microsoftのde:codeというイベントに行っていろいろ聞いてきた。 根本的に畑違いな感じはあったが、案外どうにかなった。 ホロレンズ関連がメインだが、空いた時間は展示場を巡って 買う権限もないのに各ブースでいろんな説明をしていただいて、 大変勉強になった。
ARあるいはMRと呼ばれる「視界を遮断せずに、そこにCGを重ねる手法」 は流行ると思う。 現状の問題点は、重い、高い、視野が狭い、電池が保たない、デカい、 といったあたりだが、産業向けなら許容できる領域も多い。 元々ヘルメットをかぶっているような用途であれば、 ヘルメットに固定することで重さや重心の悪さの問題はかなり軽減できる。 発電所のメンテや車の整備など、マニュアルを紙で持ち歩くよりも、 視界に説明を重ねて見た方がはるかに効率がいい。 オペレータと通話しながらもできるし、 リアルタイムに矢印を置いてもらったりもできる。 また、作業を録画することで記録に残すこともできる。 産業用としてはすでに実用域に来ている印象があった。 今年後半にハードウェアが進歩すれば、問題の多くが軽減し、 さらに用途が増えるだろう。
microsoftのイベントは飯がうまいなあと思った。 パーティーの飯のレベルが高く、べらぼうな人数が来ているのに 食い物が尽きる気配がなかった。調子が悪くならなければ最後まで食い続けたい所だったが、 具合が悪くなりそうだったのでやめておいた。 ずいぶん昔、XBOX関連のイベントでタダ飯を食った覚えがあるが、 弁当がちょっと豪華だった。私は経験がないが、寿司が出たという話を聞いたこともある。
CEDECなどのゲーム屋ばっかりいるイベントと違って、 カタギのソフト会社の人々とか、産業用途のソフトウェアとか、 そういう世界を垣間見られるのは勉強になる。
オトモの療育が少し落ちついておおよそ見えてきた。 金のメンテをロクにしてなかったので若干検討。 確定拠出年金はやることにした。 ひつじこもやろうかと思ったが、 ひつじこの銀行口座に毎月つっこむ手間、 資産が分散する面倒くささ、 そもそも所得税ないからさして得にならない問題、 などを加味して、私だけやることにした。
あとそろそろ通信費を見直す。 フレッツをソフバン光に換えれば、ymobileなので割引が効くし、 sannetの契約をやめる分も浮く。 放置してきたがいいかげん片づける。 sannetはもう終わっており、webサイトの置き場所としても いつ消滅するかわからないからな。
24日の金曜日、会社を休んでとある施設でバイオリンを弾いてきた。 巡り合わせというものがあるのだろう。 弦楽四重奏に参加して、星に願いを、ふるさと、残酷な天使のテーゼ。 ムーンリバーのジャズアレンジをピアノと。
素人がバイオリンを弾く、ということに需要があるのか? ということは常に考える。 世界トップレベルの弾き手の演奏がyoutubeでタダ で見られるこの時代に、何故やるのか? 生で弾くことの価値、そこに弾く人と聞く人が一緒にいることの価値、 そのイベントにおける演奏の位置付け、 そういったことをきちんと考えて工夫をしないと、 需要されていないものを無理矢理聞かせるようなことになりかねない。 児童館でボランティアが子供向けに絵本の読み聞かせをする、 みたいなのもそうなのだが、 「ほーらありがたいだろう」的な思いを持ったらおしまいだ。 素人なので腕はないし時間も大して割けないのだが、 それでも聞く気になるものをやろう、ということの工夫は しないといけない。一緒にやらせて頂いた方は、 その思いをちゃんと持っている方なので良かった。
年末にもまたやる感じになりそうだ。そっちは会社を休まずに済む。
