だったりしてるの一体何なの? 労働組合が原発反対するのと同様に意味がわからない。 政治家を選んで政治家が話し合って何かする、 みたいな行為自体がもう現実に即してないんじゃないのか。 企業の方が個別の分野ではよほどうまくやる。 企業に任せてうまく行かない問題は多数あるのだが、 だからといって政治がそこをうまくやれるわけではない。 そういう所でAIやらデータの役割は大きくなっていくのだろう。 従来価値判断は人の領域だったが、 「価値」が数字で表せて、 その好ましさについてあらかじめある程度の合意があれば、 結構な数の判断をAIに任せてもそんなに問題にならないだろう。 むしろ人よりもずっと上手にやるはずだ。
ビオラ届いた。だいぶ圧力かけないと鳴らないので、右手の使い方の精度を 上げるのにとてもいい気がする。 あと左手の指の間隔だいぶ広げないといけない。 とりわけ小指は遠い。
にしても、この弓、棒がやわらかいなあ。おまけ程度についてきたものだから仕方ないんだが、 圧力をかけると毛と棒がついてしまう。 かといって張りを強くすると必要な湾曲がなくなってしまって弾きづらい。買うべきか。
自分の利益を確保するために人を変えないといけない、 と思ったら、それはたぶん妥当な判断ではない。 人を変えないと得られないことを望むのは高望みしすぎだし、 人を変えないと得られないと思うのはたぶん思いこみだ。
幼稚園にオトモがいられるようになるとうれしいので、 それを求めるのはいい。 しかし、オトモをダシにして、幼稚園をいわゆる「インクルーシブ」 な場所にすべく幼稚園職員の意識を変えようとするのは妥当じゃないし、 やるとしても言葉でやることじゃない気がする。
ビオラ買った。中国から届くのに一ヶ月かかるらしいので気長に待つ。4万円だけど、 性能と値段がそんなに比例するものじゃないのがバイオリン、 ということらしい。アンティークとしての価値も乗ってくるし、 わずかな性能差に数倍の値段を払う人もいる。 プロは当然のことだが、「あまりうまくないお金持ち」 にとっても性能のいい楽器は価値があるそうだ。 腕を性能で補えて趣味として楽しめるなら、確かに価値がある。 逆に言えば、腕で性能差を補えて、 わずかな性能差が問題になるほどシビアな用途でないのであれば、 安くてもそんなに問題にならない。
とはいえ、一回150年物のバイオリンとか弾いてみたいけどな。 この前幼稚園OBの合奏に参加した時に、すごい年代物を持ってる人がいて、 ちょっとした衝撃でバラバラになりそうだった。 メチャクチャ軽そうだし、きっとすごく反応性がいいんだろうな。 ちょっと弾かせてくれ、って頼んだらいいのかなあ次の機会に。 でもコロナ的にアウトか。
新学期になって、とりあえず幼稚園に連れていくことはできているが、 ひつじこがべったり状態だ。 友達の真似ができないのがなあ。 とりあえず同じことしとけばいい、という所まで行けない。 何をしているのかを把握できてないから真似しようがない、 ということもあるだろうし、 「人と違うことをしているとなんか不安になる本能」、 みたいなのが薄いのもあるだろう。たぶんその両面だ。 後者は個性としか言いようがないので、 前者をどうにかするしかない。要するに賢くなれば問題は軽減する。
ただ、賢さが上がる過程で一時的に問題が深刻化することもある。 逃げればオーケーという知恵がない間は、 なんぼ嫌でもそこにいるしかないが、 「嫌なことは避ければいい」ということを理解した今では、 幼稚園に居続けさせるのは難しい。 自分に対する負の感情を察知できるようになったり、 幼稚園以外に楽しいことができたりすれば、 「なんで行く必要あんの?」的な状態になるのは当然だ。 家にいるより楽しいから比較検討して幼稚園に行く、 というのはたぶんそんなにメジャーな心理ではなく、 「そういうもんだから行く」と「行ったら楽しい」 の結果として毎日通っていられる。 「そういうもんだから」がなければ、「行ったら楽しい」 が相当強くないと続かない。
幼稚園に行くのと行かないのとで、どちらが長期的に楽になるか、 という問題ではあるのだが、幼稚園に任せて休む時間を作らないと 労力的にもたないという側面もあって簡単ではない。 それに、普通の子が遊んでいるのを眺めているだけでも、 発達上は意味がある。2歳児はだいたいそんなもんだ。 ただ、4、5歳児並の発達をしている部分があって、 今2歳の発達をすることを邪魔する。 周りからは2歳扱いされないし、 もっと面白いものがあることを知ってしまっているからだ。
しかし、認識のレベルに照らしておおよそ合理的な反応をしているので、 行動は理解しやすい。認識のレベルが上がれば問題は軽減するだろう、 ということはわかっている。どれくらい軽減するかはわからないが。
読解だと思うんだよな鍵は。一旦文字を通すことで 認識のレベルを上げられる臭いがする。 一緒に絵本読みながら所々文字読んでもらう、 を半年続けてどこまで行けるか、を試す方向だよなあ。
ひらがな、半分以上は読めるんだよな文字的には。 ただ、まだコストがかかるので調子良く読ませるのは難しい。 シノンも大変だったが、「毎日やる」をルールにして 毎日の褒美を用意すれば従わせられたので、楽だった。 オトモはそうは行かない。
一応読み書き両面でやっている。 ただし「書き」は文字通りの「書き」ではない。 あいうえお表から指定の言葉の文字を探し出す、 ということで書きの前段階をやっている。 これによって、あいうえお表を視覚的に記憶すれば、 読めない文字があっても表を参照して読めるようになる。 「この形のものがどこにあったか」がおぼろげにわかれば探す手間が かなり削減できるからだ。 シノンもあいうえお表を手元に置いて読書をする時期がそれなりにあった。 文字を覚えること自体はシノンよりもむしろ速いので、 継続させられさえすれば進歩は速いだろう。 覚えること自体の能力はそれなりに高い。 しりとりあいうえおの文章は結構暗記してしまっていて、 読む手間を削っている。 意味は通るが原文と違う文章を言ったりすることもあり、 音声的な丸暗記でなく、一旦意味に変換してから記憶していることは明らかだ。 言語を音楽的に記憶するタイプだと厄介だが、そうではない。 「は、に点々ついてるから?」「ば」のように、 規則性も微妙に理解している。 今伸ばすべきは文字だと思うのだが、 「文字読めたからおもろい」をもっと提供しないと続けられない。 数文字読むだけで笑えるもの何かないかなあ。
オトモが幼稚園に行くのを拒否しだしてからずいぶん経って、 ひつじこがだいぶ疲れている。どうしたものかなこれ。 どうにかして幼稚園に行かせるか、別の施設に行かせるか、 オトモの相手を100%私が引き受けるくらいにするか、 そのへんか。中途半端に「手伝う」だと、 私とひつじこの方針は完全に一致するわけではないので、諸々起こるだろうし、 そもそもひつじこが家にいれば、オトモはひつじこに寄っていくに決まっている。 家を空けて完全に移譲してもらう方がいい。 それでもいいけどなあ。