オトモ、yes/noがまだなんだよなあ。 あと何かオトモが言ったがよくわからなかった時に、 「何?」と聞いて答えられるようになったら最高なのだが、 さてどういう段階を踏めばいいのか。 例えば「幼稚園で今日何の絵本読んだ?」 という質問に帰ってから答えられるようになったら、 今とはレベルが違うコミュニケーションになる。
Sunabaをpythonに置き換えることを結構本気で考えている。 問題は、それをどういう形でやるかだ。 趣味で作るには重すぎる。何らかの形で仕事化しないと辛い。
金のことを一度真面目に考えた方がいいな。 貯蓄速度がガタ落ちしている。
17,18と九州で授業してきた。年々コードが書けるようになってくるのを感じるのだが、 「キーが押された瞬間に何かする」「2回目のクリックで何かする」 というような処理で詰まる人の率はあまり下がらない。 プログラミングと一括りにしているが、 上層と下層では求められる能力が違っており、 上層のスキルが高い比率が増えても、下層ができる人の比率はさほど変わらないということなのだろう。 下層を無理矢理やる体験をさせる、という意味では、 いくらコードが書ける比率が増えても、今の授業とSunabaには価値があるだろう、とは言える。 しかし、「上層できればそれでいいだろ」という常識的な考えもあり、 「一回くらい体験しとけ」という台詞の正当性を主張するのは難しい。
療育を遊びとして実施する方法には、動機の問題を解決しやすく、 般化の問題が生じにくいという利点がある。 机の上でやってから別途般化するとなると、手間が倍増するし、 どうしたってつまらないので頭に入りにくい。 食べ物で強化した行動は、日常場面では強化子がないので消去圧がかかる。 食べ物で強化を開始しつつ、社会的強化子で代替して、 食べ物が不要になる所まで机上でやれていればいいが、 そこまで机上で持っていくのはかなりの手間だ。
明日は九州で授業。さて、準備をせねばならぬ。
まずプログラムが動くことを確認する。
動いたには動いたが、ストアの承認を通ってないので実行で引っかかる。 問題点をissueに書いとこう。
授業、変えようと思っていろいろ考えたが、 10年間ほとんど変えられてないことには理由があるなあ。 Sunabaの要素はギリギリのバランスで成り立っているので、 どこかいじるとバランスが崩れたり、この言語である必要が なくなってしまったりする。
でも今年は、開始早々変数を導入して説明し、 メインループはもう最初から形を示してしまう。 そこでつまづくと授業の時間が足りなくなる。
webに置いてある配布zipを持っていくと、 中に大量にサンプルが入っていて、非常に良くない。 そろそろ言語を非互換にしないとダメなんじゃないかと本気で思う。 とりあえず、今年は配布してる奴をそのまま配らず、 中のexeだけ配るようにする。 サンプルとかは入れておかない。
ナイアシンを飲み始めるきっかけになった医師のツイートをリツイートして、 「先日ALTが900超えした。ナイアシンが原因かはわからない。丁度食中毒したし」 ということをコメントしたが、ブロックを受けることになってしまった。 こういうの難しいなあ。
まともに切れるはさみが家にあったので、これで遊ばせることを試みてみよう。
ドレミパイプ買った。結構な確率で一瞬でゴミになる気はするが、 その時はそれでもいい。使えないものが一つわかった、というだけでプラスだ。
ずっと2014年製のmac book proを使っていたが、 ついに2018年製に交換してもらった。 windowsを使う仕事が生じたので、これまた余った2014年製の windowsPCを借りていたのだが、こいつがデカくて重くて、 ファンがうるさいにも関わらず、排熱設計がおかしいのか クロックが1.5GHz以上上がらない。定格2.9GHzなのに。 ちょっと前まではビルドの類はjenkinsでやっていて、 自分のマシンではやってなかったので多少遅くても問題なく、 更新の手間を嫌って放置していたのだが、 自分でビルドするようになったのでとても耐えられない。 そしてPCが2台もあると持ち運びも面倒だ。 そういうわけで、速いmacに統合することにした。
めでたく、windows上のビルド時間も半分以下になり、 2014年製のmacより軽い。実に良い。 4コアのマシンを借りられればなお良かったのだが、 まあそれはまた今度にしよう。2コアのしか余ってなかった。 買ってもらうとなると時間がかかる。 移行にえらい手間がかかったが、どうにかおおよそ動くようにはなった。 何故かunityのライセンスがおかしくて、macとwindowsのどちらか片方にしか 入れられず困っているのだが、とりあえず片方あれば仕事できなくもない。 まずはこれで良しとする。
IT企業の中には「豪華なPCを好きなだけ支給するぞ!」的なことで 技術者の心を掴んでいるところもあって、 PCに予算そんなに割くのはすげえなと思いつつ、 あんまり割くのもどうかなあ、と思ってしまう。 そりゃ個人としては毎年最新マシン買ってくれる方がうれいいが、 それによる生産性向上がどれくらいか、というのを考えてみると、 そんなでもないよなあという気もする。 多少PCが重かったり、電池が持たなかったり、若干速度で劣ったりしたとしても、 開発効率に与える差はそんなでもないんじゃないかと。 どっちか言って、福利厚生と考えた方がいいんだろう。 PCが思い通りにならないことがものすごくストレスの人もいるだろうからな。
待ち時間が減っても、待ち時間が減った分だけ効率が上がるわけではない。 待ち時間が長ければ、待ち時間が長くなるような行為の回数を減らすし、 並列で何かをするようになる。 ビルドに30分かかってた時代にもゲームは作っていたわけだからな。 とはいえ、HDDがSSDになるとか、コア数が倍加するとか、 排熱がおかしくてクロックが1GHzしか出なかったのが3GHz出るようになるとか、 そういうレベルで変わるとさすがに雲泥の差になる。 それに、4年も使ってると諸々動作が怪しくなってくるわけで、 実際前のマシンは3回ほど起動しなくなって焦ったことがあった。 SMCリセットして一晩置いたら起動したが理由がわからない、 みたいな状況で使い続けてたので、さすがに交換して良かったのだろう。 しかし、移行で丸2日くらい何もできない状況になってるわけで、 移行のコストはそう安くはない。移行に関連したインフラの人達の稼働もあるわけで、 私一人の人件費ではないしな。
いやでも、やっぱり起動しなくなった時点で交換願い出しときゃ良かったな。
オトモが幼稚園に通いはじめた。すごい。 そんなことが可能なのか、と今でも思ってしまう。 しかし、二日目に幼稚園に行くのを嫌がらなかったということは、 そんなにヤバいわけでもないのだろう。 通うことが不可能なレベル、というわけではないと。 ただ問題は、「通えるか」ではなく「通う方が良いか」だ。 改善の速度を最大化したい、という状況で、 幼稚園に行くことは本当に良いのか。今のところよくわからない。 しかし、やってみなければわからないわけで、今はやってみる他ないだろう。
家で一対一の訓練を濃厚にやれば、できることは増える。 しかし、一対一ではできないこともある。 例えば民間療育で出されている課題で「いち、に、の、さん!」 の「さん!」だけを子供に言ってもらう、という課題がある。 他人の言葉を聞いて、一緒に参加する、という行動を学ぶ目的だ。 一対一だと、「さん」だけを言う、ということを教えるのが困難で、 実際どうやっていいかわからない。 「いちにの」で止めても、「いちにの」から繰り返されてしまう。 止めずに「さん」まで行けば、「いちにのさん」と全部言われてしまう。 しかし、こんなものはシノンに協力させれば一発だ。 シノンに手本をやらせた上で、「さん!」と言ったら 身体を持ち上げてひっくり返して着地させる、というごほうびを付加することで、 一発でできた。つまり、「他の人がやっているのを真似する」ということが すでに可能になっているわけで、 そうであるならば、幼稚園で他の子がしていることを真似する可能性がある。 同年代の健常の子の行動を真似する、というのは決定的に大事な訓練だ。 家でやれば姉しかおらず、シノンだって2つ離れているし、 午前中は幼稚園に行っているので協力させられない。
ともかくも、行き始めてしまったのだから、それで得られるものを 大きくする工夫をしないといけない。 もちろん、ダメだとなれば戻すが、 何せ姉が通っていることもあって、幼稚園との関係というものがある。 あまりゴリ押しするわけにも行かない。 「そろそろ通ったらどう?」と幼稚園側が言うのをガン無視するわけにも行かなかったし、 通い始めて3日でやめる、というわけにも行かないだろう。
まあ療育園は数日でやめたけどな。そのへんのひつじこの行動力は本当すごい。 幼稚園も、ためにならないと思えばあっさりやめるんだろうなひつじこ。 そうなるようならそれが正しい判断だろうと思う。
さて何をどうしたら幼稚園の学びの効率が上がるかなあ。 とりあえず一つ気になるのはウンコだ。 ウンコをトイレでできないことが担任に負担をかけているし、 他の子と同じことをする上でも邪魔にはなっている。 ウンコをトイレでできるようになったからといってコミュニケーション能力に 波及する効果はほぼなく、ぶっちゃけどうでもいいのだが、 集団生活をするとなれば多少優先度を上げても良いかもしれない。 おしっこはもうトイレで結構できて、 トイレに連れていけば便器におしっこを出してくれる。 これを、事前に「おしっこ」と言ってもらえるようになれば一段階進歩だ。 今やっているのは、予防的にトイレに連れていくこと。 家を出る前、帰った時、起きた時、寝る前、などに とりあえずトイレに連れていっておしっこさせる。 おむつに出してしまう頻度を下げ、トイレでする率を上げる。 「トイレでする方がしっくり来る」感じになれば、 自分でトイレに行こうとしたり、トイレに連れていくことを要求したりする ことにつながるかもしれない。「おしっこ」と言ってくれれば、 それもまたコミュニケーションのネタが一つ増えるわけだから、 そっちの訓練にもなる。 あとは、「初めてウンコをトイレでする経験」にどういうふうに持っていくかを 考えないとなあ。先におしっこをマスターしておむつを取ってしまってから にするか、並行してウンコもやるか、さてどうしたものか。
コジュニケーション課題はいくつかある。 「はい、いいえ」がまだできてない。「うん、ううん」でもいいが、 とにかく肯定否定が表現できないと諸々不便だ。 これが最優先課題なのだが、これをどうにかする訓練設計がまだできてないので 放置している。 あとは、オトモが「落ちちゃったねえ」とか言った時に、 私が「何が?」と聞いてもレスがないのも課題だな。 「何が?」「誰が?」「どこで?」といった疑問文に答える方法をまだ知らない。 「これ何?」と見えているものを指して聞けば、知っている時には答えられるが、 今そこに見えている「これ」に関してだけだ。 数秒以上前にコメントした内容の主語が何だったか、 ということを答えるのは格段に難しい。 段階踏まないとダメだろうなあ。 絵本見ながら「○○したのは誰?」と質問して答えられるようにする、 というのが中間目標だが、 そもそも「誰」がまだわかってないな。 まあ「何」でもいいんだが、 「誰、と聞かれたら答えがキャラに限定される」 というルールがわかれば、答えやすくもなるだろう。 しかしそのルールを理解させる方法の設計ができてない。 ちょっと家にあるABA本見直してみるか。
世界には学ばないといけないことがあまりにも多すぎる。 こんなもの個別にDTTで教えてたらキリがない。 PRTの「他に波及する効果の大きいものを優先してやる」 という方針は誰だって思いつくものだ。 そうしないとやってられない。 しかし、「他に波及する効果が大きいもの」が何なのかが自明ではなく、 それを訓練する方法も明らかではない、という問題がある。 PRTには大規模でやったデータがない。
まず自閉で最初に取り組むべきは、「他人の存在を認識すること」だ。 他人に注目する、ということ自体ができないので、 それをどうにかしないと学びようがない。 逆に言えば、それがどうにかなれば、他人の真似をする頻度が増えて 勝手に学ぶことが可能になるので、教えることが減る。 他人の存在を認識させるには逆模倣が効くとあって、実際効いた。 とにかく、子供が何かしたら片っ端から真似する。 そうすると、真似してるこっちの存在が目に入る。 あとはひたすらスキンシップで、触る、こする、くすぐる、だ。 ひつじこがずっと授乳してたにも関わらず自閉症を発症するに至ったことからして、 触ってりゃオーケー、というわけではないのが難しい。 オトモは幸いにして、ここの段階はどうにかクリアできた。 少なくとも家族は認識できているし、 幼稚園では担任の名前を大声で呼んで走っていったり、 タッチをしたりする。「人を見ていると面白いことが起こる」 「人がやっていることをやると面白いことが起こる」 という経験を積み上げていけば、いろんなことを真似するようになって 学びの速度が上がるだろう。 幼稚園の効果が上がるかどうかは、真似する対象が家族だけでなく 周りの子供にも拡張されるかどうかにかかっている。
療育で出された課題を眺めている。細かいなあ。 この手の課題をどのようにとらえるか。 古典的には、とにかくたくさん覚えさせて、それが般化されるのを期待する、 という立場になる。机上でやる時間をどれだけ取れるかが勝負だ。 しかしPRTなりフリーオペラントを主体と考えるならば、 この手の課題はむしろ検査として考える。 日常に訓練を折り込みながら生活した結果として、 その手の課題がどれくらいできるようになっているか、ということだ。 ひつじこは現在出ている課題を日常の中に自然な形で折り込んでいて、 療育機関に指示された方法での訓練はあまりやっていない。 課題を無視しているわけではない。課題が目的とすることを 実際に子供にとって意味がある形に直してやらせている。 ひつじこはそういうのが本当にうまい。 オトモがどうにかなったら、それで金を稼げたりしないかなあ、と思う。
結局、PRTはマニュアル化しにくい。親の資質にモロに影響される。 古典的なDTTはまだマニュアル化しやすいので、 セラピストの技倆がバラついても効果を上げやすいのだろう。 だから、集団でのエビデンスを出そうとするならば、親をDTTセラピストに仕立てる、 というADDSのアプローチが合理的だということになる。 でも、親に資質があるならば、その標準的な型をはみ出して PRTなりフリーオペラントなりに踏み出しても成果を出せるんだろう。 だいたいDTTだって、うまい人であればあるほど、 個別の状況に合わせてカスタマイズしている。 親の場合は接している時間が桁違いに長いので、カスタマイズの度合いは もっと高くできる。その結果としてPRTなりフリーオペラントに近づく、 と考えればそうおかしくはない。連続的なものと考えた方が良いのだろう。 DTTが良いかPRTが良いか、みたいな話ではない。 学術的には「他に波及するスキルとしないスキルがある、ということを認めるか否か」 ということに関して意見が割れていて相容れないのだが、 「スキルによって波及効果に差がある」ことは現実には自明だろう。 「これ何?」と質問できることが挨拶できることよりもずっと 重要なことは感覚的には自明だ。 エビデンスがあるかないかなんて知ったことじゃない。
「どっち?」に答えられないのが問題だと思っていたのだが、 これ、思ったより難度が高いんだろうな。 「片方だけを選ばねばならない」ということを理解するには、 たぶん何か前提がいる。その前提を満たさないとそれ自体が納得できない。 そして、両方欲しければ選ぶこと自体の葛藤の難度が加わる。 それは自閉症の子供に限らずある問題で、実際シノンは選ぶのは不得意だ。 今そこに存在している二つのものの片方しか選べない、 という理由は完全に人為的なもので、物理的な制約ではない。 納得いかないのも当たり前だ。 選択を学ぶのであれば、まずは時間制約あるいは資源制約が明らかな 状況でやった方がいい。両方やっていいが同時にできず、 両方やるには時間が足りない、というようなお膳立てをするとか、 お金を入れると出てくる的な感じなので片方選ぶともう片方が出てこないとか。 選択を理解するには資源の概念が前提なんだろう。たぶん後回しでいいし、 もしかしたら直接訓練するネタですらないのかもしれない。 yes/noの方が先だ。それができれば格段にコミュニケーションの質が上がる。
絵本見ながら「何々したのは何?」からやるかなあ。 「おならをしたのは?」「さるぼぼ」と答えられれば第一歩だ。 絵本なら視覚的にそこにあるので、時間的な隔たりがない。 「誰」は後にしよう。まずは「何」でいい。 だいたいさるぼぼは人じゃないから「誰」を使うか「何」を使うかは 完全に文脈依存だ。絵本の中では顔がついていて自発的に動くキャラ扱いだから、 大人にとっては「誰」が自然だが、 そんなルールは知ったこっちゃないだろ。 リアルには猫や犬に「誰」を使わないわけで、 そういう曖昧なものは後回しでいい。 「誰」が全部「何」になっても、まあ無礼ではあるが、 意味は通じる。やるにしても、リアル人間にだけ使うことから始めよう。 絵本の中の「くまおさん」は誰じゃなくていい。何でいい。
レゴで遊べないかなあ。人を見ることを優先する意味では、 レゴで遊べる必要はないのだが、 どうしたって一人で遊ぶ時間がゼロにはならない。親も疲れるし。 そうなると、そういう時間の学習効果を上げる算段はあってもいい。 つみ木をセラピストと同じ形にする同時模倣の訓練をレゴでできたら、 レゴで遊ぶことにつながらんかなあ。 ちょっと試してみるか。 折り紙も同じ目的で使えるだろうが、まだその段階じゃない。 色と形の2要素で識別できるものの組み合わせでないとまだ無理だ。
同時模倣にピアノか何か使えないかなあ。同時模倣訓練を楽器でやれたりせんか。 音ごとに色違う何か。大きさはそこそこ欲しい。鍵盤じゃダメだな。 ベルか?オクターブは多すぎるので、5音階なベル? でもガチな奴はうるさすぎる。音が控え目なおもちゃがいい。 安いのないかな。
これか。ブームワッカー。 色と長さが違うから識別しやすい。叩けば音が出る、という単純さもいい。 分解して持てるから鍵盤のように手の精度不足で隣を叩いてしまう心配がない。 これじゃね。
ひつじこが風邪ひいたこともあって、子供を福島に連れていくのはやめ。 まだひつじこ実家にいる。
皮膚、見た目は改善してるのに、痒みが引かない。 こんな長く外泊すること想定してなかったから、サプリ類も尽きた。 この痒みの鋭さは何なんだろうな。 神経が直結されてるんじゃないかと思う。 て、もしかしてこれヘルペスなのか?
あーそれもあるかもなあ。肛門陰嚢あたりのヘルペスから、 帯状疱疹に進展したか?写真見ても全然違うと否定はできない。 医者に見せた時に出てこなかったからないと思ってたが、 あの時点ではそれほど範囲広くなかった。 皮膚が治癒しつつあるのにいつまでも鋭い痒みが引かない上に、 たまに出る発疹が、爪で押すと皮膚の痒みにしては鋭すぎる チクチク感がある。神経冒されてないかこれ。
つうか昨日より痒い。 今更バルトレックス飲んでも手遅れだし、 体力を回復させるしかないんだが、 ダラダラできる状況じゃないしやむをえんなあこれは。 通導散で瀉すのに加えて補中益気湯で補すべきな気もするが、 帰らないと煎じは作れないので、とりあえず通導散だ。 効くかどうかはわからんが、内出血の吸収と血行改善、 治癒の促進に関しては多少は期待できる。まだ紫だからな。
あまりに痒くてひつじこ実家に泊まると辛いということで、 私だけ鎌倉で回復に専念する予定だったが、 自分の実家なら全裸で歩いていても問題ない。 そういうわけで一人で私の実家に帰ることにしたのが30日。
元号切り替えの日とその次の日を実家でダラダラ過ごした。 父の運転する車で家族全員で2時間かけて喜多方に行ってラーメンを食べる、 というしょうもない過ごし方もした。 病院以外でそういうドライブをしたのは一体何年ぶりだろうか。
2日、シノンが吐いたという知らせがあり、 切り上げてひつじこ実家に移動。 午後には元気になってアジフライなど食べていたので良かった。 幼児が吐いて、水を欲しがるが、また吐く、 というのは水逆の嘔吐で、五苓散の証だ。 しかし五苓散なんて持ち歩いてないし、 シノンにそれを飲ませるのはたぶんほとんど不可能だ。 嘔吐2回なら脱水は大したことはないはずで、 水を欲しがってもスプーンでちょっとに留めておけば、 そのうち回復する。ウィルス性の胃腸炎だろう。 高ケトン血症(自家中毒と呼ばれたもの)でもなさそうだ。
5人で福島まで行くとコストがかかる。 お金だけではなく時間もかかるし、 子供達を年の近いいとこと遊ばせる機会が減るというコストもある。 オトモの発達のことを考えても、 ひつじこの実家が良かろうということで、 今回は私の実家には行かず、おおよそ同じ理由で正月も帰省しなかった。 今回は行ければオタマだけ連れて孫の顔を見せようかと思ったが、 オタマを連れていけばシノンが寂しがる、ということで、それもやめた。
実家は二つあるわけだが、どちらにどう行くか、みたいなので 悩むケースは結構あるのかもしれない。 私が子供の時も、母方がメインで父方の実家には あまり行かなかった。 母方の祖父母にとっては私が初孫だったので 祖父母にとっての存在感が大きかったし、 父方の実家には母が馴染めてなかったっぽい。 千葉に引っ越してからも、東京の方が近いにも関わらず、 明らかに福島の母方の祖父母の方が頻度が高かったし、 関わりも大きかった。なにせ土地をもらって家を建てたくらいだ。 うちの親は今そこに住んでいる。
まあそういうのはあるよな。私だけ行って一晩過ごして帰ってくる、 というくらいでいいのかもな。 そういえば叔母んところも叔父だけそっちの実家帰ってたなあ。
逆のケースもある。昔隣に住んでたご家族は、 父方の実家がずいぶんと古風なノリだったらしく、 「嫁は正月イベントで料理やら何やらをやるために夫の方に帰省せねばならない」 みたいな感じで奥さんに怨念が溜まっていた。 私の母が「そんなん大人しく従うことないじゃん」 的なことをいつも言うもんだから、それに感化されて反旗を翻した、 みたいなことを聞いたような気がする。
子供三人の世話がしんどいのは間違いないので、 私が三人連れて福島行って、 ひつじこは自分の実家でダラダラするなり、どっか旅行に行くなり してもいいと思うんだが、それもなんか違うらしい。 私は一人で実家に帰って、昔のように家族で無為な時間を過ごせて すごく良かったと思っているのだが、 みんなやりたいことや好きなことは違うし、 親との関わりも違うからなあ。
廃藩置県を題材にした番組とか、 陶器を焼いてる人の取材番組とか、 マツコにマネキンやあんこの説明をする番組とか、 ポロニウムで暗殺されたKGBの人の番組とか、 まあそんなのがかかった状態で、 みんながなんとなくああだこうだ言ったり、 言わなかったり、どうでも良かったりして、時間が過ぎる。 あと何度そういう機会があるかはわからない。 上の弟はこの世からいなくなってしまったし、 下の弟がいつ結婚して私と同じように帰省しなくなるかもわからない。
うちの親は比較的若いが、健康には不安がある。 大腸癌手術後の定期検診で前立腺が怪しいという話になり、 今度検査入院することが決まっている。 もし悪性度が高い奴がいれば、ステージ1の大腸癌とは比較にならないほど オオゴトになる。前立腺切除となれば、睾丸ごとだ。 排尿に障害が残ることもある。 ホルモン剤による精神的な影響も不安だ。何もなければいいのだが、 もし何かあれば夏の予定なんて吹き飛んでしまう。
天外2、ゲームデザイナーがいろいろな工夫をしたという文章を ほうぼうで読むのだが、イマイチ実感できない。 ボス戦がことごとく長期戦になる。5分で片づくボスはまずいない。 さらに敵の回避率が高すぎる。 ザコを4人で殴って倒せる計算であっても、 命中率は7割以下な印象で、かなりの確率で討ち漏らして予想通りにならない。 MPを払う魔法すら5割以下の命中率だったりするし。 また、ザコであってもHPの半量以上を削ってくるケースが多く、 ザコに殺される頻度は極めて高い。 レベル上げやお金稼ぎはせず、 その時その時にベストを尽す、という方針でやっているのだが、 それにしたってそれほど低くはないはずだ。 強化や弱体化、扱いにくい特技などもそれなりに使っていて、 ゴリ押ししているわけでもない。
たぶんだが、「設計された通過レベル」より高いと楽勝、 低いとひどく苦労する、ということを確かにするために、 かなり強力な補正をかけているんじゃなかろうか。 レベルによって特に命中率が操作されている気がする。 とにかく当たらん。敵の攻撃を避けることはほとんどないので、 「単純に回避率が高いゲームデザイン」というわけではないだろう。 ゲームデザイナーが想定する「気持ち良く負けてくれるボス」 を体験するには想定レベルまでは上げないといけないのかもしれないが、 「気持ち良く負けてくれる」を目指した設計であれば、 レベル上げが必要なバランスになるとは思い難い。 いや、「当時のロープレに比して」と考えれば、 これでもレベル上げの手間が小さいからオーケー、ということなのか。 そうかもしれない。経験値や金を稼ぐためにウロウロして 20回以上戦闘する、というようなことはやっていないからな。 あの時代のドラクエなら稼ぎ目的での戦闘を 50回繰り返すなんてのは普通だったはずだ。 というか、だいぶ後のドラクエ6だって、 数十回単位で戦闘してスキルレベルを上げるのは必須の作業だったように思う。 と考えると、単にレベルが足りないだけか。 実際、「適正レベルかどうか」がおぼろげにわかる特技を使うと、 低いっぽいメッセージが出るからなあ。「血に染まる卍丸が見える怖い!」みたいな。
終盤の武器防具が高すぎる上に、効果が微々たるもので、 しかも、「後で出てくる町ほど強いものを売っている」 とは限らないので、どこに何あったっけ?そもそも何がどれくらい強いんだっけ? ということを考えることすら面倒くさくなって、 「たまたま金が余ってて、たまたま寄った店にそこそこ強くなるものがあれば買う」 が常態化してしまった。少し前のものは安いので、それで済ませたり、 拾ったものでもういいや、にしてしまうことが多い。 これはたぶん狙ってそうしているのだろう。武器屋自体が救済措置、 という発想は確かにありうる。「大して変わらないものに大金使うな」 的なセリフもあったしなあ。
魔法がたくさんある割に使いにくいものが多すぎるのも、意図があるんだろうか。 使い方を研究した人だけが使える、という遊びの幅を持たせるための意図なのか。 「どの魔法にも効果的な使い方があってちゃんと役に立つ」 が満たされていると信じたいのだが、それを満たした方が良いゲームとも 限らないわけだし、実際これ絶対満たされてないよなあ。
させたい体験があって、そのために式やら補正を考える、 という順序は理屈としてはいいし、うまく行けばいいと思うのだが、 それでうまく行かせるためには結構空間を絞らないといけない。 何レベルで来るか、何を持っているか、 みたいなことの幅を削らないと設計した接待ができない。 幅が広いままだと謎補正を大量に用意しないといけなくなって、 手間もかかるし、不自然さを感じさせる原因にもなる。 一回作ってみないとこれはわからないな